本因坊秀哉(田村保寿)を語る
×: 算知の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
○: 算砂の碁には何も感じなくて何も覚えていないけど、
小生は、TMネットワークもWinkもテレビで見たことが
ないんだよね。で、当時、警備員のバイトをした時、
日系ブラジル人ではないかと疑われ、ブラジルの話を
されたり、サザエさんの家族や東海道新幹線の駅名を
何度も質問された。 丈和と幻庵は死ぬか生きるかの殺しあいみたいなのばっかりだから
読めないし分からないけど何か凄い感じはするように思う
>>184
凄い感じはするよね。盤面が石で埋まってしまうし。
幻庵は四哲の一人なのに、なんか評価が低杉。
丈和がいなければ幻庵が名人になっていただろうから、
幻庵は歴代井上因碩で棋力No.1かもしれん。名人因碩と
同じくらい強いのであろう。
入段年齢:
秀策 10歳
趙治勲 11歳
幻庵因碩 12歳 若く入段できるのは、周りが弱いからと思う。
韓国だと、強くても年齢制限ギリギリだったりする人多いよな。 >>183「小生」さん、あなた時々出てくるね。
なんか古碁に詳しいみたいだけど。
ちなみに棋力はどれくらい?
棋力は十級程度でした。いまはもっと弱いと
思います。
能書きは初段あるかも。 そうですか・・・
いや、10級の人は古碁を語ってはいけないというルールはないので・・・
まあ、頑張ってください。
10級あれば、生涯碁を楽しめるんだYO!
能書きは二段あるかもしれん。
>>184
秀哉対雁金戦も激しい戦いじゃない?雁金時間切れの局は、
対局後に秀哉は入院したんじゃなかった?記憶違い???
雁金は、元々は秀甫の方円社のエースでしょう?秀甫が
亡くなった後、秀栄は方円社を潰すために雁金を坊門に
引き抜いたんだよね?我らが田村(秀哉)の方が強いのに
秀栄が雁金を跡目に立てようとしたのは、雁金引き抜きの
件で、秀栄と雁金の間に密約があったと小生は見ますね。
雁金先生は田村の弟弟子として本因坊秀哉の
右腕になっていたら、秀哉が亡くなってから
頼られたんじゃない?
雁金先生の未来を奪ったのは、実は秀栄じゃない?
雁金先生には人間的な弱さがあったと思う。
そう言えば、秀哉名人も方円社から坊門に
移ったんだよね。秀哉名人は、方円社から
いびり出されたんだよね。
秀哉名人の引退碁は双方の持ち時間40時間で
行われた。相手の木谷実七段の消費時間は
34時間19分だった。秀哉名人の消費時間は
持ち時間の半分にも満たない19時間57分だった。
木谷実七段は、川端康成の『名人』では
大竹七段という名前にされている。なお、
この引退碁に起用された時点では、木谷師には
大竹英雄先生はまだ入門していない。
秀哉名人は引退碁を打った時には既に病に
冒されていた。健康を取り戻すことなく、
引退碁の翌年に亡くなった。秀哉名人が
持ち時間を使い切っていないのは、健康状態と
関係があったと思う。
秀哉名人も木谷実先生も、趣味は将棋だった。
川端康成の『名人』によれば、木谷先生は秀哉名人の家で
内弟子をした時期があったらしい。で、病気をして秀哉名人の
奥さんには世話になったらしい。
木谷先生が秀哉名人の引退碁で正当な言い分であれこれごねて、
対局放棄を何度も言い出したのは、秀哉名人に勝つ事に対する
恐れがあったのだと思う。
秀哉名人は、晩年の30年間は黒を持つ事がなかった。
また、秀哉名人が亡くなった時、八段の棋士はいなかった。
秀哉名人の晩年の10年に勝負碁が3回ある。1度目は
雁金先生との勝負碁で、秀哉名人は心臓を悪くした。
2度目は当時五段の呉清源先生との勝負碁だった。
前田が助言したとの流言があった対局である。3度目は
当時七段の木谷先生がお相手した引退碁で、その翌年、
秀哉名人は亡くなった。
秀甫と秀栄と秀哉を比較すると、秀甫は名人になっていないんだよね。
秀栄と秀哉は名人になった。
秀哉は弱かったのか???そんな事はあるまい。
秀哉に弱いイメージがあるのは、野沢竹朝のせいだよ。
秀哉には子供はいなかった。秀哉には弟がいた。
秀哉名人は、将棋でも麻雀でも連珠でもビリヤードでも
長考したらしいね。食事をしていても虚空をぼんやりと
見上げて脳内碁盤で局面を検討していたらしい。
加藤正夫先生みたいな人だったんだな。
秀哉名人には、婦人の妹が赤ん坊を見せに来て
隣の部屋で赤ん坊を泣かせていても内弟子達が
家の中で暴れていても気が付かない程の集中力が
あった。
滝の音がうるさいから止めろと言ったのは将棋の
ひふみんだけど、木谷先生も滝の音がうるさいと
言った事があるらしい。秀哉名人の引退碁の
途中で豪雨による水害があったらしい。対局が
行われた旅館の裏の川も大増水して岩も流れよ
といった勢いの激流になったらしい。その時、
秀哉名人は川がうるさいといったらしい。全盛期の
集中力は既になかったのであろう。 歴代名人
江戸時代
本因坊算砂
中村道碩
安井算知[名人算知] 名人碁所
本因坊道策 名人碁所
井上道節因碩[名人因碩] 名人碁所
本因坊道知 名人碁所
本因坊察元 名人碁所
本因坊丈和 名人碁所
明治以降
本因坊秀栄
本因坊秀哉
名人は、約340年間に10人しかいない。
秀哉や察元が弱かった筈ないじゃん。
田村と雁金の跡目争いは秀栄ばかりが悪いのでは
ないのかもしれない。
田村は本因坊秀元(土屋百三郎)や安井算英(俊哲算知の実子,
安井家10世,安井家最後の当主,いわゆる豚児)に可愛がられた。
算英には実子がなく、養女がいた。算英は保寿と養女を娶せて
保寿に安井家を継がそうとした事があり、保寿も乗り気だった。
いや、逆だったか?
算英の養女には好きな男性がいて、その男性は囲碁の関係者では
なかった。算英は結局はその結婚を許して安井家を絶えさせて
しまっている。保寿は安井家の当主に足る棋力人格見識があると
算英の眼鏡にかなったんだよね。
だが、この件で秀栄は田村は頼みにならないと考えたのかも
しれない。この件は、時系列の表を作って検証すべきかも
しれない。 秀和以降の土屋家による本因坊タライ回し劇場を思えば
本気で雁金に継がそうと思えば出来ただろ?
秀元が気に入らない。
こいつのせいで雁金先生が不遇の一生を過ごすことになった。 >>204
江戸時代と明治時代じゃ名人位の重みが違う
徳川幕府の威光あっての名人だからな
弱いとは言わないが、名人というだけで、察元と秀哉を同列同格とは見れないよ >>206-207
明治の碁はもっと語られなきゃいけないよね。
秀甫は勢子(丈和の未亡人)に嫌われて本因坊を
継げなかったけど、丈和の実子の中川亀三郎は
秀甫の右腕になって方円社を盛り上げたよね。
丈和の実子の中川亀三郎は方円社の二代目の
社長だし、方円社の三代目の社長の巌崎健造
(海老沢健造)は俊哲算知の弟子で俊哲の
実子の算英をポカリと殴った人物であり、俊哲が
沼津で亡くなった時に同行していた人物。方円社の
社長は、三代目からは中川亀三郎を代々襲名した
ような記憶があります。
>>208
棋力を比較すると 察元 > 秀哉 なの?
察元の棋力を10としたら、秀哉は幾つくらいなの?
秀哉は日本棋院を立ち上げたのだから、秀哉の業績は
大きいよね。若い時に語を離れた時期があったにせよ、
ほぼ碁一筋だったと思われる秀哉になぜこのような
手腕があったのか不思議なんですよ。
小生は、秀哉には知恵袋的存在がいたのだと推理します。
稲垣兼太郎(稲垣日省)は碁をやめて軍人になったり
役人になったり実業家になったりしてからまた碁に戻った。
小生は稲垣兼太郎が秀哉の知恵袋だったのではないかと
思うのです。
稲垣兼太郎は日本棋院の中部総本部を立ち上げたのかな? いや正力松太郎 とか大倉喜七郎とかが何かやったんじゃなかったっけ
俺が思うに日本棋院は棋士ではなくて経営能力のある人が経営すべきだと思う
そういえば、大倉財閥の大倉喜七郎がパトロンでしたね。
商社の大倉商事とかホテルニューオークラなどは
大倉財閥の企業。 鈴木為次郎や野沢竹朝に2子置かせて勝ってるあたり8段時代の秀哉は伊達じゃない
>>214
竹朝は元々は秀栄の弟子なんだよね。竹朝が評の評事件で
秀哉に破門された背景には、竹朝にお互い秀栄の弟子という
甘えがあったのかも。
田村と竹朝では、どちらが秀栄に入門した時期が早いのか
知らない。竹朝は性格に問題があったのだろうか???
そんな竹朝を秀哉は後に許しているんじゃなかった???
>鈴木為次郎
鈴木為次郎の棋力が上がって秀哉に先で打てそうになったら
秀哉は為次郎との対局を敬遠したみたいな噂がなかった?
為次郎ではなく、別の人だったかな?
木谷実先生には師匠が大勢いて、木谷先生は為次郎の
弟子でもあるのではなかった?その縁で、木谷先生は
為次郎の定石大辞典の監修者になっていたような?
木谷一門が定石大辞典を検証したのだろうか??? 定石の事典ってのは囲碁大辞典のことだよね
発行年は1933年で木谷実が24歳のころだから
木谷の弟子はまず関与してないだろう
改訂版が出たのは1960年だけど
当時大竹が18歳だからやっぱり厳しい
>>217
うほっ。嘘を書いてしまった???
でも、大竹先生は木谷先生の一番弟子ではないですよね?
大平先生とか加田先生も木谷先生の弟子だったような?
秀哉は誰の碁が好きだったんだろう?
秀哉本人は語っていないのかな? 井上秀徹
幻庵も全敗した秀策の黒に3連勝してる(全て完勝)。
細かい生涯や棋風は自分で調べてくれ。秀哉は彼の碁を詳細に解説してる >>220
ありがとう。感謝します。すごいね!
物知りだなぁ。 秀哉名人も強いけど、前の秀栄と後の呉先生と比べると一枚格が落ちるのは否めない… 秀栄の嫁のために秀栄全集を出版してその印税をプレゼントするなんて偉いと思う
>>220
井上秀徹って節山因碩の前名なのですね…。丈和の長男で発狂した人だ。
井上家に入らなければ発狂しなくて済んだと思う。
井上節山因碩(いのうえ せつざんいんせき、文政3年(1820年) - 安政3年(1856年))は、
江戸時代の囲碁棋士で、家元井上家の十二世井上因碩、六段。隠居後の号である
節山を付けて、井上家代々と区別する。井上幻庵因碩門下。本因坊丈和の長男で、
幼名は戸谷梅太郎、後に水谷琢順の養子となって水谷順策、次いで井上家跡目となって
井上秀徹を名乗る。
http://ja.wikipedia.org/wiki/井上節山因碩
>>222
だが、それがいい。
>>223
さすが。
秀哉が秀栄未亡人の生活の面倒を見るようになって、
秀栄未亡人は雁金の応援をしなくなったんだよね…。 67歳ぐらいで当時の若手ナンバー2にコミなしの白番で好勝負って凄すぎませんか?
いまの林海峯さんや大竹さんが井山か山下に白番でコミなしで打てとかいったらいじめに近い
>>224
水谷順策ね。水谷琢順と混同しそうだ…。 >>224
本因坊家に残ってたらもっと早くに発狂して死んでたよ
井上家でいじめられて発狂したんじゃないの?
節山には集団ストーカー被害者の行動パターンが
あるように思える。 今日は祝日ですね。小生は祝日にはひろゆきさんに感謝することに
しています。我々がここで社会悪を叩いたり未解決事件の捜査に
協力できるのは、集団ストーカーに悩みながら2ちゃんを維持している
ひろゆきさんのおかげです。今はチーママですが、ひろゆきさん、ありがとう。
/ , ´ ` 、 ヽ
. / / \ ',
/ / \ ./
\ / / .| i ヽ /
\ ./ ,/ / | | | | | |/
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|_|_l_| l__,l lj└──┘ー―‐'ー--ァ_ノ!
| l ,、_ __,,、 、____ _, / |
', <ヽ ` ̄ ̄´ ` ̄ ̄´ / j. ノ
ヽ //l i /lV/
| ハ |〉 / ,| |
| |`ヽ /ノ | |
| | \ -- ― ノ .| |
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| | __jヽ、 ,-―――くl_ | |
| | / 、| / / ̄ `ヽヽ、`ヽ ! !
| | / / /-―‐‐、 ヽ.j ヽ.| |
__ __,| |/ /ー/ ,--、 \ヾヽ | |__ ,-―-、
`Y |ハ, | ー''´  ̄ヽ `´ | .| | ヽ `ヽ
http://www.youtube.com/watch?v=r4rmOFOWDXc&feature=related
>>219-230
小生は、丈和の妻の勢子さんが秀甫(弥吉)を嫌った理由は
秀徹が跡目になれなかった件に原因があったと思う。かわいさ
あまって憎さ百倍みたいな感じじゃないの?小生は、秀甫
(弥吉)は勢子にも可愛がられていたと見ます。
貧乏人弥吉は、本因坊道場に住み込んで修行したから、
秀徹にもずいぶん可愛がられたのではなかろうか?
秀甫(弥吉)は勢子には嫌われたけど、秀徹の弟の
亀三郎は方円社で秀甫の右腕になったよね。
勢子は秀甫(弥吉)を秀徹派と見ていたんジャマイカ?
弥吉は秀和の子飼いで、岸本左一郎が故郷に帰った
後は弥吉が秀和道場の塾頭になっている。 団鬼六さんが亡くなられた。
落日の譜は未完のままか・・・
雁金先生は死してなお不遇なのか・・・
秀哉は節山因碩のファンではなくて丈和のファンだったんじゃないのかな?
節山因碩は丈和の長男だし、秀哉は丈和の再来と呼ばれる事を許していた
みたいだし。
どうなの?
川端康成の名人に秀哉は丈和の再来と書いてあったような。
秀哉の白番について情報きぼんぬ。
絶品とか何かに書いてあったけど、
どこがどう絶品なのかわからん。
秀栄の白番との違いはどうなの?
秀哉は最初は方円社に入門したから、秀甫の弟子だったんだよね。
秀哉は11歳の時(明治17年)に方円社に入門して、12歳(明治18年)で
住み込みになっているね。方円社寄宿という身分になっている。
秀哉は12歳(明治18年)の時に母を亡くしている。
当時の方円社の師範は、当時五段の高橋杵三郎。高橋は方円社に
起居していた。当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀甫は小川町の自宅から朝早く塾生を起こしに来て、碁を打って
やっていた。明治19年に秀甫が急死した。秀哉は三年ほど秀甫の
教えを受けた。約二年間は、秀甫に親しく接した。
秀哉の父である田村保永(たむらやすなが)は、旧旗本であった。
保永は、維新の時に彰義隊に参加した。保永は維新後は、内務省の
下級官吏として働いた。
小生は田村家は貧しかったと見る。保永が教育熱心だったというのは、
後の秀哉の証言であると思われるから信頼性が低い。下級官吏で
あったのだから、収入も少なかったと推測します。(坂田先生の父も、
坂田先生の証言によればよい父親に思えるけれど、やった事だけを
見れば、坂田少年に賭け碁を打たせて稼いでいたオヤジです。)
>>248
×: 当時の方円社の塾頭秀哉よりも5歳年長の石井千治。
○: 当時の方円社の塾頭は、秀哉よりも5歳年長の石井千治。
秀哉は、明治7年6月24日に芝桜田町(現在の芝虎の門)で
生まれた。やがて、田村家は神田猿楽町に移った。同じ町内に
小野塚という素人碁打ちが経営する碁席があった。
子供を碁打ちにしたいという保永の話を聞いて、小野塚は、
自分の所などではなく方円社で本式の修行をさせた方が
いいと勧めた。秀哉の入門時には、方円社は神田表神保町
二番地にあった。
ちなみに、後に方円社五代目社長となる広瀬平次郎(贈八段)の
妻の仲子(二段)は、小野塚の娘である。
秀哉は、なんと、方円社では正式の級位を受けていないし
免状も貰っていない。
当時の秀哉の実力は初段格または二段格である。免状代が
工面できなかったという説もある。金銭的な事情があったと
推測される。
明治17年には黒田俊節や水谷縫次が亡くなった。明治19年には、
御大村瀬秀甫が亡くなった。明治17年から明治19年にかけて
方円社創設期の重要人物の多くが亡くなって、方円社は台所が
苦しくなった。
明治22年に方円社は神田表神保町の会館を売り払い、日本橋通り
二丁目の山本茶舗(山本山)近くの小さな家を借りて移った。
この時、住み込みの塾生は住み込みできなくなった。秀哉は、
中川亀三郎(丈和の実子)の家に預けられた。亀三郎の家は
浅草にあった。
秀哉と丈和を結ぶ線にやっと気が付いた。秀哉は丈和の三男の
家で暮らしたんだ…。秀哉は丈和の長男の節山因碩の打碁の
解説本を後に出版しているね…。
秀哉が亀三郎の家に何年間やっかいになったのか不明だね。
情報きぼんぬ。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は、明治23年に岩村通俊(農商務次官)の家に書生として預けられているね。
碁はやめていない。秀哉は亀三郎の家には1年くらいしかいなかったんだな。
明治22年(秀哉は16歳) 中川亀三郎の家に預けられる
明治23年(秀哉は17歳) 岩村通俊(農商務次官)の家に預けられる
明治24年(秀哉は18歳) 父を亡くし、秀哉は孤児となった
明治24年(秀哉は19歳) 小林鉄次郎との二子局を最後に方円社を飛び出した
明治26年 方円社が神田錦町に新会館を建築
秀哉は方円社を単身で飛び出したんじゃない。悪友の
村瀬彪(秀甫の養子)と一緒に飛び出した。
村瀬彪(秀甫の養子)は方円社に住んでいたけれど、
碁はダメで、第一銀行の銀行員だった。
山本山の当時の主人の山本嘉兵衛は大の囲碁ファンで
方円社の人たちと付き合っていた。
秀哉は彪と飛び出して食い詰めて、山本山の主人に
碁の本を売ったり、方円社に置いてある自分の布団や
箪笥や少しの荷物を質に入れるために方円社に取りに
戻ったりして、以前の知り合いの周りをうろちょろしたんだよね。
塾生達はよってたかって秀哉に荷物に手を付けさせなかった
とか、小林鉄次郎の妻が泣いて引き止めたとかいう話しが
ある。でも、奥にいた小林鉄次郎は止めなかったらしい。
(この話のソースは秀哉の証言である。)
小林鉄次郎との間に何があったのか?鉄次郎は、
錦四郎因碩の後を継ぐと見られていた人だけれど、
碁は超一流ではなかったらしい。でも、温厚な実務家として
方円社を支え続けた。カネにまつわるトラブルがあったのか?
秀哉は、鉄次郎を馬鹿にするような態度をとったのか???
以下は「趙治勲傑作選2 頂上に立つ」 p.61から
----------------------------------------------------------------
話が変わるが、昔の名人といわれる人たちのなかで、プロは秀栄名人を
ひじょうに高く評価する。その反面力戦型の秀哉名人の評価が驚くほど
低い。秀栄は力を表に出さず、太刀筋よく軽いフットワークと大局観で
勝つが、秀哉は最初から抜き身の力戦で戦い抜くタイプ。趙は秀哉の評
価が不当に低いのに抵抗を感じる、同じように評価すべきだと、いつか
いっていた。碁は大向こうをうならせる見せ場ばかりで出来ていない。
大部分が泥臭いヨミの地味な場面で出来ているとすれば、秀哉のような
力戦型はもっと評価されていいと、趙は思うのである。
治勲、さすがだな。
秀哉は秀栄に先だったんだから、秀栄に近い棋力。
小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。 巣鴨の秀哉の墓の敷地内にある土屋(家)ってだれのこと?
本因坊の菩提寺は、三世の道悦までは没後京都の寂光寺。
(小生の記憶によれば、誰かが彼らのお墓を江戸に移した
ような…。)
四世道策から二十一世秀哉までは巣鴨の本妙寺が
菩提寺である。ただし、実は、明治42年までは、歴代の
本因坊のお墓は本郷丸山の感応院(本妙寺の分院)に
あったのです。
明治42年に、区画整理に伴い、彼らのお墓は巣鴨の
本妙寺に移されているんだよ。で、秀栄(土屋平次郎)が
亡くなったのは明治40年である。秀哉は、明治41年に
第二十一世本因坊になっている。彼らのお墓を巣鴨の
本妙寺移したのは秀哉と思われる。彼らのお墓は
標準サイズ?少し小ぶり?
秀哉のお墓を建てたのは秀哉じゃないと思うよ。
新聞社なのか大倉財閥なのか弟子達なのか
わからないけど、秀哉以外の人が秀哉のお墓を
大きなお墓にしたんじゃないの? >>258
>小生は、秀哉は秀栄にわざと負けていたと思うね。
秀栄にわざと負けるほどの者が、雁金に負けそうになり持碁を持ちかけるか?
そういえばさ、戦争の頃には必要以上に大きな
お墓を建てる風潮があったんじゃないかな?
戦死者のお墓でマジかよと言いたくなるような
大きなお墓があるよね。 >>258
プロの間での「先」は大差
チョウチクンはどんだけタイトルとっても道策、秀栄、ゴセイゲンより自分の評価が低いから彼らを叩き、貶めることで自己満足を得てる。
林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが彼の異常なまでの道策、秀栄、ゴセイゲンコンプレックスを見ると納得できる
>>265
呉清源 - 坂田栄男 - 趙治勲
治勲は歴史に残る棋士だよ。 >>266
つまらんオタク議論繰り返すより棋譜並べでも何でもしてちょっとでも強くなること考えろよ
武道板にもたまにいるけど自分の技術磨かずに誰が強いだの弱いだのの議論繰り返すしかしないオタクが一番嫌いなんだよ。
秀哉が好きなら好きでいいから全集でも何でも並べてちょっとはこっちの書き込み控えろ
趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
「自分の技術磨かずに」云々とかw あほ
>他人の評価を鵜呑みにして適当なこと書いてる人が、
俺がいつ他人の評価鵜呑みにした書き込みした?
俺はチョウチクンがゴセイゲンの悪口言ってることしか知らんが、仮にチョウチクンがゴセイゲンを評価してるとして
>趙治勲がどれだけ呉清源を評価してるかも知らないうえに、
こんな誰が誰をどの程度評価しているとかいう知識溜め込むよりは一局でも多く棋譜並べ、詰め碁するわ。
最も最近はまた武術に戻って腕立て、四股の生活の繰り返しだがな
お前も「ある棋士がある棋士をどう評価した」とかつまらん薀蓄話よりもっと有意義なことに時間使えよ >>265 >>268
趙治勲の呉清源評としては「地と模様を超えるもの」という本が
面白かったな。うろ覚えだが、
「十番碁で他を圧していた頃の呉先生の碁を調べると、呉先生の
無理手が通ってしまっていることがままある。実は呉先生は世間
で思われている程強い棋士ではないのかもしれない」
みたいなことが書いてあった。 チクンは性格的に自分が一番じゃないと気が済まないのかもね
確かに碁の強さは相当のものだが、道策・秀策・呉清源・チャンホらのように
革命的な偉業を達成したわけではないから一段評価が落ちるのだろう
せいぜい韓国に囲碁ブームをもたらしたくらいか >>265
>林道義がチョウチクンの幼児性について語ってたが
これ興味あるな
どこで読めるの? 趙治勲が呉清源を並べまくった話は有名じゃないのかな。
だから>>270のような評もでてくるし、公に言えもするわけで。
うちの親父も影響されて、全集を買ってたぞw
解説会で趙治勲がでてくると、それだけで客席が熱くなる。
みんなニコニコする。
こんなに愛されている棋士が他にいるだろうかと思う。
特定の世代にとってのこととは思うが、
趙治勲あってこその部分が日本の囲碁界にはあると思う。 >>267
お言葉ですが、このスレに投稿する人は数名しかいないとオモワレ…。
スレが落ちちゃうじゃん。
小生は趣味でネットワークの勉強をしていて、棋譜並べをする時間が
ないのです。
チェスのチェックメイト問題は毎日2問ほど解いています。簡単な詰碁も
週に1問くらいは解かなきゃいけないと思っております。
治勲は若い頃に平凡社の呉清源全集をぼろぼろになるまで
並べているよ。確か初タイトルをとった頃には、呉清源全集を
並べるのが4回目だったとか何かに書いてあったよ。確か、
講談社の現代花形棋士の趙治勲の巻だと思う。
林道義ってアマチュアじゃん。アマ六段の大学の先生でしょう?
この人、能書きはなかなかだけど、プロの心理を分析とかは
おこがましいな。
能書きだって、相場さんとか林裕さんの方が上だと思うよ。
てゆーか、上じゃん。 >>276
心理学が専門の学者だからおこがましいということはないと思うけど
>>277
新書版のエッセイみたいな本の中で棋士の心理分析しているから、
読んで味噌。こじつけとかエセ科学だと小生は思ったね。 戦いの効率争いである、と明確に表現するとかっこ悪くなり
「地と模様を超えるもの」、と適当で曖昧な表現なら
意味不明であっても、かっこがいい。
かっこいい表現でないと、なかなか流布しない。
プロの心理とアマの心理と別にあるわけではない。
例外を多く知っている人ほど、恐怖心と用心が大きくなるだけ。
また、人間なんてたかが知れていて
道を意識して追及すると、誰でも同じ道を歩くことになる。
つまり、強欲で単純な生き物でしかない。 >>276
5級の実力もないお前ごときがぐだぐだぬかすなよ。
「小生」は完全に古碁関連スレの老害。
2ちゃんで薀蓄語ってる間にちょっとでも勉強繰り返してたら今頃お前も林さんぐらいにはなれたかもしらんのにそうやって他人の論評だけで人生の時間削っていくのな・・・ 秀栄と秀策を三周も並べた強者が小生さんに無駄に喧嘩を売るなんて・・・