盛岡中央・奥玉監督がPL魂注入「球道即人道」

岩手は東北6県で最も早く、7月1日の北奥、沿岸北両地区を皮切りに高校野球の代替大会が開幕する。昨年4月から盛岡中央を指揮する奥玉真大監督(45)は、東北地区の監督でただ1人、
春夏合わせ7度の日本一を誇る名門PL学園(現在は休部中)出身。清原、桑田の「KKコンビ」に憧れ、中学時代に宮城・気仙沼から単身大阪に渡った指揮官は今、熱い思いで選手と向かい合っている。

誰よりも甲子園に恋い焦がれたからこそ、特別な思いがある。はつらつと練習を続ける選手たちを見つめ、奥玉監督は言った。新型コロナウイルスの影響で夏の甲子園は中止になったが、「先が見えない中でも、必死にやっている。
彼らは一瞬たりとも、やる気のない、ふてくされた態度を見せない。本当に立派だし、成長を感じる」。今はその思いに応えることしか頭にない。

無我夢中だった。92年のセンバツ1回戦。四日市工(三重)を10−1とリードして迎えた9回表、背番号14の一塁コーチャーが呼ばれた。左打席に入り、バックスクリーンを見た瞬間、ゾクッとした。気仙沼の少年時代から憧れ続けた風景。
カウント0−2と追い込まれながら外角直球を強振。左翼フェンス直撃の二塁打となった。ラッキーゾーン撤去後最初の大会で幻の本塁打と同情されたが、ただただ、うれしかった。

当時、PL学園のスカウト網は東北になかった。父が学校に問い合わせると、「そのまま東北で頑張ってください」と相手にされなかったが、「付属中からなら可能性はあります」の言葉に望みをかけた。中1の11月に転校。全国中学で優勝するほどの強豪だったが、高校への入部が認められたのは1人。
そして、全国から集う猛者たちを相手に、ベンチ入りメンバーを勝ち取った。

現役引退後も苦難を乗り越えてきた。東日本大震災発生時、母校の南気仙沼小に招かれ、6年生に特別授業を行っていた。「どうせオレなんかとか思わず、自分が自分の一番の味方、ファンとなって可能性を信じてほしい」。津波で、営んでいた酒店と自宅を流されたが、
「夢を信じることの大切さ」を語った先輩として、いつまでも落ち込んでいられなかった。

12年から富士大でコーチ、助監督を務め、山川、外崎(ともに西武)ら多くのプロを輩出した。同大退任後の18年には、後腹膜脂肪肉腫という悪性腫瘍を患うも奇跡的に回復。しかし「監督として甲子園」を目指した矢先の昨年6月に病が再発。
手術が難しいほど悪化していたが、同7月の県大会直前に一時復帰。投薬治療をしながら今年1月23日、手術にこぎつけた。「死を覚悟し、その日その日を一生懸命生きるしかないとやってきたが、さすがに今回はダメなのかとも思った。
でも最後は子どもたちがグラウンドで待っているから、絶対に戻ってやるという気持ちが勝った」。

監督就任時に、PL学園のコーチだった清水孝悦さんから贈られた言葉を胸に刻む。「技術指導はもちろん大切だけど、それ以上にお前の生き様、歴史を伝えることが子どもたちに一番必要」。
甲子園という目標を失った今、あらためてPL学園の部訓「球道即人道」を思い返した。偶然にも、盛岡中央の部訓も「生活即プレー」だった。盛岡地区の同校は7月4日、県大会出場を懸けて盛岡誠桜と対戦する。

選手には「体が許す限り一生懸命ノックして、野球を伝えたい。未来を悲しんだり憂いたりせず、今を一生懸命生きよう。それが絶対、将来に役立つはず」と伝えた。白畑凱光(ときみつ)主将(3年)は生き生きとした表情で言った。
「監督が命を懸けて指導しているので、僕らも全力で向かっていかないと恥ずかしい。甲子園は目標だったけど、それが全てではない。全員で努力することが、これからの人生の宝。将来に向けて準備する時間だと思っている」。魂はしっかりと伝わっている。