50歳以上のおっさんが高校野球を語る Part.2
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>>168
木更津中央の鈴木は懐かしい〜!
小柄なのに切れのイイ球を放っていた。
高知、県岐阜商、そして優勝候補・東邦と名門校を破ったのに、よりによって大鉄に.......?! 土井正博や福本の大鉄の名が消滅したのは残念、校名変更はしかたないけど大鉄の名を
どこかに残してほしかった。
羽田を中心にタレント揃いやった三田学園がS46年のセンバツに出場してたら優勝
候補やったろねぇ・・・羽田さん今度は監督として頂点めざしてください。 >>170
木更津中央は一部で「惑星」と呼ばれていたな。
エース故障の大鉄には楽勝と思っていた。 >>168
木更津対高知のほか、開幕戦の東邦対平安の映像も使われている。
放送が後半になる頃には、その年の夏の大会の県岐阜商対留萌、海星対高崎商などの映像が使われている。岐阜の小柄な堀の投球フォームが見られる。
>>169
地下鉄の工事現場でガス爆発が起きて道路が陥没したんですよね? ガッツジュンって・・・・・どんだけ懐かしいんや!
あの中の役名で主人公の先輩かな?「進藤さん」ってのが記憶に残ってるなー。
「ミュンヘンへの道」とか、あの頃はスポ魂モノおもしろかったなー。 校名は阪南大大鉄でも良かったと思う。
ユニフォームのフォントは大鉄から変わってない。
昭和52年に出場した時のエース前田がどおくまんの漫画に出て来そうなユニークな面構えだった。 >>167
俺も他県だがタレントの三田佳子が頭にこびりついて、三田学園をみた学園と読んでしまうw ガッツジュンねえ
アニメならまだしも、実写のスポコン物は魔球系エピが今見たら笑えるかもな
美しきチャレンジャー、サインはVとか 「進藤さん」こと篠田三郎さんは高校時代に硬式野球部にいたらしい前半の特撮で批判
を受けたから後半のシリアス路線変更の為の経験者を起用かな・・・汗と涙がうりの高
校野球にはドラマとはいえ魔球は不要 >>161
その木更津のエースは古屋(日本ハム)じゃなかったっけ? >>179
ガッツジュンの前番組の柔道一直線でも、高校生が超人技連発やったしな。
地獄車とか真空投げとか。 >>179
ガッツジュンといえば、レインボーボールって魔球があったのを憶えてる。 ガッツジュンのOP映像はセンバツだから芝が枯れている
芝の品種を変えてセンバツが枯芝から青芝になったのは、いつかな? 高校野球もまた夏の選手権の初戦は東西対抗戦に戻してほしいな。昔なら東北勢が弱く少々不平等な気もしたが今や互角かそれ以上やらろ。 >>184
83年の55回大会から。
池田が圧倒的強さで夏春連覇を果たした年。 71年センバツは個人的には地味な大会だが、「渋谷3兄弟」の次男が平安のキャッチャーで出ていて、話題になったな。
他に、木更津中央の鈴木のピッチング、普天間が日大三相手に健闘したのを覚えている。 普天間が日大三相手に健闘したのは、沖縄枠を作り沖縄を推していた佐伯会長もよほどうれしかったんだろうな
決勝戦後の大会講評にも普天間の健闘が盛り込まれていたな >>185
80年代前半には九州勢が東北北海道北信越を食いものにして初戦突破率が高かったな 三田学園は 近畿で 優勝して 選抜も優勝候補だっぢろーけど 不祥事で 辞退したのが残念 いい選手 輩出したもんねー
残念 >>191
三田学園は近畿大会準優勝。
優勝した市和歌山商も、不祥事でセンバツ出場できなかった。 先日テレビで彼の特集やってたみたいだけど(YouTubeで見たんだが)、
高校時代の江川から唯一ホームランを打った宮崎実業(現日章学園)の石淵も、
秋の九州制してセンバツ確定的だったのが、教員の飲酒事故かなにかで出場辞退になったもんなー。
確か野球部と何も関係ない教員じゃなかったっけ?
かわいそうだよなー。 出場辞退といえばこれが一番印象に残ってるなー。
かわいそう過ぎる。野球部には罪がないのに・・・・。
『開会式当日の3月28日の朝。門司工(福岡)ナインに無情の「出場辞退」が告げられたのだ。
その4日前、福岡県北九州市内で住居侵入、暴行未遂事件が勃発。容疑者として門司工の生徒2人が逮捕された。
野球部員とは無関係の一般生徒が関わった事件ではあったが、大会関係者からの同情論はなかった、という。
以前に紹介した、甲子園に向かう青函連絡船の中で出場辞退を知らされた北海の「涙のUターン事件」と同様、
この時も日本高野連の会長は佐伯達夫。不祥事には厳しい態度で臨んだ佐伯は、門司工の「出場辞退」を即決した。
宿舎で学校長から説明を受けた門司工の選手たちは、誰もがすすり泣きを漏らしたという。
ちなみに、門司工の代わりに急遽、出場となったのは佐世保工(長崎)。ろくな練習ができないまま慌てて甲子園入りし、
門司工が予定していた大会3日目の初戦に臨み、静岡商に4−7で敗れている。 門司工の前身は豊国中といい、1912(明治45)年に開校。大正時代に2度、甲子園大会に出場した古豪だ。
1946(昭和21)年に門司工と改名。現在は豊国学園と名乗っている。
この時の門司工は、豊国中時代以来、実に55年ぶりの甲子園出場に湧いていたが…。
この機会を一般生徒の不祥事で逃し、以降も甲子園の大舞台に縁がない。 』 >>188
71年春は覆面投手の活躍が目立った。
それまで公式戦に登板したことのない大鉄の奥田、木村、徳島商の南など。
奥田は大会直前に急きょ選手登録された。まず奥田でいけるところまで、と網監督が作新戦に起用したら公式戦初登板でなんと1安打完封。
あと、この大会で目立ったのは制球難の投手。報徳の金沢、一条の寺畑など。優勝投手の渡部ですら普天間戦では6失点と乱れた。 >>194
九州大会優勝の門司工業と静岡商との試合が観たかった。豊国学園も野球は不振みたいだが21世紀枠ででもセンバツにぜひ出してあげたいね。 >>197
そうだね、出場辞退のメンバーが生きてる内にね。 三田学園は準優勝か 甲斐って えーPいたと 思うんだけど キャッチー中西かなー >>176
えっ、前田が
ちょんわちょんわ、クエックエッ
‥たしかに たしか南河内大のモデルは阪南大って聞いたことがあるまあむかしの話なんで勘違い
ならゴメン (wikiによると)南河内大学のモデルについては諸説あり、
連載当時応援団の活動が盛んでバンカラなイメージが定着していた近畿大学、
あるいは「大阪南部の田舎」という立地条件が符合する阪南大学や
大阪芸術大学(後者はどおくまんの出身大学でもある)という説が強い。
その他、応援団による不祥事が絶えなかった大阪経済法科大学ではないかとも密かに囁かれている。
‥そうな。クエックエッ
そういえば2011年夏に出場した東大阪大柏原に大鉄のノリを感じたんだけど。(土地勘ありません) 「花の応援団」
映画では団旗に大阪経済法科大学の文字が遠目からでも読み取れる。 その当時ガキだった俺は、親が買ってた花の応援団と実験人形ダミーオスカーをコソッと読んでた記憶があるわw 実験人形も最初の頃はエロいシーン満載やったが指摘があったのか途中から金属バット
らしきモノでお茶をにごすようになった(苦笑)
有賀さつきさんのお兄さん早稲田で野球してなかったかなぁ変わった姓なので記憶に
ある・・・親戚かもしれない 71年春と言えば深谷商・竹内。ストレートの伸びが半端なかった。
竹内も小柄だし、木更津中央・鈴木、東邦・水谷と小柄な好投手が多かった印象。 >>209
ベスト4のうち、坂出商だけどうしても思い出せない?!w
どんなチームだったんだろう… 71坂出商は岩崎投手を中心にした守備型のチーム
日大三との準決勝で「坂出の内野は打球を正面に持っていきますねえ」 と解説の人が言っていた
当時小学生だったから誰が解説だったかは覚えていない 当時の坂出商はエースに予定してた選手が不振で二番手の岩崎の踏ん張りで超高級の捕
手の梨田(現・楽天監督)のいた浜田、甲子園で開花した南投手の徳島商そして優勝候
補の三重に勝った近大附を破って準決勝進出・・・目立った選手がいなかったから印象
に残ってないかもしれませんねぇ 坂出商はその後不振が続いたが、80年代に復活し90年代前半まではちょくちょく甲子園に顔を見せるようになった
朝倉投手の91年春にベスト8入りした以外は成績はふるわないが
近年は弱くなってしまったねえ
久々に出てきた2014年夏はとんでもなく弱くて悲しかった 守りの坂出商の真髄は準々の近大付戦。
延長13回の末1-0で勝ったのだが、左腕岩崎は11安打を打たれながら奪三振も与四球もゼロ。
この試合の11回裏の守りで二死一塁でレフトへの当たりを城山が後ろにそらして誰もが近大付のサヨナラ勝ちと思ったが、三塁コーチャーがストップをかけたので命拾い。
13回表、その城山が決勝打をたたき出した。
近大付の投手は日生から巨人入りした中司だった。 坂出商と言えば、昭和30年夏に準優勝したのが記憶に新しい それ、今日の朝日新聞に載ってた気がする
記憶に新しいはずだww 坂出商の監督と言えば宮武さんが記憶に残るが、彼は高松商の現役時代にチョンボしたのではなかったかな?
ちょうど蔦監督が徳島商の現役時代に自分のミスで負けたみたいな・・・ >>170
72年センバツの大鉄には期待したが、くじ運が........ww
でも、好試合だった。
テレビ中継で、当時2年生の山村を解説者が絶賛していたのを覚えている。 >>208
早稲田の有賀といえば、75年夏早実のトップバッターの捕手。
早大に進み岡田とクリーンアップを組み、79年春に首位打者。日産自動車から阪急入り。
有賀さつきさんとは親戚なのかは知らないが。 長野にも有賀姓があるが
こちらの読みはもっぱら「あるが」 昭和20年代のプロ野球はたまに話題になるが、選抜高校野球は全く話題にあがらない
京都一商VS京都二商、北野VS芦屋、鳴門VS鳴尾 韮山など凄すぎ。当時は選手権ではやって
いない校歌の演奏をやっていたはず。当時を体験された方のはなし聞きたい >>219
72年春では東北を頑張りだな。
奈良工はまだしも、箕島を破った倉敷工に勝った時には驚いた。
当時は東北も、まだ弱い北日本の一高校の認識だった。 春先だがら左腕岡嶋の変化球を各校は攻略できなかったな
さすがに日大桜丘の主軸は捉えてサヨナラ負け
夏になり各校の打撃が上がると通用せず天理に打ち込まれて負け 日大桜丘もあの年だけやったねぇ東都の名将が指揮をとってるというので注目していた
がお目にかかれない 日大桜丘・常田も期待された大型キャッチャーだったが、挫折した。
審判員をやっていたな。 岡嶋はあのとき二年生だった。
翌年は期待されながら甲子園に戻ってくることができなかった。
秋の東北大会は日大山形に敗れたのかな。しかし選抜の東北の枠が1だったから。 >>228
準決勝敗退だから、枠が「2」でも落選濃厚。
72年のチームは、庄子以下打線が活発。 ジャンボ仲根も横浜の永川も早死したもんだねー。残念。 シュミレーションゲーム俺の甲子園
ここから始めると部費15万円が支給されお得ですよ。
面白いよ。
http://orekou.net/i/644z >>224
東北のユニフォームは、今とは全然違うデザイン。
庇が青で白の帽子。縦縞のないユニフォーム。 常田といえば、夏の高知商戦の9回裏の同点アーチが印象深い。
この一打で延長戦にもつれこんだが、11回にまたしても守備が破綻して敗れた。
この試合は72年の春夏の甲子園での唯一の延長戦だった。 >>228
72年秋の東北大会はダントツの優勝候補東北が日大山形に5ー4で準決勝敗退という波乱
日大山形は決勝でも仙台育英に快勝し優勝
小粒ながらまとまったチームで春夏の甲子園で1勝ずつを挙げた
その2年後の金子投手のチームは打力もあり、渋谷監督は甲子園での優勝を狙っていたようだが赤嶺投手を擁する豊見城に負けた >>233
高知商の益永も粘り強いピッチングだった。
明大では、同級生の安岡、岡村に比べて出番に恵まれなかった。
同タイプの2年後輩・鹿取は大活躍したのに...... ユーチューブ便利だな。浪商箕島の後、福井商、浜松商もみた。当時福井商、板倉のアンダースローが良いと思っていたが、今見るとこの決勝ではかなり疲れているように見える。箕島の石井毅がアンダースローでは最強かな ? >>234
73年に春夏連続出場した日大山形の左腕・熊谷は2年生じゃなかった?
その翌年は不調だったの? >>237
そう、二年生だった。もともとカーブが武器の投手で力強さはなかった。
両親がともに視力が弱くてマッサージ師をして熊谷を育てられたという記事を読んだ記憶がある。 >>239
ありがとうございます。
熊谷はカーブが生命線の投手でしたね。
選抜の2回戦の天理には、そのカーブを狙い打たれて大敗しました。 高校野球シュミレーションゲーム『俺の甲子園』
http://orekou.net/i/644z
ここから始めると部費15万が支給されお得ですよ。
速い者勝ちですよ。面白いよ。 >>238
前側がN o.1に異議なし。センバツは準々決勝で高知に逆転で一点差負け、夏は県決勝で三国に逆転で一点差負けの記憶あり。プロでも充分活躍すると思ったが卒業後、何をしていたのだろうか不明。 京都商業の清川。
あと最近だと大垣日大葛西、九産大九州の岩田が左アンダーとしては印象的。 前側は明大に行ったが馴染めずに退部か退学したんじゃなかった? いたな習志野の鵜野。
この時の習志野は夏に全国優勝、
翌年のセンバツにも出場して、
夏春連覇を狙っていた。
初戦の大社に大逆転勝利したが、
次に千葉の天敵の東洋大姫路に敗退した >>249
アンダーハンドは打者のタイミングを外す技巧派が多いが、前側は球速球威もあった
球威もあった箕島の石井がプロ入りしそこそこ活躍したが、明治大学の闇にとらわれなければ同じぐらい活躍できたと思う 前側は神宮で優勝。確か県予選から50何イニング無失点だった。優勝した高知に負けたときも2-1で、唯一のチャンスに3ベ一スを打たれて負けた。
とにかく球速が抜群で、浮き上がるシュ一トがすごかった。 >>251
馴染めずと言うか、造反劇を起こした一味。
結局退学して、「福井商卒」のまま電電北陸に在籍した。 前側は二回戦プロに行った広島県工の小林誠に完封勝利。この大会、速球派ナンバー1と言われていた小林より、前側の方が遥かに球速、球威共にあったと子供ながらに感じていた。
高校1年から投手、2年からアンダーに変更した。福井商に打力があれば優勝してもおかしくなかった。 >>250
清川はサイドスローでは?
活躍はできなかったが上宮に松島という下手投げの
好投手がセンバツ前には評価されてたが初戦敗退 前側で印象に残ることは、投げるときに足が地面につくくらいかがんでいたこと。ユニフォームの膝に土が付着するほどだった。
それだけ下半身が強靭だったということだろう。いまあんな投手はいないな。いまの投手は腕の力だけで投げるのがほとんどだから。
明治大学では内紛が起きていたな、1シーズンだけ光沢監督だったがすぐに島岡御大に戻っていたが。 >>250
>>257
京都商・清川がサイドスローになったのはプロ入りしてから。
高校、大学時代はスリークォーター。 >>56
春も夏(しかも予選から)も牛島は連投に次ぐ連投で、現代だったらとても投げさせられないような状態でずっと投げてたんでしょ?
それでも試合を壊さなかったのは凄いけど、現代の打撃レベルだったらひとたまりもなかっただろうな〜 >>256
地元では前側のチームに77年78年のときの打力があれば優勝間違いなしだったとよく言われていた >>240
札幌商の佐藤は、サイド・アンダーの投手として高卒では初のドラフト1位指名だった。 >>252
鵜野氏は小川が抜けたあとの習志野のマウンドを守り、秋の関東で準優勝、選抜出場に導いた。
もう亡くなっていると聞いた。 甲子園で投げた左のアンダースロー投手たちは
元ロッテの渡辺俊介投手のような地面すれすれから投げてたのですか?
サイドの少し下くらいか?(クウォーター) >>257
83年春、上宮の松島は初戦敗退じゃないぞ。
初戦は興南のマイク仲田幸司と投げ合い、9回竹田の同点アーチで追いつき、10回併殺崩れでサヨナラ勝ち。
つづく明徳戦は序盤から苦しみ、3回途中でKO、1-7で完敗。
前年秋の近畿大会の山城戦でノーヒットノーランを演じていたので期待されたが、選抜では下痢で体調を崩していたと聞いた。 83春の上宮の松島は初戦敗退していない。
興南の仲田と投げ合い延長サヨナラ勝ち。
次の明徳戦では序盤でKOされ敗退 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています