昭和の暮らしを懐かしむスレ・25丁目©2ch.net
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親が古賀政男メロディーが好きだった
目ン無い千鳥も無法松の一生も影を慕いても歌える >>706
全く同じだ
こだま、ひかり、のぞみまでは知ってる
それ以降のはよく知らん
ドクターイエロー?とか何なのか、客車ではないのか?………
そういう新しいことのよくわからないけど、特に生活に支障ないからそのままにしてるw 訂正
○そういう新しいこと、よくわからないけど、特に生活に支障ないからそのままにしてる >>713 一日に一往復だけ走ってる黄色い新幹線。目撃すると幸せになれるらしい。 俺が子供の頃の子供百科にも載っていたような〉黄色い新幹線 ドクターイエローって新幹線と同じような見かけの列車で同じ路線を走り、震動などをチェックするのでしょ。 >>712
ドクターイエローはレールや架線を検査するための車両。だからドクター。
外見は、黄色いこと以外はふつうの新幹線といっしょ。中身はぜんぜん違うけど。 >>712
ドクターイエローはひかりとこだまの頃からあったと思う 今更だがガンダム ジ オリジンを見た
あのころと変わらない安彦良和の絵で
今の技術で背景や武器が3Dで滑らかな動き
ああ、あのシーンはここへ繋がっていたのか
このエピソードはここへの複線だったのかと色んな意味で見て意味のあるアニメだった
その中でもなぜか一番心惹かれたのはドズルの愛の告白
できることならファーストガンガム全編今の技術で作りなおしてほしい
せめて黒い三連星のところだけでもお願いしたい と思ったら5月5日から『赤い彗星』やるのねw
やっぱりガンダムはモビルスーツ戦が無いとちとさみしい
ああ、楽しみ〜〜〜〜〜 >>720
書き直すのならセイラさんの入浴シーンだろw
つーか
ミライ、フラウボウも入浴シーンがあるのだが
そっちは全然話題にならなかったよなぁ セイラさんの入浴シーンなんてあったっけ?
カツレツキッカとフラウ・ボウのは覚えてるけど
私はシャアのシャワーの方が見たい ゆっくり舐め回すように見たいw >>711
古賀メロディー、
若い時も嫌いじゃなかったけど中年以降良さを再認識した。
名曲揃い
昭和歌謡界の巨星。
小説では松本清張、歌謡曲では古賀正男 >ああ、あのシーンはここへ繋がっていたのか
>このエピソードはここへの複線だったのかと
恐ろしく狭いところで話が廻っていてビックリだったよ >>728
ペットボトルじゃなくて瓶なのが懐かしい ユーリンチーとスーラータンメンなんてどこにもなかった 冬季五輪まだ中盤だけど日本人選手の活躍が凄い
昭和の頃にはとても考えられなかった
ガキの頃見た映像だから思い出補正は相当あるけれど1980年のレークプラシッド五輪は、
スキージャンプ八木選手の銀メダルが最高でその映像が何度も使いまわしされた
他には同四位の秋元選手、フィギュア六位の渡辺絵美ぐらいか
1984年サラエボはもっと悲惨で、たしかスピードスケートで銀が一個のみ
他はメダルはおろか入賞すらなし
テレビ的にあまりにも題材がないので、しょうがないからトービル&ディーン組の伝説の全員6点満点を使いまわし
あの頃に比べると完全に隔世の感 久々にYoutubeで「ピカピカの一年生」のCM見た!
あれこそ昭和40年50年代で懐かしいよ〜
あんな子供最近見ないね >>734
冬のオリンピックは東ドイツやソ連が出てた頃が面白かった 歯磨き粉は名前のとおり粉だった
ひっくり返して蓋のほうのくぼみの溝にたまった粉を歯ブラシですくう
粉がつきやすいようbに歯ブラシを濡らしていた >>739
今のチューブも「歯磨き粉」以外に何と呼んだらいいか思いつかない >>741
正確には「研磨剤」なんだろうけどもうずっと歯磨き粉で定着してしまったからなあ
ドリフの「チャンネル回せば」とか、スマホの受話器を持ち上げるアイコンが通話の意味みたいなもんでしょ 歯磨き粉といえば、ラミネートチューブが登場した時は、子供心にも技術革新ってスゴイ!
(オーバーだが)と感動したっけ。 ダイヤル回して手を止めたとか、歌詞もね。
ダイヤルなんて回したことない人もこのスレいるんちゃうか >>743
昔の金属チューブだと最後の方は絞りきれなかったり、力入れすぎると尻から漏れたり(注:チューブのだからね)大変だったよね >>741
練り歯磨き
昔も練り歯磨きという人はいたんだけどね 絵の具のチューブを集めて台所のお玉で溶かし、鉛を集めた。貝殻に流し込んで貝の形に整形。
しかし悪臭は出るしお玉は使えなくなるし、怒られたなあ 絵の具で思い出したが今は「肌色」と呼称しないそうだ
うすだいだいとか言うんだと
こんなところにも言葉狩りの影響が >>742
「チャンネル回してハイ笑点!」は知ってるが、そっちは知らないかな たまに固定や公衆電話で市内通話すると、ボタンを押す回数の少なさと呼び出し音が鳴り出すまでの短さに感動する。 徳永の名曲レイニーブルーも意味がわからなくなってしまうのね ダイヤルしようかな
ポケットにラッキーコイン
ノートに書いたテレフォンナンバー♪
3行どれもこれも昭和 >>747
溶かした鉛をバイ貝の殻に流し込んでベーゴマに(略 昔のショートトラックは日本代表がメダルとっていた。 リアルで電話交換手を通して電話していた人はかなりの年齢だよね。
もうすぐ50だけど、さすがに親の話しでしか知らない。 電話の117時報はある人物の「ただいまから」「○時」「○じゅう」「○分」「○じゅう秒を」「お知らせします」を録音して組み合わせて流していた 117で思い出した
昭和の頃、大晦日の23:58ぐらいに117かけたら話し中のツーツーツーという音が流れて通話できなかったことがあった 番号忘れたけど3桁の数字をかけて電話切ってしばらくするとかかってきたね >>759
10年前に働いてたホテルの、その当時すでに物置になってる旧事務室に電話交換室あったわ。
昨日まで働いてたのに人だけがいなくなったような感じで机の上の備品や新聞紙もそのままで気味が悪かったな。 子供の頃いた町では電電公社とは別系統の町営の有線電話なるものがあった
なにぶん田舎で戦後になっても電話の普及率が上がらなかったので独自に設置したらしい
受話器をもちあげると交換手さんが「何番ですか?」と聞いてつなげてくれるという
昭和50年代なかばくらいに廃止された >>759
40代後半だが使ったことがある
でも手動電話が最後まで残ったのって
地方と言うか、ある程度の人口がいる田舎
人口が少なければ、さっさと切り替えるし
人口が多ければ、これもさっさと切り替える
中途半端な田舎ほど残った
でもって手動電話の時代に電話を引いた一般家庭の婆ちゃん家は
実は昔、金持ちだったのか? >>759
> リアルで電話交換手を通して電話していた人はかなりの年齢だよね。
自分の知る限りでは昭和50年頃までは交換台通す電話あったよ
勿論あまり使われてはいなかったが
ほとんど普通のダイヤル直通が普及してたが、わざと交換を通したい場合は、○○○番(交換台)にかけて繋いでもらう
確かこれだと通話終了時に料金を教えてくれたと思う、交換手が
うろ覚えだけどね 昭和50年ごろだと思うけど、電話帳と一緒に配られる「いろんな電話の使い方」みたいな小冊子に交換手を呼び出す通話のやり方も書いてあった。
項目があったということは、まだ使ってる地域もあったんだろうね。 田舎だが、
爺様の遺品の背広が仕立てで、
作った店のタグが付いてた。
タグには店の電話番号が入ってて、
市外局番が無くて、2桁か3桁の数字だった。 >>770
うちのすぐ近所にも、恐らく大正か昭和の時代に建てられた街路灯用のコンクリート柱が三本現存してる。
(区画整理や空襲があっても、この道幅は戦前のままらしい)
ちなみに、東京新宿の富士コンクリート社製となってるけど、(○○)××という電話番号表記。
東京の新宿でさえ、電話があるところが少なかったんだねえ。 >>772
既婚女性板の荒らしさん、ここまで遠征お疲れ様です >>773
そりゃ昭和30年代までは一般家庭(一般庶民)には電話は普及してないよ
勿論会社や商店、一部の裕福な家庭にはあったけれども >>774
その人既女だけじゃない
皆んな自分がいる板にいると思い込んでるけどいろんな板に来る 昭和16年生まれの母が10歳頃の家族写真に、居間の柱にベルが2つついた電話みたいなの映ってた。
戦前生まれだけど食べ物に困ったことないって聞いたから裕福だったみたい。
去年亡くなってしまった。 うちのオヤジは仁丹を愛用していた
オヤジ丸刈りだったから家でバリカンで散髪していた 小さい頃父の龍角散が遊び道具だったわ
缶に入った白い粉を付属の小さいスプーンでアイスみたいに丸く盛るの >>779
すごいね、うちの両親は戦中に父親が病死して生活一変したから
色々とあった。
でも昔の人だし、そんなんでも助けがあって生きて逝けたから
その時の思い出話をしてもグチったり苦労したなんて全く言わないね。
なんつーか父なんかは兵隊に行く年齢前に終戦しただけありがたいみたいな。 自分がガキの頃、扇風機にあたってるだけで、戦中育ちの親に、贅沢だ!とおこられた。 一口に昭和の暮らしと言っても、30年代の生まれと50年代の生まれじゃ全然違うよね 本当に「昭和らしい」のは30年40年頃までかな?
