753続き
1982年のぱふ「拝啓 中島梓様」の中で竹宮さんは
「風木」を描いた理由は「コンプレックスを持った作家になりたかったから」と書いています
「可もなく不可もなくの漫画家だった私が、「作家らしく」なりたいために
大泉で考えに考えた答えがこれ」だったと。
https://mototemplate.memo.wiki/d/%a1%da%c3%dd%b5%dc%b7%c3%bb%d2%a1%a7%c7%d2%b7%bc%a1%a1%c3%e6%c5%e7%b0%b4%cd%cd%a1%db
これは自筆年譜の昭和46年(1971年)「空がすき!」連載開始の項で
「増山の吹き込み(?)で少年を描くことに専念し始める」と書いたこととも符合します
その結果のスランプであったなら、増山さんとの共作は蜜であると同時に毒だったといえるのでは