◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ 1976年
春の目黒記念・4番人気・3着
ダイヤモンド・ステークス・2番人気・2着
アルゼンチン共和国杯・2番人気・2着のオウプレスとは、どのような馬だったのでしょうか?
教えて頂けると幸いです。 テルぺリオンの(株)ダイリンも長い馬主さんですね。
黄赤ウロコの勝負服、オーバーレインボーやダニッシュガールが懐かしいです。
その両馬の妹の曾孫がテルぺリオンですね。名古屋大賞典が楽しみです。 >>332
そうですよね、載った記憶があるんですけどもうかなり前のことであやふやなんですよ ちょっとスレ違いになりますが、30年以上前に
今の大河ドラマの主人公のマラソンの金栗さんが主人公の連載小説が掲載されていたような
夕刊フジか大阪新聞だったはず
大河ドラマの主人公に決まってすぐあの人かとわかりましたから掲載は間違いないんですよ >>334
この馬主さん、昔から洒落た馬名を付けるのが良いなぁと思ってました。
オーバーレインボーは懐かしいですね。 昭和45年神戸杯 ダテテンリュウの秋初戦 1番人気大差のビリの原因って何でしょうか?
私は関東人ですが、朝日CC、京都杯はテレビで見た記憶があるのですが
どうも神戸杯を見た記憶がありません
ご存知の方何卒よろしくお願いいたします
しかし、すごい年ですよね ダービー1,2着馬 秋初戦両馬1番人気大差ビリって
ナリタブライアンがスターマンに負けたくらいで大騒ぎになっていたのに… >>338
前の週にタニノムーティエが大差のしんがり負けしたので
それと並列で謎扱いされましたね
一部では、怪奇現象のように扱うむきもありました
ムーティエの方は、ノド鳴りと原因ははっきりしたけど
ダテテンリュウは不明のままでした
翌年の初戦も惨敗したので、初戦は走らない馬という説も出ましたが
これも全然説得力はなかったですね。結局原因不明のままだったと思います
近年のゴールドシップなんかもそうですが
デビューからずっと堅実に走っていたのに
ある時期から急にムラ駆けする馬が、ときどきいますね
こういう馬の見極めは大変です >>339
レスありがとうございます
勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなしの例外でしょうか
関東の大将アローも秋初戦はセントライト出走取消ってカオスですよね
そんな中での京都杯、タニノムーティエが1番人気だったんですね
さすがにこの頃はノド鳴りも判明していたと思いますがすごい信頼度ですね
関東人の私からすればダテテンリュウの最後のシーンは
メジロムサシが勝った天皇賞で馬群から遅れていくシーン
アロー、ムーティエの産駒対決なんていうのも両雄引退後話題になりましたが、この馬はちょっと蚊帳の外
ハイセイコー、タケホープの菊花賞のころまで現役だったとは知りませんでした >>341
父親が買って来た競馬新聞を読むのが、子供の頃の楽しみだったのですが、ある日、オープンの出走馬に
「ダテテンリュウ」の文字を見つけ、「まだ現役だったんか」と思った記憶が、微かに残ってます。 オーナーの浅野氏が何をされた方かは記憶にないのですが
冠号はご自身がお持ちの伊達牧場から取られてたんですよね
名古屋の大馬主さんは京都や阪神に馬を預ける方が多い中で
中京の星川厩舎に預けておられました
名神高速が出来ても阪神までだと片道5時間かかりましたが >>343
確か名古屋で紡績業をやっていたと聞いた事があります。
持ち馬だった皐月賞馬のタイセイホープの「タイセイ」が、会社の名前だった筈です。
紡績業は衰退し、牧場も有珠山噴火の影響で無くなってしまいましたが、今でも時々
「伊達牧場」が馬主の馬が居て、あの勝負服を見る事が出来ますね。 >>344
伊達牧場さん、現在は不動産管理業がメインみたいですね。
北海道伊達市の伊達牧場跡地は一部が道央自動車道が通っており、
別の一部は風力発電会社に譲渡したそうです。 イギリスの有名な障害競走の1つ「チェルトナム・ゴールドカップ」の今年の勝ち馬「Al Boum Photo」の
勝負服が、黄黒元禄・黄袖の、日本では懐かしい勝負服でした。
日本のブゼン・ホウシュウの馬も、障害競走で強い馬を出していましたね。 上田清次郎氏ですね
クロユリやアランバードも上田氏の馬だったと思うのですが
なぜかブゼンでもホウシュウでもないんですよね
ダイコーターは橋元氏から買った馬なので当然ですけど
筑豊の炭鉱がさかんだった頃は勢いがありましたが
晩年はお金に困っておられたような気がします 確か、晩年までは、冠名を付けた馬はかなりの期待馬で、特に「ホウシュウ」の冠名は、
相当期待出来る馬だけだったとか。
活躍馬が出たのは昭和40年代後半までで、50年代は、馬の数はそれなりだったものの、
オープンクラスまで行く馬は居ませんでしたね。
ただ、忘れ形見の様な馬のなかから、コスモドリームやブゼンキャンドルが出てきたのは、
その血の底力を感じたものです。 桜花賞も皐月賞もトライアルを使わないで、年明け初戦のぶっつけの馬が勝ってしまった。時代は変わるのね。 >>333
亀レスですがオウプレス、名前は覚えているんですが
詳しい事はわかりません
手元にある古い競馬本を読み返しても、記述はなかったです
当時の関東は、長距離重賞で好走歴のある馬が何頭もいましたが
その中の1頭だったかとおぼろげな記憶があります >>350
古い競馬本って「優駿」ですか?
ハイセイコーやテンポイントのころは毎月買ってたけど
昔は生産者向けみたいな渋い記事がけっこうありましたね。 >>352
若いころ買った優駿は、もうどこかへ行ってしまってありません
手元に残っていたのは、鵜飼正英氏の単行本です
寺山修司の天井桟敷出身で、寺山さんの影響を受けたのか
文章の調子も似ています
他の本やマスコミでは扱われないような面白いデータを次々と繰り出して
当時としては相当秀逸だと思った一冊でしたよ 優駿! それがありました
なんで気が付かなかったんだろう
オウプレスは府中の森厩舎、菅泰夫騎手です
アルゼンチンは中団の内から4角でしんがり近くまで下がり
大外を追い込んで2着に来たのでした 阿部牧郎さんが亡くなりましたね
関西では競馬好きの作家として活躍されました
ご冥福をお祈りします 今日オークス出走のフェアリーポルカ
血統表を見ると、5代前に
ガーサント、リマンド、エタンが入っています
現在の馬で、昭和の種牡馬がこれだけ入るのは珍しいですね よくよく考えてみると、
図式も結果もマーチス、タケシバオー、アサカオーの三強ダービー(マセた子供の頃に見た)
の再来でしたね。 今年のダービー馬も実質的には逃げたようなものですし
本命馬にちょっとした不利があったのに
2着馬3着馬は本命馬に気を取られて勝ち馬を見逃したと
宮本騎手はタニノムーティエの紅葉盃を乗り損なって
北海道限定のはずだった安田騎手に鞍上が戻っちゃいました
武文師が安田以外乗せないとの一札を入れさせたので… >>359
全く、同じ印象でした
マーチスは、サートゥルナーリアのような出遅れではなかったけど
2コーナーで他馬に乗っかかる不利で後退
最後は、前を行くタニノハローモアとタケシバオーにも届かないどころか
ゴール前、アサカオーにも先着を許しました
ロジャーバローズは、ハローモアと同じ1番枠
ダノンキングリーとヴェロックスが3強の残り2頭というのも同じでしたね 年度代表馬がアサカオー最優秀4歳牡馬がマーチスという年ですね 今週行われる安田記念がGTで、鳴尾記念がGV
昔から知る者としては、?と思うときがあります
グレード制以前は、鳴尾記念の方が出走馬も賞金も格上だったかと
他にも、偉くなったレース、逆に格下げになったレースもいろいろありますね グレード制導入されてからも変動がありますよね
鳴尾記念も一時はG2でしたし、高松宮杯も最初はG2ですし
スプリンターズSもG3から徐々に上がっていきました
CBC賞もG3になったりG2になったり テンポイント、エリモジョージ、タマモクロス、ヤエノムテキ
なんて名前が勝ち馬にありますね、鳴尾記念
スプリンタースSはステイヤーズSと同じ年の創設で
当初はイロモノ重賞の感ありありでしたが
短距離路線の確立で大出世しましたね 鳴尾記念は、春の天皇賞の前哨戦の頃と、暮に移動してからでは、レース自体が全く別物になりましたね。
一方、鳴尾記念と入れ替わりで春の開催になった阪神大賞典は、暮の最終日に行われていた頃は、
有馬記念に出ない関西の主力クラスが揃って出走するレースだったのが、暮の初日週の開催になって
からは、あまりメンバーが揃わないレースになったものの、春に移動してからは、天皇賞に向けての重要な
レースになりましたので、グレードこそG2のままでしたが、浮き沈みが激しかったレースですね。
格下げで思いつくのは、中京大賞典から格下げされ、その後も行われている松籟ステークスでしょうか・・・ >>386
中京大賞典はスタンド改築のため京都で松籟Sとして行われた後
翌年のカレンダーに載ったのですよ
その頃中京馬主協会が高松宮殿下に賞杯下賜を運動していて
それが認められたため中京大賞典をお蔵入りさせ
その日に第1回高松宮杯が挙行されたのでした
松籟Sは昭和46年には牝馬オープン級で行われ
ケイサンタが勝っています >>367
これと同じころ、現在の金鯱賞が「博多ステークス」の
名で、小倉で施行されたことがあります。その時勝った
アリオーンは名優・津川雅彦の持ち馬だったんですって(^^) >>358
エタン 海外の活躍馬でたまに見かけます >>368
>>369
津川雅彦は、アリオーンのあと、エタンの牝馬を所有して
朝丘雪路の本名にちなんで、ユキエタンと名付けました
江戸屋猫八は、キャットエイトでしたね キャットエイトは準オープンを何度も勝ってました
5歳1000万下だと7歳馬は3000万円まで出られましたから 津川氏の持ち馬ではアイテイエタンもいました
京都マイルのレコードを持っていましたね 津川さん、何かの番組で「俳優として不遇な時代に、馬が稼いでくれた」と語っていたのを
聞いた記憶があります。
>>367
なるほd、そういうことだったんですか。レース的には、直接的なつながりはありませんが、
高松宮杯が、中京大賞典の後継レースとも言えそうですね。 あの時期の有名人馬主だと、他には
野添ひとみのマジョルカ
森乃福郎のストローハットなど
昭和50年以降にはもっと増えたと思います ○父限定だったころの愛知杯やカブトヤマ記念は好きなレースだったな。
当時は今みたいに父内国産が大レースを勝ちまくるなんて想像できなかった。
「ダービー馬はダービー馬から」なんて夢物語に思えた カブトヤマの子のマツミドリがダービーを勝ったのも
クモハタが何度もリーディングサイアーになったのも
戦争で種牡馬の輸入が15年くらい止まったからで
昭和30〜40年代は新しい血に飢えてたんでしょう 昨日の朝、出馬表を見て除外ラッシュ
トウメイの有馬記念の、インフルエンザ発生により
アカネテンリュウ、メジロアサマ、カミタカの取消で驚いたのを思い出しました
美浦トレセンは下火になるまで時間がかかりましたが
ベルワイドなど何頭かは、全く感染しなかったようですね >>377
まだ美浦トレセン前の府中、中山、白井時代ですね
実家には競馬ブックが毎週送られてきていたのですが、
関東が休止になって関西版が送られてきて珍しがって読んだ記憶があります >>378
失礼。あの年は美浦はまだでしたね
栗東もできたばかりでした >>377
カミタカは友引だったという噂もありますね。
関西圏では、栗東では罹患馬が出なかったものの、春木か紀三井寺競馬が影響を受けて、
開催中止になったと聞きました。 近畿地方はまだ梅雨入りしていないようですが
毎年梅雨の時期に行われる宝塚記念
なぜか、重馬場のレースが少ないですね
思い出せるのは、ショウフウミドリの年ぐらい
と思って検索してみたら
ショウフウミドリは、生涯の過半数を重馬場で走っていました
かなり珍しいケースではないでしょうか
https://ahonoora.com/syoufu_midori.html 武文さんのところにはユーモンドやフイドールなど重馬場が上手な馬がいましたね フィドールのシンザン記念の勝ち方
期待しましたよ
あとでみたら不良の最後1F15秒でした
ダービーでも一瞬いい脚を見せましたけど 旧5歳の春に覚醒したけどそこまでだけだったね
天皇賞取る感じだったのに NHKBSで今、プロ野球東西対抗戦の特集をやってます
のちに競馬評論家になった古川清蔵氏も登場します >>386
BSだから、何度も再放送すると思いますよ
古川さんは94歳で、まだご存命でした
昭和40年代は、8大競走の前日に
関テレで1時間、大坪さんとともに予想する番組がありました 昭和39年の菊花賞の当日朝、毎日放送テレビで
武田文吾さんも出てた予想番組をやってた記憶 山岡事件ですかね
調教師の予想が禁止されたきっかけは >>390
多分それからでしょう
調教師の予想がよく当たったかどうかは疑問でしたね 実家で探し物をしてたら
古い写真が3束ほど
延岡にいたカブトシロー
三本木にいたヒカルポーラ
盛岡にいたリュウフオーレル
牧園にいたマーチス
タイヘイにいたリュウファーロス
岩川にいたテイトオー
一ノ関にいたアサデンコウ
そして阪神の大学馬術大会に来ていた
ダイナナホウシュウ
口取りさせてもらっていた
鹿児島のコダマの写真と8ミリがあるはずなんだけど カブトシローの前に延岡に居たトサオーはフィリピンに輸出されました
ハクチカラがインドへ行ったのは有名ですが
タカオーがビルマに、アサがタイに輸出されてますね 先ほど『和風総本家』を視ていたら、大変高価な漆器をお持ちという小紫ゆきこさんという方が出演されていました。
ご尊父は小紫芳夫氏だそうで、真っ先に宝塚記念馬スズパレードを思い浮かべました。
懐かしいなぁ。 このスレが始まったころは、確か競馬歴20年以上の人
そんなタイトルだったと思います
当時は、昭和末期ぐらいの馬はまだ話題の対象ではなかったですね
スズパレードやスズマッハの名が出てくるあたり
われわれも歳を重ねたということですか 小紫氏、保手浜氏の馬主協会トップをめぐる泥沼の争いなんかも今はもうひと昔
私が東京馬主会報をよく読んでいた頃はお二人はまだ常務理事で
会長が藤田正明氏、副会長が手塚栄一氏でした
理事に川口浩氏がいて、東京馬主協会の忘年会などは夫人の野添ひとみ氏経営の
「ひとみ」という店でやっていました
フジテレビの放送だとゲストは川口夫妻、大橋巨泉氏、寺山修司氏、虫明亜呂無氏、
古山高麗雄氏、山野浩一氏が多かったですね
本職は芸能人や作家ですが、昨今のゲストと違いどう見ても玄人ぞろい
単発ゲストだと新聞少年山田太郎がヒカルイマイが勝ったNHK杯で人気薄の
ウエスタンヒルが4着に入って大喜びしていた憶えがあります
まさか後年馬主としてここまで出世するとは夢にも思いませんでしたが
(いい馬持ったとかではなく現中山馬主協会会長という意味で) >>397
赤木さんや寺山さんは好きでしたが
はっきり言ってフジのゲストは、作家も芸能人も、残念な人が結構いたと思います
>>398
ダルモーガン氏が、最初にこのスレを立てたんじゃなかったでしょうか? 昭和40年代末から50年代にかけて
虫明氏は競馬ニホンから1ページもらって
週末は関西で競馬を見ておられました
飛行機での往復と宿泊に見合う原稿料を
ニホンが出せたとは思えないのですが >>399
そうなんですか?
最初の頃は参加してなかったもので… >>399
オオクラ?あたりの話で盛り上がりました 解説してた大坪元雄さん
中継中にオンスロートのはなし
実際に見た話をまとめられるのはこの方くらい
本にして出してほしかった フジのG1本馬場入場曲が千住明さんのに戻りました
あの曲を聞くと
生産 調教 運営 という競馬のすべてに携わっている
人たちの思いが込められている感じがします
そしてゴールを過ぎた瞬間とすべてが歴史になっていくそんな感じです
またフジ系列の昔のスポーツテーマ曲
ライツアウトというのですが
最近まで知りませんでしたが
カリフォルニア大学のファイトソングの一つなんですね
一部歌詞まであります
ツべに女子学生が大股をで足を上げてるのが見れます
大学の校舎前のが一番いいかな いつかこんな日がやって来る事は覚悟していましたが・・・とうとうジャパンカップへの海外からの出走馬が
「0」になりそうとの事、第1回から観ている者としては寂しい限りです。 今日のように、強い外国馬が来てくれないとつまらないなんて本気で思う日が来るとは、昭和の頃には考えもしなかったですよね。
とても喜ばしいことですが、確かに一抹の寂しさも感じます。 今日のように、強い外国馬が来てくれないとつまらないなんて本気で思う日が来るとは、昭和の頃には考えもしなかったですよね。
とても喜ばしいことですが、確かに一抹の寂しさも感じます。 netkeibaの競馬データベースクラシックが凄い
【過去30年分の競走馬・レース情報を追加】
1956年から1985年までの30年間、合計52,000頭の競走馬と85,000のレース情報。
また騎手や調教師、馬主のデータもすべて追加いたしました。 早速見てみましたが、距離のところ芝ダートとかの区分が目茶苦茶でしたね
これからかなり修正が必要のようです。 >>411
確かにそれが目立ちましたね
距離とタイム、出走メンバーを見れば大体分かるとは言え・・・ >>400
当時は朝日放送ラジオも競馬中継をしていて<提供?は競馬ニホン>、
MOミリオン対決 と称して、虫明氏と岡部友二氏とが馬券対決を放送内でしていた━━記憶が有ります。
岡部氏は、競馬ニホン or 日刊スポーツ どちらかに所属されていた筈です。
ばんえい競馬ですが、現役の下級条件でホクトヘリオスがいます。
せっかくなら芦毛馬に名付けて欲しかったです。 >>413
朝日放送は、競馬ニホンのメンバーでした
毎日放送がブック
岡部友二氏ではなく、岡部良平氏ですね
友二氏は日刊スポーツ
岡部良平氏は、かつてニホンの顔のような存在で
彼の予想を見たくてニホンを買う
そんな人が多くて、ニホンの高いシェアにつながっていたほどです
一時は第一線を退いたけど、朝日のラジオ中継で再登場した形です
チーフトラックマンの成田彦一氏ともども、関西競馬記者の重鎮でした 東条あきらさん
最後はどないなりはったんやろ
この人の影響で新聞に牝系のファミリーナンバーを一時いれてたんやね 昔のニホンというと
岡部氏、成田氏、笹西氏、喜多村氏、辻氏など思い出しますね
青木雅人氏が若手のころ、同姓で青木周吾氏もいましたね
KBSラジオで金・土の夜やっていたブック競馬展望
確か金曜が諏訪三七さん、土曜が山田一雄さんだったでしょうか >>417
岡部良平氏が第一線を退いて役員になり、馬柱の後任が戌亥氏
喜多村氏は、松田氏(現調教師)の後任馬柱でした
千葉耕司氏が編集長の時代でしたね
ブックの諏訪三七氏は、高齢の方でしたが
競馬以外でも見識が広く、味のある記事を書いていました リアルタイムでは知りませんが、バンブトンコートってなぜ大レースで上位人気になてたのでしょうか?
ダービーは1番人気4着 菊花賞は2番人気(単枠指定?)7着 天皇賞(春)は3番人気7着と毎回馬券に絡んでないのに
それなのに宝塚記念では2番人気(単枠指定?)になって、この時は2着になってますが >>422
名門厩舎の三歳チャンピオンでしたからね
ずっと連勝して、何度も負かしたインターグシケンが皐月賞2着、菊花賞優勝
評価は当然高かったですよ
故障で4歳前半を棒に振ったのが、その後の成績に響いたのかもしれません
あの厩舎は、マーチス、ヒデコトブキ、ヒデハヤテ、ハギノオーカンなど
能力の突出した馬を何頭も出しましたが、みんな残らず故障がちでした >>415
>>417-418
懐かしい名前が出ていますねェ〜
昔は確かに競馬二ホンのシェアが高かったですね。
いつ頃から、二ホンとブックのシェア@関西版 が逆転したんでしょうかねェ・・・・・?
1980年代前半には逆転していた様な気がします。 >>424
もっと前ですね。昭和40年代半ばには、もう逆転していました
東西の各専門紙が古い字体の活版印刷だった時代に
ブックはいち早くオフセット印刷を導入しました
これが功を奏した一因かと思われます ブックの勝因は配送の早さでしたよ
前日の午前中にはもう売店に並んでいましたからね
関東は2強の関西と違って各紙拮抗でしたが
一馬が最も売れていました
売店のラックの一番上が一馬に決まっていたのが大きい >>422
人気ありましたね。走る姿も首を真っ直ぐに下げて格好良かったです
馬主さんも元阪急ブレーブスのプロ野球選手でしたよ
距離の長いのはダメでしたから、皐月賞をケガで出れなかったのが残念です >>423 >>427
ありがとうございます。
故障がなかったり、今のように中距離以下が重視されるレース体系だったら戦績も大きく変わってたかもしれませんね。 >>423 >>427
ありがとうございます。
故障がなかったり、今のように中距離以下が重視されるレース体系だったら戦績も大きく変わってたかもしれませんね。 「剛腕」郷原洋行さん死去 騎手時代2度のダービー制覇
騎手時代にダービー2勝を含む1515勝を挙げ“剛腕”の異名をとった元JRA調教師の郷原洋行(ごうはら・ひろゆき)氏が1月31日、病気のため死去していたことが8日までに分かった。76歳だった。葬儀は近親者のみで執り行われた。
http://race.sanspo.com/keiba/news/20200209/etc20020905000001-n1.html
皆様の思い出、語り合いましょう。 関西人だからオペックホースだね
ダービー郷原さんだからこそ勝てた
合掌 >>427 樋口氏は阪急じゃなく南海ホークスの選手だった。ちなみに父上も馬主だったそう…