【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 >>613
いや、35勝くらいだったはず。
1敗は関東準決勝の宇都宮商戦、0-3。
その前の準々で山梨の巨摩(なつかしい名前だ)と延長18回0-0の引き分け再試合の末勝っていたが。 >>614
79年春の選抜は勿論箕島を応援しながらも前橋工は「強そうだ」と思ったなぁ。
あと浪商、PLの大阪勢も。
箕島の初戦となった下関商のピッチャーのカーブも凄かった、打者一巡の9人が5三振。
トップバッターのあの嶋田が空振りでなく見逃し三振でしたからね。
先取点も取られてたので「もしかしたら負けてしまう?」と思ったけど逆転してくれて。
春夏連覇のスタートとなる試合でしたからね。 甲子園慣れしたチームでも初戦は硬くなるもの。エース石井が先頭打者にいきなり死球。
下商に先制され、攻めては三回まで山本に5三振を喫した。
箕島危うし、と思ったのもつかの間、四回に打線が一気に爆発、5点を奪い逆転。 >>616
その下商に先制されたシーン、ランナーがヘッドスライディングでホームに突入、嶋田捕手がタッチをした後にキャッチャーミットを「アウト!」と言わんばかりに振り上げていたアップ画像がその年の報知高校野球の夏の予選展望号の表紙に使われてましたね。
嶋田はイケメンだと思うが、自分の周囲(和歌山県内)は北野が女子に一番人気だったなぁ。
男の自分としては男っぽさの強い上野が好きだった。 春夏連覇のチームは大柄な選手はいませんでしたね。
選抜決勝でサイクルヒットの北野も大柄ではなく身長は175センチ、バッテリー組んでた石井は172センチ、嶋田は170センチと大型選手を揃えたチームのような迫力はなかったけど、いざ試合になると勝負強くて。 >>618
「勝ちに見放されたチーム」と言う言葉がありますが、変な言い方ですがこの時の箕島は「負けに見放されたチーム」とでも言いましょうか・・・
「何をしても勝てない」の真逆で、「どんな展開になっても負けない」不思議なチームでしたね。 >>615
79年の選抜は異様に試合がおもしろかった。
倉吉北一静岡、PL一中京商、高知商一八代工、PL一宇都宮商、浪商一高知商、浪商一川之江、東洋大姫路一池田、箕島一PL、浪商一東洋大姫路、箕島一浪商など好ゲームを挙げたらきりがない。
しかし自分は関東人なので東日本の悲惨なまでの不振に絶望的になったのも確かだった。
なにしろ近畿がベスト4独占だからな。西高東低があそこまできわだった大会も珍しい。 当時、自分の地元の神奈川は全く春の選抜に出られず。それでも春の選抜は楽しめたが。
近畿がとんでもなく強かったことは覚えている。神奈川は「夏だけ番長」だった。 和歌山勢全体に、たとえ相手が有名校で劣勢評価でも立ち向かう姿勢があるのがいい。
古くからの強豪県のプライドなのか >>620
池田−東洋大姫路のドロンコゲームも入れてください。79選抜は、上尾に出場して欲しかった。選抜で甲子園経験して、夏に浪商と対戦してればのタラレバ話。79夏は、ベスト4のうち選抜出場校が3校。星稜も選抜出場してましたよね。
箕島・石井と星稜・堅田の投手戦も見ごたえあったけど、78夏の能代・高松との投手戦が凄く印象に残っています。箕島が1点先制後は、両チームとも点の入る雰囲気全く無しでした。 >>623
620だが、池田一東洋大姫路も挙げているんだけど。
上尾は前年夏の例の事件で選抜は無理だったんだな。春季大会から復帰して春の関東は準優勝だった。
能代高松は箕島の春夏連覇のメンバーでも甲子園で対戦した投手でもっとも印象に残ると挙げている選手が多いな。 >>624
池田ー東洋大姫路、失礼しました。すみません。
この時の東洋大姫路に、履正社岡田監督居たんでしたかね。
それにしても、この頃は同一カードの再戦・再々戦結構実現してますね。
池田ー東洋大姫路も、82夏に再戦。箕島ー高知商、箕島ーPL、PL-高知商も。
81夏和歌山工ー熊谷商、82春箕島ー上尾、82夏南部ー熊谷の
和歌山ー埼玉3連続も強い記憶。 あのころは荒木の早実が二年夏を除いて四大会で京都勢と対戦したのが知られているな。
箕島の再現カードというと、
広陵…68年春準々決勝7-3、70年春準決勝3-0
PL…78年春準々決勝2-0、79年春準決勝4-3、82年春準々決勝0-1
高知商…68年春2回戦2-1、80年夏2回戦5-0、83年夏3回戦2-8
この三校だけなんだな。
箕島は北海道勢に強く、68年春の甲子園初試合の苫小牧東戦(5-2)を皮切りに5戦全勝(70年夏8-0北見柏陽、79年夏7-3札幌商、83年夏5-3駒大岩見沢、91年春5-1旭川龍谷)。 >>626
荒木が早実を卒業した翌年、83年も春夏共に初戦で東京vs京都の組み合わせでした。
春が桜美林vs立命館、夏が創価vs東山で。 >>626
82年春のPL戦は息詰まる投手戦だったね。上尾、明徳義塾と強豪に接戦で勝ち、個人的には好きな大海やったー >>623
東洋大姫路−姫路って終盤の試合展開が中京大中京−日本文理と似てるんだが、
片や名勝負ランキング2位になるほどの名勝負、片やほとんどの人が覚えてないただの好ゲーム、
決勝戦とそれ以外でこんなに差がでるものか。
中京大中京−日本文理なんて決勝戦じゃなかったらただの好ゲームになってただろうに >>623
東洋大姫路−池田って終盤の試合展開が中京大中京−日本文理と似てるんだが、
片や名勝負ランキング2位になるほどの名勝負、片やほとんどの人が覚えてないただの好ゲーム、
決勝戦とそれ以外でこんなに差がでるものか。
中京大中京−日本文理なんて決勝戦じゃなかったらただの好ゲームになってただろうに >>625
スレチだが、再現カードが続いたケースでは73年〜74年の銚子商がすごい。
73年夏準々決勝 対静岡(63年夏2回戦)
74年春1回戦 対岡山東商(73年夏1回戦)
74年春2回戦 対日大三(72年春準決勝)
74年春準々決勝 対報徳学園(73年春1回戦)
74年夏2回戦 対PL学園(70年夏2回戦)
なんと5試合連続で再現カードだった。
銚子商と箕島、黒潮打線同士の対戦はなかったな。 外川(とかわ)は、万治元年(1658年江戸時代の初期)、紀州からやってきた崎山治郎衛門が築港しました。
それに伴い、漁港に面した南斜面は、碁盤の目のように区画され、そこに紀州から呼び寄せた1000軒以上が住みつき、集落となりました。
そして、築港から今日まで、銚子の漁業発祥の地として栄えてきたのです。
時代とともに、そこに住む人や建物が新しくなっていく中、ふと目に飛び込んでくる懐かしい風景や、人々の温かさ。
あなただけの外川の魅力が発見できるでしょう。
銚子外川の町並み
古き良き漁師町の面影を残す町。
狭い路地が碁盤の目のように整備され、坂を下りれば漁港へと続いています。
この街は、和歌山から移住してきた崎山治郎右衛門が1658年に街区を整備し、
紀州から人々を呼び寄せ、「外川千軒大繁盛」と言われたほどの賑わいました。 有田シニア、有田ボーイズ、湯浅ボーイズから箕島に行く野球上手い子はいないのかね >>636
智弁和歌山か、県外に流出してしまうんだろうね、いまは。 昔コレラも流行ったけど、コロナまで流行りそうやな。 箕島の白ヘルがなんかヤケに印象に残っている。あと島本なんかの時には確か帽子のマークは花文字のmだったが、春夏連覇の時には明訓と同じMだったよね。 >>640
済生会有田病院のある湯浅町は春夏連覇した年の4番打者・北野の出身中学がある町。 尾藤監督(または箕島高校)のこだわりと思われる点
・帽子の「M」マークは尾藤監督自らのデザイン
・春夏連覇の年から帽子の形も六方型でツバの長いスマートなカッコいいタイプ、見た目のカッコよさにこだわっている(強豪だから当然)
・監督と選手達のトレーニングシューズは美津濃の「M」ラインシューズ(長年白に紺のMラインのマジックテープ式のものであったが高野連の「真っ白シューズ」規制により終了)
・試合開始、終了時の選手整列は先頭のキャプテン以降は学年等に関係なく必ず背の高い順
・ピッチャーが球審からボールをもらう際、脱帽してもらう風習があったが、春夏連覇年の石井投手以降、脱帽せずに会釈をして受け取るスタイルを築き、今や他校でめ脱帽する者は稀
・甲子園で敗戦しても試合終了後に選手が甲子園の土を集めるのは禁止、土は甲子園練習の時に持ち帰る
・毎年夏の県予選ではその年に入学したばかりの新一年生の有望株一人をベンチ入りさせる
・「思い出代打」の観念はなく、とにかく最後の最後まで試合を諦めない
・練習試合でも基本的に背番号を着けて行う
ザッと思い付くのは以上ですかね〜。
あくまでも「思われる点」なので実際は「そんなこだわりはなかった、偶然」もあると思います、悪しからず。 審判からボールを受け取るとき帽子を取る投手で印象に残っているのは77年春中村の山沖。
その山沖を箕島は攻略した。バントで山沖が尻もちついたプレーがあったな。 高知は無名高校が全国に行ったら上位に行く傾向がある感じがする。 >>641
帽子は紺色でもヘルメットは白というのは尾藤監督にこだわりがあったのかな?
それとも尾藤監督就任前から? 肩にラインの入ったユニホーム、甲子園では希少でした。他に見たのは、新湊くらいの記憶。最近、ニュースで南海ホークスのユニホーム見たけど、肩に太いライン。影響受けたのかな。 簑島は堅実で強いって印象だった
そのくせ人気があった >>648
あくまで噂で聞いた話ですが、最初はヘルメットも紺色にしたかったらしいのですが、紺色の方が値段が高くて白になったとか。
そして白ヘルで快進撃を続け「縁起がいいからこのまま(白)」らしいです。 >>649
箕島の春夏連覇当時、肩にラインは入ってなきったかも知れませんが、滋賀の比叡山高校、香川の丸亀商のユニはアイボリー地に紺色ラインのカラーリングに胸の校名のローマ字書体、紺の帽子にオレンジ色のマークで箕島そっくりでした。
特に丸亀商なんか同じ「M」なので両校が対戦したらややこしいだろうな、と思っていました。 幸いなことに箕島と丸亀商は77年春、82年春しか同時出場していない。対戦もなかった。
77年春は反対のゾーンだったから、箕島が優勝しても丸亀商がベスト8どまりだった。
82年春はベスト8で対戦するゾーンだったが、丸亀商がエース遠山の大乱調で初戦敗退して実現しなかった。 >>653
丸亀商は初戦の浜田に勝っても2回戦はPLでしたから果たしてどうだったか?
この時の丸亀商は前年秋季四国大会準決勝では、箕島と延長14回の熱闘を繰り広げた明徳に勝って、決勝では高知商め下して優勝していたからチームの実力はあったはずですが・・・ それにしてもセンバツ優勝投手の島本講平は今を考えてみてもメチャクチャ、イケメンだったよな。夏は岐阜短大付の湯口に投げ負けて残念だったな。 下津、有田あたりの漁師町には精悍なイケメン多いんだよ。
それに対して山側のミカン農家は(以下略)
春夏連覇のバッテリーも
投手=ミカン農家、捕手=漁師と
対照的な面構えだったろう。 箕島のイケメンと言えば、岩田さんですよね?
54年のチームでは宮本さんも男前で女子からよくモテたと聞いてます。 島本講平は南海に入団したが芽が出なかった。近鉄にトレードされてそこそこ活躍した。南海時代は亡くなったノムさんに嫌われていたと聞くが本当はどうだったんだろか。 昔話もいいが、本気で箕島復活を望んでいる者はおらんのか?
智弁和歌山は強いとしても、同じ公立の市立和歌山はがんばっているぞ。
その外、他県の公立も過疎でもがんばって戦力維持している学校はあるぞ。
箕島は過疎を言い訳に弱体化した負け犬なのかね? 箕島(有田)は県内基準では過疎地じゃないだろ。
むしろ都会のほう。 >>661
センバツ同時出場した大成の楠井主将とともに
男前キャプテンとして人気がありましたね。
>>654
やはりあの年の丸亀商は投手力が弱かった。
秋の県大会も尽誠に負けて二位での四国大会だったはず。
四国の初戦、松山商戦で9回逆転サヨナラで勝ってから波に乗った感じ。
明徳戦は雨の中、明徳の弘田が調子悪くて4-1で勝っていた。 82年春出場のチームからは下級生の吉井も含めて住吉、畑山と3人がプロ入り。
翌年の83年夏出場のチームからは吉井以外に山下、下級生の嶋田と3人がプロ入り。
メンバー外だった杉本も含めれば4人。
チームの大型化でプロ入りする選手も増えたけど、箕島のお家芸だった小技を駆使、相手のミスにつけこんで得点を重ねる試合巧者ぶりは徐々に影を潜めてきて・・・ 83夏の甲子園は硯のホームランがインパクト大だったが、
スランプまっただ中だった187センチの主砲・山下が、
送りバントを確実に決めるのを見て小技の箕島は健在だと思ったんだが。 77年春に優勝、直接コレラ事件があり、夏は気の毒だった 読売新聞の予選展望の見出しに「コレラ騒ぎが痛い箕島」と出ていたのを思い出す。
しかし紀和大会で智弁学園に勝てただろうか。選抜では勝っていたが。 >>671
甲子園での山下は送りバントを決めてるシーンしか記憶にない・・・
後にプロ入りする大型スラッガーが送りバントをきちんと決めてるのも箕島らしいといえばそうですが。 山下の和歌山予選映像を観た印象は、筒香ばりに左右に打ち分ける強打者だったな。
初戦の吉田の左腕三浦の変化球にタイミング狂わされたのが響いて、甲子園では別人になってしまった。 1970年夏の選手権初優勝
東海大相模メンバー
3番 和歌山出身
4番 大阪出身
5番 大阪出身
関西人のおかげで優勝できたw >>677
1970センバツで2回戦で箕島が東海大相模を破ってるけど
関西出身者が多い東海大相模に対する箕島のライバル意識は凄かったらしい。
特に和歌山出身の井尻主将には敵意剥き出しだったとか。
今とは違って、県外留学が故郷を捨てたと言われていた時代。 1970年の高校野球を調べてみたら、
箕島−東海大相模−岐阜短大付属の三すくみだったのね。ここに北陽とPLがからむ。
【春】
箕島 6 - 2 東海大相模
北陽 4 - 3 岐阜短大付
箕島 5−4 北陽 (決勝)
【夏】
岐阜短大付 6 - 1 箕島
東海大相模 3 - 2 岐阜短大付
東海大相模 10 - 6 PL学園 (決勝)
当時の新聞によると
春は広陵と西条が優勝候補の双璧。これを追って東海大相模、北陽、三重。箕島は大会前に正捕手がケガして戦線離脱したので評価を落としていた。
夏は東海大相模、箕島、広島商がビッグ3。PLも上位進出は堅いと評価されていた。 島本世代の話になると書き込みが少なくなるな。知っている住人は少ないのかな。
知っているのは東で優勝した頃からなのかな。
自分もそうだが。 >>682
島本世代の1970年だと箕島全盛期に中高生で夢中になって試合を見てた50代はまだ幼少期が多いから。 北陽と箕島の決勝は、一応親戚の家で最後まで観てた。親戚の子とゲームとか他の遊びに夢中で、真剣に観た記憶は無い。
松山商業と三沢の決勝も友達と遊んでた途中の、断片的な記憶だけ。 北陽一箕島は、大会中に起きたよど号事件関連のニュースのため放送開始が10分ほど遅れたらしいと聞いたことがある。 70年夏のPL、エース新美は熊本県出身とNHKのアナウンサーがテレビの試合放送で話していた。79箕島は、地元出身で固めて春夏連覇なんでしょう?凄いですね。星稜戦がクローズアップされて、起死回生とか奇跡とか言われるけど、玄人好みという言い方が似合うと思う。 強いというよりも「負けない箕島」のイメージが強烈すぎる。 78夏の中京戦は逆転されてそのまま逃げ切られたが、80夏の横浜戦は序盤で先行されたが中盤以降は押さえて終盤に追い上げ、1点差で9回裏先頭バッター出塁。勝利の瞬間に、愛甲「ほっと」した表情してたね。 あの横浜戦は敗れてもなお「箕島強し」を印象づけた一戦だったな。 PLが柏戸なら、箕島は大鵬。
大鵬は型が無いと言われたが、相手によって融通無碍の相撲が取れた。 大鵬とは、言いえて妙。最近の大阪桐蔭とかは、千代の富士の相撲みたい。70年代80年代の箕島は、勝っても負けても、二桁得点、二桁失点無かったのでは?試合が、荒れるということは無かった。 箕島の最多得点は10点。
77年春の豊見城、79年春の下関商戦。
最多失点は9点。二桁失点の試合はない。
73年夏の丸子実(荒川監督時代)、78年春の福井商戦。 >>690
やられるんじゃないか、と怖かった
と愛甲は試合後に話している。
あの頃の箕島の何かやるという不気味な迫力はすごかった。 >>695
80年のチームは一番箕島らしいチームだったような。
2回戦で選抜優勝の高知商を5−0で下した試合は箕島野球全開の会心の試合でした。 尾藤さん亡くなってもう9年が経ったな。
3.11の直前だった。 >>696
確かに最も箕島らしいチームだったかも知れませんね。
80夏も初戦は開幕日に都立初出場の国立、次戦は春の選抜王者の高知商。
そして準々決勝はその大会の優勝校・横浜。
対戦相手もバラエティに富んでいましたね。 春夏連覇の翌年で相当戦力ダウンしたと思うけど、よく夏に立て直してきた。 80夏、準々決勝箕島vs横浜が事実上の決勝だったのでは?あの大会、横浜は接戦や逆転勝ちもあったけど、常にリードしていた箕島戦が一番追い込まれ感あったのでは? 序盤は横浜が一方的に押していたのにねえ。箕島の二枚腰は本当に「負けてなお強し」
ヒタヒタと不気味に追走するマラソンランナーの凄味があった。 あとは思い出話しのスレに入り浸るしか無いな。もうネタは尽きてループさせるだけだけど あのユニフォームをふたたび甲子園で見る日はやってくるのだろうか。 現在の箕島の帽子のMマークは昔と比べて何となくずんぐりむっくりと言うか、ちょっと上から押しつぶしたように感じるのはおれだけ??
あと箕島だけではないが、両耳ヘルメットが義務付けられ、アンダーシャツもピッタリフィットタイプが主流に。
個人的には春夏連覇当時の片耳ヘルメットとゆったりアンダーシャツが箕島のユニフォームには合っていた気がする。 箕島がこれに勝てば甲子園というところで逃した夏は、
76年 紀和決勝1-3天理
86年 県決勝3-5桐蔭
88年 県決勝2-6高野山
2017年?県決勝 0-2市和歌山
かな。
選抜の補欠校というと、80年、2015年?
94年、2003年も惜しかったな。
むかしのことは瞬間的に分かるのに、最近は何年だか出てこないわ。 辻本
東
石井毅
上野
宮本
上野山
吉井
嶋田
杉本
岩崎 好投手が多かったが、基本的に箕島は打力のチームだったな。 >>711
黒潮打線と言われてましたよね。
ただ爆打ち試合ってそんなになかったかと。
智弁和歌山のようなド派手な試合はなかったように思います。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています