>>519
わかる範囲で。増山さんが少女マンガ家として発言しているのは
・1980年2月『竹宮恵子・萩尾望都 少女マンガ家になれる本』(二見書房刊/游企画/定価890円)
第一章技術編「マンガはこうしてつくられる」第一線少女マンガ家座談会
竹宮恵子・増山法恵・伊東愛子・たらさわみち氏が顔写真付きで登場(9pから68p)
マンガ制作について対等に語っている
(余談ですが最終頁に企画・取材の今中寿夫氏は急逝されたとの編集部の弔辞あり)

なお、増山さんが原作者として公表されたのは
・1988年2月ペーパームーンコミックス版「変奏曲」あとがきが最初
内容はまとめサイト参照
https://mototemplate.memo.wiki/d/%a1%da%b8%b6%ba%ee%bc%d4%cc%be%a4%ce%b8%f8%c9%bd%a1%a7%c3%dd%b5%dc%d8%aa%bb%d2%a1%a6%c1%fd%bb%b3%a4%ce%a4%ea%a4%a8%a1%db

増山さんは1972年以降、80年代のある時期まで竹宮さんと同居していたようですから
その間の呼称は「マンガ家、マンガ原作者、プロデューサー、編集者、ディレクター、
マネージャー、同志、仲間、ライバル…」(ジル本236p)までどれもありだったのでは。
最終的に「友人」「かけがえのない戦友」に落とし込むのは、やや欺瞞に思えます