今回もよろしく。

☆皇統の未来を守るオフ@四條畷☆

●日時:平成21年4月29日(水曜日・昭和の日)午後2時集合厳守

●雨天:断行(内容は一部変更の場合あり)。

●集合場所:JR学研都市線(片町線)「四条畷」駅改札前
地図:http://www.jr-odekake.net/eki/map.php?id=0610912
駅構内図:http://www.jr-odekake.net/eki/premises.php?id=0610912

●アクセス:JR「四条畷」へは、学研都市線(片町線)「京橋」から快速で約14分、東西線「尼崎」から快速で約33分。
路線図:http://www.jr-odekake.net/eki/route/index.php?id=0610912

●順路:四条畷駅〜楠木正行公御墓〜四條畷神社〜住吉平田神社〜御机神社〜和田賢秀公御墓〜四条畷駅〜JRにて京橋へ移動。

●趣旨:贈従二位楠木正行公(小楠公)は、贈正一位楠木正成公(大楠公)の御嫡長子。摂津湊川の合戦を前に大楠公と桜井駅に別れ
られてより御雌伏凡そ十年、御父の御遺志を継がれて吉野朝後村上天皇の御為朝敵御討伐に挙兵されました。

楠帶刀正行は、父正成が先年湊川へ下りし時、思ふ樣あれば、今度の合戰は我は必ず討死すべし、汝は河内へ歸つて、君の如何にも
成らせ給はんずる御樣を、見はて進せよと申し含めしかば、其庭訓を忘れず、此十餘年我身の長るを待ち、討死せし郎從共の子孫を扶
持して、如何にもして父の敵を滅し、君の御憤りを休め奉らんと、明暮肺肝を苦しめてぞ思ひける。(『太平記』巻二十五「藤井寺合戰の事」)

河内、摂津に転戦された正行公は、摂津渡辺橋(現在の大阪市中央区天満橋京町附近)で、溺れる敵兵を救助し治療してお帰しになら
れたことから、恩義を感じた者たちが公の陣に参じ、のち四條畷まで運命を共にしたとも伝わります。

渡邊橋よりせき落されて、流るゝ兵五百餘人、甲斐無き命を楠に助けられて、河より引上げられたれ共、秋の霜肉を破り、曉の氷膚に結
んで生くべしとも見えざりけるを、楠情有る者也ければ、小袖を脱ぎ替へさせて身を暖め、藥を與へて疵を療せしむ。此くの如く四五日皆
勞りて馬に乘る者には馬を引き、物具失へる人には物具をきせて、色代してぞ送りける。されば敵ながら其情を感ずる人は、今日より後
ち心を通ぜん事を思ひ、其恩を報ぜんとする人は、軈て彼手に屬して後ち、四條繩手の合戰に、討死をぞしける。(『太平記』巻二十六
「正行吉野へ參る事」)

凶徒高師直率いる賊軍と河内四條畷に合戦された正行公は、正平三年一月五日、御奮戦空しく現在の大東市錦町附近(字ハラキリ)に
て御舎弟正時公と刺しちがえて御殉節されました。

正行は左右の膝口三所、右の頬さき、左の目尻、箆深に射られて、其矢冬野の霜に伏したるが如く折懸けたれば、矢ずくみに立つてはた
らかず。其外三十餘人の兵共、矢三筋四筋射立てられぬ者も無りければ、今は是までぞ。敵の手に懸るなとて、楠兄弟刺違へ、北枕に
伏しければ、自餘の兵三十二人、思々に腹?切つて、上が上に重り伏す。(『太平記』巻二十六「楠正行最期の事」)

のちに賊将足利高氏の仔義詮が、正行公御首塚の傍らに己が墓を営むよう遺言したように、忠孝両全を完遂された小楠公の御生涯は、
敵味方の別なく我が国史上の精華として語り継がれ、永久不滅の生命を得て今も我々に範を垂れ給うています。

今回は、楠木正行公はじめ楠木正時公和田賢秀公ら二十五将士を御祭神とする別格官幣社四條畷神社のほか、小楠公御墓、
和田賢秀公御墓などに参拝し、真善美を併せ具えられた小楠公の御生涯御精神に学びたいと存じます。

●案内:歩きやすい服装・履物で。

●費用:交通費適宜。

●当日連絡先:090-9273-5667(13:30以降繋がります)

※神社号・市名は「四條畷」、駅名は「四条畷」と表記。