【延長18回】箕島高校の記憶【春夏連覇】
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智弁和歌山という絶対的な高校がいて、甲子園行きは遠いですが、
今なお和歌山県で上位の実力を維持しています。 あれから、もう40年経ったのか・・・・・・・・・・・・・・・ あの時の星稜エース堅田さんが審判として甲子園に帰ってきている。
堅田さんの結婚式には箕島の尾藤さんも出席。 春夏連覇は79年だが、石井一嶋田のバッテリーは前年も春夏出場。
春はベスト4。
夏は三回戦で中京に敗れたが、この試合、石井が前日の第四試合で投げていたため上野がマウンドに上がっていた。4-2とリードして8回1、2塁のピンチ、打者栗岡の場面で石井がリリーフするかなと思ったが続投、逆転3ランを打たれた。
石井は9回にマウンドに上がっただけに、ワンポイント継投が遅れた。
もしあの試合ものにしていたらこの年はどこまで勝ち進んだだろう。 なぜ、箕島はあんなに凄い試合を何試合もできたのか?
あの頃は箕島とPLの試合は何が起こるか分からなかった。 尾藤公さんの息子強さんは今年度で箕島高校監督を勇退。 83年夏の1回戦も劇的だった。
吉田高校(山梨)との試合。1点負けの1死3塁でスクイズ失敗。
2死走者なしとなり、絶体絶命となった状況から、同点ホームラン。
あの2打席連続ホームランを放った硯は当時2年。
箕島は翌年も甲子園に出場したが、そこに硯の名前はなく愕然とした記憶がある。 箕島←公立学区地域中心+県内学区外で優勝 4回 (春夏連覇以降の県外人数名は自主留学)
智弁←和歌山選抜+強力県外人レギュラーに平均3〜4人 全国制覇3回
箕島が盟主時代は他の公立も箕島と変わらない戦力だったため、箕島も県内でしばしば負けることがあった。 8月18日新人戦(実質秋季大会)
和専300 101 000 02=7
箕島101 101 001 03=8
9回に初めて追い付き、延長11回に2点差にされるも、11回裏に1死から5連打でサヨナラ勝ち 星稜が優勝すれば、天国の尾藤さんも喜ぶはず!生前山下監督が勇退するときに、雪国で色々苦労して来たから、1回でも優勝して欲しかったと語っていた。 >>8
結局甲子園は最初の夏だけだったな。
秋の近畿ベスト8ながら21世紀枠の桐蔭選出の余波で選考もれしたのが気の毒だった。 >>17
運がなかった。近江と箕島で争った最後の枠は準々の試合内容なら箕島だったが、滋賀が近年選抜に出てなかったのと好投手がいたためもある。 立命館宇治がベスト8止りなら、間違いなく近江と箕島選ばれていた。 それと箕島が久しぶりの甲子園になる場合は必ず選んでたと思う。 「逆転のPL」が売りになっていたそのPLに逆転サヨナラで勝利した79年選抜 監督の尾藤さんが味のある人だった。数年前久々に箕島が甲子園に帰って来た時、あまりに息子さんが父親に酷似だったので本当に懐かしかった。 強さんが就任して最初の夏に29年ぶりに夏の甲子園に出場したとき、東京から観に行ったわ。
山梨の日川相手に本塁打3本打たれ、かつての試合巧者ぶりはどこへいったのか寂しい内容だった。 私は神奈川の人間ですけど越境ファンて、大勢存在しそうですね。 あと一人まで追い詰められて、
そこから箕島の試合は何かがおこる。
あの土俵際の粘りは驚異的だった。 >>23
むかしは箕島はじめ池田、中京、平安、高松商、松山商、高知商、広島商、早実、横浜商、銚子商、土佐とか越境ファンが多い学校がめじろおし。
いまの甲子園で目立つのは越境の選手(苦笑) そう言えば平安とか土佐とか単独スレッドないですよね。あって然るべきなんですが。 >>18
箕島が選抜の補欠で思い出すのが80年。
春夏連覇直後で投手に人がなく(宮本が転向する前)、秋の近畿はベスト8どまり。
このころの近畿は7枠。最後のイスを兵庫の滝川と争って落選。甲子園3連覇がかかる学校を落選させるのか?と疑問に思ったものだ。 今年の大阪桐蔭のケース。夏は出てきて見事ベスト8まで進出したが優勝した横浜に
惜敗。2−3のスコア。初戦で都立国立と対戦して話題に。2回戦では選抜優勝の
高知商に完勝、と意地を見せた。 >>11
そうだったのか、いま知ったよ。硯の起死回生の本塁打は今でも覚えてる! 84年に取手二高に逆転負けしてから、勢いがなくなったように感じる。 箕島が強かったのは
尾藤さんやからよ
相手チームに礼儀正しかった https://office-morioka.com/h_baseball/seiseki/minoshima.html
昭和45年春2回戦東海大相模(昭和45年夏初優勝)は原貢監督(三池工・東海大相模で監督V)かな?
昭和45年春準々決勝三重(昭和44年春初優勝)は深谷弘次監督(甲子園V春2夏1、勝率7割5分)かな?
昭和52年春準決勝智弁学園は高嶋仁監督です。
後は記憶している人が多いと思いますので。 尾藤強監督はこの夏で退任したのか。
就任早々2013夏に甲子園行って幸先良いスタートを切ったと思ったが、2016センバツに選考漏れしたのが痛かったな。
尾藤ブランドで選手も集まりつつあったが、いよいよ完全復活の目は無くなったな。 >>31
別スレで書いたが、硯は直前にスクイズを外されて二死ランナーなしの土壇場に追い込まれてのバックスクリーン弾。
おそるべし精神力。見ていて鳥肌がたったわ。 タイブレークのせいで甲子園がつまらなくなった
元のルールに戻して欲しい 私もそう思う。延長18回で決着が付かなければ引き分け再試合というルールで良い。 星稜との18回の死闘のときは選手の健康管理上延長の規定を見直せとかいう声は出なかったな。
あまりにも18回のドラマのすばらしさにみんな酔っていたから。
ただあれが再試合になっていたらどうなっていたか。翌日の第一試合、朝8時半開始だったからな。石井は血豆つぶしていたから江川先発、堅田は投げられなかっただろう。 あの延長18回が素晴らしかったから、卒業後も石井や上野山とかあの当時の星稜の選手たちとも今も交流があるんだよね
今日の試合は星稜に勝って優勝して欲しい 確か25年くらい経って再戦した筈。当時と同じメンバーで。 再試合は94年に和歌山、2004年に石川、2010年の甲子園で完結
昨年は石井が始球式の時に堅田が球審 今回は星稜に優勝させたかった。大阪代表はしょっちゅう優勝しているイメージがあるもんで。 >>46
今回は星稜の優勝を期待する声があまりにも大きすぎて地元のはずの履正社がアウェイになってた・・・
履正社も大阪は大阪桐蔭じゃないと優勝できない、なんて声もあったみたいだからそれを払拭できたし今後も大阪桐蔭との2強対決は続きそう。
残る課題は夏の大阪桐蔭との直接対決で下しての甲子園出場か? 大阪最強、は認めざるを得ない。これだけ実績を重ねられると。
和歌山も全国での勝率の高さは素晴らしいが、層が厚くなって、「1強」に近い
状況から脱却して欲しいと期待している。 >>48
今年の市和歌山も智辯には分が悪かったし。
箕島全盛期は県内では苦戦してても甲子園だとPLが相手でもひけを取らなかったけど。 78、79年と春の選抜で2年続けてPLを撃破していた箕島。 >>48
元々、和歌山は一強時代が多い。
昔は和歌山中学の14年連続出場なんてのもあった。
その後は嶋清一がいた頃を中心に、海草中学の時代があり、
それから驚異の粘りの箕島の時代、
そして今は強打智弁和歌山
ただ、出るだけではなく
それぞれの学校が甲子園で強烈なインパクトを残しているのが凄い 箕島の全盛期でも
時々、他の学校も出ていた。
新宮、和歌山工、御坊商工、星林、南部
その中でも御坊商工はやけに印象に残っている。 >>52
箕島は基本学区内の生徒が中心だったから、他の公立も戦力十分だった。箕島もちょくちょく負けることがあった。箕島は外弁慶であった。 >>54
薮は今も和歌山市議会議員やってます?
他県なもので議員になってることを知った時はびっくりでした。 24の瞳で中村高校が大旋風を起こした時の優勝校は実は箕島。 箕島は強打とい感じではないので、
圧倒的な強さ見たいのは感じないが、
あの終盤の粘りというか逆転劇は驚異だった。
中盤くらいまでリードしていても、
最後にはやられるという恐怖が常にあった。
昭和55年夏の横浜はよく1点差を逃げ切ったものだよ。 >>58
試合終了の瞬間、愛甲はマウンド上でジャンプして喜んでました。
箕島が相手だと試合終盤の粘りの重圧はすごいものがあったのでしょうね。 序盤は横浜のワンサイドゲームになりそうな雰囲気だったがよく盛り返した。負けてなお強しだった箕島。 >>58
愛甲も「やられるんじゃないか、と怖かった」と試合後に語っていた。
あのころの箕島の何かやるんじゃないかという不気味な圧力感は相当なものだった。 >>53
前年春のPL戦、夏の星稜戦での激闘など当時の箕島の終盤の粘り腰は相手からすると脅威で。 18年ぶりに出場となった2009年選抜でベスト8進出。 あまり話題にはならないけど、82年選抜初出場の明徳との試合も凄い試合だった。 >>64
明徳との延長14回の激闘が話題にならないことなんてないかと。 この9回裏の同点劇は5番上野が2アウト2ストライクまで追い込まれてのものです。
2点差もあって実況席の雰囲気もこのままPL勝利でしたね。
http://nekkyu.com/before/nekkyu-no-kioku/51senbatsu-minoshima-pl.html 1983夏の吉田戦は劇的な試合ではあったものの、こんな相手に苦戦してこの先大丈夫か?という不安を感じさせるものだった。 強豪相手に快勝したという意味では1980年夏の2回戦でセンバツ優勝の高知商を5−0で一蹴した試合と1982センバツ1回戦で東の優勝候補・上尾を寄せ付けず6−2で勝った試合。 1982年センバツの明徳は、
前年夏選手権ベスト4で春もダークホース的存在だった瀬田工を初戦で11-0圧勝でしたから、
箕島戦の注目度もわかりますね。しかも勝ったら次PLですから。 1982センバツは上尾〜明徳〜PLと対戦相手が厳し過ぎた。それでもベスト8は価値の高い成績。
同じように1980夏は戦力的には大したことなかったが国立〜高知商〜美濃加茂〜横浜でベスト8。これも立派。
1983夏は吉田〜駒大岩見沢〜高知商で3回戦敗退。やや期待外れ。
1984夏は取手二に初戦敗退。春夏連覇以降では一番戦力があったこのチームで勝ち進めなかったのが痛い。箕島終焉を感じさせる試合だった。
あとは1986夏の和歌山大会決勝での敗退。2年生エース尾藤強で甲子園へ来ていれば話題になっただろうし、まだまだ箕島時代も続いたかも知れない。 82年は上尾の日野という屈指の好投手を相手に快勝(ただし、日野は以後、
急速に失速)。
やはり84年夏の初戦敗退(島田弟の時)が惜しまれる。とは言え、箕島に
勝った取手二高が全国制覇。実力は文句なしに上位だった。 >>61
愛甲投手3年時の神奈川は横浜・東海大相模・ジャンボ左腕宮城の横浜商の3校は甲子園でも上位必至の評判で、
中でも横浜・東海大相模は夏予選前から夏甲子園に出れば優勝候補筆頭と期待が高かったですね。
横浜の夏甲子園初戦は春四国大会を制し久保監督が夏優勝を狙いにきた高松商。
試合は実力的には横浜・高松商ともに差が無いように見えて、終わってみれば横浜8-1高松商の大差でしたね。
中西投手の春V高知商は夏は横浜とともに東西横綱でしたが、
たしか記憶では高知決勝の明徳戦の激戦消耗から本大会は気が抜けているように感じました。 MINOSHIMA 和歌┃山
ユニがカッコええわ! 1983夏のメンバーに硯っていうのと、勘佐っていうのが居たよな?
子供心にこの二人が何故か怖かった記憶が 尾藤監督最後の甲子園だった1991センバツも大阪桐蔭に4−6と惜しい試合だったね。
エース山路がいて久々に力のあるチームだった印象がある。 >>66
いや上野の場面は2死2塁、スコアは2-3の場面。この回上野山だったと思うがスクイズで1点を返しなおもチャンスだったが北野のスクイズがフライとなり併殺、一転して追いこまれた場面だった。
83年夏の吉田戦の9回裏をほうふつさせるが、このときも植野が右中間に大三塁打を放って同点にこぎつけ、延長10回裏のサヨナラにつなげた。 >>67
完全同意。打倒池田の一番手だったのに吉田の三浦の緩いカーブを振り回して凡打の山。
こんな弱小相手(失礼)になにやってんだ、とテレビの前で歯ぎしりしながら見ていた。
本来ならミラクル発揮するまでもなく一蹴していた相手。 >>78
吉田には後に西武で活躍して監督まで務めた田辺徳雄がおりました。
その田辺は箕島戦では延長で同点に追い付かれる失策するなど全くいいとこなくでした
箕島のチーム自体もこれで池田が相手ではどうなんだ?という感じで・・・ >>71
尾藤ジュニアは2年夏は準決勝で2回に足に打球を受け、リリーフの原井が100球以上投げることに。内野が本職の原井には連投は厳しく、翌日は明らかに疲れがあり桐蔭に9回に逆転を喫する。
3年夏は準々決勝の延長16回の熱戦の末に伊都を下したが、翌日の準決勝ではナインが疲労困憊で吉備に0-3で完敗。
尾藤ジュニアの高校時代は運に恵まれなかった印象がある。 尾藤さんは強さんが選手のときに甲子園に出たかっただろうな。
なんのタイミングか、ちょうど強さんが入学したころから甲子園に出られない箕島の低迷が始まってしまった。 浪商OBの香川に言わせたら春夏連覇した1979箕島は明らかに
格下のレベルやったらしい
練習試合とかボコボコにいわせてたらしい
石井は大したピッチャーやなかったけども、牛島がニコ厨で
スタミナが無かったから甲子園で5連戦は息が上がって話にならんかった
初戦や2回戦で当たってたら100%勝てる相手だったとか言ってたな 1979の春は下馬評では箕島はそんなに高くなかったからね。
でもフタを開けたら強い強い。
下馬評レベルだと1977の春の方が上だったかな 77は東投手がいてたね
春はあれは打てないという凄いキレのあるカーブを投げてたね
夏はコレラ騒動で出られなかった
あの時出場してたら東洋大姫路に勝って春夏連覇してた可能性が高かった いや77年は下馬評にあがっていなかった。
77年は近畿勢では天理、智弁学園の奈良勢が評判高かった。
79年は選抜前の下馬評は浪商、高知商と並んで3強に挙げられていたはずだが。 >>83
79年春は優勝候補筆頭。先発江川とはいえ浪商にコールド負けだったのに、
浪商よりも上だったのは記者の目が確かだったのか。
77年は8番手以降。天理熊工智弁星稜作新名電早実等々の後。
10数番手だったかも。 >>75
勘佐は83年 84年で中軸、硯は83年で、それぞれ家業のみかんと、社会人野球の西濃で出世されてるわ >>84
有田コレラで大会前練習不足でしたな。決勝まで行ったが、田辺にサヨナラ暴投で負けたと思う。優勝なら紀和大会は高嶋智弁学園だったから、選抜の再戦だったけど >>86
近畿準決勝は、控えの選手を試すのことが多かった。それと箕島は外弁慶型だったから、甲子園では強かった。 選抜優勝したものの、東は故障で投げられず、
この年は天理、智弁学園の奈良勢が強く、県大会で勝ったほうが紀和大会も勝って甲子園に出場するという予想が大半だった。
この年は天理、智弁学園の二強時代でも屈指のレベルだった。箕島は選抜で智弁に勝っているが夏は難しいだろうという声が多かった。
このころの紀和大会は奈良の勝利が続いていたし、しかも有田コレラの騒動で練習ができなかったのが決定的だった。
結局、県大会決勝(紀和大会への代表決定戦)で田辺と対戦、延長10回東の暴投で先制点をとられ、もう1点取られて0-2で敗れた。田辺の投手は巨人入りした木下だった。 57年優勝候補大本命
58年優勝候補一角打倒池田一番手
59年優勝候補打倒PL一番手
この3年間で一度は優勝していてもおかしくなかったが、衰退の始まりを作ってしまった。箕島が私立ならまだ状況は違ったと思うが… >>17
全盛期の監督だった尾藤公が思い付いて春の甲子園でゴリ押しされた「愚行枠」に弾き飛ばされたのですから、単なる「自業自得」に過ぎませんね(苦笑)。 尾藤監督はPL教団から注目されていて鶴岡監督の後任候補まで挙がったらしいね。
PL尾藤の可能性もあったわけだ。 >>93
あんた、エレベーター会社みたいな名前だな(笑) >>70
一応瀬田工は西崎もリリーフで投げてたな
82年春の近畿大会、PL戦をガラガラの神戸市民球場で見た。吉井の好投報われずこの試合も惜敗。尾藤監督を至近距離で目撃したけど、思ってたより背が小さい人だった印象。 確かに、S57年のセンバツは惜しかった。
明徳戦の14回完投翌日連戦の上野山は1失点で0-1で完封負け。
まあ、榎田からさっぱり打てなかったけどね。 1992年だったか、山路-九鬼バッテリーのときの
大阪桐蔭戦も悔しいね。リードしてて8回に逆転負け。
山路のカーブにヤマハってた大阪桐蔭の打者のスイングが今でも忘れられんw >>98
1991年春ですね。
尾藤さんの最後の甲子園になってしまいました。 >>92
この3年間は6期連続で甲子園出場して当然の戦力だった。
82夏は2回戦で吉備に2-3
82秋は県2次予選1回戦で新宮に3-4
83秋は県2次予選1回戦で耐久に2-3
といずれも競り負けて甲子園出場を逃す。
以前はこのようなきわどい展開の試合は必ずモノにしてきたけどね。
当時は全く気づかなかったけど、知らない間に凋落の影が忍びよっていたんだな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています