>>595
年2場所制と年6場所制で昇進の基準も違うので何とも言えません。
幕内での勝率.581は大関になれなかった力士の中では今でも歴代トップクラスです。
少なくとも大関候補であった事は間違いないでしょう。
巡業中でも次期大関と呼ばれていたようです。
力道山の唯一の負け越しの関脇時の3勝12敗は
肺ジストマという病気の影響です。
当時の難病であったが高額な治療費も自費で行い、
相撲部屋や相撲協会の治療費の支援はなく
入院中の見舞いもなかった事に憤りがあったようです。
この件でも協会や親方の不信感があったのでしょう。
それでも無理して休場しないで出場したため大敗しました。
1947年5月場所の幕内2場所目に
9勝1敗で4人による優勝決定戦に進出したが優勝ならず。
優勝決定戦では横綱羽黒山にきわどい判定で負け、
このとき朝鮮半島出身への差別と疑惑を持ち始めまています。
この優勝決定戦の動画を拝見しましたが
力道山の勝ちとまでいかないまでも同体取り直しでもいいような感じがします。
負けてはいないと思います。

1945年の日本敗戦で
日本本土で大成することを夢見た力道山は失意のどん底に落ちる。
「神国日本は負けるはずじゃなかったはずだ」と語っています。

また、力道山が廃業した1950年(昭和25年)は
韓国と北朝鮮の朝鮮戦争が勃発した年でもあった。
朝鮮半島で生まれ、15歳まで育った力道山だったが
1950年の朝鮮は日本と国交がない複雑な時代。
国交がなくなり、一時帰省もできなくなった生まれ育った朝鮮半島で
北朝鮮と韓国に別れ戦争していたので
相撲廃業した年は複雑な心境であったと思われる。
朝鮮戦争が始まったときに「一体、どうなっているんだ」と
何とも言えぬ感情が力道山に込み上げたそうです。
日本本土に来てから朝鮮民族人として迫害された思いがあり、
日本敗戦後にそれが一気に開放される感情や、
祖国が分断され帰る事もままならい望郷の念が複雑にからんだのでしょう。
廃業時の背景にはこのような精神が安定していない事も原因であったかもしれません。

1947年優勝決定戦
羽黒山対力道山
https://www.youtube.com/watch?time_continue=46&;v=wyVazNmT0QQ