昭和の暮らしを懐かしむスレ・25丁目©2ch.net
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
社歌を歌うとか曲がかかるってのは古い大企業ならみんな同じなのかな
東芝、松下、NEC、IHIには仕事で行ってたけど、東芝と松下は昼や定時に放送されてた
NECやIHIの社歌って知らんからかかってても気がつかなかっただけかもしれん ふと思い出したこと
昭和の週刊・月刊マンガってジャンルや作者問わずほとんど全てのページのコマ割りにおいて、上下と横(右側のページなら右側)に余白があった
その余白に印刷された2行程度のちょっとしたネタを読むのが密かな楽しみだった
ある週刊マンガは編集部が決めた今週のテーマ(例:オカルト)が余白を埋めていた
また別のマンガでは読者の面白記事が投稿されるスペースとなっていて、週間MVPにはちょっとした賞金が出ていたと記憶
いずれも今のツィッターより短いたった数行のテキストだけど、それが数百ページともなると結構なボリュームになるんだよな
昭和末期から平成にかけて印刷技術が向上して印刷のズレがなくなったのか、作者の自己顕示欲なのかマンガの表現方法向上のためなのか、
何に起因するのかようわからんけど、それまで普通にあった余白がなくなってしまった
完全になくなったわけではなく、例えば右側のページなら従来であれば右側に縦一直線にあった余白が、
たったヒトコマが右側に目いっぱいはみ出たせいで余白テキストを重ねられなくなってしまった
なんのマンガか失念したがある時買ったマンガは数百ページ中、余白ネタがヒトケタしかないということもあった
あとページ下側に余白がないとページを入れられなくなる
巻末の目次を見てそのページに飛ぼうとパラパラめくる場合、従来はパラパラマンガのようにページがカウントアップしていたのに、
同様にほとんどページ数が省略されてしまったら目的の場所に飛ぶのも大変だった はみだしゆ〜とぴあね
一発ギャグとか募集とかいろいろあったなぁ 現在では読者コーナーそのものを廃した雑誌も少なくない。
あの、読者コーナーでトーナメントをする方式を考えたの、さくまあきらだと思ってたけど、戦前にあった「少女の友」
って雑誌が最初だったのね。
その雑誌では、編集者が「この人はもう十分実力がついた」と判断したら卒業と言われてトーナメントに参加する
資格を失う代わりに、グリーンルームという、優勝者だけでマターリと自分の得意分野を投稿するページへの投稿を
許されてた。
(さくまあきらは、優勝資格を点数で加算する方式にした)
そののちも文芸界で活躍してる人の中には、ここでのハガキ職人だった方もいるとか。 読者コーナーといえば文通相手募集というのがあったなあ
投稿者の住所がそのまま載せてあって希望者は直接手紙を送る あの余白ネタや読者投稿ページってまさに今のツィッターに通ずるものがあったよな
サブカルチャーと言っても過言ではなかった モーニングの柱と床下が好きだった。
送って採用されたこともあったっけ。
読者コーナーも、柱も床下も今はない。 >>843
友達が募集したらお約束通り不幸の手紙が来たw
話変わっちゃうけど、今は飲食店がチェーン店ばっかなのが寂しい
客席を綺麗な海水魚の水槽でずらっと仕切ってあった地元のレストランが懐かしい
もちろんリースだろうけど本当に綺麗に管理されていて水もガラスもピッカピカ
バブルっぽいバーにも水槽はあるけどそういうのとは全然違う
ウェイターは髪もピシッとセットしてあって、落ち着いたレストランだった
綺麗な魚たちを眺めながらサンドイッチを食べるのが大好きで親によく連れて行ってもらったな
今思うと昭和40年代で田舎にそんなお店があるのは珍しかったと思う
都会にはまだそういう店は残っているのかな?
長文&説明が下手でゴメン 家の近所の床屋がついに閉店しちゃったよ
昔ながらの床屋で主人ももうお爺さんだったからなぁ >>836
日立金属に勤めてる友人は、新婚旅行の時に、あの木をわざわざ見に行ってたなあ。
べつに義務付けられてるわけじゃないけどw あの木何の木のロケ地はハワイと北海道とあとどこだっけ? >>843
戦前じゃないけど、そういう少女雑誌の編集者には万年芥川賞候補みたいな文学青年崩れが多くて、多少文才のある田舎少女を上京させて食うのに血道を上げていた。
その筆頭が川上宗薫と水上勉。 >>854
そんな洒落たところじゃありませんw
かつては田舎なりに賑わってた街ですが、イオンができてあっという間に廃れてしまいました >>847
アクアリストの俺から言わせて貰うと
海水魚の水槽は淡水魚の水槽よりも手間暇がかかる
塩垂れと言って、塩分が水槽を汚すし、海草や水草の管理も大変で
見た目綺麗な水槽を維持するには、小さな水槽でも実は、
新車が一台買えるくらいの値段がかかってる事も珍しくない
そう考えると、大きな水槽だったり沢山あったりすると
自前水槽でもレンタル水槽でも莫大な金額がかかってると考えていい
バブル時代ならともかく最近は店内に綺麗な水槽を備えてる所は少ないんじゃないかな >>857
>>847です
実は昔ほんの少しだけ海水魚飼育を試みたことがあるのですが
維持費も難しさも半端なかったです(ノД`;)
今思うと平成まで続いたあのお店はやっぱり奇跡だったのかもしれません
仮に同じような店が今できたとしてもあの雰囲気は
若い子にはウケないかもしれませんねー 魚で思い出したが、学校の前でヤドカリやミドリガメを売ってる業者がたまに現れた
一度だけヤドカリを飼ったことが事があるが、水槽を外に出しておいたら逃げ出して行方不明になった ミドリガメ流行ったとき親にねだったけどダメだった
ナントカ菌がいるからよくないってってちょっと話題になったような
ヤドカリは飼いたかったけど売ってる店がなくて諦めた 今落語ブームらしいけど、昔は各町内に寄席があって今と比較できないくらい身近な娯楽だった。名人円朝なんかもよく寄席で見たもんだよ。 >>861
「めぞん一刻」(まんが)で
2人の掛け合いが「寄席より面白い」と言うシーンがあるが
当時、寄席と言う言葉が分からなかった。 中学生の頃だったかな?
田舎者には落語は遠い存在だったなぁ
笑点とNHKでたまに放送くらいしかなかったよ >>844
それで文通したことあるw
同年齢の人がちょうど趣味友募集してるのみて手紙出した。
ヤドカリは今ペット屋(熱帯魚屋)でペットとして売ってるね。
ちゃんとヤドカリフードとかも一緒に。 >>862
東京、大阪、京都みたいな栄えてた都市だけだよ。
豆腐屋みたいに全国津々浦々にあった訳じゃないよ。 ↑
昔を懐かしむハゲ
常に三年後を見据えたハゲ
↓ 日本のお母さんは
京塚昌子、山岡久乃、森光子に大きく分類されると思う
うちは山岡久乃だった ウチは京塚昌子
あの頃は母になると普段はお洒落とかしてなかったよな >>872
さてはおまえ母親の下着で抜いたりしたな >>870
ある意味今よりおしゃれだと思う。
スカート履いてブラウス着てサロンエプロンwとかして家事全般してたし。
ジャージとかスエットとかトレーナーなかったから。
夏はワンピース。着る物他にないのよと母が言ってたけどその通り。
だから女性らしい所作もしっかり身につけないといけなかった面もある。
年配の人は普段着も着物で家事してたし。 うちの祖母も着物で過ごしていたなー母は洋服だけど今程ラフではなかった
母が10代の頃は既製品が少なかったから、オーダーメイドの話をよく聞かせてくれた
私は一時レトロな古着にはまったけど、大抵がオーダーメイドでウエストが細くて入らなかったw
今とは違うオシャレなものが沢山あったけど泣く泣く諦めたことが多かったな〜 >>875
祖母の形見でもらった服、全部オーダーなんだけどどれも生地の質や仕立てがよくて驚くよ
