朝倉家当主が発行した書状や寺社に寄進された鐘や柱に刻まれた日付等から
内政的に一番活発だったのは貞景の最晩年から孝景の最初期って判断されてて
義景オリジナルの施策はあまりないのが実情←(これ朝倉氏遺跡保存会の学芸員の人の受け売り)
独自のものは日本海から越前府中に通じる道路の拡張や橘屋の薬販売の奨励と保護など…etc

志賀の陣の緒戦となる坂本城攻略戦も義景本陣は遥か後方の竹生島がまだ見える位置
南加賀攻略も小松城を囲む総指揮を執ったのは山崎吉家で義景は陣僧に囲まれて後方待機

経済的にはもう先代の時代にある程度、興隆を極めていて義景はそれをしっかり維持出来てるからこその政治60後半
総大将出陣で士気が高まる部分はあっただろうが戦場では義景の判断がマイナスになっている点も多い
信長相手に万を超える軍勢の総大将格として五分で対峙した実績も含めて戦闘関連の数値30〜40

義景ってそこまで有能ではないよ
あくまでも朝倉家の威光と越前という国が凄かっただけ