【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 あれから、もう40年経ったのか・・・・・・・・・・・・・・・ あの時の星稜エース堅田さんが審判として甲子園に帰ってきている。
堅田さんの結婚式には箕島の尾藤さんも出席。 春夏連覇は79年だが、石井一嶋田のバッテリーは前年も春夏出場。
春はベスト4。
夏は三回戦で中京に敗れたが、この試合、石井が前日の第四試合で投げていたため上野がマウンドに上がっていた。4-2とリードして8回1、2塁のピンチ、打者栗岡の場面で石井がリリーフするかなと思ったが続投、逆転3ランを打たれた。
石井は9回にマウンドに上がっただけに、ワンポイント継投が遅れた。
もしあの試合ものにしていたらこの年はどこまで勝ち進んだだろう。 なぜ、箕島はあんなに凄い試合を何試合もできたのか?
あの頃は箕島とPLの試合は何が起こるか分からなかった。 尾藤公さんの息子強さんは今年度で箕島高校監督を勇退。 83年夏の1回戦も劇的だった。
吉田高校(山梨)との試合。1点負けの1死3塁でスクイズ失敗。
2死走者なしとなり、絶体絶命となった状況から、同点ホームラン。
あの2打席連続ホームランを放った硯は当時2年。
箕島は翌年も甲子園に出場したが、そこに硯の名前はなく愕然とした記憶がある。 箕島←公立学区地域中心+県内学区外で優勝 4回 (春夏連覇以降の県外人数名は自主留学)
智弁←和歌山選抜+強力県外人レギュラーに平均3〜4人 全国制覇3回
箕島が盟主時代は他の公立も箕島と変わらない戦力だったため、箕島も県内でしばしば負けることがあった。 8月18日新人戦(実質秋季大会)
和専300 101 000 02=7
箕島101 101 001 03=8
9回に初めて追い付き、延長11回に2点差にされるも、11回裏に1死から5連打でサヨナラ勝ち 星稜が優勝すれば、天国の尾藤さんも喜ぶはず!生前山下監督が勇退するときに、雪国で色々苦労して来たから、1回でも優勝して欲しかったと語っていた。 >>8
結局甲子園は最初の夏だけだったな。
秋の近畿ベスト8ながら21世紀枠の桐蔭選出の余波で選考もれしたのが気の毒だった。 >>17
運がなかった。近江と箕島で争った最後の枠は準々の試合内容なら箕島だったが、滋賀が近年選抜に出てなかったのと好投手がいたためもある。 立命館宇治がベスト8止りなら、間違いなく近江と箕島選ばれていた。 それと箕島が久しぶりの甲子園になる場合は必ず選んでたと思う。 「逆転のPL」が売りになっていたそのPLに逆転サヨナラで勝利した79年選抜 監督の尾藤さんが味のある人だった。数年前久々に箕島が甲子園に帰って来た時、あまりに息子さんが父親に酷似だったので本当に懐かしかった。 強さんが就任して最初の夏に29年ぶりに夏の甲子園に出場したとき、東京から観に行ったわ。
山梨の日川相手に本塁打3本打たれ、かつての試合巧者ぶりはどこへいったのか寂しい内容だった。 私は神奈川の人間ですけど越境ファンて、大勢存在しそうですね。 あと一人まで追い詰められて、
そこから箕島の試合は何かがおこる。
あの土俵際の粘りは驚異的だった。 >>23
むかしは箕島はじめ池田、中京、平安、高松商、松山商、高知商、広島商、早実、横浜商、銚子商、土佐とか越境ファンが多い学校がめじろおし。
いまの甲子園で目立つのは越境の選手(苦笑) そう言えば平安とか土佐とか単独スレッドないですよね。あって然るべきなんですが。 >>18
箕島が選抜の補欠で思い出すのが80年。
春夏連覇直後で投手に人がなく(宮本が転向する前)、秋の近畿はベスト8どまり。
このころの近畿は7枠。最後のイスを兵庫の滝川と争って落選。甲子園3連覇がかかる学校を落選させるのか?と疑問に思ったものだ。 今年の大阪桐蔭のケース。夏は出てきて見事ベスト8まで進出したが優勝した横浜に
惜敗。2−3のスコア。初戦で都立国立と対戦して話題に。2回戦では選抜優勝の
高知商に完勝、と意地を見せた。 >>11
そうだったのか、いま知ったよ。硯の起死回生の本塁打は今でも覚えてる! 84年に取手二高に逆転負けしてから、勢いがなくなったように感じる。 箕島が強かったのは
尾藤さんやからよ
相手チームに礼儀正しかった https://office-morioka.com/h_baseball/seiseki/minoshima.html
昭和45年春2回戦東海大相模(昭和45年夏初優勝)は原貢監督(三池工・東海大相模で監督V)かな?
昭和45年春準々決勝三重(昭和44年春初優勝)は深谷弘次監督(甲子園V春2夏1、勝率7割5分)かな?
昭和52年春準決勝智弁学園は高嶋仁監督です。
後は記憶している人が多いと思いますので。 尾藤強監督はこの夏で退任したのか。
就任早々2013夏に甲子園行って幸先良いスタートを切ったと思ったが、2016センバツに選考漏れしたのが痛かったな。
尾藤ブランドで選手も集まりつつあったが、いよいよ完全復活の目は無くなったな。 >>31
別スレで書いたが、硯は直前にスクイズを外されて二死ランナーなしの土壇場に追い込まれてのバックスクリーン弾。
おそるべし精神力。見ていて鳥肌がたったわ。 タイブレークのせいで甲子園がつまらなくなった
元のルールに戻して欲しい 私もそう思う。延長18回で決着が付かなければ引き分け再試合というルールで良い。 星稜との18回の死闘のときは選手の健康管理上延長の規定を見直せとかいう声は出なかったな。
あまりにも18回のドラマのすばらしさにみんな酔っていたから。
ただあれが再試合になっていたらどうなっていたか。翌日の第一試合、朝8時半開始だったからな。石井は血豆つぶしていたから江川先発、堅田は投げられなかっただろう。 あの延長18回が素晴らしかったから、卒業後も石井や上野山とかあの当時の星稜の選手たちとも今も交流があるんだよね
今日の試合は星稜に勝って優勝して欲しい 確か25年くらい経って再戦した筈。当時と同じメンバーで。 再試合は94年に和歌山、2004年に石川、2010年の甲子園で完結
昨年は石井が始球式の時に堅田が球審 今回は星稜に優勝させたかった。大阪代表はしょっちゅう優勝しているイメージがあるもんで。 >>46
今回は星稜の優勝を期待する声があまりにも大きすぎて地元のはずの履正社がアウェイになってた・・・
履正社も大阪は大阪桐蔭じゃないと優勝できない、なんて声もあったみたいだからそれを払拭できたし今後も大阪桐蔭との2強対決は続きそう。
残る課題は夏の大阪桐蔭との直接対決で下しての甲子園出場か? 大阪最強、は認めざるを得ない。これだけ実績を重ねられると。
和歌山も全国での勝率の高さは素晴らしいが、層が厚くなって、「1強」に近い
状況から脱却して欲しいと期待している。 >>48
今年の市和歌山も智辯には分が悪かったし。
箕島全盛期は県内では苦戦してても甲子園だとPLが相手でもひけを取らなかったけど。 78、79年と春の選抜で2年続けてPLを撃破していた箕島。 >>48
元々、和歌山は一強時代が多い。
昔は和歌山中学の14年連続出場なんてのもあった。
その後は嶋清一がいた頃を中心に、海草中学の時代があり、
それから驚異の粘りの箕島の時代、
そして今は強打智弁和歌山
ただ、出るだけではなく
それぞれの学校が甲子園で強烈なインパクトを残しているのが凄い 箕島の全盛期でも
時々、他の学校も出ていた。
新宮、和歌山工、御坊商工、星林、南部
その中でも御坊商工はやけに印象に残っている。 >>52
箕島は基本学区内の生徒が中心だったから、他の公立も戦力十分だった。箕島もちょくちょく負けることがあった。箕島は外弁慶であった。 >>54
薮は今も和歌山市議会議員やってます?
他県なもので議員になってることを知った時はびっくりでした。 24の瞳で中村高校が大旋風を起こした時の優勝校は実は箕島。 箕島は強打とい感じではないので、
圧倒的な強さ見たいのは感じないが、
あの終盤の粘りというか逆転劇は驚異だった。
中盤くらいまでリードしていても、
最後にはやられるという恐怖が常にあった。
昭和55年夏の横浜はよく1点差を逃げ切ったものだよ。 >>58
試合終了の瞬間、愛甲はマウンド上でジャンプして喜んでました。
箕島が相手だと試合終盤の粘りの重圧はすごいものがあったのでしょうね。 序盤は横浜のワンサイドゲームになりそうな雰囲気だったがよく盛り返した。負けてなお強しだった箕島。 >>58
愛甲も「やられるんじゃないか、と怖かった」と試合後に語っていた。
あのころの箕島の何かやるんじゃないかという不気味な圧力感は相当なものだった。 >>53
前年春のPL戦、夏の星稜戦での激闘など当時の箕島の終盤の粘り腰は相手からすると脅威で。 18年ぶりに出場となった2009年選抜でベスト8進出。 あまり話題にはならないけど、82年選抜初出場の明徳との試合も凄い試合だった。 >>64
明徳との延長14回の激闘が話題にならないことなんてないかと。 この9回裏の同点劇は5番上野が2アウト2ストライクまで追い込まれてのものです。
2点差もあって実況席の雰囲気もこのままPL勝利でしたね。
http://nekkyu.com/before/nekkyu-no-kioku/51senbatsu-minoshima-pl.html 1983夏の吉田戦は劇的な試合ではあったものの、こんな相手に苦戦してこの先大丈夫か?という不安を感じさせるものだった。 強豪相手に快勝したという意味では1980年夏の2回戦でセンバツ優勝の高知商を5−0で一蹴した試合と1982センバツ1回戦で東の優勝候補・上尾を寄せ付けず6−2で勝った試合。 1982年センバツの明徳は、
前年夏選手権ベスト4で春もダークホース的存在だった瀬田工を初戦で11-0圧勝でしたから、
箕島戦の注目度もわかりますね。しかも勝ったら次PLですから。 1982センバツは上尾〜明徳〜PLと対戦相手が厳し過ぎた。それでもベスト8は価値の高い成績。
同じように1980夏は戦力的には大したことなかったが国立〜高知商〜美濃加茂〜横浜でベスト8。これも立派。
1983夏は吉田〜駒大岩見沢〜高知商で3回戦敗退。やや期待外れ。
1984夏は取手二に初戦敗退。春夏連覇以降では一番戦力があったこのチームで勝ち進めなかったのが痛い。箕島終焉を感じさせる試合だった。
あとは1986夏の和歌山大会決勝での敗退。2年生エース尾藤強で甲子園へ来ていれば話題になっただろうし、まだまだ箕島時代も続いたかも知れない。 82年は上尾の日野という屈指の好投手を相手に快勝(ただし、日野は以後、
急速に失速)。
やはり84年夏の初戦敗退(島田弟の時)が惜しまれる。とは言え、箕島に
勝った取手二高が全国制覇。実力は文句なしに上位だった。 >>61
愛甲投手3年時の神奈川は横浜・東海大相模・ジャンボ左腕宮城の横浜商の3校は甲子園でも上位必至の評判で、
中でも横浜・東海大相模は夏予選前から夏甲子園に出れば優勝候補筆頭と期待が高かったですね。
横浜の夏甲子園初戦は春四国大会を制し久保監督が夏優勝を狙いにきた高松商。
試合は実力的には横浜・高松商ともに差が無いように見えて、終わってみれば横浜8-1高松商の大差でしたね。
中西投手の春V高知商は夏は横浜とともに東西横綱でしたが、
たしか記憶では高知決勝の明徳戦の激戦消耗から本大会は気が抜けているように感じました。 MINOSHIMA 和歌┃山
ユニがカッコええわ! 1983夏のメンバーに硯っていうのと、勘佐っていうのが居たよな?
子供心にこの二人が何故か怖かった記憶が 尾藤監督最後の甲子園だった1991センバツも大阪桐蔭に4−6と惜しい試合だったね。
エース山路がいて久々に力のあるチームだった印象がある。 >>66
いや上野の場面は2死2塁、スコアは2-3の場面。この回上野山だったと思うがスクイズで1点を返しなおもチャンスだったが北野のスクイズがフライとなり併殺、一転して追いこまれた場面だった。
83年夏の吉田戦の9回裏をほうふつさせるが、このときも植野が右中間に大三塁打を放って同点にこぎつけ、延長10回裏のサヨナラにつなげた。 >>67
完全同意。打倒池田の一番手だったのに吉田の三浦の緩いカーブを振り回して凡打の山。
こんな弱小相手(失礼)になにやってんだ、とテレビの前で歯ぎしりしながら見ていた。
本来ならミラクル発揮するまでもなく一蹴していた相手。 >>78
吉田には後に西武で活躍して監督まで務めた田辺徳雄がおりました。
その田辺は箕島戦では延長で同点に追い付かれる失策するなど全くいいとこなくでした
箕島のチーム自体もこれで池田が相手ではどうなんだ?という感じで・・・ >>71
尾藤ジュニアは2年夏は準決勝で2回に足に打球を受け、リリーフの原井が100球以上投げることに。内野が本職の原井には連投は厳しく、翌日は明らかに疲れがあり桐蔭に9回に逆転を喫する。
3年夏は準々決勝の延長16回の熱戦の末に伊都を下したが、翌日の準決勝ではナインが疲労困憊で吉備に0-3で完敗。
尾藤ジュニアの高校時代は運に恵まれなかった印象がある。 尾藤さんは強さんが選手のときに甲子園に出たかっただろうな。
なんのタイミングか、ちょうど強さんが入学したころから甲子園に出られない箕島の低迷が始まってしまった。 浪商OBの香川に言わせたら春夏連覇した1979箕島は明らかに
格下のレベルやったらしい
練習試合とかボコボコにいわせてたらしい
石井は大したピッチャーやなかったけども、牛島がニコ厨で
スタミナが無かったから甲子園で5連戦は息が上がって話にならんかった
初戦や2回戦で当たってたら100%勝てる相手だったとか言ってたな 1979の春は下馬評では箕島はそんなに高くなかったからね。
でもフタを開けたら強い強い。
下馬評レベルだと1977の春の方が上だったかな 77は東投手がいてたね
春はあれは打てないという凄いキレのあるカーブを投げてたね
夏はコレラ騒動で出られなかった
あの時出場してたら東洋大姫路に勝って春夏連覇してた可能性が高かった いや77年は下馬評にあがっていなかった。
77年は近畿勢では天理、智弁学園の奈良勢が評判高かった。
79年は選抜前の下馬評は浪商、高知商と並んで3強に挙げられていたはずだが。 >>83
79年春は優勝候補筆頭。先発江川とはいえ浪商にコールド負けだったのに、
浪商よりも上だったのは記者の目が確かだったのか。
77年は8番手以降。天理熊工智弁星稜作新名電早実等々の後。
10数番手だったかも。 >>75
勘佐は83年 84年で中軸、硯は83年で、それぞれ家業のみかんと、社会人野球の西濃で出世されてるわ >>84
有田コレラで大会前練習不足でしたな。決勝まで行ったが、田辺にサヨナラ暴投で負けたと思う。優勝なら紀和大会は高嶋智弁学園だったから、選抜の再戦だったけど >>86
近畿準決勝は、控えの選手を試すのことが多かった。それと箕島は外弁慶型だったから、甲子園では強かった。 選抜優勝したものの、東は故障で投げられず、
この年は天理、智弁学園の奈良勢が強く、県大会で勝ったほうが紀和大会も勝って甲子園に出場するという予想が大半だった。
この年は天理、智弁学園の二強時代でも屈指のレベルだった。箕島は選抜で智弁に勝っているが夏は難しいだろうという声が多かった。
このころの紀和大会は奈良の勝利が続いていたし、しかも有田コレラの騒動で練習ができなかったのが決定的だった。
結局、県大会決勝(紀和大会への代表決定戦)で田辺と対戦、延長10回東の暴投で先制点をとられ、もう1点取られて0-2で敗れた。田辺の投手は巨人入りした木下だった。 57年優勝候補大本命
58年優勝候補一角打倒池田一番手
59年優勝候補打倒PL一番手
この3年間で一度は優勝していてもおかしくなかったが、衰退の始まりを作ってしまった。箕島が私立ならまだ状況は違ったと思うが… >>17
全盛期の監督だった尾藤公が思い付いて春の甲子園でゴリ押しされた「愚行枠」に弾き飛ばされたのですから、単なる「自業自得」に過ぎませんね(苦笑)。 尾藤監督はPL教団から注目されていて鶴岡監督の後任候補まで挙がったらしいね。
PL尾藤の可能性もあったわけだ。 >>93
あんた、エレベーター会社みたいな名前だな(笑) >>70
一応瀬田工は西崎もリリーフで投げてたな
82年春の近畿大会、PL戦をガラガラの神戸市民球場で見た。吉井の好投報われずこの試合も惜敗。尾藤監督を至近距離で目撃したけど、思ってたより背が小さい人だった印象。 確かに、S57年のセンバツは惜しかった。
明徳戦の14回完投翌日連戦の上野山は1失点で0-1で完封負け。
まあ、榎田からさっぱり打てなかったけどね。 1992年だったか、山路-九鬼バッテリーのときの
大阪桐蔭戦も悔しいね。リードしてて8回に逆転負け。
山路のカーブにヤマハってた大阪桐蔭の打者のスイングが今でも忘れられんw >>98
1991年春ですね。
尾藤さんの最後の甲子園になってしまいました。 >>92
この3年間は6期連続で甲子園出場して当然の戦力だった。
82夏は2回戦で吉備に2-3
82秋は県2次予選1回戦で新宮に3-4
83秋は県2次予選1回戦で耐久に2-3
といずれも競り負けて甲子園出場を逃す。
以前はこのようなきわどい展開の試合は必ずモノにしてきたけどね。
当時は全く気づかなかったけど、知らない間に凋落の影が忍びよっていたんだな。 70年春島本の時の決勝も、北陽応援しながら見てた記憶ある。
夏は雨中の試合惨敗して、子供心にザマ〜wとか思った記憶も 俺は明徳戦だな。延長で勝ち越したのに
追いつかれて、次の回再度勝ち越した時に、
当時のおじいちゃん監督が
ベンチでオロナミンCをグビーっとやってる
ところを中継カメラに抜かれ、
アナウンサーが、嬉しそうに、
おおっ!なんか飲んでますよ?
と実況してたのが忘れられない。
その裏箕島が逆転サヨナラ勝利。
明徳義塾が明徳だった頃の話。 >>97
あの年の選抜は組み合わせが悪すぎた。
四日目第一試合で関東の優勝校上尾
七日目第二試合で明徳と14回の大激戦
八日目第三試合でPL
PLは東北、浜田だったから対照的に緩い組み合わせだった。
組み合わせで箕島とPLの位置が逆だったら結果は逆だっただろうな。 >>103
最終回、ワンアウト2,3塁で4番の南村にスクイズ!見事失敗w
5番和泉投ゴロで万事休す。
南村には打たせて欲しかった。 春夏連覇時、見事にプッシュバント戦法がハマって以降、ちぐはぐな攻めが増えたのが凋落の一因になってしまったな
前年までは基本的に、思い切りよく打たせる野球だったような気がする >>104
上野山が疲労にもめげずに一点に抑え、最終回榎田が悪送球してチャンスになったときは逆転かと思ったがな。
南村はタイミングがあってなくてまるで打てる気配がなかったので急きょスリーバントスクイズのサインを出した、と後日尾藤監督は語っていた。 箕島と言えばプッシュバント。
後、意外に語られたないが、
決勝の池田戦で決勝点になった、
8回裏のジャンピングスクイズ。
あれはお見事だった。 >>109
自分はバントが苦手、と南村は試合後に泣いてた・・・ 79年春の倉吉北戦で1試合10犠打の大会記録で倉吉北の矢田を攻略するなどバントの箕島の異名もあったけど、肝心な場面での失敗も多かったのね。
79年浪商戦では北野が、82年春PL戦では南村が、83年夏吉田戦では硯がスクイズ失敗して窮地に。
浪商戦は後続の上野が同点打、吉田戦は硯本人が同点弾で取り返したけど・・・ 尾藤監督は采配面では特に優れていたわけではないね。
選手をノビノビやらせることで力を発揮させることには長けていた。 >>113
実際にグラウンドに立つのは選手だから、ある意味正解かもね。でも今の高校生は逆にその方が判断できないのかな? 箕島と智弁和歌山が覇権を争う時代があれば面白かったな。入れ替わりのような勢力図の変化だったから。 >>113
>>114
尾藤スマイルは試合だけ、普段の練習は鬼のように怖かったと。
だから選手たちは試合では尾藤スマイルで伸び伸びとやれたのかと。 尾藤Jr.が監督就任してから部員数も増えて夏の甲子園にも出場。名門復活の兆しが見えたが、近年の低迷が理由なのか分からないが監督退任。これで箕島も本当に沈んで行くのかも。 >>114
のびのび野球とよく言われたが、練習は厳しかったし、あのころは自主性があるというか、試合でも監督の指示だけでなく自分で判断してプレーできる選手が多かった。それがあってののびのび野球。とくに嶋田の野球センスはすごかった。
いまは監督の指示待ちの選手か多いのでは。 >>115
智弁和歌山が夏の予選で初めて箕島を破ったのは91年。
それまでは箕島に4連敗か5連敗していた。夏の甲子園には87、89年とすでに出ていたが、いずれも箕島と対戦していない年だった。 いちど破るとあとは負けることはなくなった。
96年秋だったか、智弁和歌山は箕島に33-0で大勝しなかったか? >>119
58 59 60 61(夏) 61(秋) 63(夏) 6連敗!
ちなみに、尾藤7勝 高嶋1勝(甲子園含) >>120
新人戦決勝!
ちなみに智弁和歌山は全チームに勝ち越しているが(対戦校)、一番負けてるのは当たり前だが箕島 >>123
その33点取られた試合、2年後の不祥事で出場辞退したときは涙が出た。
堕ちるところまで堕ちたと。 箕島3ー5取手二
PL7-11智辯和歌山
Y校5-8沖縄水産
帝京2-5八幡商
衰退期突入のターニングポイント的な負け試合があるな >>126
池田は83年夏のPL戦?
でもあの後も選抜優勝したりして強豪の印象はあったから、延長14回の末2-3で負けた88年夏の浜松商戦と思う。 横浜 4−9 大阪桐蔭
2006年の時は大阪桐蔭が番狂わせを演じた感じだけど、2008年は横浜が力負け。これ以降、横浜は甲子園でも勝てなくなってきた。逆に大阪桐蔭は2008年に優勝後、全盛期を築き始めた。 >>127
92年夏の拓大紅陵戦では?
立川にものの見事に逆転2ランを打たれ、それを最後に22年間甲子園に出られなかったし。 >>128
公立にありがちな名物監督の退任=衰退。
ほかには津久見、桐生、上尾、取手二、銚子商、横浜商、岡山東商、倉敷工、宇部商、新居浜商、豊見城、沖縄水産などが思い浮かぶ。 箕島の新監督はOBではないようですが、今までOB以外での監督はいましたっけ? 池田って甲子園での延長戦、サヨナラはあまりないんだよね。とくに86年まではほとんどない。
延長戦は
74年春準々決勝 2-1倉敷工(12回)
87年夏二回戦 1-2中京(10回)
88年夏二回戦 2-3浜松商(14回)
91年夏一回戦 5-4国学院久我山(10回)
91年夏三回戦 6-8帝京(10回)
サヨナラは
87年夏一回戦 5-4八戸工大一
87年夏二回戦 1-2中京
88年夏二回戦 2-3浜松商
91年夏三回戦 6-8帝京
92年夏三回戦 4-3神港学園
2014年春一回戦 4-3海南 箕島の延長戦は六戦全勝
70春決勝 5-4北陽 12回サヨナラ
79春準決勝 4-3PL学園 10回サヨナラ
79夏三回戦 4-3星稜 18回サヨナラ
82春二回戦 4-3明徳 14回サヨナラ
83夏一回戦 4-3吉田 13回サヨナラ
2009春二回戦 4-3開星 10回 >>130
正直言ってその頃の池田は、
甲子園には出ていたが、
かつての池田の面影は全くなかった。
82〜83年が全盛期だとすれば、
88年くらいまでは、かつての池田の面影はかろうじてあったが。 箕島は84年が最後かね。
初戦敗退だったとはいえ、
杉本、嶋田というドラフト1位の投手が2枚いたし。
力的にはかなりあったと思う。
PLはPLらしさがあっあのが87年が最後か。
98年の横浜戦が甲子園での最後の輝きだった。 >>137
PLは94年宇高のチームが春夏連覇後ではいちばんらしかったと思う。 >>95
2001年から春の甲子園にゴリ押しされた「愚行枠」反対派の高校野球ファンなだけですよ。 >>138
その宇高がエースのPLに秋の近畿大会準々決勝で1-7で敗れてセンバツを逃したんだよね。
同じベスト8だった智辯との比較だったが、県の決勝で勝っていた智辯が選出された。
初戦で神港学園にコールド勝ちして、ひょっとしたら…と思ったけどPL相手ではやはり厳しかった。 >>141
尾藤監督が最後の頃ですかね。
確か監督退任は95年だったから。 >>141
あの頃の近畿の枠は7。
近畿大会はベスト4が大阪、兵庫で独占。
ベスト8敗退が石山、高田商、智弁和歌山、箕島だった。
やはり地域性で和歌山のどちらかが落選するよな。智弁和歌山には県決勝で4-6と敗れ、優勝校とはいえPLにも1-7と大差つけられたらこれは無理。
それでも報知の選抜予想号では「智弁和歌山、箕島で争う7校目のイス。智弁和歌山が有利だが、選考会当日まで目が離せない」と書いてあった。これはひいきがすぎるし、智弁和歌山の戦力を考えたら7番目に選ばれる学校ではないだろうと思った。現に選抜では優勝したわけだし。 >>143
尾藤さんも晩年は苦労したな。
85年から95年までの11年間で甲子園出場はわずか1回。
銚子商の斎藤監督と同じだな。 そもそも公立高校であんな田舎の学校に毎年甲子園行けるだけの選手が集まるのは難しい。 箕島は初優勝した70年の選抜、東海大相模、三重、広陵、北陽と対戦した相手すべてが私学、かつ前年秋の地区大会の優勝校で選抜でも有力な優勝候補だった
こうした例はおそらくないと思う。 箕島の春3度優勝のうち、70年、79年は2回戦からの登場で4勝して優勝。
夏優勝の79年も2回戦からの登場で5勝して優勝。
相手関係は別にしてくじ運という面ではツイてたかな。
その中で数々の激闘を脅威の粘り腰で制してきたから。 島本弟がいた72選抜と73夏は、たしか尾藤監督じゃ無かったっけ?
試合は何と無く見てた記憶はある。 72年選抜で初戦敗退したあとに尾藤さんは辞任。後任は荒川さんで73年夏に出たを >>150
情報どうも
私学にはめっぽう強いのに、72は倉敷工業73は丸子実業となぜか公立相手には苦戦 72年春の倉敷工業は好投手山本を擁して優勝候補の一角だったから。 >>151
尾藤公さんの甲子園成績は
私学には18勝5敗
公立には17勝5敗
とほぼ同じ。
それ以外の監督のとき(荒川、松下、尾藤強)は
私学には1勝0敗
公立には1勝3敗 93秋近畿大会準々決勝のPL戦は、尾藤-中村最後の対戦だったね。
公式戦限定だと中村3勝(82選抜、82春近畿、93秋近畿)尾藤1勝(81春近畿)。
鶴岡監督時代は、尾藤2勝(78選抜、79選抜)鶴岡1勝(77秋近畿)。
もっともこの時期はPLより天理と相性が悪かった。勝ったのは78秋近畿くらいしか記憶にない。
そういえば甲子園では天理とは一度も対戦していないよね。 76年、箕島は天理に春夏秋と負けたんだよな。
春の近畿大会で7-10
夏の紀和大会で1-3
秋の近畿大会で0-4 あれだけ選抜に強かったが、不思議なことに秋の近畿での優勝は一度しかない。
選抜に出たときの前年秋の近畿大会の成績は、
67年秋…準優勝
69年秋…準優勝
71年秋…ベスト4
76年秋…ベスト4
77年秋…ベスト8
78年秋…ベスト4
81年秋…優勝
90年秋…ベスト4
2008年秋…ベスト8
これは智弁和歌山にも通じるものがある。 >>149
島本啓次郎も男前だった。
プロではまったくダメだったのは残念。
アナがありすぎたか。 >>161
男前といえば82年主将の岩田充裕。
マツゲン箕島のHPの画像見ると55歳の今でも年齢を感じさせない若々しさで。 尾藤強も甲子園出てれば、そこそこアイドル扱いされてたはず 尾藤Jr.の監督退任理由は?
結果が出ないからか?それとも仕事との両立が難しい?
年齢的にはまだ50歳で老け込む歳じゃないと思うけど。 智弁和歌山は倒せる相手じゃない、と限界を感じたのかも。 せっかく尾藤Jr.を監督招聘し、学校もスポーツビジネス科を新設して力を入れようとしていたのに。2013夏に甲子園行って、早速結果を出したのは良かったが、2015センバツ選考に漏れたのが痛かった。
もう箕島の復活はないし、野球部員もまた激減してしまうんだろうな。
さらば箕島高校 松源の西川監督が、箕島高校の監督に就任してりゃ
もっとちがった結果になったんだろうけど。
でも当時(クラブチーム結成時)はまだ尾藤さんが監督してたかな?
箕島球友会ってクラブチーム的な立ち位置で結構すごい結果だしてるよね。
これって西川さんだから出来ること。 >>164
あそこはOBがうるさいねん
まあ本人にもよくない噂もあったけどね
でも外野から見ればもったいないね >>168
西川監督って、77〜78年主軸のあの西川か? 西川は二年のときのほうがよかった気がする。山沖から三塁打も打ったよな。
三年夏は不振でスタメン落ちした試合もあった。広島工業戦は代打だったな。
尾藤監督によると、夏の練習後のバスの中で配られたジュースを一人で二本取って受け取れなかった部員が出て監督が怒ってスタメン落ちしたとか。 79年選抜の8強
箕島、浪商、PL、東洋大姫路、倉吉北、川之江、尼崎北、池田
79年選手権の8強
箕島、池田、横浜商、浪商、城西、高知、大分商、比叡山
40年後のいま、高知以外はほぼ甲子園に出てくることはなくなった学校ばかり。 春夏連覇のあと、急激に衰えたな。
80年代は7勝4敗
90年代は1勝1敗
2000年代は2勝1敗
2010年代は0勝1敗 >>178
あの試合は良かったね。負けたけどPL戦も良かった >>117
時代遅れの「尾藤野球」を墨守する限り、箕島が常連校の地位を取り戻すことはないと思いますね。そもそも、当時の『報知高校野球』に載っていましたが、尾藤公は1988年の代でボイコットされた時点で「時代遅れ」であることを証明しています……(苦笑)。 おまえ箕島が嫌いなのは分かるけど、いちいちこのスレに出没するなよ。 あれから40年がたったが、
石井、嶋田、上野山、上野、北野、森川、宮本・・・
今でも当時のメンバーの名前がすらすら出てくる。
それだけ強烈な印象が残っている。この時の箕島は。 春夏連覇時の主将・上野山善久氏が有田市議会議員に当選したようだ。 校歌も自然と覚えてしまったな。
あのころはいやになるほど甲子園で耳にしていたから。
凜烈の意気〜 >>158
熱闘甲子園かなにかのダイジェスト版ならあるよ。
あの試合をよく見てみると、
2−3で迎えた9回裏、箕島の最後の攻撃で、
代打で出て来た先頭打者がいきなりヒットを打ってる。
これはまた、逆転劇が来るかなと思ったが、
なんとか横浜が凌いだ。
あの当時の箕島相手に、
1点差を逃げ切るのは、相当しんどかったろうな。 >>186
しかしあの9回、不振の森川に代わり代打に出た平川だっけ?左打者だったんだよな。
左腕の愛甲に対してあえて左打者出してこれがヒットしたからこれは同点か?箕島の魔術炸裂かと思ったが。
つづく打者のバント失敗が痛かった。当時の大会記録を更新するほどこの大会はバントが決まっていただけに皮肉だった。 >>186
熱闘甲子園は81年スタートだから、おそらくそのダイジェストは、毎年年末に放送してた「想い出甲子園」だね。
いつも楽しみに観てた。 いや、大会中に放送していた「高校野球ハイライト」と当日夜のNHKのスポーツニュースの映像だろう。
自分も持っている。 1980夏の箕島はある意味春夏連覇したチームよりも箕島の凄さを感じさせたな。
前年より遥かに小粒なチームでありながら、センバツ優勝の高知商業・中西を攻略して完勝。
前評判通りに優勝した横浜を相手にじわじわと迫り、相手に恐怖を感じさせる戦いぶり。
1980箕島こそ、箕島らしさ満載のチームだったと思う。 前年につづいてトップバッターは捕手だった。古嶋だっけ。 1978春準決勝 箕島 3−9 福井商業
1978夏3回戦 箕島 4−5 中京
1980夏 準々決 箕島 2−3 横浜
1982春 準々決 箕島 1−2 PL学園
1983夏 3回戦 箕島 2−8 高知商業
1984夏 1回戦 箕島 3−5 取手二高
負けた試合の中で一番良い内容だったのは横浜戦かな?内容的には完敗だったが、最後まで食らいついたという試合。
福井商戦はまさかの守乱。
中京戦は好ゲームだったがエース石井の投入がもう少し早ければ栗岡の逆転3ランは避けられたかもしれないという点で悔いが残る。
PL学園戦は最終回の攻め方に疑問が残る。
高知商戦はただ完敗。
取手二戦は相手の勢いに飲まれた。 1978春準決勝 箕島 3−9 福井商業
1978夏3回戦 箕島 4−5 中京
1980夏 準々決 箕島 2−3 横浜
1982春 準々決 箕島 1−2 PL学園
1983夏 3回戦 箕島 2−8 高知商業
1984夏 1回戦 箕島 3−5 取手二高
負けた試合の中で一番良い内容だったのは横浜戦かな?内容的には完敗だったが、最後まで食らいついたという試合。
福井商戦はまさかの守乱。
中京戦は好ゲームだったがエース石井の投入がもう少し早ければ栗岡の逆転3ランは避けられたかもしれないという点で悔いが残る。
PL学園戦は最終回の攻め方に疑問が残る。
高知商戦はただ完敗。
取手二戦は相手の勢いに飲まれた。 83年高知商戦も、最終回の本塁アウトは惜しかった。田伏キャプテンの負傷が無ければもう少し接戦になってたかも >>196
吉井が津野に満塁ホームラン浴びて・・・ >>192
東の横綱・横浜vs夏2連覇を狙う箕島
まさに黄金カードだった。
80年夏は横浜の方が遥かに戦力があったと思うが、
負けたとはいえ最後は接戦にまで持っていく、
当時の箕島の凄さ。
今、改めて感じるね。 >>195
1982春 準々決 箕島 0-1 PL学園
では?
箕島の甲子園での唯一の完封負けの試合。 高嶋監督は強豪校には「旬の時期」が5年とか10年ぐらいあって、その間には何をやっても勝てると言っていた。
箕島で言えば、1970センバツ優勝〜1979春夏連覇がまさに「旬の時期」だったんだろう。
80年代に入ってもいくつかの伝説的な試合を演出したが、大会で勝ち切れなかったのは旬が過ぎていたということ。
永遠に絶対的強さを維持できる学校はない。
あのPL学園も池田も横浜も智弁和歌山も旬を過ぎてからは甲子園に来ることはあっても優勝出来なくなった。
今の大阪桐蔭も恐らく、昨年の春夏連覇がピークだったと思う。これから緩やかに下っていくと思う。 箕島は古きよき時代の高校野球の象徴的なチームだった。
田舎の公立高校、バント戦法を巧みに使い接戦を勝ち上がる負けそうで負けない強さ、奇跡的な逆転劇。
今の時代、そんなタイプのチームは甲子園に出てこない。
かつての箕島には遠く及ばないものの、関東一高などは甲子園出てくるたびに接戦を勝ち、毎回爪痕を残していく、箕島に近い匂いを感じるチームかな。 >>201
箕島は70年代にだけ優勝(四回)しているが、実は71年〜76年は甲子園には二度出ただけで勝っていないんだよね。
本当の黄金期は77年から80年までの四年間。この間、春夏ともに三年連続出場して合計22勝3敗。 >>204
箕島だけでなく和歌山県勢全体が77年までは夏の紀和大会で奈良県勢の天理、郡山が壁になって。
2回目の選抜優勝した77年夏は地元のコレラ騒動もあって県大会決勝で田辺に敗れてと。 >>186
箕島はメンバー入れ替りで、しかも優勝候補の力がある横浜相手で、尾藤はんも力の差を感じていた。 3前半から3-0と一方的になるかと思ったが、箕島が追い上げ威圧感は半端なかったと思う。 >>204
大阪桐蔭並の勝率ですな!箕島が私立ならもう少し長く続いたと思うが、和歌山全域どころか基本公立学区内の生徒中心だったから、今思えば奇跡的な戦跡だった。県外人が自主留学するようになったのは春夏連覇の翌年から >>205
あのころの紀和大会は奈良の独壇場。
70年に島本の箕島が郡山を5-4で破ったのを最後に奈良の6連勝で幕。
その間、箕島が紀和大会に進んだのは76年だけ(1-3で天理に敗退)。尾藤監督が去っていた時期もあって70年代を通して常勝というわけではなかった。 箕島黄金時代の中でも特筆すべき選手は嶋田宗彦だろうな。
あんなに勝負強いトップバッターって、その後もなかなかいない。 >>198
天気予報が雨だったから、チームメイトと朝までトランプしてたんだよな!ところが、天気が外れてしまった。体調不良で嶋田に投げさせて欲しいと、尾藤監督に言ったが却下されたと、後に語ってられましたね。
一睡もしてないのによく投げたわ(笑) >>211
箕島は後攻めならいつもワクワクしたが、サイレンがなり終わる頃に、既に二塁ベースにいる嶋田も印象に残る! 第一試合で表の場合、試合開始が1〜2分前倒しになることが多かったが、NHKの中継は8時丁度だったから見逃すこともあったが 石井毅ー嶋田宗のバッテリーってピンチのとき配球の考えがピッタリ一致してそう。
当時ライバルだった浪商の牛島ー香川のバッテリーはそういう感じがしなかった。
尾藤監督もこのバッテリーには絶大な信頼を置いていたと思う。 嶋田の野球センスはすごかったと尾藤監督も話していた。
自分で試合をメイクできる、野球を知っている選手。
いまこういう選手いないな。監督の指示待ち、ただ打つだけの選手ばかり。 >>215
嶋田はPLからスカウトされてたんだね! 箕島優勝4回← 公立学区内の近辺の生徒+和歌山市内から少数で、県内全域ではない。(春夏連覇以降に県外人が自主留学)
智弁和歌山優勝3回←県内全域と県外一学年2名(中学三年時に和歌山県内に移住者は除く)
智弁和歌山も県外ばかりではないが、学区内中心の箕島は凄かったと改めて思う。 >>217
確か尾藤監督にもPLからスカウトあったとは聞いたことがある。
当時はPLはまだ新興に近い学校だったもんね >>219
当時は有田市近辺の中学生のレベルが高かったのね。
その中学生たちはこぞって箕島に進んで。
今は有田市近辺の有望中学生も智辯から声がかかったりすればそちらに行ってしまうか。
市和歌山の左腕エース岩本も出身は湯浅だから箕島の学区内だけど市和歌山に・・・ >>213
80年夏の児嶋も前年の嶋田と同じく1番キャッチャーで。
2回戦の高知商戦では初回、児嶋がいきなり中前打で選抜優勝投手の中西を攻略するきっかけを作って。 嶋田は甲子園での全16試合でヒットしたんだよな。
印象に残るのは二年夏の能代戦のいきなりの三塁打、そしてもちろん星稜戦の同点アーチ。 >>213
嶋田が出場した全16試合中、箕島はほとんど後攻だぞ。
先攻だったのは78年春の準々決勝(その日の第三試合)のPL戦、79年春の二回戦(その日の第二試合)の下関商戦、79年夏の二回戦(その日の第四試合)の札幌商戦の3試合だけ。
第一試合で箕島が先攻だったのは一試合もない。 >>222
児嶋が中西の初球をヒットしたのはライト前じゃなかったっけ?試合開始のサイレンが鳴り響いていたな。 >>220
箕島が4回優勝した時点でPLは1回だったからな >>221
今年の智弁の西川や数年前の浦和学院の子、10年ぐらい前か、済美のエースは箕島中卒とか流失してれね 池田との決勝戦、嶋田宗彦が先頭でヒットで出塁し、すかさず二盗、三盗。そして内野ゴロ?犠牲フライ?だかで先制点取ったのが印象に残っている。
初回に自ら盗塁を試みて、あの捕手なら走れることをチーム全体に示した。春夏連覇の箕島はまさに嶋田宗彦のチームだったな。 学区内中心で、毎年有田地方に多い苗字の選手がいた箕島が好きだった。県内でも学区外は少なく、他校も戦力があり箕島も負けることもあったが、かえってそんな箕島が好きだった。 嶋田は漁師の息子。父親譲りの気の強さと背は低いがガッチリした下半身。
尾藤ジュニアも箕島高校時代は嶋田家に下宿して嶋田の父親に厳しく育てられたようだ。 1977春 箕島
1977夏 東洋大姫路
1978夏 PL学園
1979春 箕島
1979夏 箕島
1981春 PL学園
1981夏 報徳学園
1982春 PL学園
近畿勢全盛期の70年代後半〜80年代初め。
その中でも先頭を走ってたのが箕島。
あのPL学園関係者がウチが名前負けするのは箕島ぐらいと言っていた。 >>228
星稜戦の12回裏二死の土壇場でも、意気消沈しているベンチを奮い立たせようと「監督、ホームランねらってもよいでしょうか」と宣言してそのとおりホームランしたしな。
余談だが、甲子園史上最高の捕手としてこの嶋田を挙げる高校野球関係者は多い。 >>231
この時期の大阪でPLを脅かすチームは、牛島・香川在学時代の浪商くらいか。 尾藤Jr.が監督に就任して2013夏は見事に甲子園を決めたけど、その後、秋の近畿大会ベスト8でセンバツ選考漏れ、夏の県大会で市立和歌山に負けて準優勝。2回は甲子園行けるチャンスがあったのに逃したのが痛かった。 >>234
77は大鉄の方が大阪の実力no.1
80夏は近大付浅田に3安打完封負け
特にPLが大阪でダントツだった印象は、当時無かった >>235
2014秋の近畿はツキがなかった。普通なら出れるパターンだったが >>233
今年も江川(えかわ) 「えがわ」じゃなくてね! 今年もいるよ >>231
前にネット記事で見た!箕島が4回優勝した時点で、PLは1回で箕島に甲子園2連敗だったからね! しかし私立の強みで全国から有望選手スカウトして強くなった。
箕島の尾藤監督は、学区内の地元人には声を掛けたと思うが、県内でも遠方や県外人をスカウトして強くなっても意味ないし、公立なんだから地元中心だったことは賛同できた >>238
82年のトップバッターは「えかわ」だったかな。
79年石井の控えは「えがわ」だった。社会人に進んだが早逝してしまった。 春夏連覇の箕島と2000年に強打で優勝した智弁和歌山が対戦したら面白そう 春夏連覇の箕島と2000年に強打で優勝した智弁和歌山が対戦したら面白そう 対戦の条件として
箕島連覇時の用具を使用すること
79年と2000年では用具の質が違いすぎる。とくに金属バット。 >>230
嶋田兄はプロ入りせずに社会人(住友金属)でプレーを続けていたら、杉浦(日本生命)のようにアマ野球の重鎮のような存在になっていただろう。
嶋田弟は投打にセンス抜群、野球の申し子のような選手だった。故障して大成できなかったのは惜しまれるな。 >>245
ミスター社会人と言われるようになるには記憶と記録とを残さないと、だから。
杉浦もミスター社会人と言われたけど。
杉浦も出身は橋本で和歌山だったのね。 >>239
77年春の優勝投手東は東海大相模にあこがれて練習見学をしたがプロみたいな練習で尻込みした。
そんなところへ後援会を通じて尾藤監督が東と面会して「一緒に甲子園に行こう、力を貸してくれ」とあのスマイルで両手を握ってきたので一気に心が動いたと言っていたな。 >>237
2002年秋は県で智弁和歌山に勝っていたが、近畿準々で雪辱を果たされてしまい選抜を逃した。 >>248
4点先にリードしたが中盤に逆転された!智弁の嶋田は箕島中出身だったな >>243
昭和54年時代のバットは、消音バットみたいな鈍い音だったな!57年か 58年頃から鋭い金属音で、打球が飛ぶようになった ミズノのダイナフレックス
その前は舶来のイーストン、ルイスビル
いまの金属バットとはまるで反発力が違う。 >>252
ダイナフレックス、ルイスビル懐かしい。
現在の金属バットとは反発力は違うけど、それでも当時は金属バットの打球は速いと言われてました。 金属バット導入直後はポコポコの当たりが多かった。打つときに「カツン」という音がした。
当時の金属バットは木製に近づけていたわけで。それでも木製に比べたらもちろん飛距離は出たが。
しかしいまは根元に当たっても飛ぶ。ちょうど池田がパワー打線で席巻した頃から。木製と導入当初の金属バットとの飛距離の差よりも、当初の金属バットと現在の金属バットとの飛距離の差のほうがとてつもなく大きい。
野球に深みがなくなってきたのも、そして箕島が勝てなくなってきたのもその頃から。 >>254
箕島も池田に対抗しようと、57年〜59年は大型チームだった。いずれも優勝候補だったけど、バントなど細かいことが雑で、当時の松永令一氏も「なにか違う!おかしい」と、雑な攻めの時に解説してましたね! >>255
昭和57年のチームは池田の山びこ打線と同じ年で。
選抜では箕島の強打は大会前から評判にはなってました。
ソツのなさは初戦の上尾戦で前年秋季大会で無失点記録を続けていた日野に対して初回の速攻であっさりと無失点記録を止めて攻略するなど箕島らしい試合運びは見せてましたが。 >>256
いきなり東西の横綱対決でしたね。次戦でこれまた優勝候補の新興勢力明徳で激戦でした。
準々決勝の相手も優勝候補の一角のPLでしたが、9回また追い付くと思ったが初めてPLに負けてしまいました。優勝候補3連続は流石の箕島でもきつかったか 82年春は組み合わせが悪すぎた。対照的にPLはよすぎた。PLは箕島に勝ったあとも早実、中京が寸前で負けてくれたし。
箕島が組み合わせ悪すぎたのは島本講平の70年春。
初戦から東海大相模(この年の夏優勝)、三重(前年の春優勝)、広陵(豪腕佐伯を擁して候補筆頭)、北陽(前年秋の近畿で敗れていた)と私学の強豪、前年秋の地区大会の優勝校ばかりと当たった。
それらを総なめにしてみごと優勝した。 >>231
この時代を知っている住人は50歳以上。
若くても40代後半。 >>257
箕島らしい試合運びを見せてたのは82年のチームが最後かも。
翌年夏の吉井の世代は吉田戦での硯の奇跡の同点弾からの逆転サヨナラはあったけど、試合運びとしてはとても褒められたものでは・・・ 91春のチームも、一応復活を感じさせる雰囲気はあったよ 82年のチームは選抜終了後は打線全体が極度の不振に陥った。
春の和歌山大会は優勝したが、近畿大会は2試合で1点しか取れなかった。
それまでの箕島は打てないなら小技で補っていたけど、それが無かったからなぁ。
夏は必ず立て直してくると思っていたけどね。 82年夏の和歌山代表は南部。
甲子園ではセンバツと同じく埼玉代表と対戦。
しかし、なんと埼玉も代表も進学校の熊谷。
センバツの箕島vs日野が上尾と比べると、
同じ県同士の対戦だったが、
かなりマニアックなカードだった。
この年の夏は和歌山でも埼玉でも異変がおこったんだな。 >>264
>>263
そうそう、春季大会が底で夏には必ずチーム状態は上向きになると・・・
近畿大会では選抜に続いてPLに苦杯を呑んでたけど。 たしか夏は初戦は2-1、二回戦で2-3で吉備に負けたんだっけ? うーん・・・
箕島の全盛期でも市商が相手だと接戦になって最後には勝ってたけど・・・
春夏連覇の79年夏の初戦でプロ入りした広島で首位打者も取った正田のいた市商を相手にやっと勝ったような。 残念だがもはや箕島に有望な選手は集まらんようだな。
今は和歌山で高校野球のブランドといえば智辯和歌山が断トツ。
しかし、智辯和歌山は少数精鋭だから、
簡単には入れない。
その次の選択肢としては市立和歌山か。
今の和歌山の有望選手の間では、箕島の選択肢はないんだろう。
全盛期の箕島を知っているものとしては何とも哀しい時代だわ。 不祥事は無いまま没落するのは悲しい
生徒のレベルは相当低かったみたいだけどw 南部や田辺など紀南地域の学校はさらにきついのかな? 40年前のブランド(箕島)
尾藤監督の指導を受けて甲子園に出たい
現在のブランド(智弁和歌山)
少数限定で毎年甲子園に出たい、進学も保証されるから 箕島が敗れたのにつづき、きょう池田も徳島大会で負けたようだな。 >>272
ただ、智辯だとここで野球をやりたいと思ってもそれが叶うとは限らないのが。
和歌山県で智辯と2強とも言える市和歌山の選手だって智辯に行きたかったけど叶わなかった選手もいるはず。 50歳以上のおっさんにとっては、
和歌山といえば箕島が高校野球では最高のブランドで、
それ以外は考えられないが、
だが、70〜80歳代の人からすると、
和歌山といえば和歌山中学、海草中学が最高のブランドなんだろうな。
そして、今は智弁和歌山。
まあ、哀しいが時代の流れということか。 セレクションが事実上の入学試験。
一学年十人の少数限定。一般入学からは入部できない。
スポーツコースで一般生徒と別管理で野球に専念、進学も保証される。
いくら高校が義務教育じゃないといっても、これが高校の部活動のやることなのかな。
実業団となんら変わりない、ため息が出る。 もう箕島のユニフォームを甲子園で見ることはできないかも。
6年前の夏に出場したとき、仕事サボって東京から甲子園に駆けつけたわ。負けたけどこの目で見られてよかったわ。 山梨の日川にホームラン三本打たれるなど圧倒された。往年の巧者ぶりは影をひそめ、さびしい試合内容だった。 >>278
点差以上の完敗やったね。
その日川も次戦大阪桐蔭に延長サヨナラ負け。 結局箕島は尾藤監督が一代で築き上げた公立の名門だった。
公立にありがちだが、名物監督が退任すると低迷する。
尾藤監督も他校からスカウトされたが、箕島の尾藤でいたいとして断ったとか。 >>264
南部の相手が熊谷ではなく、後の巨人の大エース斎藤雅樹の市立川口だったら、もう少し盛り上がったかな。 和歌山はその時期の県の中核の学校(いまなら智弁和歌山、あのころならもちろん箕島)以外のチームが出場するとほとんど勝てない感じがする。
82年夏は南部がこともあろうと進学校の熊谷に初戦敗退。
あのころで例外は81年。春は御坊商工が、夏は和歌山工がそれぞれ8強入り。 >>282
82年春は大成が初出場で初戦勝利。
2回戦で中京に1−0で惜敗。
ちょうど中京が甲子園通算100勝目を挙げた試合で相手校として大成の名前が球史に残って。 >>282
御坊商工は確か槇原のチームに勝ったよね 雨で泥沼のグランド、バッターボックス付近にたまった水をボールボーイが柄杓ですくっていた。
原動力は薮投手。箕島は前年秋、薮に11回ゼロ封されサヨナラ打まで打たれた。 箕島全盛期に箕島以外で出場した和歌山代表
和歌山工、御坊商工、新宮、大成、星林あたりか。
この中で昭和55年の選抜は新宮。
優勝した高知商に完敗したが、
夏は箕島が春夏連覇を狙った高知商に完勝。 70年春の島本講平時代の優勝はあるものの、箕島の黄金期は77年から始まったと思っている。
71年から76年までは計2回の出場で未勝利、尾藤監督も一時期辞めていたし。
77年からの箕島以外の和歌山代表の成績は、
78年春 吉備4-9岐阜(投手陣が17四死球を与えるという馬鹿試合)
79年春 田辺商0-11前橋工
80年春 新宮1-9高知商
81年春 御坊商工2-1福島商、4-0大府、0-4上宮(ベスト8)
81年夏 和歌山工4-0星稜、2-0近江、4-0熊谷商、0-2京都商(ベスト8)
82年春 大成2-0静岡市立、0-1中京
82年夏 南部0-1熊谷
83年春 星林0-2佐世保工
84年春 和歌山工2-4都城
箕島が衰えた84年からは春夏計11連敗という時代もあった。 吉井の年代にレギュラーじゃないけど福岡から内野控えの選手で いま企業のCEOの大島さんているな。 箕島は80年選抜の近畿7校目を滝川と争ったけど、投手陣の不安を指摘されて落選したんだよね。
選抜の時期はチームとしては発展途上だったから、もし出場していても期待はずれの結果に終わっただろうな。 春夏連覇チームの2番レフトで翌年夏にエースだった宮本は秋の時点でまだエースではなかったのかな? >>252
箕島だけじゃなく県内のチームはボンスラッガーの金属バットをメインに使ってた
新宮、和工、吉備、御坊商工など強豪はみなそうだった
しかしボンスラッガーってあれだけ使われてたのに最近は見ないねえ。 ボンスラッガーって物体の共振特性(固有の周波数)を考慮して
表面の反発力だけでなく、バット全体の振動でボールを飛ばす・・・・・
というのをウリにしてたんだよね
現役のときに頭のいい向陽の野球部員に物理の法則と共振について解説してもらったけど、
市和商のオレの頭脳では全く理解できんかった。 >>264
春は優勝候補同士の激突
夏は最弱候補決定戦
同じ和歌山vs埼玉でもこうも違った。 >>293
あの夏の最弱はダントツで青森の木造じゃないのか? >>289
あの年は地元滝川をとるか、甲子園3連覇がかかる箕島をとるか、選考委員は悩んだだろうな。
でも実力そのものは滝川がやはり上だった。しかし石本のピッチングが象徴するように潜在能力の高さを発揮できないもろさが滝川にはついてまわっていた。
前年秋の近畿の準々でまさかと思われた瀬田工業に敗退。これが選考に多分に影響した。
滝川が瀬田工業に勝っていれば、ベスト4以外の近畿3校は、上宮、平安、最後に箕島と瀬田工業が争う形となりおそらく箕島が選ばれただろう。和歌山2校になるが前年連覇校であること、京滋から平安が選ばれているから。
秋の段階では左打者にストライクが入らない投手陣だった。近畿初戦の智弁学園戦では与えた9四球がすべて左打者に対してだった。
業を煮やした宮本が「ボクに投手させてください」と監督に直訴したと聞く。秋の近畿で宮本が投げたかどうかは覚えていない。 80年春の近畿は弱かった。
黄金期のなかでの一瞬の不作の大会。 >>296
箕島と近畿最後の座を争って選出された滝川は初戦、鳴門を相手に石本が完封。
さすがだな、と思わせたけど2回戦の丸亀商戦では石本が不調で延長戦で惜敗。
丸亀商の井に2発喰らって・・・ 嶋田宗彦の甲子園16試合全試合安打は2度と破られない記録だな。
自分の中では高校野球史上最高のトップバッター。
彼を超える勝負強さを持った選手はなかなかいない。最近では大阪桐蔭の藤原も凄かったが。 1978春 準々決 箕島 2−0 PL学園
1978夏 3回戦 中京 5−4 箕島
1979春 準決勝 箕島 4−3 PL学園
1979春 決勝戦 箕島 8−7 浪商
1979夏 準決勝 箕島 3−2 横浜商
1979夏 決勝戦 箕島 4−3 池田
1980夏 2回戦 箕島 5−0 高知商
1980夏 準々決 横浜 3−2 箕島
1982春 1回戦 箕島 6−2 上尾
1982春 2回戦 箕島 4−3 明徳
1982春 準々決 PL学園 1−0 箕島
当時の強豪校との試合は勝っても負けても箕島らしさを感じた。
1983夏の高知商に2−8、1984夏に取手二に3−5で負けた試合はもはや箕島の時代も終わりつつあるのかな?と感じさせられた。 1984の取手二戦は、前評判で嶋田、杉本の二枚看板でかなり上位が見込めていただけに箕島時代の終焉を予感したよね。 しかも負け方がね。
バントは決まらない、エラー絡みで大量5点とられての大逆転負けだから。 >>301
箕島は打倒PLの1番手に挙げられてました。
取手二は選抜では同じく打倒PLの1番手に挙げられてましたが、夏は評価は下がっていてこのカードも箕島有利と言われていて。
試合展開も箕島が優位に進めていたのが魔の8回に暗転して・・・ 取手二戦が後に箕島時代の終焉、ターニングポイントと言われる試合になってしまいましたが、それにしても甲子園がここまで遠くなるとは当時は想像できなかった・・・
智辯の壁は厚いけど、それを追う2番手グループの中にも箕島の名前がないのが・・・ 取手戦が最後の終焉というのは後々にふりかえってからの話であって、当時は「このところ甲子園で勝ち進めないなあ」と感じた程度だっけどな。
85年も春は近畿大会に出ていたし。まあ小粒になったとは感じた。夏に旋風を起こした滋賀の甲西に2-1でやっと勝った記憶がある。
凋落の感がはっきりしたのは、86年夏県決勝で桐蔭に9回逆転負けしたとき。 なんだかんだいってもあのときの取手二は力があった。
箕島とPLという当時の二大強豪を倒しての優勝。こういう例はほかにはない。 >>307
91年だったか、智辯に夏の県大会で負けた時に時代の流れを感じたかな。山路がエースだったかな >>308
箕島も79年選抜で浪商・PLという当時の二大強豪を倒して優勝している。 >>309
久しぶりに充実した戦力で選抜に出て夏も期待していたんだがな。三回戦で1-3だったか、智弁に初めて夏の予選で負けたんだよな。 >>311
そうそう。俺は当時智辯の生徒だったから応援に行っていたが、じつは箕島ファンで、あの時は智辯が勝った時に智辯応援側は盛り上がりが凄まじいものだった。 >>312
当時智弁の生徒というと、延長18回とか箕島の連覇は記憶にないかな? >>302
それまで終盤に何度も奇跡の逆転勝ちをしてきた、
あの箕島が終盤に大逆転負け。
これはかなりの衝撃だった。
それまでほぼ毎年のように甲子園に出れていたのが、
不思議なことに、あれ以来さっぱり出れなくなり、
勝ち運もなくなっていった。 あの取手戦の日はロス五輪でマラソンの瀬古が14位と惨敗した日でもあった。
箕島敗退と二重のショックだった。 当時中学生でその8/13日月曜日は夏休みの出校日やったがタコって高校野球見ていたわw
第二試合、日大山形が山形県代表初の本塁打を放ち本塁打空白区が無くなった。
山形県議会でなぜ高校野球が弱いのか?って取り上げられたのってこの試合が発端って記憶しているんだが。どやろか?
東海大山形ーPLの29点の前のはずなんだよな。わしの記憶やと。
春の選抜大会にて創部も若く春夏通じて初出場ながら智辯学園、法政二と実力校を圧倒した拓大紅陵が鹿児島商工にあっさり完封負け喰らったな。 >>307
85年のエース西原は、吉井嶋田杉本のようなド迫力はなかったが安定感があり、近大→ヤマハでも主戦投手を務めた。
夏は県大会準決勝で和歌山工に0-2で敗戦。前年の雪辱に燃えた和歌山工の執念が上回った印象がある。
和歌山工 途中で送信しちゃったので…
和歌山工は翌日の決勝にも勝利して甲子園出場を果たしたが、海星に1-11で大敗。
箕島に雪辱した時点で燃え尽きていたのかも知れない。 和歌山工のエースは左腕森岡だったな。
84年選抜に出て田口の都城に延長10回2-4で敗退。
84年夏は県準決勝で春の近畿王者の新宮(エースは山崎慎太郎)を8-3で破ったのには驚いた。決勝では箕島に0-8と完敗。新宮は春の近畿準決勝で箕島を5-4で破っていただけに。
85年夏は前評判はあまりよくなかった。報知高校野球は「森岡は球威不足に苦しんでいる」と複数回にわたって書いていた。 >>318
和歌山工は前年選抜に2年生エースで都城を相手に好投した左腕森岡がいたから甲子園でもそこそこやれるかと思ってたけど、三重海星に大敗したのは意外な気がしました。
たぶん最大目標だった打倒箕島を果たして燃え尽きてたのはあったかも。 昭和の時代に無双した和歌山工の沈滞も残念
s49春も56夏も前評判は、あまり高くなかった気がする。 和歌山工業の当時の監督の吉川さんは箕島OBだったっけ?
74年春は鎌田、81年夏は中田と前評判は高くなかった投手がよく投げた。
鎌田は指をケガしながら杉村の高知に勝ち、イレブン池田に敗れた。
中田は3試合連続無四球完封だからすごい。 >>321
和歌山工はその後は2001年夏に県一回戦で前年全国Vの智弁和歌山を5-1で破ったことくらいしか覚えていない。このときのエースはプロ入りしたと思ったが誰だっけ? >>323
具具ってみたら和歌山工のエース山本芳彦が広島に7巡目で指名されてますね。
プロでは野手転向して10年プレーして現在はチームスタッフとして裏方の仕事してるそうで。 中田なつかしいな。背番号10で三試合連続完封。
翌年の朝日グラフの甲子園特集号にあの球児は今みたいなコーナーにとりあげられてたね。
花王に就職して軟式野球をやってるとか、、結構打たれますよって、定番のコメも 78年夏は2回戦最終日に登場して、翌日中京戦。石井を温存したかったんだろうが栗山の一発に沈んだね 栗岡ね。
正確には二回戦は翌日の第二試合(天理一南陽工業)で終了していた 78年夏の中京戦は3回戦。石井毅の投入が遅れたのが痛かった。 一、二塁となり打者栗岡の場面、石井がリリーフと思ったけどな。
石井は前日の第四試合のナイター戦で投げたばかりだし、当時は連投はきかなかったらしいけど。
上野が逆転3ラン打たれたあと、結局九回に石井はマウンド上がっているから、やはりこれはリリーフを出すのが遅れたんだな。
尾藤監督も「まさかホームランとは…」と試合後語っていた。 >>325
中田って、バッティング投手から予選前に背番号10をつけて力投し、甲子園では背番号1じゃなかったっけ? 石井はアンダーハンドの速球派のイメージだった
79年はアンダーハンド全盛の大会だったけど
石井はMAX132キロ
次点のアンダーのピッチャーは東北だったか125キロほどで
石井の速さが頭一つ抜けてた
ソースは当時の日刊スポーツだっけかな
石井は西武入団時に140キロ台出せるようになってたけど
腰痛の影響でサイドハンドになってた 石井は3年時より2年の時の方が状態は良かった
特に左打者の膝元に投げ込むストレートの威力はハンパなかった
2年春の黒沢尻工戦と2年夏の能代戦が石井にとってベストバウトだったのでは? 嶋田は出塁率の高さが凄かったけど(甲子園の全試合で出塁してたんじゃないかな?)
盗塁阻止率も異常に高いはず
自分の記憶ではほぼ10割だったのでは? 選抜の甲子園練習では読売新聞は浪商・香川よりも箕島・北野を評価する記事が載っていた
スタンドにポンポン放り込む打撃に驚愕したらしい
その北野は肘の故障に苦しんでなかなか結果が出せなかったが決勝の浪商相手に本来の
勝負強い真価を発揮してくれた
2年夏にはライト方向にホームラン打つなど非凡なセンスを発揮した
箕島史上最強の4番だったのではないかな 箕島のスラッガーといえば硯も印象深い
吉田戦での劇的な2ホーマーは凄かった
県大会での3ホーマーも智弁・橋本に破られるまで和歌山大会記録だったはず
上背は無いががっしりした下半身から繰り出される力強いスイングは忘れられない 硯の活躍と対照的なのが同年のエース吉井
2年の春に甲子園のマウンドを経験し、順調に剛腕へ成長していたはずでしたが
後年吉井本人が語っていたように3年夏はまるでやる気が無くて別人
県大会からけっこう打たれて防御率は3点くらいだったはず
当時の甲子園出場校のエースの防御率は0点台か1点台が主流だったので
相当悪かった
1,2回戦もピリッとせず打線のおかげで勝ったけど3回戦では高知商の津野に
満塁ホームランを打たれるなどボロカスだった 尾藤さん最後の甲子園になった時のエース山路も忘れられない
長身から投げ下ろす快速球と縦スラで三振を取りまくった
ただ大会前の展望雑誌では「フォームはダイナミックだがスピードは130キロ」
と書かれていた
実際の甲子園では冬場に成長したのか140近い球を連発
旭川竜谷戦ではABCで解説した蔦さんが「旭川はおそらくこんな速い球は見たことが
ないのではないか」と言っていた
夏も期待されたがフォームのバランスを崩したのかパッとせず早々に敗退した
それでもプロに行くのでは?と思っていたが地元住金に行ってから全く噂を聞かなくなった >>333
全16試合に出塁どころか安打を記録している。
当時も少し報道されたが、いまだったらマスゴミが大騒ぎするだろうな。 >>337
山路のカーブは昔で言うドロップ風だった。
蔦さんが解説で出たのは春だからABCでなくMBSだろう。 あの大会のアンダーというと、石井、笈川のほかは、国学院久我山の石田、愛知の投手(名前忘れた)、PLの中西(背番号10だったが主戦格)、尼崎北の田中(同)、久留米商の池尻とかがいたが。八代工業の河野はサイドだったかな。 >>336
吉井という投手はプロでもそうだったがムラっ気のある選手だったな。 >>325
中田投手も花王の軟式野球で投げてるときは
オーバースローになってて驚きました(当時20代後半)。
アンダスローで投げるには日頃の鍛錬がいるそうで、
今はとても無理だと本人が語ってました。 >>344
吉井はメジャーでプレーもしたけど、現役引退してからのコーチ業では各チームから引っ張りだこで。
大学院で指導方も勉強してコーチ就任したチームは軒並み投手陣の成績は上がって。
やはり指導者も今後の球界では自らの経験論だけで指導するのではなくて常に勉強して指導方もアップデートしていかないと・・・ >>335
甲子園での活躍で硯の印象が高い人が多いけど、
実際は4番 山下(元ロッテ)の方が遙かに強打者だった。
甲子園では不調だったけど、不調なりに送りバントをあっさり決める
(それも二回も)のは箕島らしいなと思った。
他の強豪だったら、4番打者がにバント指示しても失敗することが多い。 >>347
甲子園での山下は送りバントを決めてる場面しか記憶にない・・・
進学した東洋大で長距離砲の素質が開花したけど。 前年のチームの捕手住吉も社会人経由でプロ入りしたが、甲子園での記憶はあの明徳戦の14回表、二塁走者をブロックしてアウトにしたシーンだな。
1点に食い止めて裏の逆転サヨナラにつなげたからあのプレーは大きかった。 >>332
下級生から活躍した投手って、一、二年生のころのほうがよかったという声が必ずと言っていいほど出るな。
銚子商の土屋、豊見城の赤嶺、星稜の小松、早実の荒木、横浜商の三浦、中京の野中とか。
初めて出たときの印象が鮮烈だとそうなるのかもしれない。 >>351
吉井もそうだったかも。
2年春は上野山が準々決勝のPL戦の終盤までずっと投げてて吉井は1イニングだけの登板でしたが、完璧に抑えて今後が楽しみだと思ったけど。 箕島、PL、宇部商
特に劇的な試合、逆転などミラクルが多かった御三家 >>353
その中でも箕島は絶体絶命の場面まで追い込まれてからの奇跡の逆転劇を何度も演じて。 時期が短いが74〜75年の東海大相模も挙げておきたい。
74年夏の土浦日大と鹿児島実戦、75年春の豊見城戦で見せたすさまじい粘りは忘れられない。 353で劇的御三家の話題が出たから追加で書いただけでは? >>352
82年選抜のPL戦は吉井先発のほうがおもしろかったんじゃないかな。
上野山は前日200球以上投げていたし、吉井は秋の近畿でPLに2失点で完投勝ちしていたし。 吉井は中学時代、野球の傍ら学校では陸上部で円盤投げやってたのが話題に。 自分が見てきたなかでは
島本啓次郎
東、赤尾、栗山
石井雅博、西川
石井毅、嶋田兄、北野、上野
宮本、児島、森川
岩田
硯
嶋田弟
あたりが印象に残っている。
上川、吉井、杉本あたりはあまり印象に残っていない。 >>360
杉本は取手二戦の8回裏に追い上げられて嶋田弟からリリーフで登板、下田に逆転打を打たれた場面が・・・ 杉本はカーブをまともに投げられなかった。どこに行くか分からない。
走者を三塁を置いてカーブを投げたのはプロに入ってからだったらしい。 履正社の井上を阪神が2位指名して担当スカウトとして箕島OBの畑山が挨拶にきた場面を見ましたが老けたなぁ。
同級生の岩田は今でも若々しいけど、それが特別なのかな?
以前、マツゲンが箕島球友会だった頃に協力者で同級生の江川、泉、山田の写真がHPに載ってましたが、山田は実年齢より少し若く、江川、泉はそれなりに年齢を重ねた感じでしたが。 岩田は若さを保つ努力をしているのでは?
ホームランの「甲子園アイドル50」で取り上げられたときに、若いときの郷ひろみに似てスリムなのだ、とか書かれていたが、ひろみも若さを保つ努力をしているから。
ちなみに翌年改訂の「甲子園アイドル55」では岩田は外されていた。 初めて箕島の試合を見たのは77年選抜の二回戦の豊見城戦だった。初戦の名電戦は見逃してしまった。東投手で二度目の優勝を果たした大会。
昔のビデオを探しているが、なぜか78年選抜の4試合だけはよく出回っていて持っている人が多いのはなぜだろうか。
あとは78年夏の能代戦、そしてあの星稜戦も持っている人が多い。 79年夏和歌山大会の初戦
箕島1-0市和歌山商
正田(のち広島)のいた市和商に苦戦。
最終回は二死満塁の大ピンチ。嶋田が「心底まずいと思った」と述懐している。 市和歌山は以前からずっと県上位の力を維持してるけど、箕島は・・・
智辯の壁は高いけど、それに対抗するグループにも入れてないのが。 でも市和歌山商って、1967年(昭和42年)の春夏に出て以来、1994年(平成6年)の夏まで27年間も甲子園に出られなかったんだよな。
1970年秋は近畿大会で優勝したが不祥事で選抜推薦されず、翌年夏も紀和決勝で郡山(全国ベスト4)に0-1で惜敗。 >>369
市和歌山商に替わって箕島が台頭してたのか。
箕島黄金期に市和歌山商は一度も甲子園出場がなかったとは。 市和歌山商は1964年春に甲子園初出場。
このときは初戦敗退だったが、翌年春は藤田平(阪神)の活躍で準優勝。決勝は平松(大洋)の岡山東商。平松と藤田の対決は注目を浴び、プロでも対決を繰り広げることになる。
二年後の1967年は左腕野上(南海)で春夏出場。春は野上が三重相手にノーヒットノーラン、ベスト8。
夏は宮崎大宮、今治南、大分商を破りベスト4。宇根の広陵に1-2で惜敗。
この夏の和歌山決勝の相手が箕島だった。0-2と敗れたが全国区の市和歌山商と互角に戦ったことで自信ができたと尾藤監督は語っている。
市和歌山商と入れ替わるように翌68年春に箕島は東尾を擁して甲子園初出場、いきなりベスト4進出。その後の活躍につながっていく。 >>361
84年のドラフト、嶋田弟を広島と阪神が一位指名、抽選で阪神が交渉権獲得。
広島は外れ一位で杉本を指名。
同じ高校で二人の投手が同時にドラフト一位指名された例ってほかにあるのかな? >>366
俺は78年の夏から高校野球を本格的に見たな。
いきなり奇跡のPLを見てしまった。
さらに、その翌年は箕島の春夏連覇。
センバツ決勝の箕島vs浪商との壮絶な点の取り合い、
夏は箕島vs星稜ときたからな。
これは完全に高校野球にはまるわ。
PL、箕島のミラクルを2年続けて見てしまった。
今から振り返ると凄い時から高校野球を見ることが出来て、
幸運だったと思う。 俺は江川の年から見ているが、大会を通して全試合の記憶があるのは76年ごろから。
あの時代は箕島、PLのミラクルばかりでなく、夏の決勝四年連続サヨナラゲーム、原辰徳、サッシー、24の瞳中村、バンビ、完全試合などホントに熱い時代だった。
あのころの甲子園を見ることができて幸せだったわ。
いまの甲子園はほとんど見なくなった。 >>374
そのど真ん中に箕島が主役としておりました。 70年代は箕島が主役でしたね。80年代はPLが主役で、脇役に池田かな。 年代別最多勝利校
70年代
箕島 24勝5敗(優勝4)
PL 19勝7敗(優勝1)
銚子商 19勝8敗(優勝1)
天理 19勝12敗
80年代
PL 44勝4敗(優勝6)
池田 27勝6敗(優勝3)
80年代の池田はふつうならトップになって当たり前の勝ち数だが、PLがあまりにもずば抜けていたものだから仕方がない。
池田の70年代は10勝5敗、箕島の80年代は7勝4敗だった。 80年代の勝ち数第三位は帝京の19勝8敗(優勝1)か? 箕島 甲子園成績
60年代 3勝1敗
70年代 24勝5敗(優勝4)
80年代 7勝4敗
90年代 1勝1敗
2000年代 2勝1敗
2010年代 0勝1敗
通算 37勝13敗(うち尾藤公監督で35勝10敗) 一応、甲子園出場というタスキは、各年代つながっている。 >>380
果たして2020年代には繋がってくか・・・? 伊都とか星林とか御坊商工とか新宮とか南部とか、確変的に強くなってアッサリ消える学校が和歌山には多すぎる。 でも、中核となる横綱が時を変えて出現するのも和歌山県
戦前の和歌山中、海草中にはじまり、戦後は新宮、市和商、箕島、そして智弁和歌山。 でも、中核となる横綱が時を変えて出現するのも和歌山県
戦前の和歌山中、海草中にはじまり、戦後は新宮、市和商、箕島、そして智弁和歌山。 新宮は前岡投手のときがまさに黄金時代。
市和商は時代は短いが昭和39年から42年までの間に甲子園で準優勝、ベスト4。 横綱として時代を築いたといえば和歌山中、海草中、箕島、智辯和歌山になりますかね。 箕島vs星稜18回の奇跡は、オンタイムの人生ではないけど、何かその頃の高校野球が一番熱かったように思う。
今は野球留学が一般的になったんで、大学と何ら変わらんよね。 高知県人だけど、箕島には、ホント痛い目にあわされている。
1980年、春夏連覇を狙った高知商業が、夏の二回戦でバントをことごとく決められ、
こつこつ点を取られ、0−5で完敗。
1982年、甲子園初登場の明徳が、スクイズのサインをことごとく見破られ、3−4で惜敗。
堅い守りと卓越した勝負勘がすごかったな。
PL・中村、池田・蔦、同じ年代の名将と比べても、頭一つ抜けてたと思う。
まったく勝てる気がしなかった。 >>390
そう、あのころがいちばん熱い時代だった。
いまは観客は多いんだけど、なんだか昔とは異質なんだよな。
箕島星稜とか見ることができた自分はシアワセだわ。 >>392
近所の子が頑張って甲子園みたいな事でしょ?
で、市役所とか町役場がこぞって応援するみたいなね。
箕島の尾藤さんも昔は練習試合でも、負けたら街中で罵られたと(笑)
そのかわり、勝ったら飲め飲めって漁師のおじさん達が奢ってくれたと言っていた。
いいなぁ。
盟友の星稜にも東京や関西から選手が来てる今は、ちょっと残念。でもバッテリーが地元石川だから救われたけどね。 やっぱり箕島の全盛期は島本の時だろ
マスコミは自宅まで押しかけたり、女子高生の異常人気は何となく記憶がある。 >>394
俺はさすがに島本のときは知らないが、プロ入りして活躍しないのにオールスターに選ばれたのは知っているが。太田と同じだか。
当時の週刊ベースボールを見ると、女の子
島本の家に押しかけて小さいときのアルバムが見たいとか言ったので見せた、と対応したおじいちゃんが話していた。 >>393
77年春の優勝投手の東も言っていた。
定時制で職場への出勤と、退勤してから学校に戻るときに往復してランニングしていた。
「雨のときとか休みたいと思ったこともあったが、沿道で応援してくれる町のみなさんがいたから頑張れた」と。
オラが町の野球部、選手たち。
いまそんなチームないだろうな。 >>396
箕島のように公立校で地元出身者中心のチームで全国区の強豪というのはもう出てこないでしょうね。 津久見とかもね。
清峰が瞬間的になったんだが、指導者が去ってまったく名を聞かなくなった。 >>393
星稜は付属中学出身が多いけど、この傾向は続くのかな。 箕島が全国区だった頃は海南は凋落してた。
その代わりというか、大成が強くてセンバツも2回出場した。
当時の海南は大成にいい選手を取られてたのかね?
海南・海草地区でも 超A級は箕島へ流れてたが。 >>400
大成が海南よりいい選手を取ってたとはいっても部員数自体は少なかったかと。
87年のは部員10人での選抜出場で話題になったほどだったし、82年選抜の初出場でもさほど多くはなかったような。 海南は戦前から甲子園で活躍、昭和39年まで春14回、夏4回甲子園に出場していたが、その後はまったく出場できなかった。
プロでも活躍した山下慶徳がいた昭和39年春夏が最後の出場だった。 >>400
島本兄弟は下津やしね。
その後の世代では畑山(巽中)や山下(下津二中)が有名やな。
西(東海南)は箕島へ行かず大成へ行ったが。 >>402
大成の初出場時部員数は17人やったような。
>>403
昭和61年選抜大会選ばれる思うたんやが。
天理、上宮、PL学園、智辯学園、洲本、京都西と来て最終枠は御坊商工と海南が争い(県大会決勝は海南7-0御坊商工)だったが御坊商工が智辯学園と接戦を講じて近畿大会での伸びを評価された。 >>404
西が箕島に来てたら岩田とどちらがショートのポジション取ってたろ? >>405
近畿の初戦で優勝した天理に1-7と完敗したのがたたったな。御坊商工は1勝していたし。 箕島高校野球部には入らなかったけど(レベル高すぎて)、中学までは軟式野球やってた。
巽中学の畑山投手にノーノー食らったんだが、高校入学後に畑山にそのことを話したら
首をかしげながら「何回もやってるから、どの試合か覚えてないな?」と言われたwww >>408
畑山は箕島入学時は期待の大型左腕でしたが、高校では伸び悩みで。
エースになった上野山に抜かれ、下級生の吉井も台頭してきて3年生の選抜では8番レフトでした。 畑山は岩田と一緒に進んだ近大では野手専念で高校時代に伸び悩んだ鬱憤を晴らすように
1年春からメンバー入りしてリーグ戦で活躍。 82年〜86年の新宮は松本、小原、山崎、藪と好投手を擁したが甲子園に縁がなかった
野手も大型ガチムチの選手もいて期待を抱かせた
新宮と箕島は夏の和歌山大会35年程対戦ないな 箕島昭和最後のエース増田久
那智勝浦町出身で県決勝で高野山に負けて最後のバッターだったんだよな(ファーストゴロ)
涙目で打席に立っていたのを思い出す 練習中に尾藤監督が「やる気がないなら帰れ」と叱ったらそのまま帰ってしまったチームのときか。
ニュースを聞いたときはがく然とした。箕島は崩壊したなと。 80年代終わり頃のインタビューでは、すこし選手を甘やかしすぎたとか言ってたな 昭和63年のチームは秋春の実績の無さもあり前評判は相当低かったが、初戦で4番エース松本(現ロッテ球団本部長)を擁し優勝候補の市和商に8-1で大勝して波に乗り準決勝でも劣勢と見られた智弁に7-2と完勝。
このまま優勝と思ったが決勝では甲子園を意識してか選手の動きが硬く、守備は信じられないエラーの続出、打撃も高野山の二番手投手の縦カーブを強振し凡打の山と準決勝までと同じチームには見えなかったな。 昭和から平成の元号またぎと時を同じくして、箕島から智弁和歌山に盟主が移った過渡期だな 昭和61と63の決勝敗退は今だに惜しい感じ。
代わりに出た学校が弱すぎただけに 同感
親子鷹で出場となれば注目度も増しただろうし、昭和63年のチームも甲子園自体群雄割拠の大会だったから、上位進出も狙える期待はあった 箕島と言えば西武ライオンズに入った東尾だなあ!あのときは春夏の甲子園でも勝ち進んだっけ? 東尾のとき68年春に甲子園初出場、苫小牧東、高知商、前年夏準優勝の広陵を破りいきなりベスト4進出。
優勝した大宮工業に3-5と逆転負け。
夏は東尾が扇風機のつけっ放しで熱を出し、県二回戦で星林(選抜に箕島とアベック出場していた)に延長10回で敗退。 >>417
昭和61年と63年は甲子園では1勝できるかどうかのチーム力だった。戦力不足を補う小技や粘り強さもなかった。
それでもファンとしては箕島には何かをやってくれるのではと期待をしてしまうんだよな… 乱暴だが、その年の代表(桐蔭、高野山)の対戦相手とそのまま当たったとしたら、
86年は初戦は宇都宮工、つづいて浦和学院
88年は初戦は堀越、つづいて天理
初戦はなんとか突破しても次戦は厳しかっただろう。 >>423
尾藤強前監督は86年チームの2年生エースでしたが、どんな投手でした? あまり安定感はなかった印象、決勝も早々と原井がリリーフ登板してたはず。
尾藤と同じく1年からレギュラーだった主砲坂本も、元々投手じゃなかったっけ? 明徳のすんげえヨボヨボ爺さん監督との死闘が忘れられない。
でも尾藤さんは試合後爺さんに近づいて最敬礼してた。有名な爺さんだったんだね。 >>425
決勝は強が投げていて最終回マウンドに上がる前に監督が「強、一人でも塁に出したら交代させるぞ」と選手の前で話していた。
走者を出してしまったから交代させないわけにいかなくなって原井に交代させたら前日も投げていたためか調子悪くて逆転されたんしゃなかったか? >>427
一応9回までは投げてたんだな…。
30数年前に試合途中から見たTV中継の記憶と、初戦から結構打たれてた印象あったから少し記憶違い たしか強は準決勝で早い回に打球を足に受けて降板、原井がロングリリーフしてたんじゃなかったか?
それが決勝で原井の投球に影響したと。
関東人なので詳細は分からないが和歌山の人からそのように聞いたことがある。 よりによって、強が入学した年から箕島は甲子園に出られなくなった。
尾藤さんは息子と一緒に甲子園に出たかっただろうな。 3年時の尾藤ジュニアは驚くような球を投げていた訳ではないが、制球力と凡打にするテクニックを身に付けていて県内レベルなら3点以内に抑える投手に成長していた。
それを支える打線が例年より弱かった。3番打っていた尾藤ジュニアと高校通算40本塁打の4番・坂本と俊足好打の1番・竹田以外は普通の高校生だったな。 箕島というと
プロでの活躍となると…東尾、島本講平
甲子園での印象となると(厳選)…東、石井毅、嶋田兄、北野、上野、森川、硯
を連想する。
東尾、島本の甲子園時代は知らないので。
どうしても春夏連覇時の選手が多くなってしまう。 硯は衝撃受けたなあ。あまりにも劇的過ぎる・・・・・・・
漫画を越えた劇的シーンというか・・・・・・・・・
ちなみにワシ、神奈川県民。
どこの在住の人間であろうと、いいものはいい!
ワシみたいな越境ファンは、たぶん全国の至る所にいることだろう。 >>435
上川は2回目の選抜優勝メンバーなのに甲子園での印象が残ってない・・・ >>437
硯はスクイズを外されて二死走者なし、絶体絶命の場面になった直後にバックスクリーンへの同点アーチだもんな。
見てて鳥肌が立った。
なんともおそるべし精神力。
甲子園観戦歴45年ほどになるが、自分が見たなかでも十本の指に入る劇的場面。 >>438
同じく。豊見城戦でホームラン、明治でも活躍した栗山のほうがはるかに印象的。
上川は中日に入り、82年だったか、巨人戦で江川からサヨナラヒット打って名を上げたときに「ああ、あのときの77年春のメンバーだったの」と知ったわ。 尾藤さんは「普通の高校生だったのに、努力でプロで成功してくれてうれしい。」と上川の事を話していた。
同じ記事(報知新聞のインタビュー)で、当時プロで伸び悩んでいた嶋田弟と杉本に対してはもっと努力をしてほしいと話していたね。 >>442
上川はプロ入りもドラフト外だったような。
西濃運輸で力を付けてのプロ入りでもあまり期待はされてない中から這い上がった。 箕島も尾藤監督の息子が監督で、
数年前に夏の甲子園に出場して、
復活の兆しが見えたかと思ったが、
その後、サッパリやな。
同じ公立で市立和歌山があれだけ頑張っているのだから、
智辯和歌山の対抗馬の一番手になってほしいんやが。
まあ、やはり過疎化で人が集まらないのと、
今の野球をやっている和歌山の子ども達にとって箕島は、
単なる普通の公立高校なんやろうな。
何とも寂しい限りやな。 >>446
過疎化で人が集まらないというよりも学区制撤廃で地元・有田地方の生徒が
和歌山市の学校へ流出していることが原因かと・・・・・・。
有田より南の日高の生徒でも普通に和歌山市へ通ってるし。
いまのところ学区制撤廃は箕島にとって凶と出ているが、
なにかきっかけをつかめば学区制撤廃を逆手にとって
紀北地域の有力選手をかき集めることも可能となるはず。 今は箕島周辺の中学生のレベルはどうなの?
箕島全盛期は有田市の中学野球は強くて有力選手はこぞって箕島に進んだけど。 >>448
2013年尾藤強監督の就任がそのきっかけだったのですが、今夏限りで退任して・・・ 残念だが箕島の復活はもうないだろう。
昔とちがって豊かになって、将来を考えて進学先も選ぶ。義理人情で進学することもないし。
10年に一回くらいは単発的に出場することもあるかもしれんが。
やはり箕島は尾藤公さんが作りあげたチームだった。
名将が去ると没落する、他の公立にも見られることなんだが。 >>451
習志野は公立校ながら監督が代替わりしながらもずっと強さを維持してるけど、1人の名将が作り上げたチームとは違うからかな。 天の時、地の利。運も実力のうち。79年夏は、日程に恵まれてませんでした?
その当時は、3回戦は2試合・3試合・3試合の3日間実施。3回戦の1日目で
星稜との激闘後、2日入れて準々決勝は比較的涼しい第一試合。
翌日の準決勝は、第一試合で準々決勝第4試合勝利の横浜商と対戦。
決勝は、中盤までは完全に池田ペースでもきっと最後はひっくり返すんだろうな、
相撲でいうところの「うっちゃり」の雰囲気をテレビ画面からもヒシヒシ感じた。
盗塁、凄かったですね。 たしかに星稜戦が三回戦の最終試合で準々が第一試合だったらさすがに苦しかっただろう。
現に星稜戦が仮に再試合になっていたとしたら翌日の第一試合、石井が豆をつぶしていたから登板はできずに江川の先発になっていただろうから。
しかし石井が18回257球投げて疲労困憊。優勝するには中二日で準々から決勝まで三連投しないといけないので、勝ったものの大きな代償を払ったと星稜戦直後は感じたな。
それが点差こそ競ってはいたが最後には必ず勝つという底力を感じさせる準々からの三試合だった。あの奇跡的な試合を経てもう箕島は負けないチームになっていた感じだった。
球数制限が叫ばれる現代では考えられない。石井のスタミナも含めて箕島ナインの精神的体力的タフさには驚嘆のほかない。 人生で一番高校野球観戦に熱中した少年時代。
箕島の全盛期と重なって、自分は幸せだったとしみじみ思う。
みなさんはどうですか? >>453
79春も2回戦から出場とクジ運に恵まれていたな。
決勝まで4試合戦った浪商と3試合しか戦っていなかった箕島では疲労も違っていたんだろう。
その割には拮抗した試合内容だったけど。 >>455
私見だが、高校野球がいちばんおもしろかったのは、江川登場の1973年からKK三年の1985年までの時代だったと思う。もちろん人それぞれに思い入れのある期間はあるだろうが。
この期間は、怪物江川、イレブン池田、定岡、プリンス原、サッシー酒井、沖縄の星赤嶺、24の瞳中村、バンビ坂本、完全試合松本、PL逆転劇、ドカベン香川、箕島星稜18回、荒木、山びこ打線、KK…と印象に残る選手、チーム、試合を挙げたらきりがない。
まだ野球留学が全盛になる前、各代表校にふるさとの香りが色濃く感じられた時代だった。
その輝きの時代、甲子園の王者だったのが箕島だった。 公立で唯一の春夏連覇は、凄い!それまで、夏は最高が三回戦だったのでは?79年は、正に満を持してかな。77年夏、選抜の優勝、ベスト4、ベスト8 が割拠する地方大会だったりと本チャンより凄そう。この時代、予選レベルも日本一だったんでしょうね。 >>458
77年の夏は和歌山県と奈良県から1校しか甲子園に行けなかった。
センバツ優勝の箕島、ベスト4の智弁、ベスト8の天理、その他の強豪のうち、
1チームしか甲子園に出られないという鬼のような予選だった。
結果は山口投手を擁した智弁学園が紀和大会を制して甲子園切符をゲット。
箕島は和歌山大会決勝で田辺に負けて紀和大会には出場できず。 その3校とも全部甲子園に行かせたかった・・・・・・・・ >>459
このスレでも何度か書き込みあったけど、地元のコレラ騒動がなければ・・・
しかし、選抜優勝、4強、8強のチームが同じ地区大会で甲子園代表を争うなんてのは今よりも強豪校が同じ地区に偏っていた中等学校時代でもあったのかな? 中等学校野球大会の時代なら愛知岐阜三重の東海地区大会かな。
選抜大会で岐阜商が優勝しても夏の代表は愛知勢に攫われるとか。 >>461
選抜ベスト4のうち3校が夏は同じ地区予選だったこともある東海(愛知、岐阜)予選
昭和10年選抜 岐阜商(優勝)、愛知商、東邦商(ベスト4)→夏の代表は愛知商
昭和13年選抜 中京商(優勝)、東邦商(準優勝)、岐阜商(ベスト4)→夏の代表は岐阜商
昭和14年選抜 東邦商(優勝)、岐阜商(準優勝)、中京商(ベスト4)→夏の代表は東邦商
昭和8年から16年までの選抜での東海王国は異常だった。 >>461
でも77年の予選前の下馬評は、奈良大会での天理と智弁学園の勝者が紀和代表になるという声が圧倒的だった。
選抜準決勝では箕島は智弁学園を倒していたが、東が選抜の過多な登板でノースロー調整だったし。あのコレラ騒ぎがなくても苦しかっただろう。 東は県岐阜商戦は最終回に急に制球乱れたけど、8回あたりまでほぼ完封ペースで、4試合連続完封も充分あり得たぐらいの快投。
確か前評判は全然高くなかったんだけど。 失点したのは県岐阜商戦の最終回(3失点)だけだった。45イニング投げて。
一回戦が最後の第五日の第一試合。中一日で二回戦から決勝まで四日連投。六日間で5試合投げた。
選抜前から肘に違和感があったらしいが、これで完全に壊れたらしい。大会中も夜中に宿舎を抜け出してタクシーで地元に戻り整骨院で治療していた。 >>467
大会期間中に治療で地元に戻ってて、という話はよく聞きますが、移動費用は自腹なのかどうか昔から疑問なのですが? >>469
尾藤さんの著作(新聞連載を書籍にしたもの)によると、東のときは寄付金を使わせてもらった、タクシー代は20万以上になったと回顧している。 >>471
東の時代だと列車移動ではまだ和歌山以南の紀勢線は電化されてなくてディーゼルカーだった・・・
列車本数も少なかったからタクシー移動だったのかな。 この前、和歌山から紀勢線に乗ってグルッと1周したが(和歌山までは夜行バス・
途中県内で、2泊)えらく距離があった。箕島という駅も通った。 >>472
というか、人目を避けるためだろう。
報道陣がいなくなった夜に宿舎を抜け出して有田にタクシーで向かったらしい。 タクシーの運転手には何日か予約を入れて運転をお願いする代わりに、東の治療については箝口令をしいてもらったと尾藤さんはふりかえっている。 近畿大会で優勝しない時は、甲子園で好成績・近畿勢にも勝利。近畿大会で優勝すると、
甲子園でいまひとつ。面白いですね。選抜78準々決勝・79準決勝・83準々決勝、対PL戦
手に汗握る熱戦でした。 というか、秋の近畿で優勝したのは81年だけだろう。春夏連覇のチームも秋は準決勝で浪商にコールド負けだったし、まあ石井は先発しなかったけど。 >>469
74年夏の優勝投手の銚子商土屋は千葉の整骨師が甲子園に駆けつけて治療していたな。 78年春はPLに、79年春は浪商に、それぞれ前年秋に負けた相手にリベンジに成功。 82年春は逆にPLに前年秋近畿のリベンジされた。
PLと甲子園で複数回対戦していて勝ち越してる学校は箕島と銚子商くらいかな? 横浜。PLに2勝1敗。東海大相模はPLに2勝0敗。 79夏の箕島は、73夏の広島商とチームカラーが似ていると思えるのですが、
「負けない」でいったらどっちが上でしょうかね? >>486
比較は難しいね。両方とも優勝チームだし。 両チームとも野球を知っている猛者ぞろいだね。対戦したとしたら接戦になるのは間違いない。
強いていえばやはり土壇場の粘りという点で箕島かな。 >>488
ほぼ同意ですね。
土壇場での粘りにプラスして箕島の方が打力は少し上回るような。 箕島と広島商は甲子園で対戦したことがないんだな。いちど見てみたかった。
同時出場は70夏、73夏、79夏、83夏、84夏とあるが。 >>490
春夏連覇の79年だと広島商はどんなチームだったっけ?
83年は前年に池田に凹されて攻撃志向に変わってきてたけど。 石井毅の箕島と牛島の浪商がダントツだった年が一番強く印象に残っている。 >>492
左腕中島、ショート永田。
県決勝で府中東の片岡を攻略して出てきたが打線はカーブが打てなかった。
浪商戦は香川のホームランでビビったのか、終盤は守備も乱れてぶざまな大敗だった。 広商は池田にボコられたけど、浪商にもボコられたね
アサヒグラフで「香川の一発で粉砕されたコンピューター野球」みたいなタイトルだった
広商ほどに鍛えられたチームでも、超高校級の選手をそろえた大型チームには
歯が立たないのか!と思ったね。 >>495
最後に全国制覇した88年夏には大会No.1右腕津久見の川崎を往年の広商野球全開で攻略して完勝。
箕島が相手打線に打ち込まれて完敗だった試合といえば83年夏、高知商戦で吉井が津野に満塁弾を浴びて2−8で敗れた時かな。 古くは73年夏、堀場の丸子実に4-9と完敗した試合もあるが(島本弟のとき)、このときは尾藤さんは監督を一時退いていたとき。
78年春の準決勝、福井商戦も3-9の完敗だったが、このときは打ち込まれたというより6失策で自滅したといったほうがいいか。 古くは73年夏、堀場の丸子実に4-9と完敗した試合もあるが(島本弟のとき)、このときは尾藤さんは監督を一時退いていたとき。
78年春の準決勝、福井商戦も3-9の完敗だったが、このときは打ち込まれたというより6失策で自滅したといったほうがいいか。 箕島が力を出しきった上で力負けしたと感じるのは、愛甲の横浜と栗岡の中京かなあ。 横浜戦はかなりの実力差があったが一点差に持ち込み最後まで横浜を苦しめた。
箕島の試合巧者ぶりを見せつけた試合だった。 >>500
最近は箕島のような試合巧者ぶりを甲子園で見せるチームは少なくなりました。
高校野球が打力重視に変わったのもあるけど。 金属バット等により環境が打撃に圧倒的優位になっているから。少々の失点は気にせず、それ以上得点すればいいわけだから。
そりゃ、大味で雑になるよ。一点の重みを感じさせる試合などほとんど見られなくなった。
しかも指示待ちの選手が多くて自分で試合をメークできる選手もいない。
広商の金光、東洋大姫路の弓岡、箕島の嶋田のように野球を知っている選手はいまはいないな。 箕島の野球は、むしろ金属バットを上手く利用した野球。嶋田や森川や硯の本塁打は、多分木製の時代には出てなかったはず。 甲子園での箕島の本塁打
68年春1、77年春1、78年夏1、79年春1、79年夏3、80年夏1、82年春1、83年夏2、91年春2
合計13本(春6、夏7)かな? 長距離砲を揃えたチームのイメージはないが「ここ一番」で劇的な一発が飛び出す。 >>506
土壇場まで追い込まれてからの1発が飛び出した79年夏星稜戦の嶋田、森川、83年夏吉田戦の硯の1発は全て同点弾。 敗戦まであと一人まで追い込まれながら同点アーチでよみがえること三度。うち二度はあと1ストライクまで追い込まれた状態での一発。
現代では大阪桐蔭や智弁和歌山などがいやになるほどホームランを記録しているが、そこまでの劇的価値のある一打はないだろうな。 まだ金属バットでのバントに各学校が苦労していた頃に、逆転の発想でプッシュバント戦法をマスターしたのも大きかった 逆に本塁打を打たれたのは
78年春小倉戦1、78年夏中京戦2、79年夏池田戦1、83年夏高知商戦1、2013年夏日川戦3
合計8本(春1、夏7)か。
日川戦の3本は異常だな。 >>510
時代は変わったとはいえ3発被弾は・・・
これが全盛期の東海大甲府が相手なら想像できなくはないけど、同じ公立校同士、久しぶりに甲子園に出てきた同士の組み合わせで。
箕島の方が遥かに甲子園実績では上だったけど、相手の日川はこの時は結構大型チームで長打力に圧倒されてしまった・・・ 日川は次戦大阪桐蔭相手に延長戦を講じた。
この年大阪桐蔭は優勝できなかったとはいえ日川がここまで健闘するとは思わなんだな。 日川戦、箕島最終回の攻撃でライトへの大飛球は打った瞬間いったかと思ったけど・・・ 日川戦、東京から駆けつけて観戦したけど、往年の巧者ぶりはかけらもなく、山梨の公立相手に長打で圧倒される展開にさみしさを覚えた。
初日の第三試合はあの国立戦と同じだな、と思い出に浸った。 かつて日川はラグビーで全国優勝が近いと思わせる強豪振りを発揮していたが、
ラグビーも野球から少し遅れて私学の台頭が著しく、日川の全国優勝の期待は
胡散霧消してしまった感がある。 試合巧者同士の広島商と甲子園での対戦はないと書き込みがあったが、逆転をお家芸とする報徳との対戦もなかったな。近畿大会でも対戦はあったかな。 >>519
報徳と当たったことはたぶんなかったかな。
どちらも春に実績がある学校ですが、同じ大会に出場したことも春はなかったような。
夏は78年に両チームとも出場してますが。 >>521
2009年があったか。
箕島が準々決勝で清峰に勝ってたら準決勝で箕島vs報徳のカードが実現してたのね。 尾藤公監督時代の箕島の甲子園での逆転勝利
68年春…苫小牧東戦
70年春…三重、北陽戦
78年夏…広島工戦
79年春…下関商、PL、浪商戦
79年夏…星稜、池田戦
82年春…明徳戦
83年夏…吉田、駒大岩見沢戦
逆に逆転負けは、
68年春…大宮工戦
72年春…倉敷工戦
78年夏…中京戦
84年夏…取手二戦
91年春…大阪桐蔭戦 >>523
報徳スレは定期的に立ってたけど、最近は立てても割りと早く落ちたりしていて・・・ 逆転をお家芸にしていたのは一時期PLもそうだったが、KKのころには先行逃げ切りタイプになっていたし(まあ先手取って圧倒する横綱相撲といったほうがよいか)。
報徳も逆転のイメージがあったのは81年金村のときに荒木の早実を破ったとき、そして83年春に連続ホームランで桐蔭学園を下したときが最後かな。その後不祥事で低迷期に入ったこと理由かもしれんが。 >>527
永田前監督になって低迷期から脱出、16年ぶりの夏出場だった97年までは逆転、粘りのチームカラーは生きてたけど翌年、春は横浜松坂に抑え込まれ夏は富山商に逆転満塁弾を喰らって報徳としては初めて春夏連続での初戦敗退を喫してからは・・・ それでも報徳は度々甲子園出場してきて上位進出することもあるだけ箕島と比べたらまだ・・・ 初戦に負けないというと、現代では明徳がそれなんだが、以前は銚子商、高知商、報徳、PL、中京がすぐに思い浮かぶ。
箕島も初戦負けは四回だけと強かった。 97年までの報徳は初戦には負けないイメージ(初戦敗退は71年春、81年春の二回だけ)。
98年からの報徳は初戦になかなか勝てないが、勝つとベスト8には進むイメージ。98年春以降は初戦成績は負け越しているのじゃないかな。 尾藤さんが監督として指揮を取っていた箕島は甲子園に春夏通算で13回出場、初戦敗退は84年夏の1度だけ。
73年夏の初戦敗退は尾藤さんが監督を一度降りていた時で。 尾藤さんは72年春も倉敷工業に初戦敗退している。
大会後に後援会と衝突して尾藤さんはいったん辞任。荒川氏が就任して73年夏に出場(これも初戦敗退)。
74年秋に尾藤さんが復帰した。 >>534
72年度入学の選手は尾藤さんの指導は受けないまま卒業だったのね。 尾藤さんが辞めたのは72年の選抜大会後しばらくしてからだからほんのわずかの期間は指導は受けられたのではないかと思う。 >>499
78年選手権の中京戦は力負けではなく、石井毅を
温存しなければ楽々勝っていたと思う。 二年のときの石井は連投が難しかった。前日の第4試合に完投していたから上野先発だったんだろう。
しかし八回の栗岡の場面で石井リリーフと思ったが。 >>538
連投が利いたなら石井先発でしたかね。
2年後の80年夏に早実の荒木が3回戦最後の試合だった札幌商戦で完封、翌日の準々決勝は第1試合でしたが、連投で興南を完封。
今ならかなり批判を浴びそうですが、当時はエースの連投、しかも完投は当たり前のようにあった時代で。 栗岡に逆転3ランされたあと、9回石井はマウンドに上がっているんだよな。
試合後、尾藤監督は継投の遅れを悔やんでいた。「まさかあそこでホームランとは…」 まあ、翌年、春夏連覇出来たし、十分すぎるほど帳消しだと思う。 甲子園で、8回に逆転されてそのまま敗戦となったのは78年夏中京戦と84年夏取手二戦?試合展開からみて、逆転した後に当時の箕島の追撃を封じて逃げ切った中京の強さを再認識させられる。 平成に入って、尾藤監督最後の甲子園での試合となった大阪桐蔭戦も八回に逆転されたな。 PLも復活の動きがあるようだし、ここはひとつ箕島にも奮起して欲しい。 >>545
PLより他校が強かった頃ですね。
低迷してたわけではなかったけど。
88年以降は上宮、近大附が強くてそれに続いて大阪桐蔭がこの91年に甲子園初登場して。
大阪桐蔭の和田は91年春初戦の仙台育英戦でいきなりノーヒットノーラン。
2回戦で箕島と対戦しました。
後にダイエー入りした林孝哉が和田から2打席連続本塁打を放つなど和田を攻略したけど4−6で敗れて。
この試合が尾藤さんの最後の甲子園になってしまった・・・ 箕島戦に先発したのは背尾。
林に二本打たれたのも背尾。
六回からかな、和田がリリーフしてからは箕島は1安打に抑えられた。 トウシロウの質問で失礼しますよ。スコアボードは、後攻が圧倒的に多いと思います。PLも後攻が圧倒的に多いですよね。後攻取るための秘策とか有ったのですか?池田とかは、先攻・後攻拘らずみたいな印象なのですが。 箕島の先攻後攻
68年春…後、先、後、後
70年春…先、後、先、後
70年夏…後、先
72年春…先
73年夏…後
77年春…後、後、後、後、後
78年春…後、後、先、後
78年夏…後、後、後
79年春…先、後、後、後
79年夏…先、後、後、後、後
80年夏…先、先、先、後
82年春…先、後、先
83年夏…後、後、先
84年夏…後
91年春…後、先
2009年春…後、先、先
2013年夏…後
先攻17、後攻33
うち尾藤公時代…先攻15、後攻30 〉〉550
データ有難うございます。
春夏連覇の頃の記憶が強くて後攻ばかりと思い込みしていました。データをみて思い出しましたが、80夏高知商業中西、82春上尾高日野には先攻で1番打者が初球打ちヒットから先取点。そのまま、試合の主導権握って勝利だったかと。 面白いデータですね。確かに箕島は後攻のイメージが強烈すぎる。
逆に箕島春夏連覇の翌年の夏に全国優勝した横浜高校は神奈川県大会で何と全部
先攻でした。高校によって、先攻・後攻志向が異なるんですかね・・・・・・・・・・ >>551
79年春のPL戦、夏の星稜戦、82年春の明徳戦、83年夏の吉田戦など土壇場で奇跡を起こした試合は後攻でした。
相手を寄せ付けず快勝した試合は先攻で常に先手を取って試合を有利に進めて。 >>552
80年夏の横浜は甲子園でも準々の箕島戦までは先攻。準決勝、決勝は後攻だが、決勝相手の早実は横浜を上回る先攻志向なのか、この大会6試合すべて先攻だった。
荒木時代の早実は全17試合中、先攻は2試合のみ(82年春の横浜商、82年夏の星稜戦)。
池田も先攻が多いイメージ。 >>554
失礼、荒木時代の早実は後攻は2試合のみ。打ち間違えた。 池田は先攻36、後攻20
うち蔦監督時代は先攻32、後攻16(91年夏は采配していないので外した)。先攻2に後攻1の割合。
奇しくも尾藤公さんと正反対の割合。 高嶋さんのときの奈良智弁も先攻をとるイメージが強かった。76春、77春夏の合計10試合中、後攻は早実戦の1試合のみ。 池田のような攻撃型のチームはじゃんけんに勝てば先攻を取って先手必勝で。
守りのチームは守備からリズムを作ろうと後攻を取るような。
箕島、報徳、KK以前のPLみたいに逆転がお家芸と言われたチームも後攻が多かった感じ。
帝京は池田みたく先攻が多かったかな。 PLは甲子園で96勝30敗。
計126試合のうち、先攻43(34%)、後攻83(66%)。
逆転神話を生んだ78年は春夏計8試合すべて後攻。翌79年春の準々まで11試合連続して後攻。
KK時代は全26試合中で先攻8、後攻18。
うち、78年夏、85年夏は全5試合後攻で優勝している。 「逆転の」という言葉が頭につく箕島・PL・報徳との試合でも、先に先攻を選択して
わざわざ後攻を渡す学校があるということですよね。ちょっと不思議な感じ。
箕島には、あまり「逆転の」はつきませんでしたかね。 あと4勝でPLは100勝か。現状では、もう期待できないが部を復活させて貰いたいものだ >>561
箕島は「奇跡」、「ミラクル」とか言われることが多かったように思う。宇部商もそうだったな。
逆転の、という形容は報徳、PLあたりだな。
箕島といえば「黒潮打線」と言われたこともあった。この形容は銚子商、高知商あたりがしっくりくるが。 私学にも強かった箕島
対私学 19勝6敗
勝利…広陵、東海大相模、三重、広陵、北陽
、名電、智弁、PL、倉吉北、PL、浪商、札幌商、星稜、城西、美濃加茂、明徳、駒大岩見沢、旭川龍谷、開星
敗退…岐阜短大付、中京、横浜、PL、大阪桐蔭 >>564
尾藤スマイルは試合だけ、普段の練習は鬼の尾藤で。 >>566
「練習」試合をした事がありますが、練習試合も鬼でしたよ(汗)。 普段が鬼のようだと知っている側からすると、ニコニコ・スマイルされると反って怖いのでは?サイン間違いやバント失敗しょうものならあとが恐ろしいですよね。勝負には、鬼が似合います。 ふだんの厳しさがあってこその試合での尾藤スマイル。
いまは練習でも試合でもエンジョイの学校が多いんだろうな。 攻めダルマ蔦をして
練習中の尾藤の鬼っぷりに戦慄したらしいからな >>569
尾藤スマイルで箕島はのびのび野球だと思われてたようですが、みなスマイルに騙されてたか・・・
普段の鬼のような厳しさがあったからこそ、土壇場での奇跡を起こすチームの土壌ができてたようで。 宇和島東ー済美の上甲監督も尾藤さんに習ってベンチでは笑顔でしたが、自然なスマイルではなくてなんかわざとらしかった・・・ 鬼の尾藤、黄金期のころは練習は厳しいのが当たり前の時代だったからそれでも通用した。
しかし80年代半ばになってくるとそういうのは受け入れられない風潮になっていった。
箕島が低迷したのもそういう厳しさが受け入れられなくなったのも原因の一つに挙げてもいいと思う。
やる気がないなら帰れ、と言ったら選手が本当に帰ってしまったのは88年のチームだったかな。 上甲スマイル、尾藤スマイルとガミースマイルじゃないから受け入れられるがガミースマイルやったら嫌やな。 頭に「鬼の」がついたらしい東邦時代の阪口監督は、選抜決勝で対戦した上甲監督を見てから甲子園のベンチでは形相が鬼から仏?になったらしい。それより10年以上も前から、「甲子園では」スマイルの尾藤監督は、先進してましたね。 上甲さんを見て、阪口さんは試合中は笑顔でいこう、と心がけたというが、翌年の決勝の上宮戦の10回表のピンチのときは鬼の形相をしていたな、元木に対して山田がカーブでストライクとったとき。あれはものすごい顔だった。山田もビビったのではないか。 >>576
逆転サヨナラで優勝した後の阪口さんはそれまでに見せたことのないような満面の笑顔でした。 笑顔というか、涙で顔がクシャクシャだった。
「まるで泣き声が聞こえてくるような、阪口監督の表情です」と実況の西田アナが話していた。
尾藤さんは人前で泣いたことあったかな。甲子園で優勝のときは泣いたことないし。星稜戦のあと、宿舎で選手の前で泣いたらしいが。 星稜戦でサヨナラ打した上野が二年のとき、パーマかなんかかけたのかな、運悪く町の中で尾藤さんに見つかってしまった。そうしたら尾藤さんにビンタの連打を食らってしまったと回想していたな。 >>579
「奇跡の箕島」「ミラクル箕島」の始まりはその上野が放った79春の選抜準決勝のPL戦での9回裏の同点3塁打だと個人的には思っている。
星稜戦でのサヨナラヒットのインパクトが強いので目立っていないが。 PL戦の土壇場での三塁打もみごとだったな。
直前の北野スクイズ併殺という采配ミスを帳消しにする同点打。
前年夏の中京戦の逆転3ランを帳消しにできた、と本人は語ったはず。 星稜戦でライト線へ勝ち越しタイムリーを打たれたとき
テレビ観戦していたおれは「抜けた〜長打だ〜2点とられた!」と観念した
それが箕島のライトがまさかのシングルヒットに抑えて1点で食い止めた
このプレーがあとで効いたんだよな
2点取られてたらソロホームランでは追いつかない やはり箕島は尾藤監督ありきの箕島だったな。和歌山は智弁和歌山でなくやっぱり箕島だったよ。あの明訓ユニが見られないのは実に寂しい。 尾藤監督の笑いながら両手の指先で四角い枠を作って、的を絞って打て!と言うゼスチャーが懐かしい。ときにはそうしながらスクイズってのもあったな。 >>581
その逆転スリーランを放った中京の栗岡も上野も後にプロ野球に進み、時期は違えどプロ引退後には二人とも佐◯急便に就職している。
あまり知られていないが。 上野は高校時代のマネジャーと結婚したんだったかな。 >>579
3年夏が終わって引退して髪が伸びてからならよくある話だけど、2年生で? >>587
579のコメ主ではないですが、2年生の時ですね、上野もかなりのヤンチャでしたから。
現役中だから尾藤さんにボコられた。 箕島の練習ってバントの回数も打撃の回数も少なかったんだよねえ。ノック受ける本数も。
バントなんか反復練習を繰り返しやってたと誤解されがちだが、実際のバント練習は一球で終わり。
一発で決めたらそこで終わりで、決められなくてももう一回とはならずそこで終わり(監督の罵声付き、時にはパンチ、キックもあり。)。
回数こなすより普段から集中力高めて緊張感のある練習をしていた。
回数が少ないにもかかわらず練習時間が長かったのは、大勢居る控え部員にも練習をさせてたから。
尾藤さんは控え部員にも容赦なく罵声を浴びせてたけど、球拾いだけで終わるよりよっぽどよかったと
元ベンチ外の俺が語ってみる。
>>567
「練習」試合では、若手コーチが指揮を執ることもあったが、
下手な采配を振るったコーチに対しても鬼でしたwww >>589
昭和に箕島と練習試合をした事があります。
試合前のノックを尾藤さん自らバットを握ってましたが、意外?に緩い打球で正面ばかりで「こんなもの?」と思ったが、最初から最後まで全ての選手の送球は相手が構えた場所に完璧ストライク送球だった。
それこそ「集中力を高めて緊張感ある練習」をしていたからでしょうね。
それから当時は箕島は練習試合でもみんな背番号を着けてましたね。
これも選手間で「緊張感ある」競争をさせるためだったんですかね。 >>591
>当時は箕島は練習試合でもみんな背番号を着けてましたね。
>これも選手間で「緊張感ある」競争をさせるためだったんですかね。
それもあるかもしれませんが、
公式戦で背番号をつけられない部員にも、
練習試合では背番号をつけさせたいという
尾藤監督の配慮ですわ。 鬼のように厳しいが、そういう選手思いのところもあるんだよね、尾藤さんは。
昔の先生も殴るけど愛情がある先生ほど生徒から人気があったし。
厳しいだけなら当時の選手でももたなかっただろう。 >>296
遅レスですが....
宮本は新チーム結成時から投手だった、左打者に対してノーコンだったのは宮本そのもの。
秋の近畿大会でも投げています、当時の報知高校野球に写真が掲載されてました。
宮本は和歌山県内の某高校との練習試合でも四球を多発、試合終了後に尾藤監督に相手ベンチに連れて行かれ、「練習試合にならなくてすみませんでした」と土下座させられたと聞いた事がある。 >>594
宮本は80年夏の甲子園ではスピードもそれなりにあったけど、制球難はそれなりに改善されていて適度に荒れてる感じで相手打線も打ち辛かったかな? 宮本は高知商戦でもカーブがすっぽ抜けたのか、とんでもない暴投をしている。
朝日放送の高校野球ハイライトでも、テレビ画面の上のほうに飛んで行く暴投は珍しいと植草アナに言われていたな。
近大に進んでいきなり全日本選手権の決勝まで進み、平田(阪神)がいた明治に敗れて準優勝だった。 80年夏、選抜優勝高知商業戦は関係者や地元ファンの試合前の展開予想はどんな感じだったのですか?結果は、先攻・先制攻撃、そのまま試合の流れを渡さず快勝でしたかね。 >>597
和歌山民です。
正直「春の王者・高知商相手に善戦してくれれば」でした。
春の王者、後にプロに進む中西投手、前年秋に和歌山大会で箕島を破った新宮高校に春の選抜で圧勝....
正直、勝てる気は全くしなかった。
高知商もいくら前年の春夏連覇の箕島とは言え、負ける気は微塵もなかったのでは?
しかし終わってみれば5対0の完封勝利、確か4イニング連続ダブルプレーで守り切った展開。
さすがの高知商も0点では勝てないですよね。 地元でも期待薄だったのか。
しかしあの試合は箕島野球の神髄をみた気がしたな。
「さすが箕島野球 バントと足で高知商撹乱」
アサヒグラフの見出し。
箕島のバント攻めに中西は根負けしたな。とくに三回は二塁にフィルダースチョイスし、スクイズも取り切れずにガックリしていた。
しかし、前年春夏連覇のチームとその年春優勝のチームが当たるとは。メチャクチャな好カードだった。 >>599
あの年の箕島は「よく甲子園出場を決めてくれた」って感じでした、地元では。
何せ夏の県予選1回戦で好投手を擁するとは言え、現時点でさえ一度も甲子園に出場経験のない紀北工業。
その紀北工業に2点か3点先行されて箕島が追いかける展開。
最後には1点差で勝利しましたが。
決勝戦のVS伊都高戦も雨で一日順延しましたが、グランドコンディションも悪くなく、「県高野連がどうしても箕島に勝たせて甲子園に行かせたいために疲労感の強い箕島のために中止にした」という噂まで飛び交ってましたよ。 80年夏の箕島は前年の星稜戦の16回裏、奇跡の同点ソロを放った森川が9番を打ってました。
2年生レギュラーで春夏連覇を経験してれば翌年はバリバリの主力打者かと思ったら・・・
あの奇跡の同点ソロを打ったことが忘れられずにバッティングを狂わせて新チームではまったく調子が上がらないままだったそうで。 >>600
準決勝で箕島は熊野高校と延長15回3-2ぜやっとの思いでサヨナラ勝ち。しかしこの熊野高校には名前失念したが(田中だったか?)好投手がいて延長に入って13回ころだったと思うが先に点を取られたが星稜戦並みの粘りでその裏追いついた。
決勝は2-0伊都だったかな。 80年夏の最後の試合となる甲子園準々決勝の横浜戦、2対3と1点リードされた9回裏の先頭バッターはその森川。
尾藤監督は「前年夏の同点ホームランが頭をよぎった」が左腕・愛甲投手に対して森川の代打に左打ちの2年生・平本を起用。
見事にレフト前ヒットを放ってくれた。
この代打策は森川がいかに本来の調子ではなかったか伺える。 >>602
その準決勝は記憶になかったですが、「疲労感の強い箕島」はその試合が原因だったんですかね。
確かにあの年は和歌山に好投手が多かった。
和歌山工業の金本&湯川、伊都の久保&内田?、紀北工業の浦本、書かれている熊野に串本、 604の続き
他にも好投手がいて報知高校野球に「和歌山のレベルは高い。和歌山には甲子園に出場してもおかしくないレベルの高校が8校(8は記憶定かでないです。汗)はある」と書かれてましたね。
伊都の久保投手は後に大洋ホエールズに投手として活躍した。 >>605
たしか報知高校野球の予選展望号の和歌山のページは「全国を席巻した箕島の黒潮打線のおかげで、和歌山は好投手の宝庫になった」で始まっていた。
さきほど書いた熊野の投手はそのページで顔写真つきでズームアップされていた。 >>606
今もあるのかな?、日本スポーツの月刊野球党の予選展望号には和歌山工業の金本投手が1ページを使って大アップのバストアップカラー写真が掲載されていた、確か「打倒箕島一番手」みたいなタイトルだった。
「プロでも通用する」と言われた逸材だったが、後の噂では「金本」は日本名なので....との事情を聞いた記憶が.... いまテレビ和歌山で数年前に放送された80年夏のダイジェスト特集ビデオを見たら、熊野の投手は伊藤俊勝という選手だった。準々で選抜出場の新宮を完封したときの映像だった。
伊都の内田が準々で和工を破ったときの映像もあった。 準々決勝、対横浜が事実上の決勝戦だったかな。あたまで国立、途中高知商業、横浜、締めで早実とか撃破だとまさに横綱の貫禄。 箕島対星稜の試合があった1979年8月16日の甲子園には
のちの殺人犯が2人いたw
1人は死刑、もう1人は無期懲役 >>610
真◯美以外にもう一人いたんですか?
誰ですか? >>612
なるほど、確か前橋工でしたね。
79春の選抜前に新チーム結成後の戦績を見て「もしかして箕島以上?」と思うくらい勝ってましたね。
記憶では50数勝で無敗か1敗だったかと。 >>613
いや、35勝くらいだったはず。
1敗は関東準決勝の宇都宮商戦、0-3。
その前の準々で山梨の巨摩(なつかしい名前だ)と延長18回0-0の引き分け再試合の末勝っていたが。 >>614
79年春の選抜は勿論箕島を応援しながらも前橋工は「強そうだ」と思ったなぁ。
あと浪商、PLの大阪勢も。
箕島の初戦となった下関商のピッチャーのカーブも凄かった、打者一巡の9人が5三振。
トップバッターのあの嶋田が空振りでなく見逃し三振でしたからね。
先取点も取られてたので「もしかしたら負けてしまう?」と思ったけど逆転してくれて。
春夏連覇のスタートとなる試合でしたからね。 甲子園慣れしたチームでも初戦は硬くなるもの。エース石井が先頭打者にいきなり死球。
下商に先制され、攻めては三回まで山本に5三振を喫した。
箕島危うし、と思ったのもつかの間、四回に打線が一気に爆発、5点を奪い逆転。 >>616
その下商に先制されたシーン、ランナーがヘッドスライディングでホームに突入、嶋田捕手がタッチをした後にキャッチャーミットを「アウト!」と言わんばかりに振り上げていたアップ画像がその年の報知高校野球の夏の予選展望号の表紙に使われてましたね。
嶋田はイケメンだと思うが、自分の周囲(和歌山県内)は北野が女子に一番人気だったなぁ。
男の自分としては男っぽさの強い上野が好きだった。 春夏連覇のチームは大柄な選手はいませんでしたね。
選抜決勝でサイクルヒットの北野も大柄ではなく身長は175センチ、バッテリー組んでた石井は172センチ、嶋田は170センチと大型選手を揃えたチームのような迫力はなかったけど、いざ試合になると勝負強くて。 >>618
「勝ちに見放されたチーム」と言う言葉がありますが、変な言い方ですがこの時の箕島は「負けに見放されたチーム」とでも言いましょうか・・・
「何をしても勝てない」の真逆で、「どんな展開になっても負けない」不思議なチームでしたね。 >>615
79年の選抜は異様に試合がおもしろかった。
倉吉北一静岡、PL一中京商、高知商一八代工、PL一宇都宮商、浪商一高知商、浪商一川之江、東洋大姫路一池田、箕島一PL、浪商一東洋大姫路、箕島一浪商など好ゲームを挙げたらきりがない。
しかし自分は関東人なので東日本の悲惨なまでの不振に絶望的になったのも確かだった。
なにしろ近畿がベスト4独占だからな。西高東低があそこまできわだった大会も珍しい。 当時、自分の地元の神奈川は全く春の選抜に出られず。それでも春の選抜は楽しめたが。
近畿がとんでもなく強かったことは覚えている。神奈川は「夏だけ番長」だった。 和歌山勢全体に、たとえ相手が有名校で劣勢評価でも立ち向かう姿勢があるのがいい。
古くからの強豪県のプライドなのか >>620
池田−東洋大姫路のドロンコゲームも入れてください。79選抜は、上尾に出場して欲しかった。選抜で甲子園経験して、夏に浪商と対戦してればのタラレバ話。79夏は、ベスト4のうち選抜出場校が3校。星稜も選抜出場してましたよね。
箕島・石井と星稜・堅田の投手戦も見ごたえあったけど、78夏の能代・高松との投手戦が凄く印象に残っています。箕島が1点先制後は、両チームとも点の入る雰囲気全く無しでした。 >>623
620だが、池田一東洋大姫路も挙げているんだけど。
上尾は前年夏の例の事件で選抜は無理だったんだな。春季大会から復帰して春の関東は準優勝だった。
能代高松は箕島の春夏連覇のメンバーでも甲子園で対戦した投手でもっとも印象に残ると挙げている選手が多いな。 >>624
池田ー東洋大姫路、失礼しました。すみません。
この時の東洋大姫路に、履正社岡田監督居たんでしたかね。
それにしても、この頃は同一カードの再戦・再々戦結構実現してますね。
池田ー東洋大姫路も、82夏に再戦。箕島ー高知商、箕島ーPL、PL-高知商も。
81夏和歌山工ー熊谷商、82春箕島ー上尾、82夏南部ー熊谷の
和歌山ー埼玉3連続も強い記憶。 あのころは荒木の早実が二年夏を除いて四大会で京都勢と対戦したのが知られているな。
箕島の再現カードというと、
広陵…68年春準々決勝7-3、70年春準決勝3-0
PL…78年春準々決勝2-0、79年春準決勝4-3、82年春準々決勝0-1
高知商…68年春2回戦2-1、80年夏2回戦5-0、83年夏3回戦2-8
この三校だけなんだな。
箕島は北海道勢に強く、68年春の甲子園初試合の苫小牧東戦(5-2)を皮切りに5戦全勝(70年夏8-0北見柏陽、79年夏7-3札幌商、83年夏5-3駒大岩見沢、91年春5-1旭川龍谷)。 >>626
荒木が早実を卒業した翌年、83年も春夏共に初戦で東京vs京都の組み合わせでした。
春が桜美林vs立命館、夏が創価vs東山で。 >>626
82年春のPL戦は息詰まる投手戦だったね。上尾、明徳義塾と強豪に接戦で勝ち、個人的には好きな大海やったー >>623
東洋大姫路−姫路って終盤の試合展開が中京大中京−日本文理と似てるんだが、
片や名勝負ランキング2位になるほどの名勝負、片やほとんどの人が覚えてないただの好ゲーム、
決勝戦とそれ以外でこんなに差がでるものか。
中京大中京−日本文理なんて決勝戦じゃなかったらただの好ゲームになってただろうに >>623
東洋大姫路−池田って終盤の試合展開が中京大中京−日本文理と似てるんだが、
片や名勝負ランキング2位になるほどの名勝負、片やほとんどの人が覚えてないただの好ゲーム、
決勝戦とそれ以外でこんなに差がでるものか。
中京大中京−日本文理なんて決勝戦じゃなかったらただの好ゲームになってただろうに >>625
スレチだが、再現カードが続いたケースでは73年〜74年の銚子商がすごい。
73年夏準々決勝 対静岡(63年夏2回戦)
74年春1回戦 対岡山東商(73年夏1回戦)
74年春2回戦 対日大三(72年春準決勝)
74年春準々決勝 対報徳学園(73年春1回戦)
74年夏2回戦 対PL学園(70年夏2回戦)
なんと5試合連続で再現カードだった。
銚子商と箕島、黒潮打線同士の対戦はなかったな。 外川(とかわ)は、万治元年(1658年江戸時代の初期)、紀州からやってきた崎山治郎衛門が築港しました。
それに伴い、漁港に面した南斜面は、碁盤の目のように区画され、そこに紀州から呼び寄せた1000軒以上が住みつき、集落となりました。
そして、築港から今日まで、銚子の漁業発祥の地として栄えてきたのです。
時代とともに、そこに住む人や建物が新しくなっていく中、ふと目に飛び込んでくる懐かしい風景や、人々の温かさ。
あなただけの外川の魅力が発見できるでしょう。
銚子外川の町並み
古き良き漁師町の面影を残す町。
狭い路地が碁盤の目のように整備され、坂を下りれば漁港へと続いています。
この街は、和歌山から移住してきた崎山治郎右衛門が1658年に街区を整備し、
紀州から人々を呼び寄せ、「外川千軒大繁盛」と言われたほどの賑わいました。 有田シニア、有田ボーイズ、湯浅ボーイズから箕島に行く野球上手い子はいないのかね >>636
智弁和歌山か、県外に流出してしまうんだろうね、いまは。 昔コレラも流行ったけど、コロナまで流行りそうやな。 箕島の白ヘルがなんかヤケに印象に残っている。あと島本なんかの時には確か帽子のマークは花文字のmだったが、春夏連覇の時には明訓と同じMだったよね。 >>640
済生会有田病院のある湯浅町は春夏連覇した年の4番打者・北野の出身中学がある町。 尾藤監督(または箕島高校)のこだわりと思われる点
・帽子の「M」マークは尾藤監督自らのデザイン
・春夏連覇の年から帽子の形も六方型でツバの長いスマートなカッコいいタイプ、見た目のカッコよさにこだわっている(強豪だから当然)
・監督と選手達のトレーニングシューズは美津濃の「M」ラインシューズ(長年白に紺のMラインのマジックテープ式のものであったが高野連の「真っ白シューズ」規制により終了)
・試合開始、終了時の選手整列は先頭のキャプテン以降は学年等に関係なく必ず背の高い順
・ピッチャーが球審からボールをもらう際、脱帽してもらう風習があったが、春夏連覇年の石井投手以降、脱帽せずに会釈をして受け取るスタイルを築き、今や他校でめ脱帽する者は稀
・甲子園で敗戦しても試合終了後に選手が甲子園の土を集めるのは禁止、土は甲子園練習の時に持ち帰る
・毎年夏の県予選ではその年に入学したばかりの新一年生の有望株一人をベンチ入りさせる
・「思い出代打」の観念はなく、とにかく最後の最後まで試合を諦めない
・練習試合でも基本的に背番号を着けて行う
ザッと思い付くのは以上ですかね〜。
あくまでも「思われる点」なので実際は「そんなこだわりはなかった、偶然」もあると思います、悪しからず。 審判からボールを受け取るとき帽子を取る投手で印象に残っているのは77年春中村の山沖。
その山沖を箕島は攻略した。バントで山沖が尻もちついたプレーがあったな。 高知は無名高校が全国に行ったら上位に行く傾向がある感じがする。 >>641
帽子は紺色でもヘルメットは白というのは尾藤監督にこだわりがあったのかな?
それとも尾藤監督就任前から? 肩にラインの入ったユニホーム、甲子園では希少でした。他に見たのは、新湊くらいの記憶。最近、ニュースで南海ホークスのユニホーム見たけど、肩に太いライン。影響受けたのかな。 簑島は堅実で強いって印象だった
そのくせ人気があった >>648
あくまで噂で聞いた話ですが、最初はヘルメットも紺色にしたかったらしいのですが、紺色の方が値段が高くて白になったとか。
そして白ヘルで快進撃を続け「縁起がいいからこのまま(白)」らしいです。 >>649
箕島の春夏連覇当時、肩にラインは入ってなきったかも知れませんが、滋賀の比叡山高校、香川の丸亀商のユニはアイボリー地に紺色ラインのカラーリングに胸の校名のローマ字書体、紺の帽子にオレンジ色のマークで箕島そっくりでした。
特に丸亀商なんか同じ「M」なので両校が対戦したらややこしいだろうな、と思っていました。 幸いなことに箕島と丸亀商は77年春、82年春しか同時出場していない。対戦もなかった。
77年春は反対のゾーンだったから、箕島が優勝しても丸亀商がベスト8どまりだった。
82年春はベスト8で対戦するゾーンだったが、丸亀商がエース遠山の大乱調で初戦敗退して実現しなかった。 >>653
丸亀商は初戦の浜田に勝っても2回戦はPLでしたから果たしてどうだったか?
この時の丸亀商は前年秋季四国大会準決勝では、箕島と延長14回の熱闘を繰り広げた明徳に勝って、決勝では高知商め下して優勝していたからチームの実力はあったはずですが・・・ それにしてもセンバツ優勝投手の島本講平は今を考えてみてもメチャクチャ、イケメンだったよな。夏は岐阜短大付の湯口に投げ負けて残念だったな。 下津、有田あたりの漁師町には精悍なイケメン多いんだよ。
それに対して山側のミカン農家は(以下略)
春夏連覇のバッテリーも
投手=ミカン農家、捕手=漁師と
対照的な面構えだったろう。 箕島のイケメンと言えば、岩田さんですよね?
54年のチームでは宮本さんも男前で女子からよくモテたと聞いてます。 島本講平は南海に入団したが芽が出なかった。近鉄にトレードされてそこそこ活躍した。南海時代は亡くなったノムさんに嫌われていたと聞くが本当はどうだったんだろか。 昔話もいいが、本気で箕島復活を望んでいる者はおらんのか?
智弁和歌山は強いとしても、同じ公立の市立和歌山はがんばっているぞ。
その外、他県の公立も過疎でもがんばって戦力維持している学校はあるぞ。
箕島は過疎を言い訳に弱体化した負け犬なのかね? 箕島(有田)は県内基準では過疎地じゃないだろ。
むしろ都会のほう。 >>661
センバツ同時出場した大成の楠井主将とともに
男前キャプテンとして人気がありましたね。
>>654
やはりあの年の丸亀商は投手力が弱かった。
秋の県大会も尽誠に負けて二位での四国大会だったはず。
四国の初戦、松山商戦で9回逆転サヨナラで勝ってから波に乗った感じ。
明徳戦は雨の中、明徳の弘田が調子悪くて4-1で勝っていた。 82年春出場のチームからは下級生の吉井も含めて住吉、畑山と3人がプロ入り。
翌年の83年夏出場のチームからは吉井以外に山下、下級生の嶋田と3人がプロ入り。
メンバー外だった杉本も含めれば4人。
チームの大型化でプロ入りする選手も増えたけど、箕島のお家芸だった小技を駆使、相手のミスにつけこんで得点を重ねる試合巧者ぶりは徐々に影を潜めてきて・・・ 83夏の甲子園は硯のホームランがインパクト大だったが、
スランプまっただ中だった187センチの主砲・山下が、
送りバントを確実に決めるのを見て小技の箕島は健在だと思ったんだが。 77年春に優勝、直接コレラ事件があり、夏は気の毒だった 読売新聞の予選展望の見出しに「コレラ騒ぎが痛い箕島」と出ていたのを思い出す。
しかし紀和大会で智弁学園に勝てただろうか。選抜では勝っていたが。 >>671
甲子園での山下は送りバントを決めてるシーンしか記憶にない・・・
後にプロ入りする大型スラッガーが送りバントをきちんと決めてるのも箕島らしいといえばそうですが。 山下の和歌山予選映像を観た印象は、筒香ばりに左右に打ち分ける強打者だったな。
初戦の吉田の左腕三浦の変化球にタイミング狂わされたのが響いて、甲子園では別人になってしまった。 1970年夏の選手権初優勝
東海大相模メンバー
3番 和歌山出身
4番 大阪出身
5番 大阪出身
関西人のおかげで優勝できたw >>677
1970センバツで2回戦で箕島が東海大相模を破ってるけど
関西出身者が多い東海大相模に対する箕島のライバル意識は凄かったらしい。
特に和歌山出身の井尻主将には敵意剥き出しだったとか。
今とは違って、県外留学が故郷を捨てたと言われていた時代。 1970年の高校野球を調べてみたら、
箕島−東海大相模−岐阜短大付属の三すくみだったのね。ここに北陽とPLがからむ。
【春】
箕島 6 - 2 東海大相模
北陽 4 - 3 岐阜短大付
箕島 5−4 北陽 (決勝)
【夏】
岐阜短大付 6 - 1 箕島
東海大相模 3 - 2 岐阜短大付
東海大相模 10 - 6 PL学園 (決勝)
当時の新聞によると
春は広陵と西条が優勝候補の双璧。これを追って東海大相模、北陽、三重。箕島は大会前に正捕手がケガして戦線離脱したので評価を落としていた。
夏は東海大相模、箕島、広島商がビッグ3。PLも上位進出は堅いと評価されていた。 島本世代の話になると書き込みが少なくなるな。知っている住人は少ないのかな。
知っているのは東で優勝した頃からなのかな。
自分もそうだが。 >>682
島本世代の1970年だと箕島全盛期に中高生で夢中になって試合を見てた50代はまだ幼少期が多いから。 北陽と箕島の決勝は、一応親戚の家で最後まで観てた。親戚の子とゲームとか他の遊びに夢中で、真剣に観た記憶は無い。
松山商業と三沢の決勝も友達と遊んでた途中の、断片的な記憶だけ。 北陽一箕島は、大会中に起きたよど号事件関連のニュースのため放送開始が10分ほど遅れたらしいと聞いたことがある。 70年夏のPL、エース新美は熊本県出身とNHKのアナウンサーがテレビの試合放送で話していた。79箕島は、地元出身で固めて春夏連覇なんでしょう?凄いですね。星稜戦がクローズアップされて、起死回生とか奇跡とか言われるけど、玄人好みという言い方が似合うと思う。 強いというよりも「負けない箕島」のイメージが強烈すぎる。 78夏の中京戦は逆転されてそのまま逃げ切られたが、80夏の横浜戦は序盤で先行されたが中盤以降は押さえて終盤に追い上げ、1点差で9回裏先頭バッター出塁。勝利の瞬間に、愛甲「ほっと」した表情してたね。 あの横浜戦は敗れてもなお「箕島強し」を印象づけた一戦だったな。 PLが柏戸なら、箕島は大鵬。
大鵬は型が無いと言われたが、相手によって融通無碍の相撲が取れた。 大鵬とは、言いえて妙。最近の大阪桐蔭とかは、千代の富士の相撲みたい。70年代80年代の箕島は、勝っても負けても、二桁得点、二桁失点無かったのでは?試合が、荒れるということは無かった。 箕島の最多得点は10点。
77年春の豊見城、79年春の下関商戦。
最多失点は9点。二桁失点の試合はない。
73年夏の丸子実(荒川監督時代)、78年春の福井商戦。 >>690
やられるんじゃないか、と怖かった
と愛甲は試合後に話している。
あの頃の箕島の何かやるという不気味な迫力はすごかった。 >>695
80年のチームは一番箕島らしいチームだったような。
2回戦で選抜優勝の高知商を5−0で下した試合は箕島野球全開の会心の試合でした。 尾藤さん亡くなってもう9年が経ったな。
3.11の直前だった。 >>696
確かに最も箕島らしいチームだったかも知れませんね。
80夏も初戦は開幕日に都立初出場の国立、次戦は春の選抜王者の高知商。
そして準々決勝はその大会の優勝校・横浜。
対戦相手もバラエティに富んでいましたね。 春夏連覇の翌年で相当戦力ダウンしたと思うけど、よく夏に立て直してきた。 80夏、準々決勝箕島vs横浜が事実上の決勝だったのでは?あの大会、横浜は接戦や逆転勝ちもあったけど、常にリードしていた箕島戦が一番追い込まれ感あったのでは? 序盤は横浜が一方的に押していたのにねえ。箕島の二枚腰は本当に「負けてなお強し」
ヒタヒタと不気味に追走するマラソンランナーの凄味があった。 あとは思い出話しのスレに入り浸るしか無いな。もうネタは尽きてループさせるだけだけど あのユニフォームをふたたび甲子園で見る日はやってくるのだろうか。 現在の箕島の帽子のMマークは昔と比べて何となくずんぐりむっくりと言うか、ちょっと上から押しつぶしたように感じるのはおれだけ??
あと箕島だけではないが、両耳ヘルメットが義務付けられ、アンダーシャツもピッタリフィットタイプが主流に。
個人的には春夏連覇当時の片耳ヘルメットとゆったりアンダーシャツが箕島のユニフォームには合っていた気がする。 箕島がこれに勝てば甲子園というところで逃した夏は、
76年 紀和決勝1-3天理
86年 県決勝3-5桐蔭
88年 県決勝2-6高野山
2017年?県決勝 0-2市和歌山
かな。
選抜の補欠校というと、80年、2015年?
94年、2003年も惜しかったな。
むかしのことは瞬間的に分かるのに、最近は何年だか出てこないわ。 辻本
東
石井毅
上野
宮本
上野山
吉井
嶋田
杉本
岩崎 好投手が多かったが、基本的に箕島は打力のチームだったな。 >>711
黒潮打線と言われてましたよね。
ただ爆打ち試合ってそんなになかったかと。
智弁和歌山のようなド派手な試合はなかったように思います。 >>710
嶋田杉本の次の85年のエースは西原。 岩崎は4番打者じゃなかったかな。 >>714
85年春季近畿大会の箕島vs天理の試合、彦根で見たけど、選手名はうろ覚え…。
球場外で早く来い!とか、選手を叱る怖い女子マネの記憶だけが残ってるな 投手は西原が正解だね
当日は次の試合の、kkコンビのPLと前年秋に敗れてる東姫のリベンジ対戦の印象が強すぎて、箕島の試合はあまり記憶が無い。 たしかこの夏に旋風を起こした滋賀の甲西に2-1で辛勝したかな。 夏は和歌山工業の森岡(前年は決勝で大勝したが)に抑えられて準決勝敗退だったか。 横田と対戦したいがために弱小・那賀に練習試合を申し込んだPL
天下のPLからまさかのオファーが来てあたふたした那賀高校は当時は県下最弱クラス
横田はPLをそこそこ抑えたが、那賀打線は完全に押さえ込まれた >>715
その天理戦は1-3で敗戦。
新聞で結果を見て天理の投手の欄にエース喜多の名が無くて
「控えに抑えられてるようでは今年は期待できないな。」と思ったけど
その投手は翌年夏の優勝投手・本橋だったんだよな。 85年春の近畿大会メンバーには入学したばかりの尾藤ジュニアはさすがに入っていないよな? 春季には居なかったけど、尾藤坂本コンビは夏予選前からレギュラーだったはず。
今思えばセンバツ智弁和、春箕島、夏和工の豪華メンツだった85年が、長期低迷開始と歴史の転換点となった。 箕島は天理には弱かったな。
76年春、76年夏(紀和決勝)、76年秋、85年春、2008年秋と負けているよな。
勝ったのは78年秋(3-0)くらいか? 定時制のピッチャーで優勝なんて
今じゃ考えられないよね >>729
定時制に通いながら全日制の生徒と一緒に野球部でやってる選手は今はあまり聞きませんね。
箕島だと82年のキャッチャー住吉が定時制だったと以前にレスがあったけど本当?
有名なところだと後にプロ入りした熊本工の伊東勤、甲府工の中込が定時制でした。 稲川監督率いる桐生高校の全盛期は部員の大半が定時制。
理由は朝から夕方まで練習漬けの野球生活に専念するため。 >>730
住吉も定時制だったんですか?
同じ代の山田という三塁手は定時制だったと思う。
春夏連覇の代の星稜戦の16回裏に同点ホームランを放った森川も定時制だったはず。 >>729
東投手は自動車整備工場で日中は働き、出勤と退勤は片道10キロをランニングで往復していた。15時から練習、18時から授業、帰宅は23時過ぎ。
このころの選手には生活の匂いがした。日本が豊かになり、特待生で恵まれた環境で野球に専念できるいまの選手には実感わかないだろう。 64年春夏出場した和歌山海南にも定時制の選手が二人いたと聞く。
そのうち一人が日南学園を甲子園に導いた小川監督だったと思う。 64年春夏出場した和歌山海南にも定時制の選手が二人いたと聞く。
そのうち一人が日南学園を甲子園に導いた小川監督だったと思う。 住吉、プリンスホテル経由ドラフト1位で日ハムでしたよね。社会人日本代表で4番打ったりとか。プロ入りしてからも、箕島野球感じたのはやっぱり上川。 >>736
住吉の出身は都立竹台高となってたからやはり箕島では定時制で転校してたのね。 >>736
住吉の出身は都立竹台高となってたからやはり箕島では定時制で転校してたのね。 >>736
住吉の出身は都立竹台高となってたからやはり箕島では定時制で転校してたのね。 住吉はあの明徳戦の14回表、ヒットで三塁走者に続きホームに突入した二塁走者をブロックして4点目を防いだプレーが印象に残る。 >>741
タイミングはセーフだったね! 住吉ガタイ良かったからら、跳ね返された感じ! >>726
天理にはムチャ相性悪かった!多分その通りで、1勝5敗戦ぐらいだと思う。
箕島は外弁慶型のチームだったから、県内でもちょくちょく負けるのが、逆に公立校らしく嫌みがなかった! >>733
尾藤監督と同じ職場だったと思うわ! 昭和52年の夏前の「有田コレラ」で外出禁止令発令で、調整不足で県決勝で敗れて春夏連覇を断たれた! 山路・林の91年のチームが天理と対戦していたら結果はどうだっただろう?
90年秋近畿では準決勝で三田学園に負けて実現しなかった。控えの中尾を先発させたこともあるが。
打撃戦では勝つことは考えられないから、山路の快投しか勝ち目はないかな。ただこの年の天理は脆さもあったから付け込める隙は有ったと思う。
尾藤さんは高校の先輩で81年夏ベスト8の和歌山工監督の吉川さん(当時和歌山県高野連理事)に「天理とは甲子園で対戦したいんですよ。」と話していた。 >>747
準々 箕島3-0三田学園
準決 神戸弘陵5-2箕島
だったと思う! 箕島は天理には相性悪かったけど、甲子園で対戦すれば外弁慶ぶりを発揮したかも知れないね >>747
準々 箕島3-0三田学園
準決 神戸弘陵5-2箕島
だったと思う! 箕島は天理には相性悪かったけど、甲子園で対戦すれば外弁慶ぶりを発揮したかも知れないね >>750
まぁ お約束の通り、準決は控え投手を試す場でもありました。 >>501
習志野と報徳がある。広商はもう昔日の面影なし >>752
明石商も、勝負どころでスクイズを仕掛けてくるから、少し箕島野球の匂いはするわ >>730
82センバツに出た大成の楠井主将も定時制でした。
実家(大規模農家)の手伝いでフル稼働しながら
野球部主将としても大活躍とテレビでも取り上げられてた。 イメージとしたら報徳学園と東洋大姫路が兵庫県の顔なんですけどねえ。 報徳は不祥事が続いたときは廃部も検討されたと聞く。
最近は甲子園でなかなか初戦突破できず、「初戦に強い報徳」のイメージが薄れたのは残念だが、初戦突破したときは必ず上位進出する感じだな。
それにひきかえ東洋は… 箕島
東洋大姫路
77年の春、夏の優勝校
この両校って、近畿大会で対戦したことあったっけ? 箕島が晴れ舞台に帰る事は無いのだろうか?
最近の箕島はどんな感じですか? 箕島は尾藤公・元監督の息子、箕島の前監督だが、彼が入学してきてから歯車が狂ってしまった。
意外な事に、勝負師の尾藤公監督が我が息子を溺愛し過ぎていた。
当人は表面に出していないつもりでいても、部員たちは気づいていた。
そしてその息子の尾藤強が在校時に一度も甲子園に出場出来ず、更に箕島はシラけたムードになり、その間に智弁和歌山が力を付けていき、また中学生の憧れは箕島から智弁にシフトして行ってしまった。 >>766
選抜の大阪桐蔭戦で2打席連発の林、高野と後にプロ入りした野手陣もいたから夏に智辯に敗れて甲子園逃したのが痛恨で・・・ >>765
親子鷹といえば、東海大相模の原、銚子商の斎藤親子を思い出すが、箕島の尾藤親子と違いこちらは親子で甲子園出場を果たした。
しかし、東海大相模、銚子商ともに息子が卒業してからは甲子園から遠ざかってしまったのは何かの因縁か。 >>768
東海大相模で言えば原貢監督が東海大学監督に異動してしまったのが大きかったかも
知れませんね。 >>765
強の入学と箕島の長期低迷→没落の始まりは同じ時期だからな。 >>770
どうしても親子の情が出ちゃうからと嶋田兄弟の家に頼んで
強を下宿させてたみたいですが、グラウンドでは情が出ちゃってたのか・・・ >>771
強が卒業後に尾藤公元監督が某雑誌のインタビューで
「息子は目の中に入れても痛くない」と語っていた。
そんな発言をする人ではないと思っていただけに凄く意外だったし、恐らくその思いがグラウンドでも滲み出ていたんだろう。
そりゃあチームはシラケると思う。 尾藤親子の件でシラケてなんかいないって
シラケててたら強が監督に担がれることもなかろう
親尾藤さんが息子の強君を幼少の頃から溺愛してたのは誰でも知ってたし
本人も「どうしても息子と他の選手を平等に扱うことはできない」と言う悩みを隠さずに吐露してたし、
周囲も「そりゃそうだろ、実の親子なんだから」という感じだった
強くんが実力でエース勝ち取ったとみんな認めてたもんね 尾藤親子の件でシラケてなんかいないって
シラケててたら強が監督に担がれることもなかろう
親尾藤さんが息子の強君を幼少の頃から溺愛してたのは誰でも知ってたし
本人も「どうしても息子と他の選手を平等に扱うことはできない」と言う悩みを隠さずに吐露してたし、
周囲も「そりゃそうだろ、実の親子なんだから」という感じだった
強くんが実力でエース勝ち取ったとみんな認めてたもんね 箕島が凋落したのは学校自体の人気低下
野球のことじゃなくて偏差値面でのはなし
学力的には耐久(地域トップ校)相当の野球少年が
あえて偏差値の低い箕島へ行くことが昭和50年代まではよくあった
そういう子らが来なくなって脇を固める人材が不足するようになったのが
低迷の始まり 次にきたのが智弁の台頭なのはご存じの通り かつての箕島高校(普通科)では、学校全体のテストの平均点より
野球部の平均点の方がはるかに高かった
甲子園で活躍した選手たちの多くは賢そうな顔してるだろ あと、80年代に入り選手の気質が変化、尾藤さんのような熱血漢でスパルタ式な指導者が敬遠されつつあったというのもあると思う。
「やる気がないなら帰れ」と怒鳴ったら本当に選手が帰っちゃったんだから。
むかしの選手ならそんなこと言われたらコンチクショーとなって発奮したと思うのだが。 >>779
「このあとの練習はレギュラー限定だから補欠は帰れ!」って帰らされたことあるわ。
下級生はおとなしく帰ったが、帰りたくない3年生は「僕たちも残ります」と訴えたけど、
「うるせええ レギュラーの邪魔すんな」と力づくで追い出された。
Koyoでのなつかしい想い出・・・・・・ 俺はお前らに恋愛している。だからお前らのことをもっと知りたいんだ、と春夏連覇のころ尾藤さんは選手にそう語っていたと聞く。
いまそんなこと言ったら「キモい」となってしまうのかな。 >>767
翌年は高野がエースだったね。この92年は春優勝、94年は前年秋準優勝でともに近畿大会出場。
チーム力としては甲子園に出れるレベルだったので、1度でも出ていれば状況は違っていただろうね。 >>786
そうでしょうね。
向陽は昔からレギュラーと控えの差別は有名。
2チャンネル時代は向陽高校野球部というスレがあり、その差別的扱いをOBが暴露していたのも有名な話。 >>772
奥さんは家庭を顧みず野球に打ち込む尾藤さんのことを「子供を作るときにちょっと手伝ってもらっただけ」とか話していたようだな。 箕島は南海沿線あの肩ラインのユニフォームも南海ホークスにあやかって造ったんやろか まあ強さんは保中時代は絶対的エースで彼がいてこそ近畿大会まで行けたって当時の監督も言っていたくらいだからな。
普通に箕島でエースを張る実力はあったじ。 >>784
92年は高野山に3-4、94年は伊都に4-6で敗戦。ともに初戦敗退だったと思う。
どちらも力負けというより取りこぼしという印象。黄金期はこのような負け方は考えられなかったけどね。 >>793
黄金期の取りこぼしは81年くらいかな。
串本に9回まさかの7失点で初戦敗退。 >>795
松下氏がキャプテンの時ですね!尾藤監督、試合後気が付けば琵琶湖だったとか!
箕島初戦敗退をNHK21時のニュースで伝えた その直後に東京遠征して都東大和と練習試合したな。
報知高校野球のカラールポで取り上げられていた。 S52年の選抜も記憶に残っている目立った選手はいなかったが一回戦で大型選手を集めた
名電に勝って勢いにのり決勝では後にプロで活躍した山沖のいた二十四の瞳こと中村を破っ
て復活優勝s54年の春・夏連続優勝へスタートをきった >>798
エース東は準々決勝の県岐阜商戦の9回に失点しなければ、すべて完封での優勝投手だったのに…。惜しかった。
後から知ったんだけど、この時のメンバーには後の中日の「親指トム」上川がいたんだよね。 >>799
上から読んでも石井〜下から読んでも石井〜どこから読んでも石井〜ホームランホームラン石井〜14番で二年ながら5番打ってましたね!
あと、箕島球友会監督の西川氏は2年で4番で、強打者でした! >>799
そう、上川がプロ入り後、巨人戦でサヨナラ打でヒーローになった時に
77年春優勝メンバーだったというのを初めて知りました。
上川の高校時代は全く記憶になくて・・・ >>800
後に巨人に入団した石井雅博ですね。その「上から読んでも〜」の応援歌懐かしいなぁ。
83年に巨人に入ったスミスにも使われましたね。
関係ない方向に行ってすみません。 >>801
それ、昭和57年の巨人戦、江川からサヨナラの内野安打打ったときだろう。
俺もそのとき箕島の優勝メンバーだったと知った。
あのときは石井、西川、栗山の印象が強い。 中村戦の決勝はYouTubeでも上がってますが、石井の打席の時に、解説が「次の球気お付けた方がいいてすよ」と、言った瞬間、強烈なレフトライナー打ってましたね!
どっしり構え、左足はスリ足で高く上げずスイングしてたけど、強打者なオーラがありました!
53年は春夏出てるから、3回甲子園出たんですね!
石井2人に西川に嶋田に上野に優勝狙えましたね! 53年はツキがなかった鱈話になるが福井商や中京に勝ってたら優勝してたと思ってる 53年&54年のチームなら根尾・藤原世代の大阪桐蔭と戦っても負けないと思うのは
身びいきやろか 野球を知っている点、細かなプレーができる点ではあのときの箕島のほうが上だろう。
条件として、当時の用具、ボールで戦うこと。
あの当時といまとでは用具、ボールの性能、質が違いすぎる。 >>806
特に春の福井商は自滅のようなものでしたしね。
夏の中京は出場校監督へのアンケートで「優勝校はどこだと思いますか?」という質問に尾藤監督は「中京」と記入していたようです。
中京も箕島の次戦は天理に勝ち、その次の準決勝でもPLに勝利目前まで追い詰め、当時「近畿勢ばかり倒しやがって!!」と思っていたらPLの大逆転劇となった。
テレビでリアルに見ていたなぁ。 >>808
牛島香川の浪商が、今の大阪桐蔭レベルのバロメーターだろう 石井-嶋田を超えるバッテリーはその後出ていない。石井は常に嶋田を100%信用して投げていた。
同年の浪商牛島、香川は個々のレベルは高かったがバッテリーとしては並又は並以下 PLの西田も和歌山(途中でPL中へ)やし現在の智弁和歌山をみても中学生のレベルは
高い地元に残ってくれるようになれば箕島のリアル復活を期待できるのだが >>811
戦後の甲子園でもバッテリーそろって名選手というのは数えるほど。
そのなかで牛島一香川、石井一嶋田のバッテリーは甲子園史上に残る名バッテリーだが、やはり牛島一香川は個々の力は抜群だがバッテリーとして息があっていたかというと首をかしげざるを得ない。香川は守りより打の印象が強すぎる。 >>813
811だけど石井は常に嶋田を100%信用して投げていた。自分の記憶だと石井が嶋田のサインに首を横に振った記憶が無い。
しかし牛島は香川のサインに結構首を横に振っていた記憶がある。特に選抜決勝の箕島戦と夏の池田戦。箕島はバッテリーの力で打者を打ち取り浪商は牛島個人の力で打者を打ち取っていた印象がある。 >>799
その県岐阜商戦もツーアウトまでゼロだった。
夏の予選も決勝の延長10回に田辺に点取られるまで無失点だったはず。 牛島と香川は実は相性が悪いのでは?
石井&嶋田兄のコンビは相性抜群と思うが。 >>813
基本的に牛島と香川はあまり仲が良くなかった
みたいやね? のちに香川は牛島とは練習で口も聞かなかったと語っていたと思う。
捕手は女房役、投手を立てる立場。目立ちすぎてはいけない、「俺が俺が」という性格の者は捕手に向いていないと思う。
城島なんか、そういう捕手のイメージと全然違うので驚いた。 あのバッテリーには何も注文つけるところがなかった、嶋田の野球センスはすごかった、とのちに尾藤監督は語っている。
自分たちで試合をメークできた。 嶋田は捕球力、肩、リード、俊敏性、そして何よりも大事な投手からの信頼とキャッチャーに必要な条件を全て持っていた。
打っては1番打者。長距離打者ではなかったが確実なバッティング。そして俊足。ランナーとしてもセンス抜群だった。
1979年の新チームになった時、尾藤監督は1番上野山、3番嶋田が理想だったらしいがこの打順だと上野山も嶋田も今一だったので1番嶋田、3番上野山にしたらしい 嶋田レベルでは無くても
赤尾、児島、住吉、九鬼…と好投手の陰に
必ず好捕手が居た印象 >>821
赤尾は1977年の選抜優勝キャッチャーで主将、児島は1980年の2年生キャッチャーだったよね?住吉と九鬼はあまり印象になかったけど何年度だった? >>824
硯は西濃運輸で活躍して引退後はコーチとして野球部にも携わってました。 83夏は箕島は優勝候補の一角(筆頭は池田)だったが高知商に敗退。80年と83年に高知商と対戦したが、いずれも評判の高かった方が負けた。
80年は高知商は中西がいて選抜優勝。夏も優勝候補の筆頭、箕島は有力校だった しかし、箕島のバント攻撃に中西がリズムを崩し箕島が勝利した。
83年は箕島は吉井がいて優勝候補の一角、高知商は箕島より下と思われていたが吉井が打たれ打線も津野を攻略出来ず敗退した 捕手は豊作。
しかし83年は捕手が弱点だった。
尾藤監督も「ことしのチームは春夏連覇した79年に勝るとも劣らない。しかし捕手にあのときの嶋田のような選手がいれば」と語っていた。
思い出すのが大苦戦した吉田戦。13回表に簡単に相手のダブルスチールの作戦にひっかかって二塁に送球してしまい勝ち越しを許した場面。 >>828
その時の捕手は一塁が本来ポジションの勘佐でしたからね。
吉田もそこを突いてダブルスチールを仕掛けたと思います。 >>820
40年以上高校野球を見てきたが、嶋田は甲子園史上最高の捕手だと思う。
820で書かれたことに加え、あの星稜戦の12回裏二死、敗戦後の談話を考えていた尾藤監督、意気消沈するベンチの雰囲気を見てとり「監督、僕ホームランねらっていいでしょうか」と叫んだという。そして本当にホームランしたという精神力の強さ、度胸は大したもの。 >>830
当時、夏予選前に和歌山県内の全校・全部員を紹介する冊子が朝日新聞社が作成し、紀三井寺球場などで無料配布していました。
(数年後から有料になり、現在も冊子があるかどうか不明ですが)
昭和54年のその冊子の箕島・嶋田の紹介コメントは「センス抜群、攻守の要」と書かれていた。
多分、各校ともレギュラークラスは監督がコメントを考えていたと思いますよ。
見開きの1ページ目は石井毅が練習用ユニフォームで投球練習をしているアップ画像で、「甲子園9勝の右腕」のようなコメントが書かれていた記憶がある。 >>832
>各校ともレギュラークラスは監督がコメントを考えていたと思いますよ。
レギュラーしかコメントないのは向陽くらいだ。
どのチームも可能な限り(枠一杯に)掲載選手のコメントを書き込んでいたけど、
向陽の10番以降だけはスカスカの余白だらけだった。 >>835
向陽の格差野球は有名
なるべく同じにしたいけどそうもできないのが普通のチーム
同じに出来ることでも敢えて待遇差を付けるのが向陽
箕島は部員数多いし憧れだけで入部してきたヘタクソもいたけど
実力に応じてどの部員もちゃんと指導してた 箕島はベンチ外3年生の引退試合はしないけど、
強豪相手の練習試合のスタメンに補欠の3年生を
ちょくちょく起用して花を持たせていた。 いわゆるB戦でなく、A戦(相手も強くてガチで来る)のなかに、
Bの選手を1人か2人紛れ込ませる格好。
どちらがいいと思うかは人それぞれ。 その練習試合で控え選手が活躍してメンバー入りしたこともあったり? ここ数年は最後の夏の大会にベンチ入り出来ない3年生を対象にした「引退試合」なるものがあるんですね。
対戦高校も同じく引退試合として受け入れて、しかも父兄まで観戦に来られて。
我々昭和の時は引退試合という設定はなかったです。
練習試合で同じ高校とダブルヘッダーをする際には「2試合目はお互いに控え選手主体で」というのはありましたけど。 >>840
学校グラウンドではなくてきちんと球場を借りて、
スタンドではレギュラーが声援を送ってと。 子どものころ、憎らしいほどに負けなかった箕島。もう二度とあの時代はやってこないだろう。 >>835 >>832
50代のおっさんですが、あの冊子は今でも記念に手元にあります(3年分)。
コメント作成してた監督は「どの子も書きたいこと多過ぎで、どこを削ったらいいかわからん」と悩んでたけど、向陽みたいな愛情のないチームがあったことに驚きです。 >>843
私も自分の現役時代を含め数年分持っていましたが、知らぬ間に母親に処分されてまして(涙)。
言われてみれぱ向陽のページはコメントなしの部員が多かったかも。
スレ違いの向陽の話が続いて恐縮ですが、当時の向陽はOBや医者の父兄の人等が結構チームに口出ししていたと聞いた事があります。
閉鎖的だったんですかねぇ。 >>844
自分は部員数多い和歌山工でベンチ外だっけど、3年次にはしっかりコメント書いてもらった
ベンチ外の悔しさもあって冊子捨てたんだけどを、捨てたはずの冊子を母親が大事に保管してた。
補欠であっても、今はいい想い出として残ってるけど、向陽OBはどんな気持ちかな? >>840
>ダブルヘッダーをする際には「2試合目はお互いに控え選手主体で」
>というのはありましたけど。
またまた向陽ネタで恐縮ですが、当時の向陽は2試合目でもベストメンバー起用するので有名だった。
さすがに1試合目で完投したエースを2戦目は野手でフル出場させたのには驚いたけど。
エースの子は打つ方でも中心選手だったから外せなかったんだろう。 層の薄さを補うための苦肉の策だよ
公立進学校にありがちな傾向
耐久田辺橋本なんかも同じ 1979年で石井−嶋田に次ぐバッテリーは鍋島−高津(川之江)だな。
牛島−香川を名バッテリーという奴は観戦してないかド素人だ >>806
とくに春は準決勝の第一試合で桐生が敗れ、箕島のV2が見えてきたと思ったらあの守乱だから。
あれにはがっくりきた。この日はキャンディーズ解散の日、二重のショックだった。 >>853
この試合先発は石井でなく上野だったよね。それから亡くなった津田投手もキャンディーズの大ファンだったらしい >>854
この試合は上野が先発だったんですか。
上野が悪いとか采配が悪いではなく、結果的にはこの年は春夏共に甲子園では上野が先発した試合は敗戦でしたね。
春は福井商、夏は中京。 >>855
854だけど先発は石井で上野はリリーフでした。申し訳ありません 78年春の福井商戦は完全な自滅。6失策だもんな。
この試合のビデオ持っているが、いま見ても選手たちの様子がおかしい。連覇を意識し過ぎて平常心を失っていたのか。 当時確か、尾藤監督はPL学園から監督招聘があったらしい。
もちろん、地元有田を捨てる事はできないと断ったらしいが。
PL学園監督だったら、どんなチームだったのかなあ 在宅を余儀なくされて断捨離したら、
77年春の中村、78年春の全4試合、78年夏の能代、79年春の浪商、79年夏の星稜、池田、82年春の上尾、明徳、83年夏の吉田、84年夏の取手二、
91年春の旭川龍谷、大阪桐蔭、2009年春の開星、清峰、2013年夏の日川戦
のテープが出てきたわ。 最近やたらと甲子園の昔の試合がアップされるな。在宅で断捨離のせいなのかな。 つべで過去の試合の映像が上がったせいか、50代スレで箕島の話題で盛り上がっている。 78年春と82年春の全試合はつべにアップされたことあるな。 >>872
尾藤強さんは昨夏限りで監督を勇退しました。 箕島の2年にええ投手いてるらしいな、誰かな、知って方、誰か教えて下さい! 2年はええ選手多いと聞いてる、秋から楽しみにしてます。 上野山善久市議にお会いしたけど
体育会系の空気や圧力を微塵も感じさせない人だった。
理系のエリートエンジニアという雰囲気だったよ。 今年1年結構入部してるみたいやな、2年、1年秋から又頑張って欲しいな。 またまた50代スレで箕島が話題になっている。
それも低迷期に入るころの話でものすごいレポート。のぞいてみてください。 あのころは憎たらしくなるほど負けないチームだったなあ。強いというより負けない感じだった。 >>890
50代の高校野球ファンからすると箕島はストライクゾーンど真ん中で。 84年の夏の一回戦取手二に破れて俗に言う箕島は終わった >>894
84年のメンバーは80年や82年、吉井、硯がいた83年以上と言われていただけに残念だった。 1983年の夏の元西武の田辺がいた吉田高校との試合も奇跡ですね
2-1で吉田リードの九回裏箕島ワンアウト三塁からスクイズ失敗でツーアウトランナーなしからの同点ホームラン
延長でもリードされてからのサヨナラ勝ち >>896
確かに奇跡だったけど、吉田は明らかに格下だったはず そう、あの絶体絶命の場面でバックスクリーンまで運んだ硯はすごい。ものすごい精神力。
しかし失礼ながら相手の吉田は明らかな格下。本来ならミラクル発揮するまでもなく勝てるはず。こんなことでは打倒池田はおぼつかないと思った。 試合展開に酔ってしまった吉田戦だったがスポーツ紙の解説者は結構辛辣だった。 >>897〜899
組み合わせ抽選会の時に吉田は箕島との対戦が決まって狂気乱舞、一方の箕島は「なんだ、吉田か」という誰一人笑顔を見せない愛想のなさ・・・
某スポーツ新聞は「これが箕島だ」と褒め讃えていたが、いざ蓋を開けてビックリの試合展開。
あれで吉田に敗れていたら尾藤監督は有田の町を歩けなかっただろう。 策におぼれた尾藤采配
9回裏一死三塁の同点のチャンス、しかも打者は前の打席でホームランを放っている硯。
ここでスクイズに出るとは。吉田ベンチにも見破られていた。 吉田戦には苦戦したが、次の駒大岩見沢はセンバツベスト8の実力校相手に
快勝した時はさすがだと思ったが、次の高知商に大敗した時は信じられんかったな。
大会屈指の好カードだったはず。 前の日が天気悪くて中止になると思ったのか、トランプで遊んで一睡もしていなかったと吉井が話していたな。
戦う以前の問題。かつての箕島ではかんがえられなかったこと。やはり衰退に向かっていたのか。 >>904
トランプ遊びは吉井の言い訳にしか聞こえなかったですね。
しかし津野に満塁ホームランを打たれた後の箕島の試合を捨てたような淡白な攻撃と来たら。
大差にもかかわらずガンガン初球家や早いカウントからの凡打の山。
テレビ観戦していて「やる気ないのかよ??」と思ったわ。 >>907
82年の春は強かったがPLに僅差負けだったな。 >>905
雑誌で吉井のインタビュー読んだけど、高知商にノックアウトくらって降板しても
最後までグラウンドにいられるように尾藤監督が配慮してくれたと。
監督に「好きなところ守れ」と言われて、不慣れなポジションでではあったが、
二年生がいたポジションに入ったって。
三年生がベンチに下がらないように吉井なりに考えたのね。 進学校と非進学校の対戦。
試合中にアナが国立のことを進学校進学校と何回も言ったものだから、箕島OBから放送局にクレームが入ったとか。 国高ももう少し食い下がるかもしくはどうせならボロ負けするかと思ったけど何の印象も残らないあっさり終わった試合だった 箕島は70年代のチームだった
80年、82年、83年、84年と甲子園には出てきたが、戦力は整っていても以前のような強さは見られず
PL学園が圧倒的な80年代を経て90年代は1度も決勝まで行けずに緩やかに衰退していった経緯と被る >>913
80年のチームは甲子園でかなり健闘したでしょう。
箕島らしい試合巧者ぶりを見せてました。
箕島のチームカラーは強いチームというより負けないチームで。 >>912
それにしても初めての都立代表だったのに、よりによって前年春夏連覇のチームとあたるとはなあ。 >>915
確か組み合わせ抽選会はこの年は東日本が先に抽選し、西日本がその後に抽選だったはず。
箕島はくじを引く順番が最後から二番目で、開幕試合か国立高校戦しか残っていなかったと思う。
くじを引いた宮本主将がホッとしたのか大きいため息をしていた。 >>916
じゃ、もしかしたら
開幕試合…東北一箕島
第三試合…国立一瓊浦
の組み合わせになっていたのかもしれないのか。
中条は巧者箕島相手でも覚醒した投球を見せることができただろうか。
国立は市川投手が瓊浦打線を抑えて勝利できただろうか。 >>918
東北の中条は春のノーコンぶりは凄かった記憶がある。
同じ春だと天理の高松投手もコントロール無茶苦茶で初戦敗退。
二人とも今で言う「イップス」のような感じだった。
中条は夏に覚醒したのたが、何がきっかけだったのか・・・ 920です。
天理の高松は前年春だったかも???
スマソ。 そう、79年の春。
このときは開幕戦で中条が、続く第二試合で高松が制球難でKOとなった。
高松は二回途中までで7四死球というノーコンだったが、野手からの転向で公式戦初登板だったと思う、やむを得ない面がある。甲子園に向かうバスの中で「怖い!」と叫んだとか。
中条のノーコン病はさらにこの夏、翌年春へと続く。 8月5日
準決勝 和歌山県営紀三井寺野球場
初芝橋本-箕島 41年前のきょう
星稜との死闘
40年前のきょう
バントと足で高知商業を破る 結局、尾藤Jr.の監督生活って、2013年〜2019年か
就任早々に春近畿大会、夏甲子園出場と結果を出して幸先良いスタートと思ったんだけどな
その後、秋近畿ベスト8の時にセンバツ選考に漏れたのが痛かったな そして2018年?夏決勝で市和歌山に敗退
尾藤監督就任で部員数も増えたと聞いたが、今はどうなんだろう? まぁ、箕島に骨を埋めずに早々に退任したのは親父さん譲りかな? もし元プロが監督やるなら誰がいい?
東尾、吉井、島本、上川、、、 >>953
監督が東尾で部長が石田純一の義理親子コンビがいい。
ユニークなトレーニングを取り入れて、監督が部員に麻雀を教えて集中力を養い、
部長が女性の口説き方を教えて、下半身強化とやる気を起こす。
なかなか良いトレーニングだと思う。これで箕島復活だ。 >>953
個人的には上川や吉井はコーチかな。東尾か嶋田が監督じゃないかな 過去に築いた勝率が下がるだけなので箕島と池田はもう出なくていい >>964
銚子商業もそうかな。
でもなんだかんだでもこれらはいまでも甲子園でみたい。 私学なら体制を整えて復活ということはあるかも知れないが、公立は厳しいだろうね。 >>954
部長は教師じゃないと無理だろw そう言えば、殿堂入りパーティーの時、石田夫婦も来てたな! マネージャーは、さゆりにしてもらうか もう少しプロOBの解禁が早かったら石井毅(現・木村)とかあったかも。
地元に戻っていて野球に関わってたし。 やはり尾藤監督ありきの箕島だったからな。あのセコいが強い箕島野球はもう見れないだろうな。 このスレッドは1000を超えました。
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