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大学の哲学の論文クソワロタwwwwwwwww
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0001名無しなのに合格
垢版 |
2018/05/25(金) 06:42:55.93ID:cGg1+KAW
なにゆうてんねん!

「哲学」てのは、現代でもそうやけど、とにかく言葉のイメージとかで現実から離れていくんよね。
数学が「高度な抽象化」のために「難解な概念」を出すのとは違い、単に、見栄えが良くて新しそうに見えるから「難しそうな言葉」を出す。
そこには、オブジェクトの概念が存在しない。



【超越論的反省と超越論的観念論 : カント的な「内と外」についての考察】

「心の内外」という構図の上に受容的な知性の能力が案出されたロックの場合に対して、同様の構図の上にモナドの多元
性が現出するライプニッツの場合、諸実体には、宇宙の活ける鏡として各々の視点から他を表象する自発的な力を備えてい
ることが要求される。モナドの.内的実在性に相当する力」( )である。従って、対象認識に関与する一切の表象
とその状態は、この根源的な力からの派生としか見なされない。即ち、「ライプニッツのモナドロジーは、内的なものと外的
なものとの区別を、この哲学者がただ悟性との係わりにおいてのみ考えていたことの他には基づくところがない」( 
)
。このように、「内外」を、心の内外」として固定するロックとライプニッツの甲論乙駁はその焦点を知性の性格につい
て結ぶ。つまり、認識能力の捉え方やその性格は、反省概念の意味の解し方次第で決定されるのである。
ここでカントが「内外」という対概念を如何に扱っているかに着目せねばならない。彼の「内外」とはロックやライプニ
ッツの場合のように認識論的構図を表示する基礎概念ではなく、終始一貫、諸表象を比較する指標(比較概念)としての役割
しかもたない。反省概念とは、比喩的に言い換えれば、相互に還元できぬ表象源泉を識別するためのリトマス指示薬に過ぎ
ないのである。そして、「心の内外」という同じ構図の上に、対象認識の成立の仕方として呈示された二つの基本サンプルに
対してこの指示薬が異なる色を呈することlI表象の比較概念がその意を異にすることは、対象の経験的認識(ないし同
じことだが経験の対象)が、或るアプリオリな構造をもっていること、即ち表象の帰属先である認識能力には二者があること
を示している。このように、空間における経験的対象間の関係との対比において、純粋悟性の対象間の関係(調和)を検証す
る超越論的反省とは、経験的観察はもとより独断的アプリオリズムによっても捉えきれなかったこの構造をいわば可視的に
示すための思考実験であり、空間的関係を示す経験的反省と、予定調和が基づく論理的反省とはその実験に不可欠な題材な
のこ
のである。ライプニッツの諸原理についてのこの実験によって、自発的悟性の働きには還元されないが、しかし単独には認
識を成立せしめないという意味では非ロック的な受容能力の効能、即ち感性的直観が検出される。つまり、認識批判の過程
ハさすにおける「感性論」の必要が発見されるのである。ロックとライプニッツへのカントの評価は次の通りである。即ち、「二つ
の全く異なる、しかし、それらの結合においてのみ物についての客観的に妥当な判断をなし得る表象の源泉を、感性と悟性
とにおいて求めず、これら二人の偉大な人物は、各々の見解に従って物自体に直接に関係するとされる、それらのうちの一
方だけに固執し、それによって他方はただその表象を混雑させる或いは整理するものに過ぎないと見なしたのである」
( 強調カント)。
しかし、超越論的反省とはあたら論理的反省の目論見を完全に破棄することではない。対象認識の成立を認識の能力ヘア
プリオリに根拠づけるというライプニッツの方針を維持するための選択肢は、まだ一つだけカントに残されている。「物につ
いてアプリオリに何事かを判断しようとするならば、決して放郷し得ぬ義務」( )として、ライプニッツ的意味も
ロック的意味も共に無効とせず、寧ろ積極的に反省概念に両義性を認める途である。但し、それによって認識能力を判別す
るカントの反省は、次のような刮目すべき効果を認識能力の批判過程に齎すであろう。即ち、認識する事物と認識される事
物、或いはモナドとモナドという対立の枠組に応じ、認識能力を実体的な何かに内属させて捉えることの断固たる拒絶であ
る。さらに言うと、「内外」関係によって認識論が方向づけられる(翻弄される)べきではなく、哲学的認識論こそが対象認識
の成立における正しい「内外」の意を決定するという構想の転換である。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&;amode=MD100000&bibid=1430803
0002名無しなのに合格
垢版 |
2018/05/25(金) 06:49:31.84ID:cGg1+KAW
【メルロ=ポンティにおける知覚の弁証法と偶然性の問題】



「現象学の未完結性と、事を初めからやり直す現象学の態度とは、挫折の徴候ではなく、むしろ不可避的なことであろう。
というのも現象学は世界の神秘と理性の神秘を暴露することを任務とするからである」。メルローポンティは『知
覚の現象学』の「序文」の最後でこう記している。彼の現象学には「哲学[現象学]がどこへ行きつくのかを決して知らな
い」という、究極目的の欠如と根源的偶然性が避けがたく付きまとっている。しかも現象学におけるこの未完結性と
偶然性は、当の現象学が記述を試みようとする〈知覚〉そのものに付きまとう未完結性や偶然性と表裏をなしている。メル
ロ ポンティの〈知覚の現象学〉は知覚を自己と世界の相互依存的ないし相互反転的な現象として記述するが、そのような
知覚の構造、ないし世界への自己の開在性は、閉じられた体系でもなければ或る一定の目的へと収敏してゆくものでもなく、

偶然性に晒されながらの絶えざる合理化の運動として展開されている。
本稿においては、メルローポンティの知覚論におけるこのような基本的特徴を、主として『知覚の現象学』を導きとしな
がら跡付けたいと思う。そのためにはさしあたり同書第一部の身体論を手がかりにしよう。というのも「身体図式の理論は
暗黙に一つの知覚論であり」、「知覚された世界」と題される第二部の知覚論は第一部の「身体図式の理論」を前提
にしているからである。

メルローポンティは、『知覚の現象学』第一部第三章(「自己の身体の空間性、および運動性」)において、伝統的精神病学
では精神盲に分類される後頭葉に戦傷を負った或る患者について、彼の運動障害や知覚障害や知的障害を姐上に載せながら、
当該患者のこれらの障害が相互に還元不可能であることを認めつつも、それらを同時に了解できる所以を追求し、それを通
して、自己と世界の〈生きられた関係〉としての知覚の構造を浮き彫りにしようとしている。
この患者は、例えば、蚊に刺された箇所に手を素早く持っていったり、ポケットからハンカチを取り出して鼻をかむとい
う動作は容易に遂行できるにもかかわらず、他人の命令に応じて目を閉じたまま自分の鼻を指で指示するという行為は行え
ない。つまり、現実的状況のなかで生活に必要な〈把握運動〉や〈具体的運動〉は可能なのであるが、実用的意味を欠いた
実験的状況や想像上の状況における〈指示行為〉などの〈抽象的運動〉が不可能なのである。患者が把握運動を容易に行え
るのは、彼が自己の身体空間に関して「その身体空間との或る種の共存 に還元されるような場の知」を
もち、「把握運動がその初まりと同時にその終りに魔術的に達している」からなのであり、手と刺された身体部位の
間には「一つの生きられた関係が自己の身体の自然的体系のなかで与えられている」からである。
他方、患者は他人の命令
や刺激に促されての抽象的運動を即座にはできないにしても、自分の腕や脚をよく眺めたりあるいは予め全身や手足を自ら
動かすことが許される場合には、やがて命令に応じた運動も可能になる。

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&;amode=MD100000&bibid=1430858
0003名無しなのに合格
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2018/05/25(金) 06:58:45.80ID:Mz/OFAFC
長い
0004名無しなのに合格
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2018/05/25(金) 07:15:41.09ID:gCiH/gKC
カントのアプリオリな空間認識はリーマンによって完全に否定された
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