【ジャンボ宮城】横浜商=Y校を語ろう【三浦将明】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
神奈川県内では「Y校」の名前で親しまれ、戦前から甲子園に出場経験のある
古豪。97年春を最後に甲子園出場がありませんが、近年復活傾向にあり、
近い将来の復活があるかも知れません。 三浦のモテぶりについては、享栄の藤王が「アイツは両手両足で足りないくらい(オンナを)知っている」とボヤいていた。 春夏準優勝投手の三浦。池田黄金時代とPL最盛期に
存在した悲運(←今ではそうは思わないが)の投手。 Y校に勝った高校は結構全国優勝しているイメージがある。 83年のY校は三浦だけでなく
西村、信賀の1,2番コンビは理想的な1,2番だった
あと高井や中村の中軸もよかった Y校が強かったのも小倉清一郎がコーチで存在していたからと後から知った。
ずっと母校の横浜高校で指導していたら横浜ももっと甲子園で勝てていたんだろうな。 古豪 21世紀枠狙えるだろう 神奈川は
相模 横浜 桐光 あまりにレベルが高い。 小倉清一郎氏は77年は横浜高校監督だった。
渡辺元智氏が社会科の教員免許取得のため、関東学院大学の夜間部に通っていた。
(渡辺氏と小倉氏は横浜高校の同期)
77年は小倉氏と渡辺氏で登録を入れ替え(小倉氏が監督で渡辺氏が部長)中田良弘
を擁するも甲子園はならず。現在は、部長は「責任教師」とも言われ、教員でないとなれない
という高校野球規定がある。
小倉氏は父兄の賛同を得られず、渡辺氏復帰を父兄は目論む。横浜高校側も父兄の側に
付いてしまい、小倉氏は母校に憎しみの感情を抱いて横浜高校を去ってしまう。
78年のことである。
母校を去った直後、小倉氏は自らをY校に売り込んだ。
「甲子園に出たければオレを雇え」
こうして78年夏、Y校・小倉コーチが誕生した。
2度と母校を甲子園に出さない、という喧嘩別れの感情で飛び出した小倉氏だが、早くに
結果を出し(79年夏、Y校甲子園ベスト4)、翌80年は母校の横浜が全国制覇した。
「やられた!」とは思ったが、母校への憎しみは早くも薄れていた、全国制覇主力選手の
愛甲猛も安西健二 小倉清一郎氏は77年は横浜高校監督だった。
渡辺元智氏が社会科の教員免許取得のため、関東学院大学の夜間部に通っていた。
(渡辺氏と小倉氏は横浜高校の同期)
77年は小倉氏と渡辺氏で登録を入れ替え(小倉氏が監督で渡辺氏が部長)中田良弘
を擁するも甲子園はならず。現在は、部長は「責任教師」とも言われ、教員でないとなれない
という高校野球規定がある。
小倉氏は父兄の賛同を得られず、渡辺氏復帰を父兄は目論む。横浜高校側も父兄の側に
付いてしまい、小倉氏は母校に憎しみの感情を抱いて横浜高校を去ってしまう。
78年のことである。
母校を去った直後、小倉氏は自らをY校に売り込んだ。
「甲子園に出たければオレを雇え」
こうして78年夏、Y校・小倉コーチが誕生した。
2度と母校を甲子園に出さない、という喧嘩別れの感情で飛び出した小倉氏だが、早くに
結果を出し(79年夏、Y校甲子園ベスト4)、翌80年は母校の横浜が全国制覇した。
「やられた!」とは思ったが、母校への憎しみは早くも薄れていた、全国制覇主力選手の
愛甲猛も安西健二 送信ミスで途中で流れてしまった。
愛甲猛も安西健二も自らが勧誘した選手。母校の全国制覇に微力ながら貢献できたという
思いもあった。
90年。
「そろそろ小倉を返してくれないか」
渡辺元智氏が同学年で、忌憚なく言える間柄のY校・古屋文雄監督に申し出た。
復帰はすんなりと決まった。
なお、古屋氏はY校監督を退任したのち、同校の校長を務めている。 Y校全盛期は横浜高校はむしろヒール役だったな。子供心にもブルーの爽やかなY校とどぶネズミみたいなグレーの横高は対照的なイメージはあったわ。 >>5
宮城、三浦のときだけだぞ。
しかし79年夏、82年春、83年春、夏とすべて準決勝か決勝での敗戦だったから(しかも敗戦相手が箕島、PL、池田という当時の甲子園御三家)、そういうイメージがあるのも無理はない。 春夏連続準優勝の翌年、初戦で上溝南に敗れたのは衝撃的だった。 横浜高校とのカードは「横・横対決」と呼ばれ、多くの観客を集めた。 実は戦前からの古豪。弱小時代の神奈川を支えた高校だが、79年夏に戦後になってから
初めての甲子園出場で完全復活。80年代の神奈川高校野球をリードした。 三浦は3度の甲子園出場で12勝。荒木大輔と同じ勝ち星を挙げている。
やはり大したものだと今にして思う。 打倒・池田に心血を注いでいたから、83年夏、目の前で池田高校が敗れた時は
相当ショックを受けたそうだ。 「なんで負けちゃったんだよ〜」てY校の選手に言われてしまった池田高校 97年の夏、松坂の横浜を下したものの決勝戦で涙を飲み春夏の甲子園を逃した。
そこから下降傾向が始まった。 宮城・三浦だけじゃない、古沢がいた。
さらに羽入生、長谷部 河原がいた89年は春ベスト4、武藤がいた90年は夏ベスト8と上位進出してるが、話題にならないのは劇的な試合がなかったからかな。
この時期の神奈川県勢なら東海大相模の春準優勝や桐蔭学園の夏の2年連続サヨナラ負けの方が印象深いね。 >>33
決勝敗退直後に監督解任騒動があったな。
お粗末だった。
あんなことやっているから勝てなくなるんだと思った。 >>36
羽入生、長谷部って、あんたいくつだよ。
羽入生のときは惜しかったな。津末のランニングホームランがなければ。 あれは古屋校長の現場介入による結城監督との対立が引き金。
父母会は監督側についたが解任されてしまった。
それ以来、古屋氏に対する見方が変わった。 結城監督は古屋さんのあとの監督だよな。
いきなり90年秋の県を制したが関東大会で東海大甲府に逆転負け。そのあとはじり貧だった。 >>40
長谷部と同級生です。
2個下の岩井原→Y校と在学中に付き合い(自分三年向こう一年)22と20で結婚したが28と26で離婚。
漏れは今は生活保護受けてアル中(笑) >>47
優勝校だけが出場の夏は難しいと思うけど、優勝準優勝の2校にチャンスがある選抜の出場の見こみはないのかな? 春のほうがチャンスあり。春夏甲子園で準優勝した年は前年秋神奈川で準決勝
敗退だったけど関東大会が神奈川開催だったので3位決定戦に勝って救われた。
関東大会は準優勝。桐蔭学園には連敗したことになるが要領のいいところで負けた。
この時は不運だったのが横浜で関東大会準決勝敗退で(当時関東は3枠)地域性の
関係で甲子園に行けなかった。 82年秋は県準決勝で桐蔭に延長10回三浦が三点取られて負け。
関東決勝も二点先制したが逆転の二塁打を打たれて2-3で負け。
しかし準決勝で横浜に3-1で逆転勝ちしたのが大きかった。信賀が逆転打を放ったと思う。
翌年夏の決勝も同スコアで横浜を下した。 83年のチームで卒業後に最も活躍したのは中村大伸だな。 春夏準優勝の翌年84年は、なんと県大会初戦敗退。相手は伏兵・上溝南。 79年夏から90年夏までの出場期間は小倉清一郎コーチ。横浜高校ОB。
この間の甲子園成績は23勝8敗。 >>56
オリンピック代表にもなったよな。
反して、中央に進んだ信賀、法政に進んだ高井はさっぱりだったのはガッカリした。 三浦さんのイッコ下の控え捕手、岩井原中出身の戸風良かったな ジャンボ宮城は、その愛称に偽りなくデカい選手だった。 プロレスラーになるように何十回もスカウトされたが断り続けたな。
冬木弘道直々にスカウトに来たな。 宮城のことをカネやんが解説で「体にバネをつければ、良い投手になるんだけどな」と話していたね。 >>65
マウンドに立っているとき、テレビの画面からはみ出そうなくらい大きかった。
そんな選手はなかなかいない。
しかし、体重はどのくらいあったのか。二年夏の甲子園でも100キロくらいはあったのではないかな。公称体重がいくらだったかは記憶にないが。 2年夏の甲子園ベスト4.春夏連覇した箕島に2−3で負けたのかな?
大健闘だったと思う。 2年夏・秋と宮城のいたY校は愛甲のいた横浜に連勝している。 プロレスの勧誘がすごかったのはプロ野球引退してから。
猪木からも鶴見の縁であったがサムソン冬木が熱心に勧誘したな リングネームはジャンボ宮城。
まあ、ジャンボ鶴田やジャンボ宮本もいたが。 ジャンボ宮城は甲子園では期待したほどの球威はなかったな。
神奈川県予選を見た人によると、準決勝の日大藤沢の和田(のち法政で30勝投手)や決勝の横浜の愛甲といった強敵相手に投げ勝った圧巻の投球は全く見れなかったという。
予選での頑張りが祟って甲子園では疲労のピークだったのだろうか。 翌年は中盤で桐蔭学園のダブルスチールの奇襲を
食らって敗退。東海大相模は出場辞退。
3強のうちの2強が消える波乱の展開に。 >>74
全身にあせもができて、赤ちゃんが使うパウダーのお世話になっている、と大会中に古屋監督が話していたな。
あのころは身体の大きな選手はジャンボ○○と呼ばれるのが通例だった。元祖の仲根にはじまり、永川、工藤、小川(習志野)、山沖とか。 元祖はジャンボ尾崎かジャンボ鶴田より先のジャンボ宮本 >>77
俺は甲子園での話をしているの。
尾崎がジャンボと言われたのはゴルフに転向してからだろうよ。 ジャンボ宮本は1970年
ジャンボ尾崎は1971年
ジャンボ鶴田とジャンボ仲根は1972年な 79年夏ベスト4
82年春ベスト4
83年が春夏準優勝。
甲子園では、かなり健闘していた。 横浜高校選抜初優勝の永川のお母さんとY校のジャンボ宮城のお父さんはハトコ(またいとこ)な。
ほとんど付き合いなかったらしいが。 横浜高校との対戦は客を呼べる神奈川屈指の黄金カードだった。 98年以降は、ちょっと横浜と差がついてしまったか。 懐かし高校のジャンルになっているが、今もなかなか強いことは強調しておきたい。 Y校は公立高校の希望の星であることには間違いはない ユニフォームの色が気持ち悪い
Yのマークも馬鹿そう >>52
三浦と同い年の他校 元球児だが、基本が関東プラス東京で六枠
結果的に出場できたのは東京2校、関東4校 >>102
ユニホームは確か創部当時お世話になった慶應大学の野球部を真似したものときいているが?
Y校のYで何が悪いのか? >>104
関東東京が6枠になったのはこの83年から。
それまでは5枠、それも関東3、東京2が基本だった。東京の優遇ぶりはなんだったのだろう。 東京は首都だし六大学もある。他の関東はクソ田舎だから仕方ない 宮城はジャンボの相性通り、当時としては別格的な大きさで、とにかくデカイと
いう印象が残ってるけど、彼の身長193cmは大谷翔平と同じで、ダルビッシュや
藤浪の方が背が高い
宮城は背が高いだけにもっさりした印象があったけど、上の3人とかはあまり
大きさは感じさせず動作がキビキビとしてる。
ここ30年ほどで日本人は体格と運動神経は大きく変化した気がする 1990年のY校に憧れて
神奈川の高校球児になりました
今でも神奈川はY校のイメージです 母が今でも名前を出す
三浦はプロで活躍して欲しかった そういえば稲妻さんの息子さんが
話題になってたのも最近でしたね…
松坂大輔も最近のイメージだけど20年前なのか
俺も歳取ったんだな… o;l,kgmfgdfgfxhgcjhklp:o;lhkg 17日の等々力球場(川崎市)でY校対慶應義塾というオールドファン垂涎のカードが組まれている。 福島県民だけどよく福島で合宿してたよね
いまも来てるの? エースの山口は近年最高のエースやろ
篠崎も良かったがそれ以上や 慶應義塾、横浜隼人を連破。
ベスト8で東海大相模と対戦です。 山口君は良いピッチャーだなぁー
でも夏はピッチャー1人では勝てない
夏までに育成を 北海道函館市のタイガーマスクさん桶作孝次様は日本地図書くの上手すぎる
函館オーシャンスタジアム高校野球ファン一同 ジャンボ宮城は小学生の頃にテレビで見たが(涙)195ぐらいで 超でかいし 再放送で見た侍ジャイアンツの ウルフチーフ(笑)見たいに怖い顔してたし 俺の地元の山口の高校と甲子園でやったけど まあ高校の名前は忘れたが 宮城に震え上がって バッターも踏み込めず 打たされていたのを覚えてるな〜 ジャンボ宮城は松井や清原より恐ろしかったよ 監督・・・
Y校野球部監督、部員の腰を蹴る・土下座させる…生徒が市教委に電話 : 社会 : ニュース : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220326-OYT1T50112/ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています