■■囲碁のルールを語るスレ■■
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■■囲碁のルールを語るスレ■■
さまざまな囲碁のルールの比較、
現在の囲碁のルールの問題点、改善案などについて語るスレです。
捏造だとか言ってる変な人はほっといて、真面目にルールの話。
中国ルール+同形再現禁止なら単純明快で厳密だという意見がスレ最初の方で多数あるが、
日本ルールの>>3の問題点もすべては同形再現に起因するものだ。
よって同形再現禁止にするならば日本ルール(7−2廃止&その他の調整)でも厳密性は同等だし、理解も容易い。 両負けの規定がおかしいと言っている人も誤解している。
これはあくまでも>>166のような未決着問題のためにある。
つまり、終局前に両者共に有効着手を逃すミスを犯し、
しかもそれがお互いに勝敗に直結する致命的なものだった場合は、対局の再開要請や死活の合意は成立しない。
そのようなケースで双方負けになるのはむしろ当然だろう。
「死活の合意を拒否する」というのは、
明らかに死んでいる石を活石だと言い張ることではない。 現状ほとんどの人は中国式計算法か日本式計算法かという軸で囲碁ルールを大別してると思うけど、
自分は大別するなら全局同形禁止か一手前同形禁止かという軸で分類したほうが適切だという気がしている。
全局同形禁止は全局死活と相性がいい。終局は合意(省略)で決まる。不合意なら実戦解決。その勝負形式に合う計算法が中国式。
一手前同形禁止は部分死活と相性がいい。終局は連続パス(機械的)で決まる。不合意なら判定方式。その勝負形式に合う計算法が日本式。
同形禁止の差は着手可能点の差だから、終局後の計算法よりもゲーム性への影響は大きいと考えられる。 同形再現禁止はルール問題の曖昧性を解消するのにもっとも有効な策だが、
同時にもっとも意見の分かれるところであろう。
言い換えれば、囲碁ルールを立案するにあたって最初のもっとも重要な岐路は、同形再現を禁止するか否かである。
全局同形禁止のデメリット
・着手の自由度が損なわれる。
チェスや将棋でも同形反復は禁止とはせず、数回の反復を確認した後に引き分け扱い。
無勝負に持ち込むのもテクニック。
あるいは、優勢側が同形反復回避で解決できるケースもあり、
そのような駆け引きも勝負としての面白さである。
・通常の劫ですら劫ダテを忘れて反則負けになる例があるのに、さらに禁じ手を増やしてゲームに集中できるか?
しかも、同形再現は次の着手にだけ注意を払えば済む問題ではなく、
数手先に必要に迫られる着手も同形再現とならないか気に掛けておかねばならないのである。
「反則負け」という結末は、対局者も観衆も基本望むものではないと思われるし、不名誉なイメージもある。
・同形再現の判断は難しい。
http://igo.main.jp/zenzen1.html
この解説の白14放り込みが黒9の盤面と同一になっていることに何人が気づくだろうか?
(つまり、上記リンク先の解説は間違っている)
立会人や審判が気づかなかったらどうするか?
「対局相手が気づいて指摘した場合のみ」などの案もあるが、
通常の劫における(傍から見れば明らかな)反則でもそれを適用するのかどうかや、
反則の指摘が勘違いだったらどうするのか?後から気づいて指摘しても有効か?
等も、なるべく万人が受け入れられる形で決定せねばならない。
・下記リンク先「常識が覆される図例」その他の解説はごもっとも。
すなわち、着手可能点がまったく残されていない場合には異常な死活が発生する。
(9路対局等では現実味はある)。
http://igo.main.jp/jp-rule-cn.html
・三劫や長生なら無勝負も可。という例外を中韓棋士も好んでいるようである。
同形反復が発生したら再勝負で仕切り直した方が対局者も気持ちを切り替えて後腐れがない。
・常に白黒ついてしまうよりも、無勝負もあった方が話題性がある。
例:信長の三劫の逸話。
呉清源「長生は100万局をしても見たことがない。もし発生すればめでたい」
ちなみに、リンク先記事は鄭銘コウ氏の論考のはずだが、同氏自身が強調しつつ、
その上自ら立証してしまっているように、プロでも同形再現はうっかりしやすいようである。 囲碁ルールを考察する上で計算法の立ち位置は最後。
順番としては、
全局同形禁止か、通常劫ルールか?
通常劫ルールなら、全局死活(如仏の判決支持)か、部分死活(劫尽くし不可も隅の曲がり四目死)か?
部分死活なら、性生論(劫材有利で手入れ不要)か、性死論(常に手入れ必要)か?
そして最後に決めるのが、純碁式か、中国式か、日本式か?
という得点の計算法だ。
なのに、囲碁ルールを語る者はみな計算法を中心にして分別するものだと思いこんでいる。
だから俯瞰的な論理構造が見えていない。本質を見誤る。木を見て森を見ずである。
<塚本氏の誤り>
一例を紹介すると、「着手は義務か権利か」という議論だ。
自分に言わせれば、着手は権利であって義務ではないのは明白だ。
そしてそれは、中国式か日本式かといった計算法の違いとは別次元の、もっと上位階層に位置する基本的な問題である。
であるからして、塚本氏の「着手は義務」だという考察は誤りだ。
同氏はまた、日本式の碁が省略であるといった旨も述べているが、であるならばそれこそ矛盾していることになる。
日本式が純碁式まで打つのを省略しているだけなのだとすれば、純碁式でも着手は義務だということになり、
池田氏の述べるとおりいずれは二眼生きの石に自爆手を打たざるを得ないことになる。
もう少し詳しく説明しよう。
着手が義務だとすれば、それは>>736のいうように、チェス風に言って"スティールメイト"をさせるゲームになる。
>>750を例にするなら、白はパス(義務の放棄)をすると負けだから自分の目に打つことになってさらにゲームは続く。
ただいずれ盤上は、どちらかの単一の目のみで埋め尽くされることになるだろう。
(もしくは、自殺手――自分は打てるが相手は打てないような、死石を取り上げる直前の状態のみになる)
そして最後には、どちらかが自分の意思とは無関係にパスせざるを得なくなる。
となればそれが負けである。そういうゲームになる。
だから同氏の、「パスと終局宣言は区別されるべきものだ」といった線引も、客観的に明確ではない。
二眼の目は着手禁止だというルールは聞いたことがないからだ。
いくら一方が「これはパスではなく終局宣言だ」と主張したところで、盤上に打てる着点が存在する限りは、
もう一方が「まだ終局ではない」と反論したら「着手は義務」のルールにしたがって
自分の目の中だろうと打たねばならないはずだ。
そしてそのようなゲームは、少なくとも我々が知っている「碁」ではない。
ちなみに同氏は双六にたとえて終局を考察しているが、
双六の決着方法(実戦的決着)と、碁の決着方法(得点で決着)では
根本的に異なっているため、まるで説明になっていない。
以上のことから明らかなごとく、「着手は義務か権利か」の議論は、
純碁式か日本式かという計算法の違い以前の、もっと遡った基本的な着手規則=棋法の
問題なのだということがわかるだろう。
日本式だろうと地数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
純碁式だろうと石数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
着手が義務だとすれば、日本式だろうと純碁式だろうと上記のようなゲームになってしまう。
ちなみに、塚本氏の劫にかんする手入れの考察もまったくチンプンカンプンである。
「ヨセ劫は手入れ不要」の理屈は、着手は義務ではなく権利であることを前提とした上での、
対局者自身の自由意思に基づいた着手選択による決着である。
一方、「一手劫は手入れ必要」の理屈は、同士の語る「両劫に仮生一」問題と同じく、
「部分死活」によって劫尽くしと見なすことによる後付け的解釈である。
だからこそ、如仏の判決や、呉清源の手入れ問題が、ルールを語る上で大きな意味を持つのである。 補足しておくけど、「本劫手入れ必要」言い換えれば「劫の目を得点としない」は、
現行規約においては部分死活論によって合理的根拠を与えているのは述べたとおりだが、
本来この問題は、死活論とは【まったくの別問題だ。】
なぜなら部分死活といってもその定義は他にもあり得るのであり、
たとえば、「自分方の着手により取られない石が活石」とするなら、劫の目は活石に囲まれた地になる。
さらに二段劫の目に至っては、現行規約においても
八条「駄目を有する活石はセキ石(地を数えない)」や、
十条「セキ石の死石は取り上げない」といった『セキルール』によって、
得点としないことの合理的根拠を与えているのであり、
もはや七条の部分死活は直接的には関係ない事が分かる。
ということはつまり、本因坊秀哉と久保松勝喜代の手入れ議論や、呉清源の手入れ事件も、
実のところは、死活を全局的に考えるとか、部分的に考えるかといった
「死活論」の話ではまったくないのである。
ではその本質は何かと言えば、単純に、劫の目を得点として数えるか否かという、
セキのルールと同じような得点法の問題だ。
したがって、石+地+手止まり代を得点とする方式と、地+ハマを得点とする方式は、
劫の目とセキの目を得点とするならば完全に同値である。
ところがそれは、石のみを得点とする純碁とは完全には一致しない。
中国式(切賃あり)であろうとも、劫の目やセキの目をすべて得点として数えてしまうことにより、
打ち切った局面にもかかわらず純碁と結果が変わる例がある。
○○●●○┬○●●
○▲○●○○○●×
○○○●○┼○●● (▲は白のハマ)黒★劫取りに、白パス、黒パスで終局。続けて白Bは超劫。
├○○●○○○●●
○○○●●●○●×
●●●b●○●●●
●a●●●○○●A
├●●○○┼○○●
●┴●○┴○○★B
純碁=黒1目勝ち(黒A白Bと譲る代わりに黒a,bに手入れしても結果は同じ)
中国ルール+切賃=黒5目勝ち
中国ルール=黒3目勝ち
日本囲碁規約=白1目勝ち(ただし上図のままで終局すると、ABおよび×は地でなく白2目勝ち)
ルールが変われば結果も変わるという良い例。
×○●●┯○●●×
○○○●┼○●○○
●●●●○○○○● 黒白共に×と相手石を取り上げる手は攻め合い負けとなるため打てない。
○○○○○●●●●
●●●●●●●●●
┠●●●●●●●●
●●○○○○○○○
┠●○○○○○○○
●●○○○┷○┷○
純碁=黒1目勝ち
中国ルール+切賃=持碁
日本囲碁規約=白1目勝ち
こちらもまた、中国ルール+切賃であっても純碁と結果が異なる。
というわけで、本因坊や呉清源ですら、問題の本質的な切り分けや分類ができずに混同していたのだという分析を提起しておく。
本劫手入れ必要か否か?それは、単なる得点法の問題なのである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています