千葉県野田市のパチンコ屋 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 すごい投手は松坂大輔以外にもいるだろう。よく「10年に1人の逸材」などと言われるが、
ダルビッシュ有(カブス)が1986年生まれ、田中将大(ヤンキース)は'88年、大谷翔平(エンゼルス)が'94年。
そして彼らの先を歩いていたのが'80年生まれの松坂だ。
「すごい投手」の基準はそれぞれだが、この4人を外す人はいないと思う。
つまり松坂から大谷まで15年で4人の「10年に1人」が野球界に現れていることになる。
でも、逸材の出現頻度が高まったのは、明らかに「松坂以降」だ。
この4人は中学時代から頭角を現し、高校からドラフト1位で入団。その後も抜かれることなく常に同世代のトップを走ってきた。
早熟にして大器。日の当たる道だけを歩いてきた。
若くして多彩な変化球を駆使できるのは、自分より先にいる先輩の映像を見て模倣できる時代だったことも理由の1つだろう。
昔のスポーツ界は芸術界のように天才の出現を待たねばならなかったが、現在は少し違う。
もちろん才能があることは大前提だが、トレーニング理論や技術論が確立され、先人の背を追いやすくなっているのは間違いない。
学問のようにある程度までは誰かが踏みならした道を歩き、そこから先を自分が切り開いて後に託す。
高校野球で150kmを計測する投手が珍しくなくなったのはその良い例だ。
松坂の存在感は別格だ。松坂の投球は人の心を打つ。
沖縄県北谷町。アクセスが良く観光名所もある割にはのどかだったキャンプの風景が、今季は一変した。
報道陣は5割増し、急きょ作った松坂グッズは即日完売し、松坂も可能な限りサインに応じている。
ブルペンに入ればわずかなすき間から投球フォームを見ようとし、サービスも兼ねてランチタイムに特打をやれば柵越えに拍手喝采を送る。
そんなフィーバーはあらゆるメディアで伝えられている通りだ。
筆者の周囲にも「松坂を見てきます」と初めてのキャンプツアーに出掛けた人がいるし、
「ウチの大輔は元気にやっているの?」と身内のように気をもむ人もいる。
もちろん、ダルビッシュや田中、大谷がキャリアの最後に中日を選んだとしてもファンは殺到することだろう。
だけどファンそれぞれの「温度」や「思い入れ」は果たして同じだろうか。
20年前の夏。松坂がいた横浜高は新チーム結成以来、無敗のまま終えた。あの夏の戦いを高校野球ファンは今も語り継ぐ。
PL学園との延長17回の死闘では250球を投げ抜いた。そのため明徳義塾戦は先発を回避し、
敗色濃厚だったがベンチ前でテーピングをはぎ取り、キャッチボールを開始したところから球場の雰囲気が一変した。
そして京都成章との決勝戦はノーヒッターで締めくくった。
プロに入ってからもそうだった。2006、2009年のWBCではいずれもMVPに輝き、侍ジャパンを世界一に導いた。
球数を減らせ、肩は消耗品だ。メジャー式の合理性はすべて正しい。
PL学園、明徳義塾、京都成章と3日連続で試合が行われている。クレイジー。
わかってはいるけど、正しいことは少しつまらなくもある。
世のサラリーマンは靴底を擦り減らし、手当ももらえぬ残業で「無理をする」自分に重ねるから感動する。
ふと気付くと、あの松坂が「最後の無理」をしようともがいているじゃないか。
その姿を見ないでどうする。オレが応援してやらないで誰がする……。
人生の岐路で松坂から影響を受けたのは、おじさんたちだけではない。
チームメートとなった柳裕也は松坂にあこがれ、宮崎県都城市からはるばる横浜高に越境入学した。
同じく福田永将は松坂の高校時代を編集したビデオを「それこそ擦り切れるほど見ました」と懐かしむ。
DeNAの筒香嘉智は、先述の横浜−PL戦を甲子園で生観戦した。当時、小学1年生。
このときの強い衝撃が横浜高進学を決意させたのは有名なエピソードだ。
後の侍ジャパンの主砲は誘われてもいない横浜高に自ら売り込み、セレクションで関係者の度肝を抜いた。
すごいのは筒香だが、引き寄せたのは松坂だ。他人の人生を左右する引力がある。
右肩の状態は「ここ数年で一番いい」という。とはいえ故障箇所を考えれば、この先も乗り越えねばならぬ障害はいくつもあるだろう。
復活といえる日が訪れればもちろんだが、仮にマウンドにたどり着けなかったとしても、松坂はきっと前のめりに倒れているはずだ。
20年目のスプリングキャンプも折り返し。松坂は非常に充実した表情で過ごしている。
もう一つは右肩ならぬ右手首の不安だ。
連日のようにサイン会を開いたり、ワゴン車に乗り込むわずかな時間でもサインを惜しまない松坂の神対応ぶりについて
「ロッカーや球場の裏でも暇さえあれば、毎日250枚以上はサインを書きまくっている。けんしょう炎になってしまっても不思議はないよ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています