『力道山は同胞意識が強く星野勘太郎や大木金太郎等のレスラーを可愛がっていた
プロレスは在日の娯楽だった時代』

星野勘太郎は1961年日本プロレスに入っているが
当時日本人上位選手のみが出場できる(途中から若手有望株も)
ワールドリーグ戦にも出場できていないので
それほど可愛がられたという感じでもないでしょう。
力道山は相撲出身ですが大相撲からスカウトした選手でも
日本プロレス初期からいる芳の里などはワールドリーグに出場できていません。
日本人準エースは初期は柔道出身の遠藤、それに並ぶのは大相撲出身の豊登でした。
次に多く出場したのは山口利夫の団体から移籍した学生相撲出身の吉村。
吉村はカールゴッチと名勝負してカールゴッチにも評価された業師でした。
若手有望株としては大木、猪木は4回目、5回目、マンモス鈴木が5回目に出場していますがいずれも負け役。
馬場は海外遠征していたせいで5回目で初参加していますが4勝2敗1分けと凱旋一時帰国となっています。
このワールドリーグの日本人出場選手から見てもわかるように
力道山は出身母体まどや民族などでひいきはせず、そのときの実力重視、華のある選手、特徴がきわだった選手を選んでいるのがわかります。
朝鮮系のみを優遇したという事実はないでしょう。