50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.2
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>池田、中村、伊野商、新田、宇和島東、観音寺中央・・・・。
50代の自分でも、さすがにこれらが少し前とは思えない >>63
「少し前」という表現は自分でも無理があるかな?と思いつつ、まあいいかと思って書きました。
それだけあの頃の四国はそういう高校のイメージが今でも残っているということなんで、どうぞご理解を!(苦笑)
・結構ここで細かいとこ突っ込まれること多いんで今後は気を付けるよ(先週の「プロ野球以外で有名な・・・・・ジャンボ尾崎、とかね。これもまあいいかと思って書いたんだが・・・皆さん細かいとこまで厳しいねー(笑))
さすが50台!! >>56
夏は池田にやられたんだよね
池田は82年夏以降の印象が強烈だけど、この年のチームも強力打線だったよね >>59
>あと、70年平安は片山はじめ同じ実力の投手が3.4人いたことも知らないニワカ
この大ウソの釈明を聞きたいもんだな、虚言癖のニワカくんwww >>68
浪商が準決勝で箕島をコールドで沈め、決勝ではPLを破った尼崎北に快勝 香川は手指を骨折して近畿大会では猪熊がマスクをかぶった。
箕島戦、石井は先発しなかった、たしか江川だったはす。箕島は1、2回に4点ずつ取られて結果は4-11の8回コールド負けだった。 >>59
却下w
謝罪もできないポンコツじじいwww 江川は星稜との延長戦が再試合になれば先発予定だったんだな。
スピードだけなら石井や上野を上回る本格派だったらしく、若くして鬼籍に入ったのは残念。 どなたか盈進のエピソード詳しい方いませんか?最近復活できそうであと一歩の、もう43年出てませんね・・・ >>73
県大会で広陵、中国大会でドラフトの目玉・引地を擁する倉敷商を破って「センバツ行けるぞ!」と思った途端........ 確か、あの時の浪商には香川、牛島の他に山本って強打者がいたよね。 あの決勝って、
牛島はもうかなり体力的にヘロヘロの状態だったって言ってたっけ?
全く真っ白の状態でやったらやっぱ浪商の方が勝ってたかもね・・・?? それと、2人はあまり仲が良くなかったのか?
それこそ昔、週刊誌レベルの記事で、
牛島(香川を) 「あいつは練習せえへん・・・」
香川(牛島を) 「あいつは不良や!」
というような感じのコメントが載ってたの読んだ記憶がある。 ところで、全国制覇クラスで一代を築いた名監督が去って、新監督になり、また復活して強くなってきた学校って殆んどないよねえ。横浜もイマイチだしなあ。 >>76
浪商は5試合目 箕島は1回戦不戦勝で4戦目
しかも浪商は準々決勝の川之江戦で延長13回を戦っている 名監督勇退後に低迷期を迎える学校もあれば不祥事による出場停止から躓いて低迷期に入る学校って多いよね。 >>78
松山商の窪田(1986年準V)→澤田(1996年年V) >>73
78年夏、12年夏は奇しくも広島工との決勝戦。
いづれの年も、前評判では互角。特に78年は、春の県大会で広島工を破っていたから期待したが…
それにしても、盈進が決勝戦に出て来る年は、決まって波乱の年!w >>84
広島のドラフト1位・田辺が卒業した翌年度で、エースはアンダースローの渡辺。
この年も優勝候補の広島商、広陵、崇徳が相次いで敗退。
ベスト4の顔ぶれを見て、正直「広島、終了〜〜!」と思ったw >>82
愛媛の新居浜商は前者だな。
鴨田監督時代の新居浜商は「県でベスト8に入れないなんて珍しい」と言われてたが、
鴨田監督が去った後は「県でベスト8に入るなんて珍しい」と言われる有様。
鴨田監督は法政OBだが、あの法政・五明監督勇退後にOB連中が有無を言わさず
鴨田氏を法政の監督に引き抜きやがったのは今でも許せん。 鴨田監督は法政大でも手腕を発揮、江川世代が抜けたあとの法政大を立て直し黄金時代を築いた 鴨田さんが新居浜商を去ったのは残念だった。
しかし、異動後も手腕を発揮、法政では初優勝は6シーズン目の80年秋と出足は苦労したが、その後は黄金時代を築いた。82年春は西田、木戸、田中冨生などで10戦全勝、強かった。
法政のつぎは日本IBM野洲の監督も務め、高校野球の解説も91年春から担当した。
鴨田さんの人生にとっては良かったと思う。
しかし、鴨田さんが去ってからの新居浜商は見る影もなくなった。鴨田さん時代の入学組が残った最後の79年夏を最後にまったく名前を聞かなくなった。91年春にプロ入りした神野で県準優勝したくらいだな。 四月には、ココに顔出せる清原世代の1個下です。 宜しくです。 50代にはフライングやけど許す(笑) 4月1日生まれが、その学年の最終になるって、桑田真澄で知った。もうKKコンビが50歳か。(^-^ >>85
広島工も、前チームの主力が抜け1年生2人を主力に登用する苦しいチーム。
おまけに、甲子園大会直前にレギュラーの1年生・滝川君が骨折でドクターストップ。
それでも、中越に勝って箕島相手に「あわや?!」の善戦をしたのには驚いた。 投手は津田だった。
南陽工業の津田とは力が違ったががんばった。
箕島戦、1点先制したあと、バント処理して三塁に送球したがサードが取れずに同点になってしまった。少しそれたが取れない送球ではなかった、サードも固くなってしまったと話していた。
満塁のピンチで代打西川に痛恨の押し出し。マウンドで無念の表情をしていたのが記憶にある。 >>91
エース津田は、急角度に曲がる面白いカーブを投げていたな。
ショート中村は、専修大→日本生命とレギュラーで通した。箕島戦でのファインプレーが記憶に新しい。 結局、期待された滝川、浅川の代の広島工は、甲子園には来れなかった。 広島といえば、
黒田でセンバツ制した崇徳思い出すけど、
当時他県の僕らのイメージは「崇徳=バレー」で、野球はあまりイメージなかったんだけど、
それ以前も県内ではまずまず実力校だったの?? >>95
甲子園初出場から時間は経過したが、普通に強豪校。
甲子園初優勝の3年前のチームは、優勝チームと互角の力があった。ただ、当時は広商全盛期だったから、甲子園とは縁がない。
崇徳よりも、広島工のほうが実力校感は薄かった。甲子園が現実的になったのは、小林誠二が入学してから。 崇徳は73年夏の県決勝で広商に2-4と敗退。
投手はのちに阪神入りした藤原だった。
1イニングで一挙4点取られたんだよな、5回か6回だったか。
75年夏決勝もこれまた4回に一挙4点取られて広商に敗退。黒田が二年のとき。 72崇徳も東芝のエースで橋戸賞男・黒紙を擁し期待されたが、秋は広商にまさかの敗退。
黒田が、今までの恨みを晴らすように広商をノーヒットノーランに抑えたが、82年に痛いシッペ返しが…… >>98
82年のチームは、全国制覇も期待されていたな。
広商は「創部以来最弱」と言われ、崇徳の楽勝かと思ったら、エース山川(現ソフトバンク・コーチ)が準決勝とは別人のような球威のなさ。
崇徳vs池田の決勝戦を見たかった。 >>96
県工の歴史は小林から。
彼が母親を一人残して、県北の地から広島市内の県工に進んでくれたのは大きかった。 >>88
鴨田さんの時の法政は、まさにスター軍団だった。
西田、木戸、小早川、島田、秦、銚子、樽井、若井、西川など、
錚々たるメンバーだったな。 >>82
>不祥事による出場停止から躓いて低迷期に入る学校
静岡商がそうだったような。
70年代半ばに2年続けて不祥事か何かで、夏の予選に出場しなかったよね? 他スレで「鴨田氏を強引に引き抜いた法政などずっと低迷すればいいと思っている」と書いたかたですか?
鴨田氏が法政に移ったとき、準優勝メンバーだった大麻が二年生で在籍していた。 >>103
http://bibijr.com/shizuoka/31012
不祥事と聞いてますね。
また利便性の良い場所から郊外の端に学校移転で低迷期に入るパターンも多かったですね。
寮を完備してない学校なんかはそうじゃないかな?
郊外移転に伴って甲子園から遠ざかった所で思い浮かぶのが
浪商(東淀川区→茨木市→熊取町)
広陵(宇品→安佐北区)
日大三(港区赤坂→町田市) >>105
広陵の移転先は「安佐南区」。
ここぞとばかりに、崇徳が有望選手集めを始めた。 黒田、応武、山崎の世代。 鴨田監督時代は新居浜商は市立所管、今は県立に移管している仮に鴨田さんがあのまま
残っていたとしてもいずれは私立高へ勧誘されてたでしょうw
広島工時代の高津は上田の影にかくれて記憶がない松本(東洋大姫路ー阪急)の控えだっ
た宮本といい亜大は育成上手www >>106
崇徳・木村三人部長の功績。足を棒にして県内の中学校を回った。
結果、広陵は勿論、広島商を志望する生徒も崇徳に志望を変えた。 今は 私立の野球強豪校が 選手集めするから 公立の 商業高校 普通校が 出てこないし だいたい 前もって 2年後3年後の 強い学校が わかってしまう それはそれで いんだろーけど 昔が 懐かしいね >>107
その当時の亜大監督は広島商出身の内田氏。
広島各校とのパイプは太く、高津のことも「投手としての将来性あり」との情報を得て、控え投手でも敢えて獲った。 77年の甲子園大会当時の三年生は皇太子と同い年になるんだっけ?
何かそのことで話題になったりした? 年で言うと、78年夏が一番おもしろかったわ。
脂の乗り切った有名監督揃いに初出場が多く、何といっても盛岡一がいたし。
突出してはいないが高校野球らしい好投手がたくさんいた。
しかも、とにかくあの夏はクソ暑かったからな。
やっぱり冷夏じゃ夏の甲子園は盛り上がらない。 78年から一県一校になったのだが、
出場校を見たとき、膳所 石動 三刀屋 小城
の漢字を間違って読んでしまっていた。 >>111
なんかそういうのあったかも・・
関係ないが、自分は雅子様より紀子様、
佳子さまより眞子さまファンでした。 石動のエースは1年のアンダースロー広沢で、横浜・愛甲、金沢・金子も1年エースだった。
愛甲と金子は3年夏に甲子園に帰って来たが、広沢は1年夏が最初で最後だった。 78年夏の金沢の一年生金子投手はこれからどんな凄い投手になると思ったが、
3年時は野手だった。故障でもしたのだろうか。
78年大会の一年生投手で勝利したのはいないのでは。
この1980年大会で早実・荒木投手が一年生投手で決勝までいったのにはたまげました。
しかも無失点。 >>112
>やっぱり冷夏じゃ夏の甲子園は盛り上がらない。
80年の夏は冷夏のせいで、北北海道の旭川大、南北海道の札幌商が、ともに2勝ずつを挙げたね。
80年夏の大会は大会を通じて連日の曇り空で、太陽が照った試合は皆無だった記憶が。 この年代の神奈川の高校野球のチームといえば東海大相模になるのでしょうか。
法政二は上の世代で、Y校は下の世代、横浜は永川・愛甲のチームのみの印象。
あと予選の聖地は横浜スタジアムじゃなく川崎球場かな。 >>121
この年代の東海大相模といえば前にも書いたが、80年夏の神奈川県予選の試合中に
相模の監督がベンチ前で選手に往復ビンタを喰らわせ、その場面がtvkで流れたために
「暴力行為だ!」「出場辞退させろ!」などの抗議の電話が大会本部と高野連に殺到、
電話回線がパンクする事態にまで発展して全国ニュースになってしまい、試合に勝った
相模が出場辞退に追い込まれる事件があったのを憶えてる。
神奈川の高校野球熱が高いのに驚かされた。 >>121
いや、保土ヶ谷でしょうw
千葉は天台
埼玉は県営大宮球場(改修前)
千葉はマリンより断然、天台だな。
天台をメイン球場に戻して欲しいわ。 >>118
金子は投手だったよ 大事な試合は金子先発
故障持ちだったから3投手の使い分けだったが
夏の甲子園前に状態が悪くなったため、甲子園では投げられず >>121
原が卒業してから愛甲が3年生になる間、神奈川は暗黒期。
関東大会等の成績的には東海大相模が一応中心だが、図抜けて強いわけではない。
横浜商、横浜、武相、法政二、日大藤沢、桐蔭学園等が差がなく続く図式。
この頃は、武相、法政二も戦力的に一定のレベルを保っていた。 78年大会の1年時に投げた金子は、捕手も1年生
バッテリーの若さをついた東筑にものの見事に掻き回されて負けたね >>125
原がいた頃の東海大相模とノーガードの打ち合いで12ー6と意外と得点入れた盈進高校は再評価したいな。名電に勝ったしね この時期の神奈川は、中田−佐野の横浜バッテリー、桐蔭学園のショート渋井、横浜商のエース長谷部らが印象に残っている。 >>124
ありがとう
80年夏甲子園では4番ライトで登板しなかった。
3投手というと前橋工も3投手だったね 俺が子供の頃は、四国のどんな無名の学校が出てきても、初戦の相手が東北北陸だったら必ず勝ってた。 >>120
80年は夏の大会の雰囲気がまるでしなかった。
北海道勢のアベック進撃も冷夏のせいといわれるし、かわいそうだった。
あと、あの大会で目立ったのは投手の故障。これも冷夏の影響なのかは知らないが、大分商の松本、浜松商の浜崎、旭川大の山田とか。 >>129
河地、かわいい顔してたけど、おっさんになったねー。
そりゃそうだ、俺が中学の時だから、俺よりもまだ年上だもんなー。
仙台育英の大久保、旧ユニも懐かしいなー。
昔のは胸に小さい「GHS」があったもんなー。 >>133
仙台育英の通称「ハンチン」帽がカッコイイ!! >>115
延岡学園初出場の時の初戦が石動だったんだよなー。
確かにあの時宮崎の我々の間でも、「いするぎ」の読み方が話題になった。 石動の最終回、四球だかで出た同点のランナーが
けん制悪投で二進、三進したのに
次の投球で打者がスクイズサイン見落として痛恨の憤死!
石動大応援団がせっかく盛り上がってたのに‥ >>133
この時の高商のライトが堤。5期連続甲子園メンバーです。 >>136
そうなんです。宮崎に福島高校があるんです。串間市という南の方ね。
甲子園出た時は、予選決勝で前年赤ヘル旋風を巻き起こした日南を破っての出場だった。
元ロッテの西村監督はあの時いたかなー?? >>128
77年の神奈川代表はエース塩沢キャプテン渋井の桐蔭学園か長谷部投手の横浜商が出るべきだったな
投手が弱っちい東海大相模が甲子園に出てしまい大恥をかいた >>141
西村さんは下級生で一番セカンドで甲子園に出ています >>143
そうでしたか、どうもありがとう!
あの時は西村より、森田という選手の名前が記憶に残ってるなー・・・。 >>141
宮崎の福島高校、覚えてるよ。
グリーン系の文字のユニフォームだったな。 >>142
ショートでは「西の鈴木康(天理)、東の渋井(桐蔭学園)」と言われていたから、是非見たかった。
この年はいいショートが多く、甲子園組以外でも岩崎(広島工)、池田(鳴門)、田中(北海)等が甲子園で見たかった。 甲子園のスラッガーというと、清原、松井も凄かったが、
何と言っても、高松一高の中西。
岡山東の後にプロで一流選手になった秋山、土井のバッテリーを木っ端微塵に打ち崩した。
後、浪商の坂崎大明神。こっちは、プロでは今ひとつだったが。 >>147
アサヒグラフに載ってらっしゃる方ですね >>148
鳴門の池田は、外野手に転向して法大のレギュラーになった。
広島工の岩崎は、専大で入学早々レギュラーに抜擢されたが、中退してしまった。 >>152
予約販売って、朝日新聞に出てたよ。
朝日の高校野球のHPでわかると思う。 よど号ハイジャック事件て、ちょうど選抜期間中に起きてなかった?
やっぱ試合中継が頻繁に中断して事件の速報が流れたりしたの? >>149
50歳以上と云うか、80歳位の方ですか? 155 相手はどこかわすれたが三田学園の試合中やった・・・ そう、よど号事件は70年3月31日の午前中に起きた。その日の第1試合は三田学園と日大三の試合だった。
当時のNHK選抜中継は昼頃から開始だったからこの試合は中継されなかったエリアもあったのでは?
ちなみによど号事件関連のニュースのため、決勝の中継開始が10分遅れたと聞いたことがある。 昭和48年夏の記念大会初日に、東京のホテルから後の韓国大統領になる
金大中氏が誘拐される事件があったね。
あのときは中継が頻繁に中断されてたかどうか、全然記憶が無い。 >>154
ありがとうございました。
ネットではわからなかったので、朝日に聞いてみます。 現皇太子が始球式をした時、バッターは常総学園の仁志だった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています