【天才】橋本宇太郎【火の玉】
95年前の2月27日は橋本宇太郎先生の生まれた日です。
激動の人生を歩んだ宇太郎先生に付いて語りましょう。 西川勉氏が覆面子だったのは短期間だったらしい。
その期間が知りたい。 どうも調査ミスがあったみたいです。
戦後も橋本先生が詰碁欄を担当しているようです。
もう一回調べなおします。 ワシはこのぢぢいの本で碁を勉強した。
ともかくひたすら数多く練習問題が並べてある本で
読みやすかった。なつかしいな。 昔の詰め碁の本は1ページに2問出題されてるのが多い。
これはなんでですか?見にくいのに。おしえて古い人。 >>211 それがいいんだよ。一冊にたくさん問題があって得した気分。
うたろうの本は、読みにくさを解決している。最初は上段
だけを説いてゆく。そして、最後まで読んだら、ひっくり返すと
そこから続きが始まっている。そして最初のページまでもどって
くる。これを読むと、最近の一問一ページは、もったいない
かんじ。 74歳で本因坊リーグ入りを決めた一局
(;FF[4]EV[第37期本因坊戦]RO[三次予選決勝]PB[橋本宇太郎]
PW[石田芳夫]KM[5.5]DT[1981-10-29]RE[235手完 黒中押し勝ち]
TM[21600]
;B[pd];W[dd];B[qp];W[eq];B[oq];W[cp];B[fc];W[df];B[jd];W[qj]
;B[ck];W[ci];B[cc];W[dc];B[db];W[cd];B[bb];W[bc];B[cb];W[cm]
;B[ql];W[qf];B[qh];W[rh];B[nd];W[ph];B[qe];W[pf];B[jq];W[hq]
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;B[hr];W[ir];B[jr];W[gs];B[hp];W[lm];B[dm];W[dn];B[en];W[do]
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;B[hf];W[fd];B[ed];W[pk];B[ef])
>>217
感動の内容を具体的に書いていただければ
リーグ入りを決めた37期本因坊戦三次予選の
残り2局の棋譜も譜起しするかもしれません。
気分が乗れば観戦記の解説付きSGF譜を作ります。 「関西棋院の棋士やファンはたいへんな気の落としようであった。この七番勝負について、
前後二百通ぐらい手紙をもらったが、三対一に追い込まれたときには、もう勝負はどうでも
いいから立派な碁を打ってこい、関西棋院の将来などは頭の中から拭い去ってしまえ、
それは勝負が終わってから、改めて考えるべきことだ−というような手紙が多かった。」
−「囲碁専業五十年」
甲府昇仙峡で打たれた第五局。この一局に勝てばいよいよ本因坊だという意気込みの坂田
であった。坂田のファンは祝宴の用意までしていたのである。二日目の午後になって局面は
急迫していた。凄まじい気魄が対局室に満ちていた。
そんなとき新聞社のカメラマンが対局者に気づかれないように写した写真がある。橋本と
坂田が体を乗り出して盤面を凝視している姿が暗黒の中に浮かんでいる。不気味な殺気が
画面から溢れるような写真である。「赤鬼と青鬼の写真」といわれるものだが、これが有名に
なったのは、写真が対局室の凍りついたような空気を写し出していたからである。凄まじい
勝負であった。 −講談社「大系」・下 >>222
気持ちは分からんでもないが、
イラネーヨ。 最近の関西棋院の大物は挙動不審結城に往生際が悪い昌二・・・
瀬戸に期待。 あんまり先輩の話はいいたくないのだが、この人は呉清源さんと比肩されるだけに、
とても華麗な冴えた碁である。気合いの碁で、年齢の限界にきかかっている人とは
思えないくらいだ。いまでも一番勝負に強く、それには敬服させられるが、もう
持久力はなくなっている。 (坂田「勝つ」1965)]
1965年より後の実績は年齢の限界での余韻に過ぎないのかw(ちょっと意地悪に 詰碁の数は賞賛されるが、あまり質についての賛辞は聞かないな
自分は好きだけど >>229
>>141-143をお読み下さい、参考になれば幸いです。
つまり難解ものはほとんどどっか行っちゃったと?
あーあ 今日は命日、没後十年。
関西棋院、何か記念事業しろよ。 一度見聞きしたことは忘れない記憶力の持ち主が
原爆の惨禍を目の当たりにしたのだからたまらない。
毎年夏になると原爆症になったというが、今で言う
PTSDだろうな。 関西棋院大手合が終了した。
主催紙の大阪新聞と産経新聞に
宇太郎先生は大変な恩義を感じておられたそうだ。
もう大阪新聞は無い。 今日、教育テレビで将棋を指していた人は
この方の親戚でつか? リクエストしてくれ。
1975年以前のものだったら橋本宇太郎全集を図書館で調べてくる。 加藤正夫先生の訃報に沈んでいる。
平成16年12月30日12時33分、脳梗塞および合併症のため逝去。享年57歳。
その中で宇太郎先生の生涯が頭をよぎる。
名勝負、名棋譜、棋院創設、長寿、最期の風景。
なんて別格の人だったんだろうと。
加藤先生にもこの運があればと。 橋本先生も呉先生との十番碁の打ちかけの夜に大阪から
棋院運営に関する電話相談があったりした。
67歳で名人リーグ入りを果たした碁の観戦記を調べていたら
「終局直後、役員棋士たちが先生のもとに駆け寄って運営の相談を
始めた」とあった。
加藤先生より過酷な状況にあったことは間違いない。
宮本直毅九段が、お伴の旅の宿でふと話しかけられた中での人物評の部分を
回想〜列記した文章が、『橋本宇太郎の世界』にありました。
--------------------------------------------------------------------------------------
呉 清源
石の運びは一見平明に見えるが、状況によっては疾風迅雷、一刀両断のすごみがある。
一局のうちこちらのヨミにない手を必ず打ってくる。彼の宗教にうちこむはげしさと
ともに碁に対する執念が神仏のように迫力があった。彼こそ昭和の棋聖であり、名人
である。もう一度十番碁を打ってみたい気がする。
木谷 實
正確無比のヨミでしかもねばりづよかった。私とはまったく正反対の棋風。名人に
なれなかったのが不思議なくらい。もっと時流にあわせてさらさら打てばタイトル
くらい楽にとっていたと思う。碁の癖があり凝りすぎるところがあった。しかし
それが囲碁三昧かもしれない。
関山 利一
父君の盛利氏が熱心で私も可愛がられた。その縁で私が二段の時、盛利氏のたのみで
利一氏と七子で打ったが、翌年は三子になり、さらに一年後には二子で打った。
大変な棋才の持主だった。はじめは守勢一辺倒の碁だったが、四段の時から攻めに
重点をおくようになり、一挙に超一流の域に達した。彗星のごとく現れ消えていった
天才。
岩本 薫
小川のせせらぎのようにさらさらと打ち、また大地にぱらぱらと種をまくように打つ
といった調子でつかみどころがない。そうかといって安心しているとぱっと襲って
くる。飄々としていて油断のならぬ碁である。私の苦手である木谷九段には、めっぽう
強かったようである。
高川 格
平明流というか水の流れるような決して無理のない碁。形勢判断に明るく自分から
仕掛けないから私には調子のあわないところがあった。コミ碁というものに新境地
を開拓したように思う。
藤沢 朋斎
山を抜くような剛力。ツボにはいると手がつけられない。私もよくおしつぶされた
が、強いだけにちょっとリズムが狂うとすきができる。碁はヨミと力だけでは制し
きれないほど広く深いのである。
坂田 栄男
カミソリといわれるくらい鋭い切れ味は比類がない。私とは波長が合い、打って
いて碁の琴線にふれるようで楽しかった。昇仙峡の一局は、敗色が濃かったが、
相手にあせりのようなものがでて助けられた。七局目の賢島で私に勝運が傾いた
が、坂田九段が局後帰りぎわにあいさつにみえ、その姿にさわやかな印象を受けた。
半田 道玄
柔軟性にあふれた碁で盤上を宇宙とみて思考をこらすといった具合に、高僧の
風格があった。ふわふわとしているかと思えばどこまでもくねくねしているところ
があり、石の流れの裏に粘着力があった。もう少し長生きをしてほしかったが、
碁に燃焼しつくしたという感じで、すばらしい棋士であった。
山部 俊郎
才気煥発型で変幻の妙という点では注目に価するが、時にむら気があり損をして
いるように思う。この人に執念とねばりというものが加わっていたらと惜しまれ
る。
藤沢 秀行
独創性にあふれ棋才という点では古今比類のない大天才だと思う。彼より強い人
はいっぱいいるが、作品という見方からすると彼に及ぶものはめったにいない
のではないか。要するにひらめくのである。
林 海峰
勝つための条件であるヨミ、粘着力、形勢判断などどれをとってもバランスが
とれている。碁盤全体で打ってくるという感じで、スケールが大きい。
大竹 英雄
名人中の名人である。どこから突いてもスキがない。ただ気になるのは大竹美学
とかいわれているが、碁に美学などあるはずがない。盤上には勝負があるだけで
ある。もっと鬼気というものがほしい気がする。
>>244-247
乙。
一流を表現できるのは一流のみということか。
関山師の上達の様子は初めて聞いた。
秀行師の批評に唸った。 呉の「疾風迅雷」、高川の「平明流」、山部の「変幻」なんてのは誰がつけたんだろう。
みんな宇太郎師のこの批評からというわけじゃないだろうし。
「呉は疾風迅雷、坂田は快刀乱麻」なんてフレーズ格好いいよなあ。 呉清源師の自伝映画では、誰が宇太郎師役をやるんだろう。 >>240
リクエストしてみる。
関西棋院の存亡をかけた昭和最大の名勝負の棋譜をぜひ。
1譜だけというなら、カド番で勝利した棋譜をぜひ。。。。
>>252
ちょっと横着させてもらって棋譜ファイルのあるページを紹介します。
http://homepages.cwi.nl/~aeb/go/games/games/Honinbo/
ここの Hon-1951-1.sgfからHon-1951-7.sgfまでが宇太郎−坂田の
七番勝負の棋譜です。 >>252
どうもありがとうございます。
ほかにもいろいろあるんですね。
おいそがしいところ、ありがとうございました。 >>253のまちがいでした
すみません。
ではあらためまして、
>>253さん、どうもありがとうございました。 野沢竹朝が序盤で工夫しない橋本少年を一喝したのは有名だが
知人に将来性のある若手棋士を聞かれ、「橋本少年はものになります」
と回答していたのはあまり知られていない 初手天元を打たれた時にすぐに空き隅確保するのは素人 >>257
マジですよ。
善悪を超える気合の一着という評価らしいです。
当時、東西対抗の意識が強く、相手を何するものぞ
蹴散らしてくれんの気合がみなぎっているさなかで行われた
という背景があります。
団体対抗戦で全員が第1手目天元だったということもあったようで
新布石時代と東西対抗の両方の空気が融合してできた棋譜なの
かもしれないですね。
詳しい方補正をお願いします
読売新聞社主催の名人戦解説会で橋本師が語ったのですが、
第1期名人戦創設のとき、第1期の名人は呉清源さんを置くべきだと
主張されたそうです。当然日本棋院や新聞社の思惑があり、
実現は難しかったのでしょうが、橋本先生らしいお話でした。 日経の縮刷版を調べていたら宇太郎先生の人物評を
宮下秀洋プロが書いていた。前半はよくある「勝負師宇太郎」
についてなのであまりおもしろくなかった。
後半が興味深かったので紹介する。
九段は趣味人でもある。いっしょに虎ノ門アパートにいたころ、
橋本さんはよくあきもせずにコーヒーをつくった。ブラジル、モカ、
ジャワなどを調合して、天下一品、独特の風味をもつコーヒーをつくった。
それは街の喫茶店のものとくらべて段違いにすぐれていた。その
コーヒーづくりの先生といっしょにいたから、しぜん私の腕も
免許皆伝になった。それほど彼は納得のいくまで研究する一面を
もっている。ついでだが、そのアパートは女人禁制、四畳半という
よき時代の庶民向きの建物で、私はそこで初段になり、橋本さんは
五段になった。
彼はまた純情情熱の人である。同じアパートにいたころ、京都の
吉田操六段の内弟子であった現夫人と恋愛していて、京都へ行く
ときの楽しそうな様子、帰ってきたときの物足りないような素振り、
郵便受けの木箱からはみ出している恋人からの手紙をふところに、
急いで自分の部屋へ帰ったりするところなど、まさに人間味たっぷりの
橋本さんである。勝負師としては最高である九段の地位にあるが、
ほかの道を選んだとしても、現在に近い大成ぶりを見せたのでは
なかろうか。
>>6にも書いてあるが、
先生は夫人とコーヒーを飲んでいるとき、胸部大動脈瘤破裂でお亡くなりになった。
>>261を読んだとき、「好きなもの二つのそばでおなくなりになるなんて
幸せな死に方だったんだな」と感慨深かった。 東野某氏ね
お前が監修した宇太郎の詰碁集
答えどころか問題まで間違いだらけじゃないかよ
引退して反省してるつもりかもしれないが
絶対許さないぞ
同じ詰碁作家として故人の宇太郎に嫉妬したからか
わざとやったんか畜生 >>264
何ていう本ですか。私も詰碁歳時記とか奥の細道とか東海道五十三次とか
中仙道やってるので、教えてください。 >>264-265
「100万人の詰碁2 橋本宇太郎」講談社
ですね。
264さん、具体例を挙げて説明して頂けると
うれしく思います。 秀行師だったか、
「橋本さんは鳥のような華麗なサバキ、
梶原さんはキリでねじ込む徹底的なサバキ、
木谷さんは巌のような磐石の石サバキだった。」
と言ってたなあ。
どんな碁が頭にあったんだろう。 >>274
堪忍してください、許してください。 <火ダルマ秀行 >>265
>>266
「風と刻」だよ、知らない?
当時は激情に駆られたが全部やってみるとやさしくて面白い本ではあった
しかし残念は残念だ、悪い弟子を持って あまり言いたくはないが・・・・・
戦時中に本因坊に就位したとき
正当な挑戦権をもっていた木谷実の挑戦に対し
法外な対局料を言い立てて
木谷師の挑戦から逃げつづけたのは
いかがなものかとオモ。
生涯の汚点だと思う。 詳しく!
関西棋院地盤固めのための時間稼ぎだったのではないか知らん? >>281
戦時中の話だから関西棋院云々とは違う。
本因坊昭宇は通算三期在位。
一期目が戦時中の原爆直下の本因坊戦の時期
その後間をおいて二、三期目が関西棋院設立の前後。
んで挑戦忌避騒動が起きたのは戦時中。
当時の師の所属は日本棋院で関西棋院はまだ存在しない。
かろうじて方円社の残党が残っていたくらいか?
当時の本因坊の任期は二年制で変則だった。
さらに変則な規定があり任期の途中で挑戦手合次席者(?)の
認定挑戦権者はタイトル挑戦手合を申し込めるという規定があった。
只この挑戦手合規定には細則がなく対局料などの手合にかんする具体的な手続き規定がなかった。
挑戦権者であった木谷師が挑戦を申し込むと本因坊はその権威を根拠として挑戦者側に莫大な対局料を要求した。
両派それぞれ主張し論争となったがあまりに多額であったために木谷師は対局料を用意できず
本因坊サイドは一歩もゆづらないで
結局挑戦手合は実現しなかったそうな。 「木谷師は対局料を用意できず」というところに引っかかりを感じないか?
対局料は主催の毎日新聞が出すべきものだろう。
昔の棋戦は興行の色彩が強く、いい加減な運営をやっていたのだ。
当人にとってはいい迷惑である。様々な対抗措置を取らざるを得まい。 >>283
いやだから天下の毎日新聞でも用意できないほどあまりに法外な額だということさ。
そして木谷師の後援者にも用意できる金額ではなかった。 例えば戦後の本因坊任期短縮のように挑戦手合が後からいきなり相談無しで決められたって話しなら
確かにそうだが>283
挑戦手合いについては事前に規定されており木谷師に正当な挑戦権があるのは自明のことだった。
しかし本因坊は実現不可能な対局条件を提示して一歩も譲らなかった。
用意可能な対局料で妥協するとかいう対局へむけて譲歩する姿勢は本因坊にはなかった。
「ビタ一文欠けても対局しない」などとという姿勢をとったんだ。 >>283
逆じゃね?木谷師が用意できないのを見越して
新聞社じゃなくて木谷師が対局料を用意する方向にわざわざもってんたんじゃね? 正式な挑戦者でもないのにふざけんな、ってことでしょ。別におかしいことじゃない。
で、木谷がルールにのっとって、挑戦権者でもないのに挑戦したのに対し、
橋本もルール(厳密には規約の盲点)にのっとっての結果的忌避は無問題。
規約がそもそもおかしいし、そのおかしい規約を使って、本来なくてしかるべき権利を主張するわけだから、
本来なくてしかるべき理由で忌避するのはいい対抗手段だと思う。いわゆる意趣返しだな。
全然恥でもなんでもない。むしろひねった賢さを感じて痛快。
それよりも、ごしっぷですらない60年以上も前の出来事に対し、さもゴシップであるかのような書き込みをする
ほうがよっぽど品性よろしからずだな。 俺に言わせれば木谷も橋本も偉大だし、
聖人なんていないんだから今となってはどうでもいい。 >>287
寝言はやめれ木谷師は当時の規定にのっとった正規の挑戦権者だよ。
「正式な挑戦権者でもない」だなんて嘘はやめれ。
当時の規定上木谷師に挑戦権があるというのは誰もが認めてた。
本因坊側でも木谷師の挑戦権自体は否定していなかった。
>本来なくてしかるべき理由で忌避するのはいい対抗手段だと思う。いわゆる意趣返しだな。
>全然恥でもなんでもない。むしろひねった賢さを感じて痛快。
棋士ならば盤上で決着をつけるべきだろうに・・・・
あんた何いってんだ?
例えば日本棋院対関西棋院のような、組織対組織のような話なら
盤外での戦術もありだろうがね。棋士対棋士はそうじゃねーだろ。
マンセーばかりじゃ贔屓の引き倒しだぞ。 棋士対棋士の勝負であっても盤外で勝負の駆け引きが行われることもある
但しそれはあくまでも盤上での勝負があってこその話しだ。
盤上で勝負してこそ棋士だぜ。
盤上での勝負を避けるために盤外で戦術を駆使するというのは棋士としてはいかがなものか?
大体がこの話しについて橋本氏が回想録などでも多くを語らなかったというのは
内心忸怩たるものがあったと思われる。 木谷が挑戦手合い申し込みできたのは確かだが
橋本がそれを受けなければならないという規定がなかったのも事実だな
ちなみに橋本がそのときに要求したのは3万円(当時)
だいたい正式な挑戦者なら打たなかった橋本を不戦敗に出来るだろう
木谷が申し込んできたときは打ってやろうと思ったが戦時中だしやっぱりメンドクセとでも思ったんじゃない
またまた寝言ですか?>292
まるで巨人の空白の一日のような主張ですね。
贔屓の引き倒しはやめなよ。
>木谷が申し込んできたときは打ってやろうと思ったが戦時中だしやっぱりメンドクセとでも思ったんじゃない
今まで星勘定が悪く挑戦者決定手合で偶々勝ちを掴んだ本因坊が
今度やれば負けるかも?と考え対戦を忌避したってのが定説。
>>293
どうせ負けるから打つのメンドクセって思ったってことだよ
戦わなくてもいいときに戦えば紛れを増やすだけ、むやみに戦えばなんとやらだ
碁ではそう教えられるだろうに
ttp://page11.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/n19540607
『橋本詰碁傑作集』 誠文堂新光社 昭和42年 現代の棋士とどちらが強いのかは知らん。
けれど、時代を創ったこういう人たちには敵わんと思わせる凄みがある。
碁の勝負とは関係ないことなのか、勝負の本質に関わることなのか。 関山利一が一期本因坊になり、それに橋本が挑戦したのだが、
関山が体調の問題で一戦ほどしか打てず不戦敗となった。
関山の弟子の梶原が自分が打って勝ったら師匠の体調が
よくなるまで待ってくれとか言ってたのだが、
橋本が本因坊となったわけだ。んで木谷も兆戦を申し込んだ。
で上にも書いてあるように、規定などがなかったことから
橋本は5万の対局料を要求し、それを全額軍に寄付すると主張。
しかしまあその後第三期本因坊戦の正規の挑戦者である岩本薫とは、
毎日新聞が戦争で碁どころではなく、まったくバックアップしなかったのに、
師匠の瀬越と一緒に兆戦手合を実現させたわけだ。
そこで原爆下の本因坊戦というようなことになった。
とまあそんなこともあるから、木谷が申し込んだのは
関山の不戦敗のこともあってなのかもしれんし、
それなら受けることはないという考えだったのかもな。 冬の手合日、外の雪を見て橋本(宇)、
「そういえば二・二六事件の日もすごい雪でしたねえ」
「・・・」 (さすがに相槌を打てる者がいない。)
橋本、苦笑して(or何事も無かったように)目を盤面に。 今月はじめ、原爆下の対局の対戦相手である岩本薫先生の記念碑の除幕式が、岩本先生の出身地益田市で行われたそうです。橋本先生の記念碑とかはないんでしょうか。ご存知の方は教えてください。お願いします。 橋本宇の場合は関西棋院という記念碑もあるが。(「碑」はまずいか?) 「棋士の記念碑は残された棋譜。」
なるほど、含蓄のあるお言葉です。
さて、橋本先生の名局といえば、やはり昭和18年の呉清源師との三番碁の白番
持碁の譜でしょうか。本因坊戦ご本人もそのように言われてるようですし。
皆さんはいかが思われますか。
橋本先生生誕99周年&スレ立て四周年記念上げ
山田虎吉を覆面子に推薦したのは橋本宇太郎先生だったそうな。
虎吉の息子が将棋世界で語っていた。