と思うけど、それは人それぞれなんだろうな、年齢によって。
昭和39年の東京オリンピック
、ケネディ大統領暗殺… まだテレビは白黒
電話はある家もあれば、呼び出し電話の家庭もあった。
会社や学校や病院や列車でおとなの男の人が煙草を吸ってた…
いかにも昭和らしいと自分は思うけどね 白黒テレビをリアルタイムで知っているか、などが分岐点かも。ビデオがあるのが当然みたいな書き込みは自分には違和感ありまくり。それ平成やろ?と思うわ、 >>787
父が昭和24年生まれで、子どもの頃に桟敷席がある映画館が田舎街にもたくさんあった話や、
大阪万博に友達と車で行った話を懐かしく話てくれる。写真はカラーで今の若者みたい。
青年期は高度成長期、壮年期にはバブルと楽しそう…バブルのあとは大変だったみたいだけど。 >>788
小学生時代が1980年代後半だった人でしょうね>ビデオがあって当たり前
モノクロテレビを知ってるのは50歳以上の人だと思う。
昭和47年くらいまでモノクロの番組の再放送があったそうで、「おそ松くん」「コメットさん」「おらあグズラだど」
曽我町子版オバQ、パーマン、月光仮面の記憶が断片的にある。 昭和50年代半ばくらいまでゲゲゲの鬼太郎のモノクロ版が再放送されてた気がするけど記憶違いかな
うちに白黒テレビがあったのは昭和40年代末くらいだった 俺の記憶では、昭和48年ごろに、関東の民法は100%カラー化を歌いたかったんだろう。
さんざん再放送されていた第一作のパーマンやウメ星デンカ、オオカミ少年ケンのような全話白黒のアニメ、魔法使いサリーやモーれつア太郎の白黒で製作された初期の回などが、なかったことのように放送されなくなった気がする。
また、みられるさ、と少し楽しみにしていたが、それっきりみられなくなった。 うちは父親が機械道楽だったので、昭和46年にカラーテレビ導入。
モノクロのをサブとして置いとけば喧嘩にならなかったのに、さくっとモノクロを処分した。
ちなみに、当時の大人…特に老人には、「カラーテレビはなんか疲れるから白黒は捨てるな」と言って
カラー導入後も自室でモノクロを見る人がいたそうな。
カラーの色使いでアニメの制作年は大体判る。
昭和40年代初頭の作品はぎらぎらと目に刺さるので、「あ、こりゃ年寄りは見たがらないわ」と思うし、
昭和40年代後半になると、だいぶ色合いが柔らかくなってる。 >>792
一部地域では、80年代くらいでも早朝のような隙間時間にモノクロアニメの再放送を行ってた様ですね。うらやましい。 ゲゲゲの鬼太郎はモノクロ版とカラー版でどちらが先か忘れたけど続けて再放送されてた気がする
昭和50年代の夕方4時くらいかな >鬼太郎
「呼子」は白黒だったと思ってたけど、
調べてみたらカラーだったのねん >>785
子供の事うちの父親になにかと贅沢は敵だとか
ほしがりません、勝つまではとか言われたwww
戦中は軍需の町にいたから余計そういう標語が身に染みてるんだろうな。 豆乳
烏龍茶
スポーツドリンク(ポカリスウェット)
昭和末期のほぼ同じころに出回った覚えがあるが
豆乳だけはイマイチメジャーになれなかったな まさか、21世紀になって鍋に使われるとはなぁ>豆乳
和食はダサくて、あと少しで洋食に駆逐され、21世紀にはソイレントグリーンのような必要な栄養素だけで成形された調理不要の食事になると思ってたっけ。 アンバサは最近ドリンクバーで見たなぁ
メローイエローは樽形のガラスボトルで飲みたい メローイエローの樽型ボトルに詰まったオホーツク海の水が実家にあるはずだ。
思い出して顔が真っ赤になった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています