50歳以上のおっさんが高校野球を語る
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こんなスレできたのか。
50以上というから、1970年代の高校野球を語ろうがリニューアルしたかと思ったわ。 S46年センバツ時に大鉄ナインが宿舎を出るとき玄関に荷物をまとめてから毎回試合にの
ぞんでいた話を中継で聞いて感動した思い出がある・・・あの時優勝させてあげたかった >>8
あのときは大会直前に選手登録された奥田と木村が活躍してまさかの準優勝だった。
奥田は公式戦初登板となった初戦の作新を1安打完封。木村はやはり準決勝の最終回、一打同点の場面で公式戦初登板して大役を果たした。 大鉄が準優勝した71年春は、奥田、木村、南(徳島商)など、それまで公式戦未登板の覆面投手が活躍した反面、制球難で自滅した投手(報徳の金沢、一条の寺畑、郡山の川畑など)が目立った。
この大会はやはりレベルが低かったのだろうか。 大阪と言えば興国高校が再強化を始めたな。
近々、出てくる可能性がある。
最後に出たのは昭和50年夏か?
日南に負けたはず。 香川から54才です。小6の時昭和50年、祖母に買って貰った週刊ベースボールの高校野球特集を覚える位読み繰り返した。習志野と新居浜商業の決勝だったが、週べの表紙は、東海大相模の原辰徳。原人気がMAXだったな。 あの大会は「ハラハラ大会」と形容していた新聞があった。
接戦が多くてハラハラドキドキするため、そして原辰徳という一人のスターによって支えられる大会というためだったらしい。
あの大会は無印で決勝進出した新居浜商の活躍が印象に残る。 >>14
来年ヤクルトスワローズの監督に復帰する小川淳司が習志野のエースだったんだよね。
それにしても当時の習志野の石井監督は酷かったな。
準決勝の後、普段は絶対泣き言を言わない小川が「もう投げられません」と監督に直訴したのに
石井監督は「決勝もお前に投げてもらう。それで野球生命が終わってもいいじゃないか。」だからな。
いかに習志野の監督が自分の名誉、栄光しか考えていないかよく分かって、以後、習志野は絶対
応援しなくなった。
この習志野の石井監督、数年後に大きなトラブルを起こしたか何かで話題になってたような。 小川投手が、控え選手も試合に出して欲しいって言ったような話を聞いたような・・・
石井監督自身も習志野優勝時の優勝投手。もう亡くなったんだな。
新居浜商業の竹場選手のヒゲが良かった(笑) >>16
当時はエース1人で頑張りぬくという石井監督の考えが高校野球のスタンダード
そういう時代だったんだよ マスコミも批判しようともせず美談として報道
その考えは80年代初頭まで続いていた
80年には故障を抱えた大分商のエースがスローボールしか投げられなくても完投
この頃からボツボツと批判めいた記事が出るようになった 15 原辰徳ってvs高知のように負けた試合によく打ってた印象がある後年にチャンスに
打てない「ハラタツッ〜」と言われたのがわかるよう 準優勝時の新居浜商では、2番セカンドの大麻選手が強く印象に残っています。走攻守にセンスありましたよネ!確か、まだ2年生だったのでは? >>17
石井さんはまだ生きてますよ、勝手に殺さないでください(笑)
小川が控えを投げさせてほしいと言ったのは大差のついた磐城戦。8回から交代のはずが石井監督が二番手に指名したのは1年生の藤田。
一緒に三年間頑張ってきた同期(名前を失念してしまった)じゃないのならいやです、と断って最後まで投げた、と習志野の創部50年記念史の座談会で語っている。 >>18
その大分商に勝った浜松商のエース浜崎も後で肘痛を発症。
それでも8強まで進んだけど準々決勝の瀬田工戦は痛々しい投球で瀬田工打線に捕まり5−20と大敗を喫して。 >>22
誰かと勘違いしてました。申し訳ありません。ゴメン(笑) >>18
80年夏といえば、夏の神奈川県予選の最中に東海大相模の監督が、ベンチ前で選手に往復
ビンタをしたシーンがテレビ神奈川で生中継されて大騒ぎになった事件があったね。
この直後「暴力行為だ!」「出場辞退させろ!」などの抗議の電話が高野連と大会本部に殺到。
電話回線がパンクする異常事態になり、全国ニュースにまで取り上げられて、試合に勝った
東海大相模が予選出場辞退に追い込まれる大事件に発展した。
全面的に監督の責任であり、選手が可哀想だったな。 >>20
そう、準優勝のときは二年生だった。捕手の続木も同学年だった。
初戦の九州学院戦の8回のピンチで、一塁に擬投したあと三塁に送球して走者を刺す頭脳的プレーがあったと思う。
翌年の春も出場したがこのときは初日であっという間にいなくなってしまった。
法政に進んで二年のときに新居浜商から鴨田監督が転任してまた指導を受けることになった。 新居浜商業の続木、習志野の小川、国府高校の青山がプロいった。 >>27
翌春に続木、大麻、岡本の新居浜商業が日田林工に打ち負けた試合は甲子園で観戦した。その次の試合の豊見城 対 土佐の赤嶺、玉川の対決もワクワクしたな。 日田林工はいいチームだった。特に吉松は凄い選手だった印象あり >>29
赤嶺と玉川、黄金の対決は4の2。
赤嶺のダイビングタッチはすごかった。 新居浜商、新宮、北陽を一蹴した日田林工の強さは脅威だった。 上尾は、甲子園出なくなったな
浦和学院に持ってかれたな >>32
ツーランスクイズをやり返した記憶あり
何年か前の夏の甲子園で広島商に日田林工はツーランスクイズをやられたんだな。 春に豊見城に負けた習志野が夏に優勝するとは大会前は思いもよらなかった。 習志野は春も有力候補だったが沖縄をナメてたね。
あっさり赤嶺にやられたね 75選抜決勝の高知-東海大相模は子供ながらに
凄い試合だった。金属バット元年で開幕戦の
中京ー倉敷工も大乱戦で波乱を予感させる
大会だった。 まああの時代の沖縄といえばなめてしまったのも無理はないが、あの豊見城はそれまでの沖縄にはない好チームだった。
あの豊見城からだな、沖縄が全国区になったのは。
赤嶺は二年のときのほうが調子がよかったな。 >>38
豊見城は4年連続選抜に来たけど最初の年のチームが一番強かったと思う 赤嶺最上級生のときは打力が弱く、下地のときは大型だが荒削り、石嶺神里のときは投手に決め手がなかった あの頃の沖縄勢というか豊見城は準々決勝が鬼門に沖縄水産になってやっとというかつい
にというか壁を破った。 高知VS東海大相模で高知の杉村だったか、ゴロの三塁打を打った記憶がある。
速い打球のゴロで、あっという間にフェンスまで達したが、その後同じような
打球の長打を記録した選手いるの? >>37
金属バット最初の打者は倉敷工の一番打者、この年から校歌を録音テープで流すようになった第一号が
倉敷工、8年前のリニューアル甲子園の校歌第一号も倉敷工、皇太子ご夫妻御前試合(68年選手権1試合のみ)
の校歌も倉敷工。どうなってんのこれ? >>42
有名なのはゴロではないけど82年夏早実板倉の弾丸ライナーのホームラン。
サードがジャンプして捕ろうとした打球が伸びてそのままレフトポール際へ飛び込んだ。 昭和51年夏の入場行進
京都商→東北→日体荏原とわけがわからんな。
この頃はどんな順番だったんだろうか >>48
予備抽選の番号順。
1県1校となった60回から北〜南の固定になった。 桜美林が優勝した大会だったな。決勝は東阪対決
菊池太陽のサヨナラ打 1県1校となる前の50回記念も北〜南の順だった気がする。
確か太田の三沢が早々と行進してたような・・・
まあ青春を見ただけなんだが。 >>44
アホ
金属バット導入は74年夏で、そのときは使う打者が少なかったが、東海大相模とか数校は使っていた
金属バットが全校に普及したのが75春 ちなみに金属バットによる甲子園でのホームラン第一号は三国と上尾の試合で三国の大神が打った 75年春が金属バット元年と言われたのは、全校全選手が使うようになり飛躍的にホームランや打撃戦が増えたから >>51
一県一校になる前から五年にいちどの記念大会だけは北から、もしくは南からの行進だった。
それ以外は抽選会の予備抽選の番号順(くじをひく順番もそれで決めていた)。
76年夏のしんがりは柳川商だったかな。 昭和53年夏、岡山東商業の石岡?選手、三塁手だったと思う。金属バットを木に替えてサヨナラヒットを打った。 金属バットでの初安打
74年夏 山根(平安) 対一関商工 2回表
75年春 千賀(中京) 対倉敷工 1回裏
金属バットでの初本塁打
74年夏 大神(三国) 対上尾 7回表
75年春 野田(倉敷工) 対中京 4回表
と記憶しているんだが、初めて金属バットを持って打席に立った選手は覚えていないなあ。 昭和49年の開幕戦、平安対一関商工
平安の3番バッター田中が金属バット最初の打者。
1番、2番は木製バットだった。 昭和49年の開幕戦、平安対一関商工
平安の3番バッター田中が金属バット最初の打者。
1番、2番は木製バットだった。 >>59
情報ありがとうございます。
田中は前年秋の神宮大会の高知戦、延長18回の試合でしたが2本塁打しましたね。
阪急入りしたんでしたかね。
初回の平安は三者凡退だったはずですが、このときの田中の打席の記録はなんだったのでしょうか。 >>48
群馬と山梨で1代表を争ってたが、名称は北関東だったよね。
位置からして西関東代表になるはずなのに、何で北関東代表だったんだろうか? 59です。田中選手の一打席目の結果は分かりません。すいません。平安は6連続ヒットの大会タイ記録の試合でしたね! 奈良、和歌山の紀和大会、福井、滋賀の福滋大会とか
おかしな地区大会があったな >>32
準決勝でエース喜見を温存して左腕高倉を先発させた采配は謎だったな。 >>66
三重と岐阜で三岐大会
ちなみに三岐鉄道は岐阜県のどこにも路線がありません
いなべ電鉄とでも社名変更すべきです 同県決勝で勝てば1位通過で負ければ2位通過。
そして他県代表と準決勝、決勝の謎の予選方式を導入していた地区あったよね。
夏予選で一度敗けたのに甲子園に出た高校はどこが最後? >>69
昭和32年が最後。
この年は南四国で高知が高知商を破り代表になったが、高知予選では高知商が勝っていた。
ほかにもあると思う。
ただし予選で一度負けて代表になり全国優勝したのは昭和12年の中京商だけらしい。 ドカベンの里中智は、S46桐蔭の大塚、不知火は川越、竹内(後大洋)、土門は江川がモデルと思うが誰か知ってる? >>66
奈良、和歌山の紀和大会
これのどこがおかしいの? >>23
浜松商の三番セカンド大石のドラッグバント好きだった >>70
補足すると、一度県予選で負けても二次予選に勝てば甲子園に出場できるというのは勝ち抜きという夏の選手権の趣旨に反するということで昭和34年から禁じられた(前年の昭和33年は40回記念の一県一校)。
その年、昭和34年は二次予選はすべて県優勝校同士の一発勝負だった(南九州だけ宮崎、鹿児島、沖縄の三県で争った)。
県優勝校の対決だけでは味気ないという声が出で、翌年の昭和35年から二次予選に県2校まで出場することが認められたが、そのときは県の決勝を行わないで無敗のまま二次予選に進出させることが条件となった。 >>73
紀州(紀伊)と和歌山って勘違いしたんじゃない?
もちろん紀伊と大和なんだけど 紀和大会と言えば77年
選抜優勝の箕島、ベスト4の奈良智弁、ベスト8の天理が代表を争う形になった
夏の予選史上屈指の狭き門だった この頃、二県で一代表を争ってた地区は、両県から二校ずつ出場してたのに、
何故か紀和大会だけは両県から一校ずつしか出場してなかったね。 福滋(福井と滋賀)も一校ずつだったはず。
福井と一緒になる前の滋賀は京都と京滋地区だったが、これも一校ずつだったと思う。
二校が多かったのは観客数が増えるのをねらったのと、一校だと一発勝負でどうなるか分からないから二校にして勝てる確率を高くしたいという各県の思惑もあったからだろう。 滋賀県民だが、福滋大会は2校づつで、滋賀で福井県勢同士で決勝やってた記憶がある。
京滋大会は優勝チーム同士の対決で1チーム。 1校ずつの出場は、各々の優勝校を決めたいという考えが強かった地区でしょうね。 >>82
70年代後半だったと思うけど、青森、佐賀で国体を行ったときに、青森は奥羽大会で、
佐賀は西九州大会で敗れてしまい、代表が甲子園には出られなかった。
なのに、国体には両県とも国体開催県枠で1校ずつが出場していた。
両県とも2校とも代表決定戦初戦で負けたと思うが、国体に出場したチームは抽選で
決定したのだろうか? >>83
76年佐賀国体は龍谷が出場したな。
夏は西九州の決勝であのサッシー酒井がいた長崎海星に延長10回1-3で敗れた。もう一校の佐賀商は西九州の初戦でやはり長崎海星に延長14回0-1で敗れていた。龍谷のほうが成績が上だったからだと思う。
77年青森国体は弘前実が出場したかな。
夏の奥羽大会は弘前実と三沢が進出したと記憶しているが、三沢は秋田の能代(代表)に1-5で敗退、弘前実はどうだったか覚えていない。 >>84
77年の青森国体には三沢が出場し東洋大姫路に負けている
奥羽大会で三沢と弘前実がいずれも初戦負けだったが、優勝した能代に負けたほうの三沢が準優勝校に負けた弘前より上とみなして国体に出場だと思う >>64
北関東大会は茨城-栃木-群馬から栃木-群馬となり昭和50年から群馬-山梨となった。
名称は北関東大会の方が古いからそうなったんだそうで、当時の朝日群馬版では
「甲子園の切符が静岡ぐらいまで手に入った」と高野連もコメントしてた。
それが50年、51年と山梨に2連敗で出られないんだから当時中学生の私はなんだかなーと思ったもんだよ。 スレタイからもここでは平成以降の話は禁句とします。
あくまでも昭和の高校野球しか語ってはいけません。
よろしくお願いします。
で!昭和最強のチームってやっぱKKのPL学園(1985年)だよね? 福井も前側の福井商や島崎の福井、田行の三国とか実力のある高校の壁があり、滋賀勢は勝てなかった。当時選抜で接戦を甲子園で演じた伊香や能登川も県大会で力尽きて実力校が福滋大会に進出できなかった不運も大きかった。 この年代、夏の滋賀大会1回戦負けの無名公立校からドラフト1位が誕生したよな。 76年堅田の都裕次郎。
都はるみと石原裕次郎をあわせたような名前。
中日で一時活躍したが肩を痛めたのが惜しまれる。 >>90
負けた相手が膳所高で5ー0位差がついて負けて記憶。
底辺高が県随一の進学校に負けて立場無かったんじゃねえかw 掛川西にトリプルスチールを許したのが能登川でしたね。
内容的には接戦だったし、この直後静岡商が登場するので静岡からの応援団が大変多く
確か日曜日だったと思いますが、満員のスタンドは大いに盛り上がってましたね。 掛川西が習志野より前に甲子園で成功させていたのか・・。 >>91
たしか堅田0-2膳所
大会前の練習試合では16-1で勝っていたらしいが… >>91
ちなみに都2年生のときは準々決勝で能登川に負けている この頃から本格初左腕として評価されていたが、まさかドラフト1位指名とは思わなかった 中日入りしてからはカーブの鋭い変化球投手として82年に中日がリーグ優勝したときは小松辰雄に次ぐ準エースとして活躍したな 82年は16勝5敗と活躍したな。
あの年のドラフトではイの一番のサッシー酒井に続いて二番目の指名だったっけ? >>92
当時は静岡は野球王国と呼ばれたな。この大会も静岡商はベスト4、掛川西はベスト8まで勝ち進んだ。掛川西はその後も何度か甲子園に出たが勝ったのを見たのはこの大会だけのような気がする。 >>92
能登川は75ー80年代は滋賀を牽引したが、今や部員不足で合同チームで県大会に出てるね。残念だ。 >>97
静商、掛川ともにベスト8どまりだろう。
掛川は甲子園では通算3勝、この大会の2勝のほかは64年夏の八代東との延長18回0-0引き分け再試合に勝っただけ。
あのときの掛川のバッテリーは伊藤−松本だったが名前がともに伸彦で話題となっあ。 >>78
でもなあ、選抜の準決勝で箕島は智弁に勝っていたが、地力そのものは奈良勢のほうが上だったし、あのころの紀和大会は奈良の天下だったしね。天理対智弁の勝者が代表になると思っていた。
しかも東は選抜の投げすぎで故障していたし、大会前に有田市でコレラが発生して練習も制限されてしまったから。
結局、県決勝で田辺に延長10回、0-2で敗退。田辺の投手は巨人入りした木下だった。
奈良のほうは準々で智弁と天理があたり、7回裏に3点取った智弁が勝った。この時点で智弁で決まりと思ったな。
紀和決勝は智弁4-1田辺だった。
春の大会で招待試合に出かけるため智弁がわざと負けて高野連を激怒させていやがらせのように夏の抽選を仕組んだという伝説もあるな。 静岡は野球強豪校間で監督教員の異動をうまくやってるイメージがある。浜松商の監督だった人が掛川西に異動して甲子園に出ていたときもあった。 >>97
71年夏 静岡学園 ベスト8
72年夏 東海大工 ベスト8
73年夏 静岡 準優勝
74年夏 静岡商 ベスト8
75年春 静岡商、掛川西 ベスト8
黄金時代だったが…
やはり静岡商の76〜77年の二年連続出場辞退が大きかった。 >>91
堅田、高島、石山、野洲、瀬田工あたりは選抜で恥ずかしい試合ばかりだった。 >>100
70年代の紀和大会の結果を見て毎年和歌山は奈良には勝てないな、奈良の方がレベルが上なんだ、と思ってた当時小学生だった自分。 イカ高校という名前の高校があったな
瀬田工が勝ち進んだ時の人で審判になって
色々トラブったのが橘高氏かな? 星稜の小松を甲子園で観たが速かったな。江川よりも速くて驚いた。でも一番速い球を投げ込んでいたのは77年の伊香の藤高だな、小松が自分より速い投手がいると言ったのが藤高、この3人は当時の甲子園で観戦したプロ野球の投手より凄い球を投げていた。 当時の桐生は木暮、阿久澤の超高校級はいたが部員は選抜時、15人しかいなかった。選抜後、春関東大会でも優勝しエース木暮は前橋の完全男松本と共に超人気があった。 >>107
センバツ後に星稜と伊香が練習試合をやって両エースが投げ合って0−0だったらしい
その練習試合見たかったな >>108
この年から始まったNHKの学校紹介のフィルムで「部員は三年生7人、二年生8人の15人しかいません。それでも例年に比べると多いほうだといいます」と紹介されている。
木暮は夏は劣化していたな、腕が下がりコントロールに苦しんでいた。春の関東で一日に準決勝、決勝と連投していたし招待試合も多かったのだろう、調整不足だったと思う。
夏の県決勝の前橋工業戦は7回ノックアウトされている。
これは危ないぞと思っていたら県岐商に完敗した。あの試合の野村の投球はみごと。木暮、阿久沢の二人を完全に封じた。これでは桐生打線は苦しい。 >>95
その後はスコアラーとして長くチームに貢献しました 都投手は速球よりも大型左腕の割に変化球とコントロールが良かった印象。堅田2年次に能登川に打たれたが甲子園出場メンバーがいたチームで近畿ベスト4の当時全盛の平安にも勝ったくらいだから仕方ない。 >>100
春の大会で智弁が負けた翌日の地元紙の社会面でこのことが大きく掲載された。
走者2塁からヒットが出ても3塁で止まって得点しようとしなかったらしい。
スタンドの観客からは真面目にやれと野次が飛び交ったらしい。
帝京が夏の予選でわざとタッチアップしなくて非難された記憶があるけどそれよりひどかったと思う。 >>72
中文男(江川学院)は、親父と弟ってこと? >>113
タッチアップではなくて、レフト前ヒットにサードランナーがホームに走らなかったと思う >>112
平安は当時弱体化していたぞ。71年の例の部長の飲酒運転で辞退を余儀なくされてからは。
能登川選抜出場の前年だけは山根、前島などで甲子園に出たが。 >>114
江川学院の9番に川卓っていたな。
スコアボード上で。 74年は平安は選抜ベスト4だった。意見はあると思うが、黄金期最終時期でこの後から甲子園から遠のいた暗黒時代になった。いまの原田監督はまさに暗黒時代が現役だったんだな。 ガキの時、地元の静岡は山静大会に勝たないと甲子園に行けなかった。
山梨よりずっと参加校が多いのに、山静大会は両県から2校づつというのが納得できなかったな。
ほとんど静岡の学校が優勝してたから良かったけど。 >>109
投球練習の音がヒューっと鳴ってたからな、捕手も受難が多かったと聞く、特に小松の球を受けたのが1年の沖野で可愛そうだったよ >>113
高嶋さんが奈良智弁の監督だった頃だね
その年、天理も春県は早めに負けてなかった? 智弁学園は70年代の甲子園出始めの頃は郡山高校の郡高音頭のコピペで応援してたな。 >>121
沖野って、一年の夏から先輩の小松とバッテリー組んで三季連続出場したが、甲子園ではヒット打てなかったんだよな、たしか。 昭和40年代の校歌吹奏は、春夏とも楽隊がグランドに出て吹いてたんですかね?
自分の記憶では少人数編成だったような・・ つべで見れるカラー映像で一番古いのは昭和44年のセンバツ決勝でしょうか? 俺は昔の試合のビデオが見られるとしたら、選抜準決勝の江川の作新がくいん 俺は昔の試合のビデオが見られるとしたら、選抜準決勝の江川の作新学院と広島商の試合が全て見たい!江川の投球姿ももちろんだが広島商、佃のピッチングフォームが特に見たい!本当に格好良かった。 カラーでビデオ録画したものは昭和44年くらいからあるにはある。
そのころ家庭にカラーテレビが普及した。
ただし録画機器の普及はさらに10年遅れなので、昭和44年のものは極めて貴重。
例外は昭和43年夏の大会。
これだけは映画でカラー映像が残っていて、入場行進などは垂涎もの。
ただし記録が目的じゃなく芸術作品なのが残念。
普通に撮ってくれてたらもっと嬉しかった。 ちなみに、テレビをビデオ録画したものより、映画のほうが画質も発色も良い。 あれっ、市川監督が制作した青春てカラー映画は静岡商新浦が出てたから昭和何年?確か50回記念大会か? 昭和43年という年は、オリンピックと万博の間なんだけど〜
昭和元禄とか明治100年とか言われて世の中に高揚感がありましたね。
来年で半世紀になります。 あの頃はユニフォームを洗わないから勝ち進むとドロドロだったw
50回記念、開幕戦の実況は西田善雄、解説は誰だっけ? 泥だらけのユニで一番思い出すのは昭和53年の準優勝した時の高知商。ほほスタメン全員のユニがまっ茶っ茶で、特に二番森田のゆに 泥だらけのユニで一番思い出すのは昭和53年の準優勝した時の高知商。ほほスタメン全員のユニがまっ茶っ茶で、特に二番森田のユニはKOCHIの胸文字が全く見えない位に染まっていた。あれはあれで格好良かったわ。 昔はベンチにわざわざ一塁側ベンチとか書いてあったな
書かんでも分かるっつうに
関係ないが、甲子園駅が新装完成したね
記念大会に間に合った 自分は去年、30年ぶり位に作新一明徳の準決勝を見にマイカーで甲子園にでかけたがもう二時間前には内野席チケット売り場の前は長蛇の列で、通りを超え駅前の方まで並んでいた。内野席指定席で観るにはいたい朝何時から並べば入れるの?
モジャニキ(38歳)のプロフィール
・チビ(身長162)デブハゲ顔デカ眼鏡のキモいおっさん
・精神病院で寝たきりの母親から借りたお金をギャンブルで使い込み、母親を毎日泣かしている
・祖父の財産が欲しくて団地住まいの父親と毎日朝から晩まで喧嘩している
・34歳まで童貞、36歳の時に出会いを求めて無料アプリの出会い系を始めて半年でJKJD42人get
・ネットで見つけた女子高生の裸の画像をネット上にバラまく(現在、児童ポルノ単純所持の疑いで警察が捜査中)
・統合失調症の疑いあり
・栃木県の甘えん坊の小学校教諭(大卒1年目)と交際中(38歳で初めて彼女ができる)
・男子野球部の体見たさに高校野球に興味を持つ(自身のtwitterで自白。現在、鍵掛けている)
・自分は野球眼の神と言っている
・聖光学院スレを荒らしまくっている(現在は聖光ヲタにビビって逃亡中)
・聖光学院スレのスレ立て主のアウアウウー上級国民とホモの関係がある(自身のTwitterで暴露)
・ちんぽは小4でズル剥け >>136
あのころはゲンをかついでユニフォームを洗わないチームがほとんどだったな。
だから勝ち進んだチームはほとんどが泥だらけのユニフォームになった。臭いも強烈だっただろう(笑)
78年高知商がもっとも強烈な汚れ方だったのには異論はないが、ほかにも73年静岡、77年東洋大姫路もかなりの汚れだったと思う。
ゲンかつぎがほとんどなくなったのは82年あたりからか、その後はほとんど見かけなくなった。前年の決勝、報徳と京都商はともに洗濯してなかったと思う。この年の池田、広島商はきれいなユニだった。広島商は伝統的にゲンかつぎはしないチームだったが。
なにか高野連から指導があったのか、カッコ悪いと現代っ子の選手が敬遠したのか。 >>126
それって三重vs堀越?
あの時の三重高校、決勝以外全部近畿との対戦やったな
近畿全滅させて痛快やった
しかも決勝は実質コールド勝ちやし >>123
智辯のヒッティングマーチも郡山のファンファーレをアレンジしたような曲だな。 高校野球板の名物コテのモジャニキ(38歳)のプロフィール
・チビ(身長162)デブハゲ顔デカ眼鏡のキモいおっさん
・精神病院で寝たきりの母親から借りたお金をギャンブルで使い込み、母親を毎日泣かしている
・祖父の財産が欲しくて団地住まいの父親と毎日朝から晩まで喧嘩している
・34歳まで童貞、35歳の時に初めて格安のソープに行きジャガー横田似のババアと初体験。自分で想像オナニー
するのか1番気持ちいいとソープに行ったことを後悔し、なんJ民に慰めてもらう
・36歳の時に出会いを求めて無料アプリの出会い系を始めて半年でJKJD42人get
・ネットで見つけた女子高生の裸の画像をネット上にバラまく(現在、児童ポルノ単純所持の疑いで警察が捜査中)
・統合失調症の疑いあり
・栃木県の甘えん坊のかわいい新垣結衣似の小学校教諭(大卒1年目)と交際中(38歳チビデブハゲ顔デカメガネのキモいおっさんに初めて彼女ができる)
・男子野球部の体見たさに高校野球に興味を持つ(自身のtwitterで自白。現在、鍵掛けている)
・自分は野球眼の神と言っている
・公園でおっさんと3P経験あり(Twitterで自白)☆が見えて最高に気持ちよかったらしい
・上野公園で素振りしていたら長嶋監督が近づいて来て契約金1億で巨人に来てくれと誘われたが、当時はメジャー志望が強かった為断ったが今は後悔しているとなんJで暴露
・聖光学院スレを荒らしまくっている(現在は聖光ヲタにビビって逃亡中)
・聖光学院スレのスレ立て主のアウアウウー上級国民とホモの関係がある(自身のTwitterで暴露)
・ちんぽは小4でズル剥け >>141
広島商といえば日本刀の刃渡りがあまりにも有名。
刃渡りの他に、刃を肌に押し当ててスッと引くとか、よくもまあ怪我人が出なかったもの。
それと78年といえば高松商の志摩供養が、大会本部からクレームがついて廃止させられた。
試合で最初の守備につくとき、全員が三塁ベースを囲んで声を掛け合ってから、それぞれの
守備位置に散っていったのだが、「遅延行為」、「宗教行為のようだ」との理由だった。
高松商の現役部員も志摩供養なんて知らないだろうね。 >>137
髭ぼうぼうは竹場だけ
エースの村上は髭ひとつなく、お肌つるつるだったぞ 今は気軽に野球留学してるけど、
昔は強豪が公立校に多かったし、県によっては学区の縛りが強くて大変だった。
目を付けた中学生を学区内の支援者の家庭に養子縁組させるなんて荒技もあったな。
松山商の空谷投手とか新宮の前岡投手とか、プロと契約すると親権の関係なのか、
いきなり苗字が変わってたよな。 >>151
長年行われてきた野球、サッカー留学が何故か昨年問題化されて、実質不可能になったのが三重県の県立高校
菰野高校や四中工は大打撃
でも、なんで今頃? >>150
上尾戦で決勝のホームランを放ったな。
決勝でも7回に同点打。サヨナラの打球が目の前でヒットになりぼうぜんとしていた。 都裕次郎(堅田高校卒)、元中日ドラゴンズ、左投手、プロ通算48勝、58歳。
滋賀県大津市真野、琵琶湖大橋近くの出身。
高校時代は県大会ベスト8が最高成績。
名前は父親が石原裕次郎ファンの為。
ドラフト1位指名前後は江夏2世って呼ばれてた。
全然タイプ違うけど。
ファスト140km/h前後、カーブ、スライダー。
完全に打たせて取るタイプ。
昭和時代の投手なのでグラブの中の乱数表見て投げてた。
現役時代は裕ちゃんって呼ばれてた。
18〜58歳までず〜っと中日一筋。
今年の10月から中日の投手コーチ就任。
因みにランナーなしでの2塁牽制珍プレーが有名。 大阪6商。
浪華商、明星商、日新商、興国商、京阪商、甲種商(現関大一)。
大阪は商人の街だから、私立の商業学校が多かったね。
その頃、福島商(現履正社)や北陽商はそんなに強くなかった。
八尾や市岡などの旧制中組と6商が覇を争っていた。 >>122
天理も初戦で負けたけどまだ何も問題にはならなかった。
智弁の負けかたがあまりにもわざとらしかったから問題となった。
結局この大会で優勝したのは公立の高田高校だったから素人でもおかしいと気付いただろう。 >>159
............御愁傷様です。 おおむかしは同じ県内でも(公立)学区制があって行く学校が限定されてたから野球養子
がはやったみたい岐阜には今でも学区制があるみたい根尾が中学の頃に学区制により岐阜
では行く高校が限定されるというカキコをよく見かけた。 6山崎
4宇野
5原
8武藤
7立花
3津末
9黒田
2応武、末次
1酒井、黒田、久保、小松
参加校は今より少ないけど、あの頃のがレベルが高かったよな。
高校生の数が違うし、あの頃はサッカーとかに今ほど人材がながれなかったしな。 山ア、立花、久保(一軍コーチ) 原(監督) 應武&末次(アマの監督)etc超豪華メンバーですねぇ 今、昔の高校野球を振り返って見ると、ナイターに突入した試合に記憶に残る名試合が多かった気がするなあ。新居浜商-上尾、鹿児島実-東海大相模、桐生-豊見城、箕島-星稜、
確か、昔のセンバツは外野の塀に歴代優勝校の看板が掛かってなあ。あれいつからなくなったのかなあ? モジャニキは聖光スレを荒らしまくり
、聖光スレのスレ立て主のアウアウウー上級国民は聖光スレで親玉気取りしてる屑
聖光ヲタとしてモジャニキと聖光スレのスレ立て主のアウアウウー上級国民だけは絶対に許せない。
聖光スレのスレ立て主のアウアウウー上級国民とモジャニキにはお気をつけください。
◆モジャニキ(38歳)◆のプロフィール
・身長162pで体重83キロでハゲだが女性からモテモテ(なんJで自慢)
・精神病院で寝たきりの母親から借りたお金をギャンブルで使い込み、母親を毎日泣かしている
・祖父の財産が欲しくて団地住まいの父親と毎日朝から晩まで喧嘩している
・34歳まで童貞、35歳の時に初めて格安のソープに行きジャガー横田似のババアと初体験。自分で想像オナニー
するのが1番気持ちいいとソープに行ったことを後悔し、なんJ民に慰めてもらう
・36歳の時に出会いを求めて無料アプリの出会い系を始めて半年でJKJD42人get
・ネットで見つけた女子高生の裸の画像をネット上にバラまく(現在、児童ポルノ単純所持の疑いで警察が捜査中)
・統合失調症の疑いあり
・栃木県の甘えん坊の新垣結衣似のかわいい小学校教諭(大卒1年目)の彼女ができたとなんJ民に報告
・男子野球部の体見たさに高校野球に興味を持つ(自身のtwitterで自白。現在、鍵掛けている)
・自分は野球眼の神と言っている
・公園でおっさんと3P経験あり(Twitterで自白)☆が見えて最高に気持ちよかったらしい
・上野公園で素振りしていたら長嶋監督が近づいて来て契約金1億でエースで4番サードの二刀流として巨人に来てくれないか?と誘われたが、当時はメジャー志望が強かった為断るが今は後悔しているとなんJ民に無念を語る
・ちんぽは小4でズル剥け >>164
桐生と豊見城は最後まで点灯しなかったんだよ 最近はワンマンチームで勝ち上がるとこって少ないよね
平成では92の西短くらいか
普通の公立に大谷みたいのが入ればいいのに >>165
それこそ高島ワンバウンズ同好会。
1984年春センバツ1回戦
佐賀商業 17-4 高島(滋賀)
この試合で佐賀商業の打球が、ワンバウンドでラッキーゾーンに入ったのを2塁塁審がホームランとジャッジしてしまい、ワンバウンド満塁ホームランとなった。
歴代優勝校のプレートが白地なのでワンバウンドしたのが見えなかったとのこと。
翌日から全てプレートはとりはずされた。
ある意味、人気の高い事件。
その時ミスジャッジを受けた高島高校野球部の元選手の集まりが今でも続く、高島ワンバウンズ同好会。 >>166
ラッキーゾーン撤退は松井秀喜3年のセンバツから。 ワンマンチームといえば、中村紀洋の渋谷を最近では思い出す。
あんなスーパーマンがいないと、大阪で公立校が代表になるのは難しいだろうな。 81センバツ出場した岡山理大附のエースが、本番前に体調を壊して甲子園で投げれず、初戦敗退。その責任からそのエースの親御さんが追い込まれて自死された事件があった。
今思うとそこまで責任感を感じなくても良かったのにと思われて仕方ない。 >>176
加計問題か?最近は出てこないな。
>>175
春日丘が大阪大会で優勝したときは驚きだった。
法政二に勝てるとは思わなかったよ >>177
甲子園へ出たときの春日丘のエースは後日、東京六大学で・519と史上最高打率をマークして首位打者となった田宮実だな 春日丘が甲子園で勝った相手は丸子実、2回戦で法政二に負けた >>168
そのとおり。
豊見城のナイターとなると、76年春の土佐戦が印象深い。 なんだかんだ言っても蔦監督の池田高校が一番面白かったな 俺にとって尾藤監督は神様のような存在。
俺の周囲に笑顔で接してくれる指導者は皆無だった。
心底箕島の選手が羨ましかった。 1979年夏、決勝
箕島 4-3 池田
尾藤箕島が蔦池田を破り春夏連覇!
個人的には残念だったが......... >>186
さわやかイレブンで突然出てきて畠山で優勝するまで空白だと思ってたけど全然常連の名門だったんだな。
ていうか甲子園出られずにいた時代でも四国で超強豪だったことも知らなかった。 >>185
試合では尾藤スマイルでしたが練習では鬼の尾藤だったかと。
厳しい練習してなきゃ星稜戦や明徳戦のような絶体絶命の場面で底力を発揮できないで し うね。 箕島春夏連覇後の次のセンバツ出て来なかったのは残念
3連覇のチャンスだったが近畿選考ラスト枠で地元兵庫のゴリ押しがあり滝川選出、箕島補欠
ホント、残念至極だな >>171
その試合で1番打者として出場し本塁打を打った高島の馬場主将は
一度08年3月まで母校の監督をつとめて他校に転任し、
今年の春に母校に帰ってきて監督に再任、外野手の息子と大会に出場
今秋の1年生大会では4強入りし、
優勝の近江(志賀学園との決勝が雨天中止で両校優勝)と延長タイブレークまで持ち込み惜敗 >>190
えらい知ったか情報だが興味なし
全国レベルの情報書け! >>176
夏を前に病院のベッド上でエースナンバーを控えに譲る写真が朝日に掲載された
センバツで投げれなかったことだけが原因でないと思う
大本命が消えて岡山を制したのが巨人三軍監督がエースの岡山南
加計が自爆しなければ岡山南は行けてないし、川相もどうなったか分からない 岡山勢で印象に残るナイトゲームは
昭和43年 倉敷工−広陵
昭和48年 岡山東商−銚子商
どちらも相手が優勝候補だったから
当時は地元ローカルでもTVは終わってしまい、ラジオに噛り付くことにw >>193
43年の倉敷工は歴代最強と言っていいほど強かったらしいな ここにいる50代がボケてしまう30年後の高校野球が心配やな
インフルの予防接種しといたほうがええで
80過ぎの父が今年の初めにインフルに罹って、熱が下がってみたら
一気にボケとった (悲しい) >>175
スーパーワンマンといえば、77年の夏、投げてはシャットアウト、打っては満塁ホームランで
東海大相模を10-0で粉砕した宇都宮学園(現:文星芸大附属)の見形を思い出す。
前年までのあの原や津末がいたチームとは違い、地味な相模相手ではあったが。
あと84年夏の滋賀代表長浜の西田も印象深い。
まさか初戦でセンバツベスト4の大船渡相手に大金星を挙げた。
西田の卒業後の進路ってどうだったかな?
>>178
春日丘の神前監督は、全日空地上職勤務のサラリーマン監督だったよね。
サラリーマン監督なんて会社との兼ね合いもあるだろうし、よく”両立”出来たものだ。 43年の倉敷工には小山いういい投手がいたからしかし卒業後はどうなつたのかねぇ・・
・倉敷工には槌田(元・巨人)菱川(元・中日)とか秋山(元・近鉄)といったプロに進んだ選
手がいたが期待の割に大成しなかった。
駒苫に再試合の末に土をつけた陶山(JFE西日本)もプロにはいかなかった 小山は社会人の河合楽器、高校一年から投げ過ぎで既に肩を壊していた
槌田は同時期にV9メンバーの森昌彦がキャッチャーで君臨していたのが不運
巨人以外ならまた違っていたかも 小山は体力がなく、68年夏の予選の最中にも暑さで倒れてしまったときく。
その年の岡山決勝は宿敵岡山東商との対戦。岡山東には日石からプロに入った奥江がいた。
当日は涼しくてあまり暑くなかったので小山がスタミナ切れすることなく完封して四季連続の甲子園となった。
引退後は小沢さんとスポーツ店を経営していたのでは? 三重県勢で印象に残るナイトゲームは
昭和43年 三重−松山商業
強豪松山商業を倒しベスト8に進出した三重は、次戦で興国に敗れはしたが、来年の選抜は期待できるぞ!と大いに盛り上がった
期待通り、44年選抜で優勝
12‐0のスコアは、決勝の最大点差を更新する快勝だった 結局、この試合の双方が翌年の春、夏のチャンピオンを順当に分け合ったからな 体力がなく
これは言い過ぎだろう
今で言う熱中症で倒れたのでは?
甲子園では準決勝まで行って二失点完投してるし
あと岡山には奥江というピッチャーが複数いて、よく分からないな >>196
確か長浜 4-3 大船渡
ヒット数、長浜 5-15 大船渡
1イニングに一挙4点で逆転だったような気がするが......
2回戦は同じくセンバツベスト4の都城
確か 長浜 4-7 都城
もし勝ってたら3回戦はセンバツ準優勝の桑田・清原が2年生のパーフェクト リバティーだったな
センバツ優勝の岩倉は予選敗退だった
考えてみたら凄いゾーンだったな
因みに長浜のユニは横浜のパクリで、横浜が普段、練習や試合をしているのが長浜グラウンド もうひとつ長年の疑問だが
ハーフ顔の倉敷工の菱川と、岡山東商のハワード・ライトは親戚か? そのケネス・ハワード・ライト君が甲子園でライトを守ったのは、
私の記憶違いか?
誰か教えて下さいな。 >>202
大洋→ロッテで活躍した奥江英幸を知らないのか。
岡山東、日石、大洋と平松の後輩だった。
もっとも印象に残るのが76年、巨人の15連勝をはばんだ2安打完封勝利、この年11勝。
ロッテ移籍後の80年にも13勝した。 >>201
三重高校の試合が終わったのが夜の8時ぐらいたったかな?
抽選で翌日の準々決勝第一試合に組まれてしまった
相手は中1日休養した興国
コンディションに差がありすぎて気の毒だった
今はこういう事態は回避されてるのかな? >>196
西田は電電近畿(NTT西日本)
個人最多塁打24と最多打点14(5試合)は30余年経った今も夏の滋賀大会記録として残っている
試合としては長浜先制→大船渡逆転→西田タイムリー長浜同点に敵失と犠飛で3点とって4-2
終盤大船渡が1点返すも4-3で長浜
なお長浜は長浜北との統合で最後の単独チームとなった15秋に4強入りも
3決で滋賀学園(その後3位出場した近畿準優勝、センバツ8強)に惜敗
翌16夏には前年秋王者北大津に食い下がるも惜敗して歴史にピリオドを打った 204 母方はわからんが父親同士は関係ないでしょハーフの子が甲子園にでるのが(おそ
らくイジメで挫折したんでは)珍しい時代だったから特に印象に残っとんじゃないかなw
211 倉敷工は甲子園で話題を残しますねぇvs報徳の元祖大逆転負けvs中京の大乱打戦
駒大苫小牧のブレイク前夜の雨天再試合・・・ どうも倉敷工と広島商の白のアンダーシャツが好きでした。倉敷工井郷、広島商佃投手が良かった。 >>214
最近のセンバツの金光大阪との誤審も倉敷工だったな 松山商業の守備時の白帽子、攻撃時は黒ヘル。
箕島の守備時の紺帽子、攻撃時は白ヘル。
このアンバランスが絶妙。 >>217
習志野も松山商と同じく白帽子に黒ヘルメットで。 >>215
居郷さんは西武ライオンズの球団社長になって
6〜7年になる >>220
法政大の夜間出でそこまで成りあがるんだから仕事はできるんだろうね 居郷さんはプリンスホテル一期生の主力選手で、石毛・居郷の両方がプロ入りしては
プリンスホテル球団が困るということで、石毛がプロ入りし、居郷は残ることになった。
その時点で将来は約束されていたのではないかな。 >>129
市川監督青春のDVD特典映像で昭和35年法政二優勝時のダイジェストがカラー映像で収録されてる。
自分の見た中ではこれが最も古いカラー映像。 昭和43年当時うちはまだ白黒テレビだったので、記念大会の芝生が青々している
というだけで感動しますね。
またMISAWAのロゴが緑色だったのも分かってうれしかった。 >>222
アホだなあ
球団代表は社業でも有能でないとなれないよ
野球バカじゃ全然無理 昔の大会では左投手の活躍が懐かしい。広陵の宇根、県岐阜商の掘、平安の池田、広島商の佃、桐生の木暮、ガキの頃けっこう投げ方を物真似した記憶がある。 あとあの頃のNHKの三大解説者、山本英一郎さん、池西増夫さん、松永玲一さん、の解説が懐かしい。特に池西さんの語り口は絶妙で江川君のピッティングとか言って良く物真似していたなあ。笑 >>226
静岡商の新浦、鉾田一の戸田、享栄の小林と近藤、広陵の宇根
あと、サブマリンが多かった
興国の丸山、江津工の三沢、上尾の仁村、玉島商の松枝 今朝、突然思い出した選手。
昭和49・50年のセンバツに連続出場した、報徳学園の三砂三塁手。
右投左打で強肩。
50年は主将でトップバッター。続く二番は天王寺谷左翼手で、インパクトの強い苗字が並ぶ一二番でした。 三砂は75年のキャプテンだっけ?
74年のキャプテンは渋谷渉だった。 >>226
サウスポーといえば、78年春の記念大会に出た村野工・千田を今も憶えてる。
オーバーースローだったりサイドだったり、時にはアンダーだったり。
でも普通にサウスポーのアンダースローって記憶が無いんだよね。
誰かいたっけ? 山形からの野球留学の渋谷3兄弟ですね長男&次男は平安で中軸打者、特に長男の通は
一本足打法で王二世と騒がれたの覚えてます。
三男の渉だけが報徳へ進学しセンバツ優勝を経験あの頃は地方から都会(というか関西)
の強豪校を目指して進学するホントの野球留学でした。 >>234
地方から都会で腕試し。
渋谷渉は報徳〜明大〜日本生命で活躍。
現役引退後は指導者として日生第二で夏の甲子園に2度出場。
報徳時代は東洋大姫路に阻まれて夏の甲子園には縁がなかった。 間違えた、日生第二では春夏一度ずつの甲子園でした。
89年春と00年夏に。 >>234
渋谷兄弟の入学した当時は山形からの甲子園出場は至難の技だったからな 選抜は東北から1校か2校、夏は記念大会を除くと秋田県との決定戦が控えていた 1960年代の東北最強県の秋田に山形は勝てなかった 岐阜短大付属(現、岐阜第一)の湯口敏彦
湯口事件が有名
国民が一斉にアンチ巨人に傾く出来事
当時巨人監督の川上哲治のひとでなし発言が発端で、その年のドラフト指名の4人が入団拒否
川上はその時、長嶋茂雄に引退をさせ監督にと迫るが断られる
巨人は9連覇で終わる
死去した時、川上が国民栄誉賞を受賞できなかったのは、戦時中の部下に対する扱いと湯口事件の発言の所為 「巨人こそ大被害を受けましたよ。大金を投じ年月をかけて愛情を注いだ選手なんですから。せめてもの救いは、女性を乗せての交通事故でなかった事です」
これは言うべきじゃないよな 川上自体は湯口の事件にノータッチだったらしいけど >>234
三男の渉が平安に行かなかったのは、ちょうど平安が部長の飲酒運転で出場停止処分をくらっていたからだと思うが、報徳に進んだおかげで兄も経験できなかった甲子園優勝も味わえたのだからよかったかな。
平安とは春の準決勝で対戦したな。 その年のドラフト指名の4人が入団拒否
ドラフト1位の小林秀一(愛知学院大)は指導者になる夢があったためプロ入り拒否
ドラフト3位の中村裕二(住友金属)は監督の松永怜一が将来の監督にするため慰留したためのプロ入り拒否
残りの2人の拒否は湯口事件も影響していた 湯口は病院側の医療ミスで死んだと思われるが、その前に病院側がダメだと言っているにもかかわらず、無理やり現場復帰させた巨人側の所為だ >>225
球団代表とは、居郷肇は大したものだな。
甲子園では投手をしていた、横手投げだったか。74年春はベスト8、イレブン池田に延長戦で惜敗。
法政に進んで78年春のリーグ戦で六大学史上初のサイクルヒットを記録したのが思い出される。 >>227
解説者では光沢ツヨシが好きだった
その後、残念なことになったが・・ 光沢さんは三協精機の監督としても桐蔭学園出身の大塚を擁して当時甲子園球場で行われ
た第一回社会人野球選手権に優勝・・・長野県のアマ野球の発展につくしてもらいたかっ
たんですが残念ですねぇw wikiを見ると、光沢さんは「たけし」となってるけど、「つよし」から改名したんでしたっけ? もう一人の小さな大投手、、、田村氏もなんか似た話の記憶あるわ。 磐城の田村が桐蔭学園の峰尾に決勝三塁打を打たれたのを見たのが、幼い頃の強烈な思い出です。
今と比較すると、1点の重みが全然違いましたネ!
春のセンバツの旧大会歌が懐かしい。
大会前に大会のCMにワクワクしたなぁ。
現在の大会歌も悪くないがオッチャンは旧大会歌が良かったな。 むかしのセンバツは3月にサンデー毎日の増刊がでるまで情報が少なかったから想像の
翼を広げて楽しかったが今は逆に情報量が多過ぎでかえってつまらない 昔のサンデー毎日は取材をきちんとしていて戦力分析も鋭かった。
サイズがおおきくなったあたりから記事の量が減り、内容も読みごたえがなくなった感が否めない。自分は96年を最後に購入していない。
あと、組合せが決まった翌日の毎日の紙面にベスト4を予想する大会展望も読みごたえがあったが、あれは93年が最後かな。
この年のベスト4に予想した東山、崇徳、横浜、大府がすべて初戦敗退に終わったのが影響したか。
ただこの4校を破った国士舘、大宮東、上宮、駒大岩見沢がベスト4を占めたのだから実力は紙一重だったんだけどね。 選抜出場校の予想も、毎日新聞で見る
「秋の各地区大会の結果」と、「選考会1週間くらい前に載る予想記事」が拠りどころでした。
毎日新聞は、組み合わせ翌日に「決勝までの勝ち上がり予想」まで載せてましたね。 昔のセンバツ大会は、大会直前に練習試合が出来なかったから、
試合勘をいかに早く取り戻せるかどうかもポイントだったよね。
大会前の練習試合が解禁されたのは96年からだったかな? 選抜前練習試合禁止と言っても、合同練習という名目で試合形式でやってた学校があった
正直者が馬鹿をみる不公平なルールだった >>260
72年「日大桜丘は仲根投手が調子を上げているので日大三との東京同士の決勝も期待できる」
75年「高知と東海大相模がシードされたかのように両端を引いた」
76年「崇徳と小山が双璧」
予想が当たった年もあった。 >>254
新聞社の名前が大会歌に出るとマズイかな、ラー毎日ラー大会、ラーラーラーの締めが良くなかった。 作詞は大阪毎日学芸部長の薄田泣菫
軍靴の足音高まる昭和9年の制定で、二番の歌詞
「戦塵あがる 春なかば 選士らよ 雄々しかれ」
のくだりも時代にそぐわなくなったんでしょう
力強さの夏に対し、華やかな春を70年代は今よりもっと強調していましたね >>268
作曲も陸軍戸山学校音楽隊ですから、、
yutubeにもオリジナルなど残っていないのが残念 >>263
81年だったか、北海道の東海大四が選抜前に兄弟校の静岡の東海大工でキャンプを張ろうとしたら高野連に止められたな。高校生でなんでそこまでやるのかって。
でもいまは当たり前のようにやっているな、ホント授業きちんと受けているのかな。 選抜の大会歌が変わる時の、毎日新聞の記事には、時代にそぐわない点があり、みたいなことを書いていた記憶がある。軍が関係しているから、って初めて知ったです。昔の大会歌のインストに十川ゴムのCMが選抜の味を出していたのに。 1975春 広島工 小林誠二(広島_西武_広島)に投げ勝った
福井商のアンダーハンド投手 かっこよかった記憶が微かに 前側ね。
下手投げでは大会ナンバーワンだった。
右膝が地面につくほど重心の低いフォームから力強い球をほおっていた。
相当下半身が強かっただろう、いまあんな投手いないな。
高知の松生に長打されてワンチャンスで高知に逆転を許したのが惜しまれた。
夏は予選決勝で三国に逆転サヨナラ負けで出場できなかった。 75年春といえば、悲劇の門司工(現:豊国学園)の印象があまりに強い。
開会式の日の朝に出場辞退なんて、あんまりだと思ったな。
野球部と関係ない生徒の婦女暴行事件が起きたばっかりに・・・orz >>275
突然の参加になった補欠の佐世保工業も気の毒だった。開会式当日に参加決定、数日後に当時強かった静岡商と初戦、確か投手は怪我かフォーム改造中だったような気がした。 監督から「選抜に行きたいか?」って聞かれて「行きたいですぅ!!」って言ったわけやから気の毒とは違う気がする。 無関係の生徒の不祥事による門司工の出場辞退は佐伯会長時代の黒歴史だろうと思うが、野球部関係者が不祥事を起こしてもヌケヌケと甲子園へ出ている現在、もう少し厳しい指導があるべきだとは思う 同じですもしも佐伯天皇が生きかえったら高校野球の現状を見て何と思うでしょうねぇ 当時のセンバツは野球部を選ぶんじゃなくて、学校自体を選ぶから学校に不祥事が起きれば辞退になった >>282
センバツ大会に出場する学校を選考するに当たって「学校の品位」って項目があったんだよね。
いつの年だったか、沖縄水産が当落線上スレスレだったときに、栽監督が地元新聞社の広告に
登場して何かのアピール?をしたことが仇になって、九州地区から選出されず補欠校にも
選ばれなかったことがあったんだよね。 >>280
同意。関係者どころか不祥事起こした当の本人が出場していることもある。これはいくらなんでもおかしいと思う。
佐伯天皇時代は厳しすぎ、いまはゆるすぎなんだよな。 >>284
その基準が大きく変わったのが、86年夏の全国大会期間中に発覚した愛知の享栄高校の事件。
写真雑誌エンマに、享栄高校野球部員二人が喫煙してる場面が大きく掲載されて大騒ぎになった。
享栄高校はこの事件が発覚した日は3回戦に勝ち進んでいたが、この事件発覚で出場辞退、
不戦敗になることは絶対確実と思われた。
だが大会本部と高野連は喫煙した部員二人をベンチから外し、補充を入れないという、お茶を濁した
措置で享栄高校の3回戦出場を認めちゃったんだよね。
こうなるともう歯止めは利かなくなった。
あのとき享栄は出場停止、不戦敗にしておけば、今みたいなことはなかったと思う。 >>287
ある意味、常識で測れない人だったからこそ高校野球不毛の地沖縄の高校野球のレベルを上げたんだが >>285
佐伯天皇が健在だったら、86年の享栄は間違いなく出場停止、不戦敗だっただろう。
そのあとの2002年春試合中にスパイ行為をした福岡大城東(この学校は92年春の開幕前にも不祥事で出る出ないで騒いだっけ)、最近では桐生第一、作新学院、広島工、伊勢工など大会前に不祥事起こした学校も出場停止になったかもしれないな。それにしても最近は多いな。
2005年夏の明徳は当然出場停止だが、明徳といえば92年夏の敬遠事件のとき佐伯天皇だったらどんな処分を下しただろうな。ほかにも85年春のピンクスキャンダルなど一連の不祥事で明徳は除名処分になっていると思うが。 >>279
行きたくない選手などいないはず
準備なく2ー3日で試合では実力発揮できるわけない。 出場停止回数の記録は高知商業6回浪商5回だっけか、知らないが平安、中京(勿論愛知の)も多そうな気がする。 佐世保工は、「補欠校」として選抜されていたわけで、心構えも、選出校と紙一重の実力も持っていたんでしょうね。
急遽出場が決まった翌々日、大石、久保寺率いる静岡商を向こうに回し、立派な戦いぶりでした。 佐世保工は前年夏甲子園に出場していたし、新チームでも九州大会ベスト4。
「福岡枠」で九州大会初戦敗退の柳川商に最後のイスを奪われて補欠校になってしまっていたが、相当の力があったのは間違いない。
投手は大廻だっけ?夏に向けてフォーム改造中だったと思う。
試合前日には特例として甲子園球場前でカンパを募っていた。 当時の九州高野連は小倉OBが牛耳っていて「福岡枠」という不合理な選考が散見された
佐世保工は二度も犠牲になっている
75年に九州大会初戦負けの柳川商が選ばれて4強の佐世保工が落選
78年に九州大会初戦負けの小倉が選ばれて4強の佐世保工が落選 佐伯天皇時代って鶴の一声で地区の枠数が変わったよな
「北陸の高校にも夢を与えたい」とか言って
当時、選抜の北信越は枠1なのに、東海の枠を減らして2枠に増えた
まあ、その年だけの措置だったが、こんなの個人の意見で枠が変わるて
今じゃ考えられんよな 良くわからんのだが、昔からセンバツは近畿優先な大会だよね。昔、おっちゃんに聞いたら主催の毎日新聞社が関西にあるからだと聞いた事があるんだけど? >>295
沖縄特別枠も佐伯天皇の鶴の一声だし。
あと、72年の選考会前に不祥事があったことを理由に天理の選出は見合わせろと命令したとか。 >>296
関西出身だが本当に昔から近畿偏重だな。今年も地方大会で1勝止まりの彦根東や智弁学園と初戦敗退の兵庫勢の選抜争いの話題は本当に他の地方に失礼な話だと思います。 >>298
いや違う、みんな間違ってる
一番優遇されてるのは確率的にみて四国
昔も今もそう 佐伯天皇なら今回の仙台育英の不祥事に対してどのような体裁を下しただろうか? 2013年に起こした不祥事で1年間の対外試合禁止を課すから、監督も引責辞任、立て直しに時間がかかると見る 時々、夢に昔の名選手・名場面が出てくることがあります。
昨晩は、玉川寿選手(土佐高校)のサイクルヒット達成(対 桂高校戦)場面でした。
最初の打席は凡退でしたが、第二打席以降、本塁打・三塁打・二塁打の順に快打を放ち、一塁強襲の速い打球で記録達成したことを思い出しました。
昭和50年の夏、今から43年も前になるのですネ! 玉川もことし還暦なんだな。
打たれた桂の投手は下手投げの今泉だった。 やっぱ全国制覇した事がない県のオールドファンからすると何十年前でも一番優勝に手の届く処まで行ったチームを思い出すんだろうね。 福島の磐城
新潟の日本文理
青森の三沢
宮城の仙台育英
みんな、もう一歩だったな。 岡山は決勝進出は一度きり(夏)だがボロ負けだったので
それより準決で惜敗した68年、69年、71年のほうが良い思い出 >>26
最近まで東海大相模の部長だった田倉氏だね
大阪の舞洲で毎年やってる大阪桐蔭との練習試合見に行ったことあるんだけど、田倉部長、審判に怒鳴り散らしてたよ
選手殴って出場辞退したこと何も懲りてないんじゃないかと思ったな 298や299が勘違いしているようだ。
箱根のドータラ駅伝が関東の大学しか出場できないように、
選抜はそもそもが瀬戸内や関西プラス名古屋圏の学校の大会。
化外の学校が参加できるだけでも有り難く思え。
場合によっては、下品な九州や東北の学校は招待しなくてよい。 >>310
78年夏の岡山東商って話題にならない?
当時の岡山東商はどういうわけか開幕戦を引き当てることが多く、早々と散っていったが
78年夏のチームは違った。
アンダーハンド藪井は制球力が抜群に良かったし、武乗、綾野、石岡のクリーンアップは
強力で、2回戦でセンバツ準優勝の福井商に逆転サヨナラ勝ちした試合は鳥肌ものだった。
準々決勝の豊見城戦でも終盤に劣勢を一気に追いついたし。
確か福井商相手に逆転サヨナラスリーベースの石岡って木製バットだったような気が。 >>310
岡山は平松の岡山東商が選抜優勝してるけど、やっぱ県民としては夏の優勝が欲しいのかな。
吉田、ライトの2枚看板だった71年の岡山東商は確かに惜しかったな。桐蔭学園の大塚から得点したのもここだけだったよね。 68年倉敷工業、69年玉島商業、71年岡山東商業と四年間で三回もベスト4。68年は春も倉敷工業がベスト4と岡山はまさに黄金時代。
それが73年春から岡山東商業が一点差で負けてばかり(78年春までなんと8試合連続一点差試合、その間1勝7敗)、倉敷工業も小沢監督が引退して陰りが見えかけた中での78年夏のベスト4には驚いた。しかしそれが最後の輝きとなろうとは。 >>306
宮城はダルビッシュ在籍時の東北が優勝に最も近かった感もあるな。
仙台育英野球部が募集停止したことで好選手が集中してたし、04年選抜はもしダルが万全なら…と思わせてしまうような結果だった。
他には09年選抜の花巻東、ベスト4止まりだったが87、90年選抜の東海大甲府を加えても良いかも。 桐蔭学園の大塚が、最も苦しかった試合は岡山東商戦だと言ってたね。
NHKの甲子園録音集の中で。 岡山は、平松・松岡・森安が同学年、一つ上に星野。
岡山東商が優勝したのもうなづける。 >>316
東海大甲府は85年夏のチームも力強かったな。
準決勝で当時新記録の、1大会4ホーマー目を藤井に喰らって宇部商に負けたけど、
その前の準々決勝、関東一戦9回表の大逆転は印象に残る。 >>313
岡山東は78年より71年のほうが強かった印象なのでね
78年はミラクルな逆転勝ちの好チームだが 75年夏の開幕戦で日南に負けた試合はガッカリだったな。優勝候補とも言われてたのに >>322
75年の日南っていうと、あの機動力野球の広島商相手に1試合で二度もライトゴロを完成させた
強肩強打の超高校級外野手がいたね。 >>313
78年の岡山東知ってるなら遊撃で1番打ってた山口?だったか覚えてる?
甲子園では不調だったけど、あの年の岡山東を引っ張ってたのは間違いなく彼だったよ。
南陽工業の中堅手の田崎?田坂?と二人、あの俊足好打は特筆ものだったんだよなあ。 >>324
山口は二塁、山口橋本の二遊間は鉄壁だった
南陽工のトップバッター田坂はセンバツ福井商戦でポテンヒットで二塁まで行ったな
確かあの回の南陽工は4連打しながら牽制球で一塁ランナーが刺され1点どまりだった >>321
71岡山東商は、ショート岡義明の守備が際立っていた。
しかし、本来1番の岡が、3番を打たざるをえない打線は厳しい。 恒例の座談会で岡山勢が優勝候補と言われたのは、75年の岡山東商のみ。
ほかに、68年の準々決勝の組み合わせ抽選後、倉敷工−広陵が事実上の決勝と言われ
勝った倉敷工が一番優勝に近いと思われた。
これ以外に「候補」と期待されたことはないのでは? 78年は、当初は岡山東商より、本格派・植田の岡山南の方が期待が大きかった。
秋の県大会でも優勝は岡山南で、岡山東商は投・打ともやや非力の評価だったが、中国大会ではくじ運にも恵まれて、順調に勝ち進んだ。 岡山南は76年くらいから力を付けていたが、夏の初優勝は川相投手まで待つことになるんだな 岡山南といえば、坊西を中心として、東邦や上宮など強豪を連破して4強入りした86年春の活躍が思い出されるな。準決勝でも池田から先制したし。
同年夏はその岡山南を大差で下した伝統校の倉敷工が久々に登場、どんな戦いを見せるかと思ったら、まさか初戦で秋田代表にぼろ負けするとは… >>327
75センバツで倉敷工も優勝候補の一校。
しかし、秋の中国大会決勝で広島工に負けていたから、記者もトーンダウン。
ちなみに、75春の県大会、中国大会の決勝で岡山東商を連破していたから、本命・倉敷工が順当に夏代表になったら、当然優勝候補になった。 岡山南の加百や坊西のいた世代はいいチームだったね
Youtubeにあげてる人いるよね
その前年の夏、甲子園で初戦大敗した経験があの活躍につながったんだろうけど >>332
75年の岡山東商は、大事なところでやっちゃったイメージw
そして、最後の夏は掴み取ったけど、また甲子園開幕戦でやっちゃったwww 岡山南は甲子園初出場だった77年春にいきなりベスト4進出。
しかし24の瞳の中村の影にすっかり隠れてしまった。 75年の東商の寺田はのちの俳優・美木良介
ずっと昔だが八名信夫も東商 78年の中四国で岡山東の山口(セカンドだったか…記憶違い)、南陽工業の田坂、高松商業の工と中山、南宇和のキャプテン(名前忘れ)もいい選手だったな。
南宇和のキャプテンは田舎っぺ丸出しだったがなかなかの好素材だった。
淡路島の洲本の左腕柳川?は、練習試合で二年生の時に星陵小松に投げ勝ったらしいが、小柄ながら伸びのある球投げてたわ。 86年春の岡山南は、本来センバツは絶望視されていたが…
中国大会未勝利にも関わらず、1勝した多々良学園を退けて滑り込みセーフ!w >>332
その中国大会で兼光が広島商を手も足も出ない感じで完封、広島工に負けたのは兼光を温存したから
兼光投手と大型打線で、大会前に控えめな小沢監督が「去年(のセンバツ8強のチーム)は今年の準備でした」と強気発言をしていた 78年、仙台育英の佐藤だかは後年TVドラマの王貞治物語とかで王貞治の若い頃を演じてたな。 >>339
決勝では、2Pの塚岡がこの上ない好投をしたが、打線が8安打1点の酷い拙攻w
広島工の小林誠二も、連投の疲れでヘロヘロw 75倉敷工打線は強力だった半面、脆さもあった
岡山東商寒川には秋と夏の県決勝で完封され、東海大相模村中にも完封負け
左投手に弱かった 岡山東商は、土居、寒川、原邦と3代好投手が続いたが、個人的には原邦が好み。
松下電器に進んでからの伸びがえげつないw 原邦だけプロ行ってないよね
てか、原邦というとバックネットのアシストで弘前工に勝った人では? そうですね。
ワイルドピッチがバックネット下のコンクリートの部分に当たり、
強く跳ね返ったボールで3塁走者が本塁でタッチアウト。
このようなプレーは、当時、1つの大会で1、2回見られたが、
阪神・佐野がフェンスに激突して頭部陥没骨折の重症を負う事故が起きて
フェンス等にラバーが付けられてからは見られなくなった。 75年と76年では、岡山県内の高校野球のレベルが全然違う。
岡山東商の原邦彦も、レギュラー総入れ替え後のエースで、味方が打てなくて苦しんだけど、ライバルの倉敷工がそれ以上の戦力ダウンで、結局、岡山県内では公式戦負けなし。
そして、秋・春とも中国大会決勝で、原邦が好投するも崇徳に完封負けする、お約束のパターンw 小沢さんは、一時期、NHKの甲子園中継の解説をしていたね。 >>343
松下電器は、原邦彦(岡山東商)―大本二郎(倉敷工)の、1歳違いの黄金バッテリーが看板!!
大本は、監督もやってたな。 >>344
これも選抜開幕戦だったな。原邦と弘前工 大湯の投げ合いだった。 倉敷工、松下電器というと水本勝己がある意味すごい
カープでは一軍の試合出場のないブルペン捕手から二軍監督に登りつめた 岡山は何で岡山商業でなくて岡山東商業で東が付くんだ
普通広島商業とか高松商業なのに >>317
優勝後のインタビューを聞いていたが、最も苦戦したのは
鹿児島玉龍戦と言っていた・・バント攻めで苦しんだ。
もっと印象的だったのが、大塚投手が淡々としていたところかな。
因みに社会人選手権の決勝戦の相手も田村投手(別人)。 >>355
1949年に岡山商業と岡山産業が合併したときに、岡山東高校という名称になったから。 >>346
原は選抜出場投手のなかで防御率ナンバーワンだったが、なんと0.25だったことが記憶にある。
崇徳には秋は0-3、春は5安打に抑えたが0-1と連敗。
76年は選抜だけ純白のユニフォームだったような。 >>353
アホ 名将向井監督に失礼すぎる
岡本など土居、腹、寒川ら好投手を擁しながら1勝しかできず、ミラクル石岡世代で4つ勝てただけの無能 向井さんの不肖の弟子 >>359
同意。岡山東といえば向井監督だろう。
倉敷工業の小沢監督と岡山の黄金時代を築いた人。 最近は、倉敷地区の好選手は、倉敷工じゃなくて倉敷商に流れているのか。 >>346
崇徳黒田が相手だから打てなくても仕方ない
むしろ選手権で市神港の中村に再三チャンスを作りながら完封された打線の勝負弱さが駄目だった
原邦はピーキングの問題かもしれんが甲子園で結構打たれていながら最少失点で切り抜けたイメージがある >>358
白桃色の伝統のユニフォームを捨てるほど、前年夏の開幕戦敗退が相当堪えたらしいw >>351
原はプロには行かなかったが、85年の都市対抗で日本生命に補強され、決勝の東芝戦、4-3と逆転した直後の最終回一死満塁のピンチを内野ゴロ併殺に打ち取り胴上げ投手になった。
甲子園では選抜の二回戦の7回裏、小山の黒田に逆転三塁打を打たれた印象が強い。2ストライク1ボールから勝負を急ぎすぎた。 >>338
広島×2校、山口×2校で問題ある?
無理くり感満載w 岡山といえば毎回ブラバンは桃太郎ばかりだったな。
最近はあまり聞かないぞ >>366
昭和60年の岡山南は演奏していたね。
朝にテレビCMで
『桃尻さん 桃尻さん トットットイレにサンポール お尻の穴も見てますよ♪』(桃太郎の替え歌)
この強烈なCM見た一時間後くらい後に第一試合東海大甲府ー岡山南で岡山南が桃太郎を演奏していた >>367
この年の岡山南は前年の主軸が何人か残り強いと思われていたが、甲府に粉砕され大敗
翌春は小粒な打線と言われたが、初戦で優勝候補東邦に勝ち波に乗り4強 高校野球は流れが大切だな >>361
倉敷商といえば、甲子園には出られなかったが、星野仙一さんが4日亡くなったな。
星野がエースのとき、東中国決勝までは行ったらしいが。
とまれ、謹んでご冥福をお祈りします。 星野さんがエースで、1学年下の松岡さんが控え。
全セみたいだな。 「島と星間違えとんかぁ」で始まった闘将・星野の波乱の野球人生・・・あの時巨人が
星野仙一を指名しとったら闘将はどんな野球道を歩んでしょうねぇともあれ空の上では
水原さん川上さんと仲良くやってください。 合掌 まあ昔は
倉敷工の小沢野球
中京の杉浦野球
は甲子園をうならせたな。
その両校が対戦したセンバツの超打撃戦は忘れられない。 倉敷工と中京の超打撃戦は、ラジオで聴いていた。
倉敷工・神土選手がホームランを放ち、中京・千賀儀雄選手の三振でゲームセット。
「じんど」と「せんが」は、中学生の私の耳には、インパクト大でした! >>373
小沢監督曰く「あの中京戦を勝ったことで、監督を辞める決意をした。次の試合で勝とうが負けようが…」 倉敷工005 801 011-16
中 京101 450 310-15
確か、4回表で13-2になった時には勝負あったと思ってTV切って飯食いに行ったら以後大乱戦になっていた。小沢、杉浦両監督が次々伝令に指示を与えていた記憶がある。 >>376
その当時は教育テレビでのリレー中継がなかったから、0時前に中継が中断、
1時に再開したときは8回か9回で同点になってた。 >>376
流石センバツ大会、金属バット開幕戦だな
勝った小沢監督は試合後謝ってたな
大事な開幕戦を台無しにしてしまってと
後にもう一回センバツで当たった時は中京大中京が勝ってる 広島商業も松山商業も、もう出て来ないし商業工業高校の時代はとうの昔に終わってるな 兼光の肩痛がなかったら、一方的な馬鹿試合になるところでしたw
当時の中京は、千賀と安井の投手力が弱すぎ >>380
杉浦監督の継投ミスだったね
中京はこの頃から致命的な継投ミスを時折やらかすようになりました
78年夏の9回裏で4点追いつかれるとか
去年の選手権とか >>383
スレチかも知れないが、サンデーモーニングで、星野が助っ人で張本の隣に座ったことあったっけ?
記憶が無いんだが、ひょっとして水と油の関係だったのかも。 >>381
ショートの近沢まで投げ出したらオシマイw >>380
安井は本来は内野手で急造投手だったから責めるのは酷。
この試合、近沢が本塁打を含む6打点のタイ記録(のちに星稜松井に更新される)をマークしたな。 >>386
安井は急造投手ではないぞ 中学野球では名を知られた投手
中京に入学したときにすでに1歳上に金本、小山と甲子園で活躍した好投手がいたため打力を買われて野手転向しただけ
75年中京の新チームでは、マウンドから投げさせたら球速、コントロールともダントツだったのが捕手の岡田忠雄だったらしいが、投手経験の少なさから安井をエースにしたと聞いている 千賀も中学の優勝投手で期待されて入学したが、制球難で自滅することが多かった 72年の中京は、金本、小山の1年コンビでベスト8入りした好チームだったけど
ふたりはそれっきり出られなかったんですね。
バンビと同じパターンか >>390
74年春に出てるぞ。
金本はフォーム改造したが威力なく滝川打線捕まってしまった。
小山は野手に転向していた。
あのころの中京はしっかりした投手が育たなかったな。素材はいたんだろうが。 75年のセンバツ、阪神沿線のおっちゃんたちでネット裏が一番盛り上がってたのが
東海大相模−倉敷工だった。 開会式直後の中京-倉敷工業は三塁側アルプスで見た。中京レフト吉口がフェンスを恐れないガッツ溢れるプレーで開会式で大会歌を歌ってた神戸山手女子のお姉さんがキャーキャー騒いでたな。 >>392
報徳-高知、高知-東海大相模でしょう。
現場で見たから間違いないよ 374です。
皆さん、ディテールをよくご存知で、感心します。
忘れていた近沢選手のことを思い出させてくださり、感謝します。 倉敷工は、ユニフォームが綿製からニット製に変わった74年のセンバツから、ユニフォームのデザインを変更。
襟、袖口、ズボンに、ストライプを入れた。 >>396
崇徳もニットユニフォーム導入のタイミングで、黄色を配色したデザインに変えた。 >>396
その前はストライブのない白いユニフォームだった。
甲子園では68年春から72年春までそのユニフォームを使用したな。 >>390
金本は1年秋から不調に陥りエース剥奪
2年秋からエースに復帰したが調子は戻らずフォームを改造
選抜では滝川に打ち込まれKOされる醜態
小山は肩を痛め、2年から野手本職で投手は短いイニングのみ
滝川戦ではKOされた金本をリリーフし好投したが、その代償で故障
中京は中学野球で鳴らした好素材を毎年のように獲得しあがら70年の樋江井正臣投手以来、78年武藤投手まで悉く投手育成に失敗 >>398
それまでは、黒が基調なユニフォーム。
ユニフォーム変更以降、86年夏のみ黒で甲子園に出場した。 >>374
ありがとさんです。倉工ヲタです。
ショートの神土さんは今でも試合を観にきたりコーチしたりしてますよ。
でも中京戦でHR打ったのは野田さんと石原さんです。 そうそう、神土さんは9年前のセンバツの中京大中京戦、一塁側スタンドで
ユニフォーム姿でメモ帳に書き込んでるところがTVで映りました。
すっごく優しい人です。 倉敷商とか倉敷工はセンバツの21世紀枠候補の資格はないのかい
遠ざかっているだけではダメなのか?
最近全然甲子園出てない気がしてるんだけど......... 倉工は9年前に出てるし、倉敷商はもっと出てるから無理ですね。 岡山県で長く出ていない公立は・・
21年前がラストの岡山南と、44年前がラストの玉島商ですね。 >>401
ご指摘、ありがとうございます。
神土選手と野田選手とを混同してました。 >>391、>>394、>>399
失礼しました。
ありがとうございました。 >>378
確か倉敷工は67年の夏?だかにも中京と対戦してるんだよな。
9回1打サヨナラのピンチで、小沢監督の「高めに投げな」という岡山弁の指示を投手が勘違いしたのが原因で敗戦したのだとか。 倉工−中京の3年生は60歳。
公務員なら、年度末で定年。
時の経つのは早いな… 復活希望を調査すると、岡山では岡山南が多いが、還暦以上に聞いたら
玉島商のが懐かしいだろうな
華麗なサブマリン松枝の好投で準決勝進出したが、三沢の桃井選手が
打ちまくった記憶がある
準決勝で三沢が逃げ切っていなければ、翌日の松商・三沢の歴史的な
ゲームもなかった訳で 中京の千賀は慶応でも活躍してたな、確かプロフィールは左右スイッチヒッターと書いていた。社会人東邦ガスの監督もやってたと思う。 >>413
打者としても超一流の素質がありました
倉敷工との歴史的な打撃戦の口火を切る先制タイムリーも打っていますし、3年夏の学法石川戦では流し打ちで決勝ホームランを打っています
慶応大ではレギュラーを取ったものの伸び悩んでプロへは行けませんでしたが、東邦ガスで長くプレーして監督もつとめています 進学校化が進んだ今の中京大中京をみると信じられない人も多いと思いますが、千賀選手がいた頃の中京は享栄と並ぶ名古屋のヤンキー校でした その中で千賀選手は勉強のほうでも3年間主席を通したという伝説が残るほどの文武両道でした >>414
倉敷工業戦の初回裏の先制打は選抜の金属バット初安打だった。 >>412
個人的には、やっぱり岡山東商が思い出深い。
特に、70年の守岡、76年の岡、74年の土居あたり。
偶然にも、全員後にカープに在籍w 木製バット事件は聞いたことないが、金属バット事件は時折あったな 樋江井と千賀は年代は違うが、共に長身であの中京の伝統の立衿ユニがいちばん似合ってた記憶があるな。またユニの左肩にあった中商の立漢字が超格好良かった。変わってしまって本当に惜しいことをしたわ。 >>376
この大会直前に試験の成績が悪かったということで倉敷工業の選手が大会登録メンバーから外されたと聞いたことがあるが、誰だったのかな? 確か、今は知らんが富山商業が旧中京ユニをパクってた記憶があるな。 >>412
74倉敷工の居郷―武井のバッテリーも印象深い。
居郷は、いつでも打てるようなボールだが、意外と粘り強い。
武井は、左のハードパンチャー。 >>415
80年代あたりまで八事山を車で通ると昼間から金属バットの打撃音が聞こえた。確か野球の練習は昼からやってたと思う。男子校で柄の悪いのが多かったね。 >>424
あのアホ中京から慶応へ現役で入った千賀は凄いわ >>412
77年の夏に出場した水島工は文字通りの一発屋だったんだろうな。 後の大物OBで中京商業時代に現役で慶応大進学いたね。 >>425
当時のサンデー毎日を見たら千賀は勉強の成績も学校トップで毎日どれだけきつい練習をしても2時間は机に向かって勉強していたので翌日の練習に影響することもしばしば、杉浦監督もそこまでやらなくてもとのコメントあり、900点満点の860点で2位と140点差だったかららしい。 元ダイエーの佐々木誠が投手だった年の水島工も優勝候補だったはずだが
予選で負けた。その後はパッとしない水島工。 >>427
江藤さんか、あの人も成績は抜群だったらしい >>426
左腕細川投手が選抜4強の岡山南を完封するなど好投して甲子園にきたが、本番では県大会の疲労で細川が不調、豊見城打線の餌食になった
投手頼りのチームが甲子園に来たら投手が壊れていて大敗というよくあるパターン >>313←このレスからか岡山話
この日に星野仙一さんが亡くなってたんだね、、、まるでお通夜のように岡山話が続いてる。
どうぞ安らかに眠ってください。合掌 (人) >>432
そもそも、77年は谷間世代。
岡山南は初出場で上手く嵌まってベスト4だが、絶対的なチーム力はない。従って、秋・春・夏の優勝チームは全部違う。
ちなみに、水島工は秋の準優勝校で、中国大会ではセンバツ出場校・米子東に準々決勝で1−0と惜敗。 岡山東も珍しく春夏甲子園にお休みしたし。
夏は準決勝で玉島商業に0-3に敗退。
その玉島商業を延長サヨナラで破って水島工業が出場したが。
細川は下半身が細かった印象。 岡山話はもういいだろ、秋田ので岡山スレでやってください。 >>435
岡山東商は、77年は春の中国大会で準優勝校だが、頼りになるピッチャーがいないので… 甲子園ベスト4の岡山南が負けても、「優勝候補が負けた」のがっかり感はなかったな。 甲子園出場はともかく、50代以上にとって
星野仙一、平松政次、松岡弘、大杉勝一はヒーロー 森安さん、無実を主張していたが。
星野さん、森安さんとも仲良くやってください。 もう直ぐ平成も終わるし、昭和の偉人さん達も続々と寿命が終わってくでしょうなぁ〜 水島工って、ソックスが白地に黒線が沢山だっけ?桐生みたいな。下地の豊見城に負けたんよねー?あの年には、珍しく千葉商が奇跡的に出たけど、その後はさっぱりだった。 水島工業は豊見城の小さな選手にホームラン打たれなかった? 比嘉康哲選手ですね 大会通算300号でした
九州三菱自動車野球部監督をされています >>443
千葉商は銚子商、習志野を県予選で破っての出場だったが、初戦の相手が東洋大姫路とは相手が悪すぎた。
松本の重い速球に完全に力負け、0-4と完敗。 今日は時間があったので岡山迄足を伸ばしました。コンベックスでトヨタの車みて、星野仙一記念館に行きました。星野さんに特に縁は無いんですが野球が好きなんと近県なんで記帳しました。合掌 香川54歳 >>442
ラグビーも帝京が9連覇だって、早明や同志社はどうしたんだろ
大学野球選手権や神宮大会大学の部も知らない大学ばかり
健さん、平尾さん、星野さん‥昭和は遠くになりにけり >>445
豊見城の甲子園選手で監督とかやってる人がいるんですね。知りませんでした。 派手な開幕戦の直後の試合で、有力とされながらいいとこなく消えていった習志野
まさか夏に優勝するとは
以来、早々に敗れた春の有力校が夏も出てきた場合、要注意だと思うようになった 星野さんの倉敷商と言えば、夏の甲子園の1試合最少投球数は、79年代表・片山投手の対浪商戦の65球(8回完投。未公認記録)
片山投手は球威不足で、「いつでも打てる」感じで浪商が自然に早打ちした結果こんな記録がw(浪商4−0倉敷商) あの試合は牛島、片山ともに無四球だった。4試合しか完封のなかったあの大会の貴重な一試合。
けどなあ、浪商打線が淡白だったんじゃないのな。各打者が好きに打っている感じかしたもの。上尾戦もそうだったが打線につながりがなく、敗れた池田戦も橋川の投球数は92だったかな。 >>451
金村の報徳もそうやね。センバツで初戦、槇原の大府にやられたけど金村自身は本塁打を打って気を吐いたけど、夏には打線が奮起して優勝した。
荒木大輔からも終盤に逆転勝ち、名古屋電気の工藤も攻略。 金村が直球一辺倒勝負は諦めて、変化球も投げて抑えることを会得した。 >>454
兵庫ジャッジがあるからな
報徳vs早実もあったな
金村の2ゴロを2塁手の小沢が捌いて完全にOUTがセーフだもんな
観ててシラケる
挙句の果て優勝だからな
審判の地元贔屓も眼に余る
たまにセンバツ選考の兵庫枠とかもあるし迷惑な話だ 優勝が決まったプレーが誤審ぽかったのは
中西の時の高知商のセンバツ優勝だな >>457
アホ あれは誰が見てもセーフや 帝京はレフトの肩弱すぎ 大阪ジャッジも酷いぞ
78年のPLと中京戦の9回裏西田の三塁打は誰が見ても三塁アウトだ >>440
森安の関西が米子南と対戦した時、攻略が難しいと考えた米子南は、腹にバスタオルを巻きデッドボール狙いを徹底し、まんまと逆転勝ち(四死球9)。
今じゃ、考えられない作戦だw >>460
現在では死球は全部却下(笑)
星野さんも、これで関西との対戦が無くなって、いよいよ甲子園と思ったら......(汗) >>456
八回裏のゲッツー崩れも誤審だろう。
あれで一点入ったから。
>>458
帝京のレフトは肩を痛めていたから気の毒。
あれは堀川が回り込んだからセーフ。
>>459
中京のサード辻がボールこぼしていなければアウトだな。いまビデオで見てもこぼしているかどうかよく見えない。 高知商、堀川はタッチしていません。
後に高知商の後輩に明らかにしてました。 >>456
実況の鈴木文弥アナ
「セーフにはなりましたが、小沢の素晴らしいプレーでした」 >>447
千葉商のエース野崎は珍しい左右投げ左右打ちだったよな。
で、甲子園では左右どっちで投げていたのか記憶が無い。
卒業後、ヤクルトに入団したけど、一軍に上がることなく数年で退団したな。 >>465
右で投げていた。
打ではチーム4安打のうち一人で3安打して気を吐いたが。松本にまったくお手上げだった。唯一のチャンスもダブルスチール失敗で逸機。
ヤクルトは1年で退団した。 誤審で有名なのは、79年夏の浪商対上尾の11回裏、二塁盗塁がアウトになったプレーだな。
大阪びいきというより、早く試合を終わらせろという高野連の指導があるのか?と疑いたくなるジャッジだった。
アウトと宣告されたランナーが握りしめた土を地面に叩きつけたシーンが記憶に残る。 >>466
サンキュ、甲子園では右で投げてましたか。
ヤクルトには2〜3年はいたような気がしたけど、記憶違いですね。
1年で退団っていえば、七色の変化球を操るとまでいわれた岡谷工の金丸も1年でロッテを退団。
プロでやっていけないと悟ったんだろうが、まさか40歳で交通事故死するとは・・・。 >>468
金丸は二年で退団じゃなかった?
退団後数年で事故死だったはず。20代前半で亡くなったのでは?何年かは覚えていないが。 左対左が打者不利というのは、いつ頃から言われてるのか?
いつ頃からスイッチヒッターいるの? >>469
入団直後に野手転向し、コーチとそりが合わず二軍の試合にも使ってもらえず揉めて2年で退団
その後、自動車事故で25歳でお亡くなりになりました >>471
せっかくプロ入りできたのにそんな形で退団とは無念な・・・ イチロー、落合博満のような不世出の名選手ならいざ知らず、
コーチのほうが野球で飯食ってきて経験豊富なんだから
ソリが合わないなんてのは普通は辛抱が足りんてことだろ まあプロ入り後のことはよく知らないが、81年夏の金丸の活躍は印象に残る。
予選準決勝で松商学園の7年連続出場を阻む1安打完封。
甲子園でも強打の津久見を3安打、毎回の15奪三振。
松商ではあんなに遠かった甲子園での勝利をいとも簡単に達成した。岡谷工業としては51年ぶりの勝利だった。
都城商も3安打に抑えたが、2本が加藤のホームラン、2本目が12回裏のサヨナラ打だった。
毎朝4時に起きて新聞配達して足腰を鍛えたという記事を読んだ記憶がある。 >>436
岡山の話題をやめたら、とたんに過疎ってるw >>467
あれは確かにセーフのプレーだった。
浪商がチャンスで球場の空気が変わってたことに加えて審判の立ち位置も良くなかった。スタンドが真っ白で見づらい点は同情するよ >>459
どうみてもアウトでした 西田の暴走
リアルタイムで見ていたけどサードは落球していない
愛知県ではニュースでアナウンサーが、どう見てもアウトに見えますがね、と言っていたんですよ 原、津末、村中の東海大相模に勝った今、上尾や、ノーヒットノーランの鉾田一高、戸田投手、サッシー、小山&崇徳の両黒田とか、50代成り立てホヤホヤの、しかも女の私には夢みたいな、おぼろげな記憶です。柔道の山口香さんに憧れてました 原、津末、村中の東海大相模に勝った今、上尾や、ノーヒットノーランの鉾田一高、戸田投手、サッシー、小山&崇徳の両黒田とか、50代成り立てホヤホヤの、しかも女の私には夢みたいな、おぼろげな記憶です。柔道の山口香さんに憧れてました 当時は高校野球好きなjsも居たんだな。お父さんやお兄ちゃんの影響かな。 岡谷工業って、昔は諏訪蚕糸って校名で、昭和5年の夏に甲子園で準優勝している
んですって。蚕糸がつく校名は全国的にももうないですね。昔はちょびっとあった電波
高校もみんな校名を変えてますね。頭のおかしそうなのがいそうで面白い校名だった
のですがぁ。 昭和51年夏の開幕試合は東海大相模と釧路江南だったんだよね。原選手に黄色い声援が飛んでた。
原選手は一打席目ライトにライナー打ってライトがグラブに当てて落としたのだが、
最初エラーだったと思うが 後で「ライト強襲のヒット」に変わったと思う。
・・・この時、外野強襲のヒットというのがあると知ったのでした。 俺が小坊で高校野球ファンになったのは家族の影響ではないな
しいて言えば完全中継に近かったお蔭
だからスポーツは大相撲と高校野球だけ見ていた
それと地元代表がそこそこ勝ち進んだことも原因 俺が初めて甲子園で高校野球を観たのは日大三高と大鉄の決勝戦やった。
幼馴染みの親に連れていって貰った低学年の小学生の時やからあんまり覚えてないわ。
ちなみに、その帰り梅田でソフトクリームを生まれて初めて食べた1971年の春。 初めての甲子園観戦は小学生の頃
1974年準決勝
鹿児島実 1 - 2x 防府商
銚子商 6 - 0 前橋工
翌日の決勝戦も見に連れて行ってもらったわ >>483
昭和43年夏、甲子園にあと一歩のところまで行きながら代表決定戦で負けた
三重県のジ・オリオン高校なんて話題になったでしょうね。
金策に行き詰まって、翌昭和44年に廃校になりましたが。 >>487
前橋工の向田はプロで見たかったな。
当時はプロにアンダーハンドが多かった。 高校野球見ていたおかげで良かったと思ったこと‥名字で出身県がわかることがある
例)三上、小比類巻、成田‥青森県
望月、海野、大石、杉山‥静岡県 >>492
千葉県:加瀬
静岡県:佐野
岡山県:三宅
愛媛県:矢野、越智、渡部
宮崎県:黒木 関東だけど昔の大阪私学7強は今、名前を変えてどうなってんの?
PL 、浪商、北陽、大鉄、近大付、 >>488
43年夏 三重高校ベスト8
44年春 三重高校優勝
ジ・オリオンは甲子園でもそこそこ勝てる力はあったと思う
突然現れて、突然消えてしまった不思議な学校だった >>492
かつて青森県津軽地方代表ならば『工藤』姓やな。
昨夏青森山田で見かけたけど長いこと青森代表では見てなかったな。 水島先生の「大甲子園」にリンゴ農園という高校が登場したが思わずS46年に出場し
た須坂園芸(長野)を連想した園芸高校の出場なんて後にも先にも須坂だけだよねぇw >>499
丸子実や佐久長聖で甲子園に出た中村監督が、前年度まで指導していたんだね。 武藤一邦を中心にした、秋田商業のラインナップは佐藤加藤後藤だったか、何とか藤が名を連ねてた記憶がある。 74一関商工
阿部×3、菊池×3(監督含む)、佐々木×2 >>499
昭和45年では?
平安に0-13、ヒット1本のみで完敗。 いつだったか豊見城が比嘉姓がスコアボードに並んでたように記憶してるけど違うかな >>505
比嘉姓と金城姓は沖縄のチームには必ず1人はいました。 三重:水谷、長野:宮澤、山形:金子、君島、茨城:星
秋田商は佐藤、武藤、後藤、進藤 >>503
初出場時の鶴商学園で多かったのは佐藤
ttps://www.youtube.com/watch?v=6PR_PZhjg4U >>506
沖縄県名字ランキング
1位 比嘉
2位 金城
3位 大城 愛媛は、越智、村上。高知は岡林。徳島は後藤田。鹿児島は園のつく姓(上園、中園、下園、味園)あたりがご当地の苗字 珍しい地名というか校名は石動(いするぎ)かな。何県だっけ? 高校野球を長年見て来ると役立つ事も多かったな。確か、高校入試の時に日本史の問題で播磨の国は今の何県でしょう?という問題が出題され最初はわからなかっが兵庫の東洋大姫路の校歌に播磨が出て来たのを突然思い出し、もうけた経験がある。 子供のころは甲子園の出場校でずいぶん各地の地名を覚えたな。
津久見とか習志野とか。
箕島の校歌で和歌山の有田市は「ありた」じゃなくて「ありだ」と濁るのが正しいと知ったし。
いまと違って郷土色豊かな時代だったから。 俺らは幸せだったなと思うよ。
甲子園がある国って日本だけだろ? 今では、大学の付属とか名前聞いてもどこにあるかわからない私立ばかり
われら50代以上は、高校野球が高校野球でいられた時代を過ごせて幸せ 相可、諫早、築上中部、早鞆、大社、膳所あたりが
珍名に思えた。 >>519
東京農大二が昭和55年選抜に出場した時のNHKアナウンサーは群馬県高崎市にあることを強調していたね。 済美の魔法、高知高の世界の鐘が、桜美林のオベリンナ、東洋大姫路は書写を仰げば、エエなと思った校歌。 >>523
自分は
広島商業の あー広商の我が友よ
箕島の 我等男の子の凜列の意気 凜列の意い気
習志野 君知るや ここ津田沼の花かおる丘に
これが良かった。 皆んな知ってると思われるけど、夏の大会は第〇〇回の〇〇はその大会に出る選手の3年生の生まれ年になる。
例えば第63回夏の大会だと、63年生まれ(早生まれは残念)が3年生。
春はそこからマイナス10。
今年は100回だから、2000年生まれが3年生の大会。 >>507
三重で多いのは伊藤、水谷、服部ぐらいやで 青森、三沢高校の小比類巻くん、八重沢くん
高知、高知商業の明神くん、森田くん
が印象深い。 校歌は銚子商業の印象が凄い(作詞作曲もなにやら凄い人のものらしいね)
ついで、嗚呼麗しき厳島♪の広島商業
もう甲子園では聞けないPLの永遠の学園♪かな。
70年代で聞けなかった?松山商業の校歌に印象が無いのが残念だわ。 盛岡一の校歌軍艦マーチや
上宮のお経っぽいのも印象深いな 崇徳の校歌が素晴らしい。
特に優勝したセンバツでは、勝利校の校歌で名門・崇徳グリークラブの歌声が毎回響いた。
夏はグリークラブヴver.じゃなく、ちょっと残念だった。 校歌は短ければ短いほど良い
校名が入っていない校歌が上品
明治の文人が言ったらしい
自分の母校の校歌もそれに該当するので、ちょっと誇らしい >>530
動画で見たけどコスチュームといいフラッグワークもいいな盛岡一高の。 >>531
崇徳グリークラブのハーモニーが秀逸!!
>>532
銚子商の校歌、せっかく勝ったのに呆気なさ過ぎて「校歌、もう終わり?!」 崇徳は夏より春、中村は昨年より40年前のがよかったですね >>532
法然上人が詠んだ短歌が、そのまま校歌になってる上宮、上宮太子が格調高くていいね。
♪ 月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞ澄む ♪ 尾道商業も良かったな。
野球好きで有名な詩人・作家のサトウハチローさんが作詞で、全編「〜あり」で構成されている。
作曲は、「スター誕生」の辛口審査員(?!)、松田トシさん。 習志野が新居浜商にサヨナラ勝ちして全国制覇した時の校歌斉唱には号泣するナインと大観衆の手拍子も重なり本当にジーンと来たわ。別に地元の人間ではなかったが、君知るや︵ここ津田沼の花薫る丘に︶ は完全に覚えてしまったわ。 >>541
「リンゴの歌」のサトウハチローかぁ。
校歌の中に、「闘魂ありて勝利あり」のフレーズが出て来るあたりは、高校野球が大好きな先生らしい。 広島商業の応援歌
♪宮島さんの神主がおみくじひいて申すにはいつも広商は勝ち勝ち勝っち勝っち
いいねえ(笑)
つうか銚子商業の校歌、、、ちょっとググったら
作歌:相馬御風 作曲:東儀鉄笛
こんな凄いコンビが作ったんやからやっぱり凄いわ。
どんなコネクションが有ったのか気になる(笑) >>531
自分が高校入学時のセンバツ大会でした。
中学までは野球部だったのですが、崇徳グリークラブのハーモニーに感動し、高校からは合唱に転向、アラ還の今まで続けるきっかけになりました。 崇徳も、あれから41年間甲子園で勝利がない。
出来れば、センバツでグリークラブの校歌を聴きたい。 崇徳も、あのときの決勝の相手だった小山もあの年以来甲子園で勝っていない。
小山に至っては甲子園で勝ったのはあの年の春夏だけなんだよな。 >>544
自レスだが、広商の宮島さんが始まる時の掛け声のレディーゴー!がなんともミスマッチでユニークやねんなあ。
あれが出囃しの三味線とかもいいかも。 崇徳ほど、県大会の決勝、ベスト4で敗れている高校もない。
勝ち運がないと言うか… 勝ち上がるに連れて校歌覚えますね。自分は香川ですが、小6の時新居浜商業が準優勝した。 我ら新居浜商業高校、ここに集えり のフレーズは覚えますね。 村上もイケメンだったね
大学では肩肘を痛めて外野手に転向したけど
控え投手の片岡が大学で覚醒してプロ入りしたけど >>551
まさに奇跡の逆転だな。
個人的に、一番信じられない逆転は90年夏の山陽−葛生戦。 新居浜商も前年の渡邊(高校時代の西本のライバル)のいたチームの方」が強いと思って
いたがまさか準優勝するとはvs上尾はほんといい試合やったw >>544
「宮島さん」に関しては、広商と広陵どっちが「元祖」か、今となっては証明出来ない(ちなみに、広陵は戦後すぐには歌ってたらしい)。
「2番の歌詞が存在するから広陵が元祖」との説もあるが、昔は広商も歌ってたような気が.....?!
2番の歌詞は、♪もしも広陵(広商)負けたなら、電信柱に花が咲き、絵に書いたダルマさんがゴ〜ロゴ〜ロゴ〜ロゴロ その唄はわが県にも伝わてって(というか甲子園でよく聴くますね)
「御山の森の神主がみくじを引いて申すにはきょうの試合は〇〇が勝ぁつ勝つ」 >>557
私も、広陵が元祖と聞いた覚えがあるな。
しかし、今の広陵の「宮島さん」は、こっちが元祖なのに明らかにカープの応援に寄せているから嫌い。
その点、広島商の応援は昔ながらの「宮島さん」で好感が持てるな。 >>599
2番の「バンザイ!バンザイ!」(笑)
校訓の「質実剛健」そのままの硬派な応援が売り物だったけど、今は仕様がないなぁ。 佃世代の大活躍の余韻か、山村の時の広商側のアルプスの盛り上がりは異常だった(笑)。
チアガールの人数が半端じゃなかった(他校の三倍ぐらい居た記憶)。
配られたしゃもじが割れるまで叩いた小学生時代、マジで楽しかったわ。
対して柳川、報徳らの男子校?の迫力の応援団も良かった。
動画だけど盛岡一高も最高やね。 広島商業のチェアガール
とベーマガ社発行の「甲子園讃歌」に写真入りで紹介されていた。
当時はチアガールという言葉も知られて無かったのかな。 >>561
その年の広商−広陵定期戦を、広商グランドに見に行ったな。
賑やかな広商の応援に対して、広陵の寂しいこと....。広陵が「氷河期」真っ只中だった。
試合前、広陵の選手が広商の選手に因縁つけていたwことと、広商・山村がチームメイトの出雲と「昨日、カープ初優勝で酒飲んだか?」と言う禁断の会話wをしていたのが印象に残っている。 >>563
この年の広陵は、光井(元近鉄)、河井(元電電中国)、山広(元広鉄局)とある程度タレント揃いだけど、76年はまさにどん底。
広陵が、県内でも「優勝候補」に上がらない、初めての年。 >>563
広商vs広陵の定期戦、、、豪華カードやなあ。
全国に名を轟かす両校の対戦を県内で見られるとか贅沢過ぎる。羨ましい。
つうか甲子園で観たいと思わせる黄金カードやな。 >>563
カープ初優勝の翌日となると昭和50年10月16日だな。
いまや広商が氷河期真っ只中だな。ため息。 >>566
例年は広島市民球場で行っていたが、あの年はカープの初優勝がかかっていたから、広商グランドでの開催となった。
OB戦も豪華メンバーで良かったが、現役の生徒同士はライバル意識過剰で、お世辞にもフレンドリーとは言えない関係性だったw >>568
その当時の現役生に、「宮島さんの元祖は、広商?広陵?」と聞いたら、大喧嘩になるかもw >>494
ジョニー黒木もイケメンで延岡学園で
勝ち進んでたらみんなの記憶に残って
ただろう。 そういや昔、謙信、信長って苗字の選手が甲子園出てたな〜 住吉、長谷川の時はどうやったんやろ?ベスト4だっけか。
その時は自分が高校生やったから観に行けんかった。
佐賀商業に勝ったのは朧げに覚えてるけど、、、。
住吉は手塚治虫のビッグXが巨大化した時みたいな人やと思ったわ。 >>572
投球フォームが時の左手の動きが独特だった。広商のピッチャーとしては珍しく力感あふれたタイプだった。
佐賀商、高崎商を連続完封、三回戦の豊見城も無得点に抑えていたが味方打線も下地に抑えられて延長11回、金城に本塁打を打たれて甲子園唯一の失点で敗戦投手となってしまった。 俺は関東の人間だけど佃、金光の広商見てから高校野球にはまった。江川の作新に勝った試合と
夏決勝のサヨナラスリーバントスクイズちは今も脳裏に焼き付いている。 >>572
優勝した東洋大姫路の梅谷監督が、大会前に「一番マークするチームは?」という問いに「広島商」と答えていた。 >>575
もし広商が豊見城に勝ってたら次の準々決勝で東洋と当たってたんだよね。
どんな試合になってたんだろ?1ー0とかロースコアの接戦になってた気がする。 >>576
当然、ロースコア。
願わくば、打線にもう少し力が有ったら、十分優勝戦線に食い込めたんじゃないかな。 >>573
三試合で失点1とか、やっぱりいい投手やったんやな。
印象では長谷川のリード振りが広商らしい記憶があったわ。
とにかくキビキビして気持ち良かった。 >>572
住吉は早くから「江川2世」と呼ばれ期待されていたが、コントロールが悪くエースになったのは2年生秋。
夏には見違えるほどコントロールも良くなり、決め球・パームボールも精度を増した。
残念なのは打線で、70〜80年代では一番弱かったw そういえば、75年の広陵との定期戦の時、当時1年生の住吉が新人戦で投げていたなぁ >>579
一年生の永田がレギュラーだった。打順は八番だったかな。
あの年は小技の精度もいま一つだった印象がある。 >>581
永田は6番ライト。
あのチームは、広商らしくないプレーも散見された。センターが何でもないフライを落球したり.... 広商は、77年夏のチームは「投高打低」、79年夏は「投低打高」。
戦力のバランスは難しい問題だが、甲子園とは縁がなかった80年のチームがバランス良く、個人的には好きだった。 広商はもう随分と甲子園にご無沙汰ですが、まだ復活には時間かかりそうですかね?
広陵他の私立に押されて、復活の目は無さそうでしょうか?
同じく松山商、高知商、徳島商など四国四商。 >>583
その翌年、81年夏のチームは予選でも苦戦して甲子園に出てきた覚えがある。
で、甲子園では当時弱小県だった新潟の新発田農に延長の末に負けたね。
やっぱり弱かった。 >>583
下手投げの西川?
この年だけは広陵が息を吹き返して夏の決勝で3-5で負けたのかな。
定期戦では1-11と大敗したと思う。 >>584
若松新監督が強化に取り組んでいるから、面白いことになるかもしれない!
昨夏も、準決勝で広陵に0−1で惜敗。有望選手も集まってきている。
>>585>>586
80年のチームは、79秋の県大会2回戦で、広陵に大逆転負けしてセンバツを逃したのが痛い。
あの試合がすんなり終わっていたら、センバツの準決勝で高知商と対戦したのは広商だったかも....
渡辺−原のバッテリーの広陵とは実力は互角。西川、川崎は法政大学、社会人野球でも活躍した。 80年の広陵・渡辺投手は青年の主張に出てなかったか? 俺は「精密機械」のような隙のない強い広商よりも、どこか詰めの甘い広商の方が愛着がある。
新発田農に負けたチームも、結果だけで叩かれるけど、いいチームだった。
それにしても、56広商のエース・森は何で卒業後軟式に転向してしまったのだろう。プロのスカウトも注目していたのに。
82年、広商・広陵定期戦がテレビ中継された時に、OBの森が惚れ惚れするようなボールを投げ、解説者が驚いていたのを覚えているな。 怪物江川を攻略した作新戦やサヨナラ3バントスクイズの静岡戦、80年代の中京、興南、津久見戦など、広商野球の神髄を発揮した試合も多いが、なぜか広商らしからぬつたない試合運びだったゲームも目立つな。
74年春の大分商戦、75年夏の習志野戦、81年夏の新発田農戦、83年春の横浜商戦、92年春の天理戦、94年春の宇和島東戦、02年春の鳴門工戦などは「これがあの広商か」とがっかりしたな。 新発田農戦は9回にスクイズを連続ですれば勝てたましたな。 広島商は82年夏、決勝で池田にボコボコにされて打つ方に力入れてたはずなのに、
84年夏は初戦で金足農に3−6で、普通に打ち負けてたね。
まあ金足農もベスト4まで進出したから地力はあったチームだったが。 >>593
84年夏の広商は、よく代表になれたなぁw
頼れるエース不在の中で、背番号3の西川弟が兄貴を真似て「なんちゃってアンダースロー」w >>594
「今年の夏の代表は、広商以外ならどこでもいい」と願っていたら、やっぱり…(笑) 50歳以上のおっさんが広島県の高校野球を語るスレになりました >>594
84年というと、選抜でも広陵が法政二にボコボコにされてたね。
あの年の広島はドングリの背比べ状態だったということですか。
ところで意外に知られてないが、広島県高野連は全国で唯一「試合でベンチ入り出来る県外中学出身者は
5人まででなければならない」と、具体的な数字を挙げて野球留学生を規制してた。
ところがこの規制、いつの間にか無くなっちゃって残念。
何で無くなっちゃったんだろうか? 学費の全額無償化&部活指導者の外部委託化が行われれば、
かつての地方名門公立校が復権するのではないでしょうかね >>597
個人的には、春の県大会優勝の崇徳か、センバツで優勝校・岩倉に善戦した近大福山が希望。
規制の件は、広商・畠山先生が決めたことで、亡くなった今では… >>599
あの年はどのチームも投低打高で、本格派投手は近大福山の2年生・岡田展和(元横浜)ぐらい >>575
その前年秋に広商を破った岡山南も好チームでした。
レギュラーの半分以上が眼鏡を掛けているという珍しいチーム。 >>601
上原と小倉の眼鏡バッテリーは珍しいんじゃないか >>601
その年の中国大会は「前年と比べてスケールダウン」と言う理由で、出場枠は−1。
そうそう、崇徳のような力の有るチームは出てこないのに..... 中国の枠、74年の「5」から75年は「3」に一挙に減らされている。
レベル的には、両年、変わらないのに。 >>605
76年 崇徳 岡山東商(防御率0,25の原) 宇部工(練習試合含め1敗のみ)
大社 3校がサンデー毎日の評価90点以上
77年 岡山南 瀬戸内 米子東 90点以上なし
普通に全体のレベルもスケールダウンだが ていうか、73年、74年の5枠はいくらなんでも多すぎだろう。
両年とも東北は1枠なのに。 広陵が夏の全国優勝がないのは高校野球七不思議の一つ。
そりゃそうだが、金本がどっかで言ってたが、広商関係者にそれを言われると、カチンとくるそうだ。 >>610
>広陵が夏の全国優勝がないのは高校野球七不思議の一つ。
広陵よりも東邦の方が不思議なんじゃないか >>610
昔は、広商生と広陵生が表立って親しくする事は厳禁だった。
今は、どんな空気感?! >>611
広陵は夏4回準優勝。
対して東邦は夏の準優勝は77年の1回だけ。
やはり広陵のほうが不思議だろう。 広陵は中等野球の草創期からの伝統校だから、東邦より活躍してる期間はだいぶ長い、つうか中京よりちょっと長いか。
ま、両校とも優勝してて可笑しく無いよな。 というか、激闘&栄光、のサイトの掲示板は去年の4月から止まってんのかな?
たまに覗いてたけど、久しぶりに見たら工事中になってた。
ちょっと気になる…。 >>603
昔は「眼鏡をかけた捕手はダメだ」と言われていた。ヤクルトの古田の出現で迷信となったが、高性能の眼鏡がなかった昔は眼鏡の捕手は大変だったと思う。
眼鏡の捕手というと、同じ77年の東邦の大矢かな。
投手は、戦前の嶋清一(海草中)はともかく、新浦(静岡商)、奥田(大鉄)、有田(北陽)、野口(米子東)、三谷(今治西)、宮田(浜松西)あたりが思い浮かぶ。 >>589
あのフォームは今見てもものすごい二段モーションじゃないですか? >>588
これから、君の投球フォームは禁止します。と審判から告げられた時私は涙が留まりませんでした。という話だったと思う。自分より一学年上。めちゃくちゃ親近感が湧いた。苦労して考えて編み出した技術やのに。他人事と思えなかった。 >>618
センバツでも広島大会でも、何の注意も受けなかったので「フォームはOK」だと思っていたのに、負けた途端に面と向かって「ごまかし」だの言われたら、ブチキレるしかないw 80年というと、巨人から阪神にトレードされた小林繁が全盛だった頃だよね。
サブマリンの途中で止まるようなモーションが悪いという認識は一般にも無かったよ。 >>618
もっと凄い二段モーションがあるぞ!
盈進の山口と言うw あの渡辺の二段モーションは選抜のときにも違反なのでは?という声が上がっていた。
前年の箕島の石井も二段モーションくさかったが、渡辺のは明らかに二段モーションだった。
なぜ地方大会の段階で二段モーションと注意しなかったのか。
そして選抜のあとにも注意しようとすればできたはずたが高野連はなぜしなかったのか。
地方ではOK、甲子園ではダメではなんとも不統一。
渡辺は最初弁論で語ろうとしたのは高野連のそうした対応の悪さについてだったそうだ。
しかし「高野連批判になるからその点は抑えて」と関係者から釘をさされ、この悔しさを糧にこれからも頑張るという内容にしたと大学時代にインタビューで話していた。 それは関係者が正しいと思う。
青年の主張は高野連への恨みつらみを述べる場ではないからなあ。 >>623
山口はヤバいぞ!
一旦、フォームが静止してるww
昔は、二段モーションの基準がユルユルだったのか… 山口で思い出したが、74年夏の広島決勝は盈進対竹原という予想外の顔合わせ。
前年全国制覇の広商が二戦目で呉港に0-1とまさかの敗戦。呉港は不祥事で前年は対外試合禁止になっていた。
竹原の投手はプロ入りした望月だった。 >>629
広商が敗退後、ガチガチの優勝候補に成り上がった崇徳も、竹原・望月の前にまさかの敗退。
「どちらが甲子園に行っても、恥をかくのが落ち」という状況になったw 二段モーションの話題で思い出した
レッズが来た日米野球の時、小林繁の投法を見て
レッズの選手名は忘れたが「彼の投法はインチキだ」みたいな発言したが
日本では「??」みたいな感じだった
小林繁が投げる時はえらくレッズのベンチが盛り上がってたのを覚えてる
今、思うと馬鹿にしたような笑いだったと想像つくなあ >>631
ちなみに、竹原・望月はプロ入り後、小林繁のフォームを参考に、ゴリゴリの二段モーションになった(笑) >>632
望月はプロ初勝利が二段モーションの師匠?小林の巨人戦だった。
ロッテにトレードされた年の日本ハム戦で三者連続デッドボール(史上初)を与えるという、ノーコンを如実に物語る記録を作った。 盈進の山口の卒業後の進路知ってる人いる?
その後が気になる。 >>634
広商の田所、浜中らと一緒に、法政大学に進学。
浜中は野球部に馴染めず、退部した。 眼鏡の捕手で思い出すのは、江川の作新学院に勝った銚子商業の主将木川捕手。
銚子商業を担当したプラカード嬢と結婚したとNumberの記事で読んだ。 >>630
当時の崇徳は凄かった。
主将の聖川は亜大の4番。中川は駒大で石毛(元西武)と二遊間コンビ。
1つ上の藤原、福井はドラフト指名。山口は駒大でオールジャパン。そして、主将の森本は人気番組「料理の鉄人」3代目「和の鉄人」w
そういえば、74年チームでは当時1年生の黒田が公式戦デビューを果たした。 >>637
もう1つ上の黒紙(亜大−東芝)は、都市対抗で橋戸賞。
この時期は広商全盛期だったけど、崇徳も是非とも甲子園に出てほしい高校でした。
ひょっとして、76年のチームより強かったかも?! 広島と言えば、長らく呉港の名を聞いてないな。
軍港がなくなって街が小さくなった影響で、戦後弱くなったのだろうが。
私学で強豪としてのブランドもあるのだから、強化できそうな気もするが。 崇徳は74年秋の神宮大会に出場したが、日大山形の金子にノーヒットノーランをくらって0-12で大敗している。山崎がスタメンで出ていた。
なので、その後の確変ぶりがすごいと思った。 >>639
広商OBの佐々木幸治さんが指導に当たり、復活を目指している。 あの勇姿を甲子園で観たいな、広商。
校歌も宮島さんもアルプスでしゃもじを叩いて歌いたい。 最早現在の高校生達は松山商業、広島商業って言う学校があることすら知らないのが実情、さみしい限りです >>635
山口が法大で試合に出ていたかは、わからないなぁ。
当時の法大の広島勢は、広商の金光、楠原、佃、谷をはじめ、国山(広陵)、福島(竹原)が試合に出ていた。 >>632
望月がプロ入りにした年、春の1軍のオープン戦で顔見せ興行的に1位の堂園(鹿児島商)とともに投げたな。
望月はある程度まとまりを見せたが、堂園のコントロールが……(苦笑) >>635
thx
山口はレベルの高い法政で出番はあったのかな? >>644
読んでなかった。ごめん。
山口のあの投法では大学野球では違和感があって
受け容れられなかったかもね。 >>647
大学では外野手。
もともと打撃は得意で、2年生の夏・準決勝で崇徳・藤原(元阪神)からホームランを打った。 >>645
74年ドラフト 広島
1位 堂園喜義(鹿児島商)
2位 望月卓也(竹原)
3位 高橋慶彦(城西) 広島といえば俺は尾道商業の校章のエンブレムのマークの入った帽子が格好良かったわ
。胸にONOSHO,またあのユニ姿が甲子園でみたい。 広陵といえば思い出すのはハンチン帽の宇根、佐伯のピッチング姿だよね
。ユニは平安と同じく純白であれはあれでよかったな。 >>651
「ハンチン」だけは残して欲しかった!
佐伯も入団した年の春のオープン戦で、2位の永本(盈進)と「顔見せ」があった。
残念ながら、5位の金城(此花商)は登場しなかったw >>652
スレチだが、佐伯、永本、金城は70年ドラフトの三羽烏だが、全員トレードされたな。
とくに佐伯は大々的に球団がPRしていただけにトレードされたときは意外に思ったものだ。通算成績も88勝100敗だったか、高校時代のウルトラぶりを考えるといま一つだった。
金城も自動車事故で回復したと思ったらトレードに出されたな。 広陵の宇根で思い出したが、
決勝はわずか2回目の出場の新鋭習志野に1-7で大敗。
千葉県勢に初優勝を献上している。
夏2連覇を狙った中京が習志野に敗退した時点で、
当時の人は広陵の優勝と思っただろうか?
習志野は準決勝で中京、決勝で広陵という伝統校を破り優勝。
多分、当時、ノーマークだったと思うが、アッと驚く優勝だったんだろうか。 習志野対中京は準決勝の第一試合。
第二試合は広陵対市和歌山商。
市和歌山商には選抜でノーヒットノーランを演じた左腕の野上(南海入り)がいて評判が高かった。
大会前の下馬評は報徳、大分商、市和歌山商、中京が4強で、広陵も実は評価は高くなかった。
なので準決勝は二試合とも意外な結果に終わったのではなかったか。習志野と広陵はどちらが勝ってもおかしくないという感じだったのでは?伝統がない分だけ習志野のほうが意外に感じられたと思うが。 >>651
佐伯については、富山商戦の1安打15奪三振のピッチングはよく覚えている。
「公務災害」の肩痛さえ発症しなければ、ずっと広島にいて北別府以上の勝ち星を挙げただろう。
宇根は、リアルタイムでは記憶にない。 >>656
67年の広陵には、正直、県民も期待してなかった。
山本和行(元阪神)擁する広商が、当然甲子園に行くもんだと思っていたし、おまけに、決勝戦で宇根が指に怪我をしてしまったし…。
したがって、甲子園ではあれよあれよのうちに勝ち進み、「もう決勝?!」って感じ。 >>659
67年の広陵は「広陵野球部史上最弱」と言われていたらしい。
仮に広商が出たら、前年と同じように優勝候補に挙げられた模様。
なお、宇根の指の手術は、感覚が鈍るのを嫌って麻酔を使わずにやった......(汗) >>658
富山商戦は毎回の15奪三振だったが、九回は三人とも3球三振だったはず。
富山商は初戦では高松商の大北に全員の16三振を奪われ、つづく佐伯には毎回の15三振。二試合で31の三振を喫した。 >>624
あの春の時の広陵って隠し玉を使ってアウトにしたの二試合あったよな
諫早戦9回のピンチはそれでしのいで勝った
これは見てたんだが、初戦の東海大四戦でもやってたらしいな
何かそれを批判するようなのを雑誌か新聞で読んだ覚えある
まあルールの範囲内だから問題ないが、高野連とか審判団はそういう批判に敏感だからね
多少は広陵によくないイメージもたれてたのかも 宇根はなんで近大に行ったの?
同じ関西圏に同志社、立命館があるし、
東京なら、明治、法政はもちろんだが、早稲田にも行けたと思うが・・。 >>657
習志野の市原監督は、試合後のインタビューで「中京は田舎野球」と発言してしまい、
大会終了後に、校長に速攻で監督を解任されたんだよな・・・。 宇根が進学した頃の近畿大は後のミスターロッテの有藤や藤原(元・南海)といった
強打者が揃っていたから選んだんでは同志社や立命館は当時は低迷していた。
東京へいかなかった理由はわからないが卒業後の就職も地元の電々中国だったぐらい
やから個人的(家庭の事情か)に東の方に行きたくなかったのかも・・・ >>661
富山商は大北から16三振もしてよく高松商に勝ったな。 宇根が3年生の時の広陵と、佐伯が3年生の時の広陵はともに甲子園でも優勝候補に挙げられていたが、内容的には全然違う。
特に、監督が変わった事も大きく、佐伯の代は攻守にちぐはぐ続き。援護ももらえず佐伯も可哀想だった。 >>667
今年のセンバツには、両校とも出場が有力。
再戦で今度は高松商に勝って貰いたい! >>667
高松商は渡辺一大北一渡辺一大北の継投だった。渡辺が一点を先制されたが、大北は富山商打線をノーヒットに抑えていた。
七回に追いついて延長戦。11回裏に高松が無死満塁とサヨナラのチャンスだったが、富山商の津田が絶体絶命のピンチを切り抜けた。
直後の12回表、四球のランナーが盗塁などで二死三塁となった後、稲葉(だったと思う)が三塁前に意表を突くセーフティバント。これが決まって内野安打となりまさかの決勝点となった。大北が許した唯一の安打、16三振を奪いながら敗戦投手となった。 >>671
高松商は、58回銚子商戦、60回仙台育英戦、61回茨城明野戦と延長で力尽くことがよくあったな。 >>659
山本和行曰く「私の高校時代の最大のライバルは、村田兆治(福山電波工)と大田垣耕造(尾道商)でした。」 宇根の甲子園ラストの試合は準々第四試合で遅いナイターになってしまい
そのせいか守備がボロボロで自滅
なんとも後味が悪い・・・・ 高松商かな、夏の延長でサヨナラデッドボールで負けた 宇根が3年生の時、優勝候補は広陵と武相だったが、確か序盤で当たったのでは? >>675
たしか春の箕島戦は5失策、夏の倉敷工業戦は6失策と乱れまくって敗れた。
倉敷工業には秋の中国大会では1-0で勝っていたが…
これで三原監督が更迭されたんだよね。 広島・岡山のくくりで見た時に、その代ほど揃って全国レベルだったことはないと思う。
秋の中国地区4強は広島2校(広陵・尾道商)と岡山2校(倉敷工・岡山東商)
センバツは準決勝で尾道商と倉敷工が対戦
夏は準々決勝で広陵と倉敷工が対戦
際どく一度も甲子園に出れなかった岡山東商の奥江投手も後にプロで活躍 >>670
犬を連れてたから、電車に乗れなかったんだろうな。 67年夏の決勝で広陵は習志野に1-7と大敗して初優勝を許したが、二年後の春の招待試合で佐伯が完全試合を達成、9-0で雪辱している。 電車やバス、自動車がない頃はやはり江戸時代みたいに徒歩で甲子園まで行きましたか?船? 宇根さんは数年前にTVで見かけた
何かのローカルなイベントで投球してたよ
もちろん爺さんになってたけど 銚子商、広島商、箕島、習志野、上尾、享栄、岡山東商、松山商。
また甲子園で見たいチーム。
高松商、広陵、熊本工、県岐阜商、松商学園、早実、東邦は最近も見かける。 初めて買ったペナントは市神港だわ。ずっと部屋に飾ってた 河地の押し出しデッドボールはヘルメットの耳に当たった今で言う危険球
打者はスタスタ一塁へ走って行ったけどね >>677
2回戦で当たったな。組み合わせを決める会場のどよめきが、なかなか収まらなかった。
試合の模様は、映画監督の市川崑さんが映画「青春」の中で、注目のカードとして取り上げている。
宇根、島野の緊張感がひしひしと伝わってくる、いい映画だ。 >>678
三原監督の辞任はエラー云々とは全然関係なく、単に自らの方針が校長と合わず、自分から辞任した。 宇根も佐伯も選抜で負けたのは箕島(東尾・s43/島本・s45)じゃなかったかな巡り
あわせか・・・ >>683
当時、ガキだった俺は左腕、宇根のピッチングフォームに憧れたな。一度足を上げた後、左足かかとを跳ね上げるあの独特なフォーム。いまでいえばドジャースのエースみたいな投げ方だったな。 中京と習志野の準決勝は当時ラジオで聴いていたか、中京はランナーは出すが、ことごとく石井投手の牽制球にひっかかりチャンスを潰していたな。後の習志野の小川も牽制球が上手かったから石井の教え方が良かったんだろうな。 当時は
中京、平安、広陵、の伝統校は力があったよな。
ユニといい、帽子といい試合前から威圧感が凄かった。関東としてはやりたくない相手だったな。 宇根はマウンド上でボールを上にスナップしていた。
これはカーブの切れを良くしようと日頃の習慣が癖になっただけらしいが、ピンチになると間を取るという意味もあったんだろう。
小さな大投手=今川(秋田商)、上田(三池工業)、宇根、田村(磐城) >>660
有名な話。
まぁ、投手力だけでも、2年前のエースがサンケイのドラフト1位・河本和明。前年のエースが後にドラフト1位、2位指名を拒否した田村忠義。
この状況で、ぽっと出の2年生エースでは太刀打ちできない(笑)
それにしても、怪我を克服して、宇根の伸び率は計り知れないものだったろう。 三原監督もドカベンの徳川監督ばりに広島から福井そして京都へと新興高校を鍛えて
甲子園へ出場させ今なら珍しくないだろが当時は話題になってTVにでた記憶がある・・・ >>694
鋼管福山・田村は、相思相愛の広島が1位指名する前に、太平洋が指名。
プロ入りの機会を奪われた。
社会人野球・広島大会で、田村のノーヒットノーランを見た。
とにかく、シュートの切れがえげつない!w >>670
それは土佐丸ではなく岩手の弁慶高校だな
確か福岡高校がモデルだったはず。
栃木の江川学院はどうみても作新だなモデルは 高松商業は、エエ所迄いくんだがもう一押し足りない。がつーんと突き抜ける力が欲しい。 >>696
目の前で田村を指名されて焦った広島は事前あいさつもしていなかった鹿児島商の堂園喜義を指名。
指名後にスカウトが堂園の実家にあいさつに行ったら「12球団のなかで事前にあいさつに来なかったのは広島だけですが」と家族に言われたらしい。
広島は二年後も相思相愛の崇徳の黒田を二つ手前の日ハムにさらわれてしまったな。 >>692
68年選抜の3強=広陵、平安、中京
1回戦で広陵と中京が激突。 >>696
崇徳・黒田に拒否された日本ハムは、結局、1位〜3位まで逃げられたw
ざまぁ!ww >>700
その3強、いずれもエースはサウスポーで、力は拮抗していた。
平安は、春・夏とも大宮工に敗れて屈辱だったろう。 小兵の宇根ではさすがにプロでは通用しなかった?
宇根をリアルタイムで見た人教えてクレメンス。 50代のオッサンとはいえ、50年前は幼稚園だろ
よく覚えてんなw >>704
当然、プロでも投球術を高く評価され、俎上には登った。 >>703
自分はTVで試合前の投球練習から見ていたが、ちょうどカーショーみたいな感じで一度、かかとを大きく上に跳ね上げて快速球を投げていた。とにかく格好良くてフォームを良く真似をしていた。 金本が、野球殿堂入りした。
金本の頃の広陵は、前チームが優勝候補筆頭の推されていたのに対し、低迷に終始した。
揃ってセンバツベスト8の広島工、尾道商。春の中国大会優勝の広島商が優勝候補で、広陵は春の県大会でも無名の大門に敗れた。
夏は、1回戦で広島商との黄金カードとなったが、力の差は歴然としていた。
金本自身も、こんな凄い選手になるとは思いもしなかった。 カープのスカウトに選手を見る目があったということかな >>709
大学ではある程度活躍したが、まだまだ非力。
広島出身と言うことで「まぁ、取っとくかぁ〜」ってとこ?! そういえば宇根のかかとを大きく跳ね上げるフォームを見て、学校であれはプレートからはなれ プレートから一度離れるからボークじゃねえか?いや、つま先は残っているからボークではない。と論争になった記憶があるな
。 >>708
高校時代は、「知憲」ではなく「博成」と名乗っていたな。 >>712
あのフォームは少しでも大きく見せようとしたのかな。ヒールアップといえは、もう晩年だったけど西鉄の稲尾、その後継者として池永がプロでやっていたけどその影響だったのか? >>712
あのフォームは、大学時代には止めたな。
今、映画「青春」を見ているが、踵が浮き上ってはいない。せいぜい江川(作新学院)、土屋(銚子商)ぐらい。
それにしても、負けた武相ナインの号泣が凄い! 全国制覇を真剣に目指していたんだろうな。
それと、開会式の入場行進から髭面! 今の高校野球では有り得ない(笑) 原辰徳
村中
津末
岡部
森
五人もプロに行った東海大相模って凄いな >>715
武相の補欠に、東門さんがいた。
早大時代に日米野球のプレー中、不慮の事故死を遂げた。
「青春」では、2年生の東門さんは泣いていない。 東門明さんは72年の第1回日米野球で送球を頭に受けて亡くなったが、このとき大学二年生だった。
武相時代は甲子園に出ていたのか、知らなかった。 >>718
背番号13。
試合では、出番はなかった。 >>722
いま調べたら森は阪急5位指名を蹴って大学に行ったんだね
佐藤功、佐藤勉兄弟などタレント軍団だったね 原、津末、村中、森、佐藤勉は東海大。
佐藤功は一浪して早大。
高卒と同時にプロ入りしたのは岡部だけ。
進学組は原、村中を除き大学では伸び悩んだな。とくに津末は腰を痛めてから劣化してしまった。大学卒業時はドラフト外で日ハム入りだった。 >>698
70年の夏は高松商−広島商の試合が、ベストゲームとして挙げられた。
大北と日高の投げ合いは、見ごたえがあった。
さすがの大北も、PL学園戦では完全なガス欠w 70年夏に春夏連続出場した江津工のエースは中日の三沢淳だったの?
江津工てこの時だけしか出てないよな >>726
広陵・佐伯がライバルと挙げたのは、島本(箕島)でも湯口(岐阜短大付)でもなく、日高(広島商)。
中学時代からの、因縁のライバルだった。 >>716
>>721
二人ともいいかげんなこと書くな。
記憶違いもあるだろうが、きちんと確認してから書くように。 京都商業の井口も小柄らしからぬダイナミックな投法じゃなかった? >>727
そう。
夏の予選無失点で甲子園出場。
初戦の鹿児島商工も完封。 ダイナミックなフォームなら能代の高松が一番記憶に残っているな。
簑島戦の立ち上がりだけ失敗した。 >>732
ビデオが見たいよ、左腕の高松
ジャイアンツ風のユニが懐かしいよ プロには行かなかったが甲子園で活躍したのは投手
丸山 プロには行かなかったが甲子園で活躍した選手
投手
丸山(興国),田村(磐城),佃(広島商),村上(新居浜商),坂本(東邦),井口(京都商),森(高知商),
打者
楠原(広島商),明神(高知商),阿久沢(桐生),近沢(中京),藤井(宇部商) あたりかな。 >>735
井口は社会人トヨタ自動車のエースで活躍
丸山は早稲田大でリーグ戦優勝投手
楠原は法政大で1年秋からレギュラー、社会人でも活躍
逆に次のステージでは不遇だった選手も多い
阿久沢は自ら華やかな場から退場した感じだが なかでも京都商、井口の準決勝、鎮西戦で見せたピッチングは物凄かったわな。早い投球モーションから落差のあるカーブを低めに落として、バッタバッタと三振を奪っていた。決勝でも金村の報徳学園よりも京都商、応援していたが残業だった。 >>738
丸山は一度もリーグ優勝していない。
早稲田は丸山在学の69年春から72年秋の8シーズン優勝なしの暗黒時代だった。
甲子園での名選手として、広島商の金光、土佐の玉川も挙げたいな。 井口の時の京都商業は、外野手は在日。韓、鄭、金原。対する報徳は金村。何処の国の野球だ? >>735
その中でプロに指名されたであろう本物は阿久沢だな。
あれだけの大型打者がプロ入りしなかったのは、
あまりにももったいなかった。
後は桐蔭学園の志村とか また二回戦の井口の京都商と渡辺久信の前橋工の対戦も見応えがあったな。試合は予想外の展開になり、打撃戦になったが最後は京都商が5サヨナラ勝ちした。渡辺久信はまだ1年で以後も期待されたが甲子園はこの1回だけだった。 東門が青春に映っているのか・・
太田幸司は映ってそうだが
あの時ロイヤルボックスはバックネット裏じゃなく
一塁内野スタンドに作ったんだよな
まるでファールボールにご注意くださいだな 今年は第100回記念、明治150年記念だが・・
皇太子ご夫妻を招いたり、映画作ったりしないのかね? TVの特番や皇太子の開幕戦の始球式はあるかもしれんねぇ >>748
映画「青春」は、甲子園大会のみにフィーチャーしたものではなく、大会に向かう過程からスポットを当てている。
当時の中京、平安等の名門校の練習から、北国の無名校の工夫した練習など。
甲子園大会では、特に興南の奮闘ぶりと興国の活躍かな。
もしも映画を作るなら、今のタッチの「青春」を見てみたい。 >>731
まるで87年一関商工のエース渡辺みたいだな。彼も岩手予選全試合無失点、甲子園一回戦 宇和島東を完封
しかし70年代の鹿児島勢て定岡の鹿実以外は弱かったんだな >>751
予選無失点・甲子園初戦完封なら、72年の工藤(苫小牧工)や81年の宮田(浜松西)も 77年三浦(福島商)、78年大久保(仙台育英)もそうだね。
いまはチームとしても予選全試合完封って見られないな。 苫小牧工の工藤は初戦の相手が宮古水産だったからねえ。
次の津久見には大量失点で敗れた。 苫小牧工の工藤は春夏連続出場。夏の予選決勝では函館有斗の佐藤義則(日大〜阪急、オリックス)に投げ勝った。
法政に進んだが、江川が二学年下にいたから出番はなかったな。その年の夏に出た秋田市立の船木も法政で江川の陰に隠れてしまったが、船木は最後のシーズンで少し活躍したな。 >>751
定岡の鹿実も、甲子園ではくじ運に恵まれ上位進出。
大会前は、全くのノーマーク。
その年の鹿児島大会の優勝候補は、センバツで優勝校・報徳学園に惜敗したエース堂園の鹿商。 鹿児島と言えば、海軍?の軍服でアルプスに登場する人が名物だったな。
いきなりアルプスの雰囲気が変わったので、何が起きたのか?
と思っていたら軍服おじさん登場・・生で拝見出来てラッキーだった。
もう一試合が沖縄代表だったが、声を出して応援している俺を
ウチナーの人間と思ったのか、隣の席のおばさんが立ち上がる時に
断りなしに俺の肩を使う。アルプスは同窓会でもあり、お祭りの場でもあるな。 >>637
達川(広島商)も、崇徳にほぼ入学が決まっていた。
教師のアドバイスを振り切り(?!)、ダメもとで受験した広島商に幸運にも合格した。 達川は、外野手から捕手に転向したのは3年のセンバツから。
崇徳に行っていたら、外野手のままの可能性大。 >>758
鹿児島の軍服おじさんはサーベルを持ってたよな。
今なら球場に入れてもらえないだろw
いや、その前に乗り物にも乗せてもらえないだろw
当時は大らかな時代だったな。 >>761
外野とアルプスの間が応援団の出入り口なんだが、
入場してくる応援団に、竹籠に入れた紙吹雪をかける爺さんも居たな。
野球を楽しむというより人生を楽しむ雰囲気が有った。 久々に見たら岡山の書き込みばかりでびっくり。広島盈進の山口投手は、確か法政大学に進学したが直ぐ退部しました。今は大手の不動産販売会社勤務(もう定年で退職しているか?)
当時の盈進の監督は、今の岡山理大付属の早川監督のお父さん。又、法政大学の同期が居郷(現在西武ライオンズ球団社長。)、ソフトバンク内川選手の親父等がいました。 銚子商業や新湊の大漁旗とか、
山梨代表チームの孫子の旗とか、
そういう地方的な風情がなくなったな。 代表チームの地方色みたいな個性も無くなったね。みんな野球エリートみたいなのばっかりだ。 予選でノーノーを連発したのが江川と権というピッチャー
特に江川は予選でほとんどヒットを打たれていない 東門選手が「青春」に出てるとすると1年生夏でのベンチ入りですよね?
東門選手の不幸な事故は藤波選手の打撃機会の時であって、確か静岡商
藤波選手の準決勝での神業スクイズも「青春」に出てなかったかなあ
不思議な偶然に鳥肌が・・・ >>767
東門選手の登場シーンは、入場行進と広陵に敗れてベンチ前に整列するシーン。
キャプテンから数えて4人目の、長身、童顔の少年が東門選手。
背番号は、奇しくも亡くなった時につけていた「13」。
藤波選手の、飛びつくようなスクイズも取り上げられた。 >>768
佐藤政夫(元ロッテ)の、東北高時代の「コンニャク投法」も見られる。
プロ入りしてから、工夫してあの変則フォームになったのかと思ったら、もとから…w >>770
佐藤政は、後に東北、九州国際大付の監督になったエース・若生の控え投手。
この大会は若生をはじめ、興南・我喜屋(興南監督)、小山・鈴木(日大藤沢監督)等名監督が誕生した。 原辰徳時代の東海大相模は、衝撃的だった。
自分は、津末の対釧路江南戦の2本のホームランを甲子園の外野席で見た。あの当時縦縞のユニフォームが凄くカッコよく見えた。3年の夏、小山の黒田に簡単に押さえられ0-1で敗北。時は流れて、、、盗撮で黒田が逮捕されるとは、、、。
あの当時の相模の選手は皆丸暗記していた。
原辰徳の2つ下にカープの田中選手の父親がいて2年の時、控えで甲子園出場。同級生の柔道の山下の弟は、レギュラー。
田中の弟も今年巨人にはいったけど、真ん中の
次男も日大三高に行かずに、東海大相模に行っていたらプロに行けたかな?大学は、明治学院大学だったけど、、、 今でも決して忘れられないのがPLの水谷の顔。
水谷の卒業後を知ってる人いる? >>773
サードの水谷はエラの張った顔してた記憶があるわ >>772
開会式直後の小雨のなかの第一試合だったな。
釧路江南のアルプスで観ました。間隔の狭い縦縞でいまよりもブルーなユ二で東海大相模といえばあのユニ
フォームが好きだった。小山との試合は三塁アルプス
から観た。あの時代は学校名の入った手ぬぐいを配ってくれる学校があって、よくアルプスで試合を観ました。村中のワイルドピッチが本当に残念だった。大阪
出身ですが何故か洗練された感じの東海大相模が好き
で春夏ほとんどの試合をみた。同じ日に中京の試合も観た。ここでも出てきた千賀は投打に凄い選手でしたね。 >>774
サッシー酒井が飛び蹴りしたのも水谷の顔がベースに見えたせいか?
冗談はともかく、三年前のNHKの県別ふるさとのベストゲームであのシーンの映像を流したのには驚いたな。ああいうラフプレーは従来のNHKにしてみればNGだろうが、NHKも変わってきたなと感じたな。 県別ふるさとのベストゲームという企画は全く不愉快だった。
ベストゲームは個人個人の中にあるものであって、勝手に決めるなんて、おこがましいんだよ。 甲子園はもっと早く外野無料をやめればよかった
500円ポッキリでも安いものだろ
高野連の収入が増えたからどうこうはなかろうが、外野スタンドの段数を増やして
アルプスと揃えて欲しいな
満員で4.7万人は物足りない 東海大相模は、77年夏におお恥かかされて以降、歯車が狂い最悪の「氷河期」に突入するw >>778
見た年代によってランキングやベストゲームはまったく違うはずで一概に決められるものではない。 記念大会の特番を造るなら国営放送独自の視点で日の当たらない学校とか選手をクロー
ズアップする企画を考えてもらいたい銀河系軍団・等の特番なら民間の放送局でもやる
しねぇ・・・ 高知商業の上田修身と上田卓也の
上田コンビ懐かしな〜。 あの企画は映像の残っている試合の中からNHKの各県放送局が独断と偏見で試合をピックアップしたんだろうな。
局員も昔のこと、かつ高校野球のことを知らないのが多いのだろうな、なんでこんな試合選ぶの、と首をかしげたくなる試合もあったな。
変にインタビューとか編集したりして、どうせやるなら試合そのものを見せろよと言いたくなった。
まあ73年夏の広商対静岡、74年夏の鹿児島実対東海大相模とかの映像が見られたのはよかったけどね。
今夏の100回大会記念でNHKが企画特集を制作中と関係者から聞いたので多少は期待している。 >>778
NHKが思うベストゲームなんだから別にいいじゃないか。
個人個人のベストゲームは人それぞれ思い入れによって
変わってくるのは当たり前。 NHKの中継は昭和53年春はまだバックネット側からの中継で、夏もバックネット側からと思うのだが。
昭和54年春からバックスクリーン側から中継と記憶してる自分は間違っているのか。
昭和52年春に地元の高校が選抜に出場し、地元テレビの民放でも中継があったのだが、
この時自分は初めてバックスクリーン側からの中継を見たのです。
バックスクリーン側から一台のカメラの中継だったので球場でセンター方向から見てるような感覚でした。 >>787
NHKは、78年春もバックスクリーン側から中継している。
ただし、メインはバックネット側。 >>786
ワオー!って驚く映像ですね。
アナウンサーの語りが少し古臭い・・高橋桂三さん想起。
ピッチャーのワインドアップが大きい。
夢中になって見ているとバックネットは、そんなに気にならない。
いずれにせよ綺麗で貴重な映像なので感謝です。 >>788
ありがとう
786さんの出してくれた映像でも6回にバックスクリーン側からの中継やってたね。
NHKはバックスクリーンのレフト側で民法はライト側になっているのは、
ショバ代の関係か。 NHKの放送が完全にバックスクリーン側からの中継になったのは79年夏からだと思う。
箕島星稜戦はバックスクリーンからの映像。
79年春の試合のビデオを見るとメインはまだバックネット側からだった。
78年春から79年春までは移行期だったのか、バックネット側がメインだが、ときたまバックスクリーン側からの中継のイニングが混ざるな。 PL学園の水谷は、卒業後主将松下、6番永田と中央大学に進学。しかし永田と直ぐ退部。
3番の古沢も亜細亜大学に進学したが退部。
永田はディプロで一時野球をやっていた。エース、中村は、早くして亡くなられたと思う。
当時の鶴岡監督さんの弟が、今PL学園野球部
OB会会長。そしてミズノ常務執行役員。
息子2人は、早稲田、慶應大学野球部。
無理だけどPL学園復活して欲しい。 >>776
東海大相模×小山戦バックネット裏で見ました。
前年、準決勝を現地観戦する予定でしたが、相模が上尾にまさかの敗戦。
原ファンだった私は「今年は絶対原が見たい」と親にせがんでの観戦でした。
物凄い観衆で、父と兄、母と私が離れた席で観戦する羽目に。
大好きな原が最後のバッターとなり、大ショックでしたよ。
第2試合は中京高校が登場しましたが、観客は激減。ソフトバンクの千賀投手のお父さんが、エースで四番でした。 >>794
ソフトバンク・千賀の父親じゃないぞww NHKの中継で完全にセンターカメラになったのは>>792の方が言われるように、79年夏からです。
79年春はまだ、バックネットからがメインです。
(youtubeにある鶴商学園−天理をご覧ください) >>786
この試合、当時1年生でベンチ入りできなかった とんねるずの石橋がアルプススタンドで応援してたんだな
しかし78年から80年の間で石橋の世代だけが甲子園に出れず弱かったと本人が言ってたけど、レギュラーに二人も石橋と同期の選手がいるし、そんなにレベルが低いわけでもなかったんだな まあ、この頃の「帝京」と言えば、
何といってもサッカーだわな。
当時は日本一のサッカーのブランド校。
その帝京が数年後には、
帝京と言えば?と問われたら、
サッカーと野球と言われるようになったからな。
何だかんだ言って前田さんは凄いわ。 >>787
自分は香川ですが。・・・昭和53年選抜の高商VS浪商。河地投手のセンターからの映像の記憶があります。浪商に勝ったのは嬉しかったな(笑)牛島、香川に勝ったんだよ 「あの時、新2年生の牛島はストレート一本で変化球を投げて無かった」
つうのは有名であちこちで聞いたけど、実際はナチュラルに変化するストレートが武器やった。
大リーグで「ムービングファーストボール」が話題になるまだ前やったと思う。 >>800
昭和53年のセンバツは好投手が目白押しの大会だったよな。前評判では、
津田(南陽工)、木暮(桐生)、菊池(印旛)、田中(南宇和)、牛島(浪商)、河地(高松商)、
大会では
松本(前橋)の完全試合が印象的だった。
西田(PL学園)、石井毅(箕島)はもちろん、名前忘れたが、左腕の村野工、浜松商、サブマリンの郡山、福井商の投手も良かったな。 >>795
そうなんですか。
完全に勘違いしてました。
すみません。 >>802
村野工は上手、横手、下手投げの3投流・ミラクル投手・千田ですね。
浜松商は樽井、郡山は池上、福井商は板倉かな。
東北の薄木も、いい投手だった。 >>802
村野工業はミラクル千田、浜松商は優勝投手の樽井、郡山は池上、福井商は板倉。
小倉の大石もよかった。肩痛めたのが残念だったが。
まあなかでも菊池の騒がれ方はすごかっただけにPL戦は期待外れの一言だった。 昭和53年選抜の東海大四の投手は「左投げ右打ち」ではなかったか。 昭和53年のセンバツで優勝した浜松商業は夏はどうなったのかな?
同じく夏に準優勝したあの高知商業はセンバツは出て来なかったよね? 県の三回戦で沼津東に2-3で敗れた。
選抜後の春の県大会で掛川西に0-8でコールド負けするなど調子を落としていたが、もともとチームに力強さはなかった。
夏の予選前でも静岡の本命ではなかった。 >>785
NHKは受信料を徴収してるのだから、あまり勝手なことをされてもなあ。
しかも2世代家庭の場合、受信料を払ってるのはたいてい年寄りだぞ。 >>802
河地(高商)は、南陽工業との練習試合で津田の投球をみてプロ諦めたって話です。 >>802
印旛の菊池が騒がれてたな。
PLとの試合を甲子園で観た記憶があるがストレートは
大したことない感じでした。肩を壊していたかも。 HISASHI、性格クズだった。
ドラマーの中村達也が、40代男性に対する傷害の疑いで18日に書類送検された
報道を受けてTwitterでは「中村達也になら蹴られたい」などの奇妙な反響も
GLAY・HISASHIも「達也さんに蹴られるなんて光栄」とツイートしている
◆中村達也の書類送検に「光栄」としたHISASHIのツイート
J-CASTニュース
GLAY・HISASHI「達也さんに蹴られるなんて光栄ですよ!」 元ブランキー中村達也の書類送検に奇妙な反応続出
ロックバンド「Blankey Jet City(ブランキー・ジェット・シティ)」の元メンバーでドラマー・俳優の中村達也さん(53)が男性を蹴って軽傷を負わせたとして、傷害の疑いで書類送検された。
カリスマ的人気を誇るミュージシャンの「不祥事」。批判が殺到しそうな一件だが、どういうわけか中村さんを知る人々からは「暴力はいかん」としながらも「俺も中村達也に蹴られたい」などといった奇妙な反響が続出している。
「こんなこと言っちゃダメだけど...」
複数の報道によると、警視庁は2018年1月18日に中村さんを傷害の疑いで書類送検。17年11月下旬、東京都内の路上で40代男性の脚などを数回蹴り、打撲など軽傷を負わせたとされる。
中村さんは前日に出演したライブの打ち上げで飲食店を訪れたところ、ライブ客だった同男性と遭遇し、トラブルに。18日の朝日新聞によると「男性が仲間に失言し、腹が立った」と説明しているという。
こうした報道がなされると、ツイッターでは「暴力はいかん」「客蹴って良いとはならんよ」と否定的な声が多々あがる一方、
「こんなこと言っちゃダメだけど、中村達也になら蹴られたい、そしてそれを自慢するけどね...いや暴力はダメです」
「中村達也にならむしろ蹴られたいよ」
「どっちかって言うとオレは達也さんに蹴られたい」
と、「蹴られたい」の声が続出。
そんななかで、ロックバンド「GLAY」のギタリスト・HISASHIさんも19日未明、
「達也さんに蹴られるなんて光栄ですよ全く!」
と投稿している。 >>813前年の関東大会を観たが、菊池は元々ストレートは大した事はない。最大の武器はあのフォークボールで見逃してもストライクになるのでたちがわるかった。 53年センバツの準決勝は波乱だったな。後に春夏連覇するメンバーの箕島が福井商に敗れ、木暮、阿久沢の桐生が浜松商に接戦で敗れた。高校野球は本当にわからんなあとつくづく感じた大会だった。 菊地はセンバツ大会に入ってなんかバランス崩してたみたいやな。
本来の投球つうのを見てみたかったわ。 >>817
桐生と箕島の決勝になると思ったのにな。
準決勝二試合のビデオを持っているが、浜松は徹底して右狙いで木暮を攻略。箕島はまったくの自滅。
この日はキャンディーズのさよならコンサートの日でもあり、二重のショックだった。 >>813
菊池の肩痛は有名な話。
東芝時代は都市対抗の久慈賞2回、ベストナイン、ソウル五輪代表等、31歳まで長く大活躍した。 >>802
1978年の選抜といえば、歴史的な第50回記念大会なのに、出場校は例年と同じ30校だった。
記念大会だから出場校を増やすかと思いきや、前年と同じだったのは何でだろうと今も疑問。
32校にしても良かったのじゃないかと。
それとあと、個人的には箕島を2安打に封じ込んだ黒沢尻工の千葉も印象深い。
ラジオでしか中継が無かったのが残念だったが、音声だけでも千葉が好投手なのが分かった。 50回センバツに出てた人らもそろそろ還暦やねんなあ。
当時2年のドカベンは先輩らより先に逝ってもうたんやな。
敬遠気味の四球に膨れた顔と強烈なセカンド強襲安打を思い出すわ。 >>820
菊地は明大では野手転向してなかったっけ?
故障の影響がまだ残ってたのかも。
選抜前に騒がれたように投手としての本領発揮は東芝入りしてからでした。 >>817
箕島は石井毅が3連投で、本来の投球が出来ず大敗でしたね。
桐生の木暮は、全打点を叩き出した浜松商の四番・小沢一人にやられた。 >>821
もしあの年に32校だったら、関東と北信越が増枠になっていただろう。そうしたら川口工業と中越が選出されていたかな。
ひょっとしたら近畿で市神港だったかもしれない。
黒沢尻工業はかえすがえすも二回裏二死からの連続エラーが惜しまれるな。
余談だが、あの試合の箕島のブラバンはピンクレディーのUFOを演奏していた。 浜松商は2回戦の早実戦の逆転以降、東北を3−0で一蹴するなど侮れない感じは十分にあったけどなあ さすがに福井商が箕島をボコったのは予想の外だった あの年(78年)は夏の記念大会のイメージが強烈過ぎて、センバツの印象が薄い。
。PL学園の優勝を予想していた自分としては、初戦の浜松商の勝ち上がりを見て、決勝まで上がるとはとても想像出来なかった。 浜松商業の樽井投手も大会でどんどん調子を
上げた印象だった。 あの年は春も夏も盛り上がった印象。
例年より小粒だったけど。
春はやはり完全試合が達成されたことが大きいし、公立校が活躍、好投手も多かった。
春の観衆59万人はいまでも選抜の記録のはず。
夏はPLの二度にわたる逆転劇に尽きる。仙台高松の17回もあったが。
しかし東日本勢が壊滅してベスト8にも残れなかったし、水準以下の学校も見られたのは物足りなかった。 >>823
菊池は大学時代も投手。
PL−印旛の直後に行われた南宇和−崇徳戦で、好投手・田中(南宇和)から時広(崇徳)が弾丸ライナーのホームランを打ったのを覚えている。
試合は、崇徳のショートの三塁悪送球での決着で、後味の悪いものとなった。 >>824
小沢は3安打2打点。浜松のもう一点は誰かのスクイズ。
石井は連投に不安はあったが、あの試合の箕島の敗因はなんといっても6失策という守備陣の乱れだろう。攻撃も13安打しながら早打ちが目立ち、福井商の板倉の投球数は81球だったっけ、全然少なかった。
>>822
香川で覚えているのは二回表の攻撃だったか、ヒットで二塁から本塁をねらったがアウトになったシーン。あれはおのれの脚力が分かってないな、と思った。 昭和53年夏は、四国四商の揃い踏み。市商(高知商業)が決勝迄いったが他は緒戦敗退です。 >>830
いや、菊池は明治時代に野手登録されていたはず。少なくとも三年時は野手だった。あの頃はアンダーハンドの森岡とかいたから出番はなかったと記憶している。
南宇和の決勝点はランナーが二三塁間をふくれて走っていたから送球がランナーに当たったのではないか。ショートが気の毒に思えた。 >>833
ランナーは田中。
ショート木下は「「しめた!」と思ったが、完全に私のミス。ランナーに非はない」と言っていた。 >>828
樽井は2年生だったような記憶があるが、次のチームではどうだったんだろうか?
まあ静岡高校の太田というスケールのでかいサウスポーが現れたから、勝ち抜けなかったとは思うが。
で、昭和53年夏〜翌年春は、その静岡の太田は特に印象に残ってる。
甲子園では53年夏に1勝しかできなかったが、54年春、倉吉北・矢田との投手戦は見ててシビれたよ。
1回戦で消えるにはホントに惜しい投手だった。 >>802
その中の高松商を夏の予選前に圧倒したのが
好投手柳川に強打の折原がいた兵庫の洲本
夏の県大会でも村野工を倒していたと思う
解説のおっさんが折原は全日本レベルと言っていたのを覚えている 79年の鳥取は、矢田(倉吉北)、大原(境)が2大エース。
大原は、甲子園で中京に打ち込まれたが、明治大では島岡御大のお眼鏡にかなって、1年生からベンチ入り。
中退したのが惜しまれる。 >>835
樽井は2年春の甲子園で予想外の好投をしたから自分を失ってしまったみたい
その意味では同学年で77年夏準優勝の東邦坂本と印象がかぶる
高校時代は不調のままで終わった 法政大へ進学した
太田はスケールはでかかったものの2年秋から怪我持ちだった
選抜の倉吉北戦も速球は本来のものではなく、変化球でかわした感じ
怪我のため大成できなかった 太田は静岡市の隣の清水市の出身。
静高に進学したが、地元清水では「清水を捨てて静岡に走った男」と陰口をたたかれ、実姉の結婚の嫌がらせにまでエスカレート。
「清水では誰も相手にしてくれません。だからこそ故障かなんかで野球ができなくなるようなことにはなりたくない」と報知高校野球の79年春季号に記事が載っていた。
樽井は法政では和田と二本柱で活躍したな。いまは農業をしていると聞く。 >>837
大原(境)は野球センス溢れる、好投手だった。明大・島岡監督も、さぞかしお気に入りのようで(笑)
結果論だが、そのまま高卒でプロ入りした方が....... >>838-839
太田って怪我持ちだったのか、知らなかった。
明治大に進学したと思ったが、大学じゃまったく活躍してた記憶が無かったが。
それにしても実姉の結婚の嫌がらせとは酷いな。
で、54年夏はその静岡や浜松商を押しのけて、静岡から新鋭、富士高校が甲子園に勝ち上がった。
徳島・池田高校の蔦監督が教員籍を全日制と定時制の交互に行き来して異動を免れてたのは
有名な話だが、富士高校の三村監督も「富士高が甲子園に出るまで異動しない」と、長いこと
異動を拒否したんだよね。
今なら許されない話だと思うが。 樽井は法政じゃ外野手やったで、打撃も良かったし守備も上手かった。
法政では同じ左腕じゃ原(神奈川の桐蔭)がのらりくらりと大きなカーブで投げてたな。
原も早く亡くなったけどな、合掌(人) 太田は二年夏に甲子園に出たときから怪我もちだったはず。たしか左腕がしびれていた。
これは高校入学してからもう主戦として投げていて基礎体力づくりが二の次になったかららしい。
それにしても明治では名を聞かなかったのは残念だった。一学年下の竹田の陰に隠れてしまった。 >>841
富士高校は川村という好投手がいたな。
能代に似たユニフォームだった記憶があります。
甲子園で熱戦を見せてくれた。 主将の三雲捕手はTBSアナの弟とかじゃなかったかな 60回選手権で.2試合続けての延長の激闘の末、青森北、静岡を降した熊工大高(現文徳)は好チームだった。
3回戦ではPL学園に2失点ながら、打線が西田に2安打と沈黙した。 >>846
三雲は立教大に進んで、卒業後テレビ朝日の記者になったような記憶が。 猪口投手だったか。
静岡戦は13回の大熱戦だった。2-2の均衡が破れたのは太田の痛恨の暴投だった。
静岡は開校100年だったか。メガネッシュの山本が主将だった。9回スクイズで同点に追いつき、なお二死二塁で太田の当たりがレフト線に飛んでサヨナラかと思えたがほんのわずか外れてファール。打ち直しの一打も内野の後方に落ちそうだったが相手の好捕にはばまれた。
連戦となったPL戦は西田に打たれた2ランが致命傷となった。6回のチャンスもスクイズ失敗で逃し、西田に3安打に抑えられた。 58年夏の大会から確か、一県一代表になったんだよね。関東勢を応援していたが県岐阜商野村投手のまえに横浜、桐生が抑えられて敗退が痛かったな。 >>851
平林監督時代の県岐阜商は強かった
翌年の中京戦の逆転サヨナラ負けで引責辞任したけど、監督を続けていれば嫌疑商と呼ばれるほど落ちぶれることはなかった
采配は強気一辺倒で、解説の松永玲一氏が「平林監督はミスが多い」と言いながらも「生きのよい若手監督が出てきた」と期待していた >>853
関東では公立で好成績を残した監督は経済面も含めて新興私立に移項するのが通例だけど、県岐阜商は公立でありながら今回の鍛治舎を含めて良い監督が呼べるのは大したもんだと思うがな。OB会がよっぽどしっかりしてるんだろうね。 >>853
松永さんは辛口だったな。
「六大学の先輩として言わせていただくと、平林君はミスが多い」とたしかに桐生戦の試合後に話していた。その試合の4回表無死二、三塁のカウントノースリーからスクイズしようとして失敗したことを指摘したときだった。 鍛治舎監督は65歳だけど、公立でどういう身分で監督するんだろう。
働き方改革の一環で、部活指導者を地域の人たちに委ねるような方針が出てたようだけど
公立でも教師や職員以外で能力ある人が監督を引き受けてくれたら、公立も復権するのではと期待してしまう。 >>855
あの年は、初球スクイズがやけに多かった様な。大会を通じて傾向が出ることがよくある。
しかしノースリーでスクイズを仕掛けるのも、今では余り無いように思うし、あの頃は今と違って殆どセーフティスクイズでは無くて、ランナーをちゃんと走らせてのスクイズが多かったと思う。 >>836
あんな練習試合のことよう知ってるな(笑)あんた松の同級生かなんかな?
(松やったりして笑)
確かに左腕柳川は伸びる活きた球投げてたよな。
前半は高松打線を完璧に押さえてた、げど、中盤に高松の下位打線に捕まって逆転されたと思う。秋四国優勝、センバツ出場校はやっぱり伊達じゃないと思った。 >>850
9回の太田の打球はライト野田が地面スレスレでダイビングキャッチした。
13回の明暗を分けた暴投はデッドボールに見えなくもない。 浜松商対桐生は現地で生観戦したな。
浜松商の応援がリズム良く、選手にも勢いがあった。
浜松商の投手のどちらかがデッドボールを受けて、
それから流れも浜松商に行ったな。 浜松商の青野遊撃手は投手もやって好救援していたよな。 >>860
先発の樽井が良くなく点を取られて遊撃手青野が好救援
ところが青野がデッドボールを受け、再びマウンドに戻った樽井が見違えるような投球で桐生の反撃を断った その時の浜松商業のキャプテンが、常葉菊川の監督やな。森下監督。静岡は日教組の影響力が強いらしいね。私学行って正解だと思う。 78年の浜松商は前の代のチームが磯部監督いわく「史上最強」のチームだった
75年夏の甲子園で1イニングだけ投げた長身の細田投手と強力打線を擁し高いチーム力を誇っていたが、あっさりと夏予選で敗退
新チームにはそのときのレギュラーから森下、青野、小沢が残ったが、小粒なチームで監督もあまり期待していなかったらしい >>862
正確には初回いきなり一死満塁となった時点で青野に交代。樽井は打者四人に投げただけで交代だった。
青野が後続を絶ったかに思えたが、二死後のショートゴロを野手がエラー、三塁走者が還り同点、二塁走者の木暮が三本間にはさまれて同点どまりだった。
青野が死球で退場となったときは桐生が逆転するかと思ったのだが。この試合、木暮の投球はいつものリズムがなかった。そして2、6、8回と三度のスクイズ失敗、阿久沢、木暮以下の打者にもう一本出ていればと惜しまれた。 森下は常葉菊川から御殿場西へ転出していったが、何かあったのか? 子供の頃、楽しみにしてた甲子園の放送が午前中なくてガッカリした記憶があるのだが
確か開幕ゲームですら(地元校が出てない県では)午前中の放送なかったよね
午後からの放送は正午のニュースの直後からか、昼の朝ドラ再放送の直後からか、
どっちだったのでしょうか?
また午前中も完全放送するようになったのは何年からでしょうか? >>867
教育テレビを使っていなかった頃は、午後の中継は1時過ぎからですね。
12時台はニュース→「昼のプレゼント」→朝ドラの再放送という順番だった。 昭和50年第57回大会からです。
前年の東海大相模ー鹿児島実業の延長15回の試合を6時に打ち切ったら、NHKにクレームの電話がたくさんはいって大変だった、、、、
という記事を読んだ気がします。間違っていたらすいません。 >>866
御殿場住みだからじゃね?
日大三島の監督時代にマイホームを購入したはず。 >>868
ありがとうございます
>>870
ありがとうございます
それで昭和50年センバツ大会の開幕ゲーム(有名な16-15の試合)の放送も
なかったんですね >>867
午前中も完全放送するようになったのは選抜はもっと遅くて81年から。 夏は75年から、春は81年からということか。
そもそもTV中継はいつからだろ?
飯田長姫が優勝した時はラジオに噛り付いてたからTVなかったよね? いや、光沢毅さんの飯田長姫が選抜優勝したのが昭和29年辺りだから、今年60歳になる方は昭和33年生まれ、まだ生まれていない。これはおそれいりました。w 光沢さんて身長が150cm台でしたっけ。ひょっとして一番背の低い日本一投手?
NHKの解説者になったり、失明したり、桑田並みの波乱の人生ですね。 光沢さん村椿さん磐城の田村、新湊の酒井etc小さな大投手が強打者を抑えるのが高校
野球の醍醐味が最近は少なくなったねぇ というか、S29年ならテレビ放送自体はあったが、お宅にテレビが無かっただけの可能性もあるなw >>875
NHKのテレビ中継は1953(昭和28)年の夏から。
松山商が空谷投手で同じ四国の土佐を破って優勝した大会。
選抜は翌年、すなわち飯田長姫が優勝した大会からの放送だと思う。テレビができたのは。1953年の2月だから、前年の選抜(洲本が優勝)のときはテレビがあるにはあったが中継はされたのかな?
ただ、テレビが一般に普及するのは1959(昭和34)年の皇太子(現在の天皇陛下)ご成婚のときからだから、それまでは街頭テレビでは。 高野連のHPで確認したが、選抜のNHKのテレビ中継は1954年からです。
(選手権は1953年から) そういえば、
ラジオで中継聴いてたら、正午前の間もなく中断するという時に、中継アナがいきなり咳き込んでめっちゃ苦しそうなうめき声とともに放送終了したことがあったな
あのアナウンサーどうなっちゃったのかすごく気になった
S56・7年頃だった気がする テレビもいいけど、ラジオが懐かしい。
「どんな速い球投げているのだろう?」とか、想像している時が楽しい。
今は、大会前からネットで映像・情報収集出来るから、便利すぎて........(苦笑) >>885
昔、ラジオでは私立を「わたくしりつ」、市立を「いちりつ」と言い分けていたね。
自分が聴いたラジオの中継はアナウンサーが一人で実況していたが、
いつからか解説者と二人での中継になっていた。 自分54才だが、ここ二年ほどでラジオにはまった。聴いて想像するから良いんだな。テレビ、パソコン、スマホ使い分けないかんな。 今、最も聴き応えのあるスポーツ中継をしてくれてるのはWOWOWだと思う。
公共放送でもない、スポンサー民放でもない、専門チャンネルでもない、という立ち位置もあるんだろうし
耳なじみのいい声をしてるアナばかり。 私神港と市神港って、ありましたね
学法石川も、石川があったからでしたか >>885
74年秋の中国大会はテレビ中継がなかったから、多々良学園戦でノーヒットノーランを達成した小林(広島工)は、どんな投手か想像しながらラジオを楽しんだな。
翌春のセンバツで初めて小林を見た時、想像以上の好投手で感激した。 >>886
昔はNHKのラジオはアナウンサーがひとりでしゃぺっていたな。解説者がついたのは準決勝と決勝だけだった。
しかしひとりアナのときは間違いが多すぎで聞くに耐えなかった。 68年夏の天覧試合の実況、解説、始球式は誰ですか? 俺は今年で60歳(1958年生まれ)になるが、歴代優勝校をたどって見たら1966年中京商の春夏連覇から記憶があるのな。その前の65年春、岡山東商と夏、三池工は全く記憶にない。全国のおっちゃんはどうなんかな? 僕は小学校一年生から記憶にある
周りからは記憶力いいと、よく言われてきた 【大雪警報】関東地方で「帰宅命令」が出る企業が続出中 / 一斉に帰宅する人々で各駅は大混雑の模様
本日2018年1月22日は、関東地方の広い地域で大雪となっている。午後には、気象庁が東京23区など関東甲信地方に大雪警報を発表した。交通機関の乱れが予想されるなか、それに伴い「帰宅命令」が出る企業が増えているようである。
Twitterなどを見てみると、今回は早い段階で指示が出る企業が多かったようだ。ただ、一斉に帰宅する人々で、各駅は大混雑となっている模様である。
・帰宅命令が出る企業
広い範囲に大雪警報が発表されたことで、帰宅命令を出す企業が増えている。 >>891
小林(広島工)は、あのセンバツでは一番将来を嘱望されたピッチャー。
他に将来性では、前側(福井商)、中村(札幌商)、三上(北海道日大)、赤嶺(豊見城)等が目についたが、小川(習志野)は評判倒れ。 >>897
あのセンバツで一番将来を嘱望されたピッチャーは誰が見ても2年生の赤嶺(豊見城)だろう >>898
高木氏曰く「小林の球が滅法速くて、誰一人、前に打球を飛ばすことすら出来なかった」w 昭和49年秋の神宮大会の中国代表は崇徳だったと思い、調べたら当時は推薦で出場する
地区もあったというのを知った。
崇徳は日大山形にノーヒット・ノーランくらってしまったと思う。
「KENKO」が出ていれば、どうなっていたのか。 >>901
広島は、当時は必ず3位校を出場させていた。
ちなみに、秋の県大会準決勝で、広島工10−0崇徳。
決勝では、広島商1−0広島工。 >>902
決勝で、広商が小林から放った安打は「1」。 その広商は中国大会では倉敷工業の兼光を打てずに0-3の完敗。
あの年は寒川の岡山東も倉吉北に5-6で敗れて選抜を逃したっけ。 >>902
広島は昔から三位決定戦をやっていたのですか。
自分の地区では 三位校は優勝した高校に準決勝で負けた高校となっていました。
ちょっと納得いかなかったです。 >>904
倉吉北の岩山も、野球センス抜群!
もっとも、ピッチャー向きじゃなく、駒大→電電中国とセカンドでレギュラー。 >>899
あの年の近畿勢は前年優勝の報徳学園だけが強くて
特に大阪勢の初芝と近大附属が初戦完敗でイマイチ
だったな。伊都も東山も大敗でまともに戦えたのは
天理と初戦負けたが能登川くらいだった。なにか
今年の大阪桐蔭1強に似てるかも。 そもそもあの年の近畿は7枠は多すぎだった。
初戦に勝ったのは報徳と天理だけ。
5番目以降に選出された能登川、東山、初芝はかなり力不足と感じた。
初芝はプロ入りした立石がマウンドに上がったが日大山形の金子に完封負け。
能登川は三重盗を決められるし。
東山は五点差をひっくり返された。 初芝、能登川は今のところ、これが最初で最後の甲子園という一発屋。 >>894
自分の高校野球のはっきりした記憶はドカベンの山田が明訓に入学してから。昭和49年だったと思う。作新の江川をリアルタイムで記憶がない。銚子商業の土屋か、鹿実 定岡あたりから高校野球にはまった。(香川から) >>907
大阪勢は、前年の春から3季続けて0勝という低迷期だった。 >>908
本当、近畿勢はいまいち。
天理も総合力では疑問。投打のバランスが悪く自滅パターンで、エース猪口も夏はエースナンバー剥奪。
報徳学園にしても、ヒヤヒヤしっぱなし。投打とも絶対的な力はなく、野球の巧さでなんとか上位進出ってとこ。 >>912
掛川西にやられたな、能登川のほうが初戦では
あったが接戦だった。猪口も前評判は良かったが
力を発揮できなかった印象 >>910やっぱ、50代だと江川、定岡、の辺りからだよな。またガキの頃はヒーロー好きで一人エースで踏ん張る投球姿に憧れを持って見ていたよね。 >>913
猪口は小山戦に先発したが、6回投げて12四球というとてつもないノーコンぶりだった。
小山の拙攻に助けられた。
夏は投手落第だった。 >>912
近畿勢の不振の原因は、投手力。
大学、社会人に行っても通用するピッチャーがいなかった。
そんな中で、伊都の福田が投手として一番評価できる。
左腕から切れの良いボールを投げ、近大→拓銀と活躍した。 近畿勢、特に大阪あたりは桑田が登場する前までは、そうスーパーな投手が居なかったような気がするんだがどうしてなんだろうか?良い投手は関東、東北、たまに九州に多く居たような >>916
初芝は内野手の立石が投げた記憶がある。
南海に入団したな。 昭和50年春の初芝高校は日大山形に5−0の完封負け。
これがいまのところ山形勢唯一の完投完封勝利です。
(夏は継投で完封あり) >>916
報徳学園・滝井も、大学では頭打ち。
見込みがありそうなのは、伊都・福田ぐらいだったな。
よっぽど、中村(札幌商)、三上(北海道日大)の北海道勢の方が将来性ありw >>922
中村も三上も頭打ち、一番伸びたの福田だったがな 75年センバツは、ベスト4の段階でこれほどまでにピッチャーの質が悪い大会も珍しいw 75年選抜で一番将来性がありそうな3年生投手は相模を1点に封じた倉敷工兼光だったが、選抜の時点で怪我持ちだったらしい 七十年代は投手はエース一人体制がデフォだから、怪我したらほぼ終わりだったと思われ。 >>924
それは夏にもいえる。
この年の甲子園は投手が不作と当時よく言われた。
この年の高校球界ナンバーワンは都城農の北別府学。春の九州大会の伝習館戦で完全試合を達成。プロでも200勝達成。 >>925
兼光は典型的な「野手投げ」。
ピッチャーとしての将来性はない。 >>928
「野手投げ」より「アーム投げ」のほうが将来性あるのだろうか。
70年代アーム投げの有名な投手いましたか。
最近では仙台育英からオリックスにいった佐藤世那投手、どうなるか。 兼光の投球のフォロースルーは非常にダイナミックだった
でも四番打者としての印象が強い
0−1で敗れた東海大相撲戦の最終回に兼光が村中から三塁打を打って
二死2,3塁となって一打逆転まで追いすがったはず >>913
猪口は夏は野手専任で活躍して全日本にも選ばれ、巨人に入団。
しかし三年で退団。武宮寮長によると、一年目のオフに彼女ができてから野球に身が入らなくなったという。一番大事なときだから野球に集中しろと諭したがきかなかったらしい。惜しいことをしたと語っていた。 >>930
そこですよ、
村中の投球のたび、ネット裏がわーわー騒いでたのは。 >>927
その北別府を打ち崩した日南は侮れないと思っていたら、やってくれましたな ところで、群馬だけどこの間、地元では高校サッカーが全国制覇して盛大な市内パレードやったんだけど、野球の場合は二回ともやらなかった。これって高野連のお達しなのか、地元の都合なのか?皆さんの処はどうなんかな? >>927
>>934
奇しくも、北別府の都城農は練習試合で、日南は甲子園で広島商に敗れている。
日南がタイムを取るのを忘れてマウンドに集まろうとしたら、広島商・谷に三塁を奪われたのを覚えている。。 >>936
広島工はその時の練習試合で、都城農に0−2で負けた。
ただし、カープの同期・小林誠二はその試合には投げていない。 小林誠二は最初にカープに在籍時はイマイチやったがライオンズのトレードで開花カー
プに戻っても抑えで活躍Jリーグでもやってるレンタルトレードを若手選手対象にだけ
でもやってもらいたいと思うが・・・ 小林は広島入団して1年目の開幕一軍メンバーに選ばれた、あれには驚いた。
広島に再トレードされた84年に防御率のタイトルを取り、たしかリーグ優勝時に胴上げ投手になったと思う。
北別府は入団三年目から二けた勝利を記録し続けた。一年目は終盤に一軍に上がり2勝した。 >>939
小林は古葉監督の「イチオシ」だったから、開幕1軍も予想できた。一度ファーム落ちして、夏に北別府と一緒に再昇格。
北別府曰く「二人は最初の3年間、ほとんど話をしなかった。同い年で意識していた」 小林は肩痛に悩んでいたが、フォームを変えてから驚くほど痛みは消えた。
本人は「サイドスローも、パームボールも、全て独学」と言っていたが、野球センス抜群な小林らしい。 >>935
1981年だったと思うが、日本高野連が優勝校のパレードを禁止する通達を出した。
それまでは優勝校のナインがオープンカー数台に分乗してパレードするのが
半ば当たり前になっていたが、高校野球ばかりが脚光を浴びすぎていることを
懸念した高野連の自粛命令だったが、あの通達はやり過ぎだと思ったな。 >>942
そう、81年の選抜が終わったあとに通達が出て禁止になったはず。理由は「華美になり教育上好ましくないため」。
そのためPLが最後の優勝パレードになった。吉村、西川がいたときだな。
それにしても教育上というなら、佐伯天皇時代にはなぜ認められていたのだろうか。前年に亡くなっていてこのときは牧野さんのときだから。 >>929
我々より一回り年下だが、アーム式投法と言えば高知商業・岡に投げ負けて甲子園には出なかったが、元・巨人のクローザー&セットアッパー高知高・西山一宇。 何で甲子園の外野席まで有料になるのよ。
有料でもいいからその日は再入場可にして欲しい。 >>936
広島商の谷が三塁を奪ったのは、日南の投手の松田が汗をふいている間じゃなかったっけ?
緊張の糸が切れた日南はこの回ランニングホームランなどで4点を奪われ試合は決まった。 >>949
あの大会の日南は、
1回戦 岡山東商、2回戦 興国、
そして3回戦で広商と、強豪ばかりと当たったけど赤ヘル旋風でよく頑張ったよなー。
岡山東のエースは寒川とかいう評判のPじゃなかったっけ? 日南に負けた岡山東は優勝候補だった
大会前の恒例の座談会で岡山勢が優勝候補だったのは唯一
よく50回大会の倉敷工が優勝候補だったと言われるけど間違い
50回大会の優勝候補は武相と広陵だけ
武相に勝った広陵に倉敷工が勝ったので誤解されてるみたい >>951
だよねー・・・・岡山東は確か前評判高かったよね。
よく日南勝ったよなー。
でも予選で北別府の都城農業、柿木の宮崎商連破しての優勝だから、大まぐれではなかったんだろうなー。 その岡山東のサード寺田は、のちの俳優・美木良介
八名信夫とはちゃう >>953
あの時、美木良介出てたんだー。
プロ野球以外の有名人で甲子園出た人って、山本譲二とジャンボ尾崎と・・・・・・・・・・・誰がいたっけかな? ちなみに上の方で話題になってたサヨナラ負けの高松商・河内投手がのちに「新婚さんいらっしゃい」に出演してたのたまたま見た記憶はある(苦笑) >>951
二強追い大混戦か
東海大相模が筆頭
追う投の岡山東商
大会前の朝日新聞の記者座談会の見出し
あの年は春に活躍した高知、報徳、静岡商、倉敷工、福井商、札幌商、豊見城とか、前年優勝の銚子商も予選で姿を消して優勝争いは寂しかったな。はっきり言ってスケールの小さい大会だった。 >>955
ジャンボ尾崎は元プロ野球選手だから
プロ野球以外じゃないだろ。 >>960
大会前は東海大相模優勝間違いなしだと思った
骨のあるところはほとんど予選で敗退、出場校で一番手ごわそうな岡山東商が開幕試合で敗退
まさか同じ関東の上尾に寝首を掻かれるとは思わなかった
今思えば、村中のカーブがかなり研究され通用しなくなっていたんだろうな >>949
サード外山衛が、エース松田に駆け寄ったその時..... 逆に、日南は広商から2つのライトゴロをとったからな。 >>951
波乱必至の記念大会
朝日新聞の記者座談会の見出し。
この年は絶対的な候補はないとして、大宮工、武相、平安、広陵、倉敷工、高知、津久見の名前が順番をつけずに候補として挙げられていた。
記事の内容を見ると、大宮工、高知あたりは水増しの評価だった感じがする。
倉敷工は選抜もベスト4だったから当然有力候補には挙げられていた。 >>951
50回大会戦評〜朝日新聞抜粋〜
「〜優勝を争う有力候補には、武相(神奈川)大宮工(埼玉)平安(京都)広陵(広島)倉敷工(岡山)津久見(大分)などがあげられていた。〜有力候補からベスト4に残ったのは、倉敷工ただ1校となった。」 昭和50年の岡山は、春倉敷工業、夏岡山東商業が甲子園に出場。倉工の石原がホームラン打ったけど息子も選抜でホームラン。残念な事に大学で退部。又、この時倉工には落第生がいた。
ノンプロで少しやったけど、、、 カズ山本も昭和50年甲子園世代じゃなかったけ?
戸畑商のエースだったんだろ? 今度のセンバツに膳所高校が出てくる
50以上のおっさんにとっては、
膳所0-18桐生は強烈だった
最後は阿久沢が投手やってたな。 >>970
個人的には広陵9−0膳所の方が良く覚えている。
確か、9番の塚本以外は全員安打だった。 膳所の練習ユニと変わらん試合用ユニを、生きているうちに甲子園で見えるとは思わなんだ。 カズ山本が入学前の昭和46年、47年戸畑商業は、選抜に連続出場。カズ山本は48年入学。1年の時ダブり卒業するのに4年かかった。だからカズ山本は甲子園出てない。 1978年夏の桐生戦の膳所は内野安打1本だった、しかも過去5回の甲子園出場でまだ1点しか取ってない、兎に角頑張れ膳所!
どうせなら選手宣誓と開幕試合引いて来い! >>975
この年の滋賀は甲子園出場二校で打ったヒットは内野安打1本 >>968
選抜前の試験の成績が悪くて甲子園行きを外された選手? >>963
上尾と東海大相模の試合は野球の夏合宿中だったので見た記憶が無いんだよなあ。
自分の練習よりも実はこちらの試合の方が気になっていた。笑 >>963
村中のカーブといえば、原が対戦相手の投手の超スローカーブにタイミング合わなくて苦労していたなんて記憶がある。
俺もカーブ打ち苦手だったのでそんなことが思い出された。 膳所が出たなら、次はわが母校の番かな?
来年に期待しよう >>974
ありがとう。詳しいな
そういや、カズ山本の同世代の福岡代表は小倉南でエースが二保だったな >>981
小倉南の二保投手の甥っ子が現在ソフトバンクの二保旭。 >>970
ぜぜは滋賀の公立トップ校だろ
大阪で言えば北野高校みたいな >>968
H? E? のどっちかな?
代わりに入ったメガネの九番打者がHR打ったというのは本当ですか? >>987
倉敷工9番打者のメガネ野田が大会第一号ホームランを打ちました というか、その選手が代わりに入った選手なのですかね? >>971
ラジオで聞いていたけど2ランスクイズはじめ一挙6点とかは覚えている
先制点取ってから広陵のやりたい放題だった
>>970
テレビで見ていたが、あのときの膳所は酷かった 70年代最弱チームだろう
桐生打線が放ったサード、ショート正面への強い打球がことごとくヒットになり、野手の間への緩い当たりにも追い付けずヒットになる
桐生の打ったヒットのうち10本近くはふつうの甲子園出儒チームならアウトにしていたと思う 解説は 山本英一郎さんか 良かったなー
まだ 声が 頭の中に残ってる >>990
膳所が夏の大会に出てきたことが今となってはびっくり。どんだけ滋賀が同じ近畿とは当時レベルが違ってたのか。あの悔しさを、翌年の比叡山が滋賀勢初勝利で晴らすきっかけにはなったんだろう。 あの時の桐生はセンバツ時では部員が15人しかいなかった。だから一人一人のポテンシャルは凄かったんだよ。夏の大会前にはPLに招待され、阿久沢が金石から大ホームランを放ったと聞いて学校では誇らしかった。 >>971
広陵のエース・竹桝は、カープのドラフト指名を拒否して亜大進学。
81年に電電東京を都市対抗初優勝に導き、橋戸賞を受賞した。 彦根東と膳所が出るなんて〜
大阪で言うと北野と三国丘がアベック出場
鳥取で言うと取西と米子東がアベック出場
岡山で言うと朝日と操山がアベック出場
みたいなもんかw 結構ありえんことだね このスレッドは1000を超えました。
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