もう仕立ててから60年くらいたつものだけど破れや穴、虫食いすらない
仕立てもだけど保管も丁寧だったんだろうな
シンプルだけど上品なデザインで自分でもよく着るんだけど
いつも扱い悪くて傷めないかビクビクしながら着てるw 母が洋裁習いに行って何かと作っていたうちとはレベルが違い過ぎw
祖母も昼は畑夜は裁縫で子供を食わせてきた人だからオーダーの服なんかないと思うし
見たこともないな。
昔はスーツなんかとても最初は買えないから、親族などから譲ってもらってたとかは
聞いたことがある。
スーツ着る仕事の人がまだあまりいなかったから。 戦前の主婦や女学生の雑誌なんか見ると、型紙やら縫い方やらが載ってんだよね。
洋裁店に行く人もいたけど、ご近所のおばちゃんや女学生のお姉さんに頼んで、買った生地を縫ったり
持ってる服をリフォームしたりもよくあったみたい。
原爆で死んだ女学生達の遺影を見ると、バケットハットのつばを跳ね上げて造花をあしらった帽子を
かぶってる子が結構いるんだけど、これは、中原淳一がデザインして、少女の友という雑誌に型紙と
縫い方を公開した、パンジーという帽子でした。
着てるワンピースのデザインも、中原淳一が描いたスタイルブックで見たことがあるデザインが多かった。
相当流行ってたんだなあ。 >中原淳一が描いたスタイルブック
最近買った女學生手帖という本に載ってました
他にはビーズ小物や人形の作り方等々、今見ても可愛いものばかり
当時の女の子たちが流行に乗り遅れまいと作る姿が目に浮かびます
うちの母はなかよしや少女クラブを愛読していて高橋真琴のファンだったらしいです
当時の付録は今とは違って上品で夢があった!と鼻息を荒くしていましたw >>879
中央が高橋氏で、左はモンキーパンチ氏。(5日前)
www.asahi.com/articles/ASL4H3F5TL4HUDCB002.html 高橋先生には個展等で何回かお会いしたこともありますが、肉筆画は100万円以上するので買えまへん。 なんかおかしいと思ったら、高橋葉介と混同していた。
「真琴・グッドバイ」という作品があるせいだな、うん。 >>879
パンジーという帽子は、「女学生服装手帖」(少女の友連載)に載ってましたね。
遺影で見ると、様々な色の布で作られたとおぼしきパンジー帽が。
造花の数や大きさも個性豊かで。
かぶってた子は勿論、作ったお姉様も原爆で死んだのかと考えると切なかった。
女学生のお姉様は、流行の最先端をご近所に伝えると共に、学校で教わったハイカラな西洋料理も教えて下さったとか。
>>880
モンキーパンチ氏は、最初は兄弟ふたりの合同作家だったんだそうで。 プロの画廊での個展を、そうとは知らずに公民館や美術館とかの展示と同じ、鑑賞目的でいってしまったら、見込み客だと思われて、モチーフとか一対一で説明してもらったんよ。先生ごめんなさい。 >>878
私が10代の時ですら型紙とか簡単ワンピースとか載ってたしw
それでシャツとかワンピース作ってたw
裁縫雑誌ではないけど、あれなんだっけ?母がたまに買ってたやつで
成人女性全般向けみたいな感じだった。
祖母なんかがお金のために夜に縫ってたのは羽織とかみたい。
今やそんなの普段着にしている人はほぼいないね。
綿も昔は貴重で半纏もなかなか着られなくて寒かっただろうなあ。 >>885
主婦の友や婦人画報とかいった本でしょうかね。
女学校や洋裁学校に通ってたら、ああいう本の縮尺型紙を自分のサイズに起こすことも出来るんですよね。 型紙が載ってる雑誌というと装苑とドレメが二大勢力で
洋裁する人はどちらかの雑誌に載ってる基本パターンを自分用にアレンジした原型作る人が多かった。
私は専門の勉強したわけじゃないけど洋裁好きで中学時代から装苑式で自分用の原型作ってた。
雑誌にはいろんなデザインの服の型紙が載るんだけど、そこには基本形の線も一緒に書かれてて
自分に合うサイズにアレンジしやすくなってたんだよね。
平成に入ってからだけど、装苑が型紙掲載をやめるというニュースはけっこうショックだった。 携帯が普及するまでは、彼女とか友達とかの家電の番号はみんな覚えてたのに、今では嫁の携番どころか、
自分の秘密の携番すら覚えてない。
かろうじて自分の家電は覚えてる。
キャッシュカード以外のパスワードなんか何一つ覚えてない。
津波で全部流された人は大変だったろうなあ。 自分、配偶者、家の電話だけは覚えている。
でも最近は友達と会おうよって話に電話使わないんだよね。
メールだけで待ちあわせとか行く場所とか決まるし。
スマホの人ならラインとか。 西瓜やトマトには塩をかけていた。甘さが足りなかったからかな。
キュウリもそうだったな。味噌をつけるとモロキュウ、酒のつまみになるから子供向きではなかった。 個人的主観だから他のみんなと違うかも
スイカは昭和の頃でも十分甘くて旨いと感じていたが、それをさらに美味にするため塩を
トマトはそのままじゃ渋くて食えた代物じゃないから、それを誤魔化すために塩を
俺はこんな感じだった
今は品種改良と物流網が進歩したから甘くて美味しいトマトも普通に店頭に並ぶようになったな 味噌と言えば胡瓜より茄子、茄子よりホタルイカと豆腐
朝っぱらから辛子味噌でグイーっと逝きながら
寄席と言えば駅近ミュージック
末期なら「前座のマドンナ」「トリのホイットニー」が定番
偶におフランス退廃ミュージックのセルフ亀甲職人
途中コント落語吹き矢でお笑い、その後に観客参加の尺八演奏
でパチンコメドレーで大団円 キュウリに味噌つけて丸かじりがオヤツ。
トマトに塩振って丸ごと食べるのもオヤツだった。
子供向きじゃないって?
もろきゅうなんて大人になるまで知らなかったしなあ。
トマトは普通においしかったと思うけどなあ。
今の品種改良が進み過ぎて甘くておかずにならないトマトよりもずっといい。
品種改良で野菜の甘さばかり強調してなんか気持ち悪いよ。 今のナポリタンと昔のナポリタンの味の違いはそこかな?
まあ、補正も入ってるんだろうけど。 ナポリタンはケチャップだしあんなもんでしょ
加熱用のトマトは今でも酸味強いし 子供の頃は、塩鮭も塩鯖もたくあんも滅茶苦茶塩辛かった。
生鮭のムニエルが食べられる日が来るなんて思わなかった。 >>898
あの頃の塩って、塩化ナトリウム99%のただ辛いだけのが主流だったからな
スポーツドリンクが広く知られる以前は「大汗をかいたら塩をなめればいい」という先人の知恵を見るにつけ、
あんなもん舐めても余計に辛いだけだろと思ってたw
ところがあんな塩辛いだけのゲテモノと忌み嫌っていたものでも、時々食いたくなるから不思議だ
強烈に辛い塩漬けの魚をお茶漬けにして食うと意外といけるんだわこれが あ、↑の三行目は、
「あんなもん舐めても余計に辛い(つらい)だけだろと思ってたw」ね >>902
あの牛乳コップは、実際はフェイク(ほんの一口分しか入ってないのに一杯入ってるように見える)なので
一般家庭で真似したらそりゃ吐くよ。
志村けんのスイカコントも、見えない方の果肉を薄くそいであるらしい。 ドリフの牛乳は、コップの内側に空間があって、隙間のわずかな部分にしか牛乳が入ってなかった。
スイカは薄ーく切ってあって、横から見るとバレるので正面からしか映さなかった。
それを知らんで真似して悲惨な目にあった奴が何人いたことか。 こういうことだよな 牛乳の液面
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■=ガラス(またはアクリル) >>905
底面はなし 側面だけに牛乳が入る
なのでグラスを傾けると空洞なのが丸わかり >>899
今の粗塩だって塩化ナトリウム含量はたいして変わらないよ。
目の前にある「ヒマラヤ採掘法岩塩ピンクロックソルト(パキスタン製)」の食塩相当量は100gあたり98.28gだ。 今日、でっかい洗剤下げて買い物してる人を見た
まだ売ってたんだなw >>898
冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香だね。
親なんかはリアルで冷蔵庫無しで育ったから、昔はもっとしょっぱかったし
甘いものはものすごく甘かったと言ってた。
魚も甘いものもそうそう食べられなかったしな。 > 冷蔵庫がない時代、塩漬けで保存して運んだりしてた時代の残り香
そこから発展して
長野県は冬季五輪開催に伴ってインフラが整備され、今では都内から普通に日帰り観光も可能となったが、
交通網が発達する以前は「最も遠い県庁所在地」などと揶揄されていた
その長野で独自の食文化が育まれたのは自然の摂理と言えよう
塩漬けでいかに保存性を高めるかは言わずもがな、タンパク質を追い求めて昆虫に手を出したり、
果ては食ってはいけないとされる毒キノコですら毒抜きして食ってみたり
今でも長野には良い意味で食のガラパゴスが残されている
俺も何度か足を運んだことがあるが、ほんっと衝撃だったわw 美空ひばり
世代が離れすぎていたのでリアルタイムのファンというわけではないが、
「川の流れのように」は当時のガキの俺が聞いても名曲だと思ったし、
時代が平成に変わったタイミングで最高の有終の美を飾ったなという印象
中森明菜
体調を崩しテレビからはすっかり遠のいているが、現在はディナーショーをメインに活躍中
大規模なコンサートよりもファンとの距離を大事にする小規模なライブに力を入れているようだ
あの美声は健在で、かつての少年少女ファンを今も魅了する
特にライブ後半に披露した「80年代ヒットシングルメドレー」は大盛況だったとか
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美空ひばり享年52歳
中森明菜現在52歳
( Д ) 佐藤允や平田昭彦や中丸忠雄といった男優達も、平成生まれのうら若きお嬢さんの心を魅了する。
高倉健や菅原文太も、平成生まれの女性ファンがいる。
石原裕次郎が好きな平成生まれの女性は見たことがない。 時代の差
ひばりの頃は色んなものが変わり過ぎる位だっただろうし
明菜の頃は変わった後だし 82年組アイドルの爆発力はすごかったがその先駆として81年10月に「せんちめんたるじゃーはーにぃー♪」とデビューしたあの子の衝撃度は忘れられない 平成元年だけど伊代ちゃんがアイドルてんこもりの歌番組で
いきなり「悲しくてやりきれない」歌いだした時はびっくりした。意外によかった。
この曲をシングルで出すとかすごいスタッフだと思ったなぁ。 派手な企画力
ツッパリイメージ
芋ロリータ
奇妙な声
バイリンガル
太もも
81〜82年のアイドルで売れてる娘は何か特長が際立ってた バイリンガルと言えば早見優を思い出すが、初年度は売れずに苦労したんだよね
このまま埋もれるのかなと思った矢先、「夏色のナンシー」が驚異的なヒットを飛ばして遅咲き開花
その後大御所というほどではないものの、82年組の一角を担うポジションに
それにしても「夏色のナンシー」は名曲だよなあ
永遠のスタンダードといっても過言ではない 中森明菜もスローモーションは今ひとつだったけど、少女Aが大ヒットとなった
まぁ芸能界華やかな時代だったな 早見優のニックネームはキャシーなのになんでと思ってた >>929
本人が「キャシーに変えてもいいですか」って提案して「メロディに合わない」って却下されたんだって。 羽田空港で中華航空のトライデントを見たことがある。 >>907
ドリフの大爆笑のバカ兄弟というコントで長さんが仲本工事と共にボケを演じていた 伊右衛門のCMに3人出てるけど、
歳とって皆、似たような顔になっちゃったな >>898
>>899
昔のかっぱえびせんもむちゃくちゃ塩辛かった記憶
かっぱえびせん好きの友達の口のまわりが赤くなっていた 昔の食べ物がムチャクチャしょっぱかったってのは、
食べてた自分の、お口がお子ちゃまっだったってのも、
ある程度あるのかもしれん レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。