今じゃ考えられない昭和の生活◆80 [無断転載禁止]©2ch.net
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ちょっと前のことなのに、今じゃ考えられないことをしてた・・・みたいなことありますよね。
都会だけど鍵を開けたまま寝てた、とか。
若い人には信じられない、古い人にもそうだったなぁ・・・と思わせるような事。
そういう事実を書いてください!
基本的に、特に皆さんがよくご存知の昭和に限定させていただきます。
マタ〜リと参りましょう。
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【前スレ】
今じゃ考えられない昭和の生活◆79 [無断転載禁止]©2ch.net
http://medaka.2ch.net/test/read.cgi/kankon/1501389352/ >>451
プロのライダーになれるのは、一を聞いて十を知るような、素質、運動神経がある人なんだよ。 特撮なんかは子供向けのジャリ番扱いで
あまり積極的に出たがらなかったり
多分当時は作る側も含めそれほど真剣にやってないものも
あったと思う
なのにそれが子供たちの記憶に残り続け
30年40年経った後まで評価されているのは面白いね
まさか本人たちも40年後の同窓会が行われるような作品とは
夢にも思ってなかったろうに >>453
岡本喜八ファミリーの方々は、平田昭彦と天本英世がいるので特撮でも真面目にお仕事なさってた。
あと、大人向けのドラマに出てる人よりも、特撮に出てる人の方が海外では顔が知られてたりする。 >>453
特に地球防衛隊の衣装とか着るの嫌がったんだよね。
だから「マイティジャック」では出演者のワガママで
「戦艦に乗ってるのにブレザーにネクタイ」という
わけわからん衣装になってしまった。
村上弘明なんてイケメン俳優として売れてきた頃に
インタビューで「仮面ライダーはやりたくなかった」と
堂々と断言してたし、ウルトラマンAやタロウの主人公の
人達も「暗黒歴史」として封印してた。 >>454
喜八ファミリーといえば岸田森もお忘れなく。 >>456
松田優作や若山富三郎の目の前で言ったらグーで殴られるね、グーで。
特撮物の司令官およびそれに類するキャラは、ベテランか大御所、もしくは劇団所属の演技派がやる。
(ベテランおよび大御所は、東千代ノ介、、岸田森、中丸忠雄、島田順司。劇団所属組だと斉藤暁)
佐藤允も「透明ドリちゃん」で主人公の父親という司令官ポジをやった。
物語の中でも撮影現場でも、若手や子役を引っ張りお手本になり、テレビの前のよい子にとってもお手本になる大人
を演じないといけない。
ジャリ番と軽んじてるのならやってはいけない、責任の重い、心してかからなければやらない役なのだ。 >>457
松田優作は、他の俳優が、岸田森が子供番組に出ることを中傷する発言をした時、ぶち切れて掴みかかったそうな。 >>456
篠田三郎はすでに名の売れてるスターがウルトラシリーズの主役を演じたという意味で異例だったが、特に黒歴史扱いはしてないんじゃないかな。
内容的には、それ以前の、学生服で浅野ゆう子とか(セーラー服)とぐっちょんぐっちょんの愛憎を演じてたのの方が酷かった。 特撮なんかは出たくないのが普通やろ。梶原一騎もあれだけ漫画原作者として成功しても、本当は普通の小説家になりたい夢はずっと持っていたらしいくらいだから。 >>461
だから平田昭彦や天本英世がいたし、若山富三郎も「受けた仕事を嫌だというなら俳優自体やめろ」
と言ってる訳でして… 50年前はカギなんてなかった。
今や泥棒だらけの世の中。 >>460
してるよ。10年くらい前にウルトラマンメビウスという
ウルトラマン集大成のシリーズが作られて、歴代の
ウルトラマン役が全員、Aの人まで出て来たののに
篠田三郎だけは最後まで出て来なかった。その代わりに
タロウが教官として出てた。 当時と現在で所属事務所が違ってて以前の事務所で受けた仕事がらみの件は受けられないとか
大っぴらに語れないといった事情があったりするからね本人は別に黒歴史だなんて思って無くても 昭和末期に小学生だったから、なんか同じ昭和でも凄いへだたり
を感じる、平成元年が小学6年だった >>458
> グーで殴られるね、グーで。
今はチョキが最強だよ
チョキで目潰しだよ >>466
その年齢なら国鉄は知ってるだろう?
