TOMBOY 復活!!おめでとう!!!!
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あのファンタジーボードゲームの鬼才
プレイステーション トムボーイ が装い新たに帰ってきた!
なんかメイドカフェとかに手を伸ばしているようだが、そんなの全然関係ないぜ!
・プリンセスクエスト
・ドラゴンパニック
・列強の興亡
・HPラブクラフト
クトゥルフホラー
http://ps-tomboy.com/home.html >>1
ウェブサイトみたんだが
なにこのギャルゲーと思った
ボードゲームの記事はどこにあるん?
メイドカフェの宣伝と漫画・アニメの宣伝にしか見えんのですけど >>1は立て逃げか?
ボードゲームの情報はどこにあるんだ? いや、だが、だからどうした、>>1よ、お前は何が言いたいんだと言いたいが >>1
どのカードゲームもやったことないんだけど、そんなに良かったのか? 規制解けたか。
>>3
もっとちゃんと読んでみてくれ
メイドカフェの宣伝にだまされるなw
>>4
WORKのタブから「過去制作」だな。
>>1に挙げたタイトルがそこにある。
>>6
知らないなら、とりあえず知ってもらえるだけでいいぜ
ちなみに、↓ここに有名な人の「プリンセスクエスト」のレビュー記事もあり。
http://moon.livedoor.biz/archives/12235121.html
列強の興亡はもう一度販売しませんか?とても購入したいです。情報あったらメールください >>1
指定されたサイトが見つかりませんだってよ
詐欺サイトだったんじゃねえのか? 無主物の責任:7
先生2人 話は正反対
福島市飯野町は、福島第一原発から約50キロのところにある。
11月13日、町の学習センターで、福島市社会福祉協議会飯野協議会が主催する講演会が開かれた。約90人の住民が集まった。
「平常時の25倍の放射線の中でどう生活すればいいか。異なる見方の2人の先生の話を参考にしてください」。
会長の古関善一郎(73)のあいさつで講演会は始まった。飯野町は空間線量が毎時1マイクロシーベルトを上回るレベルで推移している。
招かれたのは、兵庫医科大学講師の振津(ふりつ)かつみ(52)と、東北大学大学院教授の石井慶造(63)の2人。
振津は、被爆医師の肥田舜太郎(94)と同じように、大阪で原爆被爆者の健康管理に携わってきた医師だ。
振津は、避難しないで福島に残っている人にどう話したらいいか悩んだが、率直に話すことにした。
「みなさんは放射線管理区域の基準を上回るところに住んでいます。この現実から出発しないといけません」
日本の法律は、3カ月で1.3ミリシーベルトを超えるところを放射線管理区域として、一般の場所とは違う取り扱いを定めている。振津の話はこの現実を踏まえたものだ。
「被曝(ひばく)すれば病気になるリスクが高まる。食べ物からの被曝を減らさないといけない。リスクがあることを認め、万全の態勢で臨まないといけません」
続いて石井が立った。福島市の放射能対策アドバイザーを務めている。
話は振津とは対照的だった。
石井は、県の測定結果などを示しながら「水道水も野菜も果物も、放射線量はほとんどゼロ。
だから、内部被曝なんてものはないのです」。
自身の研究では、セシウムが土壌中の粘土に吸着されたことから、「粘土が福島を救った」という。
そして、低線量の放射線はむしろ体に良いのだというデータを示し、
「内部被曝も外部被曝も大丈夫だよということを、もっと広めて風評被害をなくし、東北に人が来るようにする必要があります」と結んだ。
司会が「質問は2人まで受け付けます」と呼びかけた。
しかし、振津の話にも石井の話にも質問は出ない。
住民は2人の話をじっと聞いているだけだった。
「不安と安心が入り乱れていると思いますが、それぞれの頭で考えて放射線対策をしてください」。
古関がそうあいさつし、3時間に及ぶ講演会は終わった。(前田基行) 無主物の責任:8
私たちには全部実害
福島市飯野町で開かれた原発事故講演会。
出席した住民の中に、松崎三枝子(62)がいた。
会場の近くの自宅で、夫と2人で暮らしている。
いったい自分たちはこれからどうなるのか。
このまま、ここに住んでいて大丈夫なのか。
専門家の話が聞けるので参考になると思い、講演会に出かけた。
しかし話を聞いても、結局どうしたらいいのか分からなかった。
2人の研究者の意見は正反対で、専門的なことが分からない自分には判断がつかない。
「結局これまでと同じように、自分で気をつけていくしかないと思いました」
松崎は、近くのスーパーで買い物をするとき、なるべく県外産を買う。
片道2時間かけて、食料品を新潟県まで買いに行くこともある。
トマトは地元産が2個で148円、北海道産は2個で398円だが、北海道産を買う。
「だって、心配しながら食べたっておいしくないじゃないですか」
自宅の庭は土だったが、150万円かけて全部コンクリートを打った。
放射線の測定器で地表を測ると、土のときは1.7マイクロシーベルトだったのが、
コンクリートにした後は0.4マイクロシーベルトに下がった。
「東京電力や国など補償をする側の人たちは風評被害といいたいのでしょうけど、
私たちにとっては全部実害ですよ。だって自分で測って数値が分かっていますから」 農家の人も風評という言葉を使う。
「それは国や東電がきちんと補償してくれないからです」
原発から離れた飯野地区は、避難対象からは外れている。
「避難できる経済的な余裕があるなら私はすぐにも避難したい。
それがないからここにいるしかない。
今日も明確な答えは見つかりませんでしたが、最後は自分で決断します」
講演会を主催した福島市社会福祉協議会飯野協議会の会長、古関善一郎(73)はいう。
「私たちはそう簡単にふるさとを捨てられないのです。
それまでは心配しながら生活するしかありません。
病気も全員がなるわけでないでしょうし。
病気が出たら補償してもらうしかない。
私たちはモルモットなんですから」
古関自身、米は地元では買わず、80キロの道のりの会津若松市まで買いに行く。
家では19歳と16歳の孫が一緒に暮らしている。
「米は毎日のもの。孫に食べさせるわけにいきません」 無主物の責任:9
我が子の鼻血、なぜ
福島から遠く離れた東京でも、お母さんたちは判断材料がなく、迷いに迷っている。
たとえば東京都町田市の主婦、有馬理恵(39)のケース。
6歳になる男の子が原発事故後、様子がおかしい。4カ月の間に鼻血が10回以上出た。30分近くも止まらず、シーツが真っ赤になった。
近くの医師は「ただの鼻血です」と薬をくれた。
しかし鼻血はまた続く。鼻の奥に茶色のうみがたまり、中耳炎が2カ月半続いた。
医師に「放射能の影響ではないのか」と聞いてみたが、はっきり否定された。
しかし、子どもにこんなことが起きるのは初めてのことだ。気持ちはすっきりしなかった。
心配になって7月、知人から聞いてさいたま市の医師の肥田舜太郎(94)に電話した。
肥田とは、JR北浦和駅近くの喫茶店で会った。
「お母さん、落ち着いて」
席に着くと、まずそういわれた。肥田は、広島原爆でも同じような症状が起きていたことを話した。
放射能の影響があったのなら、これからは放射能の対策をとればいい。有馬はそう考え、やっと落ち着いた。
周囲の母親たちに聞くと、同じように悩んでいた。
そこで、10月20日、地元の町田市に、子どもたちの異変を調べてほしいと要望した。
しかし市からは、「市では今はできないので、お母さんたちが自分でやってください」といわれたと有馬はいう。
いても立ってもいられず、その夜、母親仲間にメールを送った。
「原発事故後、子どもたちの体調に明らかな変化はありませんか」
すると5時間後、有馬のもとに43の事例が届いた。
いずれも、鼻血や下痢、口内炎などを訴えていた。
こうした症状が原発事故と関係があるかどうかは不明だ。
かつて肥田と共訳で低線量被曝(ひばく)の本を出した
福島市の医師、斎藤紀(おさむ)は、子どもらの異変を「心理的な要因が大きいのではないか」とみる。
それでも有馬は心配なのだ。
首都圏で内部被曝というのは心配しすぎではないかという声もある。
しかし、母親たちの不安感は相当に深刻だ。
たとえば埼玉県東松山市のある母親グループのメンバーは、各自がそれぞれ線量計を持ち歩いている。 無主物の責任:10
自力で測ってみると
広島で被爆した医師、肥田舜太郎(94)は10月22日、埼玉県東松山市で講演し、
自身の経験を引きながら内部被曝(ひばく)について語った。
その会場に、東松山市の主婦、江頭有希(えがしら・ゆき=44)がいた。
原発事故後、4歳の息子のおねしょがやまなくなっていた。
国は「大丈夫」というが、自分が住む地域はどうなっているのか。
顔なじみの母親らと放射線の測定を始めた。
1人が子どもの尿を検査機関に持ち込んだ。
セシウム137が1キロあたり0.24ベクレル検出されたので、食べ物に気をつけ始めた。
別の母親は8千円の検査費を自腹で払い、小学校の敷地の土を調べてもらった。
1キロあたり1410ベクレルが出た。
国の規則では、原子炉施設から出るごみ1キロあたり放射性セシウムが100ベクレルを超えると
それは放射性廃棄物だ。その14倍を超えていた。
江頭たちは、東松山市に要望書を出した。署名は計3千集まった。
一、給食で使う食材の産地を公開し、放射線量を測定してほしい。
一、きめ細かい放射性物質の計測をしてほしい。 しかし話は進まなかった。
市は学校の放射線を測定する場合、校庭の1カ所のみを測っていた。
江頭は、子どもたちが過ごす校舎の中も測ってほしいと要望した。
市によると、校舎の放射線の数値は校庭の測定値に0.4をかけて算出していて、実測していない。
「校舎の中も測ればいいじゃない。
計算上の数値ではなくて、実際の数値を知りたい」。
しかし市は、現在も校舎の中は測っていない。
江頭は議会にも働きかけた。
議員に会うのは初めてだったが、放射能が心配だと伝えた。
12月議会には請願書も出した。
市も最近、ホットスポットの調査を始めるなど、江頭たちの要望を一部では受け入れ始めた。
それでも、母親たちの危機感から離れている。
仲間の母親(38)が、小学校で教材にドングリを使うというので心配になり、市に電話をした。
「口にドングリを入れるわけじゃないですから、といわれました。福島だって人が住んでいるじゃないですか、と」
だが、その福島では人々の感情の行き違いが目立つようになっている。 無主物の責任:11
おおっぴらにいえない
「町を出る人はこっそり出ていきます、誰にもいわずに」
福島市飯野町の松崎三枝子(62)はそういった。
松崎の親戚が7月、被曝(ひばく)を避けて山形に避難したときも、周囲にいわず、こそっと避難していった。
小学校では子どもたちが、お別れ会もないまま、ある日突然いなくなる。
「私たちは避難します」とおおっぴらにはいえない。そんな空気が周りにあるという。
「裏切った、逃げ出したみたいにいわれるからです。非国民、みたいな目で見られると感じます」
同じ福島市内に住む斎藤道子(47)は原発の事故後、県外の知人から避難するよう勧められた。
しかし、中3と高2の息子は「絶対に避難しない」といった。友だち関係があってのことらしかった。
最近は放射能のことを話題にしないようにしている。
「放射能が心配だ」といおうものなら、「県や市が大丈夫だといっているのにあんたは何だといわれる雰囲気だ」という。
斎藤は子どもの部活動もあり、今すぐの避難は考えてはいない。
しかし、本当に危ないなら避難したい。その気持ちにブレーキがかかる。
「県や市は大丈夫だというし……。結局、動けなくなってしまうのです」
11月16日、福島市内の米から基準値超の放射性セシウムが検出された。
福島市の放射能対策アドバイザーで東北大大学院教授、石井慶造が、飯野町で開かれた講演会で「福島市では内部被曝はない」と語ったが、
そのわずか3日後のことだ。福島県知事はその1カ月前、10月にすでに安全宣言を出している。
「いったい何を信じていいのか」
その講演会に出ていた松崎は途方に暮れる。自分の身は自分で守るしかない。
だから、なるべく内部被曝しないように、県内産の食材を控えている。
「命は二つありませんから」
さいたま市の医師の肥田舜太郎(94)はいう。
「政府が被害を小さく見せようとし、事実をきちんといわないから、住民の間で反目が生まれるのです。
そして住民の対立は、政府や東電にとっては都合のよいことなのです」
放射線は見えず、においもない。被害はまだはっきりと分からない。
「被害が出てくるのはこれからです。
66年前の原爆で、被害者がいまだに国を相手に裁判を起こしている。
これが事実です」 無主物の責任:12
福島の子たちが心配
被爆者以上に、病気との因果関係を証明するのが難しいのが被爆2世だ。
国は「遺伝的な影響が解明されていない」と、希望者に年1回の健康診断をしているだけだ。
広島市の佐上順子(さがみ・じゅんこ)(63)は被爆2世だ。
父が爆心地から2キロ以内で被爆し、その3年後に生まれた。
小さいころから体が弱く、貧血でよく倒れた。頭痛もひどかった。
目にものもらいがよくできた。
おなかの調子は悪く、においのきついものは食べられなかった。
2年前に人間ドックを受けたとき、胃に奇形があることが初めて分かった。
X線で見ると、胃はヒョウタンのような形をしていた。医者は「小さいときはもっとひどかったはずですよ」といった。
貧血や胃の奇形が原爆と関係があるかどうかは分からない。
佐上自身、気にはかかるが、努めて「自分はおなかの調子が悪い人」と思うようにしてきた。
しかし7年前に亡くなった父は、「順子の症状は原爆のせいだと思う」と家族に語っていたという。
だから佐上は福島の子どもたちのことが心配だ。
政府は内部被曝(ひばく)の実態をしっかり調べてほしいと願う。
「子どもが私のようになってほしくない。親が子どものことを心配するのはもっと大変です」
しかし、鼻血や下痢を原発事故に結び付けて考えるのは「非科学的」といわれる状況だ。
政府の「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」では議論が続いている。
研究者が11月から話し合いを始め、年内に報告書をまとめる予定だが、
日本弁護士連合会は11月25日、そんなワーキンググループの即時中止を求める声明を出した。
低線量被曝の健康影響に否定的な見解の研究者が多すぎる、というのだ。
京都の弁護士、尾藤廣喜(びとう・ひろき)(64)は「いったい何を土台に議論しているのか」と首をひねる。
尾藤は厚生省のキャリア官僚だった。
水俣病では、国が原因企業であるチッソを擁護し、患者を切り崩した。
それに失望して弁護士に転身した経歴を持つ。
肥田舜太郎(94)が証言した7年前の大阪地裁の裁判で、被爆者側の弁護士だった。
「まずは被害の実態を把握しなければ始まらないでしょう。
加害者側や行政側に被害の線引きを絶対にさせてはいけない。
水俣病や薬害、原爆症の再現になる」 無主物の責任:13
自分で守るしかない
広島で被爆した医師、肥田舜太郎(94)は11月7日、大阪へ講演に行く途中で転び、胸の骨にひびが入った。
しかし「内部被曝(ひばく)を話せるのは、被爆者を見続けた自分以外いない」。
入院もせず、各地を飛び回っている。
肥田は、今回の原発事故で日本の国土の多くが汚染されてしまったとみる。
それに対して政府は何ら有効な手を打っていない。
「66年前の原爆の放射線の影響を、政府はきちんと調べてこなかった。だから何も知らないのです」
肥田は講演ではそれを踏まえて語る。
「内部被曝はもうゼロにはできない。あとは自分で健康を守る努力をすることだ。僕たちはそうやって放射線に勝ってきた」
たばこをやめ、早寝早起きし、ご飯をよくかむ――。
そんな例を挙げながら、心構えを説く。
子どもが鼻血を出した東京都町田市の有馬理恵(39)はそんな肥田の話に、救われた気持ちになる。
「うちの子も内部被曝したんだ、けれどそれは対処できるんだ、と」
有馬は原発事故後、行政のいうことが信じられなくなった。
被災地のがれきの受け入れもそうだ。
環境省は1キロあたり8千ベクレル以下の焼却灰ならそのまま埋め立てしてもいいと決めた。
しかし原子炉施設からのごみは、放射性セシウムであれば同100ベクレル超は放射性廃棄物になり、特別な処分が必要だ。
環境省が認めたのは、その80倍もの濃度である。
有馬たちは東京都や町田市に見直しを求めている。
事故直後、当時官房長官だった枝野幸男は「ただちに人体には影響はありません」と繰り返した。
11月8日、衆議院予算委員会の質疑で、経済産業大臣となった枝野がその言葉について釈明をした。
「39回の記者会見のうち、そういったのは7回で、うち5回は食べ物、飲み物の話です」
「一般論でいったのではなく、一度か二度摂取してもただちに問題とはならないと申し上げたのです」
有馬はネットの動画サイトでこの答弁を聞いて耳を疑った。
「食べ物の話なんかじゃなかった。まったく違う」
政府は事実を過小評価する一方で「安全」を強調している。
有馬はそう考える。
それが国民の疑心と分断をつくりだしているのだ。
「まわりからなんといわれようと、自己防衛するしかないと思います」
無主物の責任:14
被曝から目そらすな
原発事故からまもなく9カ月。
浪江町から避難した菅野(かんの)みずえ(59)は、
福島市に隣接する桑折町(こおりまち)の仮設住宅で暮らしている。
雪の季節を迎え、福島はめっきり寒くなった。
鉄骨づくりの仮設住宅は結露がひどく、すきま風が遠慮なく入ってくる。
原発から飛散した放射性物質は「無主物」である――。
東京電力は、福島のゴルフ場が除染を求めた仮処分申請の答弁書でこう述べた。
みずえは無主物の話を聞くと、しばらく黙りこんだ。
「誰のせいでこうなったんですか。あなたたちのせいなんですよ、といってやりたい」
みずえも長男の純一(27)も、自分がどれだけ内部被曝(ひばく)したのか分かっていない。
だから余計心配だ。
「将来、私たちの体に何かあったとしても、このまま被曝はなかったことにされるのでしょうか」
ゴルフ場の仮処分事件では、東京地裁が一つの判断を示している。
それは、文部科学省が決めた校庭利用の暫定基準値「毎時3.8マイクロシーベルト」についてのものだ。
福島政幸裁判長は「ゴルフ場はそれを下回っており、
子どもでも屋外で活動しているのだから、営業に支障はない」と述べた。
3.8マイクロシーベルトは年間だと33ミリシーベルトになる。
私たちがこれまで経験したことのない環境だ。
スーパーのイオンは11月8日、放射性物質が検出された食品は原則売らないと発表した。
消費者から6千件の要望があったからだ。
食品に対する国の暫定基準値がいかに信用されていないかを示している。
7年前の大阪地裁。広島で被爆した医師の肥田舜太郎(ひだ・しゅんたろう、94)は4時間の証言をこんな言葉で結んだ。
「人類がこれからどうするのか議論をするときは、被爆者を大事にし、自分の理解を深める努力をすることが一番大事です。
裁判官の皆さんも、いいか悪いかを裁くという狭い視野ではなく、大きな立場から、被爆者を見て判断願いたい」
その思いはいまも変わらない。
「原爆では、米国が内部被曝をなかったことにしました。福島が同じ軌道をたどることは絶対にあってはならないのです」
◇
明日から第5シリーズ「学長の逮捕」 学長の逮捕:1
エリート医師が突然
ベラルーシ共和国第2の都市、ゴメリ。人口約50万人。
1999年夏、その町で事件が起きた。
ゴメリ医科大学の学長、ユーリー・バンダジェフスキー(54)が突然逮捕されたのだ。
学生から賄賂を受け取った疑いと伝えられるが真相はわからない。
バンダジェフスキーは90年にゴメリ医大を創設したエリート医師だ。
その逮捕は国際的に波紋を広げた。
86年、チェルノブイリで原発事故が起きた。
原発の北にあるベラルーシには大量の放射能がまき散らされた。
バンダジェフスキーは事故後、死亡した人を解剖して臓器ごとにセシウム137の量を調べた。
その結果、大人と子供、男性と女性で、臓器ごとに量が違うことを突き止めた。
たとえば97年に死亡した人の平均では、子供の心臓には、体重1キロあたりで大人の約4倍のセシウム137が集まっていた。
放射線医学総合研究所の元主任研究官、崎山比早子〈さきやま・ひさこ〉(72)は
「彼の論文にはさまざまな批判がある。
しかし、人の内臓にどのくらいの放射能があるか、解剖して実際に確かめたのは彼しかいない」と評価する。
ベラルーシ当局は、放射線による健康被害は大量の被曝(ひばく)の場合しか認めていない。
少量の被曝も影響すると主張するバンダジェフスキーは、政府にとって目障りな存在だ。
国際人権団体アムネスティ・インターナショナルは、
彼が政府の被災者への対応を公然と批判したためにでっちあげられた事件だとし、救援活動に乗り出した。
しかしバンダジェフスキーは01年、禁錮8年の判決を受け、服役した。
05年に釈放される。
そして09年、ウクライナのキエフ市に移って研究を再開したのである。
キエフ市郊外に、チェルノブイリで被災した子供たちの保養施設が集まる地区がある。
施設は現在は機能しておらず、周囲には廃虚のような建物も多い。
敷地に入ると野犬が集まってくる。バンダジェフスキーとはそこで会った。
「日本の子供がセシウム137で体重1キロあたり20〜30ベクレルの内部被曝をしていると伝えられましたが、この事態は大変に深刻です。
特に子供の体に入ったセシウムは、心臓に凝縮されて心筋や血管の障害につながるためです」 (松浦新)
学長の逮捕:2
研究やめるわけには
チェルノブイリ被災者の研究を続けるゴメリ医科大学の元学長、バンダジェフスキー(54)は警告する。
「1キロ当たり20〜30ベクレルの放射能は、体外にあれば大きな危険はありません。
それが内部被曝(ひばく)で深刻なのは、全身の平均値だからです。
心筋細胞はほとんど分裂しないため放射能が蓄積しやすい。
子供の心臓は全身平均の10倍以上ということもあるのです」
実際はどうか。
チェルノブイリ原発から約3キロのプリピャチ市から、130キロほど離れたキエフ市郊外に移住した人たちに聞いた。
1986年4月26日。その日は土曜日で暑い日だった。
未明にチェルノブイリ原発が爆発していたが、住民には何も知らされなかった。
いつも通りの週末。
結婚式や運動会が予定通り行われ、窓を開けて掃除をする人、家庭菜園の手入れをする人がいた。
27日昼になって、やっと避難が指示された。
移住者代表のタマラ・クラシツカヤ(55)はいう。
「脳卒中や心筋梗塞(こうそく)で亡くなる人が多い。
子供も大人も免疫系が弱っていて、いろんな病気にかかりやすい。
子供たちはみんな病気があって、孫の世代でも体が弱い。遺伝の影響があるのだろうと思います」
移住者の一人、ターニャ(59)の夫は心筋梗塞で死亡した。
「健康で長生きの家系なのに、事故後はぜんそくや心臓病を抱えた
。原発事故との関係を認定してもらおうとしたのですが、無理でした」
3年間事故処理作業をしたゲンナージイ(48)は30歳で糖尿病になった。
高血圧で甲状腺に腫瘤(しゅりゅう)がある。
「夜になると足が痛くなる。ストロンチウムが骨に沈着したためと思います」
リュドミーラ(62)の夫は糖尿病がもとで死亡した。
「夫の両親にも祖父母にも糖尿病はなかった。母は、今も私よりずっと健康です。
当時12歳だった息子は自律神経失調と心臓病があって、私より体が悪いです」
バンダジェフスキーは、汚染地域で子供たちに病気が増えていることに関心を持って研究を始めた。
「被曝の影響は、胎児や小さい子供に大きく出る。
遺伝の影響で次世代に現れる可能性もあります」
こうした警告がベラルーシでの逮捕につながった可能性がある。
しかし「住民にいろいろな危険があることが分かっている以上、研究はやめられません」。 学長の逮捕:3
体から放射能を抜く
茨城県日立市に「チェルノブイリの子供を救おう会」という団体がある。
原発事故の汚染地域に住むベラルーシの子どもを呼び寄せ、「放射能抜き」をする活動だ。
茨城大名誉教授で工学博士の久保田護(まもる)(87)が1993年から続けている。
体内の放射能は、新たな放射能を摂取しなければ確実に減る。
「救おう会」では、ベラルーシから毎年4〜5人の子どもを招待し、約1カ月、日立市の保養施設で暮らしてもらう。
放射能汚染がない場所で汚染がない食べ物を食べる。
体重1キロ当たり30〜40ベクレルのセシウム137があった子どもたちが、
帰国するころには5ベクレル程度まで減った実績がある。
こうした活動は世界中にある。
今年6月、久保田はベラルーシのゴメリ医科大学元学長のバンダジェフスキー(54)が書いた論文を日本語に訳し、自費出版した。
「人体に入った放射性セシウムの医学的生物学的影響」というタイトルだ。
論文はバンダジェフスキーが禁錮刑判決を受ける前の2000年に出た。
久保田は「以前に翻訳したが、そのままになっていた」。
自費出版のきっかけは、長崎大学教授の山下俊一(現・福島県立医科大学副学長)が
「チェルノブイリ原発事故によるセシウム137の内部被曝(ひばく)で疾患が増えたという事実は確認されていない」と話していると知ったことだった。
救おう会の設立以来、久保田はベラルーシに18回通った。
山下の発言は、久保田が自分の目で見た現実とは違っていた。
「放射能が原因と断定はできないが、知り合いやその家族が若くして亡くなる。
たとえば、かぜをひいて肺炎で亡くなったのが放射能のためとはいえない。
でも、免疫力が落ちたのは放射能のためではないか」
医師としてベラルーシで子どもの甲状腺手術を多数手がけた
長野県松本市長の菅谷昭(すげのや・あきら)(68)は、久保田からこの論文を送られて読んだ。
「ベラルーシにいる時に、心臓血管系の病気が増えていることを不思議に思っていましたが、この論文で納得しました。
解剖した結果ですから、非常に信頼性が高い。
がんもさることながら、今後は福島の子どもたちの心臓が心配です」
新たな放射能を取り込まなければ体内の放射能は減っていく。
一時的に保養に行ったり、食べ物に気をつけたりするなど、多くの方法がベラルーシでは試されている。 学長の逮捕:4
免疫力 異なる見解
ウクライナのジトミール州コロステン市。チェルノブイリ原発に近く、放射能の汚染度がとくに高いとされている。
ここにある検診センターは州内8地区を管轄する。
内部被曝(ひばく)量の検査や甲状腺の超音波診断などで訪れた人たちでごった返していた。
センターは被災者の健康診断のために笹川記念保健協力財団の支援で設立された。
1991年以来で甲状腺がんを129件確認した。多くが96年からの5年間でみつかった。
副所長のオレクサンドル・グーテビッチは、放射能と子どもの甲状腺がんの関係は明確に認めた。
「事故の時、放射性ヨウ素への対策がとれませんでした。事故前は子どもの甲状腺がんの例はなく、成人もごくわずか。
成人の甲状腺がんにはチェルノブイリの影響がないものも含まれるかもしれません」
がん一般では大きな変化はない。
「とくに増えていません。非汚染地区のほうが、汚染地区よりもがん発生率が高いこともある」
しかし免疫力低下について聞くと、歯切れが悪くなった。 「そういう意見も聞いたことはある。
ただ、調査には資金と検査機器が必要です。その予算がない」
事故後の早い段階では、日本の他にカナダやキューバなどの支援があった。
しかし、いま残るのは長崎大学だけ。
甲状腺がん以外に関する調査は優先順位が低いようだ。
センターの管轄内にあるナロジチ地区。
診療所で33年にわたり住民を診続けてきた医師のビクトル・ゴルディエンコ(62)は、免疫系への影響を実感していた。
「確かに、がんがとくに増えているとはいえません。
しかし、免疫系がダメージを受けているのは確実だと思います」
ふつうなら悪化しない病気が悪化しやすい。
子どもの場合、かぜなどの呼吸器疾患が目立つ。
「研究者ではないので理由は分からないが、10年ぐらい前から増えてきているように思います」
受け持つ住民は約1300人。
18歳未満は230人で、小中学生は134人。
若者は出て行くため、高齢化が進む。
ゴルディエンコも老齢年金がもらえる年だが、後継の医師が来ないため診療を続けている。
自身も畑を耕し、ニワトリを飼って暮らす。指は農夫のように太い。
住民を見続けてきた彼の言葉は、検診センターが調べ切れていない部分を埋めていた。
学長の逮捕:5
森のキノコ食べても
「キノコもベリーも食べている。死んだりしないよ。90歳とか86歳の人だっているし」
チェルノブイリ原発の西約60キロのジトミール州ナロジチ地区の村で、
主婦のガーリャ(78)は、森のキノコやベリーを採って食べる昔からの生活を、今も続けている。
放射線量が高いため、旧ソ連時代に移住が義務づけられた地域だ。
ガーリャも一度は避難したが、移住先になじめずに6年前に戻ってきた。
事故から25年、周りには屋根も落ちたような廃屋が多い。
地区の人口は原発事故にともなう移住で大きく減り、約3万人から約1万人に減った。
地区保健所の放射線技師ビラデーミル・ミハイルビッチは嘆く。
「森のキノコの汚染度は許容値の5〜6倍。
イノシシなどの野生動物は原発30キロ圏にも入るからでしょう、8〜9倍です。
食べないように指導しているが、住民は聞き飽きたという顔をするだけなんです」
もっとも、放射線の害ばかりでなく、移住のストレスなどの要因も考えたほうがよい人もいるようだ。
ナロジチ地区の診療所で33年間住民を診続けてきた医師のビクトル・ゴルディエンコ(62)は言う。
「移住した人と残った人を比べると、むしろ、移住した人のほうが早く亡くなる傾向もある。
移住した人だって事故の時すでに被曝(ひばく)しているんです。新しい環境に対応できるかどうかも考えたほうがいい」
しかし統計的に見れば、住民の健康悪化は明白だ。
医薬品などの支援をしている日本のNPO法人「チェルノブイリ救援・中部」(名古屋市)へのナロジチ地区中央病院からの報告によると、
児童の呼吸器系疾患が急増しているという。
人口当たりの発生率は、1988年の11.6%が08年には同60.4%と、約5倍になった。
大人の場合、心臓血管系疾患が最近の10年で急増している。
98年の1.2%が08年には3.0%と、3倍近い。
ベラルーシ当局に逮捕された経験を持つゴメリ医大元学長のバンダジェフスキー(54)はいう。
「放射能の影響には個人差がある。
汚染されたものを食べて何でもない人もいるが、みんなが大丈夫なわけではない。
キノコやベリーを食べて元気な人がいても、それは希望を持てる材料ではないのです」
では、食品の放射能に対する姿勢は、そのウクライナと日本でどう違うのだろうか。
学長の逮捕:6
日本より厳しい基準
ウクライナの食肉市場に併設された保健所の職員の朝は早い。販売される牛、豚、羊は、販売の前に、全頭の放射能検査をするためだ。
その日、キエフ市中心部に近いルクヤニフスカ市場では、42頭分の牛と豚が販売された。
一頭の中からも様々な部位が切り取られ、合計500グラムが検査される。42頭で21キロ分が検査後に処分された。
検体はマリネリ容器と呼ばれる円筒形の器に詰め込まれる。
底に外から内に向けた大きなへこみのある容器だ。
突起型のセンサーに、上から容器の底のへこみをかぶせる。数分すると、放射能の量が算出される。
ウクライナの場合、食肉の規制値は、放射性セシウムで1キロあたり200ベクレルだが、この日は10〜40ベクレルの間に収まり、すべてが「合格」した。
日本は来春に向けて食品の安全基準の見直し作業が進んでいるが、「暫定」の規制値は同500ベクレルだ。
日本の暫定値は水と牛乳・乳製品が同200ベクレルだが、ほかの食品は一律で500ベクレル。
これに対して、ウクライナの飲料水は2ベクレルと厳しく、牛乳も100ベクレルとされる。
食品も、ジャガイモは60ベクレルで野菜類は40ベクレル、パンは20ベクレルというように細かく決まっている。
隣国のベラルーシ共和国も、飲料水は10ベクレル、牛乳は100ベクレル、牛肉は500ベクレルだが
豚・鶏肉は180ベクレル、ジャガイモは80ベクレルで野菜類は100ベクレルなどと決めている。
ベラルーシの民間研究機関であるベルラド放射能安全研究所の副所長、ウラジーミル・バベンコは
「国民の食生活に合わせて変更してきた」と話す。
ウクライナでは、国内にある45の市場の全てに保健所の検査場があり、
大きな市場には野菜、魚、加工食品というように、部門ごとに検査場がある。
同じキエフ市のペチェルスカヤ市場では、ジャガイモを一つ一つ皮をむいて、ミキサーにかけてマリネリ容器に入れていた。
手間がかかるが、正確に測るためには、食べる部分をすきまなく容器に入れる必要があるためだ。
汚染リスクが高い野生のキノコ、ベリー類は全ロットを検査する。
2000年ごろに規制値を超えた牛肉が見つかり、その後、牛、豚、羊は全頭検査が続いている。
野菜や果物などは市場の販売店ごとに検査している。
取材しながら、日本の検査態勢が気になった。
学長の逮捕:7
たった1台で検査
東京都はチェルノブイリ原発事故の1986年から輸入食品の放射能検査を続けてきた。
しかし今年3月の福島原発事故で、それが続けられなくなってしまった。
事故後、国内産のホウレンソウなどから甲状腺がんにつながる放射性ヨウ素が見つかる。
ところが放射性ヨウ素を測れる装置が、輸入食品の検査をしてきた1台だけだった。
ほかにも4台の検査装置があることはある。
しかしそれは86年以来使っている年代もので、セシウム137しか測定できない。
都はすぐに補正予算を組んで新しい測定器4台を発注した。
しかし納入は9月以降で、それまでは輸入食品用の1台で都内の検査需要に対応せざるを得なかった。
国内産の食品の放射能検査は主に都道府県の役割だ。
厚生労働省は3月17日に食品の暫定規制値を定め、都道府県などに食品の検査をするよう求めた。
都は地元産の米、肉、野菜、果実、魚介類などを検査する。
当然、1台では限界があるのでサンプル調査にならざるを得ない。
さらに、都内で食肉処理される福島県など4県産の牛は、全頭検査などが求められた。
そのため、ほかの食品のサンプルの割合は減ることになった。
東北、関東甲信越などの14都県を対象に、国が検査の具体的方法を示したのは6月だった。
それは「問題がない場合」には、
野菜・果実は月単位、牛乳は2週間おき、水産物は週1回などを原則とするものだ。
「問題がない場合」とはどういう意味なのだろう。
厚労省食品安全部の技官、富田耕太郎は
「一般的には1キロ当たり500ベクレルを超えないということです」。
となると、500ベクレルを超えるまでは、
野菜・果物の検査の頻度は変わらないことになる。
「実際に影響が出る値はもっと高い。
しかしその値に設定することはできないので、いまは500ベクレルで線を引いています」
だが、500ベクレルはあくまでも暫定規制値のはずだ。
いま見直し作業をしているのではないか。
「いまの値でも十分に安全性を考慮している。
より安全性を考慮するため、さらに厳しい規制を検討している、ということです」
ゴメリ医大元学長のバンダジェフスキー(54)は警告する。
「遠慮抜きにいわせてもらえば、日本の暫定規制値は大変に危険です」
学長の逮捕:8
輸入品 すり抜けて
東京都は福島原発の事故の後、25年間続けてきた輸入食品の放射能検査ができなくなった。
実は、輸入食品の検査は、本来は国の担当で、検疫所が実施している。
食品が国内に入る時点で、1986年の暫定限度値、1キロ当たり370ベクレルで25年間検査してきた。
これに対して東京都は、独自の事業として、小売店で買った輸入食品を検査してきた。
それによると、09年度は328検体を調べて、フランス産ブルーベリージャムで暫定限度値を超える500ベクレルのセシウム137を検出した。
検疫所のサンプリングから外れたものが店頭に並んだと見ることができる。
さらに、限度値を下回るものの一定の放射能が検出された食品がほかにもあった。
キノコ類4検体から100〜230ベクレル、ブルーベリー加工品3検体から90〜140ベクレルのセシウム137。
国民は、知らずに基準を下回る放射能を体内に取り込んでいる。
基準となる値の考え方について、ベラルーシのベルラド放射能安全研究所副所長、ウラジーミル・バベンコはこう話す。
「ベラルーシは基準を下回る食品に認定証を発行します。
認定証には1キロ当たり何ベクレルだったかが書いてある。
消費者は実際の数値を知ることができます」
当局が白黒をつけてしまわず、消費者に情報を提供することで、市場原理が働く。
これで、放射能濃度が低い食品は売りやすい一方、高い食品は売れにくいことになる。
「生産者はどうしたら売れるかを考えるので、農地の除染などの対策が進むことにつながります」
都の調査によると、フランス、ベルギーなど、
チェルノブイリ原発から1500キロ以上離れた国の食品からも放射能が見つかっている。
放射能の影響は広範囲に及ぶ。
しかし現在の日本では、福島県でさえ、測定器10台を
郡山市の県農業総合センターに置いて検査する態勢ができたのは9月だった。
それにしても、輸入食品の暫定限度値は370ベクレルなのに、
国内食品の暫定規制値はなぜ500ベクレルなのか。
厚生労働省食品安全部はいう。
「輸入食品は欧州の一部の地域が対象で、平常時の基準値です。
それに対し、今回の事故は日本にとって緊急時なので、少し緩める必要がある。
それは国際的にも認められています」 学長の逮捕:9
規制値 食器にまで
「このカップは552ベクレル入っています。こっちは533……」
ウクライナのキエフ市にある国家規格研究所の製品検査の責任者、ウラジーミル・ブイコフスキーは、
棚に並んだコーヒーカップから検出された放射能測定値を読み上げた。
ウクライナでは、食器にも規制値があり、1キロあたり370ベクレルを超えると販売が認められない。
「産地で放射能の核種が変わります。パラジウムだったり、トリウムだったり
チェルノブイリ事故で汚染されたので、なるべく身の回りの放射能を減らしたい」
食器だけではない。
子どものおもちゃや、バーベキューの炭も規制値を超えると販売できない。
建築資材は住宅用が一番厳しく、次はオフィス用、さらにオフィス以外用と、それぞれ基準が決まっている。
ウクライナでは、旧ソ連の崩壊後、放射能に関する規制を緩めた。
ところが、食品の放射能汚染度が高くなり、1990年代後半に国民の内部被曝(ひばく)量が増えてしまった。
そのため、国内の規制をふたたび強化した経緯がある。
今は、その厳しいウクライナの基準を国際基準にする提案もしているという。 「この研究所では、ストロンチウムの計測もしています」
ウクライナ衛生局の食品研究所には、
ストロンチウム90が計測できる装置があった。
測定しやすいガンマ線を出すセシウムに対して、
ストロンチウムが出すベータ線の測定は難しく、
日本では時間がかかるとされる。
ウクライナの測定器は、粉状にした検体をトレーに載せて計測する。
コーヒー豆のミキサーが使われていた。
測定器を開発したアトム・コンプレックス・プルイラド社の社長オレクサンドル・カジミーロフはいう。
「ストロンチウムは、体内に取り込むと骨に沈着する。
危険度が非常に高いため、ウクライナの規制値は厳しく設定されています」
たとえば、肉はセシウム137の場合1キロ200ベクレルだが、
ストロンチウム90は20ベクレル。
ジャガイモはセシウム137の60ベクレルに対して20ベクレルと低い。
日本にはストロンチウムを短時間で測る態勢がない。
そのため規制自体がまだない状態だ。
ゴメリ医大元学長のバンダジェフスキー(54)はいう。
「今後、放射能が土壌に浸透して野菜が吸収しやすくなる。内部被曝の心配はこれからです」
学長の逮捕10
検査 提案したら
11月14日、南相馬市の市立総合病院非常勤医師、坪倉正治(29)に、
副市長の村田崇(たかし)(37)から電子メールが届いた。
激しい非難の文言に、坪倉はびっくりした。
「特別職に対して原因を調べろという趣旨のメールになっていますから、
私に対してはともかく、市長に対しては失礼極まりない……」
坪倉は東大医科学研究所の医師だが、原発事故後、希望して南相馬にやってきた。
福島原発から23キロの地点で、多くの医師が避難し、医師不足に陥っていた。そこで週の半分を勤務する。
坪倉が力を入れているのは市民の内部被曝(ひばく)の検査だ。
検査は7月に始まった。ホールボディーカウンターと呼ばれる装置で体内の放射能量を測定する。
東大理学部教授で物理専攻長の
早野龍五(りゅうご)(59)に相談しながら進めてきた。
早野は学校給食の放射能検査を各地の自治体に提唱している。
南相馬市長にも提案した。
「学校給食を1週間分まとめて検査する、という提案です。
費用はこちらで負担するとも伝えました」
しかし返事が来ない。
早野から話を聞いた坪倉は、市長と副市長あてにメールを送った。
「今後は食べ物の検査態勢の強化が重要と考えております。ご検討いただけますと幸いです」 これに対する返信が、冒頭の激しいメールだった。メールは続く。
「市職員として最低限守るべきことは何なのかを再度見つめなおしていただき、日ごろの業務にあたっていただければと思います」
「ご自身の責任や立場を踏まえられた行動をお願いしたい」――
坪倉の要請にはいっさい触れず、
「職員の立場で特別職に指図するとは何事か」という内容である。
副市長の村田は、総務省から4月に出向してきたキャリア官僚だ。
この件について取材を申し込んだ。
秘書課から「この取材には応じないことになりました」と電話が来た。
直接、南相馬市の秘書課を訪れ、
再び取材を申し入れた。
秘書課長補佐が対応したが、
あくまで市役所内部の行き違いの話でしかないと、話が進まない。
重ねて面会を求めると、
秘書課長が出てきた。
「市立病院をいかに守り、市民のために機能させていくか検討している最中なので、いまは回答できません。
それより、市役所内の話がどうして外部にもれたのか」 学長の逮捕 11
給食を確かめたい
「きょうは実習つきで、そのあと試験をやります。……ウソ、ウソ」
11月末、福島県相馬市役所の会議室で、
東大理学部教授の早野龍五(59)が、市職員を笑わせていた。
早野は南相馬市に学校給食の放射能検査を申し入れ、断られた。
しかし北隣の相馬市は、すぐに全小中学校、15校で検査することを決め、早野の助言を受けることにした。
この日は、相馬市が導入した市民向けの放射能測定器の研修講師として呼ばれた。
講義後、市庁舎1階で測定器の実習をした。
果物や魚、塩などいくつかの食品を測る。
柿から放射性セシウムが検出された。
職員からため息が出る。
コンピューターがグラフを映し出す。
波線がポンとはね上がっている部分がある。
「これは30ベクレルぐらいです。出ると残念だけどね」
早野の提案の特徴は、1週間分の学校給食をまとめて後で検査することで、測りきれない放射能量を減らすことにある。
学校給食はお昼までに作らないとならないので、届いた食材を前もって全部測るのは難しく、抜き取り調査になりがちだ。
抜き取りだと計測漏れが出るので、毎日1膳ずつ冷凍保存し、1週間分をまとめてミキサーにかけ、漏れのないようにする。
検査機器には検出できる放射能量の限界があって、不信の要因になっている。
早野方式はすでに神奈川県海老名市、千葉市などで採用されている。
高性能の機器で時間をかけて測定しており、
実績を見ると、検出限界は放射性セシウムで1キロ当たり1ベクレル程度と、かなり精密に測れている。
10月に採用して8週の検査をした神奈川県横須賀市では、11月第4週に検出限界をわずかに超える値が検出された。
保護者から数件の問い合わせがあったが、簡単な説明で理解を得られているという。
この方式の費用は1週間分で1万5千円。
早野は自分で払うと南相馬市に提案したが、無視された。
南相馬市立総合病院医師の坪倉正治(29)はこの不採用に驚き、市長と副市長にメールを送った。
その結果、副市長の村田崇(37)から厳しく注意されることとなった。
坪倉には知りたいことがある。
南相馬市の子どもたちの体内の放射能量は減る傾向にある。
一方、親たちの中には増えている人もいる。
それはなぜか。食品に関係があるはずだ。
それを知るには、子どもの給食を確かめたい。 学長の逮捕:12
同じ一家、異なる値
福島県南相馬市の市立総合病院医師、坪倉正治(29)は住民の放射能汚染の状況を調べていて、
同じ一家の親と子どもでも、内部被曝(ひばく)の値に差があることに注目した。
「親子で体内のセシウムの量が20倍も違う例もありました。
聞いてみると、親は自宅で採れた野菜や果物を食べていましたが、
子どもの食事には注意をしていました」
坪倉らがこの秋行った調査で、
小中学生527人のうち268人から、セシウム137が見つかった。
中には体重1キロ当たり20ベクレルを超える子が4人いた。
しかし追跡調査で、比較的高かった子どもたちの数値も、多くが半分以下に下がっている。
北隣の相馬市の教育部長、臺内(だいうち)吉重は、その理由をこう見る。
「親は、自分では畑で採れた野菜を食べても、子どもの食事にはスーパーで買った食材を使う。
親子の料理を作り分けている家庭も多い。
家族が子どもの食事に真剣に気を配っています」
相馬市は12月から、市民の自家消費用の野菜や果物の放射能測定を始めた。
検査の初日、キウイから1キロあたり518ベクレルが検出された。
暫定規制値を超えている。
県に持ち込んで精密計測したところ、590ベクレルが検出された。
8日、県は相馬市のキウイを「出荷制限」の扱いにした。
相馬市は測定結果をホームページで公開している。
食材ごとに、市内のどの地区から持ち込まれたものからどれだけの放射能が検出されたかが、一覧表でわかる。
同市農林水産課の課長補佐、伊東博之は、そのねらいを話す。
「私は専門家ではないので、結果の分析について説明するわけにはいきません。
しかし公表された数値から、市民は放射能汚染の傾向をある程度つかむことができます」
これまでの公表結果を見ると、ユズやブルーベリー、ミカンなどの果物から一定量の放射性セシウムが検出されている。
特にキウイの検出頻度が高く、数値も比較的高い。
米からの頻度は今のところ低く、野菜も比較的少量にとどまっている。
しかし、野生の食べ物には注意が必要だ。
干した野生キノコのコウタケからは、3893ベクレルと、高い数値が出た。
相馬市の計測結果ではないが、県内各地で捕れたイノシシからは高い数値が出ており、県は食べないよう求めている。 学長の逮捕 13
自分たちで測るんだ
南相馬市の高橋慶(けい)〈41〉は10月、放射能対策の市民団体「アクティブ&セイフティー(A&S)福島」を設立した。
2009年まで原発技術者として福島など各地の原発で働いた。
福島原発事故で一番驚いたのは、大量の放射能が飛散したのに、
政府も県も「大丈夫、大丈夫」と繰り返していたことだ。
「原発で働いていた時は、液体と粉末を外に持ち出すには必ず放射能の分析をした。
汚染物質を誤って外に出すと報告書を求められた。あの厳しさはいったい何だったのか」
一部が原発の20キロ圏にある南相馬市では、高橋が09年から始めた水産加工の仕事はできなくなった。
6月、NPO法人「チェルノブイリ救援・中部」(名古屋)が、南相馬市の放射能汚染地図を作る活動を始めた。
500メートル四方のブロックごとに市内の放射能を測定する。
名古屋からわざわざ来てくれた人に協力したい、自分で測定して確かめたい。
そんな住民が集まって手伝い始めた。
高橋もその中にいた。その地元住民が設立したのが「A&S」である。
「救援・中部」は90年以来、チェルノブイリ事故のウクライナで被災者を支援してきた。
福島の事故で、今度はウクライナの人たちが募金活動をし、線量計100台を「救援・中部」に贈ってきた。
そのうち50台が11月、A&Sに託され、住民に貸し出された。
「救援・中部」からは食品の測定装置の運営も任された。
高橋は来年から、それを使った測定を始める予定だ。 「市役所も測定を受け付けています。
しかし、すでに出荷停止になった柿やビワなどは測らない。
スーパーの食品も測らない。
私たちは区別せずに測るつもりです」
政府は来年度から放射性セシウムの規制値を1キロ当たりで
水10ベクレル、牛乳50ベクレルに下げる方針だが、水も牛乳も毎日飲むものだ。
心配なので、自分たちの測定値は定期的に公表する考えでいる。
高橋は11月に市立総合病院で、体全体の被曝(ひばく)量を測る「ホールボディーカウンター」の検査を受けた。
体重1キロ当たり約15ベクレルで、大きな値ではなかった。
「でも、事故直後に検査を受けていればずっと高かったはずです」
高橋は事故後、装置を持つ施設を探しては電話し、計測を依頼した。
しかし、すべて断られた。
それはなぜか。 学長の逮捕:14
「逆に不安招くから」:
南相馬市の市民団体「アクティブ&セイフティー福島」代表、高橋慶(けい)(41)は、原発事故後に自分の内部被曝(ひばく)を知りたくて、
ホールボディーカウンター装置を持つ各地の機関に検査を要請した。
しかし、電話したすべての機関に断られた。
全身の放射能量を推計して内部被曝を調べる装置だ。
立ったり座ったり、装置によって計測方法に違いはあるが、国が確認している分で全国に106台ある。
なぜ高橋の要請は断られたのだろう。
茨城県立中央病院は、一般市民の検査を一件もしていない。茨城県保健予防課はこう説明する。
一、福島県が公表した県民約6600人の被曝量が極めて低かった。
一、福島県が内部被曝の検査対象とした地域に比べ、茨城県の空間放射線量は極めて低い。
一、以上をもとに放射線被曝の専門家に聞いた結果、「内部被曝検査などの健康調査は必要ない」という判断となった――。
その専門家は6人という。名前を尋ねたが、県は明かさなかった。
茨城県は11月28日、「放射線の健康影響に関する専門家による意見交換会」を開いた。
その内容について、茨城県知事の橋本昌(66)は、翌29日の記者会見でこう語っている。
「行政が必要と判断したからと住民側が判断し、受けなくてはいけないと思われてしまい、
逆に不安を招いてしまうといったようなご意見もございました」
ホールボディーカウンターで検査すること自体が、住民の不安をあおりかねないという発想なのだ。 佐賀県唐津市の唐津赤十字病院も検査を受け付けていない。
「健康に影響を及ぼすような明らかな内部被曝の可能性があれば、装置を所有する佐賀県と相談して検査も検討する。
しかし不安解消のための検査は受け付けない」
神奈川県相模原市の北里大学病院は回答を拒否した。
「担当部署が多忙なので北里病院としては回答しない」
これに対し、長崎大学病院国際ヒバクシャ医療センターは、10月末までに653人の検査をした。
対象は原則として福島県民。
長崎に避難していたり、検査を希望してやってきたりした人々だ。
福島県民以外でも、医師が必要と認めたり、検査を強く希望したりする人には応じている。
学長の逮捕:15
検査してもらえない
内部被曝(ひばく)を測るホールボディーカウンター。長崎大のほかにも検査を受け付けている機関はあった。
北海道がんセンターは358人を検査した。
対象は福島県から避難してきた人たちだった。
新たな放射能が入らなければ、体内の放射能は減る。
検出が難しくなったことから、9月末で検査をやめた。
新潟県立がんセンター新潟病院。
12月7日までに159人を検査した。
対象は「福島県が選定した者」だけだ。
愛媛県は伊方町民会館で12月、福島県から避難した11人の検査をした。
ほかにも避難してきた人を把握しているが、対象はやはり「福島県の指定」だった。
検査をしていない機関の多くは、「国や県から依頼がない」としている。
調べていくと、石川県のように独自の基準を設定している自治体もあった。
石川県立中央病院は検査をしていない。理由は「検査基準を超える人がいない」だ。「スクリーニング検査」の結果だという。
同県医療対策課によると、それはこのような検査だった。
(1)上着を着た状態で線量計をあてる。
(2)10万cpm(1分間に計測する放射線の数)を超えた場合、上着を取り、ウエットティッシュで体をふいてもう一度測る。
(3)それでも10万cpmを超えた場合、ホールボディーカウンターの対象とする――。 福島県内で避難した人の多くはこうしたスクリーニング検査を受けたが、
福島から石川に避難した人の中には受けていない人もいた。
そうした人たちの要望を受け、3〜4月に保健所などで検査した。
約100人を検査したが、いずれも「基準」に達しなかったという。
上着を脱いでウエットティッシュでふいてなお10万cpmが測定される。
それほど多くの放射能が体についた人でなければ、ホールボディーカウンターにたどり着けないのだ。
しかも食事を通じて体内に入った放射能量は、線量計をあてるだけでは測りようがない。
それに対し、人々の不安に応えようという動きも出てきた。
広島大学緊急被ばく医療推進センターは、19日までに54人を検査した。
いまのところ、福島県民と、国が指定した避難指示区域に立ち入った人が対象だ。
しかし今後は対象を広げる予定という。
不具合を抱えたまま
7月末、南相馬市立総合病院の医師、坪倉正治(29)は、病院駐車場にとめた
バス移動式のホールボディーカウンター(WBC)で、住民の内部被曝(ひばく)の検査をしていた。
しかし、どうも検査結果がおかしい。
体が大きい人の放射能量は低く出て、小さい人は高く出る傾向があるのだ。
この検査機は市長の桜井勝延(かつのぶ、55)が全市民を対象とした内部被曝調査の方針を打ち出したのを受け、
副市長の村田崇(たかし、37)がいち早く動いて鳥取県から借りてきたものだ。
7月11日から検査を始め、1日40人のペースで検査を進めていた。
その検査結果がおかしいのだ。
市立病院は、福島県から別のWBCを借り、8月中で鳥取県の検査機の使用をやめた。
検査結果がおかしいのは分かった。
しかし、これまでの検査データだけは何とか救いたい。
坪倉は機械のメーカーに問い合わせた。
ところが、社長が菓子折りを持って謝りに来ただけで返事がない。
11月に東大理学部教授の早野龍五(59)に相談した。
早野が問い合わせたところ、メーカーはプログラムに間違いがあることを認めた。
WBCは、空中を放射線が飛び交う中で、人の体内にある放射能だけを測る検査機だ。
それをより分けて、放射能の種類ごとに体内に存在する量を推計するようプログラムされている。そのソフトにミスがあったのだ。
メーカー担当者は説明する。
「ソフトにバグがありました。
ほとんど使われていないのでバグはわかりませんでした。
検査データは大丈夫です。メンテナンスも不十分で、部品を交換しました」 WBC検査機は1999年の東海村JCO臨界事故で、各地の自治体や病院が約30台を備え付けた。
1台が数千万円もする高価な機械だ。
部品には消耗品もあり、一定期間で取り換えなければ使えない。
しかしJCO事故以来、一般人がWBCを必要とする放射能事故は起きていない。
そのため、多くの検査機はほとんど使われない状態だった。
少なくとも、このメーカーは全国で10台を納入したが、
部品交換などで呼ばれることは少なかったという。
全国のWBCを持つ機関は動きが鈍い。
しかし、坪倉は内部被曝を正確に測ろうと突き進む。
坪倉のその行動で、WBCが活用されない真相が明るみに出始めた。
学長の逮捕:17
お前ら寝るな休むな
南相馬市立総合病院院長の金沢幸夫(58)は3月13日、X線写真のフィルムが感光していることに気づいた。
院内に原発事故の放射能が入ったのだ。
病院の表玄関を閉めて、窓に目張りをし、換気を止めた。
「これは内部被曝(ひばく)した人がいるだろう、と思いました」
病院は原発から23キロ地点にある。海岸からは3キロ。
震災後、泥まみれの患者が次々に運び込まれ、待合室にマットを敷いて対応した。
福島第一原発3号機が爆発した14日、職員に自己判断で避難するよう伝えた。
入院患者も避難させ、3月20日にはゼロになった。
約7万人の市民は避難で約1万人に減った。
震災前に14人いた常勤医師は4月30日には4人に減った。
5月半ばに救急患者の入院が認められ、少しずつだが病院の機能が戻り始める。
6月に入り、気になっていた内部被曝の検査に向けて動き始めた。
そして6月末、鳥取県が貸与してくれたバス移動式の検査装置、ホールボディーカウンターが届く。
避難者を含む約7万人の内部被曝検査プロジェクトが動き出した。
バス式検査装置は1日40人の検査が限界だった。
そこで、2011年度末までに約7千人の検査をする計画を立てた。
7月6日に受け付けが始まると希望が殺到する。
病院の電話はパンク状態になった。
7月25日には予定を3千人上回る約1万人に達した。 職員は予約の確認に追われた。
放射線量が高い地区の住民から優先的に電話をかけ、日程を決めていく。
「早くしてくれ」と催促する電話がひっきりなしにかかる。
わずかな人数の職員は「対応が遅い」と責められた。
事務職員(53)は、検査が市の健康診断プロジェクトだったことも影響したと見る。
「公的病院の職員なので、行き場のない気持ちをぶつけやすいのでしょう。
事務処理が遅いのはお役所仕事のせい。
お前ら寝るな、休むな、という調子で、こたえました」
9月、市が約5千万円を出した最新式の検査装置が入った。
精度が高く、検査時間も短くなった。
今では1日6時間で110人の検査をしている。
身長体重を測定し、記録を残す担当者も含めて7人がかりだ。
数少ない職員が激務に耐えている。
しかし大きな問題がある。
検査で病院には1円の診療報酬も入ってこないのだ。
学長の逮捕:18
7月にホールボディーカウンターによる内部被曝(ひばく)検査を始めた福島県南相馬市立総合病院。
検査自体は2分で終わる。その説明が大変だ。
「50年とか70年とか、そんな長期の話を聞きに来たんじゃない。これまでの被曝量を知りたいんだ!」
「そういわれても、この検査は現在の体内の放射能量を出すだけなんです。
今までの内部被曝量を正確に出すことはできないのです」
「難しそうなことをいって、都合が悪いことを隠しているのでしょう。ちゃんと教えてよ」
検査結果は郵送で知らせ、説明を希望する人に来院してもらう。
ところが、通知には「預託実効線量」など聞き慣れない言葉が並んでいて理解しにくい。
預託実効線量は推計値でしかない。
検査でわかるのは体内にある放射能量(単位・ベクレル)だ。
そこから一定の仮定に基づいて、大人で50年間、子どもで70歳までという長期にわたる被曝量(単位・シーベルト)を推計する。
放射能汚染に直面している南相馬市民は、外部被曝にどれだけの内部被曝が加わるかに強い関心がある。
そのため、知りたいのは年間被曝量(単位・シーベルト)なので話がかみ合わない。
説明は1人20分で計画されているが、長い人は1時間を超える。
待たされる人も多く、難しい説明に我慢できなくなる人もいる。
事務職員がいう。
「説明を聞きに来て、最初からけんか腰の人もいます。
説明するのが医師でなければ殴りかかりかねない、そんな勢いです」
病院本来の業務も増えてきて説明する医師も疲弊しているが、院長の金沢幸夫(58)の意志は固い。
「調べておけば、何かあった時に役立つ。
万一の時に『調べていない』では、何のために市民がこんなにひどい目にあったのか、わからなくなります」
検査装置がもう1台ほしい。
7万人市民を考えると、検査はまだ始まったばかりだ。
食品からの摂取も心配なので、定期的に調べたい。
その前に立ちはだかるのが、資金の壁だ。
検査は公的医療保険の診療として認められていない。
長時間にわたる説明をしても、病院の収入は増えない。
「公立病院は募金ができません。
誰かが買って、運用を病院に任せてくれないか。
そんな可能性を探っているところです」 学長の逮捕:19
提案を断った福島県
茨城県日立市の「チェルノブイリの子供を救おう会」代表、久保田護(87)は、今年9月にもベラルーシに行った。
体内の放射能を抜くため、ベラルーシの子どもを日本に招待する活動を続けている。
着いた翌日にホールボディーカウンターで自身の内部被曝(ひばく)量を測った。
体重1キロ当たり21ベクレルが検出された。
明らかに日本での内部被曝だ。
同行した同県常陸太田市の教員、畠山弘恵(57)は19ベクレルあった。
もう1人の日立市の事務職、西野和枝(59)は10ベクレルと少ない。
思い当たるのは7〜8月の欧州旅行だ。
久保田はいう。
「汚染のない食物を食べていた間に放射能が抜けたのでしょう」
ホールボディーカウンターは、測定時点で体内にある放射能量を調べる装置だ。
久保田らの測定結果は、食品による内部被曝が広がっていることを示唆している。
ところが、福島県はいまだに食事を通じた内部被曝を認めない。
検査で体内に確認された放射能は、3月12日に福島第一原発1号機が爆発した時に取り込んだものだけとして
健康への影響を計算しているのだ。
放射能は新たに取り込まなければ減っていく。
子どもは新陳代謝が速いので、小学校低学年だと1カ月前後で半分に減る。
いま1キロ当たり10ベクレルの放射能がある子どもがいるとする。食事から新たな放射能をとっていないとすると、
12月に10ベクレルになるには、3月の事故直後に1キロ当たり5千ベクレル超もの放射能を吸い込んだ計算となる。
事故直後、子どもだけが大量の放射能を吸い込んでいたなんてあり得ない。 「福島県のやり方では、当初はともかく、今後は問題があります」
そう懸念するのは日本原子力研究開発機構の福島技術本部部長、飯島隆。
9月末、同機構は放射線医学総合研究所とともに、福島県に推計方法の見直しを提案した。
食事から放射能を取り込むことを認めないと、実態にそぐわないためだ。
しかし福島県は提案を断った。
地域医療課副課長の川島博文はいう。
「食品に対する不信感、不安感をあおる心配があるからです。
内部被曝がわかった人に聞いても、食品からとったとは誰も言わない」
こうした福島県の態度に、ベラルーシを見続けてきた久保田は疑問を募らせている。
「食事による内部被曝は広がっています。
ベラルーシのように気楽に測れる態勢が必要です」
学長の逮捕:20
学校で毎日飲むもの
仙台市教育委員会の健康教育課長、佐藤順は、宮城県が12月7日に公表した原乳の放射能検査の結果を見て驚いた。
宮城県は、県内3カ所で原乳の放射能を測定している。
その濃度が、2カ所で1キロ当たり20ベクレル、21ベクレルと、前週の2倍を超えていたためだ。
県内では10月、大崎市が給食を検査したときに、牛乳で25ベクレルが計測されていた。
仙台市の小学生の母親が、子どもの学校給食で使っている牛乳から放射能が出たと市教委に相談に来たことも聞いた。
何らかの対策がいるな、と佐藤は思った。
仙台の牛乳を測定したのは福島県二本松市のNPO「TEAM二本松」だった。
持ち込んだのは仙台市の自営業、横田美保(51)だ。
その後も同じブランドの1リットル入り牛乳3本から17〜23ベクレルが検出された。
これを含めて、TEAM二本松は22日までに複数メーカーの37本を測定し、11本からセシウムを検出した。
いずれも暫定基準値の1キロ当たり200ベクレルを下回り、来年度から実施予定の50ベクレルよりも低かった。
国が「飲んでも安全」とするレベルだ。
しかし、学校給食は半ば強制的に子どもたちの口に入る。より厳しい基準が要るのではないか、という意見も少なくない。
TEAM二本松理事長の佐々木道範(みちのり、39)もいう。
「給食に出す牛乳の放射能はゼロにしてほしい。たとえ他県から持ってきてでも」
横田は、小学4年生の息子に給食の牛乳を飲むのをやめさせた。いまはお茶を持たせている。 「栄養バランスに優れた牛乳は給食のメニューから外しにくい」と佐藤はいう。
当面の対策として、「放射能を理由にして飲まない子が代金を払わなくてすむ措置ができるかどうか検討しています」。
横田が指摘したメーカーは、関東・東北各県の原乳について、6月から週1回、放射能検査をしてきた。
検出の下限である10ベクレルを超える放射能が検知されることもある。
メーカーに原乳を供給するのは販売農協。
メーカーの担当者は「二本松の検査結果も含め、販売農協に伝えて改善を求めている」と話す。
生産者団体の宮城県酪農農協は11月半ばから動き始めている。
所属の酪農農家全180戸を回り、えさの放射能を測定中だ。
半沢善輝組合長は「放射能ゼロを目指す」という。
自分で測って確かめる消費者の動きが、メーカー、農家、自治体の対応を促している。( 学長の逮捕:21
最新式との差は10倍
福島第一原発の30キロ圏内に市域の多くが入る南相馬市の医師会は4月14日、緊急理事会を開き、解散を決議した。
住民の避難にともなって医師も避難し、事務局の維持ができなくなったためだ。
翌日、長崎市医師会長の野田剛稔(たかとし=67)が現れ、義援金300万円を現金で手渡してくれた。
そのおかげで南相馬市医師会は解散を避けられた。
医師会長の高橋亨平(73)は「涙が出るほどうれしかった」という。
野田は「そこまで厳しいとは知らずに行った」と振り返る。
「災害の時には現金が必要だと思っているので、直接行って手渡しました」
そんな厳しい状況の中、高橋は内部被曝(ひばく)を測るホールボディーカウンターが欲しいと考えていた。
高橋は市内で産婦人科を開業している。
妊婦の不安を考えると、少しでも早く内部被曝の実態を知りたかった。
6月、米国製の最新式が購入できる可能性があると知る。
ところが、現金での取引を求められた。
銀行は融資に応じない。そこで、市に買うよう働きかけた。
市長の桜井勝延(55)に了解を得るものの、役所の手続きに時間がかかった。
市立総合病院に入ったのは9月下旬だった。
そのころ市立病院は、原発20キロ圏内にある研究施設のホールボディーカウンターを借りて使っていた。
最新式との差は歴然だった。
「古い機械でとれるデータは検出限界が高く、漫画みたいなレベルだった」と高橋はいう。
「この国の国民を守る仕組みはいかにいい加減か、それが分かりました」 旧式は能率も低かった。
たとえば福島県立医科大学は
警察、消防など原発事故の関連で働く人を対象に
ホールボディーカウンターを使っている。
だがその能力は、1日に10時間使って
20人を検査するのが限界。
それゆえ一般市民まで手が回らない、と説明する。
南相馬市が導入した最新式は2分で結果が出るため、1時間で20人を検査できる。
福島県は最新式を5台買い、トラックに積んで県内各地で計測する計画を立てている。
すでに1台がいわき市で計測を始めている。
放射能は目に見えず、影響が出るまで時間がかかることが多い。
それだけに、「内部被曝はいまの状況を知ることが大切」と長崎市医師会の野田は指摘する。
「検査の数値に過敏に反応する必要はありません。
大事なのは免疫力を低下させないため生活習慣に気をつけることです」 学長の逮捕:22
日本には技術がある
この夏、「チェルノブイリ・ハート」という映画が封切られた。
ベラルーシの放射能汚染地帯で生まれる先天性障害の子どもたちを取材したドキュメンタリー映画だ。
ベラルーシのお隣、ウクライナ放射線医学研究センターのエフゲーニャ・ステパノワは、
チェルノブイリ原発の事故処理作業者の子どもたちを研究の対象にしている。
肩書は放射線・小児・先天・遺伝研究室長。
専門分野について語る時、彼女の言い方は慎重になる。
「最初は全く否定されていましたが、仮説を立ててもよいという考え方も出てきました。
被曝した両親から先天性の障害がある子どもが生まれるリスクがあるという仮説です」
もちろんあくまで仮説であり、証明はされていない。
仮説を立てたら立証したいところだが、それには調査が要る。
「国際機関や団体の資金援助を求めていますが、調査には多大な資金が必要で、とてもできません」
そして、こう言った。
「はっきりしているのは放射性ヨウ素で甲状腺がんが発生したこと。
そのほかのことは分かりません」 学術的な証明のあるなしに関係なく、旧ソ連では行動があった。
チェルノブイリから約130キロの現在の首都キエフから子どもたちを一時的に疎開させたのだ、と彼女はいう。
いまも、ウクライナでは全国の市場で毎日、食品検査を行っている。
「旧ソ連時代にチェリャビンスク州で核事故が起きました。
その経験で、悪い影響が出ることは予測できていたということです」
核事故は1957年。
極秘扱いだったが、当局は放射能の人体への影響を把握していた、という。
放射能が体に与える影響を研究していてベラルーシ当局に逮捕された経験を持つ
バンダジェフスキーは、日本の現状を見てこう話す。
「私が研究を始めた時も国は全く協力しなかった。
日本には技術がある。
国民は、自分たちで健康を守るシステムを作ることが必要です」
住民自身の健康を守るため、東大理学部教授の早野龍五が提案したのが学校給食の放射能検査だった。
福島県南相馬市がそれを断ったことをこの欄で紹介したが、同市は28日、早野に提案の受け入れを伝えた。
少しずつ、健康を守るシステムがつくられ始めている。
官邸の5日間:1
米軍には伝えていた
震災から4日目、昨年3月14日朝のことだ。
外務省北米局日米安全保障条約課の外務事務官、木戸大介ロベルト(33)のところに
横田基地の在日米軍司令部から電話が入った。
「原発事故の支援に際して放射能関連の情報が必要だ。政府が情報を有しているなら提供してほしい」
当時、外務省は昼夜12時間の2交代で動いていた。
木戸は朝9時に登庁し、仕事を始めたばかり。上司の許可を得て、経済産業省など思い当たる省庁に電話した。
電話はあちこち回された末、文部科学省の防災環境対策室に行き着いた。
室長補佐の澄川雄(33)は「防災関係者で活用する分には提供して構わない」と答えた。
木戸は担当者に「データを直接米軍に提供してほしい」と伝えたが、「震災後のどたばたで手が足りません」。
木戸は「それなら私の方でリレーしましょう」と答えた。
午前10時40分、木戸のパソコンに原子力安全技術センターからメールが届く。
文科省の委託を受け、放射性物質の拡散を予測する機関だ。
木戸は添付されたファイル名に「SPEEDI」の文字を見つけた。
SPEEDI(スピーディ)? 木戸は初めて聞く名称だった。
「名前も知らないし、なんのことか理解できませんでした」
木戸はメールを在日米軍司令部に転送した。 そのころ福島県では住民の避難が続いていた。
気がかりは放射性物質の流れ方であり、それを予測するのが実はSPEEDIだった。
SPEEDIはほぼ正確に予測を出していた。
しかしその予測は、避難の資料としてまったく使われなかった。
それは第2シリーズ「研究者の辞表」で検証した通りだ。どこが危険かも分からぬまま、多くの住民が遠くを目指した。
SPEEDIが使われなかった理由は、そもそも存在自体が知られていなかったからだ。
3月14日の時点でSPEEDIを知る政治家はほとんどいなかった。
首相の菅直人(65)や官房長官の枝野幸男(47)ですら認識していなかった。
SPEEDI情報を官邸中枢に伝えるべき官僚が、それをしていなかったのだ。
官邸中枢が存在すら知らないSPEEDIのデータが、米軍にはいち早く渡っていた。
昨年12月、その事実を伝えると、菅の声のトーンが上がった。
「全然知らなかった。一番伝えなきゃいけないところに、なぜ伝えなかったんだ」
1時間ごとのSPEEDIのデータは木戸のパソコンへ届いた。
地図の画像データだったため、情報量は多かった。
パソコンに入る情報量はメールの送受信に支障が出るほど膨らんだ。
木戸は自動転送と、転送後の自動削除にパソコンを設定した。
データは7月まで順調に米軍へ流れた。 最初のSPEEDIデータが木戸に届いて20分ほど後のことだ。
官邸5階にある総理執務室で、
菅は公明党代表の山口那津男(59)と党首会談をしていた。
会談が始まって10分ほどたったとき、執務室のドアがせわしくノックされた。
「テレビ、テレビ、4チャンネル、4チャンネル、爆発しています!」
テレビのスイッチが入れられた。
福島第一原発の3号機が映し出されていた。
爆発の映像が繰り返し流れている。
原子炉建屋がオレンジ色の閃光(せんこう)を放つ。
煙が真上に高く噴き上がる。壊れた建屋のコンクリート片が落下する――。
福島中央テレビが第一原発の南南西約17キロの山中に設置した監視カメラの映像だった。
菅がつぶやいた。
「煙、黒いよなあ」
(木村英昭) 官邸の5日間:2
誰からも答えがない
3号機が爆発したのは、3月14日の午前11時1分だった。
首相の菅直人(65)は3号機から出る黒い煙が気になって仕方なかった。
2日前に1号機が水素爆発を起こしたが、その時の白い煙とは明らかに違う。
党首会談を打ち切った菅は首相補佐官の寺田学(てらた・まなぶ)(35)と秘書官に命じた。「関係者を全員呼べ」
菅の口調は落ち着いていた。
爆発の約30分後には、原子力災害対策本部の中枢メンバーが総理執務室に集まった。
経産相の海江田万里(かいえだ・ばんり)(62)、官房長官の枝野幸男(ゆきお)(47)、官房副長官の福山哲郎(てつろう)(49)。
それに原子力安全・保安院付の安井正也、原子力安全委員長の班目(まだらめ)春樹(63)が加わった。
「何が起きているんだ」
菅が皆に尋ねた。誰も答えない。
「一刻も早く情報を集めろ」
地下の危機管理センターに行く者、執務室の隣にある応接室に移った者。
携帯電話を手に、情報収集を始める者もいた。 そのころ福島県内では12日に設定された半径20キロの避難区域に残る人たちの救出が、ヘリやバスを使って続いていた。
多くが、長期入院の患者や特別養護老人ホームに入所する老人たちだった。
県外に避難する住民も多かった。
避難案づくりの切り札とされた文部科学省所管のSPEEDIは、
放射性物質の拡散方向を震災初日から予測していた。
文科省や安全委には原子力安全技術センターから1時間ごとにデータが渡り、
同じものが外務省を通じて在日米軍にも届けられていた。
保安院も、独自に計算させたSPEEDIの予測図を次々とセンターから送らせていた。
SPEEDIを使いながら、官僚たちは肝心の官邸にその存在自体を伝えなかった。
菅の前には保安院や安全委の幹部がいたにもかかわらず、SPEEDIの利用を進言することはなかった。
テレビの報道が先行する。官邸はその確認に追われる。情報は届かない――。
情報共有のため、応接室には2台のホワイトボードが用意されていた。
が、そこに新しい情報が書き込まれることは少なかった。
官邸が情報収集に走り回っていたころ、隣の2号機に異変が生じていた。
3号機の爆発の影響だった。
官邸が知らないところで、最大の危機が進んでいた。 官邸の5日間:3
「武器が足りません」
3月14日の3号機爆発は、2号機の弁を開ける電気回路を壊していた。
このため、格納容器の圧力を下げる弁が閉じてしまった。
このままだと圧力が上がり続ける。建物ではなく原子炉そのものが耐えられなくなって、爆発する危険がある。
そうなるとチェルノブイリ並みの事故だ。
官邸が2号機の異変に気づいたのは、14日の午後4時ごろだった。
総理執務室横の応接室には、原子炉の状態を示すファクスが次々と届けられていた。
東京電力が作成、発信したデータだ。
執務室のファクス機に届くたび、応接室に運ばれた。
机にはコピーされたファクスの紙が次第に積み上がっていった。
室内には原子力安全・保安院付の安井正也や原子力安全委員長の班目春樹(63)がいた。
経済産業相の海江田万里(62)、官房副長官の福山哲郎(49)、首相補佐官の寺田学(35)もたびたび顔を見せた。
ファクスの中身は時間ごとの原子炉内の水位や圧力だった。
2号機の水位は下がっていた。水位の低下は燃料棒を浸す水が少なくなっていることを意味している。
午後4時ごろ、誰かがぼそりと口に出した。
「燃料棒、露出してるんじゃないか?」
その懸念は現実になる。午後6時22分、燃料棒全体が露出した。 原子炉内で「空だき」が始まった。
そのままだと燃料棒が溶け落ちて、原子炉に次々と穴が開き、漏れ出してしまう。
消防車は燃料切れで注水ができない。
給油して、とにかく急いで水を入れないといけない。ところが……。
午後8時を過ぎて今度は、「圧力が高く、原子炉に水が入らない」という報告が届いた。
その報告を、菅直人(65)は執務室で聞いた。
携帯電話を取り、福島第一原発の所長、吉田昌郎(まさお)(56)と直接話した。
まだやれます、と吉田はいった。
「ただ、武器が足りません。炉内が高圧でも注水できるポンプがあれば……」
吉田のその訴えは、首相補佐官の細野豪志(ごうし)(40)も直接聞いていた。
そのころ、東京電力の社長、清水正孝(まさたか)(67)は携帯電話で海江田に連絡を取ろうとしていた。
だが、なかなかつながらない。
何度も何度も清水は電話をかけ続けた。 官邸の5日間:4
「残っていただきたい」
東京電力社長の清水正孝(67)が
経済産業相の海江田万里(62)に連絡を取ろうと携帯電話を握り締めていた時間帯は2度ある。
1度目の時間帯は14日午後7時からの約2時間。
2号機の燃料棒が全部露出して圧力容器が「空だき」になった事態を、
東京電力が経産省などに通報したころに当たる。
午後10時50分、2号機の原子炉格納容器内の圧力が設計上の限界を超えた。
2度目の時間帯は、その後の日付が変わるころ。
格納容器の圧力を逃す、最後の弁操作も失敗したころだった。
どちらの時間帯も、清水は海江田の秘書官に電話し続けた。
携帯電話の発信ボタンを何度も何度も押し、数秒間隔でかける時間帯さえあった。
そうまでしても海江田にはなかなかつながらなかった。
1度目にやっと電話がつながったときの清水の言葉を
海江田はこう記憶している。
「第一原発の作業員を第二原発に退避させたい。なんとかなりませんか」。
海江田は「残っていただきたい」と清水の求めを拒んだ。
その時刻は午後8時ごろとみられるが、関係者によって食い違う。 首相補佐官の寺田学(35)はこんな光景を記憶している。
午後8時過ぎ。官邸5階の官房長官執務室に行くと、
官房長官の枝野幸男(47)が海江田と話していた。
海江田の秘書官が入ってきて「東電からお電話です」と告げた。
海江田は「もういいよ、それは。断った話だから」と答えた。
「何の話ですか」。寺田が尋ねると、
海江田は「東電が原発から撤退したいといってるんだ」
寺田は驚いた。「大臣、そんな大事な電話ならちゃんと断った方がいいんじゃないですか」
海江田が電話に出た。
相手は清水だった。海江田はいった。
「残っていただきたい」
枝野は、日付が15日に変わるころ、自分にも同じ内容の電話が清水からあったと振り返る。
枝野は「そんな簡単に『はい』といえる話じゃありません」といい、電話を切った。
官房副長官の福山哲郎(49)は、東電が首相補佐官の細野豪志(40)にも同じ様な電話をしてきた、という。
細野は電話に出ること自体を断った。
発信の頻度を見ると、清水がいかに必死だったかが分かる。 官邸の5日間:5
まだやれますね
14日午後8時9分、東電本店。記者を前に
広報部部長の吉田薫(かおる)が「ご説明したい」とマイクを握った。
「福島第一原発2号機なんですが、炉の中の水がほとんどなくなったような状況になっています」
資料が報道陣に配布された後、午後8時40分に
副社長の武藤栄(むとう・さかえ)(61)の記者会見が始まった。
安全確保や放射性物質の拡散防止についての質問に、
武藤は「将来についてあまり予断を持った考え方はできない」「将来のことですので」と明言を避け続けた。
午後10時ごろ、官邸5階の廊下を経済産業事務次官の松永和夫が行き来していた。
首相補佐官の寺田学は、経産相の海江田万里が
「松永次官も東電の撤退をいいに来ているんだよ」とつぶやいたのを覚えている。
午後11時ごろ、米大使のジョン・ルース(56)と官房長官の枝野幸男との電話会談があった。
ルースがいった。
「米国の原子力専門家を官邸に常駐させてほしい」
日本の危機管理能力を米国は疑っている。
国家主権に触れかねない要請だ。
枝野は「なかなか難しい。検討したいが……」と丁重に断り、菅直人に報告した。 2号機の危機をめぐり、官邸ではやりとりが続いていた。
15日の午前0時を回ったころだった。官房長官執務室の椅子でうとうとしていた
枝野を秘書官が声をかけて、起こした。 「海江田大臣がお呼びです」
副長官の福山哲郎、首相補佐官の細野豪志、寺田がいた。
「東電が撤退なんていってきて。とりあえず、そんなのあるかっていった」「そうだよね」
枝野は「大事なことだから官房長官も直接話して下さい」といわれて
細野から携帯電話を渡された。
相手は福島第一原発所長の吉田昌郎だった。
「大丈夫なんですね。まだやれますね」。枝野はそう尋ねた。
吉田はいった。「やります。頑張ります」
電話を切った枝野はいった。
「本店の方は何を撤退だなんていってんだ。現場と意思疎通ができていないじゃないか」
だが、2号機の危機は一向に好転しない。
格納容器の圧力を上部から抜く弁を開けようとしたがうまくいかなかった。
応接室の雰囲気は次第に重くなっていった。 官邸の5日間:6
総理の判断を仰ごう
3月15日の未明になっていた。
経済産業相の海江田万里は東京電力からの「撤退」の申し出を拒否したものの、官邸ではその問題が再びくすぶり始めていた。
2号機の見通しは一向に立たない。
2号機は、原子炉内部の圧力を下げる弁が閉じたままだ。
圧力が限界を超えればどうなるか。
爆発の危険は続いていた。
総理執務室横の応接室には、海江田や官房長官の枝野幸男、
官房副長官の福山哲郎、首相補佐官の細野豪志、寺田学ら、原子力災害対策本部の主要メンバーがいた。
原子力安全・保安院付の安井正也と原子力安全委員長の班目春樹も控えていた。
室内の空気は重かった。
後日、官邸側が秘書官や政治家から聞き取ったメモがある。
《撤退についてはみんなどうしようという感じだった。
というのも作業員のことが頭にあった。この時の認識ではまだメルトダウンしていないので、常に爆発が念頭にある。
このまま線量が高くておかしくなったり、爆発が起こったらどうしようとか、皆が顔を見合わせている状況だった》
福山は「このままでは撤退もやむをえないのではないか、そんな雰囲気が出始めていました」という。 その場の共通認識はこうだ。
住民の避難区域は12日に半径20キロに広げていた。
これだけ避難が進んでいれば、たとえ原子炉が爆発する事態になったとしても
大量被曝(ひばく)の恐れは軽減されるのではないか。
何よりも作業員の生命が危険にさらされている――。
「総理に判断を仰いだ方がいいのではないか」
福山が提案した。海江田や枝野ら、その場の全員が同意した。
菅直人は仮眠を取っていた。
執務室横にはもう一つ別の応接室があり、そこのソファで防災服のまま横になっていた。
震災以来、一度も公邸に帰っていない。その応接室のそばにはシャワールームがあるが、それも使っていなかった。
ノックの音で菅は目覚めた。秘書官の岡本健司が入ってきた。
「総理、海江田大臣がいらっしゃっています」
「ああ、いいよ」。菅はソファから身を起こした。
時刻は午前3時になろうとしていた。 官邸の5日間:7
外国に侵略されるぞ
3月15日午前3時、官邸。応接室のソファでの仮眠から起きた菅直人は、執務室に入った。
そこには経済産業相の海江田万里、官房長官の枝野幸男、
官房副長官の福山哲郎、首相補佐官の細野豪志と寺田学が待っていた。
「東京電力が原発事故現場から撤退したいといっています」
菅は即座にいった。
「撤退したらどうなるか分かってんのか。そんなのあり得ないだろ」
何をバカなことをいっているんだといういい方だったと福山は語る。
午前3時20分。菅は話し合いの場を隣の応接室に移した。
壁には「蝉蛻(せんぜい)」の書。セミの抜け殻のことで、世俗を脱するという意味がある。
官房副長官の藤井裕久(ひろひさ、79)と滝野欣弥(きんや、64)、防災担当相の松本龍(りゅう、60)が加わった。
後に「御前会議」と呼ばれる集まりだ。原子力安全・保安院長の寺坂信昭(58)と保安院付の安井正也、
原子力安全委員長の班目春樹、委員長代理の久木田豊(くきた・ゆたか)も出席した。
前日来、2号機の危機は続いていた。
原子炉の圧力を下げる作業が試みられていたが、うまくいかない。
焦点は圧力を逃がすパイプラインの弁だった。
弁が開かないと炉内の圧力が高まり、悪くすると爆発する。
原子炉内の圧力は刻一刻と高くなっていた。 御前会議が始まった。
安井が状況を説明し、
枝野が「東電から『プラントは厳しい状況で、もうやるべきことはない。撤退したい』との話があった」と報告した。
このときも菅は間髪を入れなかった。
「撤退なんてあり得ない」
全員が「撤退すべきではない」との意見で固まった。
「撤退を食い止めるためには東電に乗り込むしかない」というところに話は発展した。
急いで、東京電力社長の清水正孝を呼ぶことにした。
清水が来るまでの間、菅は話し合いの場を応接室から執務室に変えた。
政治家だけを集めた。
そして菅はいった。
「このままほっといて撤退したら東日本全体がダメになる」
「こんなんで逃げてどうする」
「こんなことでは外国から侵略されるぞ」
目の前に並ぶ一人一人に強い調子で詰め寄った。
「俺は東電に行くつもりだ。お前は行くか」「お前は行くか」「お前は行くか」……。 官邸の5日間:8
また怒られるんだよ
首相の菅直人は、総理執務室で東京電力社長の清水正孝を待った。
2号機の爆発の危機は15日未明になっても続いていた。
原子炉が爆発したら、ほんとうに国が成り立たなくなってしまう。
菅は「これはやばいな」と真剣に思ったという。
「三鷹のお袋の家も使えなくなっちゃうのかな、なんてことまで頭に浮かんだよ、あのときは」
東電は官邸に、4人の駐在を置いていた。
その筆頭は東電フェローの武黒一郎(65)だ。
元原子力担当副社長で、技術名誉職である「フェロー」の肩書を持つ。
武黒は震災初日の3月11日から官邸に詰めていた。
このときは総理執務室のある5階ではなく、階下の応接室だ。
重要な局面での会議に出席し、東電との橋渡しを務めると同時に、技術的な助言をしてきた。
いわば官邸の危機対策での東電代表だ。
その武黒が、東電の撤退問題で官邸がばたばたしている最中に、姿が見えなくなった。
武黒は他の社員を残して官邸近くの仮泊のホテルに行き、シャワーを浴びた後、仮眠を取っていた。
連絡用の携帯電話を持ち、仮眠の間も枕元に置いていた。 だが、その携帯は一回も鳴らず、そのまま朝まで数時間眠ってしまった。
武黒は14日、爆発の危機にあった2号機問題に取り組んでいた。
午後7時ごろ、炉心の減圧になんとか成功した。
午後7時54分から消防車を使って冷却用の海水を注入できるようになり、一安心した。
それで、日付が15日に変わってから、仮泊先のホテルに行き、しばしの休息を取ることにしたのだ。
その後、格納容器の圧力が上がり、爆発の危機が近づきつつあった。
だが、武黒はそのことを東電本店から知らされなかった。
清水の車は官邸に向かっていた。
官房副長官の福山哲郎と首相補佐官の寺田学は執務室を出た。
ふたりは声をひそめて言葉を交わした。
福山「社長が撤退するとかいい出したら、大変なことになるぞ」
寺田「内々に、清水社長に総理の意向を伝えておきますか」
清水には国会担当と広報担当の幹部2人が同行していた。
車中、清水は2人につぶやいた。
「ごめんな、ごめんな」
「どうせまた怒られるんだよなあ」
「お前よお、悪いなあ」 官邸の5日間:9
18分間の会談
東京電力社長の清水正孝が官邸に着いたのは15日午前4時17分だった。
5階で首相補佐官の寺田学が出迎えた。
寺田は結局、撤退拒否の菅直人の意向を清水に伝えなかった。
清水は同行の社員2人と分かれ、ひとりで菅の待つ応接室に入った。
菅は「ご苦労様です。お越し下さり、すみません」とあいさつし、いきなり結論を告げた。
「撤退などあり得ませんから」
官房長官の枝野幸男、経済産業相の海江田万里、官房副長官の福山哲郎と滝野欣弥、藤井裕久、首相補佐官の細野豪志らが同席していた。
一同が清水の言葉を待ち構えた。
「はい、分かりました」
両手をひざに置いた清水が、小さく頭を下げた。
清水の返事を聞いた海江田は、「ん?」と思ったと振り返る。「あれだけ撤退を強くいっていたのに」
さらに菅はたたみかけた。
「細野君を東電に常駐させたい。ついては机と部屋を用意して下さい。
東電に統合本部をつくるから。お互いの情報を共有しよう」
清水は驚いた表情を見せたが、「分かりました」と答えた。
これで「事故対策統合本部」が設立された。
政治が民間企業に乗り込み直接指揮する超法規的組織だ。 何時に東電に行けばいいか、菅が清水に尋ねた。
清水は、2時間程度かかる旨を返答した。
「そんなんじゃ遅いです。1時間後にうかがうので、部屋、用意して下さい」
了承した清水に、「じゃあ、どうぞ。用件は終わりました。準備して下さい」。
18分間の会談だった。
菅の東電行きが決まり、首相秘書官が大声を上げた。
「東電に行くらしい」「官邸の記者クラブに通告しろ」……
その大声を聞いた東電広報部課長の長谷川和弘(48)は、一緒に清水に同行した
国会担当の東電社員が携帯電話で電力総連関係の民主党議員に電話しているのも見た。
「先生、何とかなりませんか」
何ともならなかった。
執務室に戻った菅は、ひとり机に向かった。
常に傍らに置いているA5判の「菅ノート」に、事故対策統合本部の人事案が書き込まれた。
《本部長 菅 副本部長 海江田 清水 事務局長 細野……》
午前5時28分。菅は東電本店に向かった。海江田、福山、細野、寺田が続いた。 官邸の5日間:10
皆さんは当事者です
3月15日午前5時35分、菅直人を乗せた黒塗りの車が東京・内幸町の東京電力本店に着いた。
菅は、東電2階の対策本部に入った。その後、ここが政府・東電の事故対策統合本部になる。
壁面に、現場とのテレビ会議に使う複数のモニターがかかっていた。
菅の正面に会長の勝俣恒久(つねひさ=71)、その横に社長の清水正孝が座った。
菅はこう訓示した。少し長いが、秘書官メモから採録する。
――今回の事の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。
政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。
私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。
これは2号機だけの話ではない。
2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機、さらには福島第二のサイト、これらはどうなってしまうのか。
これらを放棄した場合、何カ月か後にはすべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。
チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。
日本の国が成立しなくなる。
何としても、命がけで、この状況を抑え込まない限りは。
撤退して黙って見過ごすことはできない。
そんなことをすれば、外国が「自分たちがやる」といい出しかねない。 皆さんは当事者です。
命を賭けて下さい。
逃げても逃げ切れない。
情報伝達が遅いし、不正確だ。
しかも間違っている。
皆さん、萎縮しないでくれ。
必要な情報を上げてくれ。
目の前のことと共に、5時間先、10時間先、1日先、1週間先を読み、行動することが大事だ。
金がいくらかかっても構わない。
東電がやるしかない。
日本がつぶれるかもしれないときに、撤退はあり得ない。
会長、社長も覚悟を決めてくれ。
60歳以上が現地に行けばいい。
自分はその覚悟でやる。
撤退はあり得ない。
撤退したら、東電は必ずつぶれる――
「菅訓示」が終わって間もない午前6時、
皮肉にも2号機の圧力抑制室付近で大きな衝撃音が発生した。
その3時間後、正門付近で毎時1万1930マイクロシーベルトが確認された。
これまでとは桁違いの高い線量だった。
海側への風は、次第に陸側へと変わり、その後、北西に向きを定めた。
その先には浪江町(なみえまち)、飯舘村(いいたてむら)、福島市があった。 官邸の5日間:11
超スーパーマンなら
15日午前6時ごろ、2号機の圧力抑制室の圧力が、衝撃音とともにゼロになった。
原子炉に穴が開き、高濃度の放射能を含む蒸気が外に出たことを意味していた。
菅直人は東京電力2階にいた。
一部を残して作業員の一時退避を命じる。
650人が南に約10キロの福島第二原発に逃れた。
東電社長の清水正孝が前日夜から官邸に要請していた「撤退」が、結果的に一部実現した形だ。
ちなみに清水が求めた「撤退」について、東電は現在
「作業に直接関係のない一部の社員を一時的に退避させることがいずれ必要となるため検討したい」だったと主張する。
だが、清水の話を聞いた官邸の人間のうち、確認できた5人全員が清水はそうは言わなかったと話す。
肝心の清水は取材に応じていない。
15日朝の東電に戻る。
清水は菅に、住民の避難区域を30キロに広げたい旨を口にした、と官邸側が作成したメモには記載されている。
東電は事態を深刻にとらえていた。1、3号機は水素爆発したが、それは格納容器外で起きた。
原子炉自体が破損していたら、もれ出す放射能は甚大になる。
午前8時30分から始まった記者会見で、頭を下げた東電幹部は「一線を越えたということか」と問われ、
「事象の規模という意味では大きな出来事だ」と答えた。 午前8時46分、菅は官邸に戻った。
午前9時、第一原発の正門付近で
毎時1万1930マイクロシーベルトという高い放射線量が確認される。
このときSPEEDI予測に基づいて住民を避難させていれば、余分な被曝をせずにすんだはずだ。
原子力安全・保安院や原子力安全委員会は、
なぜ官邸中枢にSPEEDIの存在を伝えなかったのか。
安全委員長の班目春樹はいう。
「原発のプラントが今後どうなるかを予測できる人間は、私しかいなかった。
その私にSPEEDIのことも全部やれっていうんですか。
超スーパーマンならできるかもしれませんけど。
役割分担として菅首相にアドバイスするのは保安院です」
保安院長の寺坂信昭はいう。
「保安院がSPEEDIの話をしちゃあいけないことはないが、
SPEEDIは、文部科学省の所管です」
有効な手が打たれないまま、事態は悪化の一途をたどる。
午後1時ごろ、菅は秘書官に命じ、横浜にある理化学研究所の研究拠点に電話した。 官邸の5日間:12
手伝ってくれないか
日本の基礎科学研究の最先端を行く理化学研究所の横浜研究所。
15日午後1時ごろ、研究推進部長の生川浩史(いくかわ・ひろし)が自席の電話を取った。菅直人からだった。
生川は文部科学省の官僚。
2009年、菅が科学技術政策担当相(副総理兼務)だったときの秘書官を務めている。
「久しぶり。ところで君の専門は原子力だったよね」
「え? 私はウチューですよ、宇宙工学」
「……とにかく大変なことになっているんだ。手伝ってくれないか」
タクシーで来た生川を菅は執務室に招き入れた。
間もなく菅の母校・東京工業大学原子炉工学研究所の有冨正憲(ありとみ・まさのり)(64)や斉藤正樹も着いた。
菅の依頼を受けた東工大学長の伊賀(いが)健一(71)から協力を要請された。
菅は、個人ルートで呼び寄せた科学者たちに、こういった。
「正しい情報がタイムリーに入ってこないんです。
水素爆発だって、原子力安全委員会の班目さんは『起きない』と言っていた。
なのに爆発は起きてしまった。
保安院や原子力安全委以外にも、色々な意見を加味して判断したい」 2号機の危機が収まらないのに、今度は4号機の使用済み燃料プールの温度上昇という問題が加わっていた。
「統合本部に行って、気づいた点があれば教えてください」
菅の要請を受けて、有冨らは夕刻、この日東電に設置されたばかりの統合本部に入った。
翌日から、有冨らは専門的な対応策を菅に助言し続けた。
生川は菅が退陣するまでの約半年間、統合本部に詰め、作業状況などを携帯で即座に菅にメールした。
15日は、菅の個人的な人脈が機能し、動き始めた日だ。
この日、菅は統合本部の事務局長に首相補佐官の細野豪志を任命した。
細かい対応を細野に任せ、指示があれば細野を通じて発した。
菅は津波被害への対応は官房長官の枝野幸男らに託し、原発災害にかかりきりになった。
にもかかわらず、事態は菅が打つ手の先を走っていく。
爆発、放射能の拡散……。
危機は次々にあふれ出し、広がった。
最高責任者は首相であり、菅には一切の責任を背負う責務がある。
だが、根底には官僚組織の機能不全が横たわっていた。
震災当日の3月11日に戻ってそれを見てみよう。 官邸の5日間:12
手伝ってくれないか
日本の基礎科学研究の最先端を行く理化学研究所の横浜研究所。
15日午後1時ごろ、研究推進部長の生川浩史(いくかわ・ひろし)が自席の電話を取った。菅直人からだった。
生川は文部科学省の官僚。2009年、菅が科学技術政策担当相(副総理兼務)だったときの秘書官を務めている。
「久しぶり。ところで君の専門は原子力だったよね」
「え? 私はウチューですよ、宇宙工学」
「……とにかく大変なことになっているんだ。手伝ってくれないか」
タクシーで来た生川を菅は執務室に招き入れた。
間もなく菅の母校・東京工業大学原子炉工学研究所の有冨正憲(ありとみ・まさのり)(64)や斉藤正樹も着いた。
菅の依頼を受けた東工大学長の伊賀(いが)健一(71)から協力を要請された
。
菅は、個人ルートで呼び寄せた科学者たちに、こういった。
「正しい情報がタイムリーに入ってこないんです。
水素爆発だって、原子力安全委員会の班目さんは『起きない』と言っていた。
なのに爆発は起きてしまった。保安院や原子力安全委以外にも、色々な意見を加味して判断したい」
2号機の危機が収まらないのに、今度は4号機の使用済み燃料プールの温度上昇という問題が加わっていた。
「統合本部に行って、気づいた点があれば教えてください」 菅の要請を受けて、有冨らは夕刻、この日東電に設置されたばかりの統合本部に入った。
翌日から、有冨らは専門的な対応策を菅に助言し続けた。
生川は菅が退陣するまでの約半年間、統合本部に詰め、作業状況などを携帯で即座に菅にメールした。
15日は、菅の個人的な人脈が機能し、動き始めた日だ。
この日、菅は統合本部の事務局長に首相補佐官の細野豪志を任命した。
細かい対応を細野に任せ、指示があれば細野を通じて発した。
菅は津波被害への対応は官房長官の枝野幸男らに託し、原発災害にかかりきりになった。
にもかかわらず、事態は菅が打つ手の先を走っていく。
爆発、放射能の拡散……。危機は次々にあふれ出し、広がった。
最高責任者は首相であり、菅には一切の責任を背負う責務がある。
だが、根底には官僚組織の機能不全が横たわっていた。
震災当日の3月11日に戻ってそれを見てみよう。
官邸の5日間:13
響き渡る「電源喪失」
大震災が起きた3月11日午後2時46分、菅直人は参院決算委員会に出席していた。
天井のシャンデリアが大きく揺れた。菅はいすのひじかけを両手でつかみ、天井を見上げた。
「身の安全を確保するようにお願いします」「机の下にお隠れ下さい」――。
決算委員長の鶴保庸介(つるほ・ようすけ)〈44〉は休憩を宣言した。
菅はSPに守られながら、官邸地下の危機管理センターに向かった。
官房副長官の福山哲郎は、その様子を官邸5階の秘書官室のモニターで見た。すぐ秘書官に命じた。
「内閣危機管理監に、緊急参集チームを集めるように指示を!」
内閣危機管理監は元警視総監の伊藤哲朗(てつろう)〈63〉だ。センターに官邸対策室を設置し、初動対応に関する情報集約や調整を担う。
各省庁の局長級でつくる緊急参集チームの要だ。
福山がセンターに駆け込むと官房長官の枝野幸男も姿を現し、続いて菅が入ってきた。
関係省庁の局長らはすでに到着していた。
センターには机が長円形に並び、中央に菅が陣取る。そのわきに枝野ら内閣の中枢メンバー、内閣危機管理監の伊藤。
取り囲むように各省の災害担当の責任者が構えた。 それぞれの机には各部局の専用の電話が置かれ、地震の被害状況が刻々と伝えられる。
それを各省庁の幹部がマイクで復唱した。声が響き渡った。
「火災発生。火災の規模は分からず!」
「道路の被害状況を報告します」
「先ほどの地震のマグニチュードを変更!」……
後ろに控えた各省庁職員がその声をメモに取る。メモは直ちにコピーされ、菅らに配られた。
「福島第一原発、緊急停止しました」
「福島第二原発も緊急停止です」
原発は自動停止した。
だが、午後3時27分。津波の第1波が東北の町々を襲う。
そして、その8分後には第2波が続いた。
センターの壁に10台ほどの巨大なテレビモニターがかかっている。
やがて、そこに津波にのみ込まれた町の様子が映し出されることになる。
午後3時40分前後、福島の原発で異変が生じた。
まもなく、異変を告げるアナウンスが響いた。
「福島第一原発、全交流電源喪失しました!」
この一言で菅は「これは大変なことになる」と思った。 官邸の5日間:14
津波に襲われた東京電力福島第一原発は、
午後3時37分からわずか4分の間に、次々と全交流電源が使えなくなってしまった。
それは、原子炉を冷やすための装置を動かせないことを意味する。
その事態が継続すると、炉は空だき状態になり、
溶け落ちた核燃料棒が炉に穴を開けて、外に漏れ出してしまう。
全交流電源喪失。それは日本で初めて起こる非常事態だった。
その時、福島第一原発の現場は大混乱していた。
所内連絡用のPHSも通じない。
代わりに使ったトランシーバーも雑音で使い物にならなかった。
原発の中央制御室と免震重要棟にある現場の対策本部を結ぶ連絡線は、
たった1本の電話回線だけとなった。
所長の吉田昌郎がいた現場の対策本部では、原子炉の状況がほとんど把握できなくなっていた。
協力会社の作業員はすでに大津波警報とともに退避している。
残った作業員は少なく、東電社員が復旧作業を担った。
だが作業員の退避で、必要な資材の保管場所も分からなかった。
吉田は地震発生直後から東電本店に増員を要請した。 経済産業相の海江田万里は、午後3時42分にあった全交流電源喪失という連絡を経産省で受けた。
その約1時間後、さらに深刻な事態となった。
今度は1号機と2号機で、炉心を冷却することができなくなったと報告されたのである。
菅にもその知らせが届いたが、手元に詳しい情報はない。
午後4時54分から首相の記者会見が開かれた。
菅はたいした説明ができなかった。
「一部の原子力発電所が自動停止いたしましたが、
これまでのところ外部への放射性物質等の影響は確認をされておりません」と述べるだけだった。
経産省から官邸に駆けつけた海江田は、記者会見を終えた菅のいる5階の総理執務室に行った。
原子力安全・保安院の寺坂信昭もいた。
そのときの菅への報告が「菅ノート」に残されている。
《(非常用の)ディーゼル発電が止まっている》
「原発がコントロールできなくなる」。メモを取りながら菅はそう思った。
そして、原発事故としては最悪のメルトダウンのことが頭をよぎった。 官邸の5日間:15
「経済学部ですけど」
「福島第一原発が全交流電源を喪失し、冷却できない状態です」
首相の菅直人は11日夕、総理執務室で、
経済産業相の海江田万里と原子力安全・保安院長の寺坂信昭からそう報告を受けた。
寺坂の証言によると、時刻は午後5時から午後6時の間だった。
海江田は法律に基づく原子力緊急事態宣言を発令するよう、菅に上申するために来た。
菅は状況を寺坂にただした。
次のようなやりとりを首相補佐官の寺田学が記憶している。
「電源が全部だめになったっていうけど、本当に全部なのか」
「全部だめです」
「予備バッテリーあるはずだろ」
「予備バッテリーも全部です」
「何で全部だめになるんだ」
「全部海水につかっています」 「海水につかっていたら、海水から出して何とか使えないのか」
「いえ、できません」
「何でできないんだ」
「一度塩水につかるとだめです」
「本当に全部だめなのか。ほかに何にもないのか」
「全部だめです」
菅は寺坂に同じ質問を繰り返した。
だが、どう対処すればいいかの具体的な答えがない。
菅は尋ねた。
「技術のことを分かってるのか」
東京大学経済学部卒の寺坂はこう答えたと本人はいう。
「私は経済学部ですけど」
続けて「しかし基本的なことは分かっているつもりです」。 このときのやりとりを記録した秘書官の聞き取りメモにはこうある。
《総理より「お前は技術屋か?」と指摘され
「技術を知っている奴(やつ)を呼べ」ということで、以後、総理に面会している記憶は乏(とぼ)しい》
寺坂は振り返る。
「完璧に原子炉をやってきた人間ではないので正直にそう申し上げました。
分からない状態を伝えるしかなかった」
2009年7月から保安院長になった寺坂の前職は、
経産省の商務流通審議官だ。
原発の危機管理を担う保安院のトップは
事務系と技術系がほぼ交互に就いていた。
寺坂は午後7時3分に発足の
原子力災害対策本部の事務局長だ。
危機対応の要である。
15日未明の東電が撤退するかどうかの話し合いの場には、
寺坂がいたという官邸側の記録はある。
だが、11日を過ぎてから、菅の記憶には出てこない。
事務局長はどこに行ってしまったのか。 官邸の5日間:16
急きょ発令した人事
原子力安全・保安院長の寺坂信昭は11日夕、首相の菅直人から「技術を分かっているのか」と
総理執務室でただされた後、地下の危機管理センターに下りた。
午後7時3分。
原子力緊急事態宣言が発令される。
原子力災害対策本部が設置され、本部長は菅、事務局長は寺坂になった。
寺坂の証言だと、「宣言」発令に伴って午後7時45分に開かれた官房長官会見に同席。
しばらくして官邸を離れた。
戻った先は、官邸から760メートル離れた霞が関の保安院だった。
代わりに官邸で、菅らに対応したのが、保安院次長の平岡英治だ。
保安院勤務は長いが、卒業した東京大学では電気工学科だった。
寺坂は交代の理由を「原子力災害対策本部の事務局は保安院ですから。
次長が官邸に詰めると保安院が空になるので私が戻りました」。
ところが、その平岡も13日の昼ごろには菅の元からいなくなる。
代わって13日から官邸に入り、技術的な助言をした保安院幹部は、安井正也(53)だった。
京都大大学院で原子核工学を専攻した専門家だ。
だが、保安院の職員ではなく、資源エネルギー庁の部長だった。 保安院もエネ庁も、ともに経産省の外局。
寺坂は「総理に物足りなく思われている感じが伝わってきた」。
エネ庁に掛け合い、12日付で保安院付の併任人事を発令して急きょ官邸に送り込んだものだった。
結局、保安院にはそれまで、官邸中枢に専門的な説明ができる人材がいなかったことになる。
寺坂はいう。「保安院がしっかり説明できればベストだが、情報が取れていない状況でどう判断していくのか。
結果的に説明ができていないという批判はうけたまわります」
安井は取材に応じていない。
11日夜の官邸――。
地下の危機管理センターには、時間を追うごとに明らかになる津波被害の深刻さが伝えられた。
そこに原発の危機が加わった。
原子力緊急事態宣言を受け、菅は官房長官の枝野幸男にいった。
「官房長官は全体を見てくれ。俺は原発の状況から目が離せない」
菅は秘書官に「どこか集中して話ができる場所はないか」と尋ねる。
秘書官は「あそこの部屋なら使えます」といい、センターが見渡せる中2階の小部屋を提案した。
しかしこの小部屋は問題が大ありだった。 官邸の5日間:17
原発の図面すらない
首相の菅直人を中心にした原発事故対応チームが11日夜に入った小部屋は、「中2階」と呼ばれる部屋だった。
官邸地下の危機管理センターの中2階で、センターを一望できる。だが10人も入ればいっぱいだ。
ここが原発事故の情報収集と判断をする司令部になった。
菅、官房長官の枝野幸男、経済産業相の海江田万里ら官邸中枢メンバーが頻繁に出入りし、原発情報が届けられた。
東京電力側からフェローの武黒一郎も詰めた。
しかし、電話が2本しかなかった。
ファクスもない。
さらに、携帯電話が通じなかった。
センターはすべて圏外だった。
福島第一原発の情報が東電本店から即時に入らない。
原子力安全・保安院からの情報も断片的だ。
武黒は本店に連絡要員の増員と専用のファクスの設置を要求するが、設置は翌々日の13日だった。
部屋にテレビが1台あった。武黒はそのテレビ放送から原発事故の情報を得るしかなかった。 午後8時26分。官房副長官の福山哲郎はこの中2階で、保安院側から報告を受けた。
保安院長の寺坂信昭か、次長の平岡英治からだったと福山は記憶する。
「仮定の話」として説明された。
福山のメモにはこうある。
《(冷却機能停止から)24時間後には放射能漏れ。その1時間前には(住民の)避難を》
福山もこの時点では原発の知識はほとんどない。
「原子炉の爆発の可能性はどうなのか」と尋ねた。
「ゼロではありません」
「そのとき放射性物質は飛散するのか」と聞いた。
「あり得ます」
当を得ない問答が続いた。
午後9時ごろ、内閣府の原子力安全委員会から委員長の班目春樹が官邸に来た。
海江田から「委員長の口からきちんとした説明がほしい」といわれたという。
班目は中2階に入ってびっくりした。
肝心の原発の図面がないのだ。
班目は「原発の図面を持っているのは保安院だ。
保安院は何をやっているんだ」と思った。
安全委員会は設置許可申請書しか持っていない。
原発のどこがどうなっているのか。
班目はとにかく記憶を呼び戻そうとした。
福島第一原発には何度も行っている。
武黒もいた。
班目は武黒と話し合いながら、現場の状況を懸命に思い出そうとした。 官邸の5日間:18
テレビと記憶が頼り
11日午後9時ごろ、官邸地下の中2階に入った原子力安全委員長の班目春樹は、
東京電力フェローの武黒一郎とやりとりしながら、懸命に現場を思い出そうとした。
原発を冷却する水を入れるための電源が失われている。事態は一向に改善しない。
「えっと、あそこには非常用のディーゼルが二つ地下に並んでいたよなあ。
あそこには、1号、2号、3号、4号と共通のディーゼルを1台増設してるはずだよな……。あれはどうだったっけ?」
携帯電話は圏外。有線電話は2本しかなく、独占できない。
携帯電話で安全委員会に連絡するにはセンターの外に出ないといけない。
情報はテレビと記憶が頼りだった。
次第に班目が怒鳴り声を上げるようになっていく。
「どうして情報が来ないんだ」
「保安院の方の情報はいったいどうなっているんだ」
班目は今でも保安院の対応を激しく批判している。
「保安院の平岡次長もおられたが、次長の専門は電気です。
保安院の事務局は当然、次長を専門的にサポートすべきだった。
どんどん情報の伝令を飛ばすべきだった。それがまったく来なかった。
私からいわせれば、あのとき保安院は『消えていた』ということです」 情報から切り離された状態の中で、班目は
「ベントをし、消防車で原子炉に注水するしかないだろう」という結論に達する。
「武黒さんとも意見が一致した」という。
ベントとは、炉内の圧力を下げるために原子炉内の蒸気をパイプラインを使って外に逃す作業だ。
圧力が高ければ、注水で冷やすことも爆発の危険を取り除くこともできない。
その際は当然、外部に放射性物質が飛散する。
広い範囲で住民が被曝する可能性が出てくる。
住民の避難も考えておかなければならない。
その場にいた経済産業相の海江田万里のいらいらもつのった。
海江田はついに声を張り上げた。
「携帯つながんないじゃどうしようもないじゃないか。どうやって情報を集めるんだ」
国の危機管理の中枢が頼りにする専門家が、初期の段階、テレビと記憶を頼りに対策を模索していた。
首相の菅直人ら原発対応の中枢メンバーは、不便なこの中2階を嫌い、5階の総理執務室を使うようになる。
こうして司令部は次第に5階に拠点を移していった。 官邸の5日間:19
「ベントが必要です」
「ベント」の言葉が話し合いの場で専門家から政治家に伝えられたのは、11日午後9時ごろだった。
原子力安全・保安院次長の平岡英治は、5階の総理執務室に呼ばれた。
経済産業相の海江田万里、首相補佐官の細野豪志がいた。
原子力安全委員長の班目春樹、東京電力フェローの武黒一郎と
原子力品質・安全部長の川俣晋(かわまた・すすむ)(55)が参加したのも覚えている。
官房長官の枝野幸男が会議を仕切った。
平岡の記憶だと、その場でこんなやりとりが交わされた。
「原子力緊急事態宣言を発したが、今後、住民の避難をどう考えたらいいか議論をしたい」
枝野はまず武黒に「プラントはどういう状況ですか」と尋ねた。
武黒自身も十分な情報を持ち合わせていない。
詳しい説明はできなかった。「
情報収集に最大限努力しています」
次いで班目に「このままだとどうなるのですか」。
班目は「もし原子炉に水が入らない状態が続くのであれば、燃料棒が露出して、炉心損傷に至ることが考えられます」。 班目、平岡、武黒の3者は、
原子炉を冷やす水を入れるポンプを動かす電源の確保と、
炉内にたまる熱を海に逃がすための別のポンプの復旧が必要だという意見で一致した。
「それがうまくいかなかったときはどうなるのですか」
「ベントが必要になります」
その場合、蒸気とともに放射能が飛散し、住民が被曝(ひばく)する恐れがある。
どのくらいの範囲で住民を避難させる必要があるか。
安全委員会の指針では、防災対策を重点的に実施すべき範囲を10キロ圏内としている。
だが、班目は国際原子力機関文書が示す予防的措置範囲という考え方を引き合いに出した。
その範囲は3〜5キロだ。
班目は「3キロで十分」との見解を枝野らに示した。
平岡は、保安院を中心に毎年実施する避難訓練のシナリオが頭に浮かんだ。
「半径2〜3キロを避難区域にして、風下方向に5〜8キロを屋内退避区域にする」というものだった。
結局、午後9時23分、風向きとか地形などは考慮されず、
原発から半径3キロの避難と3〜10キロ圏内の屋内退避が指示された。
まずはベント実施を見越した予防的避難だった。
そのころ首相の菅直人は、電源車という特殊な車の手配状況に気をもんでいた。 官邸の5日間:20
電源車を集めろ
福島第一原発から半径3キロの住民の避難が発表された11日午後9時23分。
この時間になっても電源車を使った復旧の見通しがつかなかった。
原子炉内部は水蒸気で高圧になっている。
そこにポンプで水を注入するには、強力な動力がいる。
第一原発所長の吉田昌郎は「電源車があれば冷却機能は復活します」と東京電力を通じて官邸に伝えていた。
高圧ポンプを動かすため電源車が必要だった。
官房副長官の福山哲郎と首相補佐官の寺田学は、電源車を運ぶため、
高速道路を先導する警察車両の手配などに追われていた。
福山は地下の中2階の小部屋と5階の総理執務室を行き来して情報を集め、寺田は執務室に詰め切りとなった。
電源車の状況は、首相の菅直人にも逐一報告された。
「菅ノート」に電源車の手配状況が刻々と記録されていった。
何台か見つかった。
《東京電力20台 高圧》《柏崎 電池手配 取りはずし 1日かかる》《那須 3台》……
約8トンの大型電源車を自衛隊のヘリで空輸することが検討された。
菅は防衛省から出向した秘書官に尋ねた。
「飛ばせるか?」。電源車の仕様を伝えた。「どうだ?」。
「重量オーバーで運べません」。
米軍にも依頼したが無理だった。 メルトダウンへの危機感が官邸中に広がっていた。
その日夜、「福山ノート」には原子力安全・保安院か東電が、官邸で説明した内容が記載されている。
《冷却用の緊急ディーゼル発電機が必要だが、津波でその系統が動かない。
(原子炉内の)温度が上がると、10時間でメルトダウンを起こすという極めて深刻な状況だ》
午後11時までに、東北電力の電源車が福島第一原発に到着した。
自衛隊の3台も着いた。
だが、中2階にいた福山は知らなかった。
一方、到着を聞いた寺田は、首相秘書官と「やったあ!」と歓声を上げた。
しかし、福島の現場では、電源車から原発に電気を送るためのケーブルの敷設作業が難航していた。
余震のたびに中断したためだ。
通信がほとんど使えず、原発の対策本部とのやりとりにも時間がかかった。
午後10時44分、中2階の菅のもとに、保安院から2号機の予測が届いた。
「2時間後にはメルトダウンとなりそうだ」……。
官邸の目が2号機に向いた。 官邸の5日間:21
1号 ベントに入る
日付が12日に変わった午前0時15分、首相の菅直人は米大統領バラク・オバマ(50)と電話会談をした。
オバマ「大変な一日、恐ろしい時間を過ごしていると思います」
菅「ありがとうございます。励ましの言葉、心にしみます」
この会談の直前、1号機の格納容器の圧力が異常に高くなる可能性が出てきた。
原子力安全・保安院がメルトダウンの危険を予測した2号機ではなく、1号機だった。
第一原発所長の吉田昌郎は1号機のベントの準備をするよう、指示を出した。午前0時6分だった。
菅はオバマとの会談を終えると官邸地下の中2階に入った。
ベントをすると、高圧の蒸気とともに放射性物質が放出される。住民の避難が必要になるため、官邸でも議論になった。
「1号機の炉心は溶けていない。ベントしてもそれほど大量の放射性物質は外に出ないだろう」
午前0時57分からの話し合いで示されたその見解が、官房副長官の福山哲郎の「福山ノート」にある。
根拠は、燃料棒の上1メートルまでまだ水があるということだった。
福山は保安院次長の平岡英治と原子力安全委員長の班目春樹が示したと記憶する。
そのため、この時点で住民の避難区域を拡大することは検討から除外された。
《1号 ベントに入る》
菅ら出席者のベント実施の合意が福山ノートにそう記録された。
その場には官房長官の枝野幸男と経済産業相の海江田万里、東京電力フェローの武黒一郎もいた。
武黒は「準備に2時間程度かかる」と説明した。 午前3時ごろをめどにベントを実施する。そう決まった。
菅はいったん5階の総理執務室に戻り、
海江田は記者会見をすることになった。
中2階を出た枝野は、福山に話しかけられた。
福山は
「そんな時間に放射性物質が放出されれば、
福島を含め、日本中がパニックを起こすかもしれません。
かといって、日が明けてからの発表というわけにはいきません。
ベントを隠蔽(いんぺい)したといわれます」。
「こちらでも、会見、やろう」
枝野はそういった。
ベントの予定時刻になった。
午前3時6分、経産省で海江田と東電常務の小森明生(こもり・あきお=59)の2人が記者会見を始めた。
枝野はそれを確認し、会見場に向かった。
官邸の5日間:22
なぜ、できないんだ
原子炉の爆発を防ぐために水蒸気を放出するベント。
日本の原発事故史上初の事態だ。
官房長官の枝野幸男は12日午前3時12分、官邸で記者会見した。
「原子炉格納容器の健全性を確保するため、内部の圧力を放出する措置を講ずる必要があるとの判断に至ったとの報告を、東京電力より受けました。
安全を確保する上でやむを得ない措置であります」……
その6分前の3時6分、経済産業省では、経産相の海江田万里と東電常務の小森明生が同内容の記者会見を始めていた。
記者から「即座にやるのか」と質問された小森は、こう答えた。
「はい。今でもゴーすればできる状況です」
ベントをすれば爆発の危機は何とか回避できる。
後は電源車が届いて、冷却機能が復活すれば――。
その考えは首相の菅直人ら原発事故対応組の共通認識だった。
電源車の手配が一段落すると、菅は、すでに福島第一原発の現地視察の検討を指示していた。
裸足にサンダル履きの首相補佐官、寺田学がスケジュールをつくりはじめた。
午前3時59分のことだ。
長野県北部を震源とするマグニチュード6.7の地震が発生する。
官房副長官の福山哲郎は、中2階から下の危機管理センターに急いだ。 「この地震は東北の地震と関係する地震なんですか、それともまったく違う地震なんですか」
福山が気象庁幹部に大声で尋ねた。
その切迫した声がスピーカーを通してセンター全体に響き渡った。
原発事故に対応していた福山はひとまず仕事をおき、長野の地震の実態把握に追われた。混乱が続いた。
この時点で死者がいなかったことが確認されたため、再び原発事故に戻った。
福山が中2階に戻ると、原子力安全・保安院次長の平岡英治、
原子力安全委員長の班目春樹、東電フェローの武黒一郎がいた。
「ベント、できました?」
まだだった。福山は怒鳴った。
「何でできてないんですか。3時ごろにやるっていったのは皆さんじゃないですか!」
「官房長官が記者会見でそういってるのに、国民にうそをいったことになるじゃないですか!」
「ベントしないと爆発するんじゃないの? 大丈夫なんですか!」
菅はベントが実施されていないことをまだ知らなかった。
官邸の5日間:23
爆発 ゼロではない
「どうしてまだベントができていないんですか!」
12日の午前4時半近く、官邸地下の中2階で、官房副長官の福山哲郎が大声でただした。
「ベントには手動と電動がある。電動は停電で使えません。手動をいま懸命に急がせています」
その場には、原子力安全・保安院次長の平岡英治、原子力安全委員長の班目春樹、東京電力フェローの武黒一郎がいた。
その一人が「いま線量が上がっているんです」といった。
つまり、ベントを実施しなければならない1号機周辺の放射線量が高くなって、作業員が近づけないということだ。
福山は中2階を飛び出し、官房長官の枝野幸男がいる5階に急いだ。
首相補佐官の細野豪志が一緒だった。
午前4時30分のことだ。
「ベントができていません!」
福山が枝野にそう告げると、枝野の顔が曇った。
福山は、再び地下の中2階に戻った。
そのとき首相の菅直人は、福島第一原発の視察に備え、着替えを済ませたところだった。
午前5時ごろ、菅は5階の総理執務室から地下の危機管理センターに下りた。
首相補佐官の寺田学や秘書官の岡本健司が一緒だった。 姿を現した菅に福山が駆けより、歩きながら小声で告げた。
「総理、ベントがまだ始まっていません」
視察のスケジュール作りに追われていた寺田と岡本はベントのことを知らなかった。
「ベントって何?」「えっ、ベントをするの?」
菅は「う、うん……」とうなったが、そのまま一同を引き連れて中2階に入った。菅はいった。
「ベントができていないと、どういう事態になるのか。爆発の危険性はないのか」
班目は爆発の可能性を否定しなかった。
「ゼロではないです」
このままでは爆発の危険性がある。
午前5時44分、菅は班目の助言を受けて住民の避難区域を3キロから10キロに広げた。
そのころ原発付近の住民は、行き先も告げられぬまま、自家用車やバスで逃げまどっていた。
「とにかく西へ」
「とにかく遠くへ」
道路は渋滞になった。
行き着いた避難所は満員。
またその先へ。住民は右往左往した。 官邸の5日間:24
「しっかり伝えて」
3月12日午前5時44分、福島第一原発から半径10キロが避難区域に指定された。
半径3キロから広がった。
対象となる住民の人数が格段に多くなる。
大熊(おおくま)、双葉(ふたば)、富岡(とみおか)、浪江(なみえ)の4町で、5万人規模だ。
官邸地下の危機管理センターにある幹部会議室。
そこに詰めていた内閣危機管理監の伊藤哲朗のところにも、避難区域拡大の決定が届いた。
伊藤を中心に、住民をどう避難させるかが話し合われた。
すぐに避難区域内の住民数と世帯数が調べられた。
入院中の患者や介護の必要な人たちは何人か。
その人たちを圏外に運び出すための車両はどうやって手配するか、
受け入れ先の施設はどう確保するのか――。
警察庁や消防庁、厚生労働省から次々と報告が上がってきた。
幹部会議室には、原子力災害対策本部の事務局を担う原子力安全・保安院の幹部もいた。
伊藤はいった。「避難区域が拡大されたので、しっかりと県や市町村にも伝えてくれよ」
伊藤は重ねて「しっかり頼むぞ」と念を押した。
原子力災害が発生した場合、避難などの勧告や指示を市町村に連絡する役割を担うのが、
原発のある大熊町に置かれた国の現地対策本部だ。 現地本部には福島県副知事の内堀雅雄も駆けつけた。
7班を編成して対応した。
震災の影響で通信手段は限られ、衛星電話が3台しか使えなかった。
ここも混乱していた。
保安院原子力防災課長の松岡建志によると、
午前6時20分ごろ現地本部が大熊、双葉に避難区域拡大の連絡をした。
現地本部がまとめた記録にはそうあるという。
その記録では、富岡、浪江と初めて連絡がついたのは午前7時48分。
記録では避難状況を確認した、となっている。
浪江町役場では避難区域の拡大をテレビの報道で知ったのが実情だった。
そして、避難を決めた。
防災無線で呼びかけたり、バスの手配をしたりで、役場も町民も混乱した。
避難指示を出した首相の菅直人は福島第一原発の視察に向かう。
出発前、記者団に「現地の責任者と話をして状況を把握したい」と述べた。
自衛隊のヘリ「スーパーピューマ」に乗り込み、午前6時14分に官邸屋上を飛び立った。
同行は、原子力安全委員長の班目春樹、首相補佐官の寺田学、記者や医務官、秘書官ら12人。
約1時間後、菅は原発の現場に到着した。 官邸の5日間:25
「いいから早く!」
12日午前7時12分、首相の菅直人を乗せた自衛隊のヘリが東京電力福島第一原発に到着した。
官邸の防災服にスニーカー姿の菅はそのままマイクロバスに乗った。
菅ら視察に来た12人のほか、出迎えた東電副社長の武藤栄(むとう・さかえ、61)、経済産業副大臣の池田元久(もとひさ、71)が乗り込む。
池田は現地対策本部長だ。
菅は運転席の後ろにある右窓側の席に座った。
隣に武藤が座ると、菅は激しく詰めよった。
「何でベントができないんだ!」
「早くやれ!」
「いいから早くやれ!」
菅の四つ後ろの席にいた首相補佐官の寺田学が驚くほどの声だった。武藤が何か答えた。
寺田は「ごにょごにょごにょごにょ、としか聞こえませんでした」。
菅も、そのときの武藤の返答を「ごにょごにょ、だった」という。
マイクロバスの後部には、官邸記者クラブの代表取材で同行していた共同通信記者の津村一史がいた。寺田は困った顔を見せた。
「怒鳴ってんの、書かないでくれよなあ」
とにかく、このときの菅は憤りを隠さなかった。本人も否定しない。
「ベントをしなければ国が危ないというときに、当事者の東電が煮え切らないことをいっている。そりゃ怒鳴り声にもなるよ」 3月11日以来、菅が感情をむき出しにした数少ない場面だった。
しかしこのときのイメージが「怒鳴り散らす菅」の印象を増幅させた。
声が大きくなったのは菅だけではない。
官邸の中2階に残った経産相の海江田万里もヒートアップしていた。
東電フェローの武黒一郎への言葉に怒気がこもった。
「どうしてベントができないんだ!」「命令するぞ!」「命令するぞ!」「命令するぞ!」……
菅がまだ上空にいる午前6時50分、
海江田は原子炉等規制法に基づき、1号機と2号機でのベントを実施するよう求める命令を出した。
なぜベントができないのか。
その理由が官邸に上がらない。
このままでは原子炉が爆発してしまう――。
菅らのマイクロバスが現場の対策本部がある免震重要棟に着いた。
一行は、なぜか放射線量を測る作業員の列に並ばされてしまう。
列は進まない。
菅がおかしいことに気がついた。
「こんなことやってる暇はないだろ!」と叫んだ。
列から外れ、2階の会議室に向かった。
菅は息をのんだ。 官邸の5日間:26
決死隊つくってでも
福島第一原発を訪れた菅直人ら一行は3月12日午前7時20分ごろ、免震重要棟に入った。
一歩入って菅は息をのんだ。
廊下は人をかき分けないと進めないほど作業員であふれている。
中には上半身をはだけて死んだように寝ている男もいた。
2階に続く階段にも、一段一段の両脇に汗だくの男たちが立ち並び、階段の壁を背にして目をつぶっている。
男たちは放心したような表情だった。
男たちをかき分け、一行は2階に上がっていった。
菅は「野戦病院のようだ」と思った。
案内された部屋に入ったらどうしたわけか誰もいない。
共同通信記者の津村一史も中に入った。
それに気づいた菅は「記者は関係ないだろ」といい、追い出した。
そこに体格のいい福島第一原発所長の吉田昌郎が入ってきた。
菅は初めて吉田と会った。
東電副社長の武藤栄が吉田の横についた。
机には第一原発のプラントの地図が広げられ、2人は菅に現状を説明した。
武藤はいった。
「ベントについては手動でやるかどうかを1時間後までには決めたい。予定している電動でのベントは実施までに4時間くらいかかります」
手動だと、放射線量が高い現場に人が入り、人の手で原子炉内の蒸気を逃がすパイプラインの弁を開けなければならない。
菅は「そんなに待てない、早くやってくれ!」。強い口調だった。 このやりとりに、首相補佐官の寺田学は
「東電はなんて悠長に構えているんだ」といらいらしたのを覚えている。
寺田は医務官から「線量も高いので、長くいるのは避けた方がいい」といわれた。
それを伝えようにも、菅の勢いに割り込めなかった。
しかし、吉田の説明は明快だった。
「ベントはやります。決死隊をつくってでもやります」
菅はそのとき「この男とは話ができる」と思ったという。
手動でのベントに向けて吉田たちが動き出した。
話し合いが終わり、会議室を出た寺田に、同行していた経済産業副大臣の池田元久が、
寺田の背をたたいて「総理を落ち着かせてくれよ」といった。
寺田は「いつもよりましですよ」といってかわした。 官邸の5日間:27
ベントはしたが
首相の菅直人が福島第一原発にいた12日朝、
第二原発でも原子炉の圧力を制御できなくなり、午前7時45分に緊急事態宣言が発令された。
それを受け、第二原発も半径3キロが避難区域に、半径3〜10キロが屋内退避区域に指定された。
事態の悪化は全方位に広がる様相となった。
第一原発ではベントに向けた準備が進められ、
午前8時29分、東京電力は原子力安全・保安院に「午前9時ごろから1号機でベント操作を実施予定」と報告した。
福島第一原発を発ち、被災地の宮城県を上空から視察した菅は午前9時19分、官邸へと帰路に就く。
その直前の午前9時4分、1号機でベントの作業が始まった。
日本で初めて、意図的に放射性物質を放出する事態だ。
パイプラインの弁を手動で開けなければならない。
被曝(ひばく)量を軽減するため2人1組の3班体制を組んだ。
耐火服を着て、懐中電灯を用意した。
通信手段はない。暗闇、高い放射線量……。
1班の2人は予定通り、弁を25%開けて中央制御室に戻ってきた。
だが、2班目が現場に向かう途中のことだった。
線量計が警報音を発した。
90ミリシーベルト超を告げる音だ。
2班は引き返した。3班目は現場に行くこと自体を断念した。 東電社長の清水正孝は出張先の関西方面から午前10時ごろ、本店に戻った。
地震発生時、夫人同伴で奈良の平城宮跡を見学していた、と毎日新聞は報じている。
清水が本店に到着したころ、現場では中央制御室から遠隔操作で弁を開ける作業が試みられていた。
ベント操作の一人は被曝量が100ミリシーベルトを超えた。
午前10時47分、第一原発の視察を終えた菅が官邸に戻った。
菅や経済産業相の海江田万里ら原発事故対策の中枢メンバーは、
携帯もつながらない地下の中2階に見切りをつけ、この日午後から
5階の総理執務室とその隣の応接室を司令部として本格的に使いはじめる。
午後2時30分、東電は原子炉内の圧力が低下していることを確認した。
このことから1号機でベントが成功したと判断した。
それが官邸にも報告された。
中枢メンバーが5階に集まり始めた。
菅は午後3時から始まった与野党党首会談に出ていた。
そのとき1号機が爆発した。
官邸の5日間:28
爆発、放送しよう
3月12日午後3時36分、1号機が爆発した。
それに気づいたのは、地元福島のテレビ局、福島中央テレビだった。
郡山市の本社。1階の報道フロアにいたチーフカメラマンの箭内太(やない・ふとし)(45)は、
何げなく収録デッキのモニター画面に目をやった。白い煙が見えた。
「なんだ、この煙は」
写しているのは、福島第一原発の南南西約17キロの山中に設置されている無人カメラだ。
24時間監視できるようにしてある。
箭内はすぐ、その映像をブルーレイディスクに落とした。
隣の編集室に持って行き、同僚のカメラマンと一緒に見た。
映像を拡大した。建屋が爆発していた。
近くの放送フロアに報道制作局長の佐藤崇(55)がいた。
箭内は佐藤の腕の袖を引っ張り、編集室に連れて行って映像を再生した。
「爆発は原子炉の中か、外か?」
佐藤は何度も尋ねた。放射能の拡散が心配された。煙の元は原子炉建屋のようだった。
箭内は「早く映像を流しましょう。建屋が爆発したのは事実だ。映像が事実です。事実は放送しましょう」。
心臓がどきどきしていた。
佐藤は決断した。「よし、放送しよう。映像で危機を伝えられる。判断するのは視聴者だ」 2人とも福島の人間だ。
画面を見ながら、家族や友人の顔が浮かんできた。
「テレビを見てくれ。早く避難してくれ」。心の中で祈った。
午後3時40分、放映中の全国放送に割って入って、爆発の映像を流した。
防災用の白いヘルメットをかぶったアナウンサーの大橋聡子(さとこ)がカメラに向かう。
論評や解説は一切なし。
7分余りの間、大橋は見たままを言葉にし続けた。
「先ほど福島第一原発から大きな煙が出ました。北に向かって流れているのが分かるでしょうか」……
爆発から4分間で下した判断だった。
住民はその映像を見て避難した。
佐藤と箭内は今、あのとき決断してよかったと確信している。
そのころ首相の菅直人は、午後3時から官邸で始まった与野党党首会談の真っ最中だった。
「原発から煙が出ているようだ」
官邸でもそんな情報が流れ始めた。確認に追われた。
保安院や東電に問い合わせたが、確答はなかった。
東京ではその映像はテレビで流れていなかった。
官邸の5日間:29
「あちゃあ」という顔
首相の菅直人が与野党党首会談を終えたのは1号機が爆発した27分後の12日午後4時3分。
東京電力会長の勝俣恒久が北京から本店に帰ったころだ。
勝俣は昨年3月30日の記者会見で、マスコミOBと一緒の訪中だったことを認めて「東電が(旅費を)多めに出した」と語った。
1号機の異変の知らせは菅にも伝えられたが、白煙が上がっているということだけが報告された。
午後4時49分、日本テレビが全国放送で爆発の映像を流した。
福島中央テレビから日テレ系列で全国放送された。
首相補佐官の寺田学はその映像を秘書官室で見て、すぐに隣の総理執務室に駆け込んだ。
テレビをつけたのか、チャンネルを変えたのかよく覚えていないが、とにかく声を張り上げた。
「総理、これを見て下さい」
執務室には官房副長官の福山哲郎と原子力安全委員長の班目春樹(まだらめ・はるき)もいた。
寺田は班目が「あちゃあ」という顔をしたのが印象に残っている。
寺田は「総理がカッとして班目さんにガツンとやらなければいいが」と思った。
班目は「水素爆発はありません」と断言していたからだ。
その断言は、震災初日の11日夜ごろだと記憶している。
官邸5階の執務室でプラントの図面を広げ、菅は班目に「水素爆発はないのか」と何度も尋ねた。
「ありません」と班目はいっていた。 班目は「水素爆発のことは頭になかった。
起きてみれば解説はできるが」と振り返る。
しかし班目は菅にガツンとやられなかった。
菅はいう。
「予測できなかった人にそれ以上いっても仕方ないだろ」
とにかく、テレビを見た菅は、改めて情報を集めるよう指示した。
福島中央テレビが地元枠で爆発の映像を流してから1時間9分後だった。
福島中央テレビは日テレに全国放送するよう何度も要請していた。
なぜ流れなかったのか。
日テレの広報担当副部長、小塩真奈(こしお・まな)は説明する。
「福島中央テレビは速報性を重視した。日テレにもすぐに映像は届いていた。だ
が、何が起こっているのか、その分析がない中で映像を流すと、パニックが起こるのではないかと危惧した。
映像を専門家に見てもらい、解説を付けて放送した」
ちなみに日テレは、14日の3号機爆発の映像を福島中央テレビの数分後に全国放送した。 官邸の5日間:30
無理をしてでも来て
12日午後に1号機で起きた水素爆発について、
首相の菅直人が手に入れることができた情報は、
日本テレビで午後4時49分に放送された福島中央テレビ撮影の映像だけだった。
官邸には「白煙が上がっている」という報告がきただけで、
原子力安全・保安院も、原子力安全委員会も東京電力も、菅のところにテレビ以上の情報は伝えていない。
菅がテレビで爆発を知るその二十数分前、東京電力は
福島第一原発で放射線量が毎時1015マイクロシーベルトを計測したと保安院側に通報した。
なぜ線量が上がったのか、何が起こっているのか。白
煙は爆発によるものなのか。そもそも爆発は本当にあったのか――。
官邸は情報収集に追われるが、具体的な情報は集まらない。
菅は午後5時の少し前、秘書官に命じて、石川県能美市にある
北陸先端科学技術大学院大学の副学長、日比野靖(66)に電話を入れさせた。
日比野は埼玉県入間市の自宅にいた。菅とは東京工業大学の同窓だ。
大学の改革を訴えた学生運動をともに担った。後に菅内閣の内閣官房参与になる。 電話に出た日比野に、秘書官は菅の意向を懸命に伝えた。
「総理が、無理でもいいから来てくれないか、といっています」
日比野には、その日の昼ごろと午後3時ごろにも同様の電話があった。
だが、そのときは断っている。
前日、東京都文京区の中央大学理工学部であったセミナーに参加している際に地震にあう。
一晩をそこで明かして帰宅した。ほとんど寝ていなかった。
「疲れているので勘弁してほしい」と伝えていた。
だが秘書官は、この日3度目の電話では引き下がらなかった。
「総理は、無理をしてでも来てほしいといっています。無理を承知のお願いだそうです」
日比野は1号機爆発の事態をニュースで知っていた。
原発事故のことで菅が呼んでいるのだろうと察しはついた。
日比野の専門はコンピューター技術。原子力は専門外だ。
しかし菅の切迫した要請に、結局、日比野は折れる。
「自分が行ってもそんなに役には立てないだろう」と思ったが、とにかく行くことにした。
夕食を取った後、タクシーで官邸に向かった。 官邸の5日間:31
いや、ぼくは行くよ
3月12日夕、菅直人の大学時代の友人で技術者の日比野靖が官邸に来てくれることになった。
それを待つ間、菅は官邸5階の執務室で、
官房長官の枝野幸男、官房副長官の福山哲郎と、1号機爆発の意味を協議していた。
テレビで爆発が報じられているにもかかわらず、官邸に爆発の内容の詳しい報告はいっさい届かない。
いらだちが、菅の声を次第に大きくした。
「東電や保安院から何も報告が上がってこないのはなぜなんだ」
「吉田所長が現場にいるじゃないか。どういう爆発か現場なら分かるんじゃないのか」
官房長官記者会見を開くかどうかが議論になった。
福山はいった。
「爆発の状況が分かりません。説明しようがありません。会見を遅らせますか」
枝野は答えた。
「いや、ぼくは行くよ。テレビで爆発の映像が流れているのに、
会見まで遅らせたら国民の不安が大きくなる。会見はしますよ」
やりとりを聞いた菅はしばらく考え込んでいたが、やがて「うん、やってもらおう」といった。
午後5時39分、すでに10キロ圏の避難を指示している福島第一原発だけではなく、
第一原発の南約10キロにある福島第二原発でも避難区域が半径3キロから10キロに拡大された。 枝野は午後6時前から、記者会見を始めた。
「福島第一原子力発電所においてですね、
原子炉そのものであるということは今のところ確認されておりませんが、
何らかの爆発的事象があったということが報告をされております」
枝野は爆発の詳しい状況が分からない中で、「爆発的事象」という言葉を使った。
記者からは原子炉本体が破損しているかどうか、再三問われた。
枝野は「分析を進めている」などと答えるにとどまった。
午後6時ごろ。原子力安全・保安院でも、審議官の中村幸一郎が1号機の爆発について記者会見した。
「(テレビの)映像を見る限りの情報しか、具体的な情報は得られていません」
爆発から2時間以上も経っていた。
午後6時25分、避難区域が福島第一原発の半径20キロに拡大した。
官邸の5日間:32
「炉へ海水注入せよ」
首相の菅直人や経済産業相の海江田万里らが海水注入の実施について話し合ったのは12日午後6時。
だがそれまでにも官邸では早期の海水注入の実施が話題になっていた。
その日の午後早く、官邸地下の危機管理センターで
内閣危機管理監の伊藤哲朗と原子力安全・保安院の幹部職員が
海水注入を巡ってやりとりしているのを何人かが聞いている。
伊藤「冷却水注入といっても、普通の水じゃ量が足りないだろう。海水を注入できないのか」
保安院「炉に海水を入れたらいけません。炉が使えなくなります」
伊藤「その真水はどこからどれくらいを運べばいいんだ」
保安院「……」
1号機にはこの日早朝から消防車を使って、千リットル単位の真水を注入していた。
真水は量に限界がある。
原発は海の近くだ。
大量の海水を入れて、とにかく原子炉を浸してしまおうというのが海水注入だ。
東京電力社長の清水正孝は午後2時50分、海水注入の実施を了解した。
その4分後、福島第一原発所長の吉田昌郎は、所長権限で海水注入を実施するよう指示を出した。
そのころ、官邸の海江田は「海水の注入をいつまでもやらないのなら命令を出す」と発言した。
午後3時半になって、やっと海水注入の準備が整う。
その直後、1号機が爆発した。海水注入の作業が止まった。
海江田は、原子炉等規制法に基づき1号機の原子炉を海水で満たす応急の措置を取るように命じた。
同時に保安院に海水注入を命令する文書を準備するように指示した。
そして、午後6時――。
総理執務室に、菅や海江田、
官房副長官の福山哲郎、首相補佐官の細野豪志が集まった。
それに、原子力安全・保安院次長の平岡英治、
原子力安全委員長の班目春樹、
東電はフェローの武黒一郎、
原子力品質・安全部長の川俣晋。
武黒は「爆発で機材が損傷を受けた。海水注入に1時間半から2時間かかります」といった。
その場では、海水に含まれた塩分によって炉が腐食する可能性や
燃料棒が溶けて再臨界状態になる危険性などについて議論になった。
「準備に2時間ほどかかるなら、その間に再臨界があるかどうかも検討しておいてくれないか」
菅はその場にいた人間にそういい渡し、20分ほどで散会とした。
武黒が電話をかけた。 官邸の5日間:34
竹竿でも突っ込んで
首相の菅直人は12日午後10時ごろ、執務室に関係三者を呼んだ。
原子力安全委員会委員長代理の久木田豊。
原子力安全・保安院次長の平岡英治。
東京電力原子力品質・安全部長の川俣晋。
菅は「まだ爆発していない2号機と3号機で早くベントを実施して水を注入すべきではないか」と繰り返した。
菅が官邸に呼んだ日比野靖も同意した。
福島第一原発所長の吉田昌郎はその前の午後5時半、ベントの準備を指示していた。
だが実施されていない。
1号機の爆発で電源車とケーブルも損傷してしまっていた。
どうすればいいか。
3人から「次の手」は提案されなかった。
協議は午後11時すぎに終わった。
日比野は菅に提案した。
「福島の原発を造ったのは東芝と日立だ。詳しいことを知っているのは、東電や保安院より、メーカーだ」
「そうか」。菅は秘書官に命じてメーカーの手配にかかった。
日比野は午後11時半ごろ、車で近くのホテルに送られる。
「明日も来いという意味か」と苦笑した。 日付が13日に変わっても事態は好転しない。
2号機と3号機のベントができていないことで官邸は緊迫する。
朝、日比野は宿泊先のホテルから再び執務室に来た。
そこに首相補佐官の細野豪志が緊張した顔で入ってきてA4の紙を菅に見せた。
ベントができないと空だきになって炉心溶融を起こす――。
日比野が見るとそんな予測が書かれていた。
菅は、中枢メンバーと協議しようと、応接室に日比野を連れていった。
しかし応接室は騒然とし、ぼうぜんとしている者もいる。冷静な協議ができる状態ではない。
「こりゃだめだ」
菅はそういい、執務室に戻った。
午前9時24分、3号機の圧力低下が確認された。
執務室に来た細野が「ベントが成功しました」と菅に報告した。
日比野は「やったあ」と拍手をした。
だが弁はまた閉じてしまう。
その後も状況は好転しなかった。
細野が「例えば弁に竹竿(たけざお)でも突っ込んで今から開けておくことはできないんですか」と聞いたほどだ。
その場にいた東電幹部は「絶対開きます。ベント弁は複数あるので必ず開きます」といった。
午前11時8分、メーカーである東芝の社長、佐々木則夫(のりお)(62)が到着した。 官邸の5日間:35
過去、俺は語らない
東芝社長の佐々木則夫は13日午前11時すぎ、執務室で首相の菅直人に会った。
菅が招いた日比野靖も同席した。
佐々木は「2号機、3号機も爆発する可能性があります」と答えた。
菅「建屋の天井に穴を開けて水素を抜けませんか」
佐々木「火花で爆発する可能性がある。高圧水で切断しましょう」
14日にその準備が整ったが、3号機は爆発した。
間に合わなかった。
日比野は官邸の印象を語る。
「総理に助言すべき組織が機能せず、当事者意識が欠如していた。
組織の都合が優先され、必要な知識を持った人間が役職にいなかった」
東電社長の清水正孝に会おうと広報部課長の長谷川和弘に取材を申し入れたが、応じてもらえなかった。
清水に尋ねたかったのは、東電が何を官邸に要請していたかの問題だ。
官邸のいう「全面撤退」だったのか「作業に直接関係のない一部の社員の一時的退避」だったのか。
清水は周囲に「俺は二度と過去のことを語ることはない」といっている。
清水は経済産業相の海江田万里らに撤退問題で頻繁に電話をしてきていた。
15日午前3時すぎ、内閣危機管理監の伊藤哲朗は執務室で菅にいった。
「決死隊のようなものをつくってでも頑張ってもらうべきだ」。
菅も「撤退はあり得ない」といった。経緯はこのシリーズの前半で報じた通りだ。 その後、清水は官邸に呼ばれ、撤退しないことを即座に了承した。
伊藤は「東電はあれだけ強く撤退といっていたのに」と不審に思う。
そう思ったのは午前3時前、
総理応接室にいた東電幹部が「放棄」「撤退」を伊藤に明言したからだ。
元警視総監の伊藤はそのやりとりを鮮明に記憶している。
伊藤「第一原発から退避するというが、
そんなことをしたら1号機から4号機はどうなるのか」
東電「放棄せざるを得ません」
伊藤「5号機と6号機は?」
東電「同じです。いずれコントロールできなくなりますから」
伊藤「第二原発はどうか」
東電「そちらもいずれ撤退ということになります」
政府の事故調査・検証委員会の中間報告は撤退問題を、官邸側の勘違いとの調子で片付けている。(木村英昭)
◇
明日から新シリーズ「原始村に住む」が始まります。
原始村に住む:1
考えます いろいろ
雪が降っていた。
山に囲まれた4ヘクタールの土地に木造の建物が点在している。葉の落ちた木々が周りを囲む。木にぶら下がったまま柿が腐っていた。
1月初旬、福島県川内村の山中。福島第一原発から25キロ。
「話をする人もあんまりいないんだけど、悔しいっつうかねえ。でもあんまり悔しさとかいいたくないじゃん。それも悔しくて」
風見(かざみ)正博。61歳。東京都出身。この地に入って35年になる。
もとの地名がバクだったので、獏原人(ばくげんじん)村と名づけた。自給自足の共同体を目指した。
自分で家を建て、畑をつくり、山奥から水を引き、木を割って燃料にした。
放し飼いで鶏を飼い、自然卵を売って必要最小限の現金を得た。お金がないという点では貧しかったが、満足感があった。昨年の3月11日、原発事故が起こるまでは。
以前、ここには幼子を育てる若い一家と風見夫婦がいた。
事故後、若い一家は県外に逃げ、風見の妻は隣のいわき市で暮らすようになった。
「前はね、向こうにあるもう1軒の煙突から煙がのぼるとうれしくてね。ああ、いるんだなって」
今、この地に住むのは風見1人。
朝8時と午後の3時に400羽の鶏から卵を採り、顧客の元へ運ぶ。50軒あった契約先は半分に減った。
「全部やめられちゃってもおかしくないところだったけど、半分は残ってくれて」
5月に測ったとき、卵に含まれる放射性セシウムは1キロ当たり8ベクレルだった。
国の暫定基準値500ベクレルに比べると、ずっと低い。 「卵ってあまり出ないんだよ、放射能。今はもっと少なくなっていると思う」
とはいえゼロがいいに決まっている。
考えます、やっぱりね。いろいろね。いろいろ考える。わずかとはいえ放射能が出るものを売り続けていいのか、とかね」
放し飼いをやめ、鶏は小屋に入れたまま。
えさの中心は米国産トウモロコシとスーパーの野菜だ。
広い土地がありながら放し飼いできない現実。目の前の畑で取れる野沢菜を与えられない矛盾。
「自分の理想追求がめちゃくちゃになっちゃったわけね」
飄々(ひょうひょう)とした人柄。淡々とした語り口。ふっと遠くに目をやった。
「なぜここに残ってんだっていわれてもねえ。いろんな事情があって。
ここの土地が好きだってのがまずあるし。しがらみがない人はさっさと遠くへ行くだろうけど……」
10年前、そんな風見に触れて人生を変えた元原子力技術者がいる。
その男は今、はるか南の地で自給自足を目指している。(依光隆明)
◇
第7シリーズ「原始村に住む」は、2人の人物を軸に原子力の周辺を見ていきます。敬称は略します。
原始村に住む:2
東電の人がいるよ
青空の下、思い思いの格好で老若男女が歩く。
ギターをかき鳴らしながら歩く者がいる。ぽんぽんぽん、打楽器をたたく者もいる。
プラカードや横断幕を持って歩く者もいる。子どもの手を引く人がいる。乳母車を押す人がいる。
「原発いらなーい」。そんな声がオフィス街にのびていく。
昨年の4月29日、高知市。中土佐町矢井賀に住む
染織家の宮崎朝子がネットで呼びかけると、口コミで広がって約200人が集まった。
デモというより、パレード。アーケードを楽しそうに歩いていると、ふらりと列に加わる若者たちもいた。
宮崎は千葉県の出身。愛媛に住んだ後、10年前に家族で矢井賀に移り住んだ。
大震災が起きた昨年3月11日は東京都国立市の知人のマンションにいた。
翌日、八千代市の実家まで6時間かけて帰る。
「駅のホームは人であふれるし、余震も多かったし。
友達から放射能が危ない、雨にぬれるなとかメールが来るし。ほんとに緊張しました」
しばらく高知に帰れないんじゃないかと思ったが、予約していた14日の飛行機に乗れた。
高知に帰り着いたとき、違和感に包まれる。
「平和で静かで、あまりにも何にもなかったかのようで」
関東の状況を知っているだけに、気持ちが落ち着かない。何かしなくては、と考えたのがデモだった。
「私はデモに参加したこともないし、だから友達2人に『デモやるから協力して』って頼んで」 デモの後で数人に話をしてもらうことにした。誰に頼もうか、と相談したとき、
友達が「元東京電力の人がいるらしいよ」。
じゃあその人にも話してもらおう。
依頼の電話を受けたのは四万十市に避難中の木村俊雄(47)だった。
かつて東電社員として福島第一原発の運転に携わり、退職して福島県大熊町に住んでいた。
放射能に追われて隣接の田村市に逃げ、栃木県に逃げ、
県営住宅開放の報道を見て友人がいる高知まで逃れてきた。
依頼を受けて木村は躊躇(ちゅうちょ)した。
人前で話したら身の危険があるのではないか。
なぜ自分がやらなければならないのか。
迷いに迷った末、思う。話すのも意義があるかな。
デモのあと、県庁横の緑地にみんなが集まった。
ベンチに座った木村がマイクを握った。
気負うことなく、時に笑顔を見せながら。
「僕は福島第一原発から15キロ真西に住んでいました」
原始村に住む:3
ぶっちゃけよう
木村俊雄(47)は、10年前まで福島第一原発で炉心の運転・設計業務に携わっていた。
原発は点火用のバーナーで火を付けるわけではない。
点火役を担うのは、制御棒。
それを引き抜くことで燃料のウランを燃えさせる。
核分裂が激しくなりすぎると危険なので、そうならないように繊細に制御棒を引き抜く必要がある。
「原発を立ち上げるとき、僕たちが手順書を作っていました。
百数十本の制御棒のうち、どの制御棒をどのくらい引き抜き、次はどの制御棒を抜くか。
手順書は約40ページあり、手順書通りにできるかどうか運転員の後ろについて見ているんです」
原発の立ち上げ作業があるたびに手順書は作り直す
膨大なマニュアルを厳密に守ってこそ、原発という巨大システムが計算通りに動いた。
昨年の4月29日、高知市。デモに参加しながら、木村は集会で話す中身を迷っていた。
デモの列を外れてカフェに寄り、ビールを飲んだ。
観光地にもなっているひろめ市場で昼食をとったときも、カレーを食べながらビールを飲んだ。
やがて腹は固まった。「これはもう、ぶっちゃけた方がいいな」
午前のデモに続き、午後は県庁横の緑地で小集会。木村はマイクを持ち、淡々と自分の経験を話した。
原発の問題点、東京電力の体質、事故のこと。木村を囲む参加者たちは、その内容に引き込まれた。
学者ではなく、東大出のエリートでもなく、木村は実際に原発の運転と付き合ってきた。
原発を動かす者しか分からない世界を知っていた。 たとえば出力をごまかす裏技。
「福島第一の1号機だったら認可された熱出力は1380メガワットで、絶対それを超えちゃいけないんです。
だから記録上の数値だけは超えないよう、僕が大型コンピューターにアクセスして係数をかける」
夏場は海水温が高いので熱出力の割に電気出力が出ない。
だからぎりぎりまで熱出力を上げ、認可分を超えそうになると細工を行った、と振り返る。
細工はメーカーの保守用端末から行い、
「どう数字を変えたかという資料は、自分の机の引き出しの一番後ろにしまっていました」。
細工することで、打ち出される数字が認可出力以下になる。
それを原子力安全・保安院に報告する。
デモを主催した宮崎朝子は、木村が話す内容に驚いた。
「びっくりしました。こんな話をしていいの、みたいな……」
原始村に住む:4
毒がどんどんできる
木村俊雄(47)は福島第一原発がある福島県双葉町で生まれた。
双葉中では野球部のキャッチャーで4番。
高校野球を目指し、中2になると硬球で練習をしていた。
転機は中3のときにきた。
「母一人子一人だったので、東電学園を受けてみようかな、と」
東電学園とは東京電力が運営する全寮制の学校。
当時東京都日野市にあり、卒業生は東電に入った。
狭き門だった。受験条件は学校の推薦。
指折りの優等生でなければならなかった。
推薦をもらった木村は12月に1次試験を受ける。1月に合格通知をもらい、2次は体力測定。
公立高校の入試前に合格を決める。
「母は喜びました。当時、確か毎月約2万円が支給され、
ボーナスも3万〜5万円ありました。厚生年金もかけてくれました」
毎月支給されたのは給付金で、ボーナスは特別奨学金。
社員になったかのような扱いだった。
一学年240人は男ばかり。工業高校の電気科、電子科の内容に加え、2年までに発送配電の基礎知識を学んだ。
最後の1年は専門コース。原発が立ち並ぶ福島に戻るつもりで、発変電科の火力・原子力コースに進んだ。
1983年に卒業し、東電に入社する。福島第一原発で研修した後、新潟県の柏崎刈羽原子力建設所に赴任。
最初は試運転を担当し、稼働後は燃料管理グループに所属した。
89年、福島第一原発に異動する。 柏崎時代から木村はある作業を担当してきた。核物質の生成をコンピューターで計算する仕事だ。
ウランの燃焼に伴い、原子炉ではさまざまな核物質が生まれる。
どんな物質がどれほど発生しているか。
1カ月に一度計算し、国際原子力機関(IAEA)と科学技術庁に報告する。
「燃料のウラン235と238に中性子が当たることで、
天然には存在しない物質ができてきます。その状況を調べる必要があるんです」
福島第一原発の1号機だと燃料集合体は400体あり、それぞれに番号が付いている。
一体一体にどのくらい中性子が当たり、組成がどう変化したか、継続的に計算した。
作業を続けているうち、木村の頭に原発への最初の疑問が浮かぶ。
「プルトニウムなどの重要核種が約10種あるんですが、その増加を目の当たりにするんです。
この世に存在しないはずの毒、2万〜5万年も管理しなきゃいけないような物質がどんどんできる。
なんだこれ?の始まりでした」
原始村に住む:5
津波はタブーなんだ
子炉の中で自然界には存在しない核物質が生まれ、処理し得ないその物質がどんどん増え続ける。
木村俊雄(47)はやがて、こう思う。
「それに僕自身が加担している、そのことに気づくんです」
1991年、原発への疑問を膨らませる一つの事件が起こる。
10月30日、福島第一原発のタービン建屋で冷却用の海水が配管から大量に漏れた。
「補機冷却系の海水配管が腐食してタービン建屋から水漏れしたんです。
地下1階に水があふれ、非常用ディーゼル発電機が使えなくなりました」
原発が水に弱いことに木村は驚き、上司に聞いた。
「津波が来たら一発で炉心溶融じゃないですか」
上司はいった。
「そうなんだよ、木村君。でも安全審査で津波まで想定するのはタブー視されてるんだ」
津波を想定すると膨大なお金が要る。
だから無視する、という意味。
木村にとってこの上司は尊敬できる人物だった。
しかも福島に来る前は本店で原発の安全審査を担当している。
その人物の言葉だけに、これは木村の心に刺さった。
「津波かぶったら水は流入しますよ。そんなことに気づかないはずはないし、
つまり見て見ぬふりをしている。これはもう、原発だめじゃないかって思いましたね」
ただ、仕事にやりがいはあった。
福島第一では一貫して燃焼管理班に所属した。
通称、炉心屋。
当時、燃料集合体の価格は1体3千万円といわれていた。
「1本の制御棒を4体の燃料集合体が囲んでいます。
炉心には400体から800体の燃料集合体が入っていました」
それらの燃料集合体は同質ではない。
新品もあれば、1年以上も前から炉心に入れている燃料もある。
一体一体組成が違う。
「定期検査時に4分の1ずつ交換するんですが、
残りの燃料集合体も配置換えをします。
どう配置し直すかで一体一体の燃え方が違う。
うまくやると、何体かの交換時期を延ばすことができるんです」
交換数を4体減らすと1億2千万円の利益、
8体だと2億4千万円の利益。
配置のやりくりでそれだけの利益が上がる。
そのやりくりを担うのが約10人の燃焼管理班。
木村は12年間にわたって所属し、
最後の5年ほどは主任を務めた。
原始村に住む:6
検査官を丸め込む
木村俊雄(47)が東京電力を辞めて10年になる。
仕事にやりがいはあったが、原発への疑問は次々と膨らんだ。
社の体質にも不信を感じた。
「虚偽報告をするんです。
たとえば以前、制御棒が壊れることはたびたび起きていました。
なのに、その報告は全然していません」
発表するときは「たぶんこうなんだろうということでストーリーを作っていった」と明かす。
「つじつま合わせのため、本店と現場で昼夜を問わずテレビ会議をしていました」
定期検査には国の検査官が来る。
東電側は想定質問集を作って打ち合わせをするのだが、質問させないやり方もあった。
「ご存じとは思いますが」を木村は使った。
そういわれるとそうそう質問はできない。
「検査官が素人というか、何のノウハウもないんです。
工学系の大学に行って、たまたまそのセクションにいるだけ。
どうやって原発を動かすのかも全然知らない。素人を丸め込むなんて簡単じゃないですか」
虚偽報告と、それをチェックできない行政側。
たとえば、として木村はインターロック(安全装置)の解除をめぐる問題を例に挙げた。
「定期検査中、制御棒は1本しか抜いてはいけないことになっています。
しかし東電はすべての制御棒を引き抜いていました」 木村の指摘通りのことが設置許可申請書に書いてある。
燃料交換時、制御棒を2本以上引き抜こうとするとインターロックがかかる、と。
原子炉1基に97〜185本の制御棒があるのだが、燃料交換時には1本しか抜けないようにします、ということだ。
なぜ2本以上を抜いてはいけないのか。
木村はいう。
「原子炉のふたが開いているときに、間違って燃料がある場所の制御棒を抜いても、それが1本なら臨界にならないからです」。
いったん全制御棒を抜いて点検などをすると、
制御棒を差す前に誤って燃料を入れてしまう危険性もある。
インターロックの背景にあるのはミスの重複はありうるという考え方。
そのおおもとが設置許可であり、
設置許可が守られていることを前提に原発が動いている、と多くの人が信じている。しかし……。
全制御棒を引き抜くために模擬信号を送ってインターロックを解除していた、国の検査官はそれを見抜けなかった、と木村は振り返る。
東電の主張や国の解釈は後で紹介するとして、もう少し木村の話を続ける。 原始村に住む:7
違反ではありません
原発には効率がつきまとう。
効率次第で億単位の金が動き、発電の原価まで変わってくるからだ。
定期検査時に全制御棒を引き抜く理由も「効率を上げるためだった」と
木村俊雄(47)は説明する。
「定期検査の際、カメラを入れて炉内構造物を点検しないといけないし、
中性子検出器も交換する必要がある。
たとえば検出器の交換は3日くらいで終わらせたいんです」
効率を上げるためには制御棒が邪魔、という理屈。
そしてもう一つ、模擬燃料置き場の問題がある。
1本の制御棒は田の字に並ぶ4体の燃料集合体に支えられていて、燃料が外されると倒れてしまう。
自立の方法は、本物の燃料の代わりに同じ形状の模擬燃料を置くこと。
燃料集合体の長さは約4メートルで、福島第一原発1号機ではそれを400体、6号機では764体も使う。
それに見合う量の模擬燃料を常時炉内に構えるとなると、置き場に困る。
効率を考えると定期検査時には制御棒を抜くしかない。
全制御棒を引き抜くため、設置許可違反を承知でインターロック(安全装置)を解除していた、と木村はいう。
これに対し、東京電力はインターロックの解除を認めた上で「違反ではない」と主張する。
説明は原子力運営管理部マネジャーの渡辺沖。
「インターロックを設けなさいというのはきちんと未臨界を確保しなさいということだと思います」と前置きし、
「同等の管理をすることで安全上の担保をした」と渡辺はいう。
つまり設置許可と同等の安全策を施したからOKだ、という主張。
十分に安全なのだから
「インターロックの除外は問題ない」
「設置許可違反ではありません」と話す。
国の見解も東電を後押ししている。
原子力安全・保安院の原子力発電検査課班長、今里和之は「造る」と「運用」を分けて説明する。
具体的には
(1)設置許可通りのインターロックが造られていれば保安院としてはOK
(2)運用は保安規定に定める
(3)東電がインターロックに関係するくだりを保安規定に盛り込んだのは2000年だが、
それ以前にも保安規定には「必要な制御棒が炉内に挿入されていることを確認すること」という文言がある
(4)それをもって保安院としてはインターロックの解除が可能と判断した。
「必要な制御棒を挿入」は当たり前の行為。
その当たり前の文言が、事実上は設置許可を超えるという解釈になる。
原始村に住む:8
それが解釈ですので
燃料交換の際、原子炉のふたは開いている。ふたが開いているときに燃料が燃えると大変なことになる。
そうならないために大事なのが制御棒の挿入であり、
設置許可には燃料交換の際、複数の制御棒を引き抜けないインターロック(安全装置)を備えると明記されている。
つまりインターロックを備えるという条件で原発の設置が許可されている。
しかし東京電力は燃料交換時にインターロックを解除し、全制御棒を引き抜いていた。
現場にいた木村俊雄(47)は設置許可違反を認識し、
国の検査官が違反を指摘できなかったことも記憶に残った、と話す。
燃料交換時にロックを解除する、その作業が設置許可違反になるかどうか。実は国の説明は変転した。
原子力安全・保安院から何度目かの説明を受けたのは13日の午後2時前。
原子力発電検査課班長、今里和之の解説はこうだった。
「違反にはなりません。保安規定にも定めなくていいはずです。社内の手順書で定めればいい」
社外秘の社内手順書でインターロックの扱いに触れていれば設置許可に違反しない、という解釈。
東電の解釈と同じだった。
その解釈で間違いないことを確認します、というので今里の電話を待った。
が、かかってこないし、かけても「協議中」といわれてつながらない。
やっとつながったのは7時間後。返答はこう変わっていた。
「保安規定で定めなければいけません」。つまり保安規定に記載しなければ違反、ということだ。
インターロックの解除を推測させる文言を東電が保安規定に載せたのは2000年。
ということは、それ以前は違反となるのだが……。
以下、今里とのやり取り。
少なくとも2000年以前は保安規定にないから違反だった?
「いえ、違反ではありません。関係する条項は以前の保安規定にも入っていますから。『必要な制御棒が挿入されて』と書かれています」
「必要な制御棒を挿入」という当たり前の文言で保安規定にロックの解除を盛り込んだことになる?
「ということで認可をした、と」
インターロックの解除まで認識した上で保安規定を認可した?
「はい」
本当にその解釈でいいの?
「実際にそれが解釈ですので」
安全設備と国の解釈。両者の力関係が原発という巨大システムの一端を表している。
原始村に住む:9
そこは見て見ぬふり
木村俊雄(47)が福島第一原発にいたとき、
のちに副社長となる武藤栄(61)が上司だったことがある。
その武藤から特命を与えられた、と木村は明かす。
特命の中身は、インターロック(安全装置)と全制御棒引き抜きの両立だった。
インターロックがかかっていると制御棒は1本しか抜けない。
5、6年かかって木村がメーカーとつくり上げたのは、
燃料が取り除かれた部分をインターロックの監視下から外すシステムだった。
1本の制御棒とそれを囲む4体の燃料集合体が取り除かれたとき、その部分だけを監視下から外す。
そうなると再び1本の制御棒を引き抜くことができる。そうやって次々と制御棒を抜く。
木村が「ああ、これです」と指摘する特許が申請されていた。
1995年に出願された東芝の「定検時炉心作業監視装置」。
定期検査期間の短縮が現在のインターロックでは困難、設置許可に規定されているのでロックを削除するのも困難、として発明の意義をアピールしている。
武藤の命を受けて東芝と取り組んだのがこの研究だった、
確か90年代の終わりに完成させた、と木村は話す。
インターロック解除のやり方と比べると前進はした。
が、「設置許可を順守できているかといえば、分からない」と木村はいう。
設置許可の趣旨は制御棒を引き抜かずに燃料交換をすること、と考えるからだ。
安全と効率化はときにぶつかり合う。
木村はその度、安全が犠牲にされるのを見てきた。 原発には膨大なマニュアルが存在する。
半面、「厳格化できないブラックボックスがけっこうあって、そこは見て見ぬふりなんです」。
木村は給水流量計を例に挙げた。
「火力発電所だと定期的に取り外して補正します。そうしないと正しく計測できないからです。
ところが原発の場合、放射能があるから外すことができない。
補正ができないので正確な数値が実は分からない」
給水流量計の数値から原子炉内の熱出力が計算される。
熱出力を元に400〜800体ある燃料集合体の燃え具合が計算され、
その燃え具合からプルトニウムなど各種核物質の生成状況が計算される。
つまり給水流量計の数値が核物質の発生量を計算する基礎になっている。
「大本が確かじゃないと、すべてが狂ってくるんです。
改善しようとしましたが、だめでした。
補修部門は無頓着だし、経営もお金を出す気はなかった」
原始村に住む:10
6割が捨てられる
木村俊雄(47)はいま高知県土佐清水市で家族と暮らしている。
古い民家を安く借り、屋根や床を自分で直した。
電気温水器の風呂を薪(まき)風呂に改造し、居間には薪ストーブ。
戸外に230ワットの移動式太陽光パネル2基を据え、照明や掃除機、ラジオの電気を賄っている。
四国電力に払う電気代は月700円。
「やっと落ち着いた感じですね。避難者として来て、こういう生活をさせてもらって。ほんと、感謝しないといけない」
薪ストーブの天板に鍋を置き、煮炊きはそこでする。薪は山の雑木を使う。
「うちの山をきれいにしてくれ」と近所の人たちがいってくれるので、薪はいくらでもできる。
「本当に電気じゃないといけないのか、と考える時期に来ていると思います」
薪ストーブの居間。静かに音楽が流れる暖かな空間で、木村がインスタントコーヒーをいれる。床の杉板からほのかに木のにおいが立つ。
「電気にしかできないことだけを電気に、と思うんです。
火力も原子力も水を温めて蒸気をつくって発電します。
でも火力で3割、原子力では6割が熱エネルギーとして海に捨てられます。
送電ロスを入れると、使われるのは原発で約3割です」
できる人ができることからやればいい、と木村はいう。だから自分もできる範囲で実践している。
「田んぼを借りたので、ことしはコメをつくります。
田んぼは初めてですけど、けっこう近くの友だちが教えてくれるので。
無堆肥(たいひ)、不耕起でやってみます」
畑ではナス、大根、オクラ、ジャガイモ、シシトウ、ネギ、タマネギ。近所の人に「初めてにしては上等やなあ」とほめられた。
福島では東京電力の社員というだけで羨望(せんぼう)の対象だった。
地位があり、給料もよかった。
「いまはお金ないけど、人間らしい暮らしができる。人間の原点ってこういうところにあると思う」
薪ストーブや薪風呂を指して「原始力」と笑う。
原子力から原始力へ。
木村が大きくかじを切った背景にはある出会いがあった。
「この生き方ってのは、マサイさんに出会わなかったらなかっただろうな、と思います」
マサイというのは、福島県川内村に住む風見正博(61)のこと。
風見たちが拓(ひら)いた獏原人(ばくげんじん)村に初めて木村が出向いたのは、1999年の夏だった。 原始村に住む:11
目標、自然に還る
「獏原人(ばくげんじん)村の祭りに友人が連れて行ってくれたんです。すごい所があるんだよ、と」
1999年夏。福島県川内村に行った木村俊雄(47)は驚いた。
風見正博(61)の家には電気がなく、水は山から引いていた。
「でもこれが楽しいんだよ」と話す顔が輝いていた。
原発で働く自分とは全く逆の生き方だった。
木村は東京電力の社員だと名乗れなかった。
木村も母も、原発にどっぷりと漬かっていた。
今は亡き木村の母は、当時富岡町で原発作業員相手の下宿屋を経営していた。
孫請けの作業員たちは安い宿を求めていた。
「食事の質は落とせないのに、お金は安くしなきゃいけない。
1泊2食で3千円でした。
母は朝4時半に起きてご飯を作って。もうからない商売をやっていました」
木村は高校時代からサーフィンが好きだった。
原子力の道に進んだ理由の一つも、福島の海でサーフィンをやりたいからだった。
自然が好きなのに、原発で働いている。
原発にも会社にも疑問が膨らんでいる。
借金まで抱えながら母も間接的に原発を支えている。
「自分の中でバランスが崩れた」と木村は振り返る。
やがて会社に申し出た。「会社、辞めます」 「何で辞めるんだ」と止められた。そんな会話が何度か続き、とうとう木村は会社に行くのをやめた。
家まで来た上司が「考え直せ」と説得したが、木村は押し通した。
退職は2001年の11月だった。
1年後、双葉町で東電時代の先輩たちと酒を飲んだ。
「原発ってもうだめじゃないですか」と木村はいった。
「なぜ?」と問われ、核廃棄物の処理すらできないことを挙げた。
「お前はそんな奴(やつ)だったのか、とけんか別れです。
その後も町内で飲むたびに原発はもう終わりだといってたら、おかしいんだなこの人、みたいに思われて。
みんなが煙たがってくるのが分かるんです」
04年11月、母親の下宿をたたんで人手に渡した。
荷物を整理しているとき、中学卒業時に書いた色紙が出てきた。
「目標 自然に還(かえ)る byルソー」と書いてあった。
瞬時に記憶が戻った。ああ、そうだ。中学の時に友だちと話してたっけ。
自然の中で生きていくのって理想だよね、と。もう東電学園に入ることが決まっていたのにな。
木村の中で自然への思いが一層大きくなった。 原始村に住む:12
火さえあれば何とか
昨年3月11日。震災が起きたとき、木村俊雄(47)は福島県大熊町の自宅にいた。
原発から15キロ西、標高500メートルの山中。
家には薪(まき)ストーブや太陽光パネルを付けていた。
風見正博(61)の獏原人村にならい、自給自足を志していた。
その日午前、光ケーブルの工事が終わっていた。
テレビが見えるようになり、ちょっと見てみようかなとスイッチを入れて5分後に大きな揺れがきた。
しかし家に被害はなく、テレビを見ることもできた。
「富岡町から撮った映像だと思うんですが、テレビに津波の映像が映ったんです。
原発が津波に襲われるところが。ああ、これで原発だめだな、と思いました」
木村の脳裏に1991年の記憶がよみがえった。
津波をかぶったら原発は炉心溶融に至る。
逃げようとして、風見の言葉を思い出した。
風見は言っていた。「とりあえずチェーンソーあれば生きていけるよな」と。
雑木や廃材を切ることができれば燃料になるしたき火もできる。
要するに、火さえ確保できれば何とかなる。
午後8時、チェーンソーと斧(おの)と携行缶に入れたガソリンを持って大熊を脱出した。
田村市の妻の実家に逃げ、14日に栃木。
4月上旬、知人のいる高知県まで逃れてきた。
いま住んでいる土佐清水市には海もあり山もある。
「人情と裏表のない生活、ここにしてよかったと思います。
大熊や双葉町は原発に依存している人が多いので。
なんかいろんな意味で依存してて、依存し続けることで生きる力が失われていくというか……」
それがいいとか悪いとかはいえないし、原発を選択することの是非もいえない、と木村はいう。
「ただ、原発とは街の雰囲気を変えるくらい絶大な影響を持っていると思います」
双葉に生まれた木村は高校のときから東京電力一筋に歩み、就職後は原子力発電の現場で働いた。
母の仕事は原発作業員相手の下宿だった。
原発城下町の、東電という傘の下から、木村は木村なりに原発の存在感の大きさを見つめてきた。
大熊の隣、川内村の風見は、震災時に卵の配達で獏原人村を離れていた。
戻ると家はなんともなかった。
ラジオをつけて情報を聞いた。
太陽光パネルで電気はある。
山から水を引いているので断水もない。
「地震でもあんまり困らないんだよね」。
だが、安心できたのはほんのひとときだった。 原始村に住む:13
根源から覆された
風見正博(61)は東京都東村山市で生まれ育った。小さなころ、いじめられた記憶が残っている。
「早生まれだから、人より体がちっちゃくて。なんで人をいじめるのかな、理不尽だな、と小学生のころから考えていました」
科学少年だった。科学技術に夢を抱き、猛烈に勉強した。
東大を受けようとしたが、大学紛争で入学試験はない。翌年再チャレンジしようとしたものの、結局はあきらめた。
「東大は2年分の受験生がいて合格は難しい。
浪人生なので絶対に受かるところにしたい、下宿の窓から田んぼが見えるようなところがいいな、と思ったんです。
熾烈(しれつ)な戦いから逃れ、癒やしを求めたんですね」
選んだのは島根大の物理学科だった。夢は膨らんだが、挫折する。
「自分でいうのもなんですけど、ギンギンに勉強して科学技術やるぞって感じで入ったんです。
でも周りはのんびりしていて。自分と合わなくて、1年で退学しちゃうの」
いろいろなことを考え、疑問が浮かぶ。科学技術が生きる実感を奪っているのではないか、とか。
「都会の人は水道の水が止まったら困る。
俺は水が止まったら山に行って水路のゴミどける。不便だけど、生きてるって実感がある」
生の実感を求め、1970年代の半ばに福島県川内村へたどり着く。
山に囲まれた4ヘクタール。
先に入ったグループが出た後だった。
「当時は川沿いを1時間歩かないと行けなかった。人間嫌いってわけじゃないけど、それがよかった」
お金も少しは要る、何をしようかと考えて鶏を飼った。
「卵なら軽いから運ぶのが楽だ、と考えて。
えさが重いから関係なかったんだけど」
自給自足しながら妻と一緒に子ども3人を育てた。
充実感があった。
自分で引いた水道の蛇口から水が出る、それだけでうれしかった。
昨年の3月11日まで、そんな生活が続いていた。
「自給自足は誰にも支配されないことだ」と信じていた。
「いざとなれば山に入って生きていける」とも思っていた。
が、放射能だけはどうにもならなかった。
福島第一原発から25キロ。
放射線値はそう高くはないものの、一帯が汚染された。
「バブルの破綻(はたん)とかリーマン・ショックは関係ないよって言えたけど。
自給自足が根源から覆されました。
ある意味、生きるすべをすべて失いました」
原始村に住む:14
不便でも自由だった
「家も自分で建てたけど、器用とか全く関係ない。
俺、不器用だし。みんな思い込んでるだけなんですよ、できっこないって」
福島県川内村。
獏原人村に立つ自宅で風見正博(61)がコーヒーを口に運ぶ。
薪(まき)ストーブの上にはやかんと鍋が載っている。
「住みながら家を造ったんだよ。
古材をリヤカーとかで運んで。材木運ぶだけで3年かかった。いつの時代だ、みたいな話だよね」
古材を運んでいたのは1980年ごろ。
不便だったが、その不便さが充実感につながった。
なにより自由だった。空気も水も食べ物もある。誰にも支配されない自由さだった。
少しずつ、暮らしは変わっていった。
車が通るでこぼこ道がつき、アンテナにつなげば携帯電話も使えるようになった。
以前はランプ生活だったが、いまは太陽光パネルが電気を作ってくれる。
「電気が足りないこともあるのね。そのときは使わないとか、起きてる電気に合わせて暮らしてる。
だって本来は太陽に合わせて暮らしてきたわけだから」
原発事故まで、卵を売って月の収入が10万円。
酒もたばこもやらないからそれで家族が暮らしていけた。
「15万ほしいけど10万しか入らなくてほしい物が買えない。
でもそのうち買えたりするとうれしい。10万円しかなくても楽しそうに暮らしているのがいい」 1986年にチェルノブイリ原発が爆発したとき、放射能測定器を共同購入した。
おそらく国はまともな発表をしない。
自分たちで測ろう、と。旧式だが、とりあえず放射能の測定はできた。
昨年3月11日、その測定器が役に立った。
数値を見ながら一晩を過ごし、12日朝に三春町へ避難した。
1号機の爆発後は茨城県坂東市にある妻の実家へ。
数日後、鶏にえさをやりに行きたいと思う。
電話した先は木村俊雄(47)だった。
福島第一原発の元技術者として、木村は具体的に予想を話した。
大爆発する危険性はない、と聞いて風見は鶏のえさやりに川内までいったん戻る。
それが19日だった。
ワゴン車を運転し、妻と長男が同乗した。
那須、郡山と、ところどころに放射線値が高い場所があった。
「遠ければ安全と思っちゃうけど、実際は全然違った」と振り返る。
鶏は元気だった。
獏原人村に2時間滞在し、いわき市まで戻って持参の弁当を食べた。
原始村に住む:15
何が正しいかなんて
昨年11月、風見正博(61)は福島県川内村の村議選に立候補した。
「俺、別に政治とか全然好きじゃないけど、それでも出ちゃったわけですよ。
自分が当選するというよりも、既成のことに我慢できない人が投票する場所がほしいと思って。
もちろん反原発を主張して」
準備の途中、弱気の虫が出る。
「人にね、出てくれないかって頼んだりして。
でも自分が苦しいといって人に頼んじゃいけないなと思って、結局立候補した。
街頭で演説もしたよ。もしかしたら通るかな、なんて甘い考えもあったけどね」
結果は次点。57票だった。
「やっぱり議員やんなくてよかった。
人を攻撃とかしたくないし。
こういう暮らししてるのは、そういうことが嫌だからやってるんだし」
薪(まき)ストーブの上にもちを乗せ、焼けたらしょうゆにつけて食べる。
「最近、七匹の子ヤギを考えるんだよね」。
オオカミの目から逃れるために7匹の子ヤギが様々な場所に隠れる。
そして1匹だけが助かるお話。
「逃げた時点では誰が正しい選択か分からない。今、同じ状況。何が正しいか分かんないじゃん」
残るのが正しいのか、逃げるのが正しいのか。
どこに逃げるのが正しいのか。
食べ物はどうか。食べるのがいいか、食べないのがいいか。 獏原人(ばくげんじん)村のほかの住民は避難し、風見は残った。
風見に出会って人生を変えた福島第一原発の元技術者、木村俊雄(47)は高知で暮らす。
東京電力を辞めて3年たった2004年の夏から冬まで、木村は獏原人村で暮らしたことがある。
朽ちかけた小屋を借り、ひとりで住んだ。
そのときのことを、木村は「東電の洗脳が解けていった」と表現する。
原発がなくなると生活が維持できないのか、身の丈にあった生活を考えるべきではないか。
昨年4月にはデモの後でマイクを握った。
「東北の知り合いの人たちがね、よく顔と名前を出したな、頑張れって応援してくれるんです。頑張れって言ってくれる人ばかりですね」
新生活を始めるに当たり、木村は考えた。
原発の電気は買いたくないな、と。
太陽光パネルを増やし、風力発電を試みて電気を自給しようと思い描いている。
◇
明日から第8シリーズ「英国での検問」に入ります。 英国での検問:1
いきなり警官が
近づいてきたパトカーがいきなりサイレンを鳴らし、目の前で止まった。午後4時過ぎだった。
2人の若い警察官が降りて来た。
「写真を撮っていたというのはあなたか」
防弾チョッキ姿。腰ではなく、胸に拳銃と手錠が下がっている。向かい合うといやでも目に入る。
日本から来た新聞記者であることを告げ、名刺を出す。
「パスポートを」
パスポートを渡すと、1人がパトカーに戻って無線で連絡を取りはじめた。1人は私から離れない。
2011年11月、英国西海岸のカンブリア。見渡す限りの牧草地だ。
羊たちが草を食べる風景の中に、およそ場違いな巨大な煙突や球形の建造物がそびえている。
セラフィールド。使用済み核燃料の再処理工場だ。
ここで日本の原発の使用済み核燃料からプルトニウムを取り出す「再処理」をしている。
6日前、所管する「原子力廃止措置機関」という政府系機関に見学を申し込んだが、断られた。
写真だけでも撮ろうと、施設まで来て車を降り、公道から鉄条網のフェンス越しに10回ほどシャッターを押した。その直後の検問だった。
横に立つ警察官に、何のための検問か尋ねた。
「重要な施設なので、あなたの身分の確認をしている」 なぜ写真を撮ったと分かったか。
「一般の人から通報があった」
公道で写真を撮ることは止められないが、テロ対策のため警戒を厳重にしているのだという。
車から、「日本から来た新聞記者だといっている、どうぞ」と報告の声が聞こえる。
一緒にいる警察官はさかんに話しかけてきた。
米国の同時多発テロいらい警戒が厳しくなったこと。
数週間前にも日本人が施設の見学に来たこと……。
パトカーの1人が、上司に尋ねられたことを聞いてくる。
「取材を申し込んだ人と連絡が取れないか」
「原子力産業をどう思っているか」
日が暮れかかっている。しばらくしてパトカーの警察官が戻ってきた。「長時間かかって申し訳なかった。行っていい」
そういうとパトカーはセラフィールドの中に消えた。
時計を見ると5時。長い検問だった。
ここで取り出されたプルトニウムは、船で日本に運ばれていた。
その船会社は東京にあった。
英国での検問:2
船主は幽霊会社
東京に「シーバード」という会社があった。1991年設立の船会社だ。
92年暮れから93年1月にかけ、日本はフランスから船でプルトニウムを運んでいる。
それを運んだのはあかつき丸という日本船籍の核燃料輸送船だ。
シーバード社はその船主だった。
登記簿によると、最後の住所は「東京都千代田区内幸町1丁目1番地1号、帝国ホテル」となっている。
プルトニウム運搬船の船主だというのに、資本金はわずか40万円。
93年、日本社会党の参院議員(当時)、翫正敏(いとう・まさとし)が
シーバード社に関して参院科学技術特別委員会で質問している。
「私が行って調べてみましたけれども、これは簡単にいうとペーパーカンパニーでありまして、
幽霊会社、実体のない会社であります」
当時の科学技術庁長官は江田五月だった。江田はこう答弁した。
「なかなか姑息(こそく)なことだという感じもいたしましたが、
聞いてみますと、原子力損害の賠償責任のこととか、あるいは警備のこととか……」
プルトニウムは核兵器の材料ともなる物質だ。
そんな危険な物質の運搬に際し、海上警備や事故時の賠償のために、日本が責任を持つ形が必要だった。
そこでペーパーカンパニーのシーバード社が登場した、というわけだ。
では本当の船主はだれなのか。
それは「パシフィック・ニュークリア・トランスポート」という英国の会社だった。
英国の登記簿を調べてみると、シーバードは100%子会社として登録されていた。 あかつき丸はもともとその会社の持ち船で、
「本名」はパシフィック・クレーン号という。
この名前では何度も日本に来ている。
さらに調べると、パシフィック社は
62.5%を英国の会社、
12.5%を仏の会社が出資していた。
日本では東京電力、関西電力、丸紅、住友商事などが計25%を出している。
日本企業も出資する英国の会社が、わざわざ日本にシーバード社をつくった。
そのペーパーカンパニーの船が、はるばるフランスからプルトニウムを運んできていた。
実は、シーバード社は2010年6月に解散した。
パシフィック社はあかつき丸の後、日本にプルトニウムを運んでいない。
シーバードは「プルトニウムを運ぶため」だけの会社だったのだ。
プルトニウム運搬の実態はどうなっているのだろう。 英国での検問:3
核運搬船に機関砲
パシフィック・ニュークリア・トランスポート社は、核物質専門の船会社だ。
英国西海岸カンブリア州のバロー港を母港にしている。
バロー港には「環境の放射能汚染に反対するカンブリア人の会」という民間団体がある。
その代表、マーチン・フォーウッド(71)は、25年以上にわたって核物質輸送船を監視してきた。
マーチンによれば、パシフィック社の核運搬船は4隻ある。英国と日本、フランスと日本の往復がほとんどだという。
目の前に「パシフィック・ヘロン号」と書かれた船が接岸していた。
「あの灰色のカバーをかけてあるのは機関砲です」
一見ふつうの貨物船だが、核ジャックに備えて武装しているのだという。
「船体は二重で、エンジンは片方が故障しても航行を続けられるように、二つあります」
核物質を運ぶパシフィック社の船は、航行途中の国々に嫌われている。
そのため日本まで約2カ月の航海中、一度も寄港しない。万一に備えた装備は充実している。
日本の原発で使った核燃料を英仏で再処理する。その契約は1977年に結ばれた。
80年代に入ると、パシフィック社の船は毎月のように日本の港に姿を現した。原発がある港だ。
日本で積まれた使用済み核燃料がバロー港に荷揚げされると、
北に約40キロ離れた再処理施設、セラフィールドまで鉄道で運ばれた。
セラフィールドに日本の使用済み核燃料を運ぶことに反対するマーチンは、
列車が出る港のゲートに鎖で体を縛り付けたこともある。
「そんなことで止められないことはわかっている。
でも、日本から使用済み燃料を持ち込むことに抗議していることを知ってほしかった」
その使用済み燃料の受け入れは2001年に終わる。
今度は、処理済みの高レベル廃棄物を日本に返還する航海が95年から始まった。
プルトニウムの輸送は93年のあかつき丸が最後で、99年からMOX燃料の運搬が始まった。
ウランとプルトニウムを混ぜ合わせた核燃料だ。航海は年に1〜2回だけだ。
にもかかわらずパシフィック社の年間売上高は約2千万ポンド(約26億円)もあり、
年100万ポンド前後(約1.3億円)の利益を出し続けている。
なぜなのか。
同社に取材を申し入れた。 英国での検問:4
配当率は50%が基本
パシフィック・ニュークリア・トランスポート社はセラフィールド再処理施設の北10キロほどが住所だ。
ホームページから取材を申し込んだ。すると
「インターナショナル・ニュークリア・サービス」(INS)という会社から取材に応じるという返事が来た。
パシフィック社の62.5%の株を持つ会社で、場所は本社住所の南約140キロにあるという。
電車を乗り継いでINSに向かった。
広い敷地に4階建てのビルがある。
案内板には原子力関係の会社が名前を連ねていた。
INS広報部長のベン・トッドが出てきた。
パシフィック社はこのところ、主な収入源である日本への輸送は年間1、2回しかない。
それでも安定した利益が出ているのはなぜか。
「そういう内容の契約になっているためです」
契約内容を尋ねたが、守秘義務があるので明かせないという。
同社の決算報告書を見ると、
「原価に管理手数料を上乗せして支払われる」と書いてある。
つまり、運んだ回数や売り上げに関係なく、人件費や燃料費、維持費など、
かかった全費用に利益を上乗せした金額を請求すれば、確実に支払ってもらえるという仕組みだ。
「事業の成功は、世界で最も信頼され、規模の大きい核物質運搬会社だからです」 では、プルトニウム運搬船「あかつき丸」を保有した「シーバード」はなぜ解散したのか。
「パシフィック社所有の英国船を日本船にするために設立された会社です。
プルトニウム運搬がなくなった後は使われず、2010年の事業整理で閉鎖されました」
シーバード社はオフィスの実態がなかった。
まさにペーパーカンパニーではないか。
「パシフィック社だってオフィスはありませんよ。
INSが運営しています。それを私たちはペーパーカンパニーとは呼びません」
パシフィック社には東京電力や関西電力など
日英仏の原子力関連企業が計200万ポンド(約2.6億円)を出資している。
配当率は50%が基本。
すごい高率だ。
2年で元が取れてしまう。
古い船の売却益が出て120%の配当をしたこともある。
日本の電力会社が、自分たちが投資した核物質運搬会社に
ぜいたくな支払いをして、高率の配当を得る。
どういう仕組みなのか。 英国での検問:5
港へ10キロ原発道路
核物質運搬会社パシフィック・ニュークリア・トランスポートは、かかった費用に
管理費を上乗せして請求できるため、運搬回数が減っても経営は安定している。
それとまさに同様なのが、電気料金の「総括原価方式」だ。
原価プラス利益の支払いが保証される。
払うのは電力消費者だ。
静岡県御前崎の断崖に立つ御前崎灯台。目の前には太平洋を遠く見渡すことができる。
案内してくれた静岡県牧之原市のお茶農家、増田勝(まさる=55)が
「これが『原発道路』ですよ」と指さす。
下を見ると、波打ち際を縁取るように1本の道路が走っていた。
中部電力の浜岡原子力発電所から灯台の下を通って御前崎港まで約10キロ。
中部電力が整備し、県道として移管された。
国内の他の原発は専用港を持つが、浜岡は砂浜なので港が造れず、道路が必要になった。
1977年、日本と英仏の事業者間で、使用済み核燃料の「再処理」の契約が結ばれる。
すると、この道路は浜岡原発で使われた核燃料を御前崎港まで運ぶ搬出路になった。
搬出の前には、大動員された警察官が道路周辺を徹底的に調べる。
当日になると、盾を持った機動隊員が沿道に立つ中、
大型トレーラーに積まれた輸送用キャスクが、歩くぐらいの速さで通っていく。
大学を終えて地元に戻り、お茶栽培を始めていた増田は、原発反対運動に加わる。
沿道で輸送反対を大声で叫んだ。
後に、中部電力などは使用済み燃料用に輸送車を開発した。
運送会社によると、最大積載量135トンの核燃料専用車が6台あり、
1台が約1億円はするという。
土木関係者によると、往復2車線の県道を造った場合、
いまだと普通で1メートル100万円程度はかかる。
10キロで100億円にもなる。
御前崎港についた使用済み核燃料は、パシフィック社が運び出した。
英仏に運ばれた使用済み核燃料は再処理され、
プルトニウムが取り出される。
プルトニウムは燃料として再利用するという想定で、
またパシフィック社の船で日本に戻る。
プルトニウムは、発電に使うことで増え続けるはずの「高速増殖炉」で使うことを想定していた。
しかし、安全性の確保ができず、稼働の見通しさえ立っていない。
そんなことはお構いなしに、地球をまたにかけた再処理の費用は、電気代の原価に盛り込まれていく。
英国での検問:6
一瞬で雨が蒸発
輸送用キャスクに雨があたると、一瞬で水蒸気があがった。
1995年4月、青森県のむつ小川原港。
使用済み核燃料の再処理に反対してフェンスの外に集まっていた数百人の人たちが驚いて、どよめきが起きた。
車の屋根で待ち構えていた映像作家の島田恵(けい)(53)は夢中でシャッターを切った。
キャスクの中身は、フランスで再処理されて送り返されてきた「高レベル放射性廃棄物」。
プルトニウムだけでなく、再処理で発生する「ごみ」も戻る契約になっている。
日本からの使用済み核燃料の英仏への輸送は78年に始まった。
再処理で、高レベル放射性廃棄物が帰ってくるのはこの時が最初だった。
高レベル廃棄物はガラスと混ぜ合わせてキャニスターと呼ばれるステンレスの容器に詰められる。
ガラス固化体という。大量の放射性物質が詰まり、核分裂は続いている。
この時は、ガラス固化体28本がひとつのキャスクに詰められて戻ってきた。
島田はいう。
「キャスクにあたった雨が一瞬で蒸発するわけですから、中にあるガラス固化体はもっと熱い。
最終処分の前に何十年も厳重に保管して冷やさないといけないものです」
2回目のガラス固化体の運送は97年で、フランスから40本。
こうしてフランスからは2007年までに計1310本が戻った。
英国から返還が始まったのは10年から。
850本が予定されているが、まだ104本しか戻っていない。 英国のセラフィールドにある日本向け再処理工場が稼働したのは94年だった。
しかし05年、放射性溶液が漏れる大きな事故が表面化する。
運営の「英国核燃料会社」(BNFL)は解体され、
英国は自国内の原発の使用済み核燃料再処理をやめることを決めた。
取り出したプルトニウムは、「高速増殖炉」で増やしながら発電することを目指していたが、実用化のめどがたっていない。
そこで、別の工場でウランと混ぜ、
通常の原子炉で燃やすことができるMOX燃料に加工されて日本に運ばれてきた。
ところが、今回の東京電力福島原発事故で、
MOX燃料を使うはずだった日本各地の原発も止まった。
BNFLを引き継いだ「原子力廃止措置機関」は、
日本向けMOX工場の閉鎖の方針を昨年8月に決めた。
プルトニウムは英国に取り残されることになった。
英国での検問:7
残された「お荷物」
英国の「原子力廃止措置機関」(NDA)が2011年8月、
MOX燃料の日本向け工場を閉鎖する方針を決めたのは、中部電力の浜岡原発の運転停止が引き金だった。
MOXというのはプルトニウムとウランを混ぜたもので、
高速増殖炉ではなく普通の原子炉で燃やせる。
NDAの広報部長、ブライアン・ホフはいう。
「最初の納入予定は浜岡原発でした。その運転再開のめどが立たないため閉鎖しました」
NDAの判断は、浜岡原発が止まって3カ月後だった。
ずいぶん早い対応だが、判断は正しかった。
今年1月、横浜市で開かれた「脱原発世界会議」。
浜岡原発がある静岡県御前崎市の隣の牧之原市市長、西原茂樹(57)はこう述べた。
「原発からは雇用や経済で恩恵も受けました。
しかし福島原発事故を見てしまったら、誰だって原発は止めたいと思います」
昨年9月、牧之原市議会は浜岡原発の「永久停止」を決議している。
牧之原市で原発に反対してきたお茶農家の増田勝(55)はいう。
「西原市長は推進派だった。しかし福島原発事故で変わった」 自動車メーカーのスズキが原発事故後、市内の工場を他地区に分散するといい出した。
それも市長の決断を促した。
静岡県内では、三島市や吉田町の議会が廃炉を決議するなどの動きが広がっている。
増田はいう。
「以前なら、立地自治体以外の意見は無視できた。
しかし福島の事故では30キロ圏まで避難が広がり、
そのほかでも工場や農業に大きな被害が出た。今後はそうはいかない」
英国のMOX工場は閉鎖された。
問題は、英仏に残る約23トンのプルトニウム。
日本の使用済み核燃料から取り出したものだ。
NDA広報部長のブライアンはいう。
「日本の電力会社との契約で、セラフィールドのプルトニウムはそのまま保管することができます」
電気事業連合会が04年にまとめた使用済み核燃料の保管費用についての報告書がある。
それによると、2.4万トンの使用済み核燃料を37年間保管するのに
保管場所や保管容器などで約1兆円かかるという。
危険度がはるかに高いプルトニウムとなると、こんな額ですむはずがない。
プルトニウムは再利用どころか、
電気代のさらなるかさ上げを引き起こす「不良債権」だった。 英国での検問:8
再処理にこだわる
新潟県刈羽村で、東京電力の柏崎刈羽原発に反対してきた農家の武本和幸(62)がいう。
「使用済み核燃料の保管の問題を考えると、原発が止まってほっとした電力関係者もいるでしょう」
使用済み核燃料の集合体は「プール」に保管される。
福島原発の水素爆発で、建屋の高いところに姿を現した、あれのことだ。
柏崎刈羽は、11年9月末、この使用割合が約84%に達した。
7基ある保管のプールは計2万2479体を納められるが、すでに1万3336体入っている。
点検の際に使用中の5564体を移す必要があるため、あと3579体しか入らない。
2007年の中越沖地震で止まる前は、年間500体以上が使用済みとなった。
その調子でいくと、7年であふれるところだった。
使用済み核燃料は、直接廃棄するか、再処理するかの方法がある。
日本は再処理の道を選んだ。そのため使用済み燃料は保管され続ける。
核燃料の再処理は問題が多い。英国はすでに、やめる決断をした。
しかし、日本は再処理にこだわる。
青森県にある日本原燃の六ケ所再処理工場は当初97年だった完成予定を何度も延期してきた。
1月にも本格稼働を前にした試験運転をしようとして装置の不具合が起きた。
原発ウオッチを続けるNGOの「原子力資料情報室」(東京都新宿区)の沢井正子は「予想通りの不具合が発生した。
できたらいいなという期待で続けているだけ。中世の錬金術師のようなものです」。
増え続ける使用済み燃料に目をつけた自治体もある。 柏崎市は03年度、1キロあたり480円課税することにした。
04年度には4.6億円の税収があった。
それが11年度には5.9億円と、1億円以上も増えた。
「核燃料税」はすでにあった。
道や県が新しい燃料が入るたびに課税し、地元市町村に配分する。
しかしこれは原発が止まると税収がなくなる。
しかし「使用済み税」は原発の運転と関係なく入ってくる。
川内(せんだい)原発がある鹿児島県薩摩川内市も04年に導入し、毎年税収が増えている。
敦賀原発のある福井県敦賀市も、昨年6月の市議会で検討を表明した。
「再処理」を唱え続ける日本。そのための費用ばかりがかさむ。
昨年3月の福島原発事故の後、原子炉の建屋に入り、使用済み核燃料プールを見た男がいた。
◇
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怖さ、知らなかった
首相補佐官だった馬淵澄夫(51)は
2011年6月11日、東京電力の作業員とともに、福島第一原発4号機の建屋に入った。
中は真っ暗だった。
天井を見上げて「この上に使用済み核燃料プールがある」と考えると、なんともいえない圧迫感があった。
馬淵は官邸で、原発の放射能漏れを封じるプロジェクトを担当していた。
建屋に入ったのは、4号機の使用済みプールの崩壊を防ぐ補強工事の確認のためだった。
東日本大震災の時、4号機は定期点検中で止まっていた。
止まっていたことは「安全」を意味しない。
定期点検するためには、いったん原子炉を止めて、使用中の核燃料を外に出す必要がある。
使用済みプールには「カッカッカと燃えている核燃料」(馬淵)を、一時的に保管する役割もある。
燃料棒をプールに入れるのは、水が危険な中性子を遮るためだ。
水から出せないため、燃料棒は、原子炉とプールをつなぐ水路の中を移動させる。
だから、プールは、原子炉の入り口に近い高い場所にある。
しかし、余震などでプールが壊れると、燃料を浸す水がなくなる。
そうなれば再臨界を起こしてしまう。馬淵はそれを防ぐ工事を指揮した。
4号機のプールには、核燃料集合体1590体が入れられる。
底は厚さ4メートルのコンクリートだ。
だが、大きな余震に耐えられる保証はない。
そこで、下に鋼鉄の支柱を何本も入れ、コンクリートも加えて固めた。 馬淵は振り返る。
「使用済み核燃料プールなんてものは知らなかった。
こんなに怖いものだということも。
しかも全国のすべての原子炉にある。
今回のようなことで大事故になりかねない」
馬淵は11年8月、民主党代表選に立候補した。
そこで、原発の「バックエンド問題」を訴えた。
それは6月の圧迫感がもとになった。
「バックエンド」とは、使用済み核燃料をはじめとした原発の後始末だ。
これを考えずに、電力需要への対応が優先され、どんどん原発がつくられた。
「再処理が建前だから使用済み核燃料は保管する。
しかし実際には再処理はできていない。
排出物はたまり続ける。まさに『トイレなきマンション』なのです」
代表選に敗れた馬淵は、民主党有志で「原子力バックエンド問題勉強会」を立ち上げる。
背景には「最悪のシナリオ」があった。
英国での検問:10
首相補佐官だった馬淵澄夫(51)は昨年4月、官邸で「最悪シナリオ」の対策を任された。
骨子は「福島第一原発4号機で、使用済み核燃料プールの燃料が溶け出すと、
半径250キロの避難もありえる」というものだった。
「250キロの避難ということは、首都圏が全部対象になる。日本が機能不全になる、ということです」
想定は
(1)1号機の原子炉容器または格納容器内で水素爆発
(2)2、3号機の注水ストップ
(3)4号機プールの注水も止まり、燃料が損傷、溶融が始まる――と進む。
この連鎖を断つために馬淵が採用したのは「スラリー」だった。
砂と水を混ぜた泥。
むき出しになってしまった炉心に流し込めるようにしたものだ。
原子炉の近くは危険で作業ができない。
そこで、スラリーの製造装置から1〜4号機までを1100〜1300メートルの配管でつなぐ。
その先は生コン圧送機だ。
プールへの注水で使われた、「ゾウさん」と呼ばれる機械。
これで原子炉に放り込む。
「ゾウさん」は無線操縦するが、人が運転することも考えて運転席を放射線を遮る鉛で覆った。
「泥で閉じ込める。チェルノブイリの石棺と同じことです」
5月には、これを第二原発で動かす実験をした。
いま、第一原発にはスラリーのもとになる砂が、ダンプカー約220台分、積まれている。
ゾウさんも待機する。
今回の原発事故で、東京電力は実質的に経営破綻(はたん)した。
このうえ、使用済み核燃料プールで「最悪シナリオ」が生じたら、損害は一電力会社の破綻の比ではない。
しかも使用済みプールは、各地の原発に必ず設置されているのだ。
馬淵はいう。
「使用済み核燃料は、それを再処理するという建前があるから保管している。
しかし再処理がフィクションであることは明らかです」
馬淵の「バックエンド問題勉強会」はこの2月、第1次提言をまとめて民主党政調会に提案した。
そのポイントは、電力の「受益者と負担者の公平性」だ。
「私の地元の奈良県が電力を使うと、福井県にある使用済み核燃料が増える。
たとえば受益の各都市が、使用電力に応じて使用済み核燃料を引き受けるようにする。
そうすれば使うことから考える発想は変わる」
実現すれば、東京は使用済み核燃料の一大集積地になる。 英国での検問:11
値のはるMOX燃料
ウラン燃料の価格は公表されていない。
原子力発電所で使われる核燃料はいくらぐらいするのか。
福井県高浜町の農業、池野正治(61)は10年以上、それを追いかけてきた。
分かってきたのは、MOX燃料がウラン燃料の7〜8倍という高額であることだ。
MOXというのは、プルトニウムとウランを混ぜて一般の原子炉で燃やす燃料のことだ。
この価格は貿易統計から把握できる。
2009年春にパシフィック・ニュークリア・トランスポートのパシフィック・ヘロン号が、
フランスから中部電力浜岡原発(静岡県)に運んだMOXの燃料集合体は1体約260キロで、約3.3億円だった。
四国電力伊方原発(愛媛県)と九州電力玄海原発(佐賀県)に運んだ分は同670キロで9億円弱だ。
池野は、通常のウラン燃料の価格を、福井県の核燃料税から推計している。
税額から逆算できる。今の税率は17%だ。
10年度に大飯3号機に入った燃料は1体約670キロで推計約1億900万円だ。
敦賀2号機は同じサイズで約1億2400万円である。やや価格が違う。
「燃料は長期で契約することが多い。契約した時期と製造元で違いが出るのでしょう」
いずれにしても、MOX燃料は7〜8倍である。
MOX燃料は、2010年にもヘロン号が
フランスから、玄海と関西電力の高浜原発(福井県)に運んだ。
このときは玄海が1体約7.5億円だった。
高浜は約8.8億円で前年と同水準だった。 池野は「玄海は20体で、高浜は12体だった。1体あたりの運賃の差かもしれない」。
ヘロン号の輸送には、2年続けてパシフィック・ピンテール号が一緒に航行している。
パシフィック社のホームページによると、
プルトニウムを含むMOXが奪われないよう、相互に護衛するためだという。
それぞれの船が30ミリ機関砲3門を備えており、武装した英国の警察隊が乗り込んでいる。
この警察は「民間核施設警察隊」と呼ばれる。
核関連施設の警備に特化した訓練を受けている。
武装した護衛や専門の運搬船に護衛船をつける安全対策は、
MOX燃料輸送の日米協定に基づいている。
MOXの高い代金にはもちろん、こうした護衛船の料金も入っているのだ。
英国での検問:12
ごみに63億円払う
「核のごみ」に、電力会社は、昨年だけで約63億7千万円も支払っていた。
日本から英仏に運んだ使用済み核燃料は、再処理されてプルトニウムが取り出される。
その際、高レベル廃棄物も出る。
それはガラスで固められ、重さ約500キロの「ガラス固化体」となる。
キャニスターに入れられたこのガラス固化体は、放射性物質の崩壊熱によって高熱を発している。
もちろん放射能が強く、近寄ることはできない。
青森県の六ケ所村での中間貯蔵をへて、地下深く埋められる予定だが、
その場所が決まっていない。やっかいなごみなのである。
昨年9月、英国の核物質運搬船パシフィック・グリーブ号は、その「高レベル廃棄物」を、
青森県のむつ小川原港に運んできた。
ガラス固化体が76本あった。
それを関西電力、九州電力、四国電力が「輸入」する形で引き取った。
函館税関に申告したのが冒頭の金額だった。
1本が約8379万円もする。
各電力会社の広報担当に、価格の算定根拠を聞いた。
「これまでに支払った処理費用と輸送費などの合計額です」。各社、同じ回答をしてきた。
ガラス固化体の返還が始まったのは1995年、仏からだった。
最初は28本で約12億4千万円。1
本平均は約4437万円だ。
07年までに1310本が戻り、合計額は約755億円にのぼった。
平均約5761万円となる。
英からの返還は10年に始まる。
合計104本で、平均約8787万円と、仏の1・5倍だ。
この「5割アップ」について各電力会社に聞いたが、また各社で同じ回答が返ってきた。
「契約の中身にかかわることなので答えられません」
電力会社は「ごみ」に金を払って輸入している。
ということは、それに課税されるわけだ。
税関当局によると、関税はかからないが消費税はかかるという。
核燃料のリサイクルというたてまえで、ごみに高い金額を支払う。
その処理にまた巨額の費用がかかる。こうした費用はすべて電気代に上乗せされていく。
こんな費用を使う一方、東京電力はスーパーやマンション管理組合に、
4月からの電気料金値上げ17%を通告している。 英国での検問:13
「節電店長」の怒り
1月下旬、山梨県のある中堅スーパーが、東京電力から「電気代の17%アップ」を通告された。
南アルプス市の店長、那須昭元(あきもと、55)は怒る。
「このあたりはスーパーの激戦区なので、簡単に値上げなんてできません。
利益だって1〜2%しかない。それを4月からいきなり、17%も値上げする、と。
この値上げで赤字になる店も出るでしょうね」
那須が怒るのは、福島原発事故以来、細かい気配りを積み重ねて節電に協力してきたからだ。
たとえば「デマンド注意警報」。
店の使用電力量が多くなると、店長の携帯電話に警告メールが入る。
2月中も、那須の携帯は何度も鳴った。寒さで暖房の電力量が増えてしまったのだ。
暖房温度を下げると客足に響く。
那須は、あわてて野菜や豆腐、牛乳などを並べている冷蔵ケースの電源を切りに走った。
スーパーの冷蔵、冷凍ケースにはふつうスイッチがない。
電源を切ることが基本的にないからだ。
福島原発事故後の節電に協力するため、冷蔵庫ごとにつけた。
「デマンド」とは、瞬間的な電力使用量のことだ。福島の事故で東電の供給能力が落ちた。
それに配慮し、利用者側がみずから警報装置まで導入して使用電力を下げる努力をしてきた。
那須の店ではスイッチのほか、電源を切っても生鮮食品が傷まないように保冷剤を購入したり、停電に備えて自家発電を導入したりした。
そうした投資に110万円もかかっている。
昨年夏、電気代を節約するために冷凍食品の販売を減らした。
そのため冷凍食品は前年比30%の売り上げ減となった。
いまも冷凍食品ケースの照明は消してある。
店の裏手にある大冷蔵庫も、節電のために電源を切った。
そのため生鮮食品の余分な在庫はない。
商品が売り切れたら販売機会を逃すことになるが、しかたがない。
1ワットずつ積み上げていくような節電だった。
那須の店の電気代は月に約140万円だ。
それを17%値上げされたら、毎月二十数万円が飛んでいってしまう。
「これだけ協力したのに、なぜ東電が起こした事故の犠牲にならなければいけないのですか」
山梨県の小売店で作る「山梨流通研究会」は6日、県内の消費者団体と連名で、東電などに値上げ再考を要請する。 英国での検問:14
「中部電力にかえて」
「山梨は長野・静岡と県境を接しています。
これが何を意味するかわかりますか」
山梨のスーパーなどがつくっている「山梨流通研究会」事務局長、内藤学(61)はいった。
「長野、静岡には中部電力がきています。
東京電力に17%も値上げされたら、電気料金に圧倒的な差が出る。
お客さんに県境はありません。
山梨県に店があるだけで不利になります」
生鮮食品を扱うスーパーは大きな冷蔵庫のようなものだ。
当然、電気代がコストに占める割合は大きい。
山梨のあるスーパーチェーンの場合、約52億円の年間売上高に対して電気代は約9千万円に及ぶ。
内藤は、東電の値上げ問題を、消費者団体「あしたの山梨を創る生活運動協会」会長の飯窪(いいくぼ)さかえ(82)に訴えた。
飯窪とは、2008年に「レジ袋の有料化」を始めたことで信頼関係があった。
山梨のマイバッグ普及率は8割を超えている。
飯窪はすぐに理解した。
「これは生活必需品の値上がりに直結します。東
電は値上げを避けるための努力を十分にしているとはいえません」
売る側と買う側の共闘が成立した。
6日、東電や山梨県に、連名で「値上げを再考してほしい」との要望書を出した。
内藤はいう。
「自由化料金といいながら、一律の値上げで、4月から、と一方的に通告してきた。
値上げの根拠も具体的に示さない。
値上げを強行するのであれば公正取引委員会に申告することも考えています」
要望書は
(1)まず東電の資産を売却する
(2)山梨県を中部電力の供給エリアにする
(3)せめて、東電以外から電力が買える環境を整える――といった提案もしている。
「山梨県が中部電力からも電気が買えるようになれば、東電の供給力不足の解消にもつながる。
一石二鳥の案です。政府にも真剣に検討してほしい」
スーパー関係者はいう。
「電気を止められると営業できなくなる。
電力会社は私たちには怖い存在なのです。
山梨は団結しているから行動できる」
電力供給の実質独占が続く限り電気料金は一方的に値上げできる。
その金は再処理などにつぎ込んでも、
パーティー券を大量に買っても「企業の秘密」で通るのだ。 英国での検問:15
のらりくらりですよ
山梨県のスーパー業界は、東京電力の独占にかみついた。
だが、それより10年も前、たった1人で電力会社や経済産業省と激しくやり合った男がいる。
日本ボランタリーチェーン協会の会長、林信太郎だ。林は2008年、87歳で死去した。
協会は小売りチェーン店の団体だ。
当時、食品やドラッグストアなどのチェーンストア約130社が加盟し、店舗数で約6万店あった。
林は旧通産省出身でありながら、電力独占を攻撃し続けた。
しかし03年2月、協会幹部の説得で会長の職を辞任した。
説得に当たった幹部はいう。
「会長を尊敬していました。しかしこのままだと協会の存亡に関わると思った。
経産省をはじめ、いろいろなところから、会長を辞めさせるよう強い圧力があって」
林は74年に旧通産省の立地公害局長の時に天下り人事を拒否。
官房付に降格された後、退職した。
ジャスコ(現イオン)の社長だった岡田卓也に請われて、76年に同社の副社長になった。
その後、ジャスコの副会長を経て、ボランタリーチェーン協会の会長となる。
00年3月、電気料金の一部が自由化された。
大手流通の料金は10〜15%も値下がりし、料金は1キロワット時平均で約18円となった。
中小店も値下げはあった。
しかしその率は1〜3%と小さく、平均は約23円。大手と5円も差がある。 各地方の電力会社に交渉団を送り、値下げを要請した。
経産省や公正取引委員会にも頻繁に出向く。
国会議員にも陳情攻勢をかけた。
林の怒りが高まる。
とくに、電力会社と関係の深い経産省に怒りの矛先が向いた。
01年9月7日、林ら協会幹部7人が経産省資源エネルギー庁で、
電力・ガス事業部長(当時)の迎(むかえ)陽一と交渉する。
林は訴えた。
「われわれは節電や自家発電など血のにじむような努力を積み重ねてきましたが、
一部自由化でライバルの大手だけが値下げとなり、努力は一気に吹き飛びました」
その交渉の議事録がある。
林「行政のポイントは分かりますよ、(私も)30年やっとったんですから。
そういう過去がありながら、今のようにのらりくらりやっとったんでは……」
迎「のらりくらりだなんて」
林「いや、のらりくらりですよ。はっきりしないんですから」
容赦ない攻撃だった。 英国での検問:16
これは威嚇です
日本ボランタリーチェーン協会の会長、林信太郎(故人)は、
資源エネルギー庁の電力・ガス事業部長、迎(むかえ)陽一との交渉に先立つ2001年8月、
電気代の値下げを求めて東北電力、東京電力、中部電力の電力3社を訪れている。
協会側の記録だと、電力会社の対応は屈辱的なものだったらしい。
A電力(原文実名)は全員を応接に通さず、1時間と制限をつけた。
B電力は社員食堂の横の集会場で対応した。
C電力は、実態調査の資料を郵送すると約束しながら、何度催促しても返事がなかった――。
林は電力各社の高飛車な対応への怒りを、迎にぶつけた。
A電力の取締役が地元スーパーを「表敬」で訪れたことがある。
取締役は「ボランタリーチェーンの電気を止めてやろうとか、
お前らだけ高くしてやろう、などとはいいませんが」といった。
林はそれを取り上げた。
「これは威嚇です」
「電気は止められたら商売できない。だから、本当にいわれる通りにしてきたんです。
独占がこういうことを冗談でもいうことはひどい。
こんなことは売り手買い手の中で絶対にありえないことです」
林は、電力供給の独占体質に強く反発していた。
売り手がふんぞり返り、電気料金が一方的に決められていく。林は食い下がった。 林「なんでそんなもの認可されるんですか。しかも9電力同じで。とんでもないことです」
迎「ただね、われわれもね、それで認可をずっとしてきたんだし」
林「経産省に責任があります」
迎「いや、責任があるといわれるかもしれないですが、
去年の値下げについてもそういう区分でやったことを、われわれはおかしいという立場ではないんでね。
ご意見はご意見として承りますが」
林「こんな不景気でね、倒産が相次ぐ中、現実に金を払わされておるんですよ。
そんな悠長なことと違うんですよ。私も(通産省)OBですからね、こういう交渉は抑えに抑えてきたんですよ。
しかし調べれば調べるほどひどい」
当時の加盟会社役員は振り返る。
「われわれは電力は供給していただくものと考えていた。
林さんは、電力は買うもので、われわれは消費者だという考えだった」
林がこだわったのは電力料金の「士農工商」だった。
英国での検問:17
隣と同じにしてくれ
電気料金は、企業と家庭では格差がある。それは広く知られている。
しかし企業利用者の間にもさまざまな差がある。
その料金は公開されておらず、電力会社と企業の個別交渉で決まっていく。
日本ボランタリーチェーン協会の林信太郎(故人)らの
2001年当時の調査によると、その中身はざっと以下のようなものだった。
当時の電気料金は「大口の工場」で
1キロワット時あたり平均約12円だった。
「大口の商店」は同18円。1.5倍だ。
「小口の工場」は同14円。
「小口の商店」は同23円。
林は01年9月、資源エネルギー庁電力・ガス事業部長の迎(むかえ)陽一と交渉したとき、その点も持ち出した。
「補助金をくれとかそんなんじゃないんです。隣の工場とキロワットアワーの単価を同じにしてくれというだけですよ」
価格差をなくすために電気事業法に基づく認可申請の「変更命令」をすぐに出すよう求めた。
「大口」と「小口」の格差だけでなく、
小売業には工場と別の体系が適用されている。そんな電気料金制度にも、林の議論は及んだ。
なぜ体系が別なのか。業界内にはそれを差別ととらえ、
「電気料金の士農工商」と、江戸時代の差別的身分制度になぞらえる言葉まである。 体系はさらに、
超大口である「特別高圧」、
大口の「高圧」、
一般の「低圧」と分けられる。
そして使用規模に応じた料金体系とは別に、
利用者の形態による区分がある。
オフィスビル、小売店、学校などが対象になる「業務用」。
家庭用の「電灯料金」。
その区分ごとに、さらにまた料金が違う。
そうした料金を、電力会社は相手の顔を見て決めていくわけだ。
しかし、林の追及にも迎はほとんど応じなかった。
「ただちに是正命令を出せ、区分の見直しをとのことですが、
全体の制度の中でどの方向がいいのかということは、私たちも問題意識として持っています」
そして03年、林は外圧の中で会長職の辞任に追い込まれるのである。
経産省によると、全国の電力会社に常勤の役員や顧問として天下ったOBは過去50年間で68人いる。
昨年の震災前にも、資源エネルギー庁長官が
東電の顧問に天下って批判を呼んだ。
経産省と電力会社は密接につながっている。 英国での検問:18
自由化すれば変わる
大阪市中心部にある関西電力本社の高層ビル。
一般エレベーターは35階までしか行かないが、最上階の36階には直通エレベーターがある。
日本ボランタリーチェーン協会の林信太郎が2001年当時、電力料金の格差をめぐって激しく攻め立てた
経済産業省の迎(むかえ)陽一はいま、この36階、役員フロアが職場だ。
04年に商務流通審議官に転じた後、54歳で勇退、商工中金の理事になる。
その2年後の08年8月に関西電力顧問に転じ、09年6月の株主総会で常務に就任した。
36階の役員室は広い。大きな窓からは大阪平野が見渡せる。ゆったりとした執務室で、迎が口を開く。
「戦後は(外貨を稼ぐ産業に資源を集める)傾斜生産みたいなことがある時代だった。
その後、料金改定を何度もやるんだけど、経産省も抜本的に直すことをしなかった。経産省も産業官庁だから」
しかし、商工格差への不満は高まってくる。
その急先鋒(せんぽう)だった林とのやり取りを振り返る中で、
迎は「自由化」という言葉を出した。
「林信太郎が画期的な新説を述べたわけではない。
ぼくは、そういうものも含めて、電力自由化の中で是正されればいいと思っていた」
電力自由化とは、その名の通り利用者が電力会社を選べるようにすること。
自由に選べれば価格も交渉で下がる可能性がある。
林とやり合っていた当時、自由化への期待は高まっていた。
95年、電力会社以外による発電事業が認められた。
00年には大規模工場や大型ビル、病院などに対する超大口の電力小売りが自由化された。
大口電力の自由化も当然となり、さらに小口にまで自由化が広がる勢いがあった。
それを先取りするように電力料金の値下げも進んでいた。
迎が就いていた資源エネルギー庁電力・ガス事業部長のポストは、
経産省キャリア官僚にとって「経済界への顔見せポスト」とされる。
話をする相手は電力会社の常務クラス。
官房長、事務次官と出世するにつれて、相手も社長、会長と変わる。
そうやって両者の間には濃密な関係が築かれていた。
が、電力自由化は徐々に進む。
電力会社側から見ると、自由化は経営基盤を揺るがすものだ。
警戒すべきその自由化が、02年ごろから少しずつ減速する。
背景には電力会社の攻勢があったとされる。
経産省は、幹部だけでなく末端の官僚まで、さまざまな攻勢にさらされていた。 英国での検問:19
ガス中毒か 感電か
1998年のある夜、資源エネルギー庁の電力担当課に属する係長が電力業界の人間と銀座で飲んだ。
翌日、その係長は電力会社内の情報源から、
「あの係長はガス中毒」と書かれたメールを見せられた。
銀座のクラブでしゃべったことが細かく文章にされ、
電力9社の通産省(現経産省)担当者にメーリングリストで回っていたのである。
「ガス中毒」とは、ガス業界に近いことを意味する。
逆に、電力業界寄りだと「感電」といわれる。
電気とガスの業界は、家庭向けでも企業向けでも競争をしている。
通産省の規制いかんで競争条件が変わるため、通産省の方針は大きな関心事だ。
その中で係長の「思想」は、ガス業界寄りと判断されたわけだ。
係長はそうしたメーリングリストを「夜の議事録」と名付けた。
酒席の話も議事録を通じて業界で共有される。
係長は以後、記憶がなくなるほど深酒をすることをやめた。
いまでもその習慣は残っている。
役所内の光景も、係長の脳裏に深く刻まれた。
当時、資源エネルギー庁公益事業部(今の電力・ガス事業部)の各課には
電力業界関係者が自由に出入りして、夜になると担当者を誘っては飲みに連れていった。
彼らは、昼間も用がないのに出入りした。目当ての官僚が席を外すと、机の上の書類やパソコンの画面をのぞき込む。
「思想チェックなんです。
もちろん、その場にいたらそんなことはさせませんが、すきを見てはのぞく。
そして、何かと理由をつけてはビール券の束を持って来る。
われわれもそれを受け取って、課内の宴会などで使っていました」
電力会社の接待は、電力会社の保養施設での一次会から始まる。
まず勉強会を30分から1時間ぐらいして、酒の席になる。
専属の料理人がいて、高級な料理が出る。その後で銀座のクラブに繰り出す。
「当時は公務員倫理法がなかったので、接待漬けでした。
そうしないと向こうの情報も取れなかった」
原発見学の誘いもあった。夜は宴会となる。
年度末になると「予算を消化しないといけない」「10万円のワインを開けましょう」。
思想チェックと甘い誘い。
そのチェックポイントは電力自由化に対する思想だ。
かつて、電力会社は官僚に密着することで、その動向を探っていた。
英国での検問:20
送電網めぐり激突
旧通商産業省出身で、2001年1月にダイエーの会長に就いた
雨貝二郎(66歳、現日本アルコール販売・会長兼社長)は、電力会社を相手にこんな交渉をした。
「スーパーの冷凍庫は24時間動いている。これは安定的な需要だ。格安にしてもいいじゃないか、と」
旧通産省でもスーパー業界でも先輩である林信太郎から
「使用量の変化が大きいとみなされると電気代が高くなる」と聞いたためだ。
しばらく交渉すると、東京電力が値下げに応じてきた。
「その時は、電力業界の中も開明派と保守派とに分かれていた。
東電は、少しぐらいなら努力しようという姿勢があり、懐が大きい感じだった。
東電で前進したら、それをほかの電力会社にも求めた」
一巡するとまた東電との交渉に戻る。こうして少しずつ前進した。
しかし雨貝は、ある時点から「東電の懐が浅くなった」と感じた。
「ほかの電力会社から『前向きすぎるんじゃないの』という声が出たのではないでしょうか」
当時の東電社長で、電気事業連合会の会長でもあった
南直哉(のぶや)(76)は、家庭用まで自由化することに賛成を表明していた。
南は、実はそこには東電独特の事情もあった、と振り返る。
「首都圏の世論は厳しかった。電力は殿様商売で、日本の電気は世界一高いと。
そんなことはないと自負していたので、自由化されればわれわれが正しいことが証明されると考えていました」 しかし、地方電力会社の反対があった。
「激しい競争になると、いいお客だけ持っていかれて、割が悪いお客だけ残る可能性がある。
いままでの安定した経営はできません」
反対の声には説得をした。
「自由化のメリットもある。経営の効率化、サービスの充実で会社の体質が変わる、と」
その南は、やがて送電網のあり方をめぐって経済産業省と激突する。
「電気事業の根幹は、発電ではない。
需要に応じて発電したり止めたりしながら送配電する仕組みです。
ところが、経産省は送配電を細部まで許認可権で縛ろうとしてきた」
南は真っ向から反対した。02年のことだった。
この年の8月、東電の原発でトラブル隠しが発覚。
南は責任を取って辞任する。
南が進めようとした電力自由化は中途半端なまま、今日に至っている。
値上げ「寝耳に水」
東京都日野市のマンション「ビバヒルズ」(629戸)の管理組合に、
2月上旬、東京電力からの「電気料金値上げのお願い」が届いた。
その値上げ額は年間で153万円にもなるという。
中身は、基本料金はそのままで、
1キロワット時あたり2円61銭の値上げをするというものだ。
その結果、昨年の約867万円が約1020万円に増えるという試算がついている。17.7%の値上げだ。
マンションには、個人で所有する居住部分のほか、廊下や敷地などの共有部分がある。
その電灯やエレベーターで使う電気代は住民が払う管理費でまかなわれる。
その電気代が業務用で契約されているので、4月から値上げするという。
受け取った管理組合理事長の黒崎昇(59)は頭を抱えた。
「まさに寝耳に水です。事業用というので、自分とは関係ないと思っていました。
これは1年だけのことではない。10年で1500万円にもなる。長期修繕計画を練り直さないといけません」
ビバヒルズは2005年に分譲されたマンションだが、07年に長期修繕計画を大きく見直した。
この時に助言したマンション管理士の瀬下義浩(50)が言う。
「マンション販売業者は、購入者の負担を低く見せて売りやすくするために、
積立金を低く設定する傾向があります。ビバヒルズの場合もそうでした」
マンションには管理費と積立金の負担がある。
販売業者としては、関連会社などの仕事にもなる管理費は減らしにくい。
一方、将来の修繕に使う積立金は削られやすい。
ビバヒルズは積立金負担を2.1倍に増やす一方、
管理費を見直して積立金に回す計画を立てた。
その管理費の約8%が電気代だった。
ビバヒルズでは、昨年の東電福島原発事故を受けた節電のため、共有部の電灯を間引きして半分にした。
これで経費も浮いたが、節電の夏がすぎ、「暗い」という苦情もあり、12月に戻したばかりだった。
ビバヒルズ管理組合は3日の理事会で、値上げに応じないことを出席者の全員一致で決めた。
「我々は629戸の負託を受けています。黙って従うわけにはいきません」
ビバヒルズは2年ほど前から電気代対策で「一括受電」に切り替える検討をしてきた。その検討を本格化することにしている。
英国での検問22
変圧する権利ある
2月末、東京都昭島市のマンションで、1982年に建てられて以来使われてきた変圧器を交換する工事が行われた。
東京電力の大小4基の変圧器が外された。
新しい変圧器は、「中央電力」というマンション電力サービス会社のものだった。
マンションは、東電から6600ボルトの電力を一括で受け、それを100ボルトに変圧して各戸に供給する。
これまでは東電が変圧していた。
それを今後、電気は東電のまま、変圧を中央電力に任せる。
すると、廊下やエレベーターなどで使う電気代が標準で4割減るという。
東京都千代田区の中央電力本社で、常務の平野泰敏が説明した。
「マンションはもともと高圧で受電している。
住民はそれを変圧して使う権利を持っています」
高圧で受電する「業務用」の単価は、東電の場合、夏以外の昼間は1キロワット時あたり約15円。
ところが、家庭用は約23円が中心だ。
業務用の安い高圧電力を受電しながら、各家庭が高い料金を東電に払う。
一戸建てだと、電柱を立てて電線を張る必要がある。
マンションは、電柱も電線もなしで戸建てと同じ電気料が取れる。
電力会社にとって割のいい顧客だ。
それを、業務用の配電の段階で東電からまとめて買い、変圧・配電をマンション側でやれば安くできる。
「一括受電」と呼ばれるこの方法なら管理費を大きく削減できる。 東京都江戸川区のマンション「宇喜田ホームズ」は、5月に変圧器交換の工事を予定している。
管理組合理事長、鷲森雅弘(68)はいう。
「コンサルタントに依頼して管理費を削減し、植栽、清掃費を減らすなどいろいろやってきました。
東電以外の電力会社に替える検討もしましたが、断念しました」
一番の問題は、220戸の全員が別の電力会社に契約を切り替える必要があることだった。
契約変更に反対する人は必ず一定数いる。
そういう人たちは会うことさえしない。
契約に応じない住民をどう説得するか。
中央電力は、それを管理組合に代わって自分の会社でやった。
部屋の出入りの時をねらうしかない。
深夜や早朝に張り込みをした。
鷲森は言う。
「中央電力が契約を一本にまとめてくれたので可能になりました。
次は電力の買い入れ先を変更することも考えます。
東電が値上げするならなおさらです」 英国での検問:23
すべて新顔が落札
川崎市の会社員、武井智弘(37)のマンションには、おもしろい仕掛けがある。
ウェブサイトでいま使っている電力が分かる。
1日の使用量の変化も分かるので、何が電力を食うのかを意識するようになった。
「電子レンジや洗濯機を使うとドンと上がります。目で見てわかるというのは大きい」
サービスに登録した約900人の中で、使用量が少ない順にランキングされる。
電気代を減らすと順位が上がる仕組みだ。
「使わない部屋の電気を消して回ったり、洗浄便座の水温を下げてみたり。
それでも100位ぐらいにしか上がらない。
上位の人は何をしているのだろうと思いますよ」
電力の使用量を減らすとポイントがもらえるサービスもある。
その連絡は携帯電話に来る。
「使用抑制を呼びかけるメールが来ると、暖房を消して、家族でスーパーに避難するか、なんて」
このサービスを提供しているのはNTTファシリティーズ(東京都港区)だ。
武井のマンションは東京電力ではなく、
新規参入の発電会社「エネット」(港区)が電力を供給している。
料金が東電よりも5%安い。
そのエネットは、NTTファシリティーズが出資した会社なのである。
エネットはそのほか、東京ガスと大阪ガスの出資も受け、電力の小売りが一部自由化された2000年に設立された。
日本の電力供給量は自家発電を含めて年間約1兆キロワット時あるが、
新規参入はその2%程度でしかない。
その半分の約100億キロワット時をエネットが供給する。
マンションだと約1万3千戸に提供しているという。
電力は親会社のガス2社のほか、
ゴミ焼却場や工場などの自家発電などから買っている。
たとえば、横浜市の四つのゴミ焼却場は
電力の販売を入札にかけている。
エネットは昨年、4件のうち3件の電力を落札した。
しかし今年はちょっと苦しい。
2月に行われた12年度の入札では、新顔のJX日鉱日石エネルギーに4件すべてを落札されてしまった。
入札参加者自体も増えた。競争が激しくなっているのだ。
東電の原発事故で、新規参入電力会社の注目度は高まった。その結果、少ない電力源の争奪が始まっている。
英国での検問:24
値上げ率のマジック
これは「数字のマジック」なのではないか――。
東京電力が7月にも計画している家庭向け電気代の値上げ率が、10%程度と報じられていることだ。
事業用の料金が17%程度と発表されているので、配慮があるように見える。
しかし、値上げの額自体は大差がないのだ。
実際の値上げ額は1キロワット時あたりで「2円63銭」が軸とされている。
すでに発表されている企業向けが数銭低いので、家庭向けは逆に数銭高いのが実情だ。
額が同じなのに10%と17%の差が出るということは、もともと家庭用の料金が企業向けより高いためなのだ。
現在の家庭用の料金は企業向けの1.7倍なのである。
2円63銭の負担増は、1月17日に事業用の値上げが発表されたとき、すでに明らかにされている。
この時、家庭用を含めた東電の2012年度の販売電力量2720億キロワット時を前提に、
燃料費の値上げ分を均等に負担する試算が示された。
企業向けの中でさらに大口の特別高圧は、アップ率さえ秘密にされている。
アップ率を公開すると、電気料金の極端な安さが明らかになってしまうからだ。
事業用は4月からだが、家庭向けの値上げはまだ公式に発表されてはいない。
あくまでも報道段階だ。
事業用の値上げが公表された後、各メディアは家庭用料金の値上げ幅について「最大10%」「10%前後」といった観測記事を出した。
人々がどう反応するか見るために、意識的に情報が流されたように思える。 2月25日になるとNHKが家庭向けを「10%程度で調整」と報じた。
3月3日の毎日新聞は「値上げ幅を圧縮」と表現しながら10%程度の値上げと書いた。
値上げ10%を報じた5日の朝日新聞夕刊も「家庭向けは新しい基準で申請」とした。
要するに「割り勘で払おうね」となっただけなのに、
率で表現されたために「事業用に比べて低い、家庭用には配慮があった」と感じられる構図がつくられている。
東電の販売電力量は、年間2720億キロワット時と想定されているので、
1円の値上げでも2720億円の増収となる。大変な額なのだ。
値上げは大きなコストアップになるため、企業の抵抗は大きい。
その結果、しわ寄せは家庭に来る。
東電の値上げには、もう一つ数字のマジックがあると指摘する人がいる。 英国での検問:25
処分場、ドーム100個分
5日、東京電力経営陣に原発事故の責任を問う株主代表訴訟が起きた。
株主の一人、堀江鉄雄(64)は1990年から、株主として東電の経営を見てきた。
電力料金値上げの理由を、東電は原発の停止による燃料費の増加のためと説明している。
堀江はそれを数字のマジックだという。
「燃料費だけ見れば原発は確かに安い。
しかし、止めても大きな費用がかかる。
それをまかないながら利益をあげるための値上げなんです」
2003年度の東電の原発の発電量は、
最近のピークの06年度と比べると35%しかない。
原発のトラブル隠しの影響で発電量が大きく減ったためだ。
にもかかわらず、発電費用は79%もかかっていた。
06年度、火力発電費用に占める燃料費の割合は76.4%だ。
しかし原発の場合は9.7%にすぎない。
原発の燃料は、発電した後も金を食い続ける。
東電の昨年末時点の決算によると「使用済み燃料再処理等引当金」は1兆1723億円にのぼる。
青森県六ケ所村にある日本原燃の再処理工場が稼働していないためだ。
それとは別に、電力各社は日本原燃を支えるため、1兆円以上の処理費を前払いしている。
さらに、「原子力環境整備促進・資金管理センター」に預けてある再処理費用もある。
経済産業省の外郭団体だ。
全国の原発の分で2兆4416億円(11年3月)ある。
さらに、核燃料は再処理したらなくなるわけではない。
英国は昨年11月、再処理工場のセラフィールドがある
カンブリア州に地下の処分場を造ろうと、住民らの意見を聴く手続きを始めた。
地下200〜千メートルに、600〜2500ヘクタールの処分場を造る。
東京ドーム100個以上の広さだ。
工事の費用は予測もつかない。
処分場に反対する画家のマリアン・バークビーは言う。
「セラフィールドは57年に重大な放射能漏れ事故を起こした。
今度は原発のゴミ捨て場になるという。
私は絵を描いて反対しています」
電気事業連合会の試算によると、使用済み核燃料は再処理だけで19兆円かかる。
最終処分まで考えると、コストは膨大だ。
そんな始末におえないものを生み出す原発が、いま全国に54基もある。
(松浦新)
◇
明日から第9シリーズ「ロスの明かり」に入ります。
ロスの灯り:1
見過ごせない失敗
福島第一原発の事故を受けても、国が「原子力推進」に立ち返るのを待っている県がある。青森県だ。
その青森県で1月、見過ごせないほど大きな「つまずき」が起きた。
使用済みの核燃料をもう一度使えるよう再処理する工場でだった。
事業者の日本原燃(にほんげんねん)は1月24日、
再処理で出る高レベル放射性廃棄物をガラスで固める試験に向け、最終の作業に入った。
炉に入れてあった模擬のガラスビーズを熱で溶かし、容器にうまく流れ落ちるかを見た。
しかし、流速が決められた水準に達せず、作業は中止。試験は延期となった。
社長の川井吉彦(かわい・よしひこ)(68)は2月末の記者会見で
「解決困難な技術的課題に直面しているのではない」と理解を求めた。しかし、無理があった。
固化の失敗は初めてではなく、この失敗こそが再処理工場の完成を18回も延期してきた主因だからだ。
しかも今回の試験は、与党の民主党の議員有志から、核燃料を再処理するのはもうやめようとの意見が出ている中でおこなわれた。
失敗の原因は究明中だが、炉の壁にはりつけてあるれんががはがれ、
ガラスを固化体の容器に流し込む漏斗(ろうと)をつまらせた可能性が大きい。
そうならば、この失敗は茨城県東海村の模擬炉で2度起きた失敗と同じだ。
日本原燃は、いまだ完成していない技術を青森に持ち込み、実用で使おうとしたことになる。
高レベル放射性廃棄物はいわゆる「死の灰」だ。使用済み核燃料を再処理しプルトニウムとウランを取り出した後に残る。
半減期が長い様々な核物質からなり、放射能量は固化体1本で2京(けい)ベクレルもある。
表面の放射線量はできあがった時点で毎時1500シーベルト。
近づけば1分以内に死ぬ。 青森県は、高レベル放射性廃棄物を生み出す核燃料再処理工場の県内設置を引き受けた。
それだけでなく、仏英につくってもらったガラス固化体1440本を「一時的に」貯蔵する施設も引き受けた。
すでに1414本を受け入れている。
今の状態で青森県側から、核燃料の再処理をやめて、という要望はない。
最終処分地が決まっていないのにそんなことをして、
「一時貯蔵」という約束がなくなり、永久に置いておかれては大変だからだ。
青森県が原子力開発の継続を求める背景はここにもある。
青森県はなぜ、こんなやっかいなものを引き受けたのか。
それを知ろうとするなら、今から50年ほど前、
ロサンゼルスの街の灯(あか)りに取りつかれた一人の男の話から始めなければならない。 (宮崎知己)
◇
新シリーズ「ロスの灯り」は、開発と人々の幸せを考えます。
「米国の象徴を見た」
1963年9月22日午後8時。旅客機がロサンゼルス空港に向かって高度を下げた。
その機内で、窓に顔をはりつけている日本人がいた。
男はこれまで、機内の他の乗客の様子ばかり気になっていた。
欧米人が深くしっかり座っているのに、日本人の座り方がだらしない。
右左に傾いて……。それが今や、ロスの夜景の明るさに夢中になっている。
男の名は北村正哉(きたむら・まさや=当時47)。後の青森県知事だ。
しかしこのときはまだ青森県議の3期目だ。酪農視察の団員として、他県の代表とともに欧米に向かう途中だった。
総勢は12人。
アメリカやカナダ、西ドイツ、アラブ連合、香港など14の国と地域を見てまわる計画だった。
当時の為替レートは1ドル=360円。旅費だけで1人数百万円もかかった。
一行は日本の酪農の将来を背負っていた。
しかし、ひとり北村は違った。
帰国早々に著した「牛のよだれ 欧米酪農視察紀行」(三沢青年会議所)に、
北村は酪農の話はそっちのけで、こんなことを書いていた。
「一直線に灯で彩られた幅広い道路や点々と際立って明るく紅(あか)い繁華街、
黒々と散在する公園、その他の無住地帯、かっと輝くスタジアム。
これらの景色を飽(あ)かず見下しながら、私はここにアメリカを見た。
広いという点でずば抜けたアメリカ、その広いアメリカの象徴としてのロスアンゼルスを見たのである」
帰国後の北村の動きは早かった。
経済企画庁で調査官をしていた下河辺淳(しもこうべ・あつし=当時40)を、下北に連れて行く。
下河辺はそのころ全国総合開発計画を推進。のちに阪神・淡路大震災復興委員長を務めた人物だ。
ねらいは下河辺を通じて、半島の付け根部分を陸奥湾(むつわん)から
小川原湖(おがわらこ)にかけて覆い尽くす巨大開発を、次の全国総合開発計画「新全総」に盛り込ませること。
「むつ小川原開発」のスタートだった。
この開発計画は、第三セクターが2500ヘクタールもの土地を所有したものの、
当て込んだ鉄鋼会社や石油化学会社は来なかった。
その結果、三セクは破綻(はたん)することになる。
北村は、なぜこのような巨大開発をやろうとしたのか。
開発の失敗が確定し、代わりに来た核燃料サイクル基地の建設がすでに始まっていた94年7月、
知事になっていた北村に、その疑問をぶつけた。
北村は答えた。
「下北半島を青森のロサンゼルスにしたかったんだ」
ロスの灯り:3
兵士を見送るように
3月、元経済企画庁調査官の下河辺淳に会った。
元青森県知事の北村正哉が県議時代、下北開発を働きかけた人物だ。
あれから48年。
全国総合開発計画づくりにかかわってきた下河辺は88歳になっていた。
青森県が巨大開発の誘致に熱心だったのは記憶している。
しかし県議時代の北村と下北半島に行ったことは覚えていなかった。
「あそこには年中行っていたもので……」
1960年代半ば、下河辺は、東京、大阪から瀬戸内にかけての
太平洋ベルト地帯にはもう石油化学工場はつくれないと考えていた。
「事故が起きたときに取り返しがつかない、というのが一番の理由でしたね」
では、下北半島は実際に見てどうだったのか。
「小川原湖(おがわらこ)の方は外洋だからいい。陸奥湾(むつわん)はだめだと考えました」
実現性については?
「財界人が、消費地から遠いといやがっていましたね」
中央の政財界の期待はそれほど高くなかった。しかし青森県議の北村は、土地の広さと湖沼の多さで、
下北半島は石油化学コンビナートの適地だと信じて疑わなかった。
なぜ、巨大開発をあの場所で進めようと思ったのか。94年、北村は私にこう語っている。 「小川原湖やその北の尾駮沼(おぶちぬま)などの水に注目した。
江戸時代にあの辺りを治めていた南部藩(なんぶはん)の
野辺地忠左衛門(のへじ・ちゅうざえもん)は
『湖沼群を利用できぬ者は為政者にあらず』といっていた。
太平洋に面した広い土地もある。
あれだけ条件のいい場所は他にない」
県民の貧しさを北村は憂えていた。
「中学を出た子どもが、集団就職で東京に出て行った。
青森や弘前の駅では、その子たちをブラスバンドでジャンジャンやって見送るんだよ。
まるで出征(しゅっせい)兵士を見送るみたいに。これは悲劇だった」
北村が、下北半島を「青森のロス」にしようと夢を描いていた64年3月、
中学の卒業式を終えたばかりの少女が一人、
三沢駅から、上野行きの集団就職列車に乗り込んだ。
3月なのにまだ寒い片側駅舎には、ブラスバンドどころか、
見送る家族の姿もなかった。
少女の名は磯崎慶子(いそざき・けいこ)。
後に日本の原子力政策の矛盾を、
六ケ所村から世界に発信する、菊川(きくかわ)慶子だった。
(宮崎知己) ロスの灯り:4
布団に雪が積もる
核燃料サイクル基地ができた青森県六ケ所村(ろっかしょむら)の南西部の丘陵に、豊原(とよはら)と呼ばれる集落がある。
菊川慶子は、豊原の開拓民の次女として1948年、青森県三本木町(さんぼんぎまち)、いまの十和田市に生まれた。
64年、15歳のとき、三沢駅から集団就職列車で上京した。見送りはだれもいなかった。
「両親も祖父も農作業が大変でとても三沢まで見送りなんかに出てこられなかったのです」
中学の時、慶子は住み込みで三沢の親戚の洋服店を手伝っていた。
「その親戚も、卒業後も私が手伝うものと信じていたので、やはり来てくれませんでした」
「豊原」の地名は、この地区の開拓民が
樺太(からふと)の豊原、いまのロシア・ユジノサハリンスクからの引き揚げ者だったことに由来する。
開拓民は、三本木の引き揚げ住宅から豊原に通った。
汽車を乗り継いで大湊線の有戸(ありと)駅に出る。そこから十数キロ歩き、豊原で開墾をし、夜に三本木に戻った。
「私は母におぶられていましたから覚えていません」
3歳上の姉の記憶だと、駅から原生林の中を歩き、丸木橋を渡り、峠をいくつか越えてようやくたどり着く場所だったという。
やがて「掘っ立て小屋」が建つようになり、開拓民は豊原に住むようになった。慶子が3歳のときだ。
「二重窓ではありませんから、冬は家の中に干した洗濯物がそのままの形で凍ってました」
眠っている間に、布団によく雪が積もった。 慶子の両親は木を切り倒し、根っこを掘り起こした。
全部耕すと大変なので、何本か筋をつくり、そこだけ畝(うね)を切って豆をまいた。
豆の根が硬い土をくだき、地味が肥えてくると、アワやヒエなどの雑穀をまいた。
続いてナタネを育て、主食用のジャガイモをつくった。
男たちは冬になると山に入り、コナラやヤチダモなどで炭を焼き、現金収入を得た。
炭にするのに適当な木がなくなると出稼ぎに出た。
六ケ所村では夏に、冷たい東風のヤマセが吹く。
米はつくれず、金を払って買わなければいけなかった。
「そのためどこの家も借金が積もりました」
農耕に馬を使うようになり、それでまた借金が増えた。
青森の夏の夜明けは早い。慶子の両親は、夏は午前3時から働くようになった。 ロスの灯り:5
トヨハラよいところ
菊川慶子の両親は豊原の開拓地で、夏は午前3時から畑に出た。
慶子の日課はランプ磨きだったが、小学生の夏休みはダルマストーブの火おこしも役目に加わった。
ストーブは上で煮炊きができるよう、扁平(へんぺい)型になっている。
それに薪(まき)をくべ、火をおこす。
「何にでも使えて便利なストーブでしたね」。
暖房はヤマセのせいで夏休みの時期も必要だった。
活発な小学生だった。
山賊ごっこやターザンごっこ、そり滑り。
分校の友達と、毎日、自然の中で遊び回った。
遊びのルールづくりはもっぱら慶子が担当した。
「このときの工夫の経験が、反核燃運動で機動隊を出し抜くアイデアにつながったのかも」
夏休みには盆踊りをした。
新しい集落なので祭りの道具は何もなく、太鼓の代わりにドラム缶で音頭をとった。
北海盆唄や炭坑節とともに、豊原音頭を踊った。
「ここさトヨハラよいところ」
繰り返し部分だけであるが、樺太(からふと)時代から歌い継がれてきた歌の一節をいまでも覚えている。
だが、小学校高学年になるとドラム缶の盆踊りはなくなった。
「農作業がたいへんで、盆踊りどころではなくなったのです」
歩調を合わせるかのように、家の中も暗くなった。 父親が出稼ぎに出る冬はよかったが、春から秋は両親のけんかが絶えなくなった。
慶子はこれも農作業の大変さが原因だと思った。
中学生になった。初めはうちから4キロ離れた千歳中学校に通った。
行き帰りはひとりぼっち。
それでも灰田勝彦(はいだ・かつひこ)の「新雪」や
伊藤久男(いとう・ひさお)の「山のけむり」を、坂道では「峠のわが家」を大声で歌いながら登下校した。
だが、両親の絶えないけんかにとうとういたたまれなくなる。
三沢の親戚の洋服店を住み込みで手伝うことにし三沢第一中学校に転校した。
そのころ三沢では、県議だったころの北村正哉が、
巨大工業開発で県を豊かにする考えにますます傾斜していた。
開拓民が必死に取り組む農業、自分が世界一周までして視察した酪農、目前に広がる豊かな漁場――。
そうしたものへの思いを吹き飛ばすのに、ためらいはなかった。
なぜそんな考えを持つようになったのか。
北村家の系譜をさかのぼると、彼の祖先も「入植者」だったことに気がつく。 ロスの灯り:6
会津武士の国替え
1870年春。
新潟港からアメリカの外輪蒸気船「ヤンシー号」が北に向けて出港した。
乗せられていたのは、戊辰(ぼしん)戦争に敗れた旧会津藩士(あいづはんし)とその家族だった。
幕末の雄藩、会津23万石は、賊軍の汚名を着せられ、国替えさせられた。明治に起きた国替えである。
会津武士とその家族計1万7千人余りは、ヤンシー号や陸路で青森に向かった。
その中に、元知事、北村正哉の曽祖父、豊三(とよぞう)がいた。
1871年の廃藩置県までわずか1年余だけ存在した藩がある。青森の「斗南藩(となみはん)」。
いまの青森県むつ市を中心とする下北半島の一帯と、少し離れた三戸(さんのへ)郡を中心とする内陸部だ。
それが彼らが行き着いた土地だ。米作には向かなかった。
北村の長男、正任(まさとう)(70)は毎日新聞社の元社長で、今は相談役をしている。
彼によると、豊三は三戸のほうに落ち着く。
廃藩置県になると、藩の重役の広沢安任(ひろさわ・やすとう)とともに
小川原湖のほとり、いまの青森県三沢市谷地頭(やちがしら)に移った。
正任の名は安任にあやかったものだ。
豊三の子で北村の祖父にあたる要(かなめ)は、
広沢の右腕となって、西洋式の大牧場を開くのを手伝った。
要は続いて、いまの六ケ所村に牧場を開いて牛の飼育に努め、
その後、三沢市岡三沢(おかみさわ)に「北村牧場」を開き、馬を育て始めた。
要の娘婿(むすめむこ)で北村の父にあたる直枝(なおえ)も馬を生産した。 北村は、盛岡高等農林学校獣医科から帝国陸軍に進み、軍馬の専門家になった。
北村の前任の青森県知事、竹内俊吉(たけうち・しゅんきち)は、
北村のこうした経歴を知っていて、「最もよいインスペクター(調査官)」として、
世界一周酪農視察の県代表に任命した。
しかし「ロスの灯(あか)り」を見てしまった北村は、
青森は農業より工業で豊かになるべきだとの確信を強めて帰国した。
北村は、自著「牛のよだれ」で、
日本農業の近代化を目指す国の構造改善事業に「もどかしさを感ずる」としてこう記した。
「残された手は、日本全土に拡(ひろ)がる高原地帯、傾斜地帯の農地化であり、牧草地化ではなかろうか。(中略)
この方向に向けて諸施策が進められない限り、酪農の将来に対して大きな不安を感ぜざるを得ない」
そこまでやらないと、日本で酪農を成功させることなどできない。そういう結論だ。
北村は同時に、工業開発についても会津人らしい考えを熟成させていた。
ロスの灯り:7
成長 まぶしすぎた
青森県知事時代の北村正哉は、西国出身とみると風変わりな質問をし、反応をみるのが好きだった。
1994年、大阪出身の私もその対象となった。
「きみのおじいさんは戦前、何をやっていたのかね」
大陸相手の貿易商を営んでいた、と答えると、にやっと笑ってわが家の食卓の様子をいい当てた。
「きみの家では、シジミ汁のシジミの身は食べんだろう?」
シジミは小川原湖の名産品だ。
北村の長男正任によると、北村はシジミ売りが小さなシジミを売りにくると「こんな小さいうちに取るやつがあるか」としかっていたという。
北村は「大阪の商家出身の兵隊さんがみなそうだった」とタネ明かしをした。ぜいたくを戒めたあとも質問は続く。
「きみは、東北が貧しいのは雪深いせいだと思っていないか」
まごつきながらもそうだと思うと答えると、北村は真顔で否定した。
「ちがう。光(ひかり)、下松(くだまつ)、徳山(とくやま)とつらなる工業地帯。
あれは明治維新以来、政府が資本を集中投下してきたからできたのだ」
北村は県名をいわなかったが、三つの都市は山口県にある。官軍の中心の長州である。
「きみは北海道の道路を走ったことはあるか」
「北海道の道路はすばらしい。路肩や歩道を見れば、つくりの違いがよくわかる。
北海道・沖縄開発庁予算というのは、実にうらやましい。東北開発庁というのがあってもいいと思わんか」 北村の考えでは、開発というのは、まず第一歩は政府の資本投下があるべきだった。
ロサンゼルスが急成長したのも、南カリフォルニア一帯に用水と電力を供給するフーバーダムの建設、
という政府資本の投下があったからこそ、と考えていた。
ロサンゼルスは、市ができたときわずか1610人しか市民がいなかった。
しかし、その後100年で200万人都市に成長していく。北辺の地の政治家、北村にとってはまぶしすぎた。
青森県議だった北村は1965年3月、県政史上初の代表質問者として登壇し、
自らの工業開発の思想と、県民所得向上策を披露した。
あまりにも巨大な構想に、周囲の反応は鈍かったが、
北村はこれで県政の将来を握るきっかけを得た。(宮崎知己)
ロスの灯り:8
我田引水 何のその
1965年3月5日の青森県議会は、さながら県議北村正哉の意見発表会だった。
工業開発思想と県民の所得水準向上策を、彼は存分に披露する。ハイライトは次の部分だった。
「化学工業立地の最大の要件は港湾と用水と土地であります。我田引水のそしりを免れないのでありますが、
この三つの立地条件を十分に満たしてあまりある場所、それは小川原湖であります」
海水と淡水の混じり合う小川原湖を、間仕切りして港湾化すれば、工業用水はふんだんにとれるようになる。
大型タンカーも入って来られる。土地はもともと広い。
後はおのずと石油化学コンビナートができる。そうすれば県民の所得水準は全国並みになる――。
青森県はそのころ、県内で豊富な砂鉄と針葉樹、石灰石を使い、
製鉄業や製紙業、セメント工業をさかんにしようと考えていた。
北村はこうした工業を「資源型工業」と呼び、「将来性に限度がある」と一蹴する。
県の活路を石油化学に求めるよう迫った。
政府による資本投下こそ重要だ。それを説明するため、得意の「北海道との比較論」も飛び出した。
北海道では、大正時代になる前から各地に巨大な煙突が立ち並んだ。その工場のほとんどは官営から出発し、
「目玉の飛び出るような」額の政府の財政投融資を受けた。
その結果、道民の所得は青森県民の1.5倍に達している、と主張した。 工業開発の目標は県民所得の向上にある――。
当時、青森県は長期経済計画で、70年の県民所得水準を全国平均の85%にすることを目指していた。
北村はそれにもかみつく。
「悲憤を覚えます」
「青森県の人もまた厳然として日本人であります」
しかし、この日の県議会で、北村の考えをにわかにのみ込める人は少なかった。
下北半島は、近くに大消費地がない。そこに10年ほどで巨大な工業地帯をつくり、
県民の所得を全国平均まで引き上げる。そんな考えに誰もついていけなかった。
知事の竹内俊吉は北村に対し
「資源型工業の方が、地方開発における速度の点から考えたならば本当だ」と答弁。にべもなかった。
ところが67年春、竹内は突然、県議の北村を副知事にしてしまった。 ロスの灯り:9
「やりましょうや」
1965年3月の県議・北村正哉による代表質問の後、北村によると、
知事の竹内俊吉はしばらく迷っていたという。
下北で、北村のいう石油化学中心の巨大開発をやるか。地元資源を中心に地道な工業化をやるか。
北村の県議会での質問に竹内は、砂鉄や針葉樹、石灰石といった
県内の資源を使う「資源型工業」の方が本当だ、と答弁していた。
しかしその直後の65年4月、下北半島の砂鉄を使うはずだった製鉄会社が、操業開始前に解散した。
採算が合わないという理由で、設立からわずか2年だった。
下北半島の付け根、六戸町の製糖工場も67年、閉鎖された。
粗糖の自由化で不採算になったためだ。進出からわずか5年。
県が栽培を奨励したビートを使っていたので、農家が打撃を受けた。
東京に集団就職した菊川慶子の実家も損が出た。
迷う竹内を、北村はこう説得したという。
「やりましょうや。これ以外に青森では大きな開発はできない」
北村が副知事に任命されたのはその直後だった。
それを境に、青森は県として下北半島への巨大工業開発づくりに突き進む。
68年末、通商産業省が出した「工業開発の構想(試案)」に下北の巨大開発構想を盛り込んでもらった。
69年3月、財団法人・日本工業立地センターに「陸奥湾・小川原湖大規模工業開発」をまとめさせた。 そして、69年5月、経済企画庁調査官の下河辺淳がつくる「新全総」に載せてもらった。
わずか2行だけだったが。
その2行のため、北村は「経企庁に説明に行き、回答をもらい、また説明に行く。7回ぐらいやった」。
県はこの年8月、「陸奥湾・小川原湖地域の開発」をつくった。
鉄鋼、石油化学などの臨海型装置産業を中心に、
非鉄金属、化学、造船、自動車、電気機械などの機械工業を配置する。
原子力発電所をつくり、鉄鋼などの基幹産業とでコンビナートを形成する――。
工業用地は約1万5千ヘクタールと巨大で、工業生産額は年5兆円、従業員は10万人超。
3千ヘクタールの新市街地を造成し、20万人が定住するとも描かれていた。
71年5月、菊川慶子が六ケ所村に戻ってきた。
結婚して、出産のための里帰りだった。
実家の様子は一変していた。 ロスの灯り:10
村中が新築ラッシュ
出産のため1971年5月に青森県六ケ所村に戻ってきた菊川慶子は、新築中の実家の立派さに驚いた。
最初の家は、風よけのため低地に建てた掘っ立て小屋だった。
開拓に入って数年で、そこから抜け出し、高台に建てた「少しましな家」に移っていた。
その横にまた新しい家を建てていたのである。
あたりを見てまた驚いた。村全体が新築ラッシュにわいていた。
「信じられないほど高い値段で土地が売れたんです」
里帰りの2年前、69年5月30日、経済企画庁調査官の下河辺淳らによってつくられた
新全国総合開発計画(新全総)が閣議決定された。
それには、下北半島の大規模開発について、「小川原工業港の建設等の総合的な産業基盤の整備により、
陸奥湾、小川原湖周辺ならびに八戸(はちのへ)、久慈(くじ)一帯に
巨大臨海コンビナートの形成を図る」とわずか2行記されていただけだった。
その前から東京の不動産業者が下北半島に押しかけ、あちこちで土地を買いあさり始めた。
慶子の実家は、工業開発区域から外れていた。
それでも買い手があらわれ、多額の現金を手にすることができた。
慶子の実家は馬を使って農業をしていたので、えさの採草地を持っていた。
薪(まき)が暖房源で生活源だったので薪を切る山も持っていた。 「それをいくらか売ったのだそうです」と慶子はいう。
村人たちは家を建て替えただけではない。
車や電話、テレビや冷蔵庫などの家電製品を買いそろえた。
積もり積もった借金も消えた。
慶子の実家は、車にまでは手を出さなかった。
だが、少し後になってトラクターは買った。それで農作業が楽になった。
弟は、八戸市に下宿させてもらうことができた。
そこから工業高等専門学校に通った。
「両親は、開発のおかげで土地が売れて借金から抜け出せた、
ようやく人並みの生活ができるようになった、という意識のようでした」
村は景気がよくなったが、工業開発に対する不安も高まっていた。
なりわいの基である土地や漁業の権利を売って現金を得る。
そんなことをして、その後どうやって暮らしていくのか。懸念する人もいた。
県の計画が、どうも大風呂敷すぎるらしい、ということが村人にとって気がかりだった。
ロスの灯り:11
「田植え終わったか」
北村正哉の前任知事、竹内俊吉にはこんなエピソードがある。
下北半島の向かい側、津軽半島の旧車力村富萢(しゃりきむらとみやち)というところの
中学校が統廃合されるという話になった。
困った村民が、青森市の県庁まではるばる陳情にやってきた。
竹内は会うなりいった。
「言いたいことはわかった。さて、おめんだち、田植え終わったか。なに、してねえ? 今日はひとまず戻れ」
村はこの日が田植えの最適日だった。村民は知事がそんなことまで気を配ってくれたことに感動した。1964年ころの話だ。
旧出精村(しゅっせいむら)という小村の農家出身の竹内が、
開発志向の北村を副知事にし、青森県は変わっていく。
71年3月、用地買収を担当する財団法人「むつ小川原開発公社」と、
用地造成と分譲を担当する第三セクター「むつ小川原開発株式会社」が設立された。
公社は県が資金を出してつくり、職員を派遣した。
株式会社は国と県のほか、経団連加盟の約150社が出資した。
この2社に、基本計画の調査設計を担当する株式会社「むつ小川原総合開発センター」が加わる。
3社は、開発への道を猛進し始めた。下北の巨大開発の進め方が「トロイカ方式」と呼ばれるのはこのためだ。3頭立て馬車である。 71年8月14日、県が下北半島の住民に、開発構想と住民対策の案を示した。
その2年前につくった「陸奥湾小川原湖の開発」では、工業用地は1万5千ヘクタールだった。
それが「構想」では9500ヘクタールに減った。
30万トン級の船が入れる港湾と、巨大石油タンク群という、陸奥湾側の計画が消えたためだ。
陸奥湾のホタテ生産者が、革命的な稚貝育成法を編み出した。
杉の葉入りのタマネギ袋で捕らえるという簡単な方法で、ホタテで生計を立てることに自信を持つ。
彼らが団結し、開発を拒絶したのである。
「陸奥湾小川原湖開発」はこれを境に「むつ小川原開発」になる。
一方、太平洋側は大騒ぎになっていた。
「構想」で、六ケ所村と三沢市を中心に
2020世帯9614人、34集落が移転の対象となると明らかになったためだ。
住民に不安の声が高まる。
開発を拒絶する人たちの先頭に立ったのは寺下力三郎(てらした・りきさぶろう、当時59)。
六ケ所村の村長だった。
ロスの灯り:12
工場で働けばいい
開発拒否の村人の先頭に立った六ケ所村長の寺下力三郎は、村民に「鹿島開発」を見に行かせた。約1千万円の予算をつけた。
20余年後の1993年8月、寺下は視察のねらいを私に語った。
「農民が農地を売ったらどうなってしまうのか、鹿島の農民に話を聞いてくるべきだ。
その上で開発とは何か考えよう、ということでした」
鹿島開発とは、茨城県南部の鹿島灘に面した地区の開発のことだ。
砂浜にY字形の掘り込み港湾をつくり、鉄鋼、石油精製、石油化学の工場を配置した。
社会科の教科書にも登場した大型開発だ。
下北の太平洋岸と鹿島の海岸は、その地形、砂浜、近くに航空基地があるなど、うり二つだった。
さらに、むつ小川原開発と鹿島開発は、砂浜に巨大な港をつくり、石油化学コンビナートを誘致する点でもそっくりだった。
「農工両全(のうこうりょうぜん)」
鹿島開発を進めた茨城県知事の岩上二郎(いわかみ・にろう)は、この標語を掲げ、農業もしっかり続けていくとの姿勢を示した。
それで農民を安心させ、土地を手放してもらおうとしたのだ。そのやり方はこんな具合だった。
開発対象の3町村の全地主に所有地の4割を提供させ、その代金を払う。
そのうち開発区域の地主には、提供させた土地を集めてつくる代替地から、元の所有地の6割に相当する分を渡す――。
全員が公平に4割減り、お金が入る。
開発区域の農民は代替地で農業ができる。
「六四方式」と呼ばれた。 だが寺下は鹿島視察で、代替地が都市化の波に洗われたり、
農民が多額のお金でぜいたくにおぼれたりし、農業を続けられなくなっていくことに気づく。
寺下が下北半島の巨大開発を拒否したのは、戦前の朝鮮半島で見たのと同じだと思ったからだ。
当時、寺下は現地の窒素肥料の会社で働いていた。
日本人が「幸せになるためだ」と、朝鮮人の土地に住宅や工場、発電所をつくるたびに
朝鮮の農民が結局は生活基盤を失い、没落していくのを見た。
「開発は住民を幸せにしない」。寺下は鹿島視察で確信を深めた。
しかし、青森県の方法は、鹿島より乱暴だった。
農業はやめて、工場で働けばいいとして、基本的に代替農地を用意しなかった。
農業から工業への転換こそが所得向上の道とする、北村正哉の考え方からいくとごく自然な行為だった。 ロスの灯り:13
口先だけの了解
「無責任収用」――。
開発拒否を訴えた六ケ所村長の寺下力三郎は、かつて青森県の土地買収方法をこう表現した。
「収用」とは、行政が道路など公共物をつくるときに、法律によって強制的に住民を立ち退かせる手段のことだ。
下北に進出するのは民間企業だから、法的強制力は使えない。
にもかかわらず寺下が「収用」と呼んだのは、政府が異常なまでに買収の便宜をはかり、
青森県は住民に対し、あたかも強制力があるようによそおったからだ。
最たるものが1972年9月の田中角栄内閣による閣議口頭了解だ。
閣議決定でもなんでもない、口先だけの了解だ。
しかし青森県はこれを錦(にしき)の御旗(みはた)とし、自分たちの計画を「国家的プロジェクトだ」というようになった。
口頭了解は、税務当局が、むつ小川原開発公社による土地の買収を特別扱いする呼び水にもなった。
北海道苫小牧市立中央図書館に、その記録が残っていた。
「土地譲渡所得の1500万円特別控除対象」とする文書がそれだ。
文書が北海道に残っていたのは、むつ小川原開発と同時期に、同種の「苫小牧東部開発」が進められていたためと思われる。 むつ小川原開発公社に土地を売った地主は所得税の課税評価で1500万円も特別控除を認められる。
これで公社はさらに農民に土地を売らせやすくなった。
農地を工業用地に転用するのは、農地法によって厳しく制限されている。
しかし政府は、人口1万2千人の六ケ所村を都市計画法の対象とした。これで農地法は無力化した。
寺下が「無責任」と呼んだのは、むつ小川原開発公社の行為だ。
公社の「創立十周年記念誌」という書物の155ページに次のような記述がある。
「発足した当時、県庁の機構上からこの公社は、関東軍の再来ともいわれたものであった。
事実、この関東軍は関係者の期待にたがわず強固な団結力と行動力をもって勇猛果敢に戦った精鋭部隊であった」
公社の職員の大半は県からの出向者、すなわち公務員だ。
それが旧満州を占領した関東軍のような気分で、農民の土地を容赦なく買収していったのである。
土地の買収が急ピッチで進む中、村議が一人ふたりと推進派に転向した。
村は開発推進か拒否かで騒がしくなった。
ロスの灯り:14
目の前の金銭よりも
農民が、なりわいの基である農地を奪われたらどうなるか――。
六ケ所村長の寺下力三郎はそれを朝鮮半島で目の当たりにし、鹿島開発で再確認した。
彼は開発拒否を訴え続けた。
一方、「開発トロイカ」の1頭であるむつ小川原開発公社は、1972年暮れから土地買収を本格化させる。
指揮は山内善郎(やまうち・よしろう)(当時58)が執った。
青森県開拓課長を務め、六ケ所村民に顔が売れていた。
県庁が推進の旗を振る。
その事業を現地の村長が認めない。
真っ向対立の状態となった。
73年7月、寺下は衆院建設委員会に公述人として出席し、次のように訴えた。
「世間では反対運動だといっておられるようですけれど、それは村外の方々から見た表面上のことで、
私たち住民にとっては、生きるための努力でございます」
寺下は、これは金銭面の損か得かの問題ではないと考えていた。
農民が土地を奪われて死ぬという問題なのだ。
村長としては、開発反対などという生ぬるい態度ではなく、「許さず」といわねばならない――。
農民にとっては、目の前の金銭より、
将来に向けてのやる気と希望こそが、幸せか否かを考えるうえで重要だ。
寺下はそう強調した。 65年の農林省の意識調査に、六ケ所村がある青森県上北・下北地域では
43.4%の農家が「やり方によっては希望が持てる」と答え、全国最高だった。
「それが開発騒ぎのために完全に逆転の状態になってしまったのでございます」と訴える。
リコールの応酬の後、73年暮れ、六ケ所村長選がおこなわれた。
推進派が多数を占めるようになった村議会を代表して、
議長の古川伊勢松(ふるかわ・いせまつ)が条件付き賛成を掲げて、
現職の寺下に挑む構えをみせた。
それでも古川の地盤は村北部の泊集落だけだ。
寺下は村中央部をおさえている。
下馬評では寺下の方が優位とみられていた。
開発の是非に決着がつく。
それがこの村長選の意味だった。
寺下が勝てばむつ小川原開発は止まる。
県はあせる。
知事の竹内俊吉から、書生たちに指示が飛んだ。
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