■■囲碁のルールを語るスレ■■
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
>>615
そのへんはとってつけた理屈だろうから論ずるに値しないと思う
とにかく根本的なスタートラインが間違ってるから上に積み上げるもんもどんどんずれてってる >>609
やはり読解力というか国語力に深刻な問題があるんだと思う
これだと社会生活にも影響があるでしょ?
囲碁をやっている場合じゃない
本を読んだ方がいいよ
>>611
>「面倒だからルールを変えるのは合理的でない」って主張
ここでは誰もそんなことを主張していないから意見を聞かれても困るな
一般には「面倒だからルールを変えるのは合理的でない」という人もいれば「面倒なら変えればいい」という人もいる
前者の人がいる以上は「面倒だから」というだけの理由ではルールを変えることに社会的な合意が得られない
しかも切り賃についてはコンピュータの登場で「面倒だから」という理由すら成立しなくなってしまったという状況にある
なので現状においては「面倒だから」が合理的な理由になるのかは今の議論には関係ない
という説明を散々しているんだが
>普通の碁打ちは「囲碁を馬鹿にしてる」と思うはずなんだよ
ここの考えは理解できないからもう少し説明して欲しい
論理的には「もっと正当な理由があるはず」というのが普通だと思うけど
>後者のような理由が存在しないのは、少しルールに詳しい碁打ちなら誰でも知ってること
そういう主張があることは分かったけど他の人は納得していないようだ
今のところ理由が一つも出ていないところを見ると合理的な理由はなさそうだが
俺の質問は「合理的な理由はあるか?」で回答が「ない」なんだから話は噛み合っていると思う
「囲碁を馬鹿にしてる」という主張だけが意味不明だが
>>612
コンピュータスレからの荒らしが来ているみたいだな
他人の発言を捏造して叩くというやり方が同じだ ちなみに(コンピュータで)最後まで打ちきって判定することを前提にすると
「石」でも「地」でもほとんど違いはない(石に囲まれた眼の数=切り賃を加えるだけ)ので終局処理の手間は変わらない
ルールとしては「石」の方が「地」を定義しないで済む分だけ簡潔になり初心者にとってやさしくなる
熟練者にとってはどちらでもほぼ変わらない
歴史的には「石」の方が本来の形であるので文化伝統的に望ましい
ただし「地」を日本独自のゲームとするなら話は別
ゲームの目的として「地」に拘るべき理由は分からない
もし誰か知っていたら教えて欲しい
狩猟系の包囲ゲームをベースにしてパスの取り扱いを調整すると「地」の多少を争うゲームに近いものができる
切り賃問題についてこちらからのアプローチができないかどうかを思案中 >>617 俺の質問は「合理的な理由はあるか?」で回答が「ない」なんだから話は噛み合っていると思う
いや、違うよ
「面倒だから」というのをあなたは「合理的でない」と判断し、他の多くは「合理的」と判断しているんだから話はかみ合っていない >>619
普通は「面倒だからルールを変えることは合理的だ」という
しかし、この人は「合理的」を「理論的に考えてやむを得ない理由があること」くらいの意味で使ってるから
「面倒だからルールを変えることは合理的ではない」という結論になる
そして、後者の理窟に従って「囲碁のルールが変えられたのは、他に合理的な理由があるはずだ」と
他の人が考えてもいないことを主張してる
これが現状 亜 哀 挨 愛 曖
悪 握 圧 扱 宛
嵐 安 案 暗 以
衣 位 囲 医 依
委 威 為 畏 胃
尉 異 移 萎 偉
椅 彙 意 違 維
慰 遺 緯 域 育
一 壱 逸 茨 芋
引 印 因 咽 姻
員 院 淫 陰 飲
隠 韻 右 宇 羽
雨 唄 鬱 畝 浦
運 雲 永 泳 英
映 栄 営 詠 影
鋭 衛 易 疫 益
液 駅 悦 越 謁
閲 円 延 沿 炎
怨 宴 媛 援 園
煙 猿 遠 鉛 塩
演 縁 艶 汚 王
凹 央 応 往 押
旺 欧 殴 桜 翁
奥 横 岡 屋 億
憶 臆 虞 乙 俺
卸 音 恩 温 穏
下 化 火 加 可
仮 何 花 佳 価
果 河 苛 科 架
夏 家 荷 華 菓
貨 渦 過 嫁 暇
禍 靴 寡 歌 箇
稼 課 蚊 牙 瓦
我 画 芽 賀 雅
餓 介 回 灰 会
快 戒 改 怪 拐
悔 海 界 皆 械
絵 開 階 塊 楷
解 潰 壊 懐 諧
貝 外 劾 害 崖
涯 街 慨 蓋 該
概 骸 垣 柿 各
角 拡 革 格 核
殻 郭 覚 較 隔
閣 確 獲 嚇 穫
学 岳 楽 額 顎
掛 潟 括 活 喝
渇 割 葛 滑 褐
轄 且 株 釜 鎌
刈 干 刊 甘 汗
缶 完 肝 官 冠
巻 看 陥 乾 勘
患 貫 寒 喚 堪
換 敢 棺 款 間
閑 勧 寛 幹 感
漢 慣 管 関 歓
監 緩 憾 還 館
環 簡 観 韓 艦
鑑 丸 含 岸 岩
玩 眼 頑 顔 願 >>619-620
いくら言葉遊びをしても切り賃を廃止する理由にはならないんだよな
何度も書いているように仮に「面倒だから」というのを理由にしても
「そもそも面倒なことじゃない」「面倒だからと言って勝ちを負けにするな」「今はコンピュータがあるから面倒ではない」という人々を説得できない
理性的な人は論理的に筋が通っていないと納得しないんだよ
もちろん囲碁をやっている人が理性的ではないということはありえない
普通は「面倒だから」で納得するなんてあまり碁打ちをバカにしない方がいいんじゃないかな? 改めて整理すると
「本来の碁は盤上の石の数を争う」「現在の囲碁は地の多少を争う」という広く認められた二つの事実の整合性をどうやって説明するかという問題
普通は切り賃を入れれば両者は等価であるという説明がされるが
現実には現在は切り賃は廃止されているために切り賃を廃止できる理由がないと説明が完結しない
「面倒だから」は現在では全く理由にならない
今のところ理由を提示できた人は誰もいないので
二つの事実は整合していない可能性が高い
整合性の説明ができないと日本囲碁規約の第一条が崩壊する
(切り賃を入れれば「石」=「地」なので第一条は正しいが、その場合には正しさを担保している切り賃は廃止できない)
日本ルールから派生した中国ルール等も同様
もちろん「現在の囲碁」と「本来の碁」を別のゲームとして区別するのなら整合していないのは当たり前のことであり
俺を含めてそう考えている人は多いが一般には認められていない ゲームとしては両対局者が合意していれば問題ないので
事前に「切り賃は互いに0」という合意をしているだけだという解釈もできるのだが
その場合は対局者に合意をしない(切り賃有りで打つ)という権利が発生する
つまり合意の場合にはルール上で強制はできない たとえばこんな盤面を想像してみよう
____A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I._J._K._L_M_N._O_P_Q_R_S
01●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
02●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
03●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
04●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
05●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
06●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
07●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
08●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
09●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
10●●●●●●●●●╋●●●●●●●●●
11●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
12●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
13●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
14●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
15●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
16●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
17●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
18●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
19●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
黒アゲハマ:720
白アゲハマ:0
コミなし
この状態で終局となった場合には、この黒石の死活は果たしてどう判定されるんだろうか?
黒は自殺手禁止により当然着手不可能(いや仮に自殺手可だったとしてそれでどうしろというのか)
しかし白も、アゲハマ360に加えて地を361としたい…というかそれ以前に、
もしも黒石を打ち上げたならばすべてが白地にならないのは明々白々なので着手を拒否するわけだ
死活をルール化するということは、このような盤面に対しても一意の判定を見出そうとする無茶苦茶な挑戦のように思える
とはいえこの盤面だと、死活判定を対局者の合意と実戦解決に任せた中国ルールですら解決は不可能だろう
お互いに死活には同意しない、されども、どちらも着手はしないという異常事態
そうするとこれは無勝負か?
こうなるといよいよ純碁の出番になるかもしれない
しかし、純碁でさえも結果に納得できるわけではない
白はこのまま終局すれば黒の勝ちが明らかなので着手して打ち上げる
しかしそうなると、アゲハマを計算しない純碁ではまた対局がほぼゼロから始まってしまうことになる
普通に考えれば、360子の石を取り上げた白よりもアゲハマ720を有する黒が明らかに有利なのにもかかわらずだ
…俺は何かアホなことを言っているのだろうか? >>625
この局面だと黒石を打って埋めても白石が一つもないので黒石を取り上げることはできない
なので黒番なら打ってしまって白パス黒パスで終局となる
白番なら白が打って石を取り上げてほぼセロからのやり直しになる
例えば端の方に白の地を用意しておけば黒はパスしかない
白はパスなら負けが確定してしまうので打ってほぼセロからのやり直しになる
これは現状では黒の活き石がないのだから当然のこと
このように中国ルールや純碁ではハマは関係ないので何もおかしなことは起こらない
こういう疑問が出てくるのは「盤上の石の数を競う」という碁の本質を理解していないからではないかな
最後に盤上の石が多い方が勝ちなんだからハマはいくらあっても関係ない
ハマの数を競うのは上で紹介した笊碁や狩猟系包囲ゲームであって本来の碁ではないんだな ハマを競うのは本来の碁ではないってクソ意見は聞く耳持たないので無視するが
白石が存在しなければ黒の天元打ちは自殺手ではないってのはありなのか?
本当に??
調べてたらたまたま「巨大墓場」の問題だって分かったけど、↑についてはわからなかったよ
黒が天元に打てないと仮定するなら、
ハマを無視する中国ルールでは白が黒石を打ち上げるメリットはまるでないのだからパスが最善のはずだ
(実戦解決でパスを認めないというならば、黒先ではパスせざるを得ない状態をどう正当化する?)
そして黒も天元に打てないので未解決のまま、けれどセキの合意は得られずに続行不能
または黒が天元に打てると仮定しても、
白先では完全に仕切り直しになってしまうのは、ハマを計算しない方式の意外な欠陥ということだな >>627
「ハマを競うのは本来の碁ではない」というのを否定するのは「アホなことを言っている」としか言いようがない
一つ勘違いしていたので訂正
調べたら現行の中国ルールでも日本ルールと同様に天元には打てなかった
どうやっても白が囲んでいると解釈できないのに黒石がとられるのはおかしいので打てないのは日本ルールのバグだが中国ルールにも伝染していた
まーこんな状況は起こらないので現実には問題ないバグだが
「巨大墓場」の問題は両負けがある日本ルール特有の問題で中国ルールや純碁では問題にはならない
実戦解決すれば終わる話だからな
ハマの問題も日本ルール特有の問題だが説明がややこしくなる
この後に説明するから理解できる人だけ理解してくれ 日本囲碁規約の第一条には「囲碁は「地」の大小を争うことを目的」とするとある
ここの「地」というのは本来は「盤上の石の数」であるわけだが切り賃まで考慮すれば「地」と書いても問題ない
ただし「地」に書き換えられるのは切り賃がある場合のみだというのが今このスレで議論されていることだが
このレスでは関係ないのでスキップして以下では切り賃はゼロだとして純碁=中国式判定の場合で説明する
よく言われているように第一条の「地」というのは規約の他の部分にある地とは意味が違う
ここでの「地」はハマで埋めて整地された後の「地」のことであり、普通は地+ハマの数になる(韓国ルールでは明記)
ただし埋めるハマが地を超えた場合には地がなくなってハマが余ってしまうので問題が生じるが(この場合にどうするのかは規約には書いていない)
「地」の数に理論的にマイナスを導入すれば韓国ルールと一致するので以下ではそうする
説明を簡単にするために白番で終局した場合を考え(黒番で終局の場合には最後に白のパスを追加する)
また死石は全て取り上げてハマに加えておき、盤上の石を活石のみとする
日本ルールと中国ルールで同じ終局図だったとして地の判定(合意)も同じだったとする
(現実には日本ルールで地の判定が変わってしまうこともあり問題視されているがそれは別の問題)
中国式判定では
黒の目数=(黒石+黒地)ー(白石+白地)
でハマは関係ない
これを日本ルールに変換するには
黒の手数=黒石+ハマ黒石+黒パス=白の手数=白石+ハマ白石+白パス
の恒等式を使って変形して
黒の目数=(黒地ーハマ黒石ー黒パス)ー(白地ーハマ白石ー白パス)
とする
よって、もしパスの数が同じなら、日本ルールは純碁=中国式判定に一致して規約の第一条が正当化されるが
>>625の例のようにパスの数が異なる(つまり石の総数が釣り合っていない)場合には問題が生じてしまう
この問題の解決策は以下の2つがあり、日本ルールは本来どちらかである必要がある
1.パスを認めない(整地時は別)
2.パスをする時にハマ石を一つ渡す(石の数を釣り合わせる)
つまりハマの問題というのはよく議論されている日本ルールのパスの処理の問題に帰着されるわけだな http://igo.main.jp/jp-rule-mon1989.htmlより
┌┬┬▲○○┐
├┼☆┼●○○
├●┼●●○┤
├┼●○○○○
├┼●●○●○
├┼┼┼●●●
└┴┴┴┴┴┘
黒▲と打った局面。
白は☆に打てば手にすることができるが、それでも明らかに地が足りない。
そこで、ルールを良く知る白はここでパスをする。
黒も気づかないのでパスをする。
しかし、両者結果の合意は得られない。
そこで、審判が登場することになる。
すると、▲はセキと判定されることになり、黒地0目であるから白の勝ちとなる。
…この戦法が卑怯だと咎めることは決してできないであろう。
そして審判の黒地0目という判定もやむを得ない。
なぜなら、取らず三目の場合には放置したまま終局したらセキと判定しなければならないから。
ここを裁量にまかせてしまったらルールが形骸化するだろう。
つまり、たとえ審判がいても、死活に合意しないという戦略を故意に利用することができる。
それとも、「双方が石の死活及び地を確認し、合意することにより対局は終了する」
という条項は、取らず三目の場合にもうっかり放置してしまったら、
審判からセキだという回答をもらった後に、やっぱりだめだと言って手入れをさせてもらえるのだろうか。 http://www.vimage.co.jp/~iehiro/cgi-bin/gocaffe/katte024.htm
※コミ5目半
┌┬○┬┬○●┬●
○○○○○○●●○
●●●●●○○●┤
├┼┼┼●○┼●┤
├●┼┼●○○●●
●┼●●●●○○┤
●●○○○●●○○
○○┼┼○●┼●○
└┴○○○●●●○
これの解説が
http://don.my.coocan.jp/kiyaku_kaisyaku/sikatu7.htm
にあるけど、間違ってない?
黒の両ウッテガエシの劫立てに白が手抜きして右上解消した場合の説明で
____A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I._ ____.A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I.
01□□○□□○□○□ 01┏┯○┯┯○┯○┓
02○○○○○○□□○ 02○○○○○○┼┼○
03●●●●●○○□○ 03●●●●●○○┼○
04●■■■●○□□○ 04●┼┼┼●○┼┼○
05■●■■●○○□□ 05┠●・┼●○○┼┨
06●■●●●●○○□ 06●┼●●●●○○┨
07●●☆☆☆●●○○ 07●●○○○●●○○
08☆☆●■☆●■●○ 08○○●┼○●┼●○
09■●☆☆☆●●●● 09┗◆○○○●●●●
白 0.5目勝ち(黒地 30-白地 25)
となっているけど、実際は黒30―白23で、黒1.5勝ちではないのかな 元リンクにも結果は書いてないから自分の答えを書くけど、
黒C08に白はB09と受けて、黒I01、白パス、黒I04で
黒半目勝ちが双方最善。
ところがそうなると、こちらの解説で
http://igo.main.jp/jp-rule-mon1989.html
>この局面では白がパスをするのが最善。普通に「駄目」を打つと白負けになる。
>白パスの後、黒が普通に駄目を打つと、最後は黒負けになるため、黒もパスをする。
という説明と食い違うんだけどなあ というか、
>この局面では白がパスをするのが最善。普通に「駄目」を打つと白負けになる。
>白パスの後、黒が普通に駄目を打つと、最後は黒負けになるため、黒もパスをする。
これって論理的におかしいよな
セキだったらわかるけど、一手ヨセ劫は白からしか仕掛けられないんだから
どっちから普通に駄目を打っても負けってことはありえない >>633
>どっちから普通に駄目を打っても負けってことはありえない
フリカワリになったときに、
黒が打つと持ち込みになっている
白が打つと無駄な手入れになっている
という意味で、双方パスが最善ってことなんだけど。
白としてはパスして黒に右上手入れを要求する。これで、白半目勝ち。
黒は、手入れをせずに右上は生きていると主張する。これで、黒半目勝ち。
黒が無条件で生きているというなら、中央2つのダメを黒が詰められるはず。
でも、これを黒が詰めるとフリカワリにされて半目負けになるという仕掛け。
日本囲碁規約では、1手ヨセコウ以上は手入れ不要となっているけど、
この図の場合違和感があるという指摘。
実戦解決が可能な日本ルール以外なら、どう転んでも白勝ちだから。 >>634
黒が打つと持ち込みになっている
白が打つと無駄な手入れになっている
までは分かった。なるほどな。
しかし、そこから先の解釈は全然間違ってる気がするんだが…
>白としてはパスして黒に右上手入れを要求する。これで、白半目勝ち。
>黒は、手入れをせずに右上は生きていると主張する。これで、黒半目勝ち。
これは、旧規約の話では?
現規約では、白パスの動機は黒への手入れ要求ではなく、上辺一帯のセキの主張のはず。
黒への手入れ要求ならばダメを詰めるのが手段として正しいが、それができないからこそパスをする。
それに対して、現規約での黒パスは、右上黒地が0目になってしまうので、
黒半目勝ちどころか白半目勝ちを座して受け入れるようなものだ。
>黒が無条件で生きているというなら、中央2つのダメを黒が詰められるはず。
>でも、これを黒が詰めるとフリカワリにされて半目負けになるという仕掛け。
これは、白についてもまったく同じことが言える。
白がヨセ劫を仕掛けられるというなら、中央2つのダメを白が詰められるはず。
でも、これを白が詰めるとフリカワリが不可になって半目負けになるという仕掛け。
ところで、こっちは突然、現規約の話に変わってるよね?
旧規約ならば、元々どちらもダメを詰める必要はない。
一方、現規約では地を確定するにはダメ詰めを必須化しているが、
この例では黒白どちらもダメを詰めたくないという点を踏まえると、
出題図のままで終局したらセキとする現規約の考え方は理に適っていると思う。 ともかく、もう一度整理して考えてみる。
まずは、中国ルール(I09は白石)。
中国ルールならば黒はG04かI06のどちらかのダメさえ詰めれば勝ちではないか?
つまり、もし白1でパスしようものなら
____A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I._
01┌┬○┬┬○●┬●
02○○○○○○●●○
03●●●●●○○●四 白壱パス
04├┼┼┼●○弐●┤
05├●┼┼●○○●●
06●┼●●●●○○参
07●●○○○●●○○
08○○┼┼○●┼●○
09└┴○○○●●●○
黒2でどちらかのダメを詰められて、
白3では反対のダメを詰めるよりないが、そこで黒4と悠々と劫を解消されることになる。
白3でH01劫取りでも黒4では同地点に押しつぶしで良い。
中国ルールでの白1パスは明らかに損だから黒の勝ち。
よって、白1では下図の如く
____A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I._
01┌┬○┬┬○●参●
02○○○○○○●●○
03●●●●●○○●┤
04├┼┼┼●○壱●┤
05├●┼┼●○○●●
06●四●●●●○○弐
07●●○○○●●○○
08○○┼┼○●┼●○
09└┴○○○●●●○
ダメを詰めるよりないが、そうすると黒2で諸刃の剣と言わんばかりに
反対のダメを詰められて振り替わりでも負けてしまう。
というかそもそも、中国ルールでは黒4と劫立てを消されてゲームセット。
あるいは、白1でH01劫取りも、黒2でダメを詰められてやっぱり白負け。
よって、どう転んでも黒の勝ちなんでは? 次に現行日本規約。
これはリンク先の解説通りだが、
白としては、そもそも黒のヨセ劫などはじめからどうでもよくて、
上辺一帯をセキにして勝てばいいので、ダメを詰める必要はないからパス。
だから、ダメは黒から死に物狂いで詰めるよりない。
しかし、黒からダメを両方詰めると黒がやっぱり振り替わりで負けてしまう。
つまり、どう転んでも白の勝ちだ。
そして旧規約。
旧規約での地は黒14−白8(とリンク先に書かれている→旧規約でも一手ヨセ劫はそのまま地と数えて良い?)なので、
白は黒に劫手入れ要求しないと負け。
しかし、白は一手ヨセ劫を仕掛けるためにダメを詰めてしまうとやはり振り替わりで勝てなくなってしまう。
だから、白1の最善はH01劫取り、もしくはパス。
劫取りの場合、黒2パスは当然で、白3ではもはや手が出なくなってしまうのでパス。
すると
____A_B_C_D_.E_.F_G_H_.I._
01┌┬○┬┬○●○┐
02○○○○○○●●○
03●●●●●○○●┤
04├┼┼┼●○┼●┤
05├●┼┼●○○●●
06●┼●●●●○○┤
07●●○○○●●○○
08○○┼┼○●┼●○
09└┴○○○●●●○
で終局となり、ここからはどちらも着手不可だが、ここで一手ヨセ劫手入れ不要とすると当然黒の勝ち。
同じく、もし白1でパスの場合、黒2では劫を解消したら負けなのでパス。
つまり原図のままで終局するわけだが、やはりこれも一手ヨセ劫手入れ不要とすると黒の勝ち。
というわけで、一手ヨセ劫手入れ不要は、ゲームを成立させるために不可欠なルールということであって、それは旧規約でも同じだろう。
「違和感」があるとすれば、中国ルールとの結果が変わるダメに関する規定の方ではないだろうか。 日本ルールの細かい話をしても
最終的には日本ルールがおかしいという常識的な結論しか出ないから生産的じゃないんだよな
それよりも本来の囲碁のルールはどうあればいいのかという前向きな議論をした方がいいと思う
囲碁には長い歴史があって多様なルールが存在してきた
その中で共通する囲碁の本質を慣習法として抜き出して現在の状況に合わせて整理するという作業だ
囲碁の本質を理解できれば現行のルールのどこがおかしいのかも自然と見えてくるしどう直せばいいのかも分かるようになる
法律論で言えば条例よりも法律が優先されて法律よりも憲法が優先されるのと同じで
囲碁においても憲法論議が一番大事だなんだな 日本ルールの問題点を整理するとこうなる
他にも細かい問題はあるがよく言われる問題はこれのどれかに当たるだろう
1.ゲームの目的設定の問題(切り賃廃止問題)
切り賃がないために本来の囲碁の勝敗判定を再現できないことがあるという問題
切り賃廃止の理由は今のところ誰も提示できておらず、そもそも何で廃止しているのかが謎という状態にある
切り賃を復活すれば解決する
2.パスの問題(着手権利・義務問題)
新規約ではパスを認めているがパス代(パス一回につき石一つ)を設定していないために勝敗判定が破綻することがあるという問題
本来パスは認めない(着手義務)というのが当たり前であったが中途半端にパスを認めてしまったがために発生した問題
着手義務化かパス代導入で解決する
3.黒番終了時の問題
黒番で終局した時に本来の判定よりも一目変わるという問題
日本式判定の本質的な問題の一つ
最後に白番のパスを加えてパス代を払うようにすれば解決する
4.終盤処理の問題
実戦解決ではなく審判判定を導入しているために対局者等が納得しない勝敗判定や両負けが発生するという問題
規約を作った棋院所属の棋士の対局であれば問題は生じないが外部の人間に適用する場合には問題となる
実戦解決を導入すれば解決するが終局図が乱れるとして棋院が強硬に反対している
棋院内部以外では日本ルールを使わないということにすれば解決 その中で切り賃にかんしてだけはやはり頭がおかしいと言わざるをえない
切り賃なしでもゲームは成立する
なぜなら純碁でも切り賃なし相当のルールは定義しうる
つまり、一方のみの石で囲まれた格子点を得点として計算することは理論上可能だからだ
そしてそのことでゲームが数理的に破綻することもない
したがって切り賃なしは一種のルール違いの純碁として正当化できる
その発想で誕生したのが中国ルールである >>631
>白 0.5目勝ち(黒地 30-白地 25)
>となっているけど、実際は黒30―白23で、黒1.5勝ちではないのかな
>>632
>黒C08に白はB09と受けて、黒I01、白パス、黒I04で
>黒半目勝ちが双方最善。
>>635
>>黒が無条件で生きているというなら、中央2つのダメを黒が詰められるはず。
>>でも、これを黒が詰めるとフリカワリにされて半目負けになるという仕掛け。
>これは、白についてもまったく同じことが言える。
>白がヨセ劫を仕掛けられるというなら、中央2つのダメを白が詰められるはず。
>>637
>白としては、そもそも黒のヨセ劫などはじめからどうでもよくて、
>上辺一帯をセキにして勝てばいいので、ダメを詰める必要はないからパス。
>だから、ダメは黒から死に物狂いで詰めるよりない。
とても同一人物の書き込みとは思えない内容なんだけど?
>631 >黒1.5勝ちではないのかな
>632 >黒半目勝ちが双方最善。
>635 >中央2つのダメを白が詰められるはず。
>637 >ダメは黒から死に物狂いで詰めるよりない。
直前の自分の書き込みが間違ってたことは、気付いたんでしょ。
まず、それを訂正しなよ。
何が分かっていて、何が分かってないのか、全く理解に苦しむ。
日本囲碁規約の現行問題点は、囲碁の専門家およびルール研究者が探求して、
コミ5目半の時代から指摘されて未だに生きている問題なんだから、
ド素人が暇潰しに愚考して反証できるような話では無い。
>>635
>>>634
>>>どっちから普通に駄目を打っても負けってことはありえない
>>フリカワリになったときに、
>> 黒が打つと持ち込みになっている
>> 白が打つと無駄な手入れになっている
>>という意味で、双方パスが最善ってことなんだけど。
>までは分かった。なるほどな。
当たり前のこと過ぎて説明が省略されてる部分で、つまづいて転んでるし。
この程度の能力・棋力の人が囲碁のルールに関して考えてもねー。
『馬鹿の考え休むに似たり』よりも悪手だと思う。
>>636
>ともかく、もう一度整理して考えてみる。
リンク先に詳しく解説されてるのに、あそこまで説明されても理解できないか?
理解できてないのは、自分だけなんだから、くだらない書き込みは慎め。 >>641
>直前の自分の書き込みが間違ってたことは、気付いたんでしょ。
>まず、それを訂正しなよ。
ああわかった訂正するよ
>素人が暇潰しに愚考して反証できるような話では無い。
ふ〜ん、君は素人ではないんだ
ならばそれを証明してくれないか?
それから、詰碁の棋力の問題とルールの問題は別問題だろう。 >リンク先に詳しく解説されてるのに、あそこまで説明されても理解できないか?
>理解できてないのは、自分だけなんだから、くだらない書き込みは慎め。
理解できていないのは>>634の方だから、俺が説明したんだよ
>日本囲碁規約では、1手ヨセコウ以上は手入れ不要となっているけど、
>この図の場合違和感があるという指摘。
>実戦解決が可能な日本ルール以外なら、どう転んでも白勝ちだから。
まるで論点がずれているし、実戦解決の結果も間違っているでしょ >>639
3.黒番終了時の問題
は数少ない中国ルールの欠点だと自分は考える。
一つは偶数コミを有効的に設定できないということ。
二つは偶数ダメ時の手入れがヌルくなってしまうこと。
二は些細かもしれないが一は大きな弊害だろう。
しかし、日本での地とハマを数える計算法に
パスは1目払うルールを追加すれば、
中国ルールと日本ルールの長所だけ残した良いルールができる。
この点は意見は同じだが、最後に白番のパスを加えるのは
説明したように偶数コミが意味をなさなくなるから必要性は感じない。 >>2に貼られているが、高尾や大橋ですらルールがわからないんだから素人も糞もねーだろ >>645
>高尾や大橋ですらルールがわからないんだから素人も糞もねーだろ
>>631 >黒1.5勝ちではないのかな
>>632 >黒半目勝ちが双方最善。
>>633 どっちから普通に駄目を打っても負けってことはありえない
>>635 >中央2つのダメを白が詰められるはず。
>>637 >ダメは黒から死に物狂いで詰めるよりない。
ド素人の世界で考えても、一瞥して違次元の糞なんだけど? よく日本で囲碁が普及しないのはルールのせいだっていうけどね、
あれはどう考えてもまったくの出鱈目だ
だって、入門者に囲碁を教えるのに囲碁規約を一から十まで一言一句教える奴がいるか?
いるわけないだろ
囲碁を教えるのには、
・石を囲ったら取れる
・地をたくさん囲ったほうが勝ち
これだけでいい
本当に普及を妨げているものの正体は
>>641のようなやたら高圧的で素人を馬鹿にする糞野郎だ
>>646
>ド素人の世界で考えても、一瞥して違次元の糞なんだけど?
これだけじゃなんの説明にもなってないんだけど?
ちなみに>>633までの考えが間違っていたのは認めたから無視してちょうだいね 過去ログ読めば分かるけど、この人ガチで頭おかしい人だから関わらないほうがいいよ >>640
>つまり、一方のみの石で囲まれた格子点を得点として計算することは理論上可能だからだ
わざわざそうする合理的な理由があるのかと聞いて誰も答えられていない
碁の数千年?の歴史でそういう計算をしていたルールはないんだからその立論では碁ではない新しい別のゲームになってしまう
広く認識されている歴史的な流れとして本来存在していた切り賃が省略されているということは否定できない
現在の囲碁を歴史的な碁とは違う別のゲームとして割り切るのならそれでもいいが
そうではない以上は石の数の判定(純碁式判定)をベースにするしかないんだ
だからこそ純碁式判定から大きく外れるルールは碁のルールとしては問題があるということになってしまう
これはゲームとして理論上成立するかということではなくゲームの分類上の問題なんだな
>>644
コミの設定は勝敗判定に比べて些細なことだと言わざるを得ないな
まずは正しく勝敗判定できることが第一でしょう
本来の純碁式判定に照らしてコミの問題として捉えなおすと
日本ルールの設定は黒番終了時と白番終了時でコミを一目変えていることに対応している
この条件付コミ設定を正当化するのは難しいと思う
純碁や中国ルールでもそういう条件付コミを導入すれば偶数コミに意味が出てくるわけだが
そもそも条件付コミ自体に意味がないのだからそこから出てくる偶数コミの機能にも価値がないということになる
だからそんなことをしている人はいないわけだな
>>647
ルールの難解さが普及の妨げの一因になっていることは間違いないと思う
オセロのように子供がゲーム盤の付属の説明書読んですぐに遊べるようにしたいと考えている 包囲ゲームベースで考えると>>639の問題が全て解決できそうなんだよな
全く根拠がないのに日本ルール笊碁起源説は合理的に見える 切り賃の問題は純碁のルールを拡張することで対応できないかな
純碁で持碁になる場合にルールを拡張して「自殺手にならない着手可能点が多い方を判定勝ちにする」ようにする
さらに純碁で持碁にならない場合にはどちらかの投了で決着するようにすれば中国ルールに近くなる
本来の勝敗はキープしたまま持碁の場合にだけ中国ルールの判定を持ち込める >>631のような局面で黒手入れなしで終局するとか日本のプロの対局であり得る?
中国ルールだと自分の地に手入れしてもマイナスにならないから劫材を消せる
したがって>>631のような問題は起こらない、てこと? リンクが貼れないがルールが分かりづらいのが人気が出ない原因だと言われている
【悲報】将棋に比べて囲碁が人気なさすぎなんだけど(´・ω・`) 現行中国ルールに準じて拡張した純碁ルールの叩き台を作った
古典碁の精神と簡潔さを保ちながら現行ルールや現代の技術進歩に対応したルールになっている
基本ルール
・交互に自分の石を打てる。パスもできる。
・連続パスになったら終局。途中で投了もできる(投了者の負けで終局、中押)。
・終局時に盤上の石が多い方が勝ち。事前の両対局者の合意によりハンデ(コミ)をつけてもよい。
・隙間なく相手の石に囲まれたら、囲まれた石は着手者によって抜かれる。抜く順番は着手相手の石、着手者の石(自殺手)の順で、抜き終わったら着手完了。
・石を打って着手完了した時の盤面がその対局の過去のもののいずれかと一致した場合、対局者の指摘により着手者は反則負けとなる。ただし、次の着手完了時までに指摘がない場合には対局は続行される。
・打った石がそのまま抜かれる手(自殺手)はパス扱い。
・盤上の石が同数の場合には自殺手にならない着手可能点が多い方を優勢勝ちとする。
対局ルール
・公式な対局は時間制対局とし、棋譜を記録し、立会人を設ける。
・持ち時間は事前の両対局者の合意により定める。
・持ち時間を過ぎると負ける(時間切れ負け)。
・持ち時間は自分の手番において着手完了まで使われる(石を抜く時間を含む)。
・抜く石以外を動かした場合は動かした者が自分の持ち時間を使用して盤面を修復する。
・両対局者の合意、もしくは立会人の判断で対局停止および再開をすることができる(休憩や終局確認など)。
・両対局者の合意により対局途中で終局することができる(合意終局)。その際の勝敗判定は両対局者の合意によるが、直接的な勝敗合意の他に、立会人による判定や対局前に準備された機械による機械判定も合意選択することができる。
・ルール外の行為(連続で石を打つ等)は立会人の確認の上で反則負けとする。
対局マナー
・両対局者は良識ある態度で行動し、相互信頼の関係で対局を行うことが望ましい。
・投了や合意終局により、無駄のない美しい終局図を作ることが望ましい。
他のルールとの主な違い
・勝敗判定は純碁式(切り賃制に相当)。純碁式で同数の場合には中国式(切り賃なしに相当)。機械判定可能。
・超コウ(盤面)。連続パスで終局。
・両者合意での終盤省略が可能(中国式)。機械の代打ちによる終盤処理も選択可能。
・自殺手は打てるが、パス扱い。 日本で切り賃がなくなった理由や経緯は謎らしい
遊戯史学会コミュの囲碁の歴史〜ルールの変遷〜
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5043543&id=54651546 清末までの明清数子法は子多為勝(盤上の石が多い方が勝ち)で石を埋めて数える際に還棋頭(切り賃)の調整あり
その後の近代数子法は日本の影響で混乱して子多為勝と子空皆地(現在の中国式で切り賃なし)が混在するようになり現在に至るという考察
日本ルール(日本填空法)は日本に伝わった時期に大陸の廟堂君子の間で流行していた以空為地の唐宋填空法が元になっているという説を取っている
ただし唐宋填空法は還棋頭(切り賃)の調整ありで日本填空法とは違う
「碁の本質をわかっていない」日本がルールを混乱させてしまって現在のルール問題が生じたようだ
中国の碁のルールの変遷
http://www.senjukai.org/Zakki/ChineseRule.html
一、古くは奕(エキ)と言われ、これは古い中国ルール。(子か)
二、後にいわゆる日本ルールに換わり、それが日本にもたらされた。(地−ハマ)
三、中国では古い中国ルールに戻った。(明代始めころ)(子)
四、日本の影響を受けて現代の新しい中国ルールとなった。(清末から民国)
五、近年、日本ルールとほとんど同じくらいに改編された。 どうやら切り賃廃止は日本で生まれた分岐だが発生した時期や経緯は不明というのが定説のようだな
日本式囲碁と本来の碁を明確に区別しなかったために混乱が生じてしまって
ルール問題の収拾がつかなくなってしまっているというのが現状のようだ 塚本惠一氏の主張は歴史的にも理論的にもおかしいな
http://park6.wakwak.com/~igo/igorule/tsukamoto.html
>そこで、「地」に気付いた者は形勢判断の基本である目算が容易に 行えるようになったのです。これは大発見です。
>「地」の発見者は 抜群の成績を収めたに違いないと想像できます。そして、皆が彼に 強い理由を尋ねることになります。
「地」は日本に入る以前から発見されていた
っていうか普通に誰でも思いつく戦略だと思う
>そうして「地」の重要性が囲碁人の共通認識になれば、もう、置き 石の数を争うことは本質とは言えなくなり、「地」の多少を争えば よい、という発想の転換がなされます。
>これが日本式囲碁の誕生と 考えているのです。
「地」による目算法は日本に輸入される前にすでにあった
ただし切り賃を入れれば置き石の数に一致するので「地」の多少を争うという転換はなされなかった
それが当たり前
戦略に合わせて目的を変えるというのは馬鹿げている
将棋で王より飛車を可愛がるルールを導入するようなもの
またイカサマがしやすい日本式計算法は廟堂君子の間では通用しても大陸の庶民の間では無理だった
>それが中国式にも逆輸入されて「切り賃」という計算法が生じた。 囲碁の歴史をたどれば、これらは自然な推移と言えるでしょう。
>「地」の発見、いや、「地による形勢判断」という大発明が囲碁の 目的の認識を改めさせた。これが日本式囲碁の立脚点です。
「地」による目算法も「切り賃」も日本に入る前からあった
「切り賃」を廃止したのが日本式囲碁の特徴だがその経緯や理由は不明
目算法(戦略)と計算法(終局処理)とゲームの目的(勝敗判定)を区別して論じないと無茶苦茶になってしまう それから近代の日本から中国への影響は当時の国際政治環境を考慮する必要があるだろう
明治〜昭和期の日本の増長と大陸軽視の背景も踏まえておく必要がある 中国の切り賃を無くしたのは俺だ、と安永一が言っていた
ただ安永はいい加減な人なので信頼性は低い
(中国で現地の愛好家と数多く対局したのは事実のようだ) 切り賃のない「地の大小」を最初に成文化したのが安永憲法だからな
一方で同じ研究会の島田拓爾が提唱したのが原始棋法で純碁の元になっている
成文化したのは安永だが日本では切り賃廃止の対局が行われてきたのは事実であって
日本式囲碁と大陸の碁の違いが安永と島田の対立の元になっている
最初から違うものを違うものとして認めて明確に区別していればよかったんだが 戦後の中国については中国共産党の影響も大きいだろう
日本の影響で日本ルールを使いたいという棋士は多かったが
日本式囲碁と正確に言ってしまうと反日の中国共産党の認可や補助が得られなくなる
だから日本式という部分を隠蔽し、ルールに混乱が生じて現在の中国ルールが生まれた
そしてそれが中国の影響力の強いアジア諸国等にも波及した
似たようなことは戦後の韓国でもあった
戦前に空手を習っていた人々が反日政権下で日本の空手とは言えずにテコンドーと称して武道を続けた
それが独自に発展して現在では空手とは別の競技になっている
政治の影響は無視できない 呼吸点(石が置いてある点と同一線上の隣の点)をふさげば石を取れると習いました。
ルールは最後まで貫いてこそルールだと思いますが、終局して計算が始まる直前に、呼吸点がたくさんあいているにもかかわらず、自分の陣地にある相手の石を、おまえはすでに死んでいる、とばかりに取り上げます。
変でしょ、このルール。
呼吸点を全部ふさいでからとるのがルールじゃないですか?
自分の地がそれで減っても、そもそもそうするのがルールでしょう。なんでそうしないのですか?。
不思議なゲームだ。訳わからん。 >>664
その通りで本来は死石は実戦で取り上げる必要がある
元々の囲碁のルールは双方が交互に好きなだけ打って盤上の石が多い方が勝ちというシンプルなもので純碁と呼ばれている
初心者はまず純碁で打ってみるといい
純碁に慣れてくると終盤が作業になってつまらなくなくなったり石の数を数えるのが面倒になったりする
今はそういう作業はコンピュータで簡単でできるが昔はできなかったので終盤を簡単にする工夫がなされた
それが今の囲碁のルールの元になっている
面倒な終盤を省略している部分が初心者には不思議に感じられるわけだ ただし現在のルールにおける終盤の省略方法には問題があり、時々オリジナルの結果を再現しないことがある
これは歴史の中で変な慣習が積み重なった結果であり大きな問題になっている
>>655のように伝統に即した現代的ルールを作るのは簡単なんだが因習を改めるのには時間がかかる
今はルール維新の途上というところだ 地と死活・アゲハマは、プレイヤーに読みの正確性をシビアに要求する、ゲーム性としての立派なルール
形が決まればほぼ読み切れる上級者にとっては単なる省略かもしれないが、
なかなか読めない級位者にとってはこのルールで勝敗が入れ替わる
手のないところに手を入れたり、手にならないところに手を出したり、手を出された時に手を抜けるかどうか、
そういうのをきちんと読める者は得できるし、読めない者は損をする
これはゲームとして理に適っている >>667
正しい結果が出るのなら省略法は何でもいいんだが問題は必ずしも正しい結果が出ないことなんだな
それに級位者レベルなら双方が納得する局面まで純碁で打った方がいい
双方が納得できる上に終盤の棋力が直接的に結果に反映される
日本ルールで強くならないことは日本の棋士の現状を見れば明らかだが
それ以前に学習法とルールは区別した方がいいだろう 日本の棋士の現状が日本ルールにあるかどうかまではわからないが、
日本ルールが普及の障害になっていることは確かだ
特に囲碁で飯を食っている人や団体は、それをもっと意識して活動しなきゃな 韓国ルールは日本ルールとほぼ同じだが、ルールのせいで普及の妨げになっているのか?
ルールがーってのははっきり言って言い訳だろう >>670
正確には普及の妨げの一因となっているということだろう
分かりにくいというのは確かなんだから
韓国でも同じだ >>655を見れば分かるように本来の碁のルールはオセロ並みに簡単だ
しかし旅行にオセロ盤を持っていって遊ぶ子供はいても碁を打つ子供はほとんどいない
これは明確に現行ルールの弊害だといえるだろう
ボードゲームは子供が盤石をもらって説明書を見てそのまま遊べるようじゃなきゃダメなんだよ 日本ルールは「分かりにくい」ということになにかエビデンスがあるのかと疑問を投げかけているんだ
注意しておくが、ここでいう「日本ルール」というのは、法律に相当する規約そのものではなく、一般的な囲碁教室で教えているルールのことだ 自分はずっと日本式のやり方で囲碁を覚えて打ってきたが、
地というものの考え方が将棋の駒の動きを覚えるより難しいと思ったことはない >>673
エビデンスとはたまげたなあ
日本ルール(の文言ではなく内容)が分かりにくくないという意見は初めて見たぞ
もし日本ルールを分かりやすく教えている教室があるんだとしたらルールを正確に教えていないんだと思うが
それ以前にわざわざ教室でルールを教えなければならないという時点でおかしいんだな
初心者同士の勝敗の判定に指導者を呼んでこないといけないのもおかしい
ルールは未経験の子供達がボード付属のペラ一の説明書を見てすぐに遊べるものじゃなきゃいけない
他の有名なボードゲームはほとんどがそうだし本来の碁のルールもそうなっている
日本ルールは明らかにそうじゃないでしょう
誤解のないように断っておくが俺は日本ルールに反対しているわけじゃないからな
競技スポーツとして誰でも理解して楽しめる本来の碁のルールと日本独自の伝統文化である日本ルールを区別しようと言っている
日本ルールは日本の伝統的なタイトル戦で使用する特別なルールとして保持・整備する必要があると考える 説明書に書かれているのが日本ルールでなかったら本当に分かるのかどうか?怪しい
囲碁を知っている者にとってはダメのない二眼生きだけの純碁の終局盤面がもう決着していることがわかるが、
死活をわからない者は自分の眼に着手して、全部取られて、どうしたらよいかやはりわからなくなってしまうだろう
囲碁のわからなさというのは、純語も含めて、対局者の宣言なしに決着は碁盤上に永遠に訪れないことにあると考えられる
実際、銘エンが入門用の純碁を提唱してから20年近く立つのにほとんど状況は変化していない
先程韓国の例も挙げたが、つまり、ルールと普及との関連はほとんどない ちなみに日本ルールは納得できるまで打つことについて禁止などしていない
指導者がいないときは納得するまで打てばいいだろう >>676
何か勘違いしているようだが純碁はメイエンが成文ルール化したというだけで
大陸の庶民は数千年もそういうルールで打ってきた
そういう意味では現行ルールが混乱しているだけだと言える
>死活をわからない者は自分の眼に着手して、全部取られて、どうしたらよいかやはりわからなくなってしまうだろう
持ち時間があるので初心者同士でも時間切れで決着がつく
本当の初心者同士なら小さな盤でやって手数制限(打てる石を最初に決めておく)を設けてもいい
石の数を数えるだけなので最初から最後まで初心者だけで遊べるということが重要だ
全部取られるのを何回か体験すれば2眼は自然と覚えるし周りに経験者がいるのなら教えればすぐに分かる
本来の碁のルールは本当に単純なんだ >全部取られるのを何回か体験すれば2眼は自然と覚えるし周りに経験者がいるのなら教えればすぐに分かる
これは地についてもまったく同じだろう
>日本ルール(の文言ではなく内容)が分かりにくくないという意見は初めて見たぞ
日本ルールで打っている日本人でも、
「囲碁のルールは簡単」派は結構いるでしょ
地が難しいといっても、それはせいぜい足し算が引き算になった程度の話だということ
園児でも碁を打てる子はいるし、小学生にもなれば大人も負かされるくらい強くなる
日本ルールが殊さらに難しいという根拠はない >>679
純碁で実際に打ってみれば2眼や地(死活)をすぐに覚えられるという話であって
地(死活)を覚えないと打てないというルールには問題があるということなんだが
>日本ルールで打っている日本人でも、
>「囲碁のルールは簡単」派は結構いるでしょ
そう言っている人が日本ルールを正確かつ簡単に説明しているのを見たことがない
「簡単」詐欺はさておき真面目な人で日本ルールが分かりやすいという意見は皆無だよ ゲームのプレイヤーになるためにはルールを知らなければならないのはしょうがない。
そして、純碁も死活(いつ終局宣言をすればいいのか)がわからなければとっつき難いのは同じかもしれないってことを先程から言ってるんだけれども。
それで死活について教えたら、そのまま地の定義を教えることも難しくはない。
それに教えることが難しかったり多くても、それと普及するかどうかはやはり別だ。
将棋は成り駒まで含めて動かし方をすべて覚えるのはそれなりの量だし
打歩詰や二歩の禁止といった煩わしさもあるが、日本ではチェスよりも人気がある。 「日本ルールはわからない」という真面目な人は、長生とか曲がり四目といったような複雑な死活について話しているだけ。
しかし、初心者同士の対局でそんな形が最後まで残ることはまずない。
むしろそんな形ができて質問されるまで上達したのなら喜ばしいこと。 >>681
>そして、純碁も死活(いつ終局宣言をすればいいのか)がわからなければとっつき難いのは同じかもしれないってことを先程から言ってるんだけれども。
これは違う
終局宣言は必要なく連続パスで自動的に終局になる
実際に純碁を打ったり教えたりすれば分かることだが初心者にとっては本当に分かりやすいルールだよ
それからルールを改選すれば普及の問題が飛躍的に改善すると言っているわけではない
実際分かりづらいという人やルールが訳分からんから遠ざけているという人がいて
問題だと感じている人が沢山要るという現状をなんとかした方がいいというだけの話だ
しかもそれはここ数十年の現行ルール特有の問題であって数千年続いている伝統的なルールに戻せば解決する話なんだから
>>682
日本ルールの問題は死活の判定だけではないんだが
ルールとしては細かい部分まで正確に説明しないと説明したことにはならない
しかも日本ルールは突き詰めると間違ったルールなので最終的には何故間違っているのかを説明しなければいけなくなるわけだが
そこまで説明できるのは棋士でも専門家でもほとんどいないだろう 入門者にとっての囲碁ルールの難しさは、理屈をこねても
純碁<中国ルール<日本ルール
であることは否定できない事実だと思うよ
入門者が一番難しいと感じるのは「地」の概念だから、それがない純碁は何といっても一番説明しやすい
またとことん打って相手の石をすべて打ち上げても基本的には勝敗に影響しない中国ルールが続くかな
「死んでる石」を打ち上げない日本ルールは説明しにくいし、入門者にとっては一番難しいんだよ
別に日本ルールが悪いといってるわけじゃないんだが 純碁や中国ルールは勝敗の決め方が興を削がれるかもしれない。
碁に興味を持つ人が最初に面白さを感じる瞬間は石を取った時だと思われるが、
その面白さがそのまま得点になるアゲハマは楽しいルールであろう。
指導という意味では、中国ルールの勝敗は実は日本ルール以上に、
入門者にとって意味不明で直感的に納得し難いのではないか。
どちらにしろ、ゲームはルールさえ覚えたら終わりじゃなくて、ルールを覚えてからが始まり。
仮に純碁の方がルールは簡単だとしても内容はすぐ同じになるし、地のことは2桁級でも分かる。
「碁を打てる人が増えた」と胸を張るには、日本ルールを理解してもらうくらいが基準としてちょうどいい。 話が逸れてるから戻るけど
>>668
>それ以前に学習法とルールは区別した方がいいだろう
というのはそのまま此方の言い分でもある。
効果があるかないかは別にして入門用として純碁ルールに異論はないが、
わかりやすいルール=ゲーム(競技)として良いルール、ではない。
「日本ルールは、読みのゲームとして意味があり、より深みをもたらしている」というのが本筋。
「無駄のない終局図」というのが抽象的でわけのわからない美学だと思われがちのようだが
無駄な手を打ったら基本的に損になるという決まりは、ゲームとして直感的に納得できる自然なルール。
明らかな生石の地に延々と無駄手を打ち続ける行為は、中国ルールではただの嫌がらせにしかならないが、
日本ルールでは何らかの勘違いによって生じるドラマであり、それこそが”ゲーム”だ。 >>685 地のことは2桁級でも分かる。
どうも入門者(初心者じゃない!)にとって地の概念がいかにわかり難いかということに無理解な人が多いなあ
初めて石を持った人に一度教えてみるといいよ
以前「地というものの考え方が将棋の駒の動きを覚えるより難しいと思ったことはない」なんて書き込みもあったけど、
たくさんの駒の動きを覚えるのと違って概念的なものだから、難しさの質が違うんだよ 少し意地になっていた気がするから改めるが、
入門者がいきなり地がわかりにくいのは素直に受け止めておくよ。
だが、ここは普及スレというわけではないので入門の話と一般的なルールの話は区別しよう。
地(死活)は日本だけでなく、中国も欧米も世界のどのルールも採用している。
入門者レベルでも分からないとダメだというのなら純碁以外どれも失格になってしまう。 コンピュータスレを崩壊させた日本語も読めない馬鹿がまた暴れてるのか
相変わらず独善的主張を続けてるな >>685>>686
全く賛同できないが意見としては分かった
>「日本ルールは、読みのゲームとして意味があり、より深みをもたらしている」というのが本筋。
ここだけが意味が分からないのでもう少し説明して欲しい
日本ルールの問題点は>>639の4点にまとめてある通り
問題点というのは言い換えると他のルールとの相違点であり
実際にこの4点を修正すれば日本ルールは中国ルールや純碁と(石の数え方や文言は違っても)意味内容的に同じになる
そこで具体的に4点のどの部分が「読みのゲームとして意味があり、より深みをもたらしている」のかを教えて欲しい
1.現行中国ルールとの違いを主張していることから切り賃廃止は今回の話とは無関係だと思うがどうか?
2.着手権利説を採用しパス代を無くすことが「深み」をもたらしたのか? もしそうならば何故そうなるのか?
3.交互着手制の廃止はコミの話であるので今回の話とは無関係だと思うがどうか?
4.実戦解決ではなく審判判定を導入することが「深み」をもたらしたのか? もしそうならば何故そうなるのか? 中国ルールにおける地の概念は、自分の石で埋め尽くせる場所、ということでよろしいですか?
相手が石を置いてきても生きることができない場所というか
だから石で埋めるのがめんどくさい場所というか >>691
地の概念は中国ルールも日本ルールも基本的には同じ
地(死活)の判定方法が実戦解決(対局者合意)か審判判定かというところが違う
ただし細かく言うと日本ルールの地の概念はwell-definedではないというのが通説 >>690
>>639
1.ゲームの目的設定の問題(切り賃廃止問題)
中国ルールでも現在は切り賃はないので、日本ルールだからというわけではない。
そもそも、何かしらの正しい結果というものがルールよりも先に存在する、という発想はバイアスだ。
結果とは、ルールすなわちゲームの後に生ずるものであって、先にあるのではない。
たとえ中国ルールや純碁でも、コミの設定や自殺手、同形反復のルール如何で結果はいくらでも変わるが、
どんなルールであろうと、そのルールを遵守して処理された結果ならば、それらはみな正しい。
2.パスの問題(着手権利・義務問題)
こちらも言いたいことは1とほぼ同じで、「勝敗判定が破綻する」は訳のわからない言い分。
日本ルールのパスの意味は、ダメ詰めまで終わった後に死手を打たれたら、損のないパスによってそれを咎めることができる。
例として、半劫争いの時にコウダテで打った手が実はコウダテになっていなかったら、何もせずに半劫を譲った場合に比べて1目損する。
また、自分の死石を生石と勘違いしてダメを詰めているつもりでいたら、実際はアゲハマになって損する。
そういうことがあり得るのが日本ルール。
一方、中国ルールではダメ詰め関連で読みを要求される。
日本ルールならばヨセの優先順位は、後手一目>半劫>ダメ詰め
で基本的に不変だが、中国ルールではケースごとにこの大小関係がひっくり返る。
中国ルールではヨセを教えるのが難しそうだ 3.黒番終了時の問題
黒番手止まりで結果が変わる理由は、中国ルールだと先着の有利性が白番手止まりよりも1目多くなるからだ。
そしてコミの存在意義が先着の有利性の解消ならば、手止まり変動が本来なら双方にとってより公平だ。
┏┯●┯○┯┓ ┏●●●○○┓
┠┼●┼○┼┨ ●●●●○○○
┠┼●┼○┼┨ ●●●●○○○
┠┼●┼○┼┨ ●●●┼○○○
┠┼●┼○┼┨ ●●●○○○○
┠┼●┼○┼┨ ●●●○○○○
┗┷●┷○┷┛ ┗●●○○○┛
上図で黒と白の打着はすべて価値が同じだが
最後の残りのダメを黒が打てるので黒の勝ちになる。
これは黒の先着の有利性が現出した結果だが、白にしてみれば不満だろう。
しかしだからといって、コミを一律に1目にすれば解決するというわけではない。
●●●●○○┓
●●●●○○○
●●●●○○○
●●●┼○○○
●●●○○○○
●●●○○○○
┗●●○○○○
この図も黒と白の打着はすべて価値が同じだが引き分けだ。
もしコミが一律に1目だとしたら白の勝ちになってしまうので、今度は黒が不満だろう。
だから手止まりによって区別する必要がある。 4.終盤処理の問題
両負けの規定は自分にも必要性がわからない。
審判判定を導入しているのだから、対局者が納得できないときはそうすればいいからだ。
公式試合で審判が立ち会うのはあらゆる競技でごく普通の事。
しかしたとえ居なくても、碁盤をもう1つ用意して死活ルールに沿って待ったなしで想定着手を行えば、
検討という「実践解決」によって紛れもなく死活は決着する。
死活の「合意」というのは本来こういう内容を指していると考えているし、それは自分だけでなく一般的な慣習であろう?
5.備考
中国ルールでも死活に合意すれば打ちきるのを省略できる。
つまり日本ルールとやってることは同じ。
日本ルールではこのプロセスを丁寧に成文化しているというだけのこと。
ただし、日本ルールで死石の取り上げ着手が不要な理由は、何かしらの省略というわけでもなければ、純碁で説明できるものでもない。
なぜなら、もしも日本ルールで死石の取り上げ着手を必要にしたら、その結果は日本ルールとも純碁とも異なる新たな別のゲームとなる。
よって死活ルールは、次に挙げるルールと同じ1つであって、そこに理屈などない。
四方を囲めば石を取れる
取られる状態になる地点に打つことはできない
地の多い方が勝つ
これらについてなぜ?と聞かれても、そういうゲームだからとしか答えようがない。 >>693-695
4点のどの部分が「読みのゲームとして意味があり、より深みをもたらしている」のかを教えて欲しいと聞いているのだが
質問に全く答えていないな
ただ貴方が碁について全く理解していないのは分かったからもういいわ
大陸の碁の歴史も日本の囲碁の歴史も何も知らずに正しいルールはないというのなら五目並べでもやっていればいい
貴方の基準では五目並べも正しい囲碁のルール(しかも最も競技人口が多い)なんでしょう
「碁の本質を知らない」とこうなってしまうんだな
>>696
そのサイトは知っているが「碁の本質」「碁の常識」を理解していないから記述がおかしくなっている
「奇妙奇天烈」なのは最近の碁打ちの感覚の方なんだな
歴史的な伝統的な正しいルールで打っていないから感覚や常識が壊れてしまっている
この一点だけでも現行ルールには大きな問題があると言わざるを得ない 独りよがりの持論を垂れ流す原因は自分が物事の本質を知っていると盲信していることによる。 >>698
全くだ
歴史を勉強すれば分かることなんだが無知者の盲信は手に負えない >>699
僕は君のことを言っている
君が碁の本質をわかっているとは到底思えない >>700
俺が分かっているかどうかは関係なくないか?
「碁の本質」と言っているのは中国の棋士達だし
「碁の本質」(盤石の数を競う等)というのは俺がどう思うかは関係なく歴史的に決まっているものなんだから 結局、囲碁ルール問題の本質は
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」っていう当たり前のことに尽きるんだよな >>706
原理主義じゃなくて言葉の定義の問題だ
ラグビーをサッカーと呼ぶなとかチェスを将棋と呼ぶなと同じ当たり前のこと
囲碁ルールの問題は言葉の誤用の問題に尽きる 実際「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」を適応すれば
ルールの問題はあっさり解決するからやってみればいい こりゃ気持ち悪い
碁知らん奴にそれ実際に言ってみたらいいやな
俺はお断りしますが >>709
歴史的に定まっている言葉の定義の話だし拒否する理由が分からないな
日本人が間違って言葉を混乱させただけで日本以外ではずっと碁(や棋)というのは「盤上の石の数を競うゲーム」のことなんだし
言葉を誤用する方が「気持ち悪い」と感じるのが普通の日本人の感性だと思うが >>710
交互に打つから、取った石の数を争うゲームにしても良かったのでは? >>711
それは数え方の問題で交互着手と着手義務(もしくは着手権利ならパス代)が守られるのなら意味は同じ
ただ「交互着手、着手義務で取った石の数を争うゲーム」というと表現が長くなる 石の数を競うと言うより、相手が着手義務を果たせなくなる状態まで追い込むゲームと考えたほうが良いのでは? >>713
言葉の定義の話なので「盤上の石の数を競う」と等価な表現なら何でもいいんだが
「盤上の石の数を競う」が最も簡潔で歴史的な実態に即した表現になっている
後は正しく言葉を使いましょうという小学生レベルの話だ このバカは大陸の歴史を礼賛して日本の歴史を間違ってると決めつけてるだけの反日売国奴
正しさの証明を歴史に求めるならば、地を争うゲームとして数百年千年と親しまれてきた日本では此方が正しい
かつ歴史(ルール)というのは現在進行系で常に塗り替えられていくものなのだから
物事が「歴史的に決まっている」だなんて発想は愚劣極まりない
加えて、これが言葉の定義の問題というのであれば、もはやそれは言語学の研究対象であり、ルールの問題ではない >>715
これがネトウヨかw
歴史を塗り替えていくなんてことをやるのは安倍政権くらいだぞw
誰も日本の歴史が間違っているなんて言っていない
大陸の碁と日本の囲碁が別のルールの別のゲームだと言っているだけだ
「碁」というのは大陸の碁のことなんだから言葉の問題として日本の囲碁は別の言葉で呼ぶ必要がある
囲碁のルールの問題というのは結局は大陸の碁と日本の囲碁の混同によって生じているのだから
言葉を正しく使えば自然と解決する 別のゲームとして扱いさえすれば良いというのであれば、
繰り返すが、それはルールではなく言語の問題だ。
例えば、外来語の「マンション」は語源と意味が異なるから、誤用だ、けしからんとな。
尤も、いまさらそんな批判をしたところで安々と言葉は変わらない。
まして碁の件では、ルールは違えど内容はどれも99.9%同じなのだからな。
しかも、そういう話ならば大した問題ではない。
普通の人は、自分が今どのルールで対局しているのかくらいはちゃんと分かってるから。 >>717
言葉の問題というのはとても重要であって実際に囲碁のルールは大きな問題になっているわけだが
公文書や歴史資料を権力者が好き勝手に改ざんしていいと考えているネトウヨには分からないだろうな
とにかく「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」という当たり前のことを実行すれば
囲碁のルール問題が解決することは確かだ >>714
いや、切り賃のことを考えたら、「相手が打てなくなったら負け」の方が正しい。 >>719
「盤上の石の数を競う」というのが大陸で数千年で続いた碁というゲームだ
これは誰もが認めている歴史的な事実なので否定しようがない >>721
歴史的なゲームの定義として「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」
切り賃廃止のゲームは碁とは別のゲームであって言葉は正しく使うべきである
誤用の帳尻を合わせる為に歴史や言葉を改ざんするようなことは論外である >>722
相手が打てなくなったら負けなのを、勝負が見えた時点で打ち切るための便法として石の数を競っているにすぎない
切り賃が必要なのはそういうこと >>718
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」という考え以外は一切認めない態度こそファシズムだろう
それに革新派は一般的に左翼のことを言うのだが
そんなことはどうでもいいけど、お前の口前を借りるならば
>>720
日本では碁が地を争うゲームとして続いてきたことは誰もが認める歴史的事実だ
否定しようがないぞ
ついでに聞いてみるが、盤上の石の数を競うゲームなら碁と呼んでいいならば
時にはオセロを碁と呼んでも一向に構わないな? >>723
歴史連呼してるやつとは別人なのか?
石の数を競うのは勝負が見えた時点で打ち切るための便法??
そんなことははじめて聞いたわ >>723
それは歴史的におかしい
切り賃ができる遥か前から石の数を競う碁は存在した
そもそも切り賃自体は数え方の問題であってルールとは関係ない
繰り返すが歴史の改ざんは論外だ
正しい言葉を使えは>>723のような間違いや改ざんを防ぐことができる
>>724はもういいだろ?
小学生以下の知能のネトウヨの相手をしたらスレが荒れてしまう ご【碁/×棊/▽棋】の意味
出典:デジタル大辞泉(小学館)
相対する二人が、縦横各19本の線によって仕切られた361の目のある盤の上に、黒・白の石を交互に置き、広く地(じ)を占めたほうを勝ちとする遊戯。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
辞書に書かれている言葉と、匿名のバカが間違いだ改竄だと盲信垂れ流してるのと、見てる人はどちらを信じるんだろうねえ? >>727
信じる信じないではなく歴史的な事実であって事実を否定している人は誰もいない
ただ辞書に堂々と誤用が載っているくらい言葉の定義が混乱していてそれが囲碁ルール問題を生んでいる
だから言葉を正しく使うようにすれば囲碁ルール問題は解決するという話だ 碁が地を競うゲームとして広く認識されてきたのも歴史的事実だ
ということは、[歴史的事実こそが何事にも先立って正しい]のだとするお前自身の論理を適用するなら、
勝手に誤用だと決めつけ事実を否定し改竄を目論んでいる張本人は、お前自身というわけだな >>716「碁」というのは大陸の碁のこと
根拠もなしに適当なことをほざくな
中国語では「碁」のことを「Go」とは発音しない
しかし、世界的には「Go」が圧倒的多数だ
「Go」は明らかに日本の碁のことだ >>729>>730
棋院自体が碁の起源は中国だと言っている
碁の起源が日本だというのはネトウヨの妄想だけだろ
>>727の辞書の定義では棋院の用法は説明できないから辞書に載っているのが誤用であることは明らかだ
https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/ 碁の起源が日本だなんて誰も言ってないぞ。
碁の起源は中国だし、碁が石を数えるゲーム「だった」のも歴史的事実。はいそのとおり。
で、それがどうした。
国際普及に最初に取り組んだのは日本であり、今世界に普及している碁は、切り賃のなくなった日本から派生したもの。
実際、世界の各公式ルールから切り賃は絶滅しつつある。
(ちなみに王銘エンによれば、現行中国ルールすらも元の中国ルールから変わったものではなく、日本ルールを経由したものだという見解)
図にすると、
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
原始囲碁→中国ルール(切賃有り)→現代ではマイナールール
↓
→日本ルール(切賃無し)→現代の世界各国(中国含む)のルール
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
よって現代における「碁」という言葉の世界的な共通認識は、
(昔は石を数えるゲームだったが、やがて)地を数える(ようになった)ゲームだ。
お前は上のほうで
>歴史を塗り替えていくなんてことをやるのは安倍政権くらいだぞw
なんてことを言っていたが、
上記歴史的事実を否定して、実態に即し正しく定義されている「碁」の言葉の意味を誤用だと言い張り、
「石を数えるゲーム以外は碁と呼ぶな」などと言って歴史を塗り替えようとしてるのは他ならぬお前自身だぞw 歴史的に碁というのは「盤上の石の数を競う」ゲームなんだな
日本式囲碁は似ているが別のゲームである
この二つを日本人が混同して世界に誤って広めてしまったために碁のルールが混乱してしまった
これが囲碁ルール問題の本質だ
だから言葉を正しく使うようにすれば解決するわけだ
ここまでは主義主張の話ではなく小学生でも分かる当たり前のことだ 一方で誤用や歴史改ざんが広まりすぎて現実的に解決が難しいのも事実ではある
メンツや政治的な問題もある
本来ルールは囲碁を楽しむ人のためにあるべきなんだが
囲碁ルール問題は深刻なんだよな バカに構うのは避けるべきだがメイエンの名誉のために一言だけ書いておく
現行の中国ルールが日本ルール由来だというのはメイエンの見解ではなく誰でも知っている常識的事実
メイエン(を始め棋士達)はルールが変更された等というバカなことは当然言っておらず
古来からの碁(純碁)のルールが変化(進化)して日本式囲碁が生まれたと言っている
純碁は当然、碁であり、日本式囲碁は新たに加わった新種であるが、ルールに優劣はないという立場だ 結局純碁というのは「相手が打てなくなったら勝ち」というゲームで「盤上の石の数を競う」のは便法
「盤上の石の数を競う」は「相手が打てなくなったら勝ち」より明快ではない >>736
言いたいことは分かるが論理的に同じことなら表現を変えても同じだ
どちらが便法だとか明快とかなく単に別の言葉で言い換えているだけ
あと何度も言われているように歴史的には「盤上の石の数を競う」という方が本来の表現だ
これは主義主張の話ではなく歴史的な事実なんだ >>737
それは終局の同意を拒み続ける奴を排除すればよかったからだ。
「相手が打てなくなったら勝ち」なら終局の同意はいらない。 >>738
純碁では終局に同意は必要ない
両者パスで決まるから負けている方がパスをすれば両者パスで負けが自動的に確定する
だから「相手が打てなくなったら勝ち」と同じだ
もちろん着手やパスを拒否するという選択肢はあってその場合は時間切れに頼るしかないが
これはどんな状況やルールでもターン製のゲームなら発生することなのでルールの問題とはいえない >>739
着手が義務ならパスした時点で負けだろ? >>740
純碁は着手権利だ
そもそも着手義務(もしくはパス代)が必要なのは日本式だけで純碁も中国式も着手義務ではない
さらに着手義務ならパス自体が存在しないので負けではなくパス自体ができない
それ以前に着手義務であっても「相手が打てなくなったら勝ち」と同じだ
一文にこれだけの間違いを詰め込めるなんて天才だなw >>741
着手義務なんだからパスの意思表示をしたら反則負けということ 囲めば取れる
相手が打てなくなったら勝ち
これ以上に簡明な話があるか?
盤上の石の数なんて副次的なものでしかない。 >>742
ルールにパスの規定がないんだからそんなルールはありえないw
パスの意思表示をしても反則でもなんでもなく無視されて時間切れになるだけ >>743
あなたの意見は十分に分かった
これ以上、相手をするとスレが荒れるのでここまでにするよ >>745
君こそが荒らし
石の数を競う理由が説明できないまま本質本質と連呼しているだけ 「碁」が誤用だとか言ってるバカは現代語使わずに古語でも話してろよ
もっとも古語もこいつの考え方じゃほぼ全て誤用だけどな
当然常用漢字も使用禁止な
百歩譲っても康煕字典体、正しくは甲骨文字ないしさらなる原初の文字
ひらがななんぞ論外だ このスレの新参だけど、「盤上の石の数を競う以外は『碁』と呼ぶのは歴史的に間違い」ってのにはついていけんなあ
マラソンは今は42.195kmだけど、オリンピックの最初のころは40kmで競っていたらしい
「40km以外はマラソンって呼ぶのは歴史的にみて誤用」って叫んでるようなものだ
碁のルールに混乱している部分があるとしても、呼び方が原因でもないだろう 「純碁でパス禁止」「相手が打てなくなったら勝ち」
てのも明らかに別ゲーだからな
こういう図を考えればすぐにわかること
┏●●○○○○
●┼●○○○○
┠●●○○○○
●┼●○○○○
┠●●○○○○
●┼●○○○○
┗●●○┷○┛
黒ハマ0
白ハマ12 >>749
まず前提として日本式囲碁の場合はゲームの目的自体が変わっている
またルールが変更されたわけではなくて大陸の囲碁も日本の囲碁もどちらも1000年くらい前から共存して現在に至っている
例えは難しいんだが陸上で言うと幅跳びと高飛びみたいなものかな
長い距離を飛んだ方が勝ちという幅跳びが大陸で数千年前からあったとして
新しく高く飛んだ方が勝ちという高飛びが日本で千年くらい前にできたとする
どっちも飛翔力を競うという意味では似ているが別のゲーム
この時に高飛びを高飛びとは言わずに幅跳びと呼んで
幅跳びというのは高く飛んだ方が勝ちというゲームであると辞書にも書いて
幅跳びは大陸に数千年前からある競技であると言って
幅跳びの統一ルールを作るべきであると主張して全然話がまとまらない
現在の囲碁はそういう状況なんだ >>750
まず純碁ではパスは禁止されていない
その局面は黒がパスをしないとできないので黒がパスをした時に白もパスをして
その時点で終局となって盤上の石が多い白の勝ちとなる
「相手が打てなくなったら勝ち」というのは昔からある言い換えではあるんだよ
「盤上の石の数なんて副次的」というのはおかしいけどね >>750
あっすまん
黒がパスしなくてもできる可能性はあるか
その場合は「相手が打てなくなったら勝ち」の言い換えは成立しないな こいつこれで囲碁初心者だからな
野球ど素人のくせに自分が監督やったら優勝できるような口ぶりのやつがたまにいるがそれと同じ
なんの役にも立たない木っ端だよこいつは >>751
いやそれは「幅」とか「高」とかの一般名詞が入っているから、呼び方が違うと混乱するのは当然だよ
「碁」は一般名詞ではないから、今の碁を「碁」と呼んでも何の混乱もないだろう >>755
問題は飛んだ「長さ」を競うか「高さ」を競うかという目的の違いであって
「幅」という文字が入ってるかは関係ない
>>751の「幅跳び」を例えば「ジャンプ競技」に変えても混乱状況は変わらない
実際に囲碁でも混乱しているわけだし 「目的の違い」が重要なのはわかってるよ
だからこそ「呼び方の違い」は副次的な要素なんだよ
今これだけ地を競うゲームを「碁」と呼んでして定着してるのに
、いまさら「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」なんていうのにはついていけないなって言ってるんだよ 混乱している実例として>>755のいう「今の碁」とは何のことなのか?
大陸に数千年前から現在まである「盤上の石の数を競う」ゲームのことか
日本に千年くらい前から現在まである「地の多少を競う」ゲームのことか
「今の碁」があるということは「昔の碁」があるということだろうが単に「碁」と言った場合にはどちらのことなのか?
もし「碁」という言葉が大陸の碁と日本の囲碁を両方含むものだとしたら両者をどう区別すればいいのか?
また「碁」を「地の多少を競う」ゲームとだけ説明するのはおかしいということにならないのか?
全ては言葉の定義から生じている混乱なんだよな >>757
>今これだけ地を競うゲームを「碁」と呼んでして定着してるのに
これが正に混乱そのものでしょw
「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲームであって
棋院の言う数千年前に大陸でできて日本に伝承されたゲームではないんだから >>758
仮にあなたのいうように言葉の定義を整理する必要があるとしても「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」ということなんでしょう? >>760
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」というのは言葉の定義を整理する方法論の一つだ
誤用を正すというのは論語にもあるくらい最も普通のやり方だからな
もちろん言葉の定義が整理できれば別の方法でもいい >>761
じゃ最初からそういう柔らかい言い方をしなよ
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」というから最初から結論ありきで、それ以外は聞く耳を持たないようなニュアンスだから反発を呼ぶんだよ >>762
柔らかい言い方をしていたら伝わらないことがあるんだ
敢えて直接的なトゲのある言い方をすることで問題点が浮き彫りになる あえて反発を呼んで問題点を浮き彫りにする手法をわざわざ取ってるならこれ以上言わない。ただしあまり気持ちのいいやり方ではないな >>764
もし気持ち悪く感じたとしたら、その感情こそが囲碁ルール問題の根源なんだな
歴史起源通りに碁を「盤上の石の数を競う」ゲームに限定したくない(むしろ「地を争う」ゲームに改竄したい)何らかの感情が働いているわけだ
この感情が論理に基づくものではないことは切り賃論争ですでに分かっているわけだが
どういう感情なのかという詳細はまだ理解しきれていない 不用意にバカに構って籠絡されてるアホもいるようだが、
そもそもの大前提として地か石かでルールの混乱などまるで生じていない
中国ですら切り賃なしを受け入れている
>問題点を浮き彫りにする手法をわざわざ取ってる
のではなく、火のないところに煙を立てているだけだ
黒板を引っ掻く音やゴキブリが気持ち悪がられるのと同じように
切り賃が気持ち悪い(かったるい)と感じるのは特に理由のない人間の自然な感情 >>765
なんか勘違いしているようなので一言言っとくが、「気持ちよくない」というのは、あんたのその手法(わざと反発を呼ぶ)のことなんだ >>750
別ゲーになるというのはおかしい
コミ碁とコミ無し碁は別ゲーと言ってるようなものだ >>767
わざと反発を呼ぶとは言っていないし注目を浴びることを目的とした所謂炎上商法的なやり方もしていない
問題点を浮き彫りにするために直接的なトゲのある言い方をしていると言っている
正論をストレートに言った時にトゲに引っかかる部分というのが問題の本質になっているんだ
今回も実際に「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」という正論をぶつけられた時に
心に引っかかる部分が囲碁ルール問題の本質になっているわけだな >>769
>言葉は語源による正しい使い方をするべき
お前本当にそんな日本語使ってんのか?
もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字なんか現代日本語には腐るほどある
お前も今のところ平気でそういう言葉を使ってる
きちがいもここまで来ると大したもんだと言いたいところだが、
有言実行ということで完全に語源に乗っ取った、意味の変化を一切許容しない日本語を披露してほしいものだな
日本語の専門家でも不可能に近いはずだが 「おいしい」は「御・美(い)し」で「好ましい」「すばらしい」などの意味だった
それが江戸時代ごろに「美味」の意味を持つようになったとされる
このバカは「おいしい」と口にするやつを不快に感じるらしい
もちろん「おいしい」に限らず、ありとあらゆる日本語を不快に感じることになる
生きてて辛くないのだろうか 769の最後の三行、この人本当にこんなに考えてるなら驚きというか浮世離れとしか言いようがない
このスレ内だけじゃなくて、日常に出会う一般の人間ときっと普通の会話できてないだろう さて、歴史起源通りに碁を「盤上の石の数を競う」ゲームに限定したくない
むしろ「地を争う」ゲームに改竄したいという感情はなんなのか?
今のところ考えられる理由の仮説
1.若い頃に習ったから周りに誤用している人が多いからという慣性によるもの
2.棋院も誤用している(囲碁規約)からという権威主義によるもの
3.囲碁を日本由来にしたいという捻じ曲がった国粋主義的な感覚によるもの
4.囲碁を高尚なものだと思わせたいという偉ぶりたい感覚によるもの >>773
え?
今現在すでに「碁」っていえば(中国ルールも含めて)地を争うゲームのことじゃん
「盤上に置ける石の数を争うゲーム」のことに限定したいのはそっちじゃん 勝手に公文書(すでに定められ定着している定義)を勝手に改竄するなよ 1.若い頃に習ったから周りに誤用している人が多いからという慣性によるもの
これは自然な感情だが純粋にこの感情による場合は正しいことを知った時点で改めようとするのが普通であるし
まして積極的に改竄しようというという動機にはならない
ただし碁打ちでも囲碁の歴史起源を知らない人は多い
2.棋院も誤用している(囲碁規約)からという権威主義によるもの
これは国語改革問題や漢字検定問題等でも問題になった権威の悪用の問題
間違ったものに権威がお墨付きを与えてしまうと間違っていても正すのが難しくなるという現代社会の大問題の一つ
3.囲碁を日本由来にしたいという捻じ曲がった国粋主義的な感覚によるもの
これは世界中にその手の人々がいるが理知的な人間であれば相手にしない
とはいえ大声でノイジーで権力を持っている場合もある
4.囲碁を高尚なものだと思わせたいという偉ぶりたい感覚によるもの
「すべからく」問題と同様の話
簡単なことをわざと難解な表現で書きたいという人々がいて結果的に誤用を生み出す
囲碁のルール自体もわざと難解にしたいという人々もいるようだ こいつはどうしようもないきちがいだが、そのうざったさに拍車をかけているのが全く対話が成立しない点にある
コンピュータースレで周りの制止を無視してめちゃくちゃな主張を繰り返し、10年以上の歴史があったスレを崩壊させたのもこいつ
自分の主張を正当化しようとして適当なリンクを引っ張ってくるが、思考にフィルターがかかりすぎて記事の内容を完全に誤読すること多数
どういう定義で話を進めているのかと指摘されると「当たり前のこと」だの言ってはぐらかす
三流宗教家にも劣る低知能ボキャ貧コミュ難がこいつ 碁という言葉の誤用とその背景心理の問題は囲碁ルール問題の根源部分なので重要だが
それとは別の問題として
日本式囲碁を碁と呼ぶ誤用はもう広まりすぎているから仕方がないとして辞書に意味を加えるとした時に
碁という言葉の使い分けをどうするかという問題がある
単に「碁」というと一つのゲームであるかのように認識されているので
ポーカー等のように多様なルールのゲームの集合体だという認識に変える必要が出てくるわけだが
具体的にどうしていくべきなのか?
少なくともルールの分類と言葉の定義の問題は必要になってくる
これは碁の普及活動の問題でもあるし言葉の使い方の問題でもある 「広がりすぎて仕方がないから」かどうかは別にして、現在「碁」といえば地を争うゲームのことに限定して用いていることを認めるところからスタートしないと話にならない
終局してから「この碁は石の数を争うゲームでしょ」と言われれば誰だってお前も怒るだろう?
それを「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁といってはならない」ところからスタートしようとすることを世間では「改鼠」という そもそも「碁(棋)」って単にボードゲーム全般を意味するだけだよね
なんで言葉の問題にしたがってるのかがわからない
ルールなんて解釈の問題であってゲームとしてやってることは一緒じゃん
アルファ碁は中国ルールだろうが日本ルールだろうが基本的に同じ手を打つし同じように強い >>780
だったら囲碁の統一ルールは純碁(切り賃あり中国ルール)ということで文句ないはずだが
現実には意味不明な文句を叫ぶ人がいて話がまとまらない
囲碁の普及を妨げる要因の一つにもなっている
コンピュータ囲碁でも問題になっている
このスレを見ても分かるように囲碁ルールの話になると発狂する人が出て議論にならなくなるんだな
これは表面的には言葉の問題なんだが言葉の裏にはドロドロした心理がある なんかこの人自分の都合のいいレスにだけレスして、都合の悪いレスにははぐらかしたり無視したり発狂扱いするんだね >>782
どれのこと?
スレ違いや明らかにバカなことを書いている荒らしに構うとスレが荒れてしまうから無視しているだけだが 例えば770で「もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字なんか現代日本語には腐るほどある」という指摘には答えていない
これは決してこれまでの話と無関係なことじゃないじゃん
それから779で「現在「碁」といえば地を争うゲームのことに限定して用いていること」を認めるかどうかはっきりしてよ >>781
俺個人としては純碁が一番美しいと思ってるけど
現実には伝統がものを言っているだけであって
表面的に言葉の問題だという意味もわからないしその裏には自分の立場と好みがあるだけでしょ >>784
まず「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論であって
これに異議があるのなら別の板でやって欲しい
その上で他にも誤用があるから「碁」の誤用もいいじゃないかということには当然ならない
車の速度違反で捕まって他のみんなもやっていると抗弁するようなものだ
しかも碁の場合には実害まで出ているのだから他の無害な例と一緒にすることもできない
「碁」のオリジナルの意味は古代から大陸にあり日本にも伝承された「盤上の石の数を競う」ゲームのことであり
現在でもその意味で使われていることが多い
上で棋院の用例を挙げたが一般の認識としても囲碁は大陸由来のゲームであるというのがほとんどだろう
ただし本来の囲碁が「盤上の石の数を競う」ゲームだとまでは知らない人が多い
大陸の碁ではなく日本で発明された「地を争う」ゲームに限定して使うことはオリジナルの意味に反するので誤用であるが
明確に誤用である(すなわちオリジナルの定義では意味が通じなくなる)という使い方も広まっている
これが正に問題であるわけだな >>785
歴史と言葉の問題には個人の立場や好みは関係ない
おれがどう思うかは関係無しに本来の碁は「盤上の石の数を競う」ゲームなんだし日本式囲碁はそれとは別のゲームなんだ
今回の件でおれは自分の個人的な意見や主張を言っていない
表面的に言葉の問題だというのは大陸の碁と日本式囲碁を言葉として明確に区別していればルール問題は存在しないということ 「もともとの語源とは離れた意味になってる言葉や漢字」=誤用
とは限らん。広く一般に使われればそれがその言葉になる
「碁」も同様
車の制限速度ですら、実測に合わせて変えることも多い >>787
本来のゲームの目的がそうなのは良しとして日本ルールが別のゲームだというのはお前の主観的な意見だよね
例えばチャトランガでは王様を取ることが勝利条件だったけどチェスや将棋ではそれが合理化されて詰めることが勝利条件となった
どうぶつしょうぎというゲームではわかりやすく王様を取ることを勝利条件にしてるけどそれを詰めたら勝ちというルールにしたらお前の中では全く別のゲームなのか?
国際棋戦が問題なく行われている時点でほぼ同じゲームとしてみんなが認識してるし残念ながら言葉の問題にはなり得ないよ
なぜならゲームの手順も結果もほぼ変わらないから >>788
そういうのは国語板(?)でやれよ
誤用は意味が通じなくだけではなく論理や認識を歪めてしまうから問題なんだな
こういう最低限の教養もないバカを相手にするとスレが荒れるから避けているんだが >>789
日本式囲碁が「盤上の石の数を競う」ゲームではないというのは囲碁規約に明記されているくらいの常識だぞ
貴方はあまりにも囲碁について知識が無さ過ぎる
あと詰みと玉を取ることは意味としては同じなんだが、なぜ「全く別のゲーム」のゲームだと思うのか(スレ違いなので返答不要) >>791
事実と意見は区別してね
「別のゲーム」「意味としては同じ」
これらが単なるお前の主観ではないという根拠は? >>790
ん?
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」といって言葉の問題にしたのはお前じゃなかったっけ? >>786
>「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論
学問板でこれ書いてきてみなよ
どこの文系の板でも失笑を買うだけだぜ ちなみに
>「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」というのは一般的な正論
であるのなら、「碁」を石数を競うゲームの名前にあてることこそ「誤用」だな
他の人も指摘してるが、「碁」という字はもともとは単にボードゲームを指す字に過ぎない
つまり「碁」という字を石数ゲームの意味で使うのは「球」をサッカーの意味にするのと同じで、こいつの理屈に従えば「誤用」となる
ちなみに「碁」の別名は「囲碁」だが、「囲」は「かこむ」の意味だから石数ゲームの意味では使えないなあ
結局石数ゲームの意味で使える単語は中国にも日本にも、過去にも今にも存在しないようだ
残念だなあ こいつは「本来」とか「合理的」とか、この話をするにあたって欠かせない用語の定義は「辞書の通り」とかいって逃げるくせに
辞書に載ってる「碁」の定義(地を競う)を誤用だと言って決めつける
ご都合主義にもほどがあるぜ こいつが「この魚おいしいね」って言ってる女に
「「おいしい」は「美味」という意味ではなく「すばらしい」という意味だよ、語源に則った正しい日本語を使おうね」って返答するような調子の人生おくってんのならまだ分かるが、
そうでなきゃ本当にただのご都合主義だな デマを書いている荒らしが沸いているがスレ違いの内容なので訂正できないのが苛立たしいw
どうやら>>795は包含関係が理解できていないようだな
サッカーを球技やフットボールというのは誤用でもなんでもないがラグビーをサッカーというと誤用になるということが理解できないらしい
少し正確に書くと「古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯」(の総称)を碁と呼んでいて
その一つに「盤上の石の数を競う」ゲームがある
当然その中に日本の新しいゲームである「地を争う」ゲームは含まれていない
「盤上の石の数を競う」ゲームのみを指す用語はなく、碁の他のゲーム(乱碁,弾碁,格碁等)は衰退したか、
別の新しいゲームに発展して名前を変えたので(連珠等)、今ではほぼ碁=「盤上の石の数を競う」ゲームとなっている
>>796
誤用かどうかはおれが決めることではなく歴史的な言葉の定義から決まっていることだぞ >>798
なにそれ?
辞書の碁の定義が誤用なんてお前(だけ)が言ってる、すなわちお前だけが決めてるんだよ >>798
「碁」と「日本式囲碁」が別のゲームであるとする主観なしの根拠は? >>798
言ってることが全く違う
そもそも「碁」は「棊(棋)」の異体字で源義は「テーブルゲーム」
もともと「棊」という字があり、のちに材質の違いから「碁」という異体字が生まれたが、
異体字の関係にあるからもともとは両者に厳密な使い分けは存在しない
実際現代中国語では「棋」に統一されているし、日本でも「圍棊」等の字体は散見される
「碁」という文字には「テーブルゲーム」、狭義には「石を使うテーブルゲーム」という字義しかない
それがのちにもっぱら「囲碁というゲーム」の意味に使われるようになっただけ
「碁」の源義=「盤上の石の数を競うゲーム」なんてことはあり得ない
少しは漢字の成り立ちくらい勉強しろよ >>798
あと、語源に基づいた正しい日本語を使ってもらえないかね?
たとえば「新(あたら)しい」は「改(あらた)む」から派生した語で
「新(あら)たし」と書き「もったいない、惜しい」という意味で使わなければいけない
まあ平安時代ごろには既に「あたらし」に移行したらしいが、
奈良時代に「あらたし」と読まれてたのなら当然そっちが正しくて「あたらし(あたらしい)」は間違った日本語なんだよな?
お前が言ってんのはそういうことだぜ? >>799-802のバカはスルーでいいな?
誤用の意味も分かってないし包含関係すら理解できていないし語源の説明も全てデタラメだし囲碁の知識もないし小学生レベルの常識もない
(「あたらし」が誤読であるというのは確かにそういう説が一般的だがこれは音変化であって誤用とは違うという話はスレ違い)
このバカに構っていると無駄にスレが荒れるだけだ
いい加減にコテをつけて欲しいものだが いやいや絶対スルーじゃダメだろ(笑)
情けないおじさんだな
逃げてないで>>792に答えなよ >>803
だから語源に則った正しい日本語使えってんだよな〜
スルー、すなわちthroughには「〜を通じて」「〜を経由して」等の意味しかない
「無視する」の意味は近年生まれた和製英語で語源に則った正しい日本語とは言えないな
そもそもこの用法は辞書にすら載ってないか、あるいは「俗に」などの断りが入ることが多い
こいつの基準じゃ完全に「誤用」だろう
自分で問題提起しておきながら、自分が正しい日本語を使えていないのはどうなんだい? >>798
またでた
「歴史的に決まっている」
↑これはいったいなんの呪文だ?
過去は変えられないから「歴史」なら決まっているけども、
歴史的に決まっている「物事」なんて何一つ存在しないぞ。
上の方で「切り賃がなくなった合理的理由はなんだ」って
しつこく喰らい付いてスレを荒らしていたのがお前だということは
文体やバカさ加減からして火を見るより明らかだが、
今度は立場が逆転して、皆がお前に対して
「碁が石を数えるルールでなければならない合理的理由はなんだ」
と尋ねているわけだ。
それに対してお前は、「歴史的に決まっている」などという不合理、意味不明な理由しか挙げられないでいる。
さあ早く誰もが納得できる合理的理由を説明してみろ。 あんまりいじめるのもアレだから捕捉しといてやるけど、この人が言ってんのは結局ただの極論でしかないんだよな
「信号無視は犯罪である」
「犯罪者は社会から隔離したほうが人々は幸せになる」
「ゆえに信号無視を犯した君は死刑に処されるべきである」
みたいな
「そこまでする必要があるのか」
「些細な罪で死刑にしては彼の死を悲しむ人がいる」
みたいな反論には
「それは関係ない」
という調子だから全く議論にならない
もうちょい多面的な考え方ができるようになったほうがいいよこの人は 「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」
と偉そうにのたもうたのが全部自分自身に却ってきたってことだな
これに懲りてこのスレではどや顔するなよ さて話を戻そう
本来、碁というのは「古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯」(の総称)のことであり
特にその中の「盤上の石の数を競う」ゲームのことを言う
これはよく知られた歴史的な事実と言葉の定義であり、棋院を始めほとんどの囲碁関係者の共通認識である
ちなみに中国語でボードゲームは版圖遊戲などと言い
当たり前だが(荒らしが言っているような)オセロを碁や棋などと呼ぶようなことはない
一方で日本式囲碁は「地の大小を競う」ゲームであり、「盤上の石の数を競う」ゲームとは目的が異なるゲームである
これは日本囲碁規約に明記されていることであり、(荒らし以外は)全ての囲碁関係者の共通認識である
大陸の碁においてはルールが明確かつ完全であるために「ルール問題」は存在しない
「ルール問題」は地の定義を必要とする日本式囲碁に特有なものであり、
大陸の碁と日本式囲碁の混合が現在の囲碁ルール問題を生んでいる
このことも(荒らし以外は)全ての囲碁関係者の共通認識である
以上の話はよく知られている事実の説明であって、おれの個人的な見解や主観によらない さて「言葉は語源による正しい使い方をするべきで、誤用はやめるべきだ」という一般的な正論がある
言葉を誤用すると、情報伝達に失敗したり、論理がおかしくなったり、認識が誤誘導されてしまったりするからだ
これは論語にもあるくらいの正論であり(荒らし以外は)社会的に広く認められている
この正論をそのまま「碁」に当てはめてみるという思考実験を行ってみると
「盤上の石の数を競う以外のゲームを碁と呼んではならない」ということになるが
これを実行すれば囲碁ルール問題は解決することが分かる
つまり囲碁ルール問題は言葉の問題であるとも言えるわけだ
ところが実際には「碁」の誤用を正すことには大きな心理的な抵抗が生じる
実際にこの誤用は広まっており、これは積極的に誤用を促す何らかの感情がないと説明がつかない
この感情が囲碁ルール問題の根源にあることが分かる
以上の話はただの事実と合理的な推論であり、おれの個人的な見解や主観によらない
当たり前のことだが、おれが「誤用はやめるべきだ」と主張しているわけではない(荒らしが藁人形を叩いているが) この感情が何に由来するかというのが目下の論点の一つだ
おれの考える叩き台的な仮説は>>773>>776にまとめた通り
もう一つの論点は実際に誤用が広まっているという現実を踏まえた上で
言葉の定義をどのように整理して囲碁ルール問題を解決していくのかという点
ここについてはおれは個人的な考えを持っているがまだ書いていない 自分でも何言ってるのかわかっないっぽいよね長文の人って この人はWikipediaの「誤謬」の項目でも見とくことをおすすめする
論理的な瑕疵があまりにも多すぎる
転倒した倫理観を転倒した論理で支えていることはよくあることだが、ここまで来るとねえ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%A4%E8%AC%AC?wprov=sfla1 >>813
もし論理的な瑕疵があるのなら具体的に指摘した方がいい
指摘できないのなら荒らしになるだけだから書くべきではないな 大陸では数千年前から石と盤を使ったゲームが存在していた
それらのゲームを碁といい
その中でも特にメジャーであった「盤上の石の数を競う」ゲームは現在でも親しまれている
一方で日本では千年ほど前から「地の多少を競う」ゲームが行われている
このゲームは碁の変化形であり、日本ローカルなゲームであったが、ここ100年くらいで世界に広まった
ここではこのゲームのことを「日本式囲碁」と呼ぶことにする
「盤上の石の数を競う」碁と「地の多少を競う」日本式囲碁はゲームの目的が違うため
ルールの根幹部分が異なっており、両者を混同するとルール問題が発生する この混同は「日本式囲碁」を「碁」や「囲碁」と呼ぶ言葉の誤用に起因する
例えば「囲碁教室」と言えば、本来は純碁を教える教室であるはずだが、「日本式囲碁」を教えている
いわゆる羊頭狗肉の状態だ
この状態を正すには、言葉の誤用をやめて「日本式囲碁教室」にするか、
「日本式囲碁」のルールを変更して「盤上の石の数を競う」ゲームに合流するしかない
以上は誰でも分かる簡単で論理的な話だ
しかし現実には大きな心理的な反発が発生する
心理的な反発の原因を議論する前に
その防衛機制から生じる反論について検討しよう 反論1
「日本式囲碁」を「碁」と言うのは昔から広く使われている用語であるし
羊頭狗肉であっても狗肉であることを皆が知っていれば問題ないのではないか
この反論は実際に「日本式囲碁」と「碁」の混同が発生している現実から目を背けている
ただの現実逃避にすぎない
また「狗肉であることを皆が知ってい」るのなら堂々と「狗肉」として売ればいいだけだ
「日本式囲碁教室」とすることに何か問題があるのか
反論2
ほとんど同じゲームなんだから「日本式囲碁」も「碁」に含めて問題ないのではないか
この反論も現実にルール問題が発生していることから目を背ける現実逃避である
ほとんど同じゲームならルールが問題になることはないのだ
また仮に「碁」の定義を広げるにしても元々の「碁」の定義に「日本式囲碁」が追加されるだけで上書きされるわけではない
「囲碁教室」は純碁に加えて日本式囲碁も教える教室という意味になる
問題は何も解決しない
反論3
ルールなんてどうでもいいのではないか
だったら囲碁規約は廃止でいいな?
細かなルールに拘り、押し付けたい人々がいるからルール問題が生じているのであって
その人たちを説得できないのなら問題は解決しない 論点1.歴史を捏造するべきか?
碁というゲームは歴史的に「盤上の石の数」を競うゲームだった
この歴史的事実を「地の多少」を競うゲームだったという風に捏造するべきかどうか
岩波の広辞苑等の一部の辞書部門や棋院の一部等は捏造するべきとの考え
一方で平凡社等の出版社や一部の棋士等は歴史を捏造せずに正しく伝えている
個人的な意見としては捏造する・しないは個人の自由だと考える
自分自身は捏造はしないし捏造する人は好きではないのだが
それは個人的な感情であって捏造したい人々に捏造を禁止する合理的な理由はない
ただし事実を誤解してしまう人が出てくるので捏造を捏造だと指摘することは大切だ
特に子供にはしっかりと教育するべきだろう 論点2.「碁」の定義に日本式囲碁を加えるべきか?
歴史の捏造をしなかった場合に、歴史的な「碁」の定義を拡大して日本式囲碁を加えるべきかどうか
慣習的な言葉の誤用を容認するかどうかという問題の一つになる
個人的には容認してもいいと考える
もちろん厳密な言葉遣いをする方が望ましいが、他人に禁止するまでの合理的な理由はない
ただし本来の碁と日本式囲碁の区別は必要なので、誤解の生じない用法は必要になる
拡大された「碁」「囲碁」の辞書的な定義は以下のようになる
一、古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯の総称
二、特にその中でも盤上の石の数を競う遊戯のこと
三、そこから派生した「地」の多少を競う遊戯(日本式ルール)の呼称にも使われることがある(厳密には誤用) 論点2’.碁のルールを統一するべきか?
論点2の言葉の誤用を容認するかどうかと同じ問題
なので個人的には統一しなくてもよいと考える
碁のルールは対局者が好きなルールを自由に選んで使えばいい
大会においてはルールが公開され参加者の承認が得られているのなら問題ない
もちろん参加者には承認せずに棄権し、その事実を公表する権利がある >>820
碁のルールにそこまで詳しくないが主張は理解できるが
一種の原理主義だよ
逆に他の宗教とかの原理主義者の事例をその原理主義者たちの立場を考えて考えてみると良い ローカルルール程度の話を「言葉の御用」とまで言ってしまうことの大げさ具合がわからないんだろうな
数え方が違うから別のゲームだと連呼するのはいいけど名称を変更すべきほどの違いだとする根拠は一切答えられない
「ほとんど同じゲームならルールが問題になることはない」←意味不明な論理 >>822
歴史を捏造したりルールを信仰したりするのは原理主義というよりはカルト宗教に近いな
日本ルール教と考えるのが分かりやすいかもな
>>823
あんたはいい加減にコテつけろよw
「数え方が違う」ではなく「目的が違う」ゲームだからルールの問題になっている 囲碁の歴史捏造問題を考える上で1949(昭和24)年に制定された旧日本棋院囲碁規約の前文をテキストにしてみたい
新規約の序文も相当にアレだが旧規約のは完全にカルト教典になっている
まずは読んでみて欲しい
http://park6.wakwak.com/~igo/igorule/kiyaku.html >>825
前文を引用しようとするとNGに引っかかり投稿することができない
囲碁板で棋院規約が荒らし認定されるという冗談にもならない話だがそれくらいの内容だ
前文の全文はリンク先を見てもらって議論は部分引用(いくらなんでも大丈夫だろう)で進めよう 比較のために日本チェス規約の序文も置いておく
こちらは当然チェスと将棋を混同したりしていないし歴史を捏造したりカルト的な内容が書かれていたりすることはない
これが当たり前だ
http://www.jca-chess.com/jcatyesukiyaku.htm
この棋約( 以下日本棋約または単に本棋約という )は世界共通のゲームとしてのチェスの基本的、かつ唯一の国際統一ルールを
「 The Laws of Chess ・ 1996改正 FIDE 」に準拠して制定されたもので、
The Laws of Chess( 以下国際棋約と言う )の前言に従い、日本国領域内に於いては、国際棋約の一部である。
従って、本棋約は公的私的を問わず、日本国領域内に於いて行われる全てのチェスゲーム活動の基本であり、チェスゲームを盤上で行うときの合意事項である。
盤上であるいは競技会場で紛争が起きたとき、この棋約に従っていないものは、なん人も正当性を持つことはできない。
本棋約の適用に於いて国際棋約との間に著しい矛盾のあるときは、
本棋約の該当する条項は、JCAルール審議会により資格を与えられたものの裁定により、一時的、かつ部分的に失効する。
本棋約と国際棋約との間に矛盾とは言えないまでも、重ならない部分があった場合、その部分については、次の場合に限り初めから本棋約の条項は適用されない。
日本国領域内に於いて行われる全ての国際公式戦およびFIDEレイティング競技会において国際棋約に定められいてないことの内、
決定がJCAの指定する主催者またはアービターの裁量権の範囲を越える場合。
(以下略) さらに碁の規約の客観的な解説として旧中国ルールの英訳を置いておこう
http://www.cs.cmu.edu/~wjh/go/rules/Chinese.html
最初に伝統ルールは石の数を競うものだという説明があり、
その後に切り賃の説明があって、切り賃をなくしたものが現代ルールであるという事実が書かれている
このように、伝統ルールと現代ルールの2つのルール(ゲーム)が存在していること
現代ルールは伝統ルールの一部を改変したものであるというのが歴史的にも正しく当たり前の解説のやり方だ
ただしここでの伝統ルールというのは本来の碁のことだが
現代ルールというのは日本式囲碁のことではなく現在の中国ルールのこと
国際的には歴史捏造は許されないので伝統ルールを廃止して日本式囲碁に書き換えるというのはありえず
統一ルールというのは伝統ルールはそのままに現代ルールの国際統一をはかるものになるが
現代ルールの統一ルールを作るのか、日本式囲碁の統一ルールを作るのかでもめて分裂状態になっている
これも言葉の問題の一種である >>828
あれ?目的が違うから別のゲームだとかって持論はどこへいった?
日本の改変→歴史の捏造
中国様の改変→現代ルール
やっぱりただの売国奴じゃん ついでに、目的が違えば別のゲームってのにもつっこんでおくが、
サッカーもラグビーもホッケーもゴールポストにたくさん玉を入れるという目的は変わらないな
だったらこれらの競技はすべて同じゲームってことでいいなw さて>>825の旧規約を読む上でのポイントは以下の3点になる
1.旧規約の成立の経緯
2.(当時の)国際ルールと旧規約の対応関係
3.旧規約上で行われるゲームの名称
これらを順番に詳しく見ていこう 1.旧規約の成立の経緯
よく知られているように旧規約は1948年7月の呉対岩本の日本式囲碁の対局における手入れ問題に端を発し
日本式囲碁のルールの成文化の必要性に迫られて翌年10月に制定されたものである
戦後の状況下における1年という短い期間の「慎重審議」の産物であり
「徳川時代以来の慣習として認められてきたものを成文化した為、
理論面での明確性が必ずしも充分と云えない」(吉国)ものとなった
ちなみに棋院は「日本で初めての成文法」であると主張しているが、もちろんこれは捏造であり
民間人(当時は棋院も民間の法人)による成文ルールはそれ以前から公表されている
旧規約の前文においては
「内外の事情により囲碁規約の制定がまさに刻下の緊要事であること」
を制定理由に挙げている
ここで「内」というのは上で挙げた呉対岩本戦により生じた社会的な要請のことであり
「外」というのは
「今や囲碁が国際的に普及する段階に達しており、今後国際的囲碁競技にまで進展することが期待」
されている国際的な状況のことであるとされている この時点で普通の人なら頭が疑問符で一杯になるだろう
呉対岩本戦の問題は日本式囲碁だから生じたものであり
なぜ「囲碁規約」が問題になるのか?
実際に国際ルールに準拠した「囲碁規約」は島田らによって当時すでに成文化されており
国際ルールを用いていれば問題は生じ得なかった
社会的に求められていたのは日本式囲碁のルールの成文化であって「囲碁規約」は関係ない
そもそも旧規約は日本式囲碁の成文ルールであって「囲碁規約」ではない
「囲碁が国際的に普及する段階」って日本は普及された側でしょう?
「国際的囲碁競技」の環境整備にローカルな日本式囲碁も旧規約も関係ないでしょう? これらの疑問は、旧規約が「囲碁」という言葉を誤用しており
日本式囲碁のことを指していると理解すれば解消する
新規約では「日本ルール」「日本囲碁」「日本の囲碁」等の用語が見られるが
旧規約では一貫して「囲碁」を日本式囲碁に限定して用いている
「各方面の権威者」が公式文章で用法を誤るわけがないので
この誤用は明らかに意図的なものであり、その後の誤用の流布の大本になる
では、旧規約上で「囲碁」が日本式囲碁のことだとするなら
本来の囲碁や国際ルールは旧規約上ではどのように表現されているのか?
それらは旧規約では存在自体が抹消されている
囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
もちろんこれは歴史の捏造である
各国の伝統的な囲碁の存在を無視して抹消し、優れた日本式囲碁を「国際的に普及する」
「その実現によって国際親善と世界平和の増進に貢献する」
今から見ればカルトな帝国主義思想にしか見えないが当時の棋士達は本気だった
実際、戦前からそういう「普及」活動は行われていた
歴史捏造の裏には当時の思想や社会背景がある 素朴な疑問
「囲碁」は「碁」なのか?
石の数を数えるゲームに囲うの文字はついていたのか? >>835
書体は時代や地域によって様々なものがあるが、「碁」(とそれに該当する用語)は
「一、古代の大陸で行われていた碁石と碁盤を使う室内遊戯の総称」
を意味する(囲碁、乱碁、格碁など)
それらの遊戯の一つである
「二、特にその中でも盤上の石の数を競う遊戯のこと」
が「囲碁」(とそれに該当する用語)になる
現在では「囲碁」しか残っていないので「碁」は「囲碁」と同義になっている もともと囲うという字に石の数を競うという意味があったの?
誤用かな?
あるいはその語ができたころにはすでに陣地を囲うゲームになっていたという可能性は? >>837
囲って石を取り去るから「囲碁」
「文字通り、棊子(碁石)を囲い・トリあう。地を囲うのではない」(白川)
数千年前(諸説あり)から現在まで囲碁は盤上の石の数を競うゲーム
日本に日本式囲碁ができたのは1000年くらい前(諸説あり)
大陸に現代ルールができたのはここ数十年
あまりにも無知すぎる質問は荒らしと同じになるぞ
それからいい加減にコテつけろよな
君が知恵遅れの子だというのはもうみんな分かっているから
コテつけて議論の邪魔さえしなければ他のスレでもみんな優しく接してくれるよ 目的が違うものは名前を変えるべきだという人もいる。
盤上の石の数を数えるのと石を囲って取り合うのは明らかに別の意味だけど
盤上の石の数を数えることと盤上の空き地の数を数えることの違いよりはずっと違う。 >>839
知恵遅れ君はいい加減にコテつけたらどうだ
「ゲームの違いというのはルールの違いなんだよ」
「細かい規則の違いなら分類分けしないこともあるが、ゲームの目的が違うくらい大きく違えば完全に別のゲームだよ」
「包含関係は逆は必ずしも真ならずだから別のゲームでもゲームの目的が違うとは限らないよ」
「囲碁とオセロはルールが違うから別のゲームだし、サッカーもラグビーもホッケーも別のゲームだよ」
という小学生レベルの説明が分からない
「囲碁は文字通り囲んで石を取り去るから囲碁なんだよ」
「囲碁というゲームもそれに対応する言葉も日本に伝来する前からあるんだよ」
「囲碁は古代から盤上の石の数を競うゲームなんだよ」
「大陸に地を争う現代ルールができたのはここ数十年の最近のことなんだよ」
という囲碁の基礎知識も知らないし説明されても基礎知識を教えられていることすら分からない
自らが無知であることへの反省も教えてくれた人への感謝もない
分からないことは仕方ないがコテをつければレスが整理できてスレが荒れない >>840
> 日本に伝来する前からある
あなたの使う文字は中国由来のものだがあなたの書いているのは中国語ではない
> 「ゲームの違いというのはルールの違いなんだよ」
つまり地を争うゲームは日本発のゲームということで問題ないのでは? >>841
「地を争うゲームは日本発のゲームということで問題」あるなんて誰が言っているんだ?
少なくともこのスレでは誰も言ってないぞ
>あなたの使う文字は中国由来のものだがあなたの書いているのは中国語ではない
だったら、大陸の碁は日本語では何て言うんだ?
大陸の碁を日本語で囲碁と書いている文献や言っている人々は棋院も棋士も学者もみんな間違っているのか? >842
> 囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
> もちろんこれは歴史の捏造である
> だったら、大陸の碁は日本語では何て言うんだ?
さあ?あなたならどう呼ぶ?
私は、石を数えるか地を数えるかは些末な違いであると思うし、どちらも囲碁と呼ぶ。
その意味で2行目の記述は間違いだと思うが、「囲碁」を「地を数えるゲーム」に置き換えれば部分的には正しい
日本人が日本語で書いた地を数えるゲームの説明とすればそれなりに筋は通る >>843
これだけコテつけろって言われているのにまだつけないのな
コテのつけ方が分からないのか?
名前欄に「知恵遅れ」って書くだけだぞ
知恵遅れ君には無理か
「数える」と「競う」は違うって散々注意されているのにまだ分かってないのな
数え方はどうやろうがルールには無関係
何を競っているかの目的が変わるとルールが大きく変わる
小学生でも分かっていることだが知恵遅れ君には無理か
その引用部分では石を競うゲームを囲碁、地を競うゲームを日本式囲碁と区別しているから
> (石を競う)囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
という以外には読めないんだが小学生の国語力もない知恵遅れ君には無理か
知恵遅れ君がどう思おうが社会で使われている言葉の定義は決まっているんだが
自分の考えで世界が変わると思っている知恵遅れ君には理解不能か
バカってすごいなぁ
こんなの相手にしていたらスレが荒れるわけだわ >844
> 本来の囲碁や国際ルールは旧規約上ではどのように表現されているのか?
>
> それらは旧規約では存在自体が抹消されている
> (石を競う)囲碁は日本発のゲームで「国際的に普及する段階」になったいうことになっている
石を競うゲームと地を競うゲームがあって、旧規約で前者の存在が抹消されていて、
それなのに旧規約で前者について言及されているの? >>844
人に言う前に自分がコテつけたら?
ずうっとスレに住み着いているようだけど
見たところきみの意見は突飛すぎて賛同は皆無、四面楚歌っぽいね >>845
存在が抹消されていて石を競うゲームについて本来あるべき言及がされていないから
「(石を競う)囲碁は日本発のゲーム」ということになり、歴史の捏造になるということが書いてある
小学生くらいの国語力があれば読めるんだが知恵遅れ君が読めないのは当然か
>>846
おれがつけてどうするw
知恵遅れで議論の邪魔になっているお前がつけないと意味ないだろww
俺が自分の意見を書いていないことすら分からないのはバカの極みだな
「1+1は2なんだよ」って説明しても「きみの意見は突飛すぎて賛同は皆無」っていうんだから頭痛くなる >俺が自分の意見を書いていないことすら分からないのはバカの極みだな
へ〜、ならいったい誰が君の意見に賛同してるの?
誰がルールの問題は歴史の捏造だとか言葉の誤用だって主張しているの?一人でもいいから紹介してくれよ >>848
俺は意見を書いていないと言っているのにww
お前面白いなw
何でそんなにコテつけるのが嫌なんだ?
理由を教えてくれよ >>849
なにすっとぽげてるんだ?
おまえの意見でないなら誰の意見なのかって聞いてるんだよ、まさか日本語わからないのか? >>850
知恵遅れ君が発狂したw
誰って言われても全部お前の妄想だとしか言いようがないw
いいからコテを嫌がる理由を教えてくれよ きみ、都合が悪くなるとすぐに「俺が言ってるわけじゃなあ〜い!」って言って他人のせいにして逃げるよね(笑)
じゃあ俺も同じことをいうけど、他の人の一般意見ならば、数えるのが石だろうと地だろうと同じ「碁」だというのが常識だぞ。
欧米でもarea、あるいはterritoryという言葉で説明されている。
もちろん俺個人の意見でそんなことできるわけはないので、これは世界中の人間の共通意見だということ。
日本の碁は言葉の誤用だとか歴史の捏造だなんて言ってるアホはおまえ以外ひとりもいない
これはどう考えてもおまえの個人的な意見だ
さあいいからコテを嫌がる理由を教えてくれよ >誰って言われても全部お前の妄想だとしか言いようがないw
なんだやっぱり全部お前の妄想だったんだなw >>852
>じゃあ俺も同じことをいうけど、他の人の一般意見ならば、数えるのが石だろうと地だろうと同じ「碁」だというのが常識だぞ。
すげーなw
数え方は関係ないって何度言われても貫き通すキチガイぶりww
数え方じゃなくてルールの話だと何万回言われても分からないんだろうなw
自分が知恵遅れでちゃんと読めずに妄想を書くから注意されているだけなのに
脳内では「都合が悪いから逃げている」「論破した」って思いこんでいたんだ
バカってすごいわ
しかも何で自分がコテをつけろって言われているのか分かってないんだな >数え方は関係ないって何度言われても貫き通すキチガイぶりww
>数え方じゃなくてルールの話だと何万回言われても分からないんだろうなw
もはやなにをいっているのか訳わからんwww
数え方がルールでなくてなんだというん
小学生レベルの言葉遊びをしているのは自分のくせして
スレが荒れるだの知恵遅れ君だのとよくもまあいえたもんだな
本物のバカは格が違う >>847
旧規約
> 概 念
> 第1条
> 囲碁は、(中略) 彼我の地を計算して勝敗を決定する。
これを読んでも石を競うゲームがどこで生れたかとんと 見当がつかぬ。 >>855
知恵遅れ君には分からないよなw
知恵遅れだもんな 「数える」「競う」「目的」
どれも表現を変えているだけで文脈的には同じ意味になるってことがわからないんだろうな
日本人じゃないならしょうがない >>858
「数える」と「競う」が「同じ意味になる」になるわけないだろw
また知恵遅れ君の迷言が増えたな バカには文脈が理解できないんだな、これは失礼した
では当たり前すぎて説明するのもバカらしいことだが、
「数えて」「競う」というわけだ
まさか数えなくても競えるなどとは言うまいな 知恵遅れ君の頭の中では日本ルールも現代中国ルールも伝統ルールも全部同じなんだろうな
数え方が違うくらいにしか思ってないから囲碁関係者が頭を悩ませているルール問題が認識できない
棋院がなぜ日本ルールに拘っているのかも理解できない
分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
どうしようもないなw 初心者を卒業した程度に打っているなら、数えて競うのが石だろうが地だろうが
碁のゲーム性(目的)は領土争いだということは理解できるはずなんだがエアプのようだな。
>>629のとおり基本的に石でも地でも論理的にほぼ同値。
完全にイコールでないとはいえ、「石」と「地」は細かな違いでしかなく、競っている戦略や技術は同じ。
そうでなければ中国ルールで動いている汎用性のないアルファ碁は日本ルールでは雑魚でなきゃおかしい >>861
全部同じ「囲碁」だろ
同じだからこそローカルルールのすり合わせをする
今風に考えれば、都合の悪いことは書かない、書いてないことは都合が悪いこと
石を競うゲームについて旧規約で書いていないのは、石を競う「囲碁」というゲームが外国に既にあったから
ということになりそうなものだが >>863
修正
同じだからこそローカルルールのすり合わせをする程度で対局ができる >>861
きみが中国ルールに拘っているんだろ
大陸の碁も17路盤だったり、事前置石だったり、コミ、切賃、スーパー劫と幾度も改変されているのに、それは「歴史の捏造」とはなぜか言わない。
特に切賃は目的が石か地かという問題に本質的にかかわるのに。
詰まるところ、「目的が違う」ばかり強調するのは、
中国ルールの改変だけを正当化しつつ日本の改変だけ否定したいがための都合の良い言い分、という証左である。
目的が同じでも同じゲームとは限らないのだから、目的だけでゲームの違いが決まるとは言えない。
「目的が違えば別のゲーム」という発想はきみが勝手に考えた分類方法で、普遍的とはいえず説得力に乏しい。 >>862
「細かな違いでしかなく」ww
ルール問題に関わっている囲碁関係者が見たら発狂する表現だなw
後半部分は知恵遅れ君には珍しく正しい
偉いぞ
>>629を書いたのは俺だが
>>863
「ローカルルールのすり合わせをする」ができれば誰も苦労しない
「囲碁」ではそれができないというのがルール問題だ
日本の囲碁が大陸由来だというのは旧規約制定当時から常識であり、現在では棋院も公式に認めている >>865
また知恵遅れ君の妄想が始まったw
一つでもいいから「ゲームの目的が違うのに同じゲーム」だという例をあげてくれないか? >ルール問題に関わっている囲碁関係者が見たら発狂する表現だなw
また妄想かよ。
なら「細かな違いだ」と言って発狂する囲碁関係者とやらを紹介してくれよww
ただし単に「細かい」というだけでは主観によって大きな幅があるわけだが、
ここでの「細かい」というのは、まったく別のゲームとして扱わなければならないほど大きな違いではないって意味だな。 >>867
コミがあるなら黒はコミを出して勝つのが目的になる。コミなし盤面で勝つのとでは目的も戦略も変わるわけだが?
個人戦一回きりの勝負と、番碁(セット制)や団体戦も、最終目的は異なる。
時間によっても、早碁(直感、素早い判断力)と遅碁(深さ、最善の追求)で目的は違うともいえる。
碁はアマにとっては遊びだが、プロにとっては稼業だ。
碁は芸術だという人もいれば手談だという人もいるし、戦乱の再現だという人もいる。もともとは占星術だった。
「目的」なんてものはゲームの局所的な側面に過ぎないし、また人それぞれ捉え方も違う曖昧なものでしかない。 >>868
国際囲碁連盟ルール委員会に言ってみれば
>>869
当然、囲碁以外の競技ゲームでということなんだが知恵遅れ君は知恵遅れだったな
選手の目的ではなくゲームの目的なんだが知恵遅れ君は知恵遅れだったな
難しいこと聞いた俺が悪かったわ そもそも「目的が違えば別のゲーム」なら、切賃のない現代中国ルールも
「碁」と呼ぶのはおかしいことになるのだが、そういう都合の悪いことは全部スルーか?
そして、ルール問題を歴史の捏造だのというのが自分の意見でないのならいったい誰の意見なんだと聞いても、
「知恵遅れ」だとか言ってはぐらかすだけ
>分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
>注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
>どうしようもないなw
ブーメランにも程があるぞ
>>813と、あと詭弁のガイドラインもググって熟読してこい 卓球は以前は21点制だったが、今は11点制で、かつセット数が増えた
よって21点先取から11点先取に目的は変わったわけだが、同じ卓球には変わりない
こんな例は無数にあるけどいちいち挙げなきゃわからないのか? >>872
分かった分かったw
そういうのは「目的は変わった」とは言わないんだが知恵遅れ君だからな
バカに触れちゃいけないっていうのがよく分かったわ >そういうのは「目的は変わった」とは言わない
それはおまえの都合の良い論理だ
それを言うんなら、碁でも競うのが石だろうと地だろうと、
論理的には領土争いだという目的なのは変わらない。 さて、こちらがしんせつに例を挙げてやってれば
「選手の目的ではなくゲームの目的」
「そういうのは目的が変わったとは言わない」
だのと、自分勝手な基準でケチを付けてあとはバカだ知恵遅れだとぎゃーぎゃー連呼するだけ(察し)である
じゃあ「ゲームの目的」というは、いったい何をもって判断するんだ?
野球の目的は?テニスの目的は?マラソンの目的は?
選手の目的ではない客観的な「ゲームの目的」とやらを説明してみろや >>875
「「ゲームの目的」というは、いったい何をもって判断するんだ?」ww
また知恵遅れ君の迷言が増えたな
卓球も野球も「得点を競う」スポーツに決まってるだろ
得点制のスポーツはみんなそうだ
芸術や技術に付随する競技は「技の優劣を競う」もの(文字通りの競技)だし
タイムトライアルは「到達時間を競う」ものだ
こんな小学生レベルのことも分からないから知恵遅れなんだよ
知恵遅れっていうのは揶揄じゃなくて事実だからな
もうこれ以上は相手にせんぞ
コテつけれるのならもう少し相手してあげていいがw 碁の地や石も得点の一種なのは変わらないぞww
ということは、地も石も目的は同じだし、碁も野球も目的は同じということになり、
もはや「目的」なんてものはゲームの違いを判断するにはまったく役にたたないってことが晴れて証明されたな
あ、お望み通りコテはつけてないからもう相手してくれなくていいよ > 成文ルールはそれ以前から公表されている
公表しただけで法になるなら国会はいらない
> 第1条
> 囲碁は、(中略) 彼我の地を計算して勝敗を決定する。
旧囲碁規約の中でこれ以外の意味でたんに「囲碁」という語を使えばそれは誤用
旧囲碁規約の中で、他に「○○の囲碁」という語も出てこないのでわざわざ「日本の」と
つける必要もない
もちろん「囲碁規約」という名称についても同様
社会的に求められたのは地を競うゲームのルールの成文化であって
定義からそれは旧囲碁規約そのもの
「囲碁が国際的に普及する段階」
定義からそれは地を競うゲームが国際的に普及する段階になったということ
「国際的囲碁競技」
定義からそれは世界規模で地を競うゲームが行われるということ
地を競うゲームと石を競うゲームがおんなじものだという以外に、どこまでいっても
> (石を競う)囲碁
の話になりようがない スレが荒れているので、改めて書こう
>>825の旧規約を読む上で>>831で3つのポイントをあげた
>1.旧規約の成立の経緯
に注目して読んだのが>>832-834である
旧規約では国際的な囲碁の歴史や国際ルールの存在が抹殺されており
結果的に囲碁の由来が捏造されることになった
また「囲碁」という歴史的な用語を故意に誤用して日本式囲碁に限定して用いている(と解釈せざるを得ない)
この旧規約の意図的な誤用は、その後の誤用の流布の源になっている
旧規約を無理に擁護しようとすれば
「囲碁」を日本式囲碁に限定しているのは言葉の定義の変更だから間違いではないと言えないことはないが
注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
旧規約は日本式囲碁を「国際的に普及する」のを目的にしており
これらの捏造や誤用もその目的のためだと推察される
その背景には当時の思想や社会状況がある >879
> 注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
> 「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
「日本語」で「地を競うゲーム」を何と呼ぶか決めたのは棋院でも規約でもない1000年の歴史 捏造だとか言ってる変な人はほっといて、真面目にルールの話。
中国ルール+同形再現禁止なら単純明快で厳密だという意見がスレ最初の方で多数あるが、
日本ルールの>>3の問題点もすべては同形再現に起因するものだ。
よって同形再現禁止にするならば日本ルール(7−2廃止&その他の調整)でも厳密性は同等だし、理解も容易い。 両負けの規定がおかしいと言っている人も誤解している。
これはあくまでも>>166のような未決着問題のためにある。
つまり、終局前に両者共に有効着手を逃すミスを犯し、
しかもそれがお互いに勝敗に直結する致命的なものだった場合は、対局の再開要請や死活の合意は成立しない。
そのようなケースで双方負けになるのはむしろ当然だろう。
「死活の合意を拒否する」というのは、
明らかに死んでいる石を活石だと言い張ることではない。 現状ほとんどの人は中国式計算法か日本式計算法かという軸で囲碁ルールを大別してると思うけど、
自分は大別するなら全局同形禁止か一手前同形禁止かという軸で分類したほうが適切だという気がしている。
全局同形禁止は全局死活と相性がいい。終局は合意(省略)で決まる。不合意なら実戦解決。その勝負形式に合う計算法が中国式。
一手前同形禁止は部分死活と相性がいい。終局は連続パス(機械的)で決まる。不合意なら判定方式。その勝負形式に合う計算法が日本式。
同形禁止の差は着手可能点の差だから、終局後の計算法よりもゲーム性への影響は大きいと考えられる。 同形再現禁止はルール問題の曖昧性を解消するのにもっとも有効な策だが、
同時にもっとも意見の分かれるところであろう。
言い換えれば、囲碁ルールを立案するにあたって最初のもっとも重要な岐路は、同形再現を禁止するか否かである。
全局同形禁止のデメリット
・着手の自由度が損なわれる。
チェスや将棋でも同形反復は禁止とはせず、数回の反復を確認した後に引き分け扱い。
無勝負に持ち込むのもテクニック。
あるいは、優勢側が同形反復回避で解決できるケースもあり、
そのような駆け引きも勝負としての面白さである。
・通常の劫ですら劫ダテを忘れて反則負けになる例があるのに、さらに禁じ手を増やしてゲームに集中できるか?
しかも、同形再現は次の着手にだけ注意を払えば済む問題ではなく、
数手先に必要に迫られる着手も同形再現とならないか気に掛けておかねばならないのである。
「反則負け」という結末は、対局者も観衆も基本望むものではないと思われるし、不名誉なイメージもある。
・同形再現の判断は難しい。
http://igo.main.jp/zenzen1.html
この解説の白14放り込みが黒9の盤面と同一になっていることに何人が気づくだろうか?
(つまり、上記リンク先の解説は間違っている)
立会人や審判が気づかなかったらどうするか?
「対局相手が気づいて指摘した場合のみ」などの案もあるが、
通常の劫における(傍から見れば明らかな)反則でもそれを適用するのかどうかや、
反則の指摘が勘違いだったらどうするのか?後から気づいて指摘しても有効か?
等も、なるべく万人が受け入れられる形で決定せねばならない。
・下記リンク先「常識が覆される図例」その他の解説はごもっとも。
すなわち、着手可能点がまったく残されていない場合には異常な死活が発生する。
(9路対局等では現実味はある)。
http://igo.main.jp/jp-rule-cn.html
・三劫や長生なら無勝負も可。という例外を中韓棋士も好んでいるようである。
同形反復が発生したら再勝負で仕切り直した方が対局者も気持ちを切り替えて後腐れがない。
・常に白黒ついてしまうよりも、無勝負もあった方が話題性がある。
例:信長の三劫の逸話。
呉清源「長生は100万局をしても見たことがない。もし発生すればめでたい」
ちなみに、リンク先記事は鄭銘コウ氏の論考のはずだが、同氏自身が強調しつつ、
その上自ら立証してしまっているように、プロでも同形再現はうっかりしやすいようである。 囲碁ルールを考察する上で計算法の立ち位置は最後。
順番としては、
全局同形禁止か、通常劫ルールか?
通常劫ルールなら、全局死活(如仏の判決支持)か、部分死活(劫尽くし不可も隅の曲がり四目死)か?
部分死活なら、性生論(劫材有利で手入れ不要)か、性死論(常に手入れ必要)か?
そして最後に決めるのが、純碁式か、中国式か、日本式か?
という得点の計算法だ。
なのに、囲碁ルールを語る者はみな計算法を中心にして分別するものだと思いこんでいる。
だから俯瞰的な論理構造が見えていない。本質を見誤る。木を見て森を見ずである。
<塚本氏の誤り>
一例を紹介すると、「着手は義務か権利か」という議論だ。
自分に言わせれば、着手は権利であって義務ではないのは明白だ。
そしてそれは、中国式か日本式かといった計算法の違いとは別次元の、もっと上位階層に位置する基本的な問題である。
であるからして、塚本氏の「着手は義務」だという考察は誤りだ。
同氏はまた、日本式の碁が省略であるといった旨も述べているが、であるならばそれこそ矛盾していることになる。
日本式が純碁式まで打つのを省略しているだけなのだとすれば、純碁式でも着手は義務だということになり、
池田氏の述べるとおりいずれは二眼生きの石に自爆手を打たざるを得ないことになる。
もう少し詳しく説明しよう。
着手が義務だとすれば、それは>>736のいうように、チェス風に言って"スティールメイト"をさせるゲームになる。
>>750を例にするなら、白はパス(義務の放棄)をすると負けだから自分の目に打つことになってさらにゲームは続く。
ただいずれ盤上は、どちらかの単一の目のみで埋め尽くされることになるだろう。
(もしくは、自殺手――自分は打てるが相手は打てないような、死石を取り上げる直前の状態のみになる)
そして最後には、どちらかが自分の意思とは無関係にパスせざるを得なくなる。
となればそれが負けである。そういうゲームになる。
だから同氏の、「パスと終局宣言は区別されるべきものだ」といった線引も、客観的に明確ではない。
二眼の目は着手禁止だというルールは聞いたことがないからだ。
いくら一方が「これはパスではなく終局宣言だ」と主張したところで、盤上に打てる着点が存在する限りは、
もう一方が「まだ終局ではない」と反論したら「着手は義務」のルールにしたがって
自分の目の中だろうと打たねばならないはずだ。
そしてそのようなゲームは、少なくとも我々が知っている「碁」ではない。
ちなみに同氏は双六にたとえて終局を考察しているが、
双六の決着方法(実戦的決着)と、碁の決着方法(得点で決着)では
根本的に異なっているため、まるで説明になっていない。
以上のことから明らかなごとく、「着手は義務か権利か」の議論は、
純碁式か日本式かという計算法の違い以前の、もっと遡った基本的な着手規則=棋法の
問題なのだということがわかるだろう。
日本式だろうと地数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
純碁式だろうと石数を気にしなければ打ち続けることはできるのである。
着手が義務だとすれば、日本式だろうと純碁式だろうと上記のようなゲームになってしまう。
ちなみに、塚本氏の劫にかんする手入れの考察もまったくチンプンカンプンである。
「ヨセ劫は手入れ不要」の理屈は、着手は義務ではなく権利であることを前提とした上での、
対局者自身の自由意思に基づいた着手選択による決着である。
一方、「一手劫は手入れ必要」の理屈は、同士の語る「両劫に仮生一」問題と同じく、
「部分死活」によって劫尽くしと見なすことによる後付け的解釈である。
だからこそ、如仏の判決や、呉清源の手入れ問題が、ルールを語る上で大きな意味を持つのである。 補足しておくけど、「本劫手入れ必要」言い換えれば「劫の目を得点としない」は、
現行規約においては部分死活論によって合理的根拠を与えているのは述べたとおりだが、
本来この問題は、死活論とは【まったくの別問題だ。】
なぜなら部分死活といってもその定義は他にもあり得るのであり、
たとえば、「自分方の着手により取られない石が活石」とするなら、劫の目は活石に囲まれた地になる。
さらに二段劫の目に至っては、現行規約においても
八条「駄目を有する活石はセキ石(地を数えない)」や、
十条「セキ石の死石は取り上げない」といった『セキルール』によって、
得点としないことの合理的根拠を与えているのであり、
もはや七条の部分死活は直接的には関係ない事が分かる。
ということはつまり、本因坊秀哉と久保松勝喜代の手入れ議論や、呉清源の手入れ事件も、
実のところは、死活を全局的に考えるとか、部分的に考えるかといった
「死活論」の話ではまったくないのである。
ではその本質は何かと言えば、単純に、劫の目を得点として数えるか否かという、
セキのルールと同じような得点法の問題だ。
したがって、石+地+手止まり代を得点とする方式と、地+ハマを得点とする方式は、
劫の目とセキの目を得点とするならば完全に同値である。
ところがそれは、石のみを得点とする純碁とは完全には一致しない。
中国式(切賃あり)であろうとも、劫の目やセキの目をすべて得点として数えてしまうことにより、
打ち切った局面にもかかわらず純碁と結果が変わる例がある。
○○●●○┬○●●
○▲○●○○○●×
○○○●○┼○●● (▲は白のハマ)黒★劫取りに、白パス、黒パスで終局。続けて白Bは超劫。
├○○●○○○●●
○○○●●●○●×
●●●b●○●●●
●a●●●○○●A
├●●○○┼○○●
●┴●○┴○○★B
純碁=黒1目勝ち(黒A白Bと譲る代わりに黒a,bに手入れしても結果は同じ)
中国ルール+切賃=黒5目勝ち
中国ルール=黒3目勝ち
日本囲碁規約=白1目勝ち(ただし上図のままで終局すると、ABおよび×は地でなく白2目勝ち)
ルールが変われば結果も変わるという良い例。
×○●●┯○●●×
○○○●┼○●○○
●●●●○○○○● 黒白共に×と相手石を取り上げる手は攻め合い負けとなるため打てない。
○○○○○●●●●
●●●●●●●●●
┠●●●●●●●●
●●○○○○○○○
┠●○○○○○○○
●●○○○┷○┷○
純碁=黒1目勝ち
中国ルール+切賃=持碁
日本囲碁規約=白1目勝ち
こちらもまた、中国ルール+切賃であっても純碁と結果が異なる。
というわけで、本因坊や呉清源ですら、問題の本質的な切り分けや分類ができずに混同していたのだという分析を提起しておく。
本劫手入れ必要か否か?それは、単なる得点法の問題なのである。 >>887
最後の図は黒が4子抜いて攻め合い勝ってるんじゃない? >>881-887
全て間違い
コウなんて些細な問題であって全くルール問題の本質とは関係ない
スレを最初から読み直せ >>879の本題の続き
2.(当時の)国際ルールと旧規約の対応関係
現在では棋院自身も認めているように囲碁は日本で誕生したものではなく
大陸から伝来した国際的なゲームである
国際競技のローカル規約を作る場合には国際ルールとの対応関係を明らかにして記す必要がある
例として>>827にチェスの場合を示しておいた
当時の国際ルールは伝統ルールであった(中国に現代ルールができる前なので)
伝統ルールは京都学派によって研究され成文ルール等の公表もすでに行われており
当時の棋士達には広く知られていた
それでは旧規約では国際ルールとの対応関係はどのように記されているのか?
旧規約では国際ルールの存在自体が抹消されているので対応関係は不明であり
「日本棋院の名とその権威とにおいて」天下り式に規約を宣言しているだけである
このようなローカル規約は正当性がないとされ公的に認められないのが普通である
勝手に変なルールを作られて「囲碁」という名前を使われると混乱するからだ
実際、棋院が旧規約を公表したことで大きな混乱が生じて現在のルール問題になる
国際ルールとの対応関係が不明であることが日本ルールの最大の問題点であり
この問題は新規約でも解決されていない 3.旧規約上で行われるゲームの名称
旧規約は日本式囲碁の慣習をまとめたものである
したがって旧規約上で行われるゲームは日本式囲碁ということになる
しかし日本式囲碁には公式の名称がない
昔の碁打ちは囲碁のつもりで誤解をして日本式囲碁を打っていたので
日本式囲碁も囲碁と呼んでいたがローカルには問題は生じなかった
だが国際的な状況では誤解を正して「囲碁」とは区別できる新たなゲーム名をつける必要がある
旧規約では旧規約上で行われるゲームの名称をどのように定めているのか?
旧規約では「囲碁」を日本式囲碁の意味で誤用しており
特に日本式囲碁を指す名称は定められていない
それ故に旧規約上で行われるゲームの名称も不明である
この問題は新規約でも解決されていない 改めてルール問題を整理しよう
俺の意見を知りたいという人が多いので俺の個人的な意見も書いておく
囲碁というのは伝統ルールのことであり
そこから改変して生じたのが現代ルールである
現代ルールを囲碁と呼ぶのは厳密には誤用であるが
個人的には伝統ルールとの混乱が生じない文脈であれば問題ないと考える
伝統ルールにも様々な種類があるがルールの根幹部分は歴史的に定まっており
細則が違うだけであるので国際的に統一競技にすることは容易である
現代ルールは数十年前にできた新しいルールであるので
国際的に普及はしているがまだ歴史的に骨格が定まっていない
また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている ルール問題の本質は
日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
建設的な解決策としては対応関係を明確にするしかない
具体的には以下の3つのどれかだろう
A.日本ルールを伝統ルールの一部とする
切り賃と交互着手義務を復活させる規約改正を行えばよい
ルールを旧来の伝統的な形に戻すだけであるので理論的には問題はない
棋院のメンツのみが問題になる
B.日本ルールを現代ルールの一部とする
交互着手義務を復活させる(もしくはパス代と手番コミを導入する)規約改正を行えばよい
交互着手義務なら旧来の形(の一種)に戻すだけ
ただし日本ルールは現代ルールの誕生前から存在しているので理論的にはおかしなことになる
棋院のメンツも問題になる
C.日本ルールを日本伝統の固有ルール(日本式囲碁という固有のゲーム)とする
歴史的にはこれが最も正しいあり方
「日本式囲碁」等の別の名前を付けて大陸の囲碁とは完全に区別する
国際大会やアマの大会は囲碁のルールで行い、国内の歴史的な大会は日本式囲碁で行うという住み分け
規約の改正も用語の一部を修正するだけでいい
個人的にはC案が一番いいと考えるが議論の余地が大きいところだろう >>892
> 注釈無しに勝手に言葉の定義を変えて使うのは詐欺の類であって社会的には通用しない弁明になる
> 「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
「日本人が地を競うゲームの事を囲碁と呼んだ」ことについて誤解は全く無い
千年の歴史のある日本語の単語の定義を勝手に変えて使うのは通用しないのでは? >>890
今調べると囲碁の国際団体についてウィキペディアに
> 1957年頃から日本棋院と関係者の間で国際囲碁普及組織の必要性が検討され始め、
と書いてあるけど
その国際ルールとはどういう人たちが決めて
どのような人たちがどのような機会にどれくらい打っていたの? >>889
>コウなんて些細な問題
だってよw
知恵遅れ君の頭の中では日本ルールも現代中国ルールも伝統ルールも全部同じなんだろうな
劫の問題が些細な違いにしか思ってないから囲碁関係者が頭を悩ませているルール問題が認識できない
棋院がなぜ日本ルールに拘っているのかも理解できない
分からないなら黙っていればいいのに我慢できずに妄想で書いてしまう
注意されると発狂してスレを荒らしてしまう
どうしようもないなw そもそも「伝統的な国際ルール」なんて存在しないしww
囲碁の国際大会が始まったのなんてほんの半世紀程前の出来事だぞ
歴史ある伝統的な国際ルールなんてものがあるというのなら、
それが確認できる歴史的文献を示してくれ
単に「伝統」というだけなら国や地域の数だけ存在する
日本ルールだって立派に「伝統ルール」だ
まあシナ人の偏った頭の中には大陸の伝統しかないんだろうけど まあこの際、一億歩譲って日本の碁は独特な「日本式囲碁」だったと仮定して、
それでなんで日本式囲碁は国際大会をやっちゃならんのかもさっぱり意味不明
柔道は日本式武道だから国内限定だってかww
キミ相変わらず頭オカシイネ 定期的にこのスレ盛り上がるな
まあ突っ込みどころが多すぎるアホが常駐してるからしょうがないけど たしかに「コウなんて些細な問題」とのたまう御人が囲碁のルール問題を論じているのには、おれも驚いたわ >>161
これ本当に白先黒死か?
白先でも万年コウでしょ
八目中手ってなんだよ 棋力が低く死活の判断ができないまま終局した場合ってルールの問題と関係なくね?
そんなの碁会所でもしょっちゅうあるしたいてい高段者が裁断して双方納得だろう
『切り賃』 『純碁』とかの話も囲碁の歴史としてはそうだったんだみたいに関心はするけど現代のルールとは直接関係ない
また『中国ルール』『日本ルール』『韓国ルール』など現存する様々なルール統一に役立つとも思えない
そもそもルールを統一する必要あるか?
プロの対局なら日本式でも中国式でもルールの不備で終局後に問題が起こることはないだろう
昔、呉清源が俺は日本人じゃないから日本のルールに従う義務はないとごねて
手入れが必要なのに手入れしなかった例はあるよそりゃね、こんなのはただの嫌がらせみたいなもんだろう >>894
囲碁っていうのはもっと遥か昔から大陸にあってそれが日本に伝承されたものだ
棋院のページでも見て勉強してくれ
無知すぎる書き込みは荒らしにしかならんぞ
>>898
日本式囲碁を囲碁のローカルルールとせずに独立したルール(ゲーム)として取り扱う場合
日本式囲碁の国際大会をやるのは別に構わないが囲碁の国際大会とは区別する必要が出てくるという話だ
将棋の国際大会がチェスの国際大会と区別されているのと同じこと
>>899
全くその通り
バカが荒らすからまともな人が敬遠して議論が進まない
>>900
コウなんて現代中国ルールでも途中で変わっているし現代ルールでも伝統ルールでも日本式囲碁でもローカルルールごとに様々だ
そういうのは細則と言って地域ごと、大会ごとに自由に決めていい細かいルール項目に当たる
コミや持ち時間等も同じ
>>902
本人同意を優先するか審判判定か、機械判定かは本質ではないと俺も思う
歴史の話はルール問題の本質だ
>>893を読んでから意見を書いて欲しい
ルール統一もそこが一番の問題になっている >903
石を競うゲームが大陸で生まれて囲碁と呼ばれたことの話はしていない
地を競うゲームが日本で生まれて囲碁と呼ばれたことの話をしている
それが千年前から別のゲームとして並立していたにしろ
千年前から同じゲームとされていたにしろ >>903
囲碁の歴史と現代のルールを無理に関連付ける必要はない
『切り賃』だの『純碁』だのとかは囲碁の歴史(ルーツ)研究の世界だけでいってろての
ローカルルールを認めてるんなら中国ルール、日本ルールいろいろあっていいだろう?
ルールによって半目勝負の結果が違う場合があっても最初からどのルールでやるか決めてるんだから別に問題ない
千年以上前の遣唐使の時代からほぼ現代と同じだよ
遣唐使の中に囲碁の棋士がいて中国の棋士と打った棋譜が残ってるじゃん
鎮神頭とか妙手も玄々碁経で伝えられてるし
1300年前に中国棋士と日本棋士の対局がとくに問題もなく打たれていたってこと >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
伝統ルールって?
現代ルールって?
日本ルールがおかしいと言いたいことだけは分かるけど現存する他のルールはどうなの?
日本式囲碁(日本ルール)?とかわざわざいってるけど結局どうしたいの? 1.ルール問題の本質が歴史問題だと思いこんでるところからして全くずれてる。
自然法則は神が創造したルールだと宣って地動説を否定する中世のカルトのよう。
2.中国ルールでも現在は、石の生存権のみではなく、石と地を争うゲームに変化している。
そして切賃もなくなった。だったら、ゲーム目的も『細則』でいいでしょ。
3.極めつけは、コウやコミは自由に決めていい細則だという都合良すぎる持論。
じゃあ端から統一ルールなんて幻想なんだから、日本式だけ区別する必要もない。
おまえのレスから読み取れるのは、人参が嫌いピーマンが嫌いというレベルの、個人的な好き嫌いということだけ。 >>893
>ルール問題の本質は日本式囲碁(日本ルール)と伝統ルールや現代ルールとの対応関係が定まっていないことにある
>他の競技であれば、そんな日本ルールは認められないということで無視して終わりだが
>囲碁の場合には政治的に日本ルールを無視できないという点が問題になっている
いったい誰が何処でそんなことを問題にしているの?
>>892
>また現代ルールは存在の必要性もないことから廃止したとしても問題は生じない
>個人的には現代ルールは特に気にするようなものではないと考えている
今現在どんなルールで碁を打ってるんだろう
ていうかこの言い方だと中国ルールも韓国ルールも他のルールもそれぞれ独自の碁に似た別な競技(ゲーム)ということになっちゃう
相手するのが馬鹿々々しくなってきたw >>904
囲碁は日本で生まれたものではない
ここがポイントだな
囲碁ルールについておかしなことを言っている人々は囲碁が日本由来だと勘違いしている
囲碁を日本のゲームだと思っているからとんでもないことを考えてしまうんだな
>>905
切り賃も純碁も数十年前まで世界の標準ルールだったし現在でも囲碁の伝統ルールはそれしかない
歴史上の国際対局も伝統ルールに基づいて行われている
そのことは本因坊等の記録にも残っているし歴史的な棋譜や裁定も(現在の日本ルールではなく)純碁の結果と一致している
問題は日本ルールが自らをローカルルールとして認めていないことであり
そもそも日本ルールってどういう立ち位置なの? 囲碁と呼んでもいいものなの?ってところから何も決まっていないことなんだ
>>906>>908
少しはスレを読んでから書いてくれw
基本的な知識がなさ過ぎると荒らしにしかならない >「地を競うゲーム」というのは千年くらい前に日本でできたゲーム
日本語にはこのゲームの名前として「囲碁」以上にふさわしいものはない 人々が合理的に動くものなら「地を競うゲーム」を囲碁と読んだことに合理的な理由があるだろう
その名前を変えようとしてもうまくいかない
人々が合理的に動くものでないなら「合理的に言えば「地を競うゲーム」は別の名前で
よぶべき」なんて言ってもなんの意味もない
その名前を変えようとしてもうまく行かない >>910>>911
もう完全にキチガイレベルだな
囲碁という言葉が日本語でない(外来語である)ことすら気付かないんだから
昔の日本人は自分達は囲碁をやっていると勘違いしていたんだ
世界の囲碁には様々なローカルルールがあるから日本ルールもローカルルールの一種だと考えていたんだろうな
それはそれで一つの考え方として賛否は別にして有りうる考え方だ
問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
現代ルールのローカルルールの一つなのか?
囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか その一貫した原典至上主義には感嘆するけど
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/term/098.html
>外来語は、日本語の一部です。
外国語が外来語になった時点で元の意味とは別れた独自の意味を持つのは
ふつうのことだ
カルタしかり、カルテしかり 囲碁という言葉が外来語だから日本語でないとは、それこそ完全にキチガイレベル 1.日本ルールが碁でないと言い張ってる馬鹿は、実際にそれぞれのルールで打ってみて比べたことがないド素人だろうとしか言いようがない
ド素人がググって聞き囓ったような中途半端な知識で偉そうに語るのは荒らしにしかならない
2.碁が中国由来であることは誰でも知ってる常識レベルの事実だし、棋院のページにも書かれている
みんな知らないかのように決めつけているのは、不都合な真実から目を背けたいがための捏造
3.不都合な真実というのは、ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではないという事実
「由来」に固執して伝統ルールに拘る考え方を「不合理」という
それは棋院が「地」に拘っているのとまったく同じ感情だ
でも人間は科学の進歩で物事を合理的に考えるようになった
合理的な考え方とは、歴史や伝統に縛られない客観的な見方をいう
ゲームのルールは基本、ゲーム性や利便性や実用性で考えるのが当然
4.日本の碁の権化である本因坊家が純碁式で裁定していただと?>>909
そりゃあ初耳だ、ぜひ実例を紹介してほしい
5.世界語となっている「Go」は明らかに日本由来の言葉
中国だったら発音は「Qi」のはず
つまり、キチガイの語る「(謎の)伝統ルール」とやらはネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ
いま栄えているのは同時代に分化したホモサピエンスのように、「日本ルール」から発展したもの
6.「外来語は自国の言語ではない」などと言い出したら、
フランス語やスペイン語やイタリア語あたりのヨーロッパ圏の言語はみんな一緒くたになってしまうな ところで、石を囲めば取れると教わったけど、終局後は囲みきらない取り上げてしまうよね。
ルールに一貫性がないんやけど。なんで?いいの? 囲まれた石は死んで取り上げられる
敵地で味方に見殺しにされた兵士は生きるだけの土地がなければ殺されなくてもそのうち飢え死にする
終局したということは、双方がその死に合意したということだろ 合意すれば取り上げることが出来るなら、囲めば取れるルールなんて最初から必要ないじゃんか。 日本ルールについて誤解が多いが、死活確認は合意によって行われるわけではない
合意しなければ規約七条に則って判定するまでのこと だから死活確認ってなに?
囲めば取れるのルールに、何の確認が必要なの?ダメがあいているかどうかの「確認」なら分かるけど、そういう意味で使ってないよね 死活確認も勿論「囲ったら取れる」という基本ルールを大前提にしているよ
「囲ったら取れる」というルールを一歩飛躍させて、
「お互いがパスしてゲーム継続を放棄した後には、
どう足掻いても最終的に囲まれて取られる石も死石となる」
これも囲碁のルール そういうルール?
囲碁入門のいろはの「い」で覚えた、囲み切ってからから石を取る、終局処理では、それをしないってルール?
もし囲み切ると、自分の「地」が減ることになることはわかるけど、ルールの一貫性を無視して、なんで囲みきらないで(地を減らさないで)勝負の計算が合うんですか?
そこがわからない。 >>922
棋院のルールを引用
> 囲碁は、「地」の多少を争うことを目的として、競技開始から第九条の「対局の停止」までの間、両者の技芸を盤上で競うものであり、「終局」までの間着手することを「対局」という。
> 一方が着手を放棄し、次いで相手方も放棄した時点で、「対局の停止」となる。
終局したらもうそれ以降は囲碁の対局ではない
対局中のルールはおよばない
例えば交互に一手ずつ石を打たない あるいは逆に、対局中に終局後のルールは及ばない
> ハマをもって相手方の地を埋め、双方の地の目数を比較して、その多い方を勝ちとする。
対局中に、『ルールは一貫しているべきだから今地の多い俺の勝ちだ」
なんて言っても誰も聞かない
囲碁は対局後に勝敗が決定するゲーム
対局後に勝利することを目指して打つゲーム 疑問と答えが全くかみ合っていない。
こういう疑問は碁を覚えていくつれ消滅していくんだろうね
だからこそかみ合っていないんだろう
ハマを埋め戻さない中国ルールなら起こらない疑問でもあるけどね >>922
なにをもって「ルールに一貫性がない」なのか理解できないのだけど
(たとえばサッカーでキーパーが手を使うのはオカシイ!みたいな?)
まあ一人でそう考えるだけなら憲法で自由は保障されている
とはいえ、終局後も囲み切らないと石を取れないルールで碁を打ってる人はどこにもいない
なぜなら、捨て石になるわけでもなくただ取られるだけの石を敵陣に打ち込んで
それが有効手になってしまうようなゲームは大方の人間にとってくだらないだろうからな
あと「計算が合う」っていうのも、いったいなにと比較して「合う」なのかな? >>926
上の質問の焦点は、囲みきらなくても終局後に死石を除去してよいかどうかであって
ハマを埋めるかどうかなんてそれこそ答えが噛み合ってないのだが。
中国ルールだろうと合意による死石の除去は当たり前にやってる そして、合意できなければ、中国ルールならそのまま実戦解決すればいいが、
日本ルールであっても、終局盤面を棋譜なりカメラなり別の盤なりに保存しといて
待ったなしの死活決着対局でもやれば解決する問題
なぜだが日本ルールでは高段者を呼んでこなきゃわからないなどと思われがちだが
そんなものが本当に必要なのか?
つまり、中国ルールの実戦解決の利点というのは、
終局盤面を保存する手間が省けるという程度でしかない
しかしスポーツなどでカメラ判定が意図も容易く行われている現代において
それはたいした利点ではないな 質問です
中国ルールでは終局後一方の石と地を数えて180.5から引くといってますが
セキがある場合180.5を適用できないような気がするんですが違いますか? どう考えて適用できないと思ったのかな?中国ルールでは
1.セキの地(同色の石に囲まれた空点)も数える
2.終局後の盤上に存在するのは、黒白の石と地、そしてセキのダメで全てであり、その合計は361で不変
3.セキのダメは折半する(つまり、計算の際に0.5として数える)
…以上により、180.5は常に変わらない
セキのダメを「黒白ゼロ」ではなくて敢えて0.5として数えることで、
180.5という数字は変わらないわけだ >>931
レスどうもです
え〜と通常のセキだと黒白どちらも打てないダメが二つ残る
その二つのダメは黒白どちらにも属さないから黒白の地と石の合計が361-2で359になるのではないかと >>931
セキのダメを折半するって、そうなの?
セキのダメを数えてるんだそれは知らなかった
932はなかったことに 囲碁クエストの中国ルール、たまにダメをつめずにパスする輩がいて、
そういう時は自分の地にもどんどん石を置いて2眼のみにしてやる
こっちの地は2目しかないと相手は思っているだろうが、結果はこっちの大勝
あはは >>913
つまり囲碁は外国の言葉であったが日本に輸入されて意味が変わって元々の囲碁とは別のものを表すようになったと主張したいわけね
言い換えると日本語の「囲碁」は他の国の囲碁とは別の意味であって別のゲームを表すという主張になる
だったらまずはそのことを文献で証明しないと
棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない
大体「囲碁」が元々の囲碁と意味が違うのなら元々の囲碁を表す言葉が別に存在しているはずだ
(例えばカルタの場合はトランプやカードゲーム等)
全く根拠のない独自説(非常識)を書かれても困る
それから念のため「囲碁という言葉が日本語でない」というのは日本発祥の日本語ではないという意味だからな
国語力があれば文脈で分かると思うが
あとカルテ等の和製外国語は日本発祥の日本語であって外来語ではない
>>915
1と2は荒らし的に書いた煽りということでいいね
3の「ルール問題において歴史や伝統はあくまで二の次であり重要ではない」という意見は私的な意見として聞いておくが
棋院を含めて世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしているからその意見は相手にされないだろう
俺もこれ以上は相手にするつもりはない
あと「重要ではない」という意見だからと言って歴史を捏造をしていいということにはならないからな
「ネアンデルタール人と同じように一度途絶えたんだ」とか書いていて恥ずかしくならないのか?
4と5は無知という他はない
6は「外来語は自国の言語ではない」等とは誰も言っていない藁人形 >>916
伝統ルールや現代ルールでは両対局者の合意の下で終盤を省略しているだけ
省略せずに最後まで打ち切ればこうなるだろうという局面(目数)を両対局者が合意して勝敗を決める
合意できなければ実戦決着
日本ルールでは両者の合意ではなく基本的には審判が規約に基づいて判定する
この時の個別の判定の是非は別の問題だとして
審判が判定すること自体は特に問題になるようなことではない
伝統ルールや現代ルールでも審判判定を採用することはできる 結局これについては誰も意見を書けないのか?
情けないな
>問題は現在の日本ルールの立ち位置が定まっていないことにある
>伝統ルールのローカルルールの一つなのか?
>現代ルールのローカルルールの一つなのか?
>囲碁から派生した日本固有の独自ゲームなのか?
>日本ルールの立ち位置はどうあるべきなのかについて建設的な議論をしようじゃないか 日本人なら祖国の日本ルールを国際ルールとして普及させようと考えるのは当然
そこに理由など必要ない おまえ自身が答えを書いてるんだけど
>世界中の囲碁関係者は囲碁の歴史や伝統を大切にしている
だったら棋院が日本ルールを大切にするのは当然
それを非難するのはおまえ自身が矛盾してるんだが?
あと、ルールが合理的に進化することは捏造とは言わないんで、いい加減誤用はやめたまえ
棋院はちゃんと、囲碁は中国で生まれたゲームだという歴史をサイトに載せている
https://www.nihonkiin.or.jp/teach/history/ まーたバカのひとつ覚えで【囲碁関係者(妄想)】のおでましか
現代ルールが伝統ルールから直接進化したものでないことは
まさしく囲碁関係者であるメイエンの
http://www.go-en.com/golax/jungo/ohmei.html
の記事等も参考資料にして書いてるわけだが、
となると捏造しているのは囲碁関係者なんだな
さらに、日本の碁で受け継がれてきたセキを数えない習慣は
あんたのいう伝統ルールとは明らかに反しているはずなんだけど
本因坊家はセキを数えていたんだ?
無知というのなら
「だったらまずはそのことを文献で証明しないと 」
「棋院や囲碁関係者でそういう解釈をしている人は誰もいない」
何から何まで適当に思いついただけのデタラメを
「書いていて恥ずかしくならないのか?」 >>935
「地を競うゲームは千年くらい前に日本で生まれた、石を競うゲームとは別のゲーム」というのはあなたの主張でしょう
あなたはその地を競うゲームは日本では歴史的に何と呼んでいたと考えていますか?
という話ですが。
私の「そのゲームは千年間囲碁と呼ばれた」という主張は気違い呼ばわりされるほどのものなのですか?
私の主張は、地を競うゲームと石を競うゲームは同じゲーム
千年間日本人はそれを同じものと考えて同じ名前で呼んだ
です。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。