1982年「ぱふ」39p「表面には出さない強さで戦う人」のささやさん証言より
>私たちにとっては竹宮恵子というのは一人じゃ考えられない、常にノンタンが側にいるから。
>あれはいいコンビです

同誌41p、伊東愛子・たらさわみち対談「ケーコタンがんばって!」より
>伊東:昔から、描き手としての彼女の持ってた悩みなんかはハタから見てた増山さんのほうがわかるみたいで。
>(増山さんが)つきっきりでネームを見たり、構図ひとつにしても、竹宮恵子はこういうのよりこういうのを描く、これが本当のあなたなんだって言うわけです。
>半ばできあがっていても、やり直しするわけです。
>たらさわ:それは今でもやっているんですね。仕事でギリギリであっても。
>伊東:そうなの、ネームをみんな捨てちゃうの。
>たらさわ:1日つぶしてやり直しのディスカッションして。
>伊東:以前のケーコタンの中に散っていたものーたとえばカラー1枚とっても、私はすごいマニアだったから「ここはどうしてこんな色にぬるのかなあ」ってアンバランスを感じてたのよねーそれが増山さんによってどんどん結晶してされていった。「変奏曲」を描いた時に至っては、もう文句なしですね。(引用以上) 

大泉時代から約10年、竹宮・増山さんを近くで見ていた3人の証言は信用できると思います
萩尾さんも大泉本268pで指摘したように、実際にぞの時期まで竹宮さんと増山さんが
「お互いに作品のパートナーとして、なくてはならない存在」だったとすれば
原作者の権利を主張するキャンディ裁判は、対岸の火事とも言っていられないでしょう。
竹増関係を知る萩尾さんが、増山さん寄りの発言をすることを怖れた誰かが
萩尾さんを中傷し始めた可能性もあるのではないか?と妄想