50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.7
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>>160
郡山は森本監督が甲子園慣れしているから力は出し切ったと思う
初芝や近大付は力自体も出し切れなかった まあ力も例年の大阪代表に比べれば弱かったが >>158
福家は後にプロ入りしているし、高校3年のときが不調だっただけだ
2年夏の甲子園で指の故障をおして投げたためスランプになってしまった >>159
練習試合?!
当時の選考委員会はニワカか!(笑) 東山は近畿大会で弓岡のいる東洋大姫路に8-0と大勝したのも大きかったかと。
ただ、あの年はレベルを考えると近畿7枠は多すぎた。
83年もひどい顔ぶれだったが(泉州、立命館、長浜北、上宮、星林、高砂南、報徳)、75年と比べてどちらが実力不足だっただろうか。83年はベスト8にすら一校も残れなかったが。 >>156
同じ鈴木でも鈴木喜一のほうがいいバッターだった記憶がある。
当時は珍しい二番キャッチャー。 >>166
翌年の84年もどうだろう。別格のPLを除いたら2回戦までで全て姿を消したからね。むしろ近大付を選出した方が上位進出していたかも。 >>166
やっぱり、当時の北海道・東北勢に4連敗した75年の方がインパクトが大きい!!
はっきり言って考えられない 確かに北海道、東北代表の4チーム(札幌商、北海道日大、仙台育英、日大山形)が私立高校とはいえあの時代ではね。
日大山形に完封+完敗した初芝(私立高校)は論外って所かな。
北海道日大に大逆転喰らった東山、仙台育英に終盤突き放された近大附はまだマシかな。 >>169
ベスト4に残った報徳学園だって、73年、74年に比べて戦力は落ちていた。
滝井でよく勝ち残ったなぁw >>170
報徳と天理を除いて甲子園経験の少ないチームだったから力を出し切れなかったということもあるんだろう 逆に東北勢は北海道日大を除き2年前に甲子園経験があった >>171
75年は、報徳学園にしては珍しい「打撃のチーム」。エース滝井はそれに守られていた。
甲子園では打線が沈黙し、滝井の粘りのピッチングに頼るしかなかった。 >>170
日大山形・金子は、前年秋の神宮大会で崇徳をノーヒットノーランに抑え、準優勝。
日大山形は仙台育英にも勝っており、侮れない。 サンデー毎日臨時増刊号「戦力採点表」では、総合点で北海道日大85−東山80、日大山形80−初芝75。札幌商85−伊都85は互角。仙台育英80−近大付85のみ逆。
当時のサンデー毎日はいいとこ見とるやん! >>174
前年の優勝チームから残った三砂が切り込み隊長で2番天王寺谷がチャンスを広げて。
エース滝井はサイドハンドでしたが、報徳でサイドハンドのエースは滝井しか記憶にないけど他にいたかな? >>176
あの採点表で総合点75点というのは最小評価だったからね。
ちなみに能登川はやはり75点?スコアこそ掛川西に3-4だったが、三重盗をまんまと決められるなどお粗末だったから。宮本が本塁打、投げても四点に抑えたから頑張ったほうだが。
この年の近畿のレベルについては、毎日の秋の大会が終わったあとの地区別総評でも「昨年の大会に比べるとかなり悪い」と危惧されていた。それは83年、PLを除く84年もそうだった。 サンデー毎日の「戦力採点表」の総合点は5点きざみで100点はないから
最高が95点になるんだけど、73年だけは難攻不落の怪物江川の存在が
あったため作新学院には特別に98点が付けられていた。 >>178
能登川も75点。
近畿の2校だけが75点って、異常事態w 75年選抜の投手でプロでも活躍したのは広島工業の小林くらいか。
この大会は開会式のリハーサルに出た門司工業が一般生徒の不祥事でその後
辞退したので、毎日グラフの集合写真には載ってた 小林(広島工)は、初戦の志度商戦よりも福井商戦の方が調子は良かった。
ただし、6回裏以外は… >>182
それも珍しいよね。
柳川の久保は加倉の控えだったし。 末次はスタメンで4打数1安打だった。
翌年夏に例の8打席連続安打しながらチームは敗退したので打率10割だったが、甲子園通算は12打数9安打で7割5分。 >>182
どっちにせよ、前側の前に得点の匂いがしなかったから小林は勝てなかっただろ >>182
小林は、志度商戦では四国では杉村(高知)と並ぶスラッガー、熊野(元オリックス)との対戦が注目を集めた。
結果、小林の快速球に全然バットが合わず、「力が違い過ぎた」と熊野を脱帽させた。 報徳VS札幌商業は両者互角の痺れるような投手戦だったな。 諸先輩方、当方「鉾田一の戸田」を観ていない若輩です。
現在でも強い印象は残っておられますでしょうか?
現在の選手との比較とかは無しで結構ですので。 >>188
戸田と言えば崇徳戦に尽きる。
糸魚川商工戦のノーヒットノーランは、淡々と終わって「な〜んだ」ってなもん。 >>177
アンダーでは71年の金沢だな。
春の東邦戦、打者13人に11四死球という痛々しい乱調だったのは有名だが、夏も出てきて秋田市立を完封した。 老いって怖いね、ここの話題に上がってるイケメン選手が今ではハゲあがって白髪のおっさんなってる。
いかに年齢に勝てるかでしょうね。 >>191
金沢は、青山学院大では1年生からエース。 >>195
75年のセンバツは近畿の陰に隠れているが、九州のメンバーもいまいちだったので、1回戦敗退の柳川商を入れた。
大会前の評価は、九州勢の中では柳川商がダントツだった。 >>196
豊見城は強いと書いていたスポーツ紙もあったぞ
打線は沖縄県史上最強、2年生の赤嶺投手は球が速く伸びしろが大きいと
実際に大会では習志野を一蹴して8強入りし東海大相模を追い詰めた
熊本工も優勝候補高知に延長戦の死闘、佐世保工も急遽の登場という不利の中で健闘
柳川商だけが内弁慶ぶりを遺憾なく発揮w サンデー毎日臨時増刊号「戦力採点表」
総合点
門司工 80
柳川商 90
熊本工 80
豊見城 80 >>190
崇徳は当時「ノンプロ(社会人野球のこと)集団」なんて言われたが、一塁手のトンネルが無ければ、鉾田一に1対0で負けてたんだよね。
夏も酒井の海星に1対0で敗れているし、今思えば、本当に強かったのかなって感じ。 サンデー毎日で最後に75点が付いたのは何時の何処だろう。 >>197
でも、あのころの沖縄はやはり後進県だったから。ほとんどが初戦敗退だったからね。
たしかにあのときの豊見城についてはそういう評価をしているマスコミもあったが、半信半疑なところもあったのが本当だと思う。
なので、赤嶺が二安打完封、打線も本塁打を含む10安打を放って習志野に完勝したのは衝撃的だった。
あの年の豊見城からだよね、沖縄が全国と一気に肩を並べるようになったのは。 >>197
とこのスポーツ紙?
まさか沖縄のスポーツ紙w >>197
結果論炸裂やな
75選抜大会前の豊見城が強いって?
超能力者か(笑) >>204
物事は結果が大事だぞ、ボケ
結果も出せない負け犬君 >>206
関西のスポーツ紙にそう書いてあったんだよw 土人君 小説【ブラマン】 bySYOKUN
第1章 出会い
横浜生まれで横浜育ちのオレは、いままで横浜中華街の豚まんが一番うまいと思っていた。
ところが先日の大阪出張の帰りに551の豚まんを食べたら、私の脳裏に衝撃が走った。
「なんてジューシーなんだ、う、うまい」
そして、なんだか悲しくなってきた。
「大阪に負けた。」
それは横浜高校が大阪桐蔭にボロ負けしたときのような衝撃であった。
いつのまにか、私の乗車していた「のぞみ」の車内は、豚まんの肉汁の香りで充満していたのだった。
ふと気づくと、私の隣には、剛力彩芽似のOLが座っていた・・・・
私は、もはや目頭だけでなく股間も熱くなるのを止めることができなかったのである。
(つづく) まあまあ、仲良くやりましょうや。
30代スレにも他人の書き込みにケチばかりつける輩がいるけどな、みなさんいいお歳だろう? >>196
おかげで九州大会ベスト4の佐世保工が落選。門司工の辞退があったため結果的には出場したが。
佐世保工は77年秋も九州大会ベスト4ながら、翌年の選抜は九州大会初戦敗退の小倉選出(またも福岡枠)のため落選している。このときは夏に出場できたからよかったけど。 >>215
福岡枠ってw
77年秋は既に柳川商が選出されているぞ >>217
同県から選ばれていてもごり推しするのが福岡枠
まあ、この年の小倉は、圧倒的な強さで優勝した豊見城相手に延長戦まで持ち込んでいるから実力重視なら妥当 甲子園でも帝京に完勝、箕島戦はエース大石が故障するまで互角だったし
69小倉はじめ60年代の福岡枠のほうが驚愕の選出だよ 74年秋の九州大会
http://koushien.s100.xrea.com/aki10/74.htm
準決勝で3点差負けの佐世保工(長崎1位)を落として、準々決勝を飛び越えて1回戦敗退の柳川商を選出するとか今では考えられんよな
北別府の都城農は宮崎3位だったので逆転選出は厳しかったか >>219
74秋九州大会の柳川商は、実力的には頭2つ分ぐらい頭抜けていた。
従って、えこひいきされてもしょうがないレベル。 福岡から門司工選出の上でだから、現在なら考えられない選考だということだろ
近畿大会で桐蔭優勝、初戦で履正社が延長負けで履正社選出みたいなもんだからな >>221
そのわりには甲子園では堀越にあっけなく初戦敗退。前年につづいて内弁慶ぶりを印象づけただけに終わった。加倉が不調だったな。 和工に0-3
堀越に1-3
早実に1-3
強いと言われながら
似たようなスコアで初戦敗退。
選抜初めて勝ったスコアは
逆に3-1 >>224
>>225
75年春は九州No.1の実力を評価されての出場だったから、しょうがない。
そもそも昔の九州の高校野球は、相対的に粘りがなく淡白な野球。その結果にも如実にその傾向が現れている。 >>225
中島輝士のときも2回戦は同じスコアで敗退
高知商、広陵と並び優勝候補3傑に入っていただけに酷い >>226
さすがに神宮大会優勝した79年のときは福岡枠発動はなかった
柳川商が内弁慶だということはバレていたからな >>226
かつては、相手が北海道、東北、九州だと喜んだもんだ(笑)
嫌だったのは、四国、近畿、山陰を除いた中国。 >>228
あのときは神宮大会優勝とはいえ、直後の九州大会の初戦で鹿児島実に1-8のコールド負けだったから。鹿児島実も次戦で大分商に負けたから、あれでは救いようがなかっただろう。 >>227
あの大会は中島輝士、中西、日野と高校ビッグ3と言われてた >>231
上尾の日野は2学年下。
その大会で注目されていたのは、東農大二の高仁だね。 >>223
結局それよな
だからこそ選手権の優勝の方が何倍も価値がある >>234
失礼、うろ覚えで勘違いしてた。
あの時の上尾は仁村弟とか成宮、鴇田とかだった。
高仁も評判倒れだったね。 あのころの選抜は評判倒れの投手が多かったな。
78年菊池(印旛)
79年片岡(府中東)
80年中島(柳川)、高仁(東京農大二)
81年近江(星稜)
82年日野(上尾)
81年は荒木(早実)も入るかな、東山に初戦敗退だからオドロイタ。 >>236
だね。
東の横綱と言われながら、まさか高仁が松江商に打ち込まれるとは…。
蓋を開けてみれば左腕では高仁より、鳴門を完封した滝川の石本、右腕ではテルシー中島より、秋田商の高山のほうがインパクトを残したね。 >>238
高仁は初回の攻撃時に、ベースの踏み間違いで右足首を痛めたことが痛かった。
それでフォームのバランスが崩れ、球が高目高目に上ずった。 その試合NHKの放送では東京農大二高とありますが群馬県高崎市にある学校です。とアナウンサーが何度か言うていたな。 >>237
荒木の場合は2季連続の甲子園出場。
他に挙げられた投手は初めて甲子園に登場。
荒木の場合は前年夏に実力を実証済みでしたからこの時は期待外れというよりも、あれ?どうしたんだ?という感じで。 81年春は、秋までの投手の防御率だけなら凄かったな。PLの西川がギリ0点台だったが、30校中10位にも入らないんだったか。 >>241
まぁ夏は十分実力を示したから
5季出て5季とも優勝できる戦力なんて微塵も思わなかった >>242
そう、防御率0点台のエースが15人もいた。
就任したばかりのPL中村監督が「西川は防御率.099なので相当上位だと思ったが、その上に14人もいるなんて」と驚いていた、とサンデー毎日の座談会に載っていたな。
トップは延岡工業の山口で,056だったかな。 >>238
たしかに。帝京の伊東とか新たなスターが出てきたよね。
大会一と言われた、池渕、秦、島田のクリーンナップを封じた石本のピッチングは凄かった。
でも、前評判どおりに、高知商の中西が優勝したし、かなりレベルの高い年代だったかな。 80年春の大会、横浜の選抜もれが不思議だった。尼崎北の打撃はパンチ力があると期待していた
ら柳川のテルシー君をみごと攻略。81年春、早実初戦敗退。荒木は新たにシュートを習得したが
かえってよくなかった。小沢君のところに打球がいかないでしょ?と山本英一郎さんが言うてたな ’80年センバツといえば、開幕戦に登場した長野の東海大三が縦縞の無い
純白のユニだったのを覚えてる。
山崎監督は校長を務めてたが、校長が監督なんて後にも先にもあのときの
東海大三だけだったはず。
他の東海大付属のように縦縞にしなかったのは、監督の意向だったのかな? >>246
愛甲、安西の横浜は、その年の夏の決勝でも敗れたジャンボ宮城の横浜商(Y校)に神奈川大会の準決勝で返り討ちにあい、選抜は絶望となった。
一方勝った横浜商は、関東大会の初戦で創立2年目の八千代松陰にまさかの敗退。結局宮城の甲子園出場は2年の夏だけだった。 この時の東海大三は北信越や神宮などで強豪校にも勝ってたし、いいとこ行くと思ったけどな。
関係ないけど、この頃からかな、テレビ中継がセンターカメラメインになったのって。 >>249
いや、たしか78年60回選手権大会からかな。
うろ覚えだが。 >>250
NHKの中継で左上に出てくるスコア表示のフォントが変わったのが1982夏からだと記憶しているw
しょうもないことは覚えているけど、肝心のカメラアングルが覚えていないといった次第でした。 >>246 >>248
前スレ?にもあったけど、80年夏の神奈川はY校、横浜の他に東海大相模も有力候補だったらしいね。
それが相模は、試合中に監督が往復ビンタしたシーンがTVで生中継されてしまい、電話回線がパンク
するほどの視聴者の猛抗議に晒され、出場辞退に追い込まれた。 そのかわいそうなメンバーの一人に多治見高校高木裕一監督がいた。
岐阜県から野球留学し最後の夏は負けていないのにも関わらず… >>252
あの年の相模はプロ入りした強打者の長谷川とかいて、まあまあ強かった。
監督は田倉だったかな。あれから低迷したような。
81年は原貢だった。 >>252
そのビンタのシーンはたまたまテレビ(TVK)で見てた(往復だったかどうかは覚えてないが…)。
確か格下相手に不甲斐ない投球をしていたピッチャーが、スリーアウトを取ってベンチに引き上げて来たときに行われたと記憶している。
自分は見ていて特段どうとも思わなかったが、その後相模の出場辞退のニュースが流れて驚いた。
当時の一般紙の社会面にも載ったんじゃなかったかな。 >>257
名誉校長です
全国制覇すると校長待遇はサッカーだと前橋育英や国見の監督が有名 >>249
>>250
前に何回か書いているが、NHKがセンターからのカメラになったのは79年夏の大会から。
78年春からイニングによってセンターからのカメラを流すようになっていたが、まだバックネットからのカメラがメインだった。
79年夏から完全にセンターからになった。
82年夏にスコア表示のフォントが変わったのは、イニング表示。表、ウラと表示するが、この大会は表、裏と表示されていた。
しかし翌年の春には元どおり表、ウラとなっていた。たぶん分かりづらかったのだろうな。
ランナー表示が始まったのは88年夏。このときは画面下にイニング、スコア表示されるようになり見づらかった記憶がある。 >>259
毎日、朝日放送は78夏ごろにはセンターカメラだったような?
津田とか森浩二を後方から見てた記憶が。
79春の牛島とかも。 打席に立つ選手がフルネームで表示されるようになったのは1984春からかな。スコアボードが手書きじゃなくなった年。
79夏はセンターからメインでたまにバックネットから映してた記憶があったなぁ。まあ、うろ覚えだが。 >>261
選手名のフルネーム表示は84年の夏から。 春は桑田(2年)のように苗字と学年だけだった。 >>262
言われてみればそうだ。ありがとう。
昔の表記も味があって良かった。
スロー再生の時に表示された「スローモーション(だったかな?)」とかね。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています