50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.2
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まあ、同場面の別の動画も見たが、平沢が走者の動きを読んで捕手にサイン送ってるな。 >>581
「統制」という言葉の意味、知ってる?w >>579
昔は選手と一緒に汗流しながらいかにして育てるか、育成力が名監督の条件と言われたけど、いまは優秀な選手をいかにして獲得するかというスカウト力が名監督の条件になっているからな。
しかも指導にしても、昔は一点の重みを説いてまず守りを大事にする監督が多かったが、いまは金属バット時代だから細かなことにはかまわずただ打つことを重視する監督が多い。
昔の監督のほうが野球を知っている人が多かったと思う。 >>564
延長に入って、高松商の脚に溺れた自滅の試合。延長に入って、銚子商はエース佐藤から一谷に変わって、ノーアウト一塁二塁の絶対絶命のピンチを一谷投手と内野陣の連携プレーが記憶に残っている。 実戦に於いて「統制」がひとつとか…あまり野球知らんのかな。 サイン見てるときというかセットポジションに入る前だと
軸足外すのはプレートの前でも後ろでも横でもどこでもいいのか? >>585
>>576の動画を書き込みした者です。
私も別のアングルから、平沢の動きに合わせてキャッチャーがピッチャーに牽制のサインを送ったのは知っています。
>>580の方は、キャッチャーはショートのみならず、各ポジションの情報をピッチャー、その他のポジションと瞬時に共有しなければならないので、「統制」という言葉を使ったんだと思います。
何せ、キャッチャーは「要」ですから。 平沢のあのゼスチャーはピッチャーと言うよりキャッチに送ったもんやろね。 >>577
今から考えると蒲原さんは凄かった。
予選の1回戦敗退が当たり前だった、
普通の公立高校の印旛や柏陵で、
印旛では甲子園準優勝、柏陵で春夏連続出場、夏は3勝してベスト8
特に印旛では習志野、銚子商時代から、
一時期、印旛の時代も築いたし。
あのPLとのセンバツ決勝は今でも悔やまれる
大阪桐蔭のように全国からエリート選手集めて勝つより、
蒲原さんの方が数倍凄いと思うわ。 >>588
ピッチャーは、キャッチャーの指示(サイン)に従っただけ。
あの時の2塁ランナーが視線を下げてボールから目を離す癖があったから、よけい効果があった。 >>590
あれで、ショートとピッチャーだけの阿吽の呼吸で差したら、それこそ神?!ww
全ての鍵は、キャッチャーが握っている。 >>590
牽制は完璧だけど、2塁ランナーの緊張感の欠如振りが半端ないww >>589
同意。蒲原さんは印旛、柏陵と実績ゼロの学校で選手と汗水流して甲子園まで導いた熱血漢。真の学生野球の指導者だと思う。
あの81年春の決勝、優勝まであと二人まで迫ったのだか…目前となり佐藤も意識してしまったのか。
千葉県人だが、あの試合はいままでで一番残念な試合。 >>592
2塁ランナーは山田?
トップバッターなのにw >>593
斎藤、石井、蒲原は千葉県高校野球界の名監督
三羽ガラスに間違いないですね。 ご存知の方もいらっしゃるだろうけど
蒲原さんの息子は東大野球部出身、埼玉の高校で指導者をされてます >>596
山形・羽黒高校が初出場したときの監督は東大卒だったが、
ノック、試合でのサインは部長がやっていて、なんか変わっていた。
・・監督は野球部出身ではなかったのかもしれないが。
東大野球部出身の監督は自らノックバット振っていたのかな。 逆に、1塁ランナーがわざと躓いて牽制球を投げさせて、同時にスタートを切った3塁ランナーがホームをつくプレーを昔見たな。 82年夏の東洋大姫路(法政二戦)か。
同じ年の大阪予選でも春日丘がPL戦の9回に仕掛けて決勝点だったが、あれはセカンドランナーが転んだんだっけ? >>598
相手がサウスポーの時が狙い目w
広島商も格下のチームと対戦する時は、しょっちゅう試していたな。 >>599
東洋大姫路はKKのPLに競り勝った84年秋の近畿大会決勝でもこのプレーで虎の子の1点を挙げて完封勝利。 その頃の話で、豊田次郎の時の東洋はセンバツに乗り込む時点での勝率が異常に高かったよな
そのせいもあって俺の中では最高のサブマリン 名前も投げ方も似てるがw
上田は南部高校(和歌山)から阪神で、ずっと爺さんだろ そうか、豊田次郎って方は知らないな、じいさんなんて言いなさんな、上田次郎や古沢憲司と近い昭和23年生まれだし、皆もわかるだろうが兄弟多くて貧乏、テレビやラジオ無い年代だし末っ子の弟はサリドマイドだったから面倒見るの大変だった。
学校もろくに行かず山で芹やなずな取ってた年代だからな。 上田次朗は巨人9連覇の年に活躍したのが一番記憶に残ってる
同時代に活躍したカープの金城という投手もアンダーハンドだった
当時は小学生だった俺が五十も半ばを過ぎて既に爺さんなんだから、上田も金城も爺さんだわな 50半ばならまだまだセックスもギンギンだろ?
俺が50〜58までは35→43の美人人妻(女房の知り合い)とギンギンにセックスしてたぞ!
今から20〜12年前の話だな。
生でガンガン突いて突いて突きまくった。
肛門もかなり調教した。
本当に変態なスレンダー超美人な人妻だった。 上田次朗さんが全国に名をとどろかせたのはS43年明治神宮大会(明治百年記念だった
から50年たつのか・・・)で田淵・山本浩・谷沢のスター選手達を集めた東京六大学選
抜軍をなでぎりした試合、東海大や首都大学リーグなんてあるのあの時に始めて知った。
金城も事故にあわなければ先発投手でもっと活躍したのにねぇ 上田次郎は大変な大痔主だったとエモやんの本で書かれていたな。
エモやんが部屋でにわか治療をしてあげているときに田淵がやってきて「これなんや?」と上田の痔を持ち上げたものだからたまらない。
上田は絶叫をあげて横たわったまま一メートルも飛び上がってしまったらしい。
被害者の姓は伏せるが名前が笑える、ジロウっていうんだもんね、と書かれていた。
野球でいうと73年、あの巨人との最終決戦であっけなくKOされて9連覇を許してしまったな。 >>598
2010年夏甲子園の履正社対天理で履正社がこのプレーで得点した。
履正社の監督が東洋大姫路の出身と知ってなるほどと思った。
>>601
この時のホームスチールは3塁ランナーの単独と記憶してたが自分の記憶違いだったか。 >>612
自分も四回表二死三塁での単独本盗と記憶しているんだが…
当時の雑誌が実家の物置にあるので確かめられない。 >>602>>606
96年日本シリーズで先発に抜擢されてた記憶が強い。
>>597
竹内一郎元羽黒監督は湘南→東大で、本人の語るところでは湘南高校やクラブチームなどで監督
甲子園を決めて翌春に退き神奈川へ帰郷したが、後に鹿島学園でも監督をつとめ
現在は神奈川で相模原ベースボールクラブGM
横田謙人部長は大學までアメリカで野球をしており、竹内監督の後を受け監督に。
東北公益文科大学野球部の監督に転じて南東北大学リーグ1部優勝も。
その鹿島学園の元主将(竹内氏が辞めたあとに入ってきたので関連は全くない)が
とんでもない事件を起こしたな >>612
履正社は甲子園初出場だった97年夏の専大北上戦の最終回、ホームスチールを敢行して失敗でゲームセットだったような。 >>602
豊田は練習試合を含めて三年間で5敗くらいしかしていないと聞いたことがある。
勝ち星のほうは69勝だったか?記憶に自信がないが、同年代のPL桑田が70勝7敗だった。
桑田はほとんどが公式戦だから豊田とは同じにできないが。
豊田はPLを完封した実績があったが、甲子園でもプロのスカウトの評価は高くなかった。
最大の理由は球が遅かったから。あの球速ではプロでは通用しないという意見が多かった。
加えてプロ入りが遅かったからあまり活躍はできなかったな。 >>600
ツーランスクイズも考案したのは広島商。
実行に移したのは73年夏の日田林工戦。 試合巧者と言ったら先ず思い浮かぶのは広島商業だっよな。 先週ニュースで話題になった千葉県印西市放火殺人事件。男女2人ずつ逮捕された内の20歳の男が元鹿島学園野球部主将。部員100人以上いた中で主将は立派だったけど、、、、
家庭の事情で内定していた大学には進学しなかったと報道されていたが、ググってみると平成帝京大学野球部になっていた。 >>621
里崎、青柳→帝京大学(首都大学野球連盟)
鹿島学園元主将→平成帝京大学(誤)
帝京平成大学(正)
(千葉県大学野球連盟)
同じ帝京大学グループ >>618
よほど悔しかったのか、日田林工は76センバツの新宮戦でツーランスクイズ成功!
しかし、同じ広島の崇徳戦ではまんまと見破られて、2塁ランナーは憤死w >>624
新宮戦で試したのが原田監督の大失敗だな(笑)
秘策は「ここぞ」という時こそ、効果が期待できる。
崇徳にとっては見え見えの作戦で、1塁手の兼光がカットして楽々アウト。 1981年の春の九州チャンピョンだった源五郎丸の日田林工を甲子園で見たかった。予選で敗退後、
その年に不祥事で一旦、廃部になったんでしたっけ。 東洋大姫路の豊田次郎は高校3年間で92勝5敗だったそうだ。
3年時のセンバツでは初戦で津久見に敗退。夏は高岡商、立教に勝ったが、東北に負けた。この時の東北のエースは佐々木主浩。 >>626
夏はまさかの県二回戦敗退。残念会で酒を飲んで発覚。そして寮費の免除問題が明るみに出た。しばらく廃部になった。
現五郎丸は阪神に入団したが、直後のキャンプ中の紅白戦で負傷、足の靭帯を切ったんだっけ?これが致命傷となり活躍はできなかった。
金の卵を興業のためにダメにするとは、阪神も愚かなことをしたものだ。 昭和51年の選抜で学法石川が走者が一死三塁のときスクイズ対策で右翼手が投手と三塁手の間
あたりにつかせた守備をした。 結果はセンター前ヒットだったが。
自分はこの試合ではじめてみた守備だったんだけど、もっと以前からあった作戦なのか? >>629
73夏の作新学院−柳川商で、柳川商がセンターを内野に持ってきたな。 昭和38年甲子園初出場で選手権4強の横浜のカニバサミ カニばさみ戦法だな。
63年夏の横浜が予選でやったときに相手チームからそう言われたそうだ。甲子園では高田商戦でやって成功している。
そのあと、65年夏の鹿沼農商が東海一戦で行っている。
上で書かれているように73年夏の作新戦で柳川商がやったのが有名だな。
そのあとは95年夏の観音寺中央が日大藤沢戦でやったくらいか。 追加
77年夏の今治西戦の6回裏に東洋大姫路もレフトの平石を内野にもってきた。 カニばさみ戦法を甲子園でやった高校のほとんどは無得点に抑え成功したのか?
学法石川はヒットを打たれ失点した。 相手は鹿実だった。 観音寺中央ー日大藤沢戦では、打球が高く弾んで失点を防げず。 甲子園で外野4人シフトを敷いたチームはありますか? それ「松井の5敬遠」のときやってほしかったね。
内野手が オーバーフェンスはしょうがない みたいに長打警戒で外野に守る。
そこで松井がセーフティーバント、当て逃げ打撃したら・・、
・・松井がボロクソだっただろう。 プロでは72年日本シリーズで王さんの打席のときにショートの大橋を右中間に配置して四人制外野シフトを敷いて、右中間の大飛球を大橋が捕球して「史上最長のショートフライ」と話題になったな。
高校では奈良郡山の森本監督がPLとの練習試合でやったらしい。いつごろかは知らないがPLは鶴岡監督の時代。
そのあと、鶴岡監督から「森本さん、あほシフトはとらないでほしい。あのあとその四番打者が天狗になってダメになりました」と言われたらしい。 >>628
日田林工は立地が福岡、熊本に隣接して路線ルートから佐賀などからも選手を集めた戦略は悪くなかった。
ただ公立なので寮運営に限界があったのだろう。 高校野球レベルでは、外野手4人はリスクのみ多くてメリットはない。 >>637
その見方は面白いな。敬遠するより野球観戦的には特上のご馳走やな。
その4人の頭を遥か越えてたら特級の伝説やわ。 それをやるなら、松井と勝負するしかない。
馬淵監督は「今考えたら、違う方法もあったかも…」と語っている。 >>640
タニマチが林業会社で良い選手1人取るために材木1本切ればいい、と言っていたらしい 神奈川・商工実習の大澤啓二が審判にバカだのちゃんと見ろだの言ってたのが昨日のことの様に懐かしいね。 カニバサミの最終的守備側の成功とは、攻撃側が敵外野手が少ないのを見てバントではなく強打し、凡退させ得点させないこと?ですかね。
あるいはバントをさせて、内野手5人シフトが取ってホームタッチアウト?
そういう意味ではいずれのパターンも見たことがないような気がします。 いつも出るとほとんど負けばかりの学校がこの代だけはベスト4以上だったのってある? 長崎海星
サッシー酒井で76年夏ベスト4
松商学園
戦後限定だが上田のときに91年春準優勝、夏ベスト8 >>649
工藤の時だね
この時点では1974に一回負けてるだけ
なんか超弱そうなイメージなのに確変したってのが知りたいです >>650
確かにイメージどうり
サッシー上田とやはり好投手がいる時か
特に長崎海星の成績がここまでひどいとは思わなかったよ
サッシーすごかったな >>648
長崎海星と同じ76年夏の全国制覇校桜美林。
この年以外は確か1勝を挙げたのが最高じゃなかったか? 京都商業が甲子園で準優勝したが、その少し前に3年連続初戦負け。 長崎海星はそれでもおととしの春にベスト8進出したな。
桜美林は98年夏に2勝している、通算11勝。
京都商も戦後限定で81年夏に井口で準優勝。この学校は貧打で有名で、戦後甲子園での15試合のうち、14試合で得点が2点以下。
唯一の例外がその準優勝した年の初戦の前橋工業戦で、一年生の渡辺久信からなんと5得点したのにはおどろいた。
いちどだけ上位進出してあとは初戦敗退の学校(出場4回以上)は、
洲本(53年春優勝)、八戸(56年春ベスト4)、長崎西(51年春ベスト4)、早靹(64年夏準優勝)などがあるようだ。 甲子園で、「当て馬」(偵察メンバー)を使った高校ってある? >>648
1974年夏の前橋工業と防府商業はそれまで甲子園勝利数ゼロ。
前橋工業に至っては甲子園初得点が大会目標だった。 648ですが、みなさんありがとう
みなさんのあげてくれた学校をバーチャル高校野球で見てみました
自分の中では過去に実績のない学校が優勝候補に挙がっても信用できないなあと思ってましたが中には確変ありますね
特に長崎海星ですかね
自分は福岡柳川ファンでしたが何度も優勝候補に挙げられてもベスト8の壁破れず、とうとう甲子園も遠のきました
やはり学校としての運がないのかなと
長文失礼しました >>657
前橋工業の無得点の壁は初戦の玉島商戦、先頭打者ホームラン(今井だったっけ?)であっけなく破れたな。
>>658
柳川は76年のチームで勝ちきれなかったのが痛かった。
久保、立花、末次。新チーム結成してから夏の県決勝まで85勝2敗という強力チームだったが。あのPL戦の強攻策失敗が惜しまれる。
香月のときも夏の智弁和歌山戦、8回表の暴走と香月の血豆が割れなければ… >>656
80回選手権の横浜
準々決勝のPL学園戦で三塁手(7番)を1回の守備から交替。 前田監督はいつかの準決勝だかで1点ビハインドの終盤無死3塁から強行し逆転。
まずスクイズで、、、と言う声に
「あの場面で一気に逆転出来ないチームなら決勝で勝てそうもないからスクイズなど一切考えなかった」
と、知り合いのボーイズの監督に言ったらしいけど、そう言う考えかと深さを思い知ったわ。 >>662
そして決勝は勝ったのですか?
甲子園なの?地区大会? >>627
豊田とバッテリーを組んでいた阿山主将は、選抜で選手宣誓。高校卒業後、新日鉄広畑。
そして今や姫路市市会議員市会議員 >>664
姫路市市会議員4期目。
東北高校佐々木。息子も東北高校で控えで甲子園出場。大学も親父と同じ東北福祉大学。ゴルフ部。今は、某有名テレビ局勤務。親の七光り? >>663
はっきり何時の大会の事か知らんけど、そのボーイズの監督の話では優勝した時の話やったと思う、、、ごめん、自信は無いわ。 最終回で一点ビハインドで無死三塁、
打順にもよるけど、一死まで強攻じゃないのか?
スクイズ外す場面みるけど、バッテリーで考えてるんじゃなくて、ベンチの監督が指示してる
というのを聞いたときがある。いまもあるのか。そしてどうやってサイン出してるのか。
逆にスクイズ外すのが上手い監督はスクイズ決めるのも上手いのではないのだろうか。 >>668
打順は聞いて無かったわ、とにかく同点にしたい、と考えてしまいそうやけどね。 サッシーの10倍すごいと思った。
直に見た投手で江川以上って思ったのはランディジョンソンとクレメンスとハーシュハイザーくらい。
山口高志も凄かったが。 江川は今の高校生と比べたら大したことないかもしれないが
その時代時代における突出度で見れば、江川の右に出る者はないんちゃう? 高3の夏の栃木大会、5試合に投げて、3試合がノーヒッター、2試合はいずれも被安打1、
栃木大会通じて被安打2、こんなピッチャーいたら他校は災難だな ドカベンの不知火土門の完全試合やノーヒットノーラン連発は江川の影響かな?
江川学院の中は少し落ちるけど >>673
同県のガチで甲子園目指してる強豪校には災難だけど
普通の高校球児には一生の思い出だろうね。 これだけ科学が発展しても、VTRの江川の速球をスピードの数値に置き換えることはできない。
この技術は、早く開発してもらいたい!! 50歳以上のおっさんでも下関商の池永、浪商の尾崎は見てないので当時はどんなに凄かったのか。 星稜の小松辰雄は本当に速かった。甲子園の阪神戦も
何度も当時見たが、小松のスピードは段違いだった。
夕方のゲームを三塁側で横から見た。 女房役の沖野によると、小松は三年の春に足首を痛めて三年時はスピードが落ちていたらしい。
それでも春の滝川戦は速かった。ナイターになったこと、相手の西口の球が遅かったので余計速く感じたのかもしれないけど。
夏はウォームアップ不足で立ち上がりに失点して山口に投げ負けたのは物足りなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています