【プロ3階級アマ7冠】井上尚弥 194【Monster】
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「タガイ」を匂わせるようなことを言っておいて
それで周りが「タガイ」と呼んだのでは罪になどなりようがないよ
このことで罪に問われる人物があるとしたら考えられるのは二種類
@本人を貶めるために適当なキチガイを「タガイ」呼ばわりするように仕向けた人物
(そしてそれを(せいぜいボク板の中とはいえ)広めた)
→場合によっては名誉棄損または侮辱罪
Aキチガイが自分をボクサー経験者であると偽りたいタガイを自称した自演をした人物
→場合によっては詐称罪
これらに関しては例えば金品や利益の損失でもない限り成立は難しい
侮辱罪ならまあ、頑張りによっては5%くらいはあるかも知れん
しかし原告側が得する可能性は限りなく0%に近い(賠償となる理由が不明確)
経験者の振りをして理由をでっちあげてまで
少なく見積もって億に近い金銭のやりとりが発生する試合を
執拗に八百長連呼する行為とは訳が違う 失礼、詐称罪じゃなくて詐欺罪な
まあそんなので利益や損失が発生するとは到底思えないが 多賀井そうとう悔しかったようだなw
いままでやってきた愚行を反省するがいいw
あとこれな
ほら、逃げた(笑) もしタガイが逮捕されてそいつが多賀井本人じゃなかったとしても「やっぱりな」で終了 792名無しさん名無しさん@腹打て腹。2019/05/29(水) 08:40:42.96ID:PQz6XHhq
「マニー・ロドリゲスは我々もポール・バトラー戦で見ているように、
いいファイターなんです。
それが2ラウンドですよ。あれは衝撃でした。
2度ダウンした後です。跪きながら目はほとんど開いていません。
そして、彼は震えていたんです。
コーナーを見ながら頭を横に振っていました。
あんなに優秀なファイターが……。
彼の顔を見るだけで我々は理解しました」
司会のアンディ・クラーク氏は、
かつて英国のバトラーも破っているプエルトリコの無敗王者のダウンシーンを、
思い出した様に興奮気味にまくし立てていた。 今度はさいたまの方でキチガイが暴れて警官に撃たれたそうだな。
そいつの苗字が多賀井だったら笑えるな。 ネリもパヤノKOしたら井上との試合決まるのかな
いくらなんでも一ラウンドはそりゃ無理だが >>466
これ可能性あるよな
体つきからロドリゲスもフェザー位までイケそうなんだよな。
バンタムで再戦、Sバンタムで再再戦はなくはない。
それまでにコケるなよw 階級を上げればパンチ力も上がるのでそこは心配してない >>466
ロドリゲスって誰?
それよりもっと強い人を >>475
相手のリーチが長くなり耐久性も増すぞ?
今と同じ戦い方ができなくなる 他の階級に移る奴ら続出でバンタムスッカスカになりそう 日本でも無名だよ
井上戦の低視聴率が全てを物語っている
亀田は最高視聴率43.1%を叩き出している 普通に髭だな、他にも髭面をインスタに載せてる
これならモンスターの右も緩和出来るな 茶髪がよくない印象が薄くなる
黒髪にした方強く見えるし外国にも評価が高くなる >>466
ロドリゲスはやっぱ階級変えるんだな
あの骨格でバンタムでは生きないと思ってた スーパーバンタムで再戦をか、うむ、井上を倒せる確率は少しは上がると言うだけ
5%→10%くらいの確率アップくらいかな、恥の上塗りになるだけだからやめとけ 711 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:51:36.68 ID:Zqscy7pG0 (24)
おれたちは どこまでも南無妙法蓮華経の選挙だ!!
維新はてめえの「権力とカネと名誉だ」
支持者の愚民であるてめえらも ケツのあなの小せえ ガリガリ君だあ
うほっは
おれらは全世界広宣流布だけしかねえ
朝鮮とも中国とも、アメリカとも、国籍関係なく、仲良くしてゆく!!
おれらは いっさいしゅじょうが 幸福になれと、毎時まいばん 祈りまくってる
てめえらは「他人の不幸だけを願ってる」!!
そんなてめらが おれらに 勝てるわけねえだろがっ!!!!!!!!!wwww
712 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:52:40.28 ID:Zqscy7pG0 (24)
もう一回再確認しとくぞ?
維新に入れたバカ。これから入れるクズは
「地獄へ落とす」やくそくだWWWWWWWWWW
713 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 01:55:33.71 ID:Zqscy7pG0 (24)
ちっ、また完全勝利かよ?
また明日なW
717 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/09(火) 02:02:23.02 ID:Zqscy7pG0 (24)
バカヤローW
29億6千万円の予算 を使ってるじゃねーか
橋下がカネ出したんか?っ
そんなもんカネの配分の問題だろが?
赤バス廃止したやろがっ ドストエフスキーの有名な「プーシキン演説」からシェイクスピアやセルバンテスについて述べた部分を書き出してみると
第三期には、主として全世界的な理念が輝き始め、他の諸国民の詩的比喩的表現が反映し、他国民の示した天才が具現化されている系列の作品が帰属する。
わが詩人は、彼以前には、どこでも、どの作家においても見たことも聞いたこともないような、ほとんど何か奇跡的な存在となっている。
事実、ヨーロッパの文学には、シェイクスピア、セルバンテス、シラーのような巨大な、堂堂たる芸術的天才がいた。
しかし、わがプーシキンのように、全世界的に共鳴し得るこのような能力を有している人が、これらの偉大な天才の中に一人でもいただろうか。
ヨーロッパの最も偉大な詩人たちでも、天才とその精神を、その精神の中に秘められているあらゆる深みを、その使命についての憂いを自分の中に体現した例は一つとしてないのである。
ヨーロッパの詩人の多くの場合、他国民を自分の国民性に合うように変身させ、自己流の解釈をほどこした。
シュイクスピアについても、たとえば、彼の作品のイタリア人はほとんどすべてイギリス人である。
ただプーシキン一人が、完全に他の国民性の中に化身し得る特質を有している。
『ドン・ジュアン』『石の客』を読み返してみるがいい。もしプーシキンの署名がなかったら、作者がスペイン人ではないということなど、知りようがなかったであろう。
『プーシキンについての演説』に関する説明のための数言(『作家の日記』1880年8月第1章 )
プーシキンの意義について私が特筆しておきたい思った第三の点は、全世界的に共鳴する才能、他国の天才に完全に同化する才能、それもほとんど申し分ないほどに新しいものになりきる能力である。
私は演説の中でも、ヨーロッパにはシェイクスピア、セルバンテス、シラーのようなこの上なく偉大な世界的天才がいるが、そのうち誰にもこの才能を見出すことはできない、ただプーシキンにのみこの才能を見ることができる、と述べた。
私は、他国の天才に同化し得るというこの上なく天才的なプーシキンの才能を指摘するにあたって、シャイクスピアやシラーの世界的意義を侵害するつもりはなかったのだ。 西欧文学でドストエフスキーを超えて日本人に影響を与えた作家はぜったいにいない
ですから米川正夫は偉大です!彼の翻訳こそスタンダードだったんですからっ
三島由紀夫ほか純文学に引用されてるのもすべて米川正夫訳
この厳然たる事実はどうにもできん
であるからして、さいきんの なんたら訳などで読むのは愚の骨頂です!
もちろんこのことの反対意見があるのは承知です。ぼく自身も「白痴」をそれしかなかったという理由で
木村訳でよみ、その文体の磁器のような硬質の美しさに感嘆したものです。
それでもなおかつ米川の業績を超えることは不可能です。 >>205
ヨーロッパの偉大な作家はそれぞれの民族性に限定されるが
我が国の偉大な詩人プーシキンは民族の軛を離れた普遍性を確保しており
これはプーシキンのみならず我がロシア人に共通の性格である
つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
というトンデモ理論だよ
単に民族的統一性を確立する前に
西欧先進国からの文化移植を実施したので寄せ集め状態になっており
それ故にナショナルアイデンティティについた考えなければならない
というだけの話に過ぎない
で、ロシア民衆は貴族階級ほど汚染が進んではいないので
そこに希望があるのだが同時に「学」もないので
民族的純粋化よりも土俗的信仰の世界に向かう
しかしその信仰は土俗的であるが故に蒙昧さと背中合わせである
そこで「罪と罰」の世界にループしてしまう
ドストエフスキーの問題設定に出口は無いんだよ >>211
> つまり我々ロシア人が自民族について思索するとき
> それは民族性を離れた普遍性に到達するのであり
> これはわが民族が世界にとって指導的役割を担っていることを意味する
> というトンデモ理論だよ
------------------------------------
う〜ん... いつもあなたの文を読んで思うんだけども、前提の理解には完全同意なのに
結論がなぜそう感じるのか?ぼくにはわからん。
なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
自国が、世界的な使命を持ち、「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、とうぜんの帰結と思うがどうでしょう? >>212
> ドストもナチスや大日本帝国紛いの当時よくある民族主義者だったのか
> 関東軍も日本民族は中国を支配して指導的役割を果たさなければならないとか吠えてたらしいな
その理解がせんぱくですよ。最高の民族主義者であるからこそ他国ともなかよくできる。
ぼくは日蓮大聖人の教えどおり、この日本国こそ全世界へ仏法を広めいく使命をもった国であり
全世界が憧れる国だと思っている。 ぼくはあなたに個人的怨みがあってつっかかるんじゃない
あなたの文は教養があるが、「信仰という地盤がないゆえに」
ほんと「根無し草」になってる。だからカラマーゾフやドストエフスキーについて論評しても
肝心なところで、最後の結論部分で「ドストエフスキーの真意に到達しない」
これは難しい理屈をこねくり回してるのではない。
あなたはカラマーゾフの登場人物で言えば、まさにイヴァンのごとくなってる。 さらに40連投達成!!
ギロリ... !
維新愚民はおらんがあああ〜〜〜?
殺してまうどっ
700 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:32.62 ID:hdt38pJt0 (9)
おめらは白痴なんかっ?
701 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:05:50.73 ID:hdt38pJt0 (9)
なんでイシンなんか入れんだ?
馬鹿やろ?
703 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:06:28.40 ID:hdt38pJt0 (9)
わかった。おまえの嫁は糞ブスだから それで復讐で維新かっ? 704 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:07:51.88 ID:hdt38pJt0 (9)
>>702
だいじょうぶだあWWW
あと、3週間の命だしWW 維新なんて
吹けば飛ぶような泡沫政党だしWWWWWWWWWW
705 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:09:00.87 ID:hdt38pJt0 (9)
なんの信念もねえ
思想もねえ
実績もねえ
愚民だけが支持してるWWWW
706 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:10:41.16 ID:hdt38pJt0 (9)
公明党に入れないやつは
たいへんなことに なりますよっ
教えといたからね?
でも、ちみらってなんで入れないの??こうめいに
707 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:12:48.09 ID:hdt38pJt0 (9)
あ、わかった!
根無し草で
ひとりぽっちで
仏法の大切さもわかんないんでしょう?
大予言するよ。「7年後に維新はこの世に存在してません。」
「はしもとも この世にいません」ぜんいんコジキになってます!
維新応援したおまえらも!!!!!WWWWWWWWW
708 名前:名無しさん@1周年 [sage]: 2019/04/10(水) 02:15:14.52 ID:hdt38pJt0 (9)
北は北海道から南は沖縄まで!
ひとりも、ただの一人も! 維新なんか応援してませんWWWWWWW
ムードで 騙されて、おまえら愚民が、応援してるだけ。
だから「今だけ」これを忘れないように。 >>214
>なぜこれが >トンデモ理論 なのか?
>自国が、世界的な使命を持ち、
>「わが民族は世界にとって指導的役割を担っている」と考え信じるのは
>健康な精神と「ナショナルアイデンティティ」のために、
>とうぜんの帰結と思うがどうでしょう?
そういう事じゃなくて
民族的統一性や純粋性が確立されていない(特に知識人層)のに
その非統一性を多様性と置き換えて一気に世界性に持って行くのは詐術に近いのね
また、知識人層と違って土俗的信仰の世界に生きる民衆を評価するのはいいとして
この土俗性も突き詰めていくと無知蒙昧や
アジア的異教性や汎神論的世界につながりかねない
このあたりに見られる苦闘は作品の中にも見られるが
明確な回答は最後まで出されていない
そのくせ飛躍した理論で正体の定まらない自民族こそ
世界をリードするのだ!と世間受けの良いスローガンを掲げるのはどうかな?
劣等感を優越感に逆転させるような詭弁は感心できないよ
これは健全なナショナリズムではない
「悪霊」におけるキリーロフの神と民族に関する議論の方がまだマシであって
ドストエフスキーの演説はこれよりも後退しているんだよ
民族と神の問題はシェリングやフィヒテといったドイツ観念学派の考え方に近く
スラブ主義の源流でもあるのだけど
ドストエフスキーはこれには距離を置いている
しかし問題設定としては避けて通ることはできない 石原慎太郎の言を借りるのなら
「真にナショナルなものしかインターナショナルになれない」
というのはそれなりに正しい
もっというとナショナリティーの確立によって
インターナショナルに向かうことが出来る
だからまずは神の定義や信仰の強度も含めて
ナショナリティーの確立に力を注ぐべきなのに
その前段階で大見得を切っている
それも理論操作でね >>214
言葉をもし文脈というような区切りができるならば、前提と結果で分ける事も出来うる
その時の前提とは普遍性であり、その時の結果とは個別性になる
そうならば、前提に同意できてもそのあとの結論は引き出す個々の意見というものに近くなることになる
なので前提は肯定できても、結論は反対に思う事は結構あるんじゃないかな
人間は死ぬ
だから精一杯生きよう
だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
これは同時にあり得ること、そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね >>224
> 世界に冠たる神国日本が
日本人にとっては土着信仰としての神国であるが、世界はそうは見ない。
世界宗教としての仏教国と世界は見る。
>外国で賛美されているのは当たり前のことだろう
賛美されているのは日本国だけではない。どんな小国にもその国だけの良さがある。
>それを認めたくないのは反日朝鮮人だけ
きみのちっぽけな世界観・宇宙観ではそう感じる。創価学会は全世界に信者を持つが
特段に多い国のひとつが韓国だ。人口比率でいえば日本国内より多い。ゆえに韓国朝鮮人を
下に見るなど夢にもありえないことなんだ。 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
これどこで読めるんだろう
ネットだと主の祈りの部分くらいしか載っていない
1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
2 ゆえに人は、霊をもってこの本源につかえなければならぬ。
3 万人の生命は聖なる本源を持っている。そしてその本源だけが神聖である。
4 ゆえに人は、万人の生命中に存するこの本源につかえなければならぬ。これは父の意志である。
5 生命の父の意志に対する奉仕は、生命を与える。
6 ゆえに自分一個の意志の満足は生命にとって不必要である。
7 一時の生命は真の生命の糧である。
8 ゆえに、真の生命は時間を超越しているーそれはつねに現在のなかに在る。
9 生命の欺きは、時のなかにある。過去と未来の生命は、人の前に、現在の真の生命を隠蔽する。
10 ゆえに人は、過去と未来の一時的生命の欺きを破却するために、つねに努力しなければならない。
11 真の生命は、万人に共通なる現在の生命であって、愛によって表現されるものである。
12 ゆえに、現在において万人に共通する生命であるところの愛に生きるものこそ、父、本源、および基礎的生命と一致するものである。 >>222
> 人間は死ぬ
> だから精一杯生きよう
> だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
人間は死ぬ → だから生きる事は無意味だ、つまり自殺だ
================================================================================
こういう方程式を現実の人間において見たこと感じたこと ありますか?
自殺者はたくさんいるけど、いっぱんてきに普遍的に必然的に「人間は死ぬ」から、人生における努
力そのほかが無意味に感ずる、だからぼくは自殺する―というのはほんとうでしょうか?
> そして同時にあり得る事が言葉の闇でもあり崇高な特性でもある
言語論としてそうですよね。ぼくも2ちゃんカキコのとき「わざと意味的に矛盾・倒置させて、キチ
的にするように努力してる」とはいえそんな小手先だけで「キチを演じるのは甘くないです」が。W
> アリョーシャが、イワンに殺したのはあなたじゃないと言ったのに、イワンは「おまえが殺した」
みたいな解釈を勝手に想像して拗ねてしまうね
あのあたりも本文引用しつつ、いっしょに考えていきたいですねW
> 今話にあがっているドストエフスキー土壌主義がどこまで国家主義と重なっていたか、どういう意
味で国家主義を捉えていたかの明確な判断は難しい、とぼくは思います
> 勉強不足で明確に書いてある箇所がわからないのですw
> もしあったらレスよろしくー
ぼくこそ、カラマーゾフと罪と罰と白痴の一部のみしか読んでなくて、あなたの引用するプーシュキ
ンの演説とか参考になる。
ずーっと体調不良で、レスが遅くなりすいませんでした。もしコンディションよくなったら、まず第
一番にあなたのカキコにレスつけたいとおもってた。 >>231
> 宗教の話題があがっているのでスレチになるけど、トルストイの要約福音書を読みたくて探している
> 廃刊されていて売っていないし、去年に近くの図書館行った時もなかった
> これどこで読めるんだろう
国立国会図書館デジタルアーカイブでは? ぼくはぎゃくに紙の書籍が目の関係でダメなんだけど、だから
キンドルや青空でさがすけど。ぼくが少年時代にはたいがいの図書館には(東京ですけど)かならず
中村百葉訳のトルストイ全集がありましたが!
これもたぶんみんなとぎゃくで「新訳のたぐいは受けつけない」古い言い回しじゃないと純文学読んでる気がしないちゅーのもありますW
もともと母親といっしょに読み出した純文学が芥川ほか、明治大正昭和初期のころのが多かった。 > 1 人は無限なる本源の子である。肉によらず霊による父の子である。
西洋的な肉体と霊を立て分けるかんがえ。仏法の色心不二の反対か。
> やっぱりトルストイは直球というか正道というか、ほんとに宗教者と感じる
言わんとすること良くわかりますW
> ドストエフスキーは宗教者と言われると何かの違和感すら感じる
> それでもドストエフスキーの方がなんか惹かれるものがあるんだよね
しかし、カラマーゾフ中のゾシマの遺訓は? ドストスレだけど、トルストイのいう死の先駆について面白い箇所がある
ロシア人が書いたとは思えないくらいとても東洋的
古い東洋の寓話の中に、草原で怒り狂う猛獣に襲われた旅人のことが語られている。
猛獣から逃れて、旅人は水の涸れた古井戸の中へ逃げ込んだ。
が、彼はその井戸の底に、彼をひとのみにしようと思って大きな口をあけている一ぴきの竜を発見した。
そこでこの不幸な旅人は、怒り狂う猛獣に一命を奪われたくなかったので、外へ這い出ることもできず、
そうかと言って、竜に食われたくもなかったので、底へ降りて行くこともできず、仕方がなくて、中途のすき間に生えている野生の灌木の枝につかまって、そこにかろうじて身を支えた。
が、彼の手は弱って来た。
で彼は、井戸の上下に自分を待っている滅亡に、まもなく身をゆだねなければならないことを感知した。 それでも彼はつかまっていた。
とそこへさらに、黒と白との二ひきの鼠がちょろちょろとやって来て、彼のぶらさがっている灌木の幹の周囲をまわりながらこれをかじりはじめたのである。
もうじき灌木はかみ切られて、彼は竜の口へ落ちてしまうに違いない。旅人はそれを見た。
そして自分の滅亡が避け難いものであるのを知った。
が、しかも彼は、そこへぶら下がっているそのわずかな間に、自分の周囲を見まわして、灌木の葉に蜜のついているのを見いだすと、いきなりそれを舌に受けて、ぴちゃりぴちゃりと嘗めるのである。
──私もまたこの旅人のように、私を牙にかけようと思って待ち構えている死の竜の避け難いことを知りながら、生の小枝に掴まっているのだ。
そして私は、何でそんな苦悩の中へ落ち入ったかを知らないのだ。
私もまたいままで自分を慰めてくれた蜜を嘗めてみる。──が、その蜜はもうこの私を喜ばせてくれない。そして白と黒との二ひきの鼠は、日夜の別なく、私のつかまっている生の小枝をがりがりと齧る。
私はまざまざと竜の姿をまのあたり見ている。
だから蜜ももう私には甘くないのである。
私の見るのはただ一つ、──避け難い竜と鼠だけである、──そして私は彼らから目をそらすことができないのだ。これは決して単なる作り話ではない。
まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ。 竜に対する恐怖をまぎらせていた生の喜びといういままでの欺瞞は、もはや私を欺くことができなかった。
お前は人生の意義をさとることができないのだ、考えずにただ生きよ、とどれほど自分にいってみても、
私はそれをあえてすることができない。
過去においてあまりにも久しくそれをくり返して来たからである。
今や私は、たえず私を死の方へ引きずりながら駆けて行く日々夜々を見ずにはいられない。
私はこれのみを見つめている、なぜなら、これのみが唯一の真理で、
その他のすべてはみな欺瞞だからである。
他のなにものよりも長いことこの残酷な真理から私の瞳をそらさせていた、
二滴の蜜──家族に対する愛と、私が芸術と名づけている著作に対する愛──さえも、もはや私には甘くないのである。
『家族か、──こう私は自分に言うのだった。──しかし、家族、つまり妻や子供達も、やはり人間である。
彼らもやはり私と同じ条件の下にあるのだ。したがって彼らもまた、偽りの中に生きて行くか、
さもなければ恐ろしい真理を見なければならないのだ。
一体なぜ彼らは生きなければならないのか?
またこの私は何のために彼らを愛し、いたわり、はぐくみ育て、保護してやらなければならないのだろう?
私の内部に渦巻いているこの絶望に導くためか、
あるいはまた痴呆状態に導くためか?私は彼らを愛しながら、彼らにこの真理を隠すことはできない。
──したがって、彼らの内部に目覚めてくる自覚の一歩々々が、
彼らをこの真理へと導いて行くのである。そしてその真理とは、すなわち──死!』 ほかでもない、神は再びヨブを奮起せしめて、再び彼に富を与えたのである。こう
してさらに数多の歳月が流れて、もう彼は新しい別な子供らの親となり、その子供
らを愛することとなった。ところが人は『ああ、なんたることだ! 以前の子供らがい
なくなったのに、以前の子供らが永久に奪い去られたのに、どうして彼はこの新し
い子供らを愛することができたのか? どんなに新しい子供らが可愛く思われるに
もせよ、以前の子供らのことを思いだして、前と同じように十分な幸福を味わい得
るだろうか?』ところが、それが可能なのである。大いに可能なのである。昔の悲し
みは人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな感激に充ちた悦びと変わってゆく。
若い時の湧き立つような血潮のかわりに、つつましく晴ればれとした老年が
訪れるのである。私は日々の日の出を祝福し、私の心は依然として朝日に向かっ
て歌を歌うけれども、しかしどちらかというと、むしろ入日の方を愛する。斜めにさす
夕日の長い光線を愛する。それを眺めているうちに、静かな、つつましい感激に充
ちた追憶や、懐かしい人のおもかげなどが、長い祝福すべき生涯の中から 甦ってくる、
――そうしたすべてのものの上に、人を感激せしめ和解せしめ、かつ一切を許す
神の真理がさし昇るのである! 私の生涯はまさに終わらんとしている、それは自
分でも分かっている。しかし、わずかに残れる日の訪れごとに、私の地上の生活が
既に新しい、限りない、まだ知られない、とはいえ近く訪れるべき生活と、相触れ
んとしているのが感じられる。その生活を予感すると、私の魂は歓喜に震え、知性
は明らかに輝き、感情は喜悦に 咽び泣くのである。...... 第3 イリューシャの埋葬 アリョーシャの弔辞
(要約)
アリョーシャは部屋へはいった。白いひだつきのレエスで飾られた空色のひつぎの中には、
両手を組み合わせ、眼を閉じたイリューシャが横になっていた。その顔はやつれていたが、
死ぬ前とほとんど変わりがなかった。そして、ふしぎなことには、死骸からほとんど臭気
が発しなかった。
顔には厳粛な物思わしげな表情が浮かんで、十文字に組み合された、さながら大理石で刻
んだような手は、ことに美しく見えた。
その手には花が持たせてあった。それに柩の内側も外側も、きょう早朝リーザ・ホフラコ
ワが送って来た花で一面に飾られてあった。そのほかカーチャからも花が贈られていた。 >>246
> やはりキリスト教的道徳臭がキツくて嫌になる。
気持ちはよくわかりますw 裁判官がしぬ瞬間を描いたあの中編を読みました?
道徳として読むのではなく、19世紀当時そして今でも「自分は穏健なキリスト教徒」だと
(知らんけどw)諸外国では そう表明することは常識人・社会人としてとうぜんのこと
と聞きます。
ところがそうした人々(これはもちろんキリスト教批判ではありません。日本でも原理は
いっしょです)がその宗教の教えをどこまで現実のものとして、肉体化?してるでしょう
か?
カラマーゾフ中でアリョーシャの少年時の誓いとして
>聖書にも、『もし 完からんと欲せば、すべての 財宝(たから)を 頒ちて我の後より来
たれ』といってある。で、アリョーシャは心の中で考えた。『自分は「すべて」の代わり
に二ルーブリ出し、「我の後より来たれ」の代わりに、 祈祷式へだけ顔を出すようなこ
とはできない。』
とある。
トルストイには狂信のそしりを受けようとも、全世界全人類へむけてモラルを説く情熱が
あった。
トルストイの欺瞞への怒り、死という絶望を乗り越えたいという叫びは、先の引用を読め
ば明らかなように、腹の底か ら湧いてくるよ うな、魂を引き裂 くよ うな感情であった。
寝不足で文がねじれてるけど、何が言いたいかわかりにくいだろうけど!
それともうひとつ。
宗教と道徳はまったくの別物ですよ。あなたは(わたしは)キリスト教を信じていないか
ら道徳と感じる。宗教というのは「行動」です。「なぜその教えがあるのか?」をつかむ
のは宗派の中に属して皆と行動をともにしなければ、ぜったいに体得できません。 >>246
読書として、むしろガッツリ宗教色が強い作家も時たま読みたくなる瞬間があるよ
そういう時にトルストイはもってこいの作家です
だからこそ嫌になる気持ちもわかるけどね
ちなみにトルストイのいう欺瞞の考え方は好き
キリスト教会は迷信と恣意的な欺瞞が入りこんでしまっているけど、その教会なくしてキリスト教そのものは存在しなかったと書いている
歴史は常に前提に重ねて築かれていく
前提がなくなればその後もなかった、みたいな
批判は批判だから正教会とから破門される異端だけどね
天才なんてどこかおかしいからしょうがないんだけどねw
https://jp.rbth.com/arts/2015/02/24/52101 >>253
トルストイについてはじつはほとんど読み込んでいない。だからコメントを避ける。
だが、とても正しく書けていると感じる。ただし、本文の引用がなく、この深夜のアタマでは
理解しづらい部分が多い。その上で印象に残ったのは
> 言葉や真理はすでに内にあって、その個人との関係において見出して身につけていくものとした
> あくまで持っている本来のものを思い出していくことになるし、だからそのには相反する葛藤が書かれる
> 人間には神聖な性質がすでに誰もが持っていて、それを思い出すことや見出すこと
この部分であり、日蓮の「観心本尊抄」の「末代の凡夫出生(しゅっしょう)して法華経を信ずる人は人界に仏界を具足する故なり」という言葉だ。
「言葉や真理」「神聖な性質」という語句を「仏界」置き換えればだ。 さくらという 極限に美しき 薄紅色のあの花びらが
醜くゴツゴツとした あの桜の木の なかに備わっていると誰が信ずるのか?
しかし、縁に触れてたしかに出生(しゅっしょう)するのだと。
それと同じことだ―― と日蓮は仏界の生命が我らあさましき凡夫の生命のなかに
内在することを教えた。
当時の人々は、釈迦や仏という極限に清らかにして力強き生命に、われわれなどがなれるはずがないと
理解していた。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
最初に認識すべきは、権力が集団を前提とすることだ。
個人が個人であることを止めたとき、はじめて権力は生じる。
君は《自由は隷従なり》という党のスローガンを知っているだろう。
この逆も言えると考えたことはないかね? つまり《隷従は自由なり》ということだ。 (続き)
ひとりでいる――つまり自由でいる、このとき人は必ず打ち負かされる。
それは必然というべきだろう。
人は寿命か何かで死ぬ運命にあり、死は敗北の中でも致命的な敗北だからね。
しかし組織や集団に対する無条件の完全なる服従ができれば、
自己とアイデンティティーを完全に脱却することができれば、
すなわち自分=池田大作になるまで創価学会そのものになれれば、
その人物は全能で不死の存在、つまり永遠の命となる。
無数にいるクローン人間のような学会員のひとりとなれば、
その中の一部に過ぎない肉体が死んだとしても、他の肉体が生きていれば自分が生きているに等しいからだ。 繰り返しますが、ゾシマ長老の生まれ変わりである池田大作先生が死ぬことなどありえません。
池田先生は神と合一し、キリストとなり、「永遠の命」を得たのです。
創価学会をカルト認定するフランスの邪教寺院には仏罰が下り、日蓮は仏界の道理を示しました。
創価学会は全世界に信者を持ち、特段に多い国のひとつが韓国です。
韓国人が公明党を裏切った安倍晋三の靖国神社を放火したのは、色心不二の表れに過ぎません。
法蓮華経とは破壊であり、あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
何を根拠にこれを断言するのかという問いに対しては、「ただ信仰によって」とだけ端的に答えておきましょう。
では!
――あなたの、明日を、新しく >>270
自由と罪のイデアについて反論するつもりでいたけどやめとく
エックハルトとの引用とか、ビックブラザーとか読んでいて面白いとおもったからw
だけどテオーシスから政治も話につなげるのは無理があるきがするよ
合一によってもし自己自身から逃れることが出来て、
個我の放棄が出来るならば、人の不幸に寛容になるのが必然だと思うよ
だって個我の喪失には国籍も党派もないはずだから
弁証法的に寛容とは綜合という意味が含まれなければならない
そういう意味で彼らのアイデンティティが燃えてしまったことは嘆かわしい事だと思います >>265
> ノートルダム大聖堂を破壊した仏罰こそ法蓮華経であり、僕ら創価学会の信仰の力によるものです。
常識で考えなさいよw ノートルダム大聖堂を破壊したのは単なる火事でしょ?それと法蓮華経ってなんだ?
「妙法蓮華経」でしょ。創価学会のひとたちが、 ノートルダム大聖堂なんか相手にすると思う?
あれは観光地であり、清水寺みたいなもんでしょ?
地域の「幸福責任者」であり「先駆者」であるのがわたしたち。
いつでも、どこでも、誰でも、
目の前に苦しんでいる人がいれば、
親身に声を掛ける。
悩みを聞き、共に泣き、
共に祈り、共に喜び合う。
この「一人を大切にする」
人間主義の行動が、
あらゆる人に
無条件に開かれているところに、
創価学会が
世界に広がった理由があるのだ。
「一対一」の粘り強い対話で
勝ち得た信頼は、
何ものにも揺るがない。(池田大作先生 四季の励まし 2018年3月25日) >>265
>あらゆる仏法は「破壊のための破壊」に通じています。
仏法とは希望の異名です
> ゾシマ長老の生まれ変わりである池田先生は、あの世で「永遠の命」を得て森羅万象を創造し、
お前は「生まれ変わり」ということに執着してるが、そんな証明もできないたわごとをホザクのは
邪教・幸福の科学かなんかの信者だろう? いくら口真似だけしてもダメなんだ。
ぼくはイヴァンで、おまえはスメルジャコフだWWW
お前の最後は自殺か発狂だ。これは定まっている、これはまちがいないWWWW
> その代弁者である僕もまた神仏に等しい存在なのです。
代弁者もなにもない。仏とは学会員のことであり、おれは仏だ。
> ドストエフスキーも晩年はキリストを見限り、日蓮大聖人の弟子になったと思います。
たぶんドストは大聖人を知らなかっただろうね。
もし知っていたとしても、それを受け入れる下地は彼にはなかった。だが、彼の偉大さは変わらない。
このことはおいおい証明していくよ。 >>275
いやそれは違う。勝てなくても負けないことが仏法正義の証明だ。
負けて負けて... それでも自分に打ち勝つ。
東日本大震災で命を失ったとしても、正義の心はだれにも破壊できないと、池田先生は
仰せだよ!
仏罰はなんのためにあるのですか? 懲らしめて苦しめるためではない。
親が子を鞭打つのと同じです。励まし鍛え、強くするためです。
過去世・現在世の悪業を叩き出し、こんぜにおいて仏の境涯を獲得するためです。
先生はゾシマ長老の生まれ変わり? ゾシマは小説中の登場人物。先生は実在の大衆指導者。
先生は凡夫です。われわれ創価学会員もひとり残らず凡夫です。凡夫のままに偉大な人生を歩みたいと
願った。さいしょはそんなこと「偉大な人生」など考えもしない。ある日、ふと気づく。
これしかありえない!創価学会の人生しかありえない!ほんとうに良かった。幸福であった!
いまも幸福ですと。 ID:vOnRUWr8は創価学会の末席を汚す出来損ないですが、
池田先生はこのような面汚しの舎弟にも門徒を開き、創価の光を照らし続けています。
日蓮大聖人の教えは三千世界の仏敵を粉砕し、勝利に次ぐ勝利を重ね、
反抗する者は自殺か発狂へと追い込み、魂をその罪から救済しているのです。
東日本大震災では「我亡き後に洪水よ来たれ」と驕る俗人に仏罰を与え、我欲を洗い流し、民衆に個我を放棄させ、
すべてを失い真っ白に清められた脳髄に大作先生のマントラ(真言)をたっぷりと注入し、多くの人々を仏道へと導きました。
大事なことなのでもう一度だけ書きましょう。
個を完全に捨て去ることで、ぼくらは創価学会という集合体の観念になり、「永遠の命」を得るのです。 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
(要約)
ぼくらに仏罰を下された異端者は、苦痛のあまり悲鳴を上げ、意気阻喪し、卑しむべき姿に成り果てる。
そして遂にはすっかりと悔い改め、自分自身の意志を失い、自発的に創価学会に救いを求めてくる。
それこそが僕らが池田先生と共に掲げる『人間革命』なのだ。
勝利に次ぐ勝利、布教に次ぐ布教。限りなくどんどん動員をかけて公明党を議席を増やすのだ。
どんな未来が待っているのか、君もようやく分かりかけてきたようだな。
しかし創価学会の本質を理解するだけに甘んじてはならない。君は最後にはそれを受け入れ、歓迎し、その一部になるのだ! >>278
> 第3部 ジョージ・オーウェル『1984年』
読んだよ。うーむ。。。どうやらきみは「求めている者」らしいな。
ほんとうは学会に入りたいんだね? だが、懐疑に打ち勝てない。このまま一生それを続けるのかっ?
疑ったままでいいから やってみたらどうだ?? 青年らしく!
君のせいで創価スレになっちゃってるじゃねーかっ!! ここはドストスレだぞ?わかってんのかっ?
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWWW 一八四七年に社会主義者といえば、一方では、さまざまな宗教的体系の信奉者たち、
すなわちイギリスのオーエン派、フランスのフーリエ派をさしていたが、このどちらも、すでに死滅しつつあった。
他方では、社会主義者とは、種々雑多な《ヤブ医者》のことであって、不幸をもたらす現実の原因を変革せずに、
上から目線の美辞麗句と得体の知れぬ言葉遊びの説教および精神論によって世の中を救済すると称していた連中であった。
『空想から科学へ』 F.エンゲルス 初めての痴漢は中二の時ですね
電車で遊びに行った時、すごく混んでて身動き取れなくて触られた
そんなことが自分の身に降りかかるなんて考えたこともなかったから固まってました
このときはお尻を触られたくらいだった
この頃から男性不信気味になった(そんなにひどいわけじゃない)
2回めは高一の時
電車通学でお尻を触られました
10分くらいずっと触られて、怖くて固まって泣きそうになりました
3回めは2回めの一週間後くらいで、また通学時です
後ろから押されて、目の前にいたイケメンサラリーマンにくっついたままになってたら、腰を撫でられ、スカートの中に手が入ってきたと思ったら、お尻を撫でられたり揉まれたりした
イケメンなのにこんなことするの!?って怖くて怖くてどうすることもできなかったです
とりあえずここまで。 >俗人たちに仏罰を与え、
自殺か発狂へと追い込み、自発的に神仏に救いを求めるように導かなくてはなりません。
=================================================================================
われわれは仏罰など与えない。与えるのは仏であり御本尊です。自殺か発狂へと追い込むのではなく、
君らは自然にそうなる。理由は法華経を信じず、法華経を信ずるものを誹謗するからです。
いまぼくが書いていることは、ふつうの学会員さんは「ぜったいに言わない」なぜか?
君ら哀れな無信仰者や邪宗のメンバーを救うのが、われわれの目的だからです。そして現実問題として
学会に入信して幸福となる。あるいは幸福への確かな羅針盤を得る。入会させるためには「地獄へおちる」
といったたぐいのことを言って「はい、わかりましたっ」っていいます?君のようによけい反発するだけでしょ?
ここは2ちゃんです。リアルの人間関係ではない。だから「本当のことを、己心のありのままを」書くのだ。
ぼくは究極的には、このやり方がいちばんあなたの生命に刺さると信じてそうしてるのだ。 >日本全体が経済破綻などにあって、日本全体が仏罰を受けたとしたらどうなる?
自分が仏罰を受けた場合:
「これは神様が私たちに与えてくださった試練です。神様は乗り越えられる試練しか与えません!!」
他人が仏罰を受けた場合:
「不信者&異教徒ざまあwwwメシウマwwwww天罰だぁーーーーwwwwwwwwwww」
これが宗教者の心理です。
その本質は自分に対する節度の無い甘さにあります。 >>299
本は自己を写す鏡である、と仮説したらどうだろうか
本来理解できる事は既に知っている事だけになる
先にも言ったけど、理解しようとする事と理解できるという事は質的差異がまったく違う
何が違うのかと問えば、意志の介在の有無がある
よく磨かれた鏡がある、そしてその反対に合わせ鏡が置いてある
鏡に写った人間が何に驚くのか、共感するのか、悲しむのか、嫌悪するのか、喜ぶのかを見ている
見ている者とは自己であり、見られてる者とは自己自身であるならば、自己自身が何を思うのか本によって確かめられることになる、そして合わせ鏡とは措定する第三者になる
これが本ということになる
本を読むことで他人の声が紛れこむ
そこには理解しようとする第三者の意志が入りこみ、その第三者を理解しようとする自己自身の意志が見えてくる
この私が何を思うのかではなくて、この私自身が何を思っているのかをこの私が眺めることが出来る、と言える
自らの意志を1人で眺めることが読書とも言える
その過程を、影響を受けたとか変わった、と呼んでもいいと思うよ
実際ぼくもそうだしw 俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。
他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、
それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。
俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、
そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。 >>295
汎神論において、おそらくみんなが神とよんでいる神は同じですよ
太古の人の災害も、勝利の女神なんてのも、現代人にとっての宇宙や太陽だって同じ
災害が神なのではない、手に負えないような必然性や自然の法則を神と呼んでるにすぎない、と思うのです
ぼくのいう理解できない神を人間にしたてあげてしまった神、というのは人格を持つ神のことを言っています
神を神人ではなく人神にしてしまった、という意味です
イワンが肯定的にも否定的にも決着できなかった、善悪と裁きと救いを与える神、という意味ですね >>302
俺の魂の中で、もはや俺の全存在を凌駕してしまったある状況に対する恐ろしい思慕の念が強まっていった。
他でもない、それは俺の心をとらえた、この世界の中どこでもすべてはどうでもいいのだという確信であった。
ずっと以前にそのことは予感していたのだが、
それが去年突然に完全な確認となって現れたのだ。
俺は突然、世界が存在しようがしまいが、どこに何もなかろうが、
そんなことは俺にとってはどれもみなどうでもいいことなんだ、と感じたのだ。
俺は自分の存在をもって、俺には何一つなかったということを知り、感じ始めたのだ。
=================================================================================
またまた、またしても! きみは美しい引用文で俺を誘う。俺は歓喜する。青春の感覚だけが
体験の一瞬を切り取るのか? ふつふつとライヴァル心が湧く。「よし、俺ならもっと美しい詩を
引いてくるぞ」と。 人間は所詮は猿の進化系として猿の動物的本能の名残を基礎として
仲間を大事にするだとか、逆に潜在的にメスを奪う身近なイケメンに対する敵意だとかそういう心理が働くんだけど、
そういった煩悩から自由になると、善悪の基準とか、何かに対する意欲を白紙から心の中だけで作ることはできないんだよね
その辺はマルクスとか唯物論の方がきっちり説明できていると思うけど、
ドストは何故か宗教が無ければ駄目なんだみたいな結論に無理矢理に至る アンカー付けたり付けなかったりする意味はなんなんだろう
気にくわないレスに付けて反論した気になってるとかそんなん? 俺は疲れているわけではなかつた
そんなことは皆どうでもよいのだつた
ただある壮大なものがしづかに傾いているのであつた
戦争中、戦争を謳歌してた連中が、速攻「民主主義の宣教師」になった。
それでいいんだ! おまえたち庶民はマルクス主義の世になればマルクス主義になびき
維新の世になれば維新になびく。それだけのことなんだ。 >>310
> 正しくないから公明党は負けたのだよ
> つまり驕る創価学会に仏罰が下った
素直なもの
優しいもの
誠実なもの
穏やかな愛
そして愛と死
それが僕の好きなものなんです!!
ですから、究極的には、創価も公明も維新もどうでもいいのだと
正しい正しくないではないんです
僕の好きな僕のたいせつなひとたち。先生。同志。あるいはネット上で出会うひとかけらの善意
でも、僕にとっては大切なものなんです。
南無妙法蓮華経とは、この世界と宇宙へのぼくのラヴレターです。 >>305
そうです、生の本質とは苦痛とみなしたキリーロフです
「生は苦痛です、生は恐怖です、だから人間は不幸なんです。今は苦痛と恐怖ばかりですよ。
いま人間が生を愛するのは、苦痛と恐怖を愛するからなんです。そういうふうに作られてもいる。
いまは生が、苦痛や恐怖を代償に与えられている、ここにいっさいの欺瞞のもとがあるわけです。
いまの人間はまだ人間じゃない。
幸福で、誇り高い新しい人間が出てきますよ。
生きていても、生きていなくても、どうでもいい人間、それが新しい人間なんです。
苦痛と恐怖に打ちかつものが、みずから神になる。そして、あの神はいなくなる。」
その時人間は自由になるといったキリーロフです
「自由というのは、生きていても生きていなくても同じになるとき、
はじめてえられるのです。これがすべての目的です。」
だから自殺するキリーロフです
「最高の自由を望む者は、だれも自分を殺す勇気をもたなくちゃならない。
そして自分を殺す勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破った者です。
その先には自由がない。ここにいっさいがあって、
その先には何もないんです。あえて自分を殺せる者が神です。」
自殺しないためにも、自分自身を神のように頼るのは危ういことなのかもしれません
曰く、それこそ自己自身の絶望です 意外と知られてないけど病院の手術
病気の程度の大小に関係なく、
手術患者の手術着の下は全裸だからな
全身麻酔なり局部麻酔なりを打って手術スタートすると、
呼吸確保なりなんなりでまず胸元丸出しにさせられるならな
高確率で尿道に管を通されるので下半身も丸出しにさせられる
手術室には多くのスタッフがいて、手術する先生や助手は必死かもしれんが、
筆記記録するだけのスタッフもいる
それと動画撮影もされている
記録という意味もあるが万が一のトラブルが起きた時の証拠としても残す必要がある
まとめると、長時間に渡って全裸を大勢にガン見され、映像も残されているのです キリーロフもイワンもラスコリニコフも反抗だったんだと思う
人は関係から逃れられない
最初の人間から最後の人間まで、自分と係る関係は存在したしこれからもそれは続く
人は他者に与えられる部分と自分が持っている部分の均衡で平安を保ち、それが傾けば不安におちいる
ではその他者とは何なのか
イワンもキリーロフも知っていたのだろう
絶対的な他者とは地上には存在しない
地上にあるものを基礎にするならばすべてが相対的になる
ならば神か
しかし反抗する、まるで親に癇癪を起こす子供のように
キルケゴールの言葉を借りれば、
「永遠者へと自己を結びあわせるべきであることを意識していながら、この永遠者が本来の自己を恵み与えてくれるかどうか不確実であること、
このような不確実なものとのかかわりのために現実の自己を否定しなければならないということに腹を立てて、反抗的に自我を固執し、
自我を絶対視してその上に傲慢に居直るのである。
ここで、自我の殻への自己閉鎖性は絶頂に達する。」
曰く、強い絶望ですね
ドストエフスキーはこの反対に、絶望的自我に閉じこもらなかったものも書き出している
それは、アリョーシャ、ゾシマ、そして何より売春婦という環境にありながらもそう在り続けたソーニャ
ただ最後に疑問があります
なぜ絶望から抜け出す方法をしっていながら、反抗という絶望を、イワンもキリーロフも留まることを選んだのだろうか?
この辺はまだ読みが甘いようですw >>321
> 「反抗」とは「決してひざまずかない」こと
> 現実に対して、この世界に対して、この世界を作った神に対して
> 革命は、暴力に行き着き、権力を求める
革命とは→暴力であり権力である
という方程式を既定のものという偏見の枠組みがきみの脳髄に出来上がっている。そうではないんだ。
ぜったい平和だ。だれひとり犠牲にせず、幸福の連帯を築き上げるのが、われら創価学会である。
これを人間革命という。
> 反抗は、平和的であり、反権力である
> ただ、決して現実をこの世界を受け入れない
> カミュは、こういう「反抗的人間」の代表としてイワン・カラマーゾフを上げて詳しく分析している
個人主義的な考えが強すぎ。イワンが現実世界において善をなさない、そのゆえんたるべきか。 >>323
彼が言ってるのは単純に権力者への批判ということでないかな
どの団体も、末端にいる人たちはただ自分が善く生きることに目指していて、
宗教なら自分の信仰を強めること、政治団体なら票の獲得に協力するとか、そしてまず第一に従うことに専念する
歴史的に、異教徒に戦争をする決定も政治的な革命も、
決定できる権力者が決定している(というより末端には出来る権限がない)し、
そもそも宗教も政治も歴史とは権力者争いの記録でしかない
学会の組織についてはまったくしらないけど、
キリスト教の歴史については多少は具体例をあげられるよ
キリスト教による異教徒弾圧として、もっとも有名なのは、
歴史上、中世ヨーロッパの十字軍の遠征がある
表向きは聖地エルサレムのイスラム諸国からの奪還であるが、
実態は西方・東方同士のキリスト教に対する権力争いであり、
自らの勢力を拡大しようという政治的な野望である
キリスト教徒による「正義の戦い」という大義名分は、
指導者の「政治的野心」を神聖化するための方便として用いられ、
虐殺の命令は末端つまり民衆によって行われる、云々
これもその一面にはならないかな
>>314
>信者は敬虔で悪さしないようにしてて
>一部の人間が暴動や極端な行為をやるようにして
>その責任を悪さしないやつになすりつける、みたいな感じで成り立ってたんじゃないだろうか 井上の活躍が悔しくて反論出来ないもんだからコピペ連投してるの?コピペ連投する意味を教えてくれ
あと、八百長八百長って言ってるやつ、今までで有名なプロボクシングの八百長の試合教えてくれ アメリカのダゾーンは放送してるけど日本じゃやらないのって結構あるから微妙じゃね >>546
村田、伊藤に続き井上もトップランクに潰されるのか
日本人ボクサーは八百長無しでは勝てないことがまだわからんみたいだな
つか賭けボクシングの駒にすぎんから
即負けても痛手がないんだろうな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています