武田信豊の能力を下げたい。

1573年北三河→武田に味方していた菅沼を拘束。
1575年長篠→高坂から切腹させろと要求。
1578年御館→武田側の外交責任者でありながら景勝と景虎の仲介にしくじる。
1579年北条→北条との同盟を破棄した責任の一端あり(同時期に相模守を名乗るというふざけた行動をしてる)。
1580年織田→織田との和睦交渉をしたいからと勝頼に高天神の放棄を進言。
1581年穴山→穴山信君の子の次郎に婚約内定していた勝頼の娘を嫁がせる(奪う)。
1582年甲州征伐→鳥居峠で木曽軍に惨敗。

一族の重鎮としては酷過ぎるな。
名将・信繁の息子とはとても思えん酷さだ。