【相談】悟りを開いた人に聞くスレ【仏教】41
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*悟りを開いた人には偉大な知恵があるらしいわ。
*生活のことなんでも聞いてみましょう。
*あるゆる悩みを聞いてみましょう。
*罵倒、批判だけのレスはスルーよ。
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https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/kankon/1506938464/l50 悟りで解決出来る悩みは方向性あるよね
例えば「ビジネスで成功したい」「収入を増やしたい」「高級外車や都心にマンションが欲しい」「エスタブリッシュな人になりたい」
そういう悩みには無力だよね >>4
それを欲していた理由がわかってしまい、だいたいの場合それは不要であるとわかってしまうので願望そのものが根底から消滅すると思う。
なので無力なのではなくて根本解決してしまい無駄な事や無意味な事をしなくなるだけ。 >>5
でもその方面の悩みに対して役に立つアドバイスは出来ない
その悩みには役に立たないことに変わりない 人間の生き方はいろいろあって、何が正しいとか間違ってるとは言えないはず
いろいろな価値観がありえて、どれが正しい間違ってるとかはない
仕事で成功してお金を稼ぐというのもアリだと思う 悟ったところで急に全知全能になる訳ではないから
例えば日本人が英語圏で教えを説こうとするとちゃんと勉強して習得しないといけない
そういう意味ではノウハウ本のほうが有用で悟りへの理論は無力
苦しみはなくなるが何かを習得するのに必要な訓練まで免除されるわけではない
悟後の修行と鬼和尚がよく言ってるがそういうことかと思われる 悟りというのも数多ある人間の生き方の1つ、価値観の1つだよね >>9
>悟後の修行と鬼和尚がよく言ってるがそういうことかと思われる
「悟後の修行」というのは意味が全然違います。
>>10
>悟りというのも数多ある人間の生き方の1つ、価値観の1つだよね
それは、あなたが「私は悟りというものを知りません」と言っているに過ぎません。 鬼和尚さん、
>>11 さんが言われている >>9 の
悟後の修行は意味が違うのでしょうか。
違うとしたら実際はどんなものなのですか? >>11
悟りは知らないけど悟りは仏教的な世界観での話
世界にはクリスチャンもいればイスラム教徒もいる
彼らはまた別の世界観を持っている
いろいろな価値観の1つである事は間違いない スポーツや書道とか楽器の演奏とか、何でもいいんですが
こう言う趣味的活動を無我の境地で楽しむレベルまで達すれば、趣味も悪くないと言えますか?
悟りではないけれど、三昧まで達するほど集中して楽しむことは無駄ではないと思うのですが。
むしろ趣味はそうあるべきですか? >>17
趣味との付き合い方は人それぞれで何がいいとか悪いとかはないです。貴方が極めるのがいいと思うなら、それはそれで良いです。
趣味はどうあるべきは万人に当てはまるものはないです。 何故人間以外の生物は悟れないのでしょうか?
それとも、悟りの修行を出来ないだけで、人間以外の生物でも頓悟のようなものは稀にあるのでしょうか? >>19
動物にとっては別に悟りが必要ないからですよ
今を生きてるだけで将来の悩みはない >>20
あなたは動物に将来の悩みがないとなぜわかるのですか?
わからないことをわかったように思うことが一番愚かなことです。
動物たちと一緒に暮らしていれば、動物たちもいろいろな不安を感じながら生きていることがよくわかりますよ。 >>21
それは人間だったらこう考えるという思い込みを動物に投影しただけでしょう そもそも人間だって悟りが必要なのは悟りたい人だけでしょ
クリスチャンは別に悟りたいと思ってないよね >>24
クリスチャンが求めている救いも悟りと同じことですよ。
仏教には悟りと救いの両方ありますが本質は同じです。
人類も他の動物・植物もみんな悟り(救い)を求めています。 >>25
つまりクリスチャンをやっていると悟りに到達するということ?
イスラム教徒とかユダヤ教とかも同じかな? >>24
そりゃ悟りという現象そのものを知らないからだろうな。
でもどうやら悟ったのではないかと思えるような人や悟ってなくてもサマーディは体験したんじゃないかと思えるような人はヨーロッパやエルサレム付近に昔から居たように思える。
そういう人はうまく行けば聖人扱いになるけど大半は異端とされてしまったのではないかな。多分イエスもそれの内の一人だ(その結果迫害された)。
要するにあちらはインドと違ってそういう人を受け入れる社会になってなかったということだと思う。 >>13 小悟の後に行うものを語っているのじゃろう。
達磨が面壁九年したようなものじゃ。
それによって認識まで滅して無認識になるのじゃ。
>>17 そうじゃ、何事も極めれば修業になるものじゃ。
囚われてはいかんがのう。
極めれば皆道になるものじゃ。
>>19 できるかもしれん。
しかし言葉が無いから伝えられないのじゃ。
悟ったことも、悟りがあるということも、悟るための修業も全て伝わらないのじゃ。
>>26
そうです。
キリスト教でもイスラム教でも伝統的な形で救われる人が一般的ですが、
中には仏教の悟りのような意識になる人も昔からたくさん知られています。
彼らはキリスト教神秘主義(者)、イスラム教神秘主義(者)などと呼ばれています。 >>29
輪廻転生の世界と、天国と地獄の世界だとかなり違う気がますが
具体的に言うと、どんなことでしょうか? >>30
「輪廻転生」と「天国・地獄」は非常に似ているでしょう。
それらは方便での説明ですから、両者の違いは本質的なことではありません。
お釈迦様が「私はもう輪廻しない」と言われたように、
キリスト教神秘主義やイスラム教神秘主義の人々の中にも
「神はいない」と言っていた人々がたくさんいます。
非常に深い宗教体験はそれぞれの宗教の表面的な違いを飛び越えさせて、
同じような世界に入っていくようです。 >>31
輪廻転生は、死んでもまた生まれ変わり、ぐるぐる魂がめぐる
来世の功徳のために善行をしたり
悟りもこの輪廻を脱却するためのものです
一方、天国・地獄では、死後に神が天国か地獄かを決めてすべて終わりです
別に悟っていようがいまいが関係なくジャッジされて終わる
悟る必要はとくにありません
いかに天国に行くかが問題です
神にいかに裁かれるのか?それが問題です
だいぶ違うように思いますが、どのあたりが似ているのでしょうか?
異端的な人はいると思いますが、本質的に両者はかなり違うものと思います >>32
>だいぶ違うように思いますが、どのあたりが似ているのでしょうか?
>本質的に両者はかなり違うものと思います
そのような違いは皮相的なものだということです。
人間は皆同じなのですが、精神文化の歴史的背景の違いによって解釈や表現が違うので、
「輪廻転生」と「天国・地獄」などの違いが生じているだけです。
同じ人間なので、究極の真理は同じだということですね。 キリスト教やイスラム教と仏教とは根本的に違うのじゃ。
ユダヤ教から派生したキリスト教やイスラム教は神に祈るだけなのじゃ。
神には絶対なれないのじゃ。
しかし、仏教は修行すれば悟りに至り、ブッダ(仏様)になれるのじゃ。
そのために色々な修業法があるのじゃ。 >>32
横レスで悟っていませんが、
ある先達の方がイエスの説法はつまらんのうとここで話しておりました。
もともとキリスト教徒であったため、かなり反感を覚えましたが
今では何となくキリストが言いたかったことがなんとなくわかるときがあるのです。
天の国を求める人は善とは何かという命題に向かわざるをえなくなります。
キリストはでかい気づきをおこした方なのだろうと
経験から理解できますが、それが理解できるのは気づきを起こしてからなのです。
気づきを起こさせたかった人であったのかもしれません。
当時、ユダヤ教は今でいうISISみたいに戒律を守れないものをいじめる宗教に変わりそうになっていた。
これはいかん危ないと考え、ゆえに変えたいと考えていた人であったのかもしれません。 黒人であろうと白人であろうと黄色人種であろうと、DNAの枠組みが同じなので
生きていく為には同じ栄養素を摂取する必要がありますね。
病気になっても同じ治療法によって治ります。
「精神的な真理」も同じことで、人類は皆同じです。
違うように見えるのは表面的・皮相的な部分だけなのです。 鬼和尚、隣室の騒音が気になるんですけど
気にならなくなるような瞑想法はありますか? >>33
私は仏教についてもキリスト教についてもある程度知識はあるのですが、どのような点が同じなのか具体的に説明していただけませんか?
例えば、キリスト教の教えに見られる悟りの視点などあるのでしょうか?
共通点がさっぱりわからないのですが?どこが同じなのでしょうか? >>35
キリスト教で言う気づきとはたいがい神の意思のことですよね
悟りとは違う気がしますが・・・ >>37 それは制感の行をするとよいのじゃ。
自らの感覚を閉じて刺激を受け容れないようにするのじゃ。
音が気になるのも自ら音を受け容れているからなのじゃ。
寝るときのように全ての感覚を閉じて集中するのじゃ。
修業の役に立つじゃろう。 >>38
>私は仏教についてもキリスト教についてもある程度知識はあるのですが、
それは体験のない知識だからではありませんか?
私がこれまでに書いたことを繰り返し読んでみて下さい。
答えは既に書いてあります。
「表面の共通点」のことではありません。両者の「本質」が同じだということです。
「同じ人間」が本当に救われるということは、本質を見れば「同じ世界に入っている」のです。
言葉による表現や解釈は文化的背景によっていくらでも変わります。
(米食とパン食が違うように見えても摂取している栄養は同じであることと似ていますね。) 制感の行について具体的にどのような訓練を行うと良いか教えてください。
少し調べてみたのですが、
数息観などの集中の行も制感の行に入るのでしようか?
https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/kanpo-do/entry-10737591565.html
上達すれば普段の日常生活でもすぐに外界の刺激を遮断して深い瞑想状態に入るのでしょうか?
どうも集中と制感の違いがよくわかりません。
集中→自然に制感になる→サマーディに至る
というようなイメージなのですが、制感と集中はまた違うでしょうか? 雑音などに心を乱される事があるので制感の法は是非身に付けたいと思いました。
ぼーっとしているとたまに感覚をあまり感じない深い所に行く時があります。
料理中に箸が熱くなっていって、皮膚の感覚を感じてはいたのですが痛みではありませんでした。「痛みを厭離するのはこうゆう感じなのかな」と思いながらも、「このままでは火傷する」と思った瞬間に痛みが戻って来ました。
感覚を痛みとするのは体を守るため意志の働きなのでしょうか。
眠っている時も歯痛や頭痛を忘れたり、ちょっとした刺激なら感じないですよね。
しかしあまり大きな音や強い刺激では起きてしまいます。
自我が無くても体を守っているのはどのような意志の働きなのでしょうか? 管理会社を通じてクレームを入れるか、お前も一緒に騒音出すかにしておきな。
制感瞑想とかやめとけ。
余計気になってノイローゼになるぞ?
普段から坐禅とかしてある程度進めば、そんなもん何とかなるし、本当に疲れてたら音は気にならいよ。
でもな、素人が即効性に目が眩んで付け刃で制感とかやるのはよくないよ。
馬鹿鬼も、自作自演だか知らんが、知ったかぶりして変な知識を吹聴するな、この馬鹿もんが、 集中力が行ききるところまで行くと
常時ゾーンのような状態になるのでしょうか? 鬼和尚、数息観をしていると、いつも半分眠ってしまいます。
時々気が付いては、姿勢を正したりします。
時間は約30分です。
これでもいいのですか? >>47>>48
君に質問してる訳じゃないと思うんだけど…何故でしゃばりたいの? 鬼和尚。
一切皆苦や悟りや不死の法があることを受け入れない人も大勢います。
「自分にはその考えはしっくり来ない」と言って認めない。
肉親や家族や親友がそのような考え方でも、もう仕方がないのでしょうか。
自分が他人に教えを説くほど知識もなく、悟れてもいないなら何も言うべきでは無いのですか。
自分だけがこんな事を信じていて良いものか、と寂しくなるのです。 >>49
君に答えてる訳じゃないのに、何故出しゃばるの? 自作自演のマッチポンプだからだよw
他の人にまともな答えをされると、鬼和尚の自尊心が傷つくからなw ふーん、そうなんだ。
他のもんが手助けするのはタブーなんだ。 >>35
確かにキリスト教でのいう気づきというか、
証はシンクロニシティをさすことのほうが
多いようですが、聖書にでてくる預言者と呼ばれる人たちは
恐らく気づきを起こした人なのだろうと予想しています。
気づきを起こす時、そのまま悟る人と
言葉は違いますがサマーディ、見性、気づきなどを起こして、
段階を追って成長していく人の二種類がいます。
その時は言葉にできず、何が起きたのか全く理解できないのですが、
今の自分は一体どのような状態なんだろう、
と本人がいろいろと調べてなるほどと理解する感じになります。
中間にいる人もまた存在するのです。 >>40
刺激に対する注意の矢印→を出さないようにする感じでしょうか?
座禅や寝る時などは他に何もすることがないので制感の行もある程度できますが
他に何かしなければならず注意を向けなければならない時に
特定の刺激だけに反応しないようにするにはどうしたらよいでしょうか?
制感の行に熟達したらそんな器用なこともできるようになりますか >>42 集中とは違うのじゃ。
そのサイトは出鱈目なのじゃ。
お釈迦様もこのように説いているのじゃ。
360 眼について慎しむのは善い。耳について慎しむは善い。鼻について慎しむのは善い。舌について慎しむのは善い。
361 身について慎むのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。修行僧はあらゆることがらについて慎しみ、すべての苦しみから脱れる。
362 手をつつしみ、足をつつしみ、ことばをつつしみ、最高につつしみ、内心に楽しみ、心を安定統一し、ひとりで居て、満足している、──その人を<修行僧>と呼ぶ。
制感の行とは集中の補助になるものなのじゃ。
見ることや聞くことについて慎み、禁じることで無感覚になるのじゃ。
眼を閉じてもまだ見ようとする意志があれば夢も見るのじゃ。
耳も聞こうとする意志があれば雑音も聞こえるのじゃ。
見ようとか聞こうと言う意志そのものを放棄して感覚を制御するのじゃ。
眠る時に、もはや何も見ようとしないように意志を放棄するのと同じなのじゃ。
それを自らの意志で行うのじゃ。
今はわからなくとも実践によってわかってくるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>43 本能の働きなのじゃ。
肉体を守ろうとする本能なのじゃ。
免疫とか傷や病を治す働きと同じなのじゃ。
肉体の本能があるのじゃ。 >>45 そのようにはならないのじゃ。
集中を解くと常態に戻るのじゃ。
集中していられる時間が長くなるだけなのじゃ。
>>46 それでよいのじゃ。
寝ていると思っている時でも意識は有ることを認識するのじゃ。
それは深い瞑想の境地なのじゃ。
それをただ認識するだけでよいのじゃ。
>>50 それも仕方の無いことじゃ。
お釈迦様でさえ説法しても聞き入れないものが何人もいたのじゃ。
人は自らを救うことしかできないのじゃ。
悟った者でも道標になるだけなのじゃ。
おぬしもせめて道標を残すとよいのじゃ。
>>58 そのようなものじゃ。
それはむしろ反対に注意する音などにのみ集中するのじゃ。
そうすれば他の音は気にならないのじゃ。
信号を待つ時なども青信号だけに反応できるようなものじゃ。
なれれば誰でもできるようになるのじゃ。 >>61
長く瞑想を続けていると、時間を設けて一部分だけ瞑想をする状態から
日常そのものが瞑想の舞台になるような、ある種常時瞑想状態のようなものに移行すると思うのですが、
それは集中力の研鑽によりもたらされる能力や状態とはまた違うものなのでしょうか。 >>57
少しでも似ているところがあれば同一とはならないですよね
全くどこにも共通点がないとは言いません
大部分が同一の場合に初めてそれらは同じと言えると思います
預言者の時代に何か特殊な体験があった記述がありますが大概は神の啓示となっています
それを仏教的な気づきと同一視していいものなのか?
少なくとも仏教思想とキリスト教思想はかなり違うものだと思います >>41
読み直してみましたがキリスト教と仏教は本質が同じだから同じだという話以上のことは読み取れませんでした
それ以上がないとすると話はここで終わりにするしかないですね 深い瞑想状態やサマーディになっている時に地震などが起きた場合、どうなるでしょうか?
瞑想状態から覚めるでしょうか?
サマーディでも地震などの身の危険は感知して
覚める、覚めないの選択が可能なのでしょうか? >>64 >>65
>少なくとも仏教思想とキリスト教思想はかなり違うものだと思います
それは表面しか見ていないということですね。
赤い色の服と青い色の服は全然違うと言うこともできますが、同じ「服」なのです。
大切なのは「本質(機能)」ですから、「差異(色・材質)」に着目しても意味はないことがわかるでしょう。
キリスト教と仏教の違いを研究し続けた八木誠一(東京工業大学名誉教授)という有名な学者がいます。
彼は「自我の放棄」という点で「キリスト教も仏教も同じである」と主張していましたね。
(彼はもともとがクリスチャンだったので、個人的にはキリスト教への親和性が強かったようですが。) >>64
確かに、天を求めるのと悟りを求めるのとでは違いがありますね
よくわからないところはあります
パウロは神に打たれたと言っていますが、
そのような証は教会に通っていたものならば
だれでも聞いたことがある話だと思います。
気づきが起きると何が起きたのかわからないところもあり、
ユダヤ教ならば大抵神の恩寵だとするようですが
おそらく社会的なものからそういったのではないかと
ふと思うことがあります。
確かに気づきと言えるかは怪しいところというのが正解でしょう。
神を見たわけではないので、変な感じではありました。
なぜかわかりませんが鬼和尚をはじめ、
ここにいる方たちはそれを起こしたなとすぐ察知しますので、
体験ありきのものではあるのかもしれません。 >>63
坐禅は何十年も継続されて下さい。
ザルで水を掬って井戸を埋めるようなもんですがね。
根気よくコツコツと。
継続が大事です。 いかん。このような話はすべきではありませんでした。
寝言と思って聞き流してください。 >>63 そのようにはならないのじゃ。
なっては危険なのじゃ。
何も認識していないままで日常を送っているのであるからのう。
悟りや無我の状態ならば、集中の研鑽とは違う観察による気付きによってもたらされるものじゃ。
それは瞑想の状態とも違うのじゃ。
瞑想も悟りや無我に達するための手段に過ぎないのじゃ。
自我に気付き、無我になるのじゃ。
更に認識をも滅して大悟徹底の境地に至るのじゃ。
>>66 本人がそのままでいようとすればそのままじゃろう。
覚めないものもいるじゃろう。
ある行者は近くで雷が落ちて二人死んでも気付かなかったというのじゃ。
お釈迦様も近くを商隊が通っても気づかなかったと言うのじゃ。
自らの意志で覚めることもできるのじゃ。 馬鹿鬼は全く分かってないな。
無意識の意識や無分別の分別を。
> 自我に気付き、無我になるのじゃ。
> 更に認識をも滅して大悟徹底の境地に至るのじゃ。
違う。
本来無我である事を無意識の意識から知るんだよ。
本来無認識である事を無分別の分別から知るんだよ。
無我や無認識になるんじゃない。
本来無我や無認識である事に気付くんだよ。 「自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。」
「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」 無我でもなく忘我でもなく遠我なんだよ
我は遠い記憶、そうじゃないと治まりがつかない
たとえ観念でしか無いのだとしても本人にとってリアリティがあるのだから無我なんて言っても意味がない
でも遠い記憶にすることは出来る
子供の頃、夢中だったものが今では意味がない
それは誰でも理解できる
我よ、さようならだ 幻を無いとうっちゃろうとするからいつまでも悟れない
幻は幻と捨てればいいだけのこと 鬼和尚。
北枕で寝ると本当に縁起が悪いのですか?
お釈迦様と関係がある話なんですよね。
どうなのか教えてください。 北枕で検索すればすぐ分かる事なのに、何故わざわざ馬鹿鬼に尋ねるのかねぇwww 鬼和尚。
怒っている人に許してもらうにはどうしたらいいでしょうか? >>67
まさかキリスト教も仏教もどちらも宗教だから同じという雑な事を言いたい訳じゃないですよね
両者に共通点がある事と同じである事は違いますよね
キリスト教と仏教に全く共通点がないとは思いません
八木さんの主張もキリスト教と仏教が同じであるということではなくて、共通点があるという指摘なのではないですか?
自我の放棄という面は両者であるかもしれませんがそれがメインの本質的なことには思えません
本質は仏教なら悟りによる苦の克服でしょうし、キリスト教は神への愛と思います
それとも仏教における「悟り」は表面的なものと考えているのですか? あと、もう一つです。他人と話していて、
他者の感情なりがうつってしまう性質があります。
これを引きづってひどいことになることがあります。
他人の影響を受けないようにするにはどうしたらいいでしょうか? >>80
>本質は仏教なら悟りによる苦の克服でしょうし、キリスト教は神への愛と思います
それが誤り。勉強不足ですね。
宗教というのは体験の世界ですから、体験がなく頭であれこれ考えても空しいものです。
大体、悟りを経験していなければ「悟り」がどういうことなのか分からないはずなのに、
「仏教は悟り・・」などと言うこと自体がナンセンスであることに気が付かなければなりません。 鬼和尚、たびたびすみません。
いつまでも鬼和尚や両親におんぶにだっこという状況ではいけませんね。
無能と私は自分のことを考えていたようです。
何が起きたのかわからず、
怯えて怖がっている状況で
鬼和尚の前で三帰依と菩薩の請願を行った
自身の神経の太さを忘れておりました。
金を稼がなければならないし、
やはり、家庭も持ちたいと考えています。
精進します。 >>82
仏教は悟りを通じた....がナンセンスだとすると仏教の本質は何でしょうか? >>72ー>>76 大山は賢いのう。
えらいえらい。
>>77 本当は健康によいのじゃ。
磁極に沿って寝ることで磁場が血行を善くしてくれるのじゃ。
お釈迦様も病が治るようにと北枕に寝かされたのじゃ。
しかし、重体で効かなかったのじゃ。
それで縁起が悪いとされたのじゃ。
>>79 許せといえばよいのじゃ。
許さなければ絶交するとよいのじゃ。
そのようなものと付き合わなくて善いのじゃ。
>>81 しばらく独りで暮らすのじゃ。
そうすれば他人に惑わされなくなるのじゃ。
独り歩むのじゃ。
>>83 そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。 >>89
>>>72ー>>76 大山は賢いのう。
> えらいえらい。
無我なのに何が偉いの? >>90
なんだかわかりません
この点に関しては話が続かないですね >>91
無我ってどんな状態なん?
思考が止まってるとか?
経験したこと無いからわからん >>94
自分で経験せなわからんって事か?
むずいのぉw >>89
鬼和尚、やはり一人というのも寂しい気もしますが、
そこまで一人で歩むほうが大事なのでしょうか?
そうしていると仕事も見つからない気もするのですが。。。 無我というのは、私というものが因縁果によって現象しているという事。
思考停止は三昧や禅定の中での一現象。 >>98
無我がなんで「それ」なのかが分からない
「無我」と書いた方が分かりやすい
それに無我を実感するためには修行や体験が必要かも知れないが
無我について論じるだけなら体験は必要ないと思う
宇宙は無から生じたのだからやがて無に戻ることはあるだろうし、今の因果法則も時間とともに変化するのかもしれない
宇宙的な規模と時間で考えるなら無我はあり得る考え方かも >>99
>無我がなんで「それ」なのかが分からない
直指人心、見性成仏 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています