>>378

市川登については
ウィッキぺディアの「全日本プロレス協会」において
以下の記述がありますが疑問点があります。
「柔道5段。静岡県出身。昭和の巌流島決戦で芳の里淳三 にセメントを仕掛けられ、
 顔を数十発張られてKO負けした。その際の脳へのダメージでひどい後遺症が残り、
 郷里の沼津で廃人のように暮らし、1967年冬に死去した[6]。」
「6 『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也著 新潮社刊 p600」


ウィッキぺディアの「芳の里淳三」においても同様の記述はあるが
増田氏著作の『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』である。
引用元はいずれも
「1954年12月22日、蔵前国技館で行われた昭和の巌流島決戦、力道山vs木村政彦の試合の前座では
 プロレスであるにもかかわらず、対戦相手の市川登(全日本プロレス協会所属)に
 突如不意打ちのセメント(真剣勝負)をしかけ、数十発の張り手を見舞って昏倒させた。
 市川は脳に重い障害が残り1967年末に死去。
 この突然の暴挙は、当時絶対的に逆らえない存在であった力道山からの命であり、
 「市川を殺せ」と食事のたびに何度も繰り返し言われていたという[2]。」
「2『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』P550」


しかし、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』の
市川登についての記述には疑問があります。