昭和の暮らしを懐かしむスレ・25丁目©2ch.net
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戦前の主婦や女学生の雑誌なんか見ると、型紙やら縫い方やらが載ってんだよね。
洋裁店に行く人もいたけど、ご近所のおばちゃんや女学生のお姉さんに頼んで、買った生地を縫ったり
持ってる服をリフォームしたりもよくあったみたい。
原爆で死んだ女学生達の遺影を見ると、バケットハットのつばを跳ね上げて造花をあしらった帽子を
かぶってる子が結構いるんだけど、これは、中原淳一がデザインして、少女の友という雑誌に型紙と
縫い方を公開した、パンジーという帽子でした。
着てるワンピースのデザインも、中原淳一が描いたスタイルブックで見たことがあるデザインが多かった。
相当流行ってたんだなあ。 >中原淳一が描いたスタイルブック
最近買った女學生手帖という本に載ってました
他にはビーズ小物や人形の作り方等々、今見ても可愛いものばかり
当時の女の子たちが流行に乗り遅れまいと作る姿が目に浮かびます
うちの母はなかよしや少女クラブを愛読していて高橋真琴のファンだったらしいです
当時の付録は今とは違って上品で夢があった!と鼻息を荒くしていましたw >>879
中央が高橋氏で、左はモンキーパンチ氏。(5日前)
www.asahi.com/articles/ASL4H3F5TL4HUDCB002.html 高橋先生には個展等で何回かお会いしたこともありますが、肉筆画は100万円以上するので買えまへん。 なんかおかしいと思ったら、高橋葉介と混同していた。
「真琴・グッドバイ」という作品があるせいだな、うん。 >>879
パンジーという帽子は、「女学生服装手帖」(少女の友連載)に載ってましたね。
遺影で見ると、様々な色の布で作られたとおぼしきパンジー帽が。
造花の数や大きさも個性豊かで。
かぶってた子は勿論、作ったお姉様も原爆で死んだのかと考えると切なかった。
女学生のお姉様は、流行の最先端をご近所に伝えると共に、学校で教わったハイカラな西洋料理も教えて下さったとか。
>>880
モンキーパンチ氏は、最初は兄弟ふたりの合同作家だったんだそうで。 プロの画廊での個展を、そうとは知らずに公民館や美術館とかの展示と同じ、鑑賞目的でいってしまったら、見込み客だと思われて、モチーフとか一対一で説明してもらったんよ。先生ごめんなさい。 >>878
私が10代の時ですら型紙とか簡単ワンピースとか載ってたしw
それでシャツとかワンピース作ってたw
裁縫雑誌ではないけど、あれなんだっけ?母がたまに買ってたやつで
成人女性全般向けみたいな感じだった。
祖母なんかがお金のために夜に縫ってたのは羽織とかみたい。
今やそんなの普段着にしている人はほぼいないね。
綿も昔は貴重で半纏もなかなか着られなくて寒かっただろうなあ。 >>885
主婦の友や婦人画報とかいった本でしょうかね。
女学校や洋裁学校に通ってたら、ああいう本の縮尺型紙を自分のサイズに起こすことも出来るんですよね。 型紙が載ってる雑誌というと装苑とドレメが二大勢力で
洋裁する人はどちらかの雑誌に載ってる基本パターンを自分用にアレンジした原型作る人が多かった。
私は専門の勉強したわけじゃないけど洋裁好きで中学時代から装苑式で自分用の原型作ってた。
雑誌にはいろんなデザインの服の型紙が載るんだけど、そこには基本形の線も一緒に書かれてて
自分に合うサイズにアレンジしやすくなってたんだよね。
平成に入ってからだけど、装苑が型紙掲載をやめるというニュースはけっこうショックだった。 携帯が普及するまでは、彼女とか友達とかの家電の番号はみんな覚えてたのに、今では嫁の携番どころか、
自分の秘密の携番すら覚えてない。
かろうじて自分の家電は覚えてる。
キャッシュカード以外のパスワードなんか何一つ覚えてない。
津波で全部流された人は大変だったろうなあ。 自分、配偶者、家の電話だけは覚えている。
でも最近は友達と会おうよって話に電話使わないんだよね。
メールだけで待ちあわせとか行く場所とか決まるし。
スマホの人ならラインとか。 西瓜やトマトには塩をかけていた。甘さが足りなかったからかな。
キュウリもそうだったな。味噌をつけるとモロキュウ、酒のつまみになるから子供向きではなかった。 個人的主観だから他のみんなと違うかも
スイカは昭和の頃でも十分甘くて旨いと感じていたが、それをさらに美味にするため塩を
トマトはそのままじゃ渋くて食えた代物じゃないから、それを誤魔化すために塩を
俺はこんな感じだった
今は品種改良と物流網が進歩したから甘くて美味しいトマトも普通に店頭に並ぶようになったな 味噌と言えば胡瓜より茄子、茄子よりホタルイカと豆腐
朝っぱらから辛子味噌でグイーっと逝きながら
寄席と言えば駅近ミュージック
末期なら「前座のマドンナ」「トリのホイットニー」が定番
偶におフランス退廃ミュージックのセルフ亀甲職人
途中コント落語吹き矢でお笑い、その後に観客参加の尺八演奏
でパチンコメドレーで大団円 キュウリに味噌つけて丸かじりがオヤツ。
トマトに塩振って丸ごと食べるのもオヤツだった。
子供向きじゃないって?
もろきゅうなんて大人になるまで知らなかったしなあ。
トマトは普通においしかったと思うけどなあ。
今の品種改良が進み過ぎて甘くておかずにならないトマトよりもずっといい。
品種改良で野菜の甘さばかり強調してなんか気持ち悪いよ。 今のナポリタンと昔のナポリタンの味の違いはそこかな?
まあ、補正も入ってるんだろうけど。 ナポリタンはケチャップだしあんなもんでしょ
加熱用のトマトは今でも酸味強いし 子供の頃は、塩鮭も塩鯖もたくあんも滅茶苦茶塩辛かった。
生鮭のムニエルが食べられる日が来るなんて思わなかった。 >>898
あの頃の塩って、塩化ナトリウム99%のただ辛いだけのが主流だったからな
スポーツドリンクが広く知られる以前は「大汗をかいたら塩をなめればいい」という先人の知恵を見るにつけ、
あんなもん舐めても余計に辛いだけだろと思ってたw
ところがあんな塩辛いだけのゲテモノと忌み嫌っていたものでも、時々食いたくなるから不思議だ
強烈に辛い塩漬けの魚をお茶漬けにして食うと意外といけるんだわこれが あ、↑の三行目は、
「あんなもん舐めても余計に辛い(つらい)だけだろと思ってたw」ね >>902
あの牛乳コップは、実際はフェイク(ほんの一口分しか入ってないのに一杯入ってるように見える)なので
一般家庭で真似したらそりゃ吐くよ。
志村けんのスイカコントも、見えない方の果肉を薄くそいであるらしい。 ドリフの牛乳は、コップの内側に空間があって、隙間のわずかな部分にしか牛乳が入ってなかった。
スイカは薄ーく切ってあって、横から見るとバレるので正面からしか映さなかった。
それを知らんで真似して悲惨な目にあった奴が何人いたことか。 こういうことだよな 牛乳の液面
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■=ガラス(またはアクリル) >>905
底面はなし 側面だけに牛乳が入る
なのでグラスを傾けると空洞なのが丸わかり >>899
今の粗塩だって塩化ナトリウム含量はたいして変わらないよ。
目の前にある「ヒマラヤ採掘法岩塩ピンクロックソルト(パキスタン製)」の食塩相当量は100gあたり98.28gだ。 今日、でっかい洗剤下げて買い物してる人を見た
まだ売ってたんだなw >>898
冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香だね。
親なんかはリアルで冷蔵庫無しで育ったから、昔はもっとしょっぱかったし
甘いものはものすごく甘かったと言ってた。
魚も甘いものもそうそう食べられなかったしな。 > 冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香
そこから発展して
長野県は冬季五輪開催に伴ってインフラが整備され、今では都内から普通に日帰り観光も可能となったが、
交通網が発達する以前は「最も遠い県庁所在地」などと揶揄されていた
その長野で独自の食文化が育まれたのは自然の摂理と言えよう
塩漬けでいかに保存性を高めるかは言わずもがな、タンパク質を追い求めて昆虫に手を出したり、
果ては食ってはいけないとされる毒キノコですら毒抜きして食ってみたり
今でも長野には良い意味で食のガラパゴスが残されている
俺も何度か足を運んだことがあるが、ほんっと衝撃だったわw 美空ひばり
世代が離れすぎていたのでリアルタイムのファンというわけではないが、
「川の流れのように」は当時のガキの俺が聞いても名曲だと思ったし、
時代が平成に変わったタイミングで最高の有終の美を飾ったなという印象
中森明菜
体調を崩しテレビからはすっかり遠のいているが、現在はディナーショーをメインに活躍中
大規模なコンサートよりもファンとの距離を大事にする小規模なライブに力を入れているようだ
あの美声は健在で、かつての少年少女ファンを今も魅了する
特にライブ後半に披露した「80年代ヒットシングルメドレー」は大盛況だったとか
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美空ひばり享年52歳
中森明菜現在52歳
( Д ) 佐藤允や平田昭彦や中丸忠雄といった男優達も、平成生まれのうら若きお嬢さんの心を魅了する。
高倉健や菅原文太も、平成生まれの女性ファンがいる。
石原裕次郎が好きな平成生まれの女性は見たことがない。 時代の差
ひばりの頃は色んなものが変わり過ぎる位だっただろうし
明菜の頃は変わった後だし 82年組アイドルの爆発力はすごかったがその先駆として81年10月に「せんちめんたるじゃーはーにぃー♪」とデビューしたあの子の衝撃度は忘れられない 平成元年だけど伊代ちゃんがアイドルてんこもりの歌番組で
いきなり「悲しくてやりきれない」歌いだした時はびっくりした。意外によかった。
この曲をシングルで出すとかすごいスタッフだと思ったなぁ。 派手な企画力
ツッパリイメージ
芋ロリータ
奇妙な声
バイリンガル
太もも
81〜82年のアイドルで売れてる娘は何か特長が際立ってた バイリンガルと言えば早見優を思い出すが、初年度は売れずに苦労したんだよね
このまま埋もれるのかなと思った矢先、「夏色のナンシー」が驚異的なヒットを飛ばして遅咲き開花
その後大御所というほどではないものの、82年組の一角を担うポジションに
それにしても「夏色のナンシー」は名曲だよなあ
永遠のスタンダードといっても過言ではない 中森明菜もスローモーションは今ひとつだったけど、少女Aが大ヒットとなった
まぁ芸能界華やかな時代だったな 早見優のニックネームはキャシーなのになんでと思ってた >>929
本人が「キャシーに変えてもいいですか」って提案して「メロディに合わない」って却下されたんだって。 羽田空港で中華航空のトライデントを見たことがある。 >>907
ドリフの大爆笑のバカ兄弟というコントで長さんが仲本工事と共にボケを演じていた 伊右衛門のCMに3人出てるけど、
歳とって皆、似たような顔になっちゃったな >>898
>>899
昔のかっぱえびせんもむちゃくちゃ塩辛かった記憶
かっぱえびせん好きの友達の口のまわりが赤くなっていた 昔の食べ物がムチャクチャしょっぱかったってのは、
食べてた自分の、お口がお子ちゃまっだったってのも、
ある程度あるのかもしれん 桑田靖子は確かに微妙
でも歌うまいし、足キレイだったしなぁ >>937
それはないと思う。
物心ついた時から塩醤油大好きだったしw
今みたいにおこちゃまな食べ物もあまりなかった。
おこちゃまだってみんな親がほぐした焼き魚とか煮物、おひたし毎日
食べてた。 …魚系の塩物なんか、物によっては塩噴いてるレベルで辛かったよね。 作曲・編曲家の東海林修さん死去 85歳
https://www.asahi.com/articles/ASL575FMLL57UCVL01R.html
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180507003392_comm.jpg
「可愛いベイビー」「危険なふたり」など
歌謡曲から吹奏楽、アニメ音楽まで幅広く手がけた作曲・編曲家
テレビ番組でも活躍し、「シャボン玉ホリデー」の音楽や、「笑点」の
テーマの編曲も手がけた。作曲でも「愛の肖像」(野口五郎)などがある。 >>942
吹奏楽部だった俺にとっては「ディスコ・キッド」の人だなあ。
発表から40年を経た今でも人気の曲だよ。
知ってるやつは哀悼の意を込めて力いっぱい叫べ。
ディスコ! >>935
川に流れてゆく仮面ライダースナック・・
あれマズかったよなあ
食べずに捨てる奴(カード目当てで)多数で社会問題に >>944
あの頃のカルビーは、田舎のローカル菓子メーカー。
創業者は明治生まれ。
その時代の田舎の大人の脳みそでは、「子供が美味しいと思う味=甘味」だったんだろうね。
子供も塩味のスナックが美味しいと感じるなんて思っても見なかったと思う。
でも、あの仮面ライダースナックの大成功がなければ、今でも量販店とかで細々売られるローカルメーカーでしかなかったと思うよ。
当時の小遣い3日分もする高価なお菓子が捨てられてるのを見て、「一体何があったんだろう?」と思ってた当時の幼稚園児より。 >>945
当時20〜40代(昭和一桁〜20年代生まれ)と思われる企画、開発スタッフもこどもの頃の戦中から戦後に、甘いものに飢えていた世代でもある。
今から考えるとジュースもなにもみんな味が濃く、甘かった。(バャリースなど) >>920
往年のひばりファンからすると、川の流れのようにや愛燦々はイマイチ。
やっぱり、花笠道中や真っ赤な太陽、悲しい酒や人生一路がひばりらしいんだよね。 あのあたりは「べつにお嬢が歌わなくてもいいじゃん」って歌ではあるな。
それでも自分の世界に引っ張り込んでいるのはさすがだが。 まあ、さすが秋元康はそのへんきっちり計算して押さえてくるよな()
別に川の流れが悪いわけじゃないけど
あの秋元作詞の歌がひばりの代表曲のように言われるのはめちゃめちゃ違和感ある >>945
同時期にバーベQ味出てたのになぜそれを採用しなかったのか
あれなら捨てる子供はいなかったろうに・・・
コストが合わなかったのかな >>950
あの歌詞で
そろそろ逝きそうな感じがあった >>954
しつこいけど、明治生まれの田舎の人の、子供が美味しいと思う味覚=甘味という固定概念が原因。
あの味は覚えてるけど、鯛あられと呼ばれてる鯛型の飴を絡めた揚げスナック菓子の甘味を薄くした感じだった。
お小遣いの問題で一年に一度食べられるか否かの幼稚園児にとってはまずくはない味だったけど、メーカーも
時代が大量消費の飽食へと移り変わってたり、子供も塩味スナックを美味だと感じたりという時代の変化には追いつけ
なかったろうし…
まさか、飽きて食べずに捨てる子がいるというレベルで売れるということも、田舎のローカル菓子メーカーには想定でき
なかったのだろうと思った。 当時は情報面でも交通面でも、東京と広島の距離は遠すぎた。
東京と広島の子供の価値観や親の躾、消費スピードの違いも完全に読み違えてたと思う。 >>945
ライダーカードとアルバム
今でも大切に持っています >>958
とびっきりのキャスターさんですね…
地元民です、よく見てました。
若い時、めちゃくちゃかっこいい
ご冥福をお祈りします。 >>954
バーベキュー味はライダースナックが廃盤になった後だと思う Nintendo64って昭和かな?
ソフトいっぱいでてCDも使えたらよかったのにね 歌手として大人気だったが
ドラマの寺内貫太郎一家も好きだった >>971
樹木希林が沢田研二のポスターを
見てジュリーと絶叫
山口百恵と沢田研二は人気があったからな。 DAVID BOWIEと Cyndi Lauper のLPは聞いてた。 …どーでもいいことだが、テレビジョッキーに出場して、口に含んだ牛乳を目から出したり、ミミズを蕎麦のように食ったり
ゴキブリを食ったりして白いギターをもらってた若者達って、今50代半ばから60くらいだよね。
還暦前後のおばちゃんでもきんどーちゃんを知ってるし。
もうそういうバカ野郎が還暦前後なんだなあ。 ごめん、ちょっと、いや、かなり論点ずれるけど
あの頃ってTVジョッキーに象徴されるように青少年はギター弾けて当たり前
または今は弾けなくともいずれできるようになるぐらいの大前提だったよな
俺は世代も違うしそもそもギターに全く興味無かったんだけど、
ゴキブリやミミズ食ってTVに出た世代にとってギターとはバイブルのような存在だったわけ? レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。