昭和60年代の思い出を語ってくれよ グーやチョキより、パーでやつの顎を下から突き上げるのじゃ >>456
村上弘明の件だけど
ロケ撮影で、監督や出演者、スタッフは朝まで飲んでる
でもって呑み屋やそこらへんで知り合った姉ちゃんを「TVに出してやる」と口説いて…
って事があったので
「ライダー? あんな番組!!」って気分になったんだよ 他人の血液より、身内の血液の方が、拒否反応起きづらいと思われてて
輸血する時は家族から血をもらうのが基本だった >>473
関係者か?
スカイライダー、ロケ地で撮影している話を見てみ。
必要以上に成人女性が出演している回があるから >>474
女絡みではないが、仮面ライダーブラックが
伊豆でロケしたと思われる回で、CM明けに
「スーパー○○」の看板が3秒くらい大写しになってから
カメラが下にパンして出演者達が出てきた、ってのがあった。 特撮ではないが、タイアップ先の地元の人が出演する事もあった。
フロント係が呼び出すシーンとか。変に緊張してトーンがおかしく
なっているのとかあったな。 >>319
8時だよ全員集合のDVD買ったけど今見るとつまらないな。ドリフ大爆笑は今見ても面白い。 >>478
大爆笑もそれほどでもない。むしろクレイジーの方が面白い まぁそれぞれネタによるわな
ただ今になって改めて観るとやはりドリフは面白い。ちゃんと考えてコント作ってるのがわかる。
ひょうきん族は酷いね
何でこんなので笑えてたのか不思議なぐらい酷い
子供の感性を狙い撃ちしてたって事ならそれはそれで凄いけど ひょうきん族が台頭してきた頃は
仲間内では「ドリフは幼稚」という意見が支配的だった
今見たらどっちもどっちだと思うが…
バカ殿は今でも寒い 今じゃ考えられないけど、日テレがドリフを
半年貸してくれとTBSに頼んだんだよな。
その半年間はクレイジーが埋めたけど、
ドリフスタイルのコントに慣れてなかったから
面白くなかった。そして日テレではドリフが
湯水のように予算を使うので、いくら視聴率が
稼げてもこれじゃ溜まらん、ってことで半年で
TBSにドリフを返して、半年ぶりに全員集合再開。 ドリフCSで何気なく見てたらセットの住宅?の屋根の上を自動車走らせたり公開でしかも生で無茶やってたんだなと今の当たり障りないテレビと比べると痛感する >>483
建物(セット)の2階部分からレールに載せて
自動車落としたりとかムチャクチャやってたんだよな。
2階から見ると舞台の下の客席まで見えるから
ものすごく恐かったと加藤茶と志村けんが述懐してた。
それでもいかりや長介は淡々と指示を出しながら
「それ、屋根の上から落とせないか?」とさらに過激なことを
要求するもんだから「ふざけるな」とガチギレしたそうだ。 車が飛んだり、ボヤあったり、停電で懐中電灯顔に当ててオープニングやったり。 >>485
あれは停電じゃなくて体育館に入りきれなかった
DQN小僧がブレーカーを落としたんだよ。だから
ちょうど「8時だよ!」で落ちた。
>>486
吉川晃司はあの一件で、10年以上もNHKに出禁になったんだよな。 >>481
幼稚というか時代遅れ。って感じだったな
そんな俺は「暴れん坊将軍」を見てた そういや大河ドラマの「八代将軍吉宗」のときは
中盤以降「いつになったら街に出て暴れるのか」という
問合せがNHKにたくさん寄せられたそうだ カトチャンケンチャンごきげんテレビが見たい
元気な生稲のドッジボールとか 東村山音頭の初出は、今でも覚えていて、
少年少女合唱隊のテーマが、隊員が出身地の民謡を披露する、というものであった。
ところが、東京・東村山出身の志村が指名されても、広く知られている民謡がない。
反応に困り、十秒くらいの沈黙の後、アカペラで誰もしらない東村山音頭(正調)を歌い出した。
これがとっさのアドリブだと思っていたら、すべて仕込みだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/東村山音頭
>>いかりやが著書で「『全員集合』のネタ作り会議の合間にメンバーで将棋を指していた際に、
志村が得体の知れない歌(=オリジナルの東村山音頭)を歌いながら指すことがよくあり、
将棋が優勢になるとその歌が口をついて出てくる」ことから、いっそそれをネタとして使ってしまおうとなったことがきっかけであると明かしている。
この初出が、昭和51年3月前半(6日か13日)であったのは覚えている。
ちょうど進級、春休み、クラス替えの直前だったので、ブレイクする前に、
こないだの全員集合、志村が答えに詰まっちゃって変な曲歌い出しちゃってさぁ〜、とクラス換え前の級友と話題にして、まもなく春休みに入り、
5月ごろになるとアレンジが派手になってブレイクし、まねしたりしたのは、新しい教室、友達との間であったことで、時期ははっきり覚えている。
初出の時の冒頭の劇は確か、教室コントで、
志村がやる「アイミーマー、ユーヤーユー」というデタラメ格変化が流行っていた。 「霊感、ヤマカン、第六感」をオカルト番組だと思って、決してチャンネルを合わせなかった。 志村が新メンバーになった当時、自分は7歳。
正直言って、すわ親治が加入すると思い込んでたので「…誰こいつ?」と思った。 >>494
同じく当時7歳くらい。
荒井注が抜けるのに同情し
当時、鉛筆1ダース買うともらえた首チョンパを、荒井注にしてしまった。
加藤茶にしとけばよかった。と、しばらく後悔した。 ドリフの学校コントでは、
国語の朗読のシチュエーションで、
パン屋の青年の話で、
うん、こうしよう。
おいしいパン、作ったね
が忘れられない。 保存の都合からか、伝説の番組とかで、全員集合の名場面集が放送されたりするのは、
ひげダンス、早口言葉、最初はグー、カラスの勝手、宮崎美子、私って駄目な女ねなど、
志村が加わってからのがほとんど。
もう中学生だったので、小学生の頃のようにはハマれなかった。
荒井注がいた初期のころの全員集合ではどんなギャグがあったけ?
ちょっとだけよ、ディズイズアペン、どうもスンずれいたしました、
もっとあったはずだけど、思い出せない。 見習い 志村けん の時代だが
後半コント、志村が1人でパントマイムみたいのをするが全然受けず
会場がシーン となっているのを覚えている。 >>493
OPといい、ジョーカー坊やといい、一見オカルトっぽい所がありましたねぇ。 自分の記憶では、志村けんは即人気者になって加藤茶を食ってしまったと記憶してるんだが。Wikipediaなどでは志村は最初の頃、全く受けなかったみたいに書かれているな。 「見習い」の頃は「こんな奴なら入れなくていいよ」と思っていた(当時8歳) >>501
>>494だが、二年くらい滑りまくってた記憶がある。
「東村山音頭」でやっとブレイクしたかな? 俺は、無茶苦茶ウケ巻くってた記憶しかない。75年の春にドリフを見せてくれなくなったから、その後は知らん。 志村の前?に見習いですわしんじがいたよね
なんかいつの間にかいなくなった記憶しかない
そもそもドリフってバンドだったんだよね
全員集合見てる限りでは全くその認識なかった >>464
某スポーツ新聞のウルトラマン特集号で、ウルトラバッチを使って変身ポーズを決めてたぞ。 すわしんじは「どーなっての」のドラマによく出演していた。 荒井注、すわしんじ、志村けんの登場、降板時期の記憶があやふやなんだが…。
すわしんじといえば、ブルースリーのまねで、地声のセリフをほとんど発しない芸。
出演時期は、注や志村とかぶってたっけ?
荒井注は、もともと他のメンバーが演じる若者とはギャップのあるオヤジ的行動で笑いをとる芸風だったけど、
全員集合降板近くになると、ノリや体力が他のメンバーと合わなくなったから、
ふてくされ気味に、なんだこの野郎やティスイズアペンで、逆キレやコントの腰を折るギャグが多くなってきた。
志村けんも1年くらい他のメンバーのコントと波長が合わず、笑いが取れなかったけれど、
観衆も新入りの志村に対し、「そう簡単には認めない(笑わない)ゾ!」
という厳しい雰囲気を感じた。
劇中でも孤立する役にされ、奇声の「怒っちゃやーよ」で、観客に振り向いてもらい、注目を集め出した記憶がある。。 「全員集合」が半年間休業したことがあって、
「おやすみさせていただきます」的な挨拶があったので、
あぁ、あんなに大変な番組を毎週やるのは大変なんだな、
ネタが尽きてきたから新しい劇やコントを考える休養・充電期間をとるんだと思っていた。
が、またあいましょう、と言ってそのまま終わって復活しない番組の常套句でもあったので、それかもしれないとも思った。
後番組のクレイジーキャッツは、全員集合と違ってあんまり動かないし、
散々引っ掻き回して、こりゃまたどうも失礼しましたの一言で終わりにしてしまうとか、
本当に消化試合的な面白くない番組で、全員集合が本当に一時休養で、再開すればいいのにと願っていた。
クレイジーお得意の音楽ギャグも、名曲のパロディや楽典や奏法に基づいたギャグがあった鴨田が、俺に音楽的素養がないためか、楽器の扱いを知らない小さい子がめちゃくちゃに叩いたり吹いたりして興じている。
(習っている子の家のピアノをおもちゃにするような)冒涜感を感じていた。 >>510
>>482の話じゃないのか?
休んでねえ ドリフもそうだけど昔はプロレスも生だったんだよな
だからハプニングでチンポや金玉が映ることもあった。 >>512
インターネットや録画機器がなかった時代でよかったですねえ… >>480
ほりげんタイツがひどかった。
うなずきトリオ(漫才の売れないほうの三人組)には入ってなかったのかな
サンマのアミダババア、ブラックデビル(二世)は面白かった。
でも水風船を投げまくるのはわけわからんかった タモリは埼玉と名古屋をディスりまくり昼間から下ネタ連発しまくっていた
今の優しいおじいちゃん司会者ぶりが信じられない 東野英次郎も、昔の映画を見たらクソジジイ役ばっかりで吃驚した。 >>515
もっとギラギラしてたよな。ちょっと雰囲気が恐かったし
所さんもタケシも丸くなりすぎ 所は取っ付きにくい感じが丸出しだった
でも、ドバドバは見てた >>519
ベストテンとかでもタモリの真似して「タモソ」で出てたのって所さんだったっけ? >>480
そういやタケチャンマンの「ナハ!ナハ!」って
せんだみつおのパクリなんだよな 笑っていいともの初期の頃は、タモリは「俺は主婦は大嫌いなんだよ!笑いなんか全然わかってない!」と放送でも言いきっていたな。
生放送中でも、変なタイミングで笑う奴がいたら、マジで怒って「そこ笑うところと違うから!」とぎらぎらしていた。
今はあまりもまんまるになりすぎ。 >>522
それは笑いのタイミングがおかしい馬鹿なADに怒ったんじゃないかな?
生放送って笑いが少ないとADが「ここで笑って」って観客に指示だすから タモリは山口百恵妊娠のときに「最低1回はヤッたんですね」と
昼間から言ってたっけ >>510
後年の欽ちゃんバンドで音楽コント?をしていたが
音楽を冒とくしている。って感じたなあ 昭和の時代には、プレステもDSもなかったんですよね?
ファミコンが昭和58年、つまり昭和の終わりごろ
そういったテレビゲームの無い時代には、小中学生は何をして遊んでたんですか? >>527
ファミコンが出る前にゲームウォッチが流行った
持ってる子は10個とか持ってたなあ
低学年の頃はファミコンなんて持ってる家は少なくて、家よりも外で走り回ってた >>527
ファミコン(1983)の手前にゲーム&ウォッチ(通称ゲームウォッチ)というのがあってな
言われてみれば携帯ゲーム機の方が先(1980)だったんだよな
それ以前に何してたかと言うと、ボール遊びとかゴム跳びとか縄跳びとか鉄棒とかブランコとか
今は公園から無くなってしまった遊具なんかで遊んでたんじゃないか?
室内ならオセロとか人生ゲームとかトランプとか花札とかコマとか剣玉とか? 釘打ち
ビー玉
メンコ、べったん
コマ、凧揚げ
石けり、缶蹴り
三角ベース、単なるバットの素振り
缶の蓋の飛ばしあい、灯油缶の蓋集め
手製ダーツ、手製飛行機作り、割りばしと輪ゴムで作る戦車
トランプ、花札、将棋、人生ゲーム
虫獲り、魚獲り
川や雑木林での無慈悲な昆虫、爬虫類への虐待
神社でのかくれんぼ
団地屋上からの投石、放尿
自転車を意味なくひっくり返して水たまりに浸け水車
土を団子にして湿った地中に埋め、後日取り出してその硬さを競う
近所の子と日暮れまで水の掛け合い
むき出しの土手で石や釘を線路に置いてつぶす >>530
他はわかるんですけど、釘打ちって何ですか? >>527
ビー玉やメンコでは遊ばなかったな。
遊んでもいいけど、終わったら元の持ち主に返しなさい。って言われてた。
メンコは遊び道具というより収集物って感じだった。
あとは野球だな
軟式とかじゃなくてゴムボール
空き地とボールがあればそれだけで野球ができ遊んでいた。 >>531
そうそう、釘を刀にしたり10円玉を伸ばしたりしてた訳がない ビールとかの王冠をぺちゃんこにして遊んだりして無いよな 捨てられているテレビから
真空管を取り出して放り投げて割って遊んだな
割れる時に独特の面白い音がしたのが記憶にある >>527
スーパーカー消しゴムをボールペンの後ろで弾いてレース
ヨーヨー
ルービックキューブ
ガンプラ
ゲームウォッチ
昭和の終わり頃が、ファミコンのドラクエ3
西部警察ごっこ
ボードゲーム
夏は虫取り競争 釘を線路に置いて潰すってのは両さんもやってなかったっけ 皆様、ゲームウォッチの前のポータブルコンピューターゲームであるLSIゲームや、タカトクのアナログ
ゲームシリーズ(沈没ゲーム、生き残りゲーム)をお忘れですかね。
アスレチックゲームにポケットメイトにあそべっち。
ゲームなんて腐るほどあったし、自分で作ったコリントゲームや超大作双六も楽しかった。
「踊る大捜査線」の斉藤暁氏は、子供向け番組に出てた時、ポケッタブルという携帯ボードゲームを
幾種類も撮影現場に持ち込んで、待ち時間に子役達のお相手をなさってたそうだ。 ファミコンが最初のテレビゲーム機じゃなくて、何種類かあったな。大半はプリセットしてあるゲームが数種類だけできるやつで、カセット差し替えればなんでもできるファミコンは画期的だった。 コンピューターオセロなんてのもあったな
選択ボタンが縦横で8個ずつあるやつ 屋外なら
刈り終った田んぼで野球、川遊び、缶けり
冬はそりとか小学生になってからはミニスキーだったけど
近所の小学あがる前の幼児だけで
そこらじゅう出かけて遊んでたな
ほんと今じゃ考えられない 女なのに何でスーパーカーカードを沢山集めたのか思い出せない。ランボルギーニカウンタック 家庭用ゲーム機が定着(昭和の終わり)する前は、雨でもないのに家の中で遊んでいたら、外で遊べって親に叩き出されたもんだ。 >>543
当時はスーパーカーのクイズ番組もあるぐらいのブームだったからな
ブームではないが男だけど花の子ルンルンは見てたぞ
あんまり性差はないんじゃないか ゴミ箱の蓋投げが、一瞬ブームだった。
空き地で、セサミストリートのオスカーが入ってるようなゴミ箱の蓋を、フリスビーみたいに投げる。
よそんちのゴミ箱の蓋な。 >>546
ワープロが一般的に出回る前はほぼ全て手書きだ
和文タイプなんていう代物があったようだけど、そんな悠長なもの使ってられるか 砂場の前にトラックのタイヤを置いてロイター板がわりに使って助走付けて宙返りして皆で遊んだ。 近所の若い母親たちが子供遊ばせながらしゃべってるのが
聞こえてきたんだが、曰く、彼女らが子供の頃は
カブト虫なんてそこら辺にいるもんだったのに
今はイオンやコーナンで売ってるとか何とか。
昭和でもカブト虫はデパートで売ってたよ。
俺が小学生だった頃、1970年代だけど何故かカブト虫
捕まえてデパートに持っていけば買ってもらえると
思い込んで小遣い稼ぎに山にカブト虫の幼虫探しに
行ったもんだ。
多分高度経済成長期から1970年代前半って公害とか
里山の破壊が一番進んだ時代だと思う。
むしろその後の時代のほうが、環境改善、自然保護が
進む一方、植林放置もあって虫とか小動物が増えたんじゃ
ないのか。昭和の頃にクマに襲われたなんてニュース
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