ザ・ファンクスを語ろう [無断転載禁止]©2ch.net
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>>166お前は早く逝け
ドリーファンクジュニアとテリーファンクのシングルマッチもあったなあ。
二人とも二度とやりたくないっちゅうに言うちょったが。
ブルーザーブロディが怪我で欠場の穴埋めだったな。
まああの試合は60分フルタイム時間切れ引き分けかと思うたらドリーファンクジュニアの勝ち。
50分すぎだったな。
でもテリーファンクが復帰してからのザファンクスは落ちた。
ドリーファンクジュニアはとばっちり。
テリーファンク復帰に批判的なファンも多かったのはわかる。
しかしドリーファンクジュニアは悪くない。
言わば無関係。
ザファンクスの価値が落ちたのと同時にドリーファンクジュニアの価値まで落ちて。
ジャイアント馬場もそこは計算外だったろう。
あとせっかくテリーファンクが復帰しても直後にジャパンプロレスリング面々が登場。
全日本プロレスリングは長州力一色に。
テリーファンクの存在などはどうでもいい状況に。
そのテリーファンクと長州力のシングルマッチも1986年10月の両国国技館で実現。
テリーファンクが長州力にボロボロにされて最後はスコーピオンデスロックでギブアップ負け。
あの時のテリーファンクは虚しかった。
>>166お前はくたばれ >>166本当にこのバカはムキになって返してくるから笑える >>166テリーファンクジュニア ドリーファンクって書いたのはコイツと同類のクズ >>167
荒らすような書き方するから嫌われる、レスもまともに貰えない。
せめて普通に書け、そうすれば薄っぺらい内容でも多少はレスもらえるだろ。
今のお前なやってることはだだの荒らし、いい加減気づけ。 最初にこの糞詰まんねえキチガイぼっち野郎は俺のレスに喜んで返事してきたんだろうなぁ
自分がまともに返答して貰える人間だと思ってね
死ねばいいレベルの他人との会話も出来ないゴミ中年に居場所があるとでも思ったのかね
罵られて、頭たたき割られたぐらいの衝撃を受けたんだろうな、馬鹿の分際で 何の雑誌か忘れたが、テリーファンクジュニア ドリーファンクってのは驚いたわ。
でもザファンクスが世界最強タッグ決定リーグ戦で主役だったのは1982年大会までだな。
1983年にはテリーファンクが引退。
1983年大会は当然ザファンクスでは出場せず。
1984年にテリーファンクが復帰して世界最強タッグ決定リーグ戦にもザファンクスで再び参加。
でもかつての人気は取り戻せず。
優勝決定戦もジャンボ鶴田 天龍源一郎VSスタンハンセン ブルーザーブロディ。
もはや時代はザファンクスを求めとらんかったんよ。
1985年からはジャパンプロレスリングが全日本プロレスリングに登場。
ザファンクス 特にテリーファンクの居場所はなくなっていったのだ。
かつてのザファンクス人気 テリーファンク人気も長州力人気に完全に食われてもうた。
結果的にテリーファンクはその後はデスマッチ系のハードコア路線に。
そのテリーファンクと長州力が何とタッグチームを組んだ。
2010年1月4日 新日本プロレスリングの東京ドーム大会。
しかも相手はあのアブドラーザブッチャー。
新日本プロレスリングでテリーファンクとアブドラーザブッチャーの対決が組まれるとは。
しかもテリーファンクは長州力と組んで。
更にはその時は蝶野正洋も。
その前にザファンクスとしても新日本プロレスリングの東京ドーム大会に出場してるかんな。
相手は藤波辰爾 ボブバックランドとこれまた凄いカードでな。 >>176
両国での長州戦はテリーへの完全な引導でしたよね
私服で乱入したドリーも含めて
まさに蔵前に上った太陽が両国に沈んだ瞬間と >>5
テリーマンのカーフブランディングは、ブルドッキングヘッドロックの事だからな。 ザファンクスは蔵前国技館では眩しい程に輝いて両国国技館では見事に沈んで。
確かに私服で乱入したドリーファンクジュニアを谷津嘉章がリング下に落とす光景も虚しかった。
この時期にタイガージェットシンは飽きられながらもヒールとして強引に輝いていた。
特に長州力との試合はタイガージェットシンらしさを発揮できてもいた。
しかしこの日のザファンクスは惨めだったな。
テリーファンクも場外でパフォーマンス中にリング上の長州力から頭に蹴りを受けた場面も最悪だった。
更にはストンピング ナックル 張り手とテリーファンクを踏みにじる攻撃。
テリーファンクの良さは全く出せずに長州力のペース。
最後はスコーピオンデスロックでギブアップ。
少し前の宝島本にこの試合の記事があった。
テリーファンクは、ドリーファンクジュニアが乱入して反則負けになる前にギブアップ負けを選択した。
反則負けより潔いギブアップ。
こちらを選択したのはかつては全日本プロレスリングのスーパースターだったテリーファンクのプライド。
あの試合の最後にはそれを垣間見た。
こんな記事が書かれていた。
長州力やスタンハンセンとテリーファンクは大して年齢差はない。
しかしこの時代には世代が違う扱いに。 テリーファンク
1944年6月30日
スタンハンセン
1949年8月29日
長州力
1951年12月3日
当時は30代の長州力やスタンハンセンと当時40代のテリーファンク。
確かに世代が違う扱いでも仕方ない。
しかし全日本プロレスリングで一時代を築いたテリーファンク(やドリーファンクジュニア)のあの扱いはなあ…
でもテリーファンク復帰後はスタンハンセンとの試合はあまり組まれなかった感じがする。
組まれてもそれが中心ではなく。
ジャイアント馬場も昔のカードでまた盛り上げようとは思わなかったのかも。
またテリーファンクの人気低下もあり。
前に竹内宏介氏が言うちょった。
復帰したテリーファンクがまさか短期間であれだけ人気低下するとは予想外だった、って。
惜しまれて引退した分、復帰したらその反発の反動が大きかった。
しかも1年で復帰。
その間もマネージャーやレフェリーとしてリングには上がって。
『それなら引退するな』となり、それがテリーファンク人気低下に拍車を掛けた。
竹内宏介氏はこの様に語っていた。
だからテリーファンク復帰後にはザファンクスが全日本プロレスリングの中心に据える事はなかった。
1987年世界最強タッグ決定リーグ戦でのアブドラーザブッチャーとの公式戦すら放送されず。
それが当時のザファンクスの置かれた立場でもあった。 「テキサスの化石め!」と全日初登場のハンセンが場外でテリーをぶっ飛ばしたのが象徴的だったね。
その後ファミリーをリングに上げての涙の引退式…
確かアクション俳優に転身を目論んで引退を決意したと聞いた。実際題名は忘れたが当時の映画で用心棒のチョイ役(セリフ無し)で出演してるのを観て驚いた。
結局俳優への転身は失敗し、プロレス復帰。
このへんのセンスも悲しいものがあるな…。仮にも一時代を創ったレスラーだけに。 >>181
その後の最強タッグの武道館大会でファンクスとして長州・谷津の足を引っ張ったのが最後の一矢か その後の87最強タッグだと最終戦武道館ファンクスの公式戦すら無かったな。 開幕戦でハンセン・スパイビーにあっさりやられた時点で終わった 1990年世界最強タッグ決定リーグ戦でのザファンクスはもはや過去のザファンクスではなかった。
でも考えてみるとこの10年以上前から出場しとる。
10年以上も主役を張れるわけがない。
世界最強タッグ決定リーグ戦は1977年から1990年で13年の14回。
その中でザファンクスとしての出場回数は凄い。
1984年 1988年 1989年以外は1990年まで全て参加。
1985年は参加しなかったっけ?
でもジャイアント馬場だって参加回数は多いが、優勝は二回のみ。
スタンハンセンも1982年からは10年以上参加しとるが、1990年以降は優勝なし。
世代交代しとる。
しかしかつての世界最強タッグ決定リーグ戦の主役のザファンクスは後々は本当に落ちた。
扱いも何もかもが。
1988年に参加してアブドラーザブッチャー タイガージェットシンとの試合は見たかった。
この試合なら四人が四人の持ち味を発揮できただろう。
ただこの1988年は昭和天皇陛下が入院中。
それでプロレスリングも流血試合を極力避けていた、という記事を読んだ。
その為にアブドラーザブッチャーも殆ど流血なし。
テレビマッチでは。
地方はわからんが、雑誌等で見た限りではアブドラーザブッチャーは流血してなかった。
だからザファンクスとアブドラーザブッチャー タイガージェットシンでも流血なしだったかも?
しかしこの対決が流血なしだと物足りないな。
少なくともテリーファンクとアブドラーザブッチャーは。 ロングタイツを履き始めたテリー以降は、
ファミ悪の馬場さんみたいな扱い テリーがFMWに移籍した時は寂しかったなぁ。
やはり全日本に参加して欲しかったねぇ。
だから馬場死後に全日本に参加した時は嬉しかったよ。
数年前ドリーと全日本に参加した時に1986年位の全日本のユニホーム
持参していて凄く感動したよ。
ブッチャー復帰後に一度だけでもいいからもう一度テリー対ブッチャーを
全日本でみたかったなぁ。
1987最強タッグの時はテリーもコンディションかなりよかったし
ブッチャーも動けていたから。
残念でならないねぇ。 オープンタッグから数年間のファンクスは輝いてたね。
ブッチャー、シークも各々の役割を心得てあの頃の全日は面白かった。
テキサスブロンコ実の兄弟と黒い呪術師、シークは何だっけw
あのキャラ立ちと盛り上がりは今に至るまで最高峰だと思うな。 フルネームに「・」を打たないの読みづらいからやめろ。 >>186
最後にドリーに決めたハンセンのラリアットが90年代にラッシャー・木村やブッチャーなんかにも見せたスローモーションのような、超ソフト“温情ラリアット”だった。
同年6月に千葉でウィリアムスに決めた“超居合抜きラリアット”の1/50くらいの威力だった。 テリーファンクはかつてはスタンハンセンのラリアットを何度も受けたな。
その豪快な受け方。
1981年世界最強タッグ決定リーグ戦のあのラリアット。
あれが絵にもなったからテリーファンクのラリアット受けは定番シーンに。
ドリーファンクジュニアに食らわした柔かラリアットは覚えてないなあ。
1990年6月のスティーブウイリアムスへのラリアットはYouTubeでも見た。
あと1983年世界最強タッグ決定リーグ戦決勝戦で天龍源一郎に食らわしたラリアットは凄かった。
でも今から考えたら天龍源一郎の受け方が凄かったな。
ジャイアント馬場やジャンボ鶴田はラリアット受けの豪快なイメージはないなあ。
あとは1990年代に入ってからの三沢光晴 川田利明 小橋建太のラリアット受けは凄かったが。
1990年代に入るとスタンハンセンは至近距離からのラリアットを多用。
川田利明や小橋建太は一回転して体がエビ状になったり。
スタンハンセンと小橋建太がお互いに引退後に会談した場面がYouTubeにあった。
小橋建太が『スタンハンセンさんは…』というのが好感が持てた。 ここで見れるよ。
https://www.youtube.com/watch?v=WxM1GsTvgKE
ハンセン「自分はテリーほど強く殴ったレスラーはいない。またテリーも自分ほどに強く殴った相手はいない。」
「テリーを殴っても『この男は本当に効いているのか?』と思っていた。」
だからこそ2人の戦いはスリリングだったんだな。ウエスト・テキサスから不思議な因縁で結ばれた2人。
ハンセンがアメリカで出版した自伝『The Last Outlaw』を読むと、
デビュー時代のハンセンにとってテリーとマードックがいかに身近な存在だったかよく分かる。 ドリーは83年辺りまでは太ももはパンパンだったな。 90年にファンクスが最強タッグに参戦していたけど、まともに負けたのが
ハンセン&スパイビー組のみであとは時間切れ引き分けや両者リングアウトと
そこまで悪い扱いではなかったように思える。 ファンクスの試合で楽しかったの、ない。
ツマンネ、なんで人気あんねん!って。
アイドル(笑) >>195
テリーはオーバーアクションが酷好きて本当に効いてるのか演技なのか全く分からない。 ドリーが世界戦で馬場をテキサスブロンコスープレックスで投げたのは有名だが
YouTubeでテリーがタッグだったかシングルだったかで馬場をダブルアームで投げていた記憶があるんですよ
おおおおと思ったがその動画が探せない
テリーだとおもって実はドリーだったかも?
とにかく馬場がサイドスープレックスでなくダブルアームで投げられるなんてファンクス以外ありえないね ビルロビンソンはまったく馬場に歯が立たなかったね
ロビンソンは自分のスタイルの押し付けしかしないから馬場の評価は低かった
でもスター選手だからUN持たせたりはしていた
それなのにロビンソンは馬場はレスリングがまったく出来ないと書いていたな 昭和54年位からのロビンソンは衰え激しかったね。
ドリーは昭和55年のウェートダウンから下り坂になったね。
テリーは引退までかな。
でも1985年はかなり復活していたけどね。 91年の最強タッグで三沢川田と30分時間切れ引き分けをしてるが
どんな試合内容だったんだろう 雑誌によると三沢光晴と川田利明がザファンクスに合わせた試合だったと。
要するにグダグダな試合だったのは容易に察しが付く。
三沢光晴のエルボー、川田利明のキックも威力半減以下だったろう。
週刊プロレスにも週刊ゴングにも同じ様に書いてあった。
どちらかは忘れたが、『ザファンクスワールドに(三沢光晴と川田利明が)はまった』と。
ザファンクス上げ。
年齢的にザファンクスが、現役バリバリ相手にガンガンやっての30分フルタイムはキツイ。
三沢光晴も川田利明も20代だったし。
放送されたかは覚えてない。
仮に放送されたとしても見ていて内容は忘れたパターン。
でもザファンクスが1990年に世界最強タッグ決定リーグ戦に参加するとは。
しかもアブドラーザブッチャーまで。
10年前ならこのカードが世界最強タッグ決定リーグ戦の中心だった。
世界最強タッグ決定リーグ戦どころかその時代の全日本プロレスリングを象徴するカード。
しかし10年でメンバーは様変わり。
当たり前だよな。
10年でメンバーが様変わりしてなければ終わってる。
新日本プロレスリングだって1980年から1990年の10年でメンバーは様変わりしてるし。
10年で何人の人間が亡くなって、何人の人間が誕生すると思っとるんじゃい、お前ら。 フルネームに「・」を打たないの読みづらいからやめろ。 90最強タッグ三沢川田vsファンクス、新潟市体育館で観たけど、そんなに酷く無かったけどな
25年以上前の話なので細部まで記憶してないが、上り調子の超世代軍の勢いとファンクスの貫禄&客を沸かせる術がマッチして20分経過以降は観客総立ちで盛り上がりの好試合だったね
この試合ノーテレビだったが、もう一つ新潟市体育館のノーテレビで凄かったのは84年の鶴龍コンビvsキッドスミス。
これも全国のファンに見せたかった好勝負だった。 どっちかが三沢のタイガードライバー喰らったりしたの? >>209
当時の週プロに確か「試合前はファンクスの握手を無視した三沢、川田が試合後は自ら進んで握手を求めた。」と書いてあった。
2人とも30分の中でファンクスに何か認めるものを感じたんだろうね。 まだこの時点での三沢・川田もアジアタッグ卒業レベルで優勝戦線まで絡めていない この時点での三沢光晴はジャンボ鶴田も破ってるからトップレス、いやっトップ陣の一角だろ。
川田利明はまだまだだけど。
まあザファンクス自体が既に“過去の遺物”だったかんな。
当然ザファンクスは優勝戦線に残れず。
スタンハンセンダニースパイビーも優勝できず。
ダニースパイビーはまだしもスタンハンセンが優勝できずで。
しかも優勝決定戦でそのスタンハンセンが時間ギリギリ丸め込まれてフォールされて。
まあこの年は新たな顔のスティーブウイリアムスとテリーゴディ優勝は妥当かな。
ジャンボ鶴田 田上明も優勝できずだが。
田上明もまだ顔じゃない、と。
でもこの1990年世界最強タッグ決定リーグ戦は昔の顔が揃ってた。
ザファンクス アブドラーザブッチャー ディックスレーターと。
ディックスレーターなんかこの時はまだ37歳だから当時からしたらトシでもなかった。
若い頃から来日していたから昔の顔に見えたが。
しかしテリーファンク引退試合の相手のスタンハンセンとテリーゴディ。
まさかザファンクスがその7年も後にスタンハンセンとテリーゴディと対戦とは思わなかった。
しかも世界最強タッグ決定リーグ戦で。
それもスタンハンセンとテリーゴディはそれぞれ別々にタッグパートナーを従えて。
またザファンクスとアブドラーザブッチャーも然り。
かつての世界最強タッグ決定リーグ戦の顔のザファンクス。
むしろ全日本プロレスリングの顔だったな。
かなり前には一般雑誌に『テリーファンクジュニア ドリーファンク』と書かれたり。
前にも書いたが。
ザファンクスのスピニングトーホールドがもう片足で蹴られるのは虚しい。
テリーゴディやスティーブウイリアムスにもそれでカットされただろう。
ジャンボ鶴田や三沢光晴はそれはやらなかったと思うが。
スタンハンセンはアブドラーザブッチャーの毒針エルボードロップもツーカウントで返したが。 そう、1990年から。
ヒゲは1985年から。
でもドリーファンクジュニアがショートなのにアンバランスだったな。
果たしてテリーファンクの引退は本人の意思だったのか?
1980年秋のジャイアントシリーズ中に発表。
『3年後の誕生日に引退する』
それが原因でそれ以後はテリーファンクが参加したシリーズは満員が続いたらしい。
そういう観客動員の為だったのでは?
1980年頃は実は全日本プロレスリングも観客動員数がかなり落ちていたらしいし。
それでテリーファンクの引退宣言。
『来年』とかならわかるが、『3年後』って今から考えたら『?』だよな。
『それまでにアブドラーザブッチャーと決着を付ける』っちゅうても3年も要らんだろと。
当時はわからんかったが、今から考えたら3年後って中途半端以前におかしいわ。
しかも引退理由が『膝の悪化』で。
膝の悪化なら3年もしたら更に悪化すんだろ、と。
子供ながらにもこれは当時から思っていた。
そしてその決着を付ける相手のアブドラーザブッチャーは新日本プロレスリングに移籍。
全日本プロレスリングからはいなくなった。
代わりにスタンハンセンが来たのだが。
でもやっぱりあのテリーファンク引退宣言は何だったのか?
そう考えたら復帰は当たり前だな。
ジャイアント馬場も1983年7月のテリーファンクさよならシリーズでも言っていた。
『最後の最後までテリーファンクに引退撤回を求め続ける』と。
客寄せで引退宣言だったのか?
それともしスタンハンセンが移籍しなければブルーザーブロディと遺恨を作ったのか?
それともタイガージェットシン?
またはザシーク?
いずれにせよ今から考えたら謎を越えておかしい部分ばかりのテリーファンク引退宣言だったな。 1992年頃には川田利明や小橋建太 田上明もトップレスヌード、いやっトップレス裸女、いやっトップ陣の一角に格上げ。
1992年はジャンボ鶴田がセミリタイアしたかんな。
更に1993年にはテリーゴディも体調不良で来日しなくなった。
この頃あたりから『超世代軍』から『四天王』となっていったな。
外国人もスタンハンセンとスティーブウイリアムスが中心になり。
ただ四天王ばかりが全面的になりすぎた為にそれ以下が育たなくなった。
強いて言うたら秋山準くらいだろ。
高山善廣は別枠からだし。
大森隆男もいけそうだったが、結局は一定止まりに。
四天王(と秋山準)と他との差がありすぎた。
外国人もスタンハンセン スティーブウイリアムス(テリーゴディ)以下の差があった。
ダニースパイビー ゲーリーオブライト ジョニーエース パトリオット
外国人は沢山いたが、スタンハンセンやスティーブウイリアムスとの格差があった。
新日本プロレスリングも沢山いたが、同じ様な状況。
長州力 藤波辰爾 闘魂三銃士 あとは馳浩と佐々木健介
これ以下はイマイチ。
越中詩郎は平成維震軍の長で少し近かったが。
外国人勢もビッグバンベイダー クラッシャーバンバンビガロ スコットノートンが要であとは員数合わせの扱い。
>>219
バカなお前には難しいかw 会話が出来なくて誰にも受け入れられないない自分を正視できないから頑なに我を張るんだろうな
でも本当は他人が気になって仕方がないからたまに爆発する
屑犬の典型だな >>221
ゴメンゴメン、言い過ぎた。
機嫌直してくれ。
ザファンクスでも後々はドリーファンクジュニアとテリーファンクは別々の道を往ったな。
ドリーファンクジュニアは年を重ねても昔と変わらずのファイトスタイル。
テリーファンクはデスマッチ系のハードコアスタイルに。
まさかIWAジャパンプロレスリングでテリーファンクとタイガージェットシンが対戦とは思わなかった。
テリーファンクとタイガージェットシンは手が合ったと思う。
スタンハンセンが全日本プロレスリングに移籍しなければテリーファンクのライバルはタイガージェットシンだったはず。
ブルーザーブロディもいたが。
1981年創立10周年記念ジャイアントシリーズ。
ザファンクスVSタイガージェットシン マスクドXがザファンクスとタイガージェットシンの初対決。
タイガージェットシンがテリーファンクを大流血に。
両者の持ち味が発揮された。
最近までYouTubeにも上がっていたが。
1981年世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦。
ザファンクスVSタイガージェットシン 上田馬之助。
これもいい試合だったな。
またもやテリーファンクが大流血。
タイガージェットシンはアブドラーザブッチャーの後釜は十分だった。
テリーファンクのライバル枠。
しかしそこでスタンハンセンが移籍してきた。
テリーファンクのライバル枠はスタンハンセンに取られてしもうたんよ。
スタンハンセンの移籍がなければタイガージェットシンがテリーファンクのライバル枠。
アブドラーザブッチャーの代わりに。
タイガージェットシンはアントニオ猪木やテリーファンクだと手が合った。
絶大なる支持を受ける大ベビーフェイスと徹底した大ヒールの対決。
これぞプロレスリングの醍醐味だんべ。 >>223
お前、あちこちで駄文垂れ流してるだろ。
フルネームカタカナ。荒らし。 >>223
インターを巡るドリーとブロディの抗争も良かった
特にブロディのキックでドリーが吹っ飛ぶ場面 >>226
わかる、わかる。やられっぷりが良かったよね。
あと、エルボーと言えばドリー。
決して三沢でない。 >>226
お互いに噛み合うよな、ブロディとドリーは。
ドリーが上手く吸収するし、ブロディもドリーを受けるし。
何か見応えがあるんだよな、あのチェスのようなテンポがさ。 ドリーファンクジュニアはブルーザーブロディと手が合った。
テリーファンクはスタンハンセンと手が合った。
テリーファンクはブルーザーブロディとも手が合ったと思う。
しかしドリーファンクジュニアとスタンハンセンは手が合わなかった感じがする。
テリーファンクは比較的暴走タイプとは手が合った。
アブドラーザブッチャー ザシーク タイガージェットシン
そん代わりテリーファンクはジャイアント馬場やジャンボ鶴田とはつまらなかった。
ドリーファンクジュニアはまだしもテリーファンクは暴走タイプが最も手が合った。
ミルマスカラスみたいなタイプなら逆に手が合っただろうが。
1979年世界最強タッグ決定リーグ戦でのザファンクスとマスカラスブラザースとの公式戦。
当時は夢の対決と銘打たれた試合。
特にテリーファンクとミルマスカラスの試合。
夢のカードらしく盛り上がった。
でもザファンクスは基本的にヒールとの試合で光る。
ザファンクスっちゅうよりテリーファンクだな。
テリーファンクの試合で流血なしだと物足りない。
アブドラーザブッチャーと同じだ。
テリーファンクVSアブドラーザブッチャーこそ全日本プロレスリングだった。 ブロディを人間風車で投げたのはドリーと鶴田だけ
その二人だけ認めていたんだろう >>231
そりゃロビンソンも投げてるんじゃないの? >>231
ブロディと対戦した選手で
人間風車の使い手がそもそも少ない >>231
猪木もブロディを人間風車で投げてたな。
そもそも人間風車やる人が少なかった。 >>239
猪木の投げ方はドリーより鶴田よりも低かった印象
とにかくブロディの本格的な売り出しの最初でドリーが相手を務めた意義は大きい ブルーザーブロディが日本に定着し始めた1981年春にはザファンクスとの抗争が原因だった。
1981年チャンピオンカーニバルにブルーザーブロディは四回目の来日。
アブドラーザブッチャーと手を組んでザファンクスと抗争。
アブドラーザブッチャーはこのシリーズを最後に新日本プロレスリングに移籍した。
※正確にはインターチャンピオンシリーズが最後だが。
その後はブルーザーブロディがザファンクスと抗争へ。
ザファンクスの抗争相手としてアブドラーザブッチャーの後釜へと。
その後はタイガージェットシンが移籍してきた。
またザファンクスのもう一人の抗争相手のザシークもいた。
しかしブルーザーブロディがザファンクスの抗争相手の後釜へと。
ブルーザーブロディはむしろドリーファンクジュニアと手が合った。
その後はスタンハンセンが移籍してきてザファンクスと大抗争。
それが全日本プロレスリングの定番になった。
実際に『テリーファンク引退』も絡めてこの抗争が全日本プロレスリングを支えた。
テリーファンクもスタンハンセンとの抗争が最後の花道になった。
※その後はまたテリーファンクも復帰したが。 確か移民の歌は81年のチャンカーがようやく使用開始か それまでのブルーザーブロディのテーマって何?
その前は1980年サマーアクションシリーズ第一弾に来日しとる。
移籍前のアブドーラザブッチャー最後の全日本プロレスリングだったが。
まあここでブルーザーブロディとザファンクスも遺恨を作れた。
アブドラーザブッチャーからブルーザーブロディへと外国人エース交代のシリーズだったな。
まあその後はタイガージェットシンやスタンハンセンを引き抜いたが。 >>240
ファンクス式人間風者の方が欧州式の人間風者より
大きく投げられる スコット・マギーvsジェシー・バー
https://www.youtube.com/watch?v=kt5n4s_XuL8
後年「プロレス・バカ」剛竜馬の盟友となるジェシー・バーですが(笑)
ファンク・ファミリーの一員として活動していたころですね。
マギーさん、ヒールであるバーに翻弄されて無残なやられ方してますが…
スコット・マギーどうのより、セコンドのドリーの「悪事」が興味深いかも(笑)
試合に介入し、寄ってたかってマギーをボコボコ。
日本とアマリロなど一部のエリア以外ファンクスは基本レッドネック系ヒールであったことは有名ですが
それを証明する動画かも。
「あ〜、これはやめてもらいたい。世界のアイドルが介入します!」
と倉持アナが実況しそうです(笑) 倉持「もうやめてくれスタン・ハンセン、テリーは牛ではない人間だぁー!」(笑) http://soukon1.up.n.seesaa.net/soukon1/image/retsudenEFBC9CE381B2EFBC9E.jpg?d=a1
札幌中島体育センターでブッチャーと対戦し、
フォークで左腕をメッタ刺しにされたテリー。
その夜ホテルでステーキを食ってるドリー&テリー。
左腕を故障してるのにステーキを食ってるテリー。
そんなテリーを、ステーキ食いながら心配するドリー。 テリーとシンの抗争を本格的にやればよかった。
でもテリーのライバル枠はハンセンになった。
ハンセン移籍でシンはかなり割を食った。 テリーとシンの抗争って何かみえみえっていうか、ブッチャーの代わりに単純
にシンですか?ってファンも受け入れ難い雰囲気があったような気がする。
だからブッチャー去り後はブロディがファンクスの最大の敵役(主にドリー
相手だが)になった。
シンは最初は当然ながら馬場にターゲットを絞ったが、この時期の馬場に極悪
ファイトで盛り上がるなんて無理過ぎるし、馬場も半分しらけながらファイト
するから感情移入なんて出来るわけがない。
ようやくシンがテリーとかみ合ったのは皮肉にもテリー引退直前の83年。
遅きに失した感があったが、テリーは極悪ヒールと絡むと異様にスイングする。
ブロディは独特のテンポとブッチャーやシンと違って凶器狂乱ファイターじゃ
ないからな、テリーとはイマイチ合わなかった。 ◆全日本プロレス(27日・両国国技館)
全日本プロレスの黄金時代に活躍したドリー・ファンク・ジュニア(75)
チャボ・ゲレロ(67)、ザ・グレート・カブキ(68)の
“レジェンド”レスラーがスペシャル8人タッグマッチに登場した。
元NWA世界ヘビー級王者のドリーは、チャボ、ウルティモ・ドラゴン(49)TAJIRI(46)と組んで
カブキ、西村修(45)、吉江豊(42)、木高イサミ(35)と対戦。
ザ・ファンクスのテーマ曲「スピニング・トーホールド」が国技館に流れると、オールドファンは大喝采。
タレント・山田邦子(56)から花束贈呈されると、ムチをマットに打ち鳴らすパフォーマンスで応えた。
長袖シャツ、ジーパンのまま試合を行ったドリーは、カブキのアッパーを耐えると、
ふらつきながらもエルボー・スマッシュを打ち返した。
“伝家の宝刀”スピニング・トーホールドを逆に仕掛けてくる西村に、
ドリーは首をつかんでそのまま丸め込み、12分9秒、首固めの勝利。
「日本で試合ができてうれしいです」と日本語で喜ぶドリーにチャボは
「アミーゴ(友だち)!」と握手して抱きついていた。 >>255-259
>ドリー・ファンク・ジュニア(75)
公式にはドリーが1941年テリーが1944年生まれという事になっているファンクスの2人だが
実はテリーの方が1941年の生まれでドリーの本当の生年は馬場と同じ1938年で今の御歳は78だという説がある
まあソースがフミ斎藤のサムライが放送していたECW中継での解説やトークイベントでの発言だから眉唾物ではあるんだけど >>263
まあね。
確かに、笑い半分楽しんで見てたよ。当時。
インチキくさいと思いながらも強さを測ってた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています