思い返せばスバルでたくさんの競技に出て楽しみました! 本当にありがとう!
2020年1月7日 [日々是修行] http://kunisawa.net/?p=42382

スバルが楽しいクルマを作れなくなる−−と書いていたら何だか寂しくなってしまった。
1989年に初代レガシィが出るまで、スバルの技術って大きく遅れを取ってました。
レオーネまで”ド”を付けたくなるほどのアンダーだったし、ターボエンジンも強烈な
ターボラグ&トルク細い。やっとABSを出したと思ったらX配管のセレクトローだったため、
コーナーで抜けまくる。

当時「このままじゃダメだ!」と危機感持っていたのが、副社長でスバルのキャリアを
卒業した荒沢さんやSTI社長になる桂田さん等、課長級のサムライ達でした。
レガシィを開発しイッキにライバルと並ぶ。続くインプレッサあたりから、山口さんという
宣伝担当とSTIを立ち上げた久世さんがスバルの速さに気付き、数年間で今の
ブランドイメージを作り上げてしまう!
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人生初ラリーで少し速かったのが悪かった?

やがてレガシィは売れまくり、インプレッサも世界TOPのドライビングプレジャーを持つ
クルマになる。私が始めて競技に出たスバルは、上の写真の2001年式の丸目GDBでした。
2002年の20回アルペンラリーですね。もちろんラリーに出るの、初めて。
ペースノート使って走るのも初めて。タイヤは競技用じゃなく、普通のポテンザだった
もののSS2でグループNの3位取ってハマる!
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このGDBは車体補強無し。ほぼノーマル

調子に乗って2004年の全日本最終戦で初めてグラベルラリーに出場。
そしてグラベルラリー2戦目はアジパシのオーストラリアという、今からすれば無謀な
チャレンジでしたねぇ。それでもオーストラリア、ニュージーランドと望外の順位で走り、
さらにラリー北海道にWRCジャパンまで出ちゃいました。
上がその時に乗っていた涙目のGDBです。2005年は国際ラリーに6回も出たら金欠! 
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ライバルは全てシーケンシャルでした

 続く