信長の野望で過大、過小評価されている武将スレ13
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嵐世記さ…これ大名の多さも能力評価もこのスレ民好みじゃないか >>166
嵐世は歳を食えば食うほど強くなるシステムな上に
天道で行われた能力見直しの前だからかなり貧乏くじを引いている武将が多い >>164
後もう一人の忠臣の相良武任
も上げて欲しいよね。 >>164
後もう一人の忠臣の相良武任
も上げて欲しいよね。 武任は大寧寺の変で死んでなきゃおかしいだろ
二階崩れの変でも菊池義武や入田親誠が死なないしガバガバ過ぎる 久秀が爆死しても久通は死ななかったり甲州征伐終わっても勝頼以外全員生き残ったりする平和な世界ですし…
戦国立志伝である程度改善されたのに大志でもとに戻ったの絶許 大きな転機となるイベントや戦が起こった際に
遠隔地においてその後のゴタゴタで巻き添え死した武将や殉死的な感じで自害した武将の扱いは難しいね
事前にいなくなる武将は内政等の行動はさせないようにしておかないと
作業が中断して無効になったりするなんていう不満とかも出そうだし
重臣又は近縁の最重要人物一人ぐらいが同時に死没処理されて終わり…程度がゲームとしての落しどころなのかな 大イベントに付随して起きる小イベントとかあったらいいなあ 創造の長篠イベントでの武田四名臣個別死亡イベみたいなもんか 全員死ぬとシュミレーションとしてのプレイの幅が狭まるからね
そこは仕方ないかと俺は思うわ 見てみい
200もいかん間に雑談スレになっとるやないか
そやからワイは次スレは立てんでええ言うたんや じゃもう無くなったものと思って見るの辞めればいいんじゃないですかね >>177
馬鹿もん。
何を言うか。
アイドルの二階堂輝行公がいる作品ではないか! 戦国のアイドル・ミスター過小評価といえば金吾でしょ! 義光と義姫がセットで高ステータスだけど何があったのかな? 描かれ方がどうのこうのって声を昔からよく聞いたけど今回もその流れなのかな? >>185
四国遠征が実現していたら、四国方面軍として80もらっていたかもな >>188
実は、俺キリシタンなんだ
みんなで入信しようぜ。イエーイ!
て法令出したら、速攻で秀吉、長秀、恒興に反乱起こされて詰んだ
実績だけみたら信雄の方がマシ >>188
清須会議後、森長可ら美濃衆が抑えきれなかったのがね…
有効打をうてないまま結構グダってたそうだから >>190
勝手に兵を動かして伊賀で大敗して「親子の縁切るぞ!」って信長にキレられるような真似はしてないんで信孝の方がマシ >>189
その功績になるものが、四国征伐(予定)でしょう
渡海前日に本能寺の変があって頓挫したけど
あくまで仮定の話だよ
一応総大将じゃなかった? >>193
信長に手紙で阿波では三好笑岩の指揮下で働くようにと言われてるんで実際の大将は三好笑岩 >>194
そうなんだ
なら四国征伐うまくいってもそこまで功績にはならないか >>181
過大過小ネタの流れを潰すための雑談がなんだって? 三英傑に準ずる最強クラスあの伊達政宗よりステータスが高い最上義光とやりあったんだから義氏も上げて下さいよ。知力、政治は70台ぐらいで泣きますから統率力、武勇は90台でおねげえしますって山形の地元の人達は言うんですよ。 最上義光の戦闘力が鬼島津やらと五分五分だというエピソードを教えてください。 最上もすっかりネタ枠になってしまったな
山県県民が大騒ぎするから 予定とか仮定で査定すんなら山本仁右衛門も評価されるべき >>183
顔芸がとても素晴らしいのだよ。
息子の盛義は蒼世録で顔芸を受け継いでる。 コーエーはこの方をもうちょい評価してやろうや
国人が気難しい土地でしっかり掌握したんだからさhttps://i.imgur.com/oCXCqHb.jpg この人顔グラが怖いからいっつも斬首してるわ(´・ω・`) 山形県民だけど米沢市民の俺、最上は割とどうでもいい >>204
こういう劇画風の顔に戻して欲しいわー最近の顔グラみんな顔立ちおんなじじゃん >>208
というか群雄伝PC98やMSXの頃の肖像画ベースの方がいい。山県、高坂、山本、丹羽、滝川とか昔はなるべく肖像画ベースだった 最上義光は数年前に正式な読みが「よしあき」と判明した後は
日本語版も英語版も武将名がよしあき表記に訂正されたんだけど
実は英語版の最上イベント内ではいまだに
yoshiaki表記ではなくてyoshimitsu表記のままになってる
この読みが混同した表記ミスに関して海外のプレイヤー達が
正式な読みが最近判明したはずなのになんでイベント時だけは間違ったままなのって指摘してる
肥よ、日本人だけが武将の能力値に文句言ってる時代ではないんだぞ
海外勢も自分達で調べて史実武将追加パックとかのデータあげて交換してたりする時代にもうなってる 肖像画ベースのグラは地味であろうと雰囲気が出て良い
ただ…錦絵ベースのグラ、あれは止めろ
あんな後世の絵師のイラストテイストじゃ軽々しくてしらける 錦絵ベースだとどうしても派手派手しくなるから
同じ色でももう少し色合いを抑え目にして欲しいかな 上の方の話題のイベント波及みたいな流れで大寧寺起こったら龍造寺に勝屋勝一軒とか流れてきて欲しいなあ
龍造寺の政治屋でこの人欲しいの >>215
せやで
城や博物館の毛利元就や毛利氏に関する解説の英訳でも「MORI」になってる >>214
隆信は名前に「寺」があるせいか、何故か全国版では顔グラがハゲだったなw
しかもやたら強い。
後のシリーズは肖像画通りになったけど。 >>216
毛利勝永の毛利氏がもともと「森」姓で、
「毛利氏にあやかって改姓した」って話どういうことだと思ってたが合点がいった >>218
今の方がクマ軍団はやたら強いよ。島津なんかよりクマ軍団と大友の方が強いし相良や伊東なんかも東北か関東にいたら暴れん坊になれるぐらい強い 熊さんは出家してたから
恐らくとんだ生臭坊主だったろうな
次があれば熊さん義元義昭の坊主グラも
追加して欲しい >>216
ローマ字読みだとMOは「も」になるけど、英語読みだと「も」の場合と「もう」の場合があるからそれだけでもりだと言うのはどうかと 毛利が森の変名ってのは尾張の毛利氏じゃなかったっけ
元就の系列でもり説ってあったっけ >>221
隆信は、曲がりなりにも幼少の頃寺にいた時期があったから、一門衆がキリスト教に入信しようとしたのを止めさせた事がある。
肥は何か九州の大名だからと言って、キリスト教に寛容みたいな扱いにされてるけど。 豊前に入って毛利に改姓したんだから家に繋がりがなくても本家と読みが違うことは無いでしょう。どちらも元々もりと読むか、改姓の際に読みももうりに変えたかどちらか >>225
家信に関することだと遺書なんかはイベントや言行録に加えるプラス死後の混乱を抑えたことから政治評価されて欲しいなあって モリモトナリ、だとなんか違和感ありまくりだなw
やはりモウリと読みたいわ。 この字はもうりの方がかっこいいよね
でもやっぱもりだったから公式文書でも間違いがあったらしいよ
だから区別できるように後で改めた説 毛利庄(もりのしょう)の出だから「もり」じゃねーか、って話みたいね
中世の読みは「もり」って書いてるとこもあるから
元就くらいまでは「もり」だったんかもね
変わるきっかけとしたら、やっぱ輝元期(豊臣政権下)くらいからなのかなぁ 猿「もり?(可成、長可らの森と)紛らわしゅうてかんわ
今日からおみゃーはもうりじゃ」
輝「」 毛利氏ならフロイスが絶対どっかで触れてるはずだよなそれが決めてだな ただ普通に「もうりのしょう」で表記してる文献も多いぞ
実際、厚木に存在した南毛利村の読みはなんもうりだし
ウソペディアかもよ? >>234
南毛利村は明治期の新設だからなぁ
地元民だけど、秦野1つ取ってもはだの読みの村とはたの読みの村があったり、割と曖昧だったりする さすがに「もうり」で決まりでしょ。
輝元以降の代で「もり」から「もうり」に変える大事件を文書に遺さないわけがない
元就公になんて言い訳したらいいのさ…また隆景に殴られるよ…
元就の代に変えるのもまずないはず、尼子や大内が何らかの記録を残すでしょ
あと、森氏の件だが森高政と森勝信でエピソードが違うんだよね
森高政は秀吉に仕えて中国大返しの時に毛利の人質に、その縁で毛利と仲良くなって“読みが同じ”毛利氏に
森勝信は九州平定で功を上げて「じゃあお前も今日から毛利な」って秀吉から毛利の名前貰った
もし、輝元の代に「もり」から「もうり」に変えたら毛利高政に失礼なことになる
毛利高政の一族もあとから「もうり」に変えたことになる不自然さ
毛利が「もり」説は高政の一件だけがソースなんだよ
「もりのしょう」が事実だと仮定していつ「もうりしょう」になったかがポイント
1、毛利氏の祖、季光の代にはすでに「もうり」だった
2、吉田荘に下向する時親から「もうり」になった
3、安芸国にいるうちに「もうり」になった
やっぱ1じゃないかな? 読みが変わる時ってどんな感じなんだろう?
徐々に訛って変わったのか、それともある時を境にスパッと切り替わったのか >>236
PKが出るまでは糞ゲーって言ってるようなものじゃないか 徐々に訛って変わるのは勢力が弱いときだけでしょ
一門上げての改名なんて一大事は大きなニュースになるよ
逆に格の低い一門や遠縁の一門が森氏になってるはず
徳川における松平、織田における津川みたいにね
毛利季光以降を「もり」とする資料が皆無な時点で察してください モリモトナリはださいのでモウリモトナリであって欲しい 因みに大河ドラマ化されたとき、ウチのオカンが毛利元就をケリゲンシュウと読んだのは内緒🤫 山内 一豊(やまうち かつとよ)が未だに違和感だわ >>243
功名が辻が大河化した際に、
子孫がドラマ上での読みに関してはどちらでもいいってGOサイン出したんだよな確か 読み方がわかんない
浅井 アサイ?アザイ?
三木 ミキ?ミツキ?
長慶 ナガヨシ?チョウケイ?
信雄 ノブカツ?ノブオ?
一益 イチマス?カズマス?
こんなとこか >>246
あざい
みつぎ
ながよし(ちょうけいは有職読み)
のぶかつ
かずます
だと思う 長宗我部も当時の書状では「ちょうすかめ」という感じなんだっけ >>246
「あさい」だったけどドラマで「あざい」って言うようになってそれが定着した(それも割と最近)ってなんかで読んだな 10位前後に居た光秀が秀吉と総合値がが同じになってんだけど…
下準備含めて山崎の戦いは秀吉のが圧勝だと思うんだが、光栄の中ではどちらが勝つか分からなかった的な展開なわけ? >>251
山崎の戦いは兵数差が大きいから、あまり参考にはしていないんじゃないか?
織田家内の役割に寄るところが大きいかと >>250
せやな(^_^;)
えーでは、三好三人衆にもっと光を! 三人衆が実績ないならそいつらにやられた松永はどうなんねん 浅井は亮政、久政まで位牌に「あさい」とルビが振られてるのに長政は「あざい」になってる
伊達は藤次郎政宗の頃は「いだて」で
石田三成は家臣への偏諱から「いしだかずしげ」である可能性が指摘されてる
香坂昌信は「まさのぶ」じゃなく雅号で「しょうしん」、真田幸綱も幸隆は雅号で「こうりゅう」説がある
織田は少なくとも江戸前期までは「おた」と読んでた
滝川一益は子孫が代々「一」を通字にして「いち」と呼びならわしてきた
母里太兵衛友信は黒田家では「ぼり」と読んで、一時「毛利」に改姓した時に「もり」と呼ばれた
このことからも毛利勝永ら織田系毛利氏は「もり」と読み、その由来となった安芸毛利家も「もり」と読まれる
上井覚兼は覚兼日記から「かくけん」と呼ばれることが多いけど伊達成実の著した「成実記」が「せいじつき」、源義経の「義経記」が「ぎけいき」と読むように、覚兼は入道名や雅号じゃなく一族が「覚」を通字としてるので「さとかね」
ついでに厩橋は現・前橋だけど中世は「まやばし」と読んでいて江戸時代に入ってから前橋と改められた
元来は「むまやばし、うまやばし」だったと思われる
ぱっと思い出したのはこれくらいかな >>256
三好三人衆は正直三好家を凋落させて、織田信長の畿内攻略のお膳立てをしたイメージしかない 浅井の「あざい」はダウトだと思うよ
日本語では浅を「あざ」と読むことはないという見解をどこかで見たことがある
なんかの当て字だったのでは? >>257
君の理屈でいけば信長は「しんちょう」になるね
あほくさ てか、三好三人衆と揉めてた爆弾正さんも、能力値的にはチト過大気味なのかな?
まあ、義理の数値だけは毎回妥当だがw どこをどう読んだらそうなるの…
上井覚兼のとこからの意見だと思うけど
「かくけん」と読むのは三好長慶を「ちょうけい」と読む有職読みであって本来の読み方ではないって書いてるの
でも書物名になると有職読みになるから信長記も信長公記も「しんちょう」って読むけど信長当人は「のぶなが」だよ
「延永」の当て字されてる書状もある
三好三人衆の岩成友通は出自不明で松永久秀と同じく上方で登用されてどちらかと言うと政治的な職務に就いてる
史料の初見が茶会だったり京の政務を取り仕切っていたところを見ると教養や政治力があって三好家中の出頭人としてなかなかの実力のはずなんだけどなぁ
軍事活動が見られるのは永禄年間からで江口の戦いの激戦に身を投じた三人衆残り二人の三好長逸(ながやす)、三好宗渭(政勝)と比べると軍歴は劣る
三好宗渭は政康と伝わってたけど本名は政勝で三好政勝として伝わってた人物は三好為三とかいうまだまだ研究が進んでないのが畿内史の実情
長慶が三好再興のために奮戦してた頃は三人衆の内では長逸しかいなくて政治外交軍事どれにも重鎮として参与貢献してる
個人的には政治と合戦能力は70超える実績はあると思ってる 義栄将軍擁立は三好本家に対する反逆か
義継幽閉、篠原殺害、松永離反とボロボロで
松永久秀は東大寺で篠原同様討たれる可能性もあったし >>259
それは松永久秀も変わらないだろ
三好家は長慶のカリスマでまとまってたから長慶がアボンしたらもう駄目なんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています