(自転車の起源)インドネシア火山大噴火(1815年)
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>1815年 インドネシアタンボラ火山大噴火
>1816年 火山灰により地球規模の寒冷化
>欧米で年平均気温が3度低下「夏の無かった年」
>作物に壊滅的な打撃、家畜の飼料が欠乏
>馬が大量に餓死し、移動手段が壊滅
>ドイツの発明家ドライス男爵が馬に代わる乗物として考案 >ドライス男爵は1817年に特許を取り、2輪ベロシペードを売り始めた。
>「ドライジーネ」「ダンディホース」と呼ばれる >もちろん「火山の年」の効果は弱まっていった。
>大打撃を受けた馬は再び数を増やした。
>しかし1871年に、自転車と競走馬の競争が行われ、自転車はとても信頼性が高く、
>優れた乗物であるということが、広く一般に認知されるようになった。 >1891年、フランスのシャルル・テロンが1200km以上の距離を誇るパリ・ブレスト・パリで勝利した
>テロンはたった71時間で走破し、観客は驚いた。
>
>テロンはナポレオンをもじって、「ナポテロン」と呼ばれ、国民的英雄となった。 >自転車の人気が高まるにつれ、自転車製造も活発になっていった。
>瞬く間にヨーロッパ中に伝搬し、自転車や、その部品を製造する技術も
>一気に花開いて行った。 >当時、有名だった芸術家や作家の多くが自転車に惚れ込んだ。
>アレクサンドルデュマ、ジュールベルヌ、クロードドビュッシー、
>モーリスルブラン、ビクトルユーゴ、トゥールーズロートレック >1899年にル・ヴェロのピエール・ジファールが
>あらゆる点で自転車が馬にとって代わって来ている
>と主張したエッセイ「馬の終わり」を発表した。 >1860 自転車にライトが導入
>1865 中空金属パイプのフレーム
>1868 時計技師ギルメがチェーン駆動のベロシペード
>1869 スポークつきホイール
>同年 ジュールサルレイがハブにボールベアリングを使用 >1874 ジョンケンプスターリーがタンジェント組みスポークホイールを開発
>1878 ルーソーが後輪がチェーンで駆動する自転車を発表
>1888 ダンロップが空気入りタイヤを発明
>1890 スプロケットギアが導入される
>1891 ミシュラン兄弟が取換え可能なタイヤを発明。 >1895 ジョンルーベイルが世界初の変速器"ポリセレール"を発表
>1897 フリーホイールが紹介される
>1901 トゥーリョカンパニョーロ誕生
>1903 ツールドフランス開催 モーリス・ガランが優勝する
>1909 ジロデイタリア開催 >1905 作家のポールドヴィヴィがダブルコグを考案
>1924 アルベールレイモンがレイモン シクロ(CYCLO)を開発 ランドナーの祖となる
>1927 クリップペダルが考案
>1930 トゥーリオカンパニョーロがクイックリリースハブを開発
>1933 カンパニョーロ社が設立
>1935 ニーデュ兄弟がビットリア マルゲリータ変速機を開発し、レースで使用する。
>1939 ルネ・ヴィエットが水筒をフレームに装着し、革靴に穴を空け通気性を確保した。 >1937 オスジェア社のスーパーチャンピオンの変速器でツールで総合優勝
>1947 アルフィオフェラーリが サンタマリア兄弟のセルビーノ変速器で優勝する。
>1949 ジーノバルタリがサンタマリア兄弟のセルビーノ変速器で優勝する。 >1896 トゥールーズロートレックが英国シンプソンチェーンの広告を
>「ベーカー」「ルグランコンスタン」の愛称で知られた名選手
>「コンスタンユーレ―」をモデルに描いた。
>引退後ユーレ―は変速器とスプロケットのメーカーを誕生させる 1946 カンパニョーロ 2本ロッドのカンビオコルサ誕生
1948 フェルモカメッリーニが「ユーレ―クリテリウム」を使いベルギーのフレッシュワロンヌで優勝
1950 カンパニョーロ1本ロッドのカンビオコルサ パリルーベを開発
1951 カンパニョーロ パラレログラム式 グランスポール誕生
1953 ルイゾンボベが「ユーレ―」(後にユーレ―ルイゾンボベとなる)でツール総合優勝
1954 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝
1955 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝 1949 ファウストコッピがサンプレクスのリュシアンジュイと使用契約を交わす >>1 歴史的な事実を思いださせてくれて、大変感謝する。
ここ20年間の先進国を中心としたスポーツ自転車ブーム
も「この天変地異の時代に備えて」人類の必然の流れだったと思えてならない。 大昔から雑誌や博物館の説明などに記載があったが、
眼中に無かった方が大半だろう。史実に驚いたちゃんねらーも居ただろう。 1700年代のフランスのシブラックの
(サイクルメイト ヨシダのシブラック店の由来)
セレリフェール説については、学術研究により、
後世の作り話として落ち着いたそうですね。 ユーレが初期のカンパ グランスポールに圧勝したことは分かった。
当時のユーレ―社のルイゾンボベRDがシングルケーブルになって
ユーレ ツールドフランスRDになったのかな? サンプレのツールドフランスと相違点は何だ?
>1953 ルイゾンボベが「ユーレ―」(後にユーレ―ルイゾンボベとなる)でツール総合優勝
>1954 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝
>1955 ルイゾンボベが「ユーレ―」でツール総合優勝 >>1 明治時代、大正時代、昭和初期の主な交通手段って、
「馬車」と「自転車」ですからね。あとは「徒歩」と「蒸気機関車」くらい。 明治時代の自転車は現在の高級自動車くらいの超高級品であり、
お金持ちや、商売人の商用車としてしか持っていませんでしたからね。
当時の市街地の白黒写真も、「自転車」と「歩行者」しか映っていないのは
そういう理屈です。車なんか無いから。 >>19 >>14をより深く理解する為に、別のアプローチをしましょう。 アレックスサンジェの歴史
アレックスサンジェ:
我が国、日本では画家、書道家、グラフィックデザイナーなど
芸術家の愛好家が多く愛された自転車として知られる。
(収集家の集まりとしては通称 サンジェ会や旧 筍クラブが知られる) 1905年 アレックスサンジェ(ハンガリー人)がハンガリーブダペストで誕生
1923年 アレックスサンジェが父親とフランスへ移民
フランスで自転車競技を始め、ペリシェ兄弟と走る。 1930年 妻マリアと結婚
1938年 アレックスサンジェとして伝説の地※で自転車製作を開始
※あの有名なパリ ルバロワペレのビクトルユーゴ―通り
当時の記録映画などにも、登場します。 1939年 グランプリ(コンクール)デュラルマンに参加
この時からの競争相手が、ルネ・エルスと※ジョー・ルートンの両者で
ある。ジョー・ルートンはサンジェで走っていたライダーであった。
※ジョー・ルートンはフランスの名車 この頃ACBO(アミカルシクリストデュラバンリューウエストクラブ)誕生 1944年 ローランとエルネストシューカ※を見習いとして雇う
ローランシューカはトーチの専門家となり
エルネストシューカは組み付けの専門となった
※アレックスサンジェの友人の息子でハンガリー人 1946年 アルザス地方コルマールのグランプリデュラルマンに参加
シクロキャンピング部門で1位
タンデム部門で1位・・・パイロットをエルネストシューカが務めた。
プロトタイプ(軽量車)部門で1位( 6.875kgで優勝 ) 1940年代後半から、変速器は主に、フランス製のニベックスか、
後にツールで総合優勝したユーレ/サンプレ ツールドフランスや
ルイゾンボベが使われるようになった。 一方、マリアの愛車が誕生する
バルタリ型のハンドルが装着され、リムは特注品
ハブはサンジェ製の特大ラージハブ※ 前輪 24H 後輪28H
現在の完組もびっくりの超軽量な車輪である。
※京都のアイズさんで12万円もするラージハブはこれへのオマージュであろう。 1947年 ベルギー ブリュッセルのミニヨン家がサンジェの代理店になる。
1948年 ベルギー ベールセルのコンクールテクニークに参加
ミニヨンサンジェが上位を独占する。 当時、6段変速を登場させ、18段変速とした。
タンデムには、チェーンホイールを5枚装着し、
5×6段=30段変速となった!!! この頃にエルネストの妻のレオンヌの弟、ベルナールレイモンの
サンジェスポルティーフが誕生したのでは無いか?
鋼線だけで構成された驚くべき超軽量なFDが、誕生している。
(板が無い!)
このFDは重量が35gしか無く、現在でも世界最軽量クラスである。 (重要)1948年 パリサロンにてアレックスサンジェは
「パラレログラム式」の「ニベックス」のディレイラーを
トゥーリオカンパニョーロに2個販売する!!! ここで一端、変速器の歴史へ跳びます!
○カンパの縦型変速器の始まり
1949年末 カンパニョーロ社はニベックス社のパラレログラム機構を
を模倣した、グランスポールを発表する(未発売)
1950年にダブルワイヤーからシングルワイヤーへ改良し、1951年に正式にリリースした。
と言う流れが>>14へ繋がります! 1949年 アレックスサンジェがパリブレストパリ1200kmオダックスへ参加
1949年 ジュルネヴェロシオのグランボア峠の有名な写真撮影
(京都のアイズさんのブランド名、グランボアの由来はこの峠と思われる) 1950年 エルネストシューカがシクロツーリスト版のツールドフランスで優勝する
この頃から、アレックスサンジェに任されるようになる
1951年 エルネストの妻のレオンヌシューカ
が夫妻で乗り、ポリーデュシャントルーで優勝する 1954年 ベルギーのポリーでサンジェの自転車が優勝する
(ライダーはシューカ夫妻) 1964年 ローランとエルネストとレオンヌが
アレックスサンジェを引き継ぐ
同年 エルネストの息子さんのオリビエシューカ氏(現オーナー)が誕生 1971年,1973年,1975年, ポルトドベルサイユのサロン展示会が開催され、出典する
この間に人気絶頂期のエディメルクスがサンジェのブースに立ち寄る
(エディメルクス氏も当時サンジェに憧れていたとの由) 1982年 ニューサイクリング誌の故今井編集長が
オーダーしたサンジェが日本に紹介され、賞賛される。 1985年 新田氏がオーダーした「ライトブルー」のサンジェが
日本に紹介され、以降、新田さんのブルーと呼ばれる。 1986年 エルネストの妻レオンヌシューカが他界し
アレックスの妻マリアサンジェはコートダジュールに隠居した 1987年 自転車文化センターがサンジェのタンデムを日本に輸入する
(ニューサイクリング誌の今井ちづか氏が尽力) 1993年 50年間サンジェを製作したローランが他界
ローランの調子が悪くなってくると、オリビエが
ヤスリ掛けを行うようになっていた。 1997年 オリビエ氏が一人で友人の為に自転車を製作する
2001年 パリサロンへ復帰
2003年 パリサロンへ出展
2005年 パリサロンへ出展
2007年 パリサロンへ60年出展した栄誉でエルネストが表彰される 2009年 パリサロンへ出展
同年 アイズの土屋郁夫氏からのオーダーにて1946年の
グランプリ(コンクール)デュラルマンへ出場したモデルをレストア。
(エルネストシューカ氏最後の仕事と言われる) 同年 エルネストシューカが他界し、息子のオリビエシューカがサンジェを引き継ぐ。
オリビエはフランスシクロツーリスム連盟に所属するサイクリストかつ
自転車競技の戦歴も誇る経歴の持ち主。
ビクトールという社員と共に今後が楽しみとの由 本スレには、2人のエルネストという偉人が登場することになります。
アレックスサンジェのエルネスト・シューカ(恐らくフランス国籍のハンガリー人)
チクリ コルナゴのエルネスト・コルナゴ(イタリア人) ここで再び、>>36と>>14の変速器の歴史へ戻ります。 バーエンドコントローラーの歴史・・・始まり
実はバーコン元年=Wレバー元年という事実。 2019年現在、最新型カンパスーパーレコード12速と
デュラエース11速でバーエンドコントローラーが使われています。 バーエンドコントローラーはどうだったのか?
その歴史を紐解いてみましょう。 (ペダルを逆回転させた時代)
1950年のパリルーべ コッピはRDに2本ロッドのカンビオ・コルサを使い優勝。
(パリ・ルーベの名称の由来となった)レースではアタックを繰り返し、
ラスト45kmを独走して優勝した。 既に現在のロードレースと全く同レベルのデッドヒートが繰り広げられている。 1950年 RDにパラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール"が誕生した。
まだプロトタイプで発売されておらず、2本ケーブル。 1951年のジロ コッピはRDに新型1本ロッドのカンビオ・コルサを使用。 ちなみに、この新型1本ロッドのカンビオ・コルサは、
大昔のニューサイクリング誌で故 今井編集長が入手し、
。大阪のサイクルショー用として長沢義明氏製作のフレームをベースに
クラシックイタリアンロードとして、蘇らせた特集があったようです >1950年 RDにパラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール"が誕生した。
> まだプロトタイプで発売されておらず、2本ケーブル。
1951年 グラン・スポールにリターンスプリングが内臓され、1本ケーブルでリリース。 (バーエンドコントローラー元年=パラレログラム式元年)
1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場させた! >1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場させた!
エース格のコッピは(左右Wレバー)を登場させた!
(片側2本レバーはその前からあった) このとき、バーコンとWレバーに合わせたのは、前述のニベックスのパンタグラフ機構を
取り入れたRD、パラレログラム型のカンパの元祖"グラン・スポール" "グラン・スポルト”
である。(後のZEUS はクリテリウムRDなどでカンパを模倣したが、その元祖もこれ)
ロードバイクは既に現在と大差無い形状と速度を達成している。 この後、バーエンドコントローラーがブームとなる。
1953年に創業したエルネストCOLNAGOがサポートしたことで知られるイタリアの英雄
1956年のジロ フィオレンツオ・マーニ(NIVEA時代)はバーエンドコントローラーを使用。
フィオレンツオ・マーニはジロで3回総合優勝したカンピオニッシモである。
(尚マーニは90歳過ぎまでギザッロ自転車博物館の館長を務めた) この「NIVEA」チームは、日本でも知られている化粧品のニベアとのこと。
「フィオレンツオ・マーニ」の往年の写真は全てバーエンドコントローラーを
装着したドロップハンドルを握りしめているような、スタイルが多い。 1940年代のバルタリとコッピの争いが50年代半ばまで続いた後に出てきたのが、
このフィオレンツオ・マーニという英雄であり、ここからコルナゴのキャリアが開始されている。
↓
1950年代半ば以降=フィオレンツオマーニ=ジロ3回優勝=コルナゴのメカニックサポート、
そして、バーエンドコントローラーというアイコンの流れが分かったと思う。 バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・まとめ
それまでは、ロッド式や、カンビオコルサのようなレバー式であったが、
フランスニベックスのパンタグラフRD→カンパグランスポルト→リターンスプリング内臓
で、ようやく、バーエンドコントローラーが使える流れとなった。 バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・まとめ
1952年のツール Bianchiチームのカレーラ"サンドリーノ"がバーコンを登場
1956年のジロ フィオレンツオ・マーニ(NIVEA時代)はバーエンドコントローラーを使用し、
以降、ジロで3回総合優勝を成し遂げる。
2019年 12段スーパーレコード及び、9001 11段デュラエースでも使われている。
ENE シクロのバーエンド・コントローラーの今後の成長も楽しみである。 メルクスの軽量化時代と少し重いバーエンドコントローラーの関係
1972年のジロ 山岳でトップに躍り出て、マリアローザを着た
マヌエル・フエンテ(KAS)はバーエンドコントローラーを装備し、
手元変速を行っていた。
Wレバーのマイヨーアルカンシェルを着た世界最強のメルクス(モルテニ時代)と戦った。 山岳王フエンテのバーエンドコントローラーの方がWレバーより+100g重いんだけど、
山岳に強いんで、軽量で世界最強のメルクスが相手でも全く無関係。
しかもメルクスはスモールハブだが、フエンテはラージハブなので、+30gは重い。
体重的にどう考えても逆なんだけど、フエンテはラージハブを好んでいた。
>1972年のジロ 山岳でトップに躍り出て、マリアローザを着た
>マヌエル・フエンテ(KAS)はバーエンドコントローラーを装備し、
>手元変速を行っていた。
>Wレバーのマイヨーアルカンシェルを着た世界最強のメルクス(モルテニ時代)と戦った。 ここからは、「世界の英雄とラージハブの歴史」となります。 バーエンドコントローラー70年の栄光の歴史・・・世界の英雄達まとめ
○ジョバンニ・ピナレッロ(ジロで最下位のマリアネーラ)
1951年のジロでバーエンド・コントローラー愛用
昨今は、ピナレロプリンス、オペラで知られている。 ○フィオレンツオ・マーニ
バーエンド・コントローラー愛用
○マヌエル・フエンテ(スペインの山岳スペシャリスト)
1972のジロとツールでバーエンド・コントローラー愛用 ○ルイス・オカーニャ(スペインの山岳スペシャリスト)
バーエンド・コントローラー愛用 ○ルイス・オカーニャ(スペインの山岳スペシャリスト)
バーエンド・コントローラー愛用
の逸話を忘れていました。 1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
スペインはバルセロナのモンジュイック サーキット
↓
4輪と2輪のサーキットですから、当然、平地向き。 >1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
優勝 ジモンディ(メルクス最大のライバル、Bianchi)←1970年代のイタリアの英雄
2位 メールテンス(ベルギーの新人スーパースプリンター)←←後に世界チャンプ2回の超人
3位 ルイス・オカーニャ(山岳王ながらスプリント合戦に参加!)←←←←
4位 メルクス(世界のスーパースター、山岳王に抜かれた!)←← 以上から、山岳スペシャリストは世界最強のスプリンター
とサーキットのような超高速コースでも勝負できると分かりました。
バーエンドコントローラーは最高のパフォーマンスを披露すると分かりました。
但し、この時は、Wレバーとどっち使っていたか、不明。 ↓日本人だと、まさにあのレジェンドの「市川」を彷彿とさせます。
>3位 ルイス・オカーニャ(山岳王ながらスプリント合戦に参加!)←←←← >1973年のロード世界選手権(もっとも有名な一つ)
○使用パーツに注目です!
(ジモンディ)カンパスーパーレコード←
(メールテンス)島野71デュラエースクレーン←←←←←
(ルイス・オカーニャ)カンパ スーパーレコード←
(メルクス)カンパスーパーレコード←←←←← これには、30年間論争されている諸説あります。
最後は老舗マニア店で出てきた会話ですが、なんとなく最後の気がします。
(ジモンディ説)メルクスは、最後にスタミナが切れて千切れただけ。
(メールテンス説)メルクスは、勝つ気が無いことを教えてくれなかった。
(メルクス説)メールテンスの勢いが良過ぎて、出遅れ、スタミナ切れになった。
(フランス新聞説)シマノのメールテンスを勝たせない為に、メルクスがジモンディに勝ちを譲った。
(日本のベテランのファンの説)逆にシマノがデビュー戦でメダル取れるように、
メルクスがメールテンスに勝ちを譲ろうとしたが、ジモンディに差されて、2位になっただけ。 ○ファウスト・コッピとラージハブ
ビアンキで、コッピは結線スポークで組んだ
カンパラージハブLFQR 36Hで8本組みのホイールを使っている。 ○1960年代のフランス選手とラージハブとセンタープルブレーキ
フェルディナン・ブラック
ジャック・アンクティル
等々 この頃は、マイヤールやペリシェ(フランスの英雄)など
フランス製のハブが沢山あり、ラージハブの選択肢が沢山あった。 栄光のCOLNAGOとイタリアの英雄そして上級者が選ぶパーツの歴史 >栄光のCOLNAGOとイタリアの英雄そして上級者が選ぶパーツの歴史
時は1940年代〜1950年代のバルタリとコッピの争いは終わりに
近づいていた頃。変速器がグランスポルトに代わった頃。 目次
(1)(1950年代)フィオレンツオ・マーニとバーエンドコントローラー
(2)(1960年代)ジャンニ・モッタとラージハブ
(3)(1970年代)エディ・メルクスとヌーボレコードそしてスーパーレコード
(4)(1980年代)ジュゼッペ・サロンニと後期〜最終スーパーレコード、そしてC35から40へ (1)(1950年代)フィオレンツオマーニとバーエンドコントローラー
1953年カンビアーゴでCOLNAGOが創業する。
1956年 フィオレンツオマーニがバーエンドコントローラーでグランツールを戦う。 (2)(1960年代)ジャンニ・モッタとラージハブ
意外に知られて居ない、1960年代のイタリアの英雄
かつフレームブランドの創業者ジャンニ・モッタの歴史を始めます。
これは長いですよ。 1943年 ジャンニ・モッタ誕生
1957年 14才(原宿にもある)モッタ菓子店でアルバイト
片道25km!を重い実用自転車(後にロード)で通勤する。
その能力を見抜いた従兄弟から、選手を勧められる。 →まずは毎日50km程度、走り、疲れたら、
イタリア菓子でも食べるのが良い。と分かる。
毎日50kmも走ったら大半の人は疲れて、バイトにならないので、
その時点で、ロード選手の才能が無いと分かる。 アマ時代、ジャンニモッタはCOLNAGOを使っていた。、
1959年 16才でアマ自転車レースを始め6勝する。
1960年 13勝 通称ソルマーノの壁で一流プロを抜き去る
1961年 20勝
1962年 イタリア選手権で優勝
1963年 ディレッタンテで13勝、国際チームロード代表 この頃、COLNAGOをメカニックとして、モルテニチームが結成される。 COLNAGOはフレーム供給を中断し、ボッテッキアに1966年まで依頼する。
以降、モルテニ時代のジャンニ・モッタはボッテッキアに乗る。 1964年 COLNAGOの紹介でモルテニでプロデビュー。
いきなりジロで総合5位に入り、ロンバルディアで優勝
(ジロではカンパのラージハブを使って、グラベルを走り、スプリントを行った。) >1964年 ジロの結果
1位 アンクティル(フランスの英雄、アワーレコード)
2位 イタロ・ジリオーリ 当時の名選手('64'65とジロで連続2位!)
3位 デロッソ 当時の名選手
4位 アドールニ(1965年ジロ優勝、1968年世界チャンプの英雄)
5位 ジャンニ・モッタ(21才)←←← そりゃ、有名超一流プロもびっくりだよ。ウサインボルトに出会ったようなもんだもん。
>1960年 13勝 通称ソルマーノの壁で一流プロを抜き去る
>↓
>1964年 いきなりジロで総合5位 1964年のジロこそ、「Gianni MOTTA+カンパのラージハブ」の始まり
ジロのグラベルにはラージハブが最適と判明する。 36Hで8本組みのラージハブは衝撃吸収力が高く、
ランドナーで指定されることが多いが、そういう理由である。
もちろん、ゴールスプリントでも抜群の剛性を保つ。 後のジャンニ・モッタは工場を操業し、完成ロードを売っている時に、
ロードはバックステーのパイプを逆に使って、シートバックを非常に硬く作っていた。
「スプリントをかけるときはこっちのほうがずっといい。」
と本人が述べている。
このことからも、ラージハブの使用は必然と考えられる。←←← これ以降、モッタはキャリアの大半で「ラージハブ」を使っている。
尚、モルテニ時代には「センタープルブレーキ」も使っている。 1965年 ツールドフランス初出場で総合3位!
1位 ジモンディ(イタリアの英雄かつメルクスのライバル)
2位 プリドール(フランスの英雄、万年2位)
3位 ジャンニ・モッタ(22才) >1965年 ツールドフランス初出場で総合3位!
ジャンニ・モッタ(モルテニ) VS ジモンディ(ビアンキ)
のライバル関係が生まれる。 ※(何故か、イタリアでは、ライバル関係を演出することが多い)
1940年代〜1950年代 コッピとバルタリ
1960年代〜1970年代 ジモンディとモッタ
1970年代〜1980年代 サロンニとモゼール
1980年代半ば ビゼンティーニとロッシュ(但しアイルランド) 1965年 ピスト 6日間レースで優勝
ペアは組んだのは(ヘンド)リック・スターンベルゲン
世界選手権ロードで3回も優勝したベルギーの英雄
ベルギー人はスプリンターが多い為、ロードの世界チャンピオンが凄く多いと思う。 1966年 ジロで総合優勝(ラージハブ)!
1位 ジャンニ・モッタ(23才)
5位 ジモンディ(イタリアの英雄かつメルクスのライバル) ラージハブで優勝し、かつファウスト・コッピの再来と言われる。
>1966年 ジロで総合優勝(ラージハブ)!
ジャンニ・モッタ(モルテニ) VS ジモンディ(ビアンキ)
の関係が悪化する。 1967年 ツールドスイス優勝、ミラノ・トリノ優勝
世界選手権4位
1位 エディ・メルクス(世界最強がデビュー)
4位 ジャンニ・モッタ(24才) 最強のメルクスが登場し、以降、ジモンディとモッタは厳しいレースを強いられる。 ここでボッテッキアが供給から降りて
(皆さんご存じの通り、室内用バイクに専念する為である)。
以降、モルテニの自転車はCOLNAGOが供給するようになる。 1969年 サンソンに移籍(DE ROSAから供給)
(モッタ不在となり、モルテーニはミケーレダンチェッリがエースとなる) 1970年 名門 サルヴァラーニ チームに移籍
ジモンディとモッタがチームメイトになる!
犬猿の仲がますます。
このサルヴァラーニのデザインキャップが未だに売ってあるが、分かる人材が存在
するのだろうか?70歳以上じゃないと・・・ 1972年 フェレッティに移籍(DE ROSAから供給)
※サルヴァラーニとフェレッティ時代はカンパのスモールハブを使っている。
メルクスの軽量化時代の影響であろう。 1973年 ZONCAに移籍
1974年 マニフレックスに移籍して引退
この頃、ジャンニモッタは自分の工房を立ち上げ、ジャンニモッタブランドのバイクに
乗っていた、もちろん、トレードマークのラージハブを使っている。 ジャンニ・モッタはプロ生活で80勝以上、勝利し、競技の歴史に名を残した。 >(2)(1960年代)ジャンニ・モッタとラージハブ
これにて>>92 を終了します。 >(3)(1970年代)エディ・メルクスとヌーボレコードそしてスーパーレコード
>(4)(1980年代)ジュゼッペ・サロンニと後期〜最終スーパーレコード、そしてC35から40へ
は、またの機会とします。 これにて>>89
>栄光のCOLNAGOとイタリアの英雄そして上級者が選ぶパーツの歴史
を終了します。
これにて>>85
>>「世界の英雄とラージハブの歴史」を開始します。
も終了します。 Campagnolo栄光の歴史
1901年 トゥーリオ誕生 1927年 「Gran Premio Della Vittorio」開催中のCroce D'auneにて
トゥーリオ「Bisogno cambi a qualcosa de drio!」 1930年 クイックレリーズ開発 PATENT取得
1933年 Campagnolo社 Vicenzaにて創業 Mozzi誕生
1940年 Campagnolo社 初めてトゥーリオ以外の正社員を雇う 1946年 2本ロッド式CAMBIO CORSA 誕生
1949年 1本ロッド式CAMBIO PARIS-ROUBAIX 誕生
1951年 パラレログラム式CAMBIO GRAN SPORT 誕生
1953年 パラレログラム式DERAGLIATORE CENTRALE 誕生(後のナメクジ)
1955年 GRUPPO GRAN SPORT 誕生 1956年 2本締めREGGI SELLA 誕生
(以降1985年イノーがツールで優勝で使用しブームは1990年代まで続いた)
1957年 鉄プレートのPEDALE 誕生
1958年 1型RECORD MOVIMENTO CENTRALE STRADA 誕生(PCD151mm 44t)
1963年 CAMBIO RECORD 誕生(通称 鉄レコ) 1967年 GRUPPO NUOVO RECORD 誕生・・・既存の10倍近い価格であった
(CAMBIOのプレートをアルミ合金化)
1967年 3型RECORD MOVIMENTO CENTRALE STRADA 誕生(PCD144mm 42t)
1968年 FRENI NUOVO RECORD 誕生 1974年 前期SUPER RECORD 誕生(CAMBIOボルト,BBシャフト,ペダルシャフトをチタン化)
1978年 中期SUPER RECORD(CAMBIOを改良プーリーケージとプレート変更)
1985年 5型RECORD MOVIMENTO CENTRALE STRADA 誕生(PCD144mm 42t) 溝無し
1986年 最終SUPER RECORD(溝無し、白プーリー等) 1984年 前期GRUPPO RECORD CORSA 誕生
1988年 中期GRUPPO RECORD CORSA 誕生(RD肉抜き&途中から筆記体)
1988-91年 最終GRUPPO RECORD CORSA 誕生(黒プーリー,黒レバーパット、黒ヘッドパーツ) 1991年 GRUPPO RECORD CORSA SYNCLO 8S誕生(横型RD、'92エルゴレバー、カセットハブ)
1995-96年 GRUPPO RECORD 9S誕生
2000年 GRUPPO RECORD 10S誕生(Carbon化) 2002年 RECORD CARBON STRADA 誕生
2007年 GRUPPO RECORD ULTRA 10S誕生
2009年? GRUPPO SUPER RECORD 11S誕生
2009年? GRUPPO RECORD ULTRA 11S誕生
2019年 GRUPPO SUPER RECORD 12S誕生 >スンバワ島 - 1815年に、島内のタンボラ山が有史上最大の噴火を起こしている。 >1815年の大噴火は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模である。 >1815年の大噴火 VEI(火山爆発指数)=7。 >1812年から火山活動が始まり、1815年4月10日から同年4月12日にかけての
>大爆発音は1,750キロメートル先まで聞こえ、
>500キロメートル離れたマドゥラ島では火山灰によって3日間も暗闇が続いた。 >高さ3,900メートルあった山頂は2,851メートルに >半径約1,000キロメートルの範囲に火山灰が降り注いだ。
>地球規模の気象にも影響を与えた >この火山灰によって農作物は壊滅的な被害を受けた。 >また、この大噴火後数か月にわたって世界各地で異常な夕焼けが見られ、 >同年、アメリカ北東部では異常低温となり、雪や霜が6月までみられた。 >イギリスやスカンディナヴィアでは5月から10月まで長雨が続き、
>異常低温による不作や食糧不足の事態が社会不安を引き起こした。 >>1
>さらに、翌1816年は「夏のない年」(Year Without a Summer)と言われた。 >この大噴火による死者は1万人にのぼり、
>その後の飢饉、疫病によるものも含めれば7万人から12万人といわれている。 >世界的に1.7℃の気温低下が見られた。スイスでは深刻な飢饉が見られた。 >インドネシア
>世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3千以上 >周辺では、ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、
>太平洋プレート、フィリピン海プレートなどがせめぎあっており、
>環太平洋火山帯(環太平洋造山帯)の一部を構成している。 >スマトラ島北部にあるカルデラ湖のトバ湖を形成したトバ火山は、
>有史前に破局噴火を引き起こした >クラカタウ大噴火に代表されるように古くから住民を脅かすと共に
土壌の肥沃化に役立ってきた。 >火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、
>この数は世界最多とされる。 >スマトラ島のクリンチ火山が最高峰(3805m)である。
>スメル山はジャワ島の最高峰(3676m)で、世界で最も活動している火山の一つである。 >地震も多く、2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は
>甚大な被害を与えた。 >11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した >1815年の大噴火は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模
>1815年の大噴火は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模
>1815年の大噴火は、過去2世紀に世界で記録されたもののうち最大規模 >火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、 この数は世界最多とされる。
>火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、 この数は世界最多とされる。
>火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、 この数は世界最多とされる。
>火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、 この数は世界最多とされる。
>火山噴火によって過去300年間に15万人の死者を出しており、 この数は世界最多とされる。 >>1 >>132-156 情報ありがとう、普通にその通り。
>2017年は自転車誕生200周年
>www.cycleshop203.net/koneta/koneta/karl-von-drais.html >1815年インドネシアのタンボラ火山が噴火し、翌年まで世界的な異常低温気候が続き
>大量の馬が屠殺されてしまいます。
>そこでドライスは馬に似せた車輪付きの乗り物「ドライジーネ」を考案したのです。 勉強になりました
ところでクランクが自転車に着いたのはどの時代なんですかね
ペニーファージングみたいな感じの 1815年のインドネシアの噴火が「世界的な」異常低温というのは
どれくらいの範囲でのことなのか疑問
例えば同時代の日本では特に飢饉はおきていない 浅間山噴火→びっくり→今世紀に入ってから3回目
→過去100年で、50回噴火→ある意味で安心 1916年 チーノチネッリが10人兄弟の7番目として生まれる
兄のジョット(後のチネチカの製品名になっている)やアリーゴと
ロードレースに出場する。
チーノチネッリはアマチュア時代から英雄ジーノ・バルタリとレースを戦う 1936年 チーノチネッリが「フレユス」チームでプロ選手になる。
変速器はビットーリア・マルゲリータを使用
(まだカンパニョロは創業したばかりで製品もハブしか無い時代)
>1933年 Campagnolo社 Vicenzaにて創業 Mozzi誕生 チネリのプロ選手時代
1938年 ジロ・ディ・ロンバルディーアで勝利する
1940年 Bianchiチームに所属する。
1943年 クラシック ミラノ・サンレモで勝利する
同年 後にチネチカを率いる息子アンドレア・チネリが誕生する。 BianchiのCinelliってややこしいけど、歴史的事実。 1944年 英雄チーノチネッリ プロ選手を引退する 第2次世界戦時中、選手ができなくなって、引退したチネリですが・・・
1945年 工房チネリを開始する 当時のチネリの、ライバルである、コッピやバルタリは、
戦後に、選手として復帰するんですが、チネリは、
それどころでは無く、自転車を始めるんですね。 当初 英レイノルズチューブを使っていたが、
後にコロンブスを創業したルイージ・コロンボ
からチューブの供給を受けるようになる。
後に、チーノ・チネリとアンドレア・チネリは、コロンボに経営権を委ねるんですね。 1946年 イタリア・プロ自転車選手協会 創始から関り、
後に、チーノチネリはイタリア・プロ自転車選手協会の会長として活躍します。 1951年 アルフレード・ビンダ ストラップを発売
チネリのアルフレード・ビンダ(英雄)のストラップってややこしいですが、
活躍した年代も、そこまで違わないし、
アルフレード・ビンダさんて当時、まだ中年くらいで若くて、
別の会社のエライ社員やってますからね。
その逸話が日本のサイクル誌にも出て来ます。 1956年 カルパノに移籍したファウスト・コッピにフレームを供給する
(フィオレッリとなっている) 1960年 チネリの穴開きラグにて、衝撃とショックを吸収するフレームを作成
機能と美の融合として、チネリの大きな特徴となった。 1963年 量産アルミステムの最高傑作の一つ 1/A を発売
現在まで続く 名品の一つである。その歴史、60年近い。
後にアルミハンドルも63,64,65,66など現在まで続く名品が
多く産出される。 これ、読みとばされると困る重要なトピックなんですが、当時、鉄の溶接ステム
みたいなのが、主流(1970年代の日本のロードバイクとか日東のステムもそう)
>1963年 量産アルミステムの最高傑作の一つ 1/A を発売 アルミみたいな、高級ステムは、超軽量削り出しのルネ・エルスくらいしか無かった時代です。
「黎明期のチネリ」と比較しても、「ルネ・エルス」や「サンジェ」の素晴らしさが分かる。
>1963年 量産アルミステムの最高傑作の一つ 1/A を発売 ですから、まず1/Aは必ず買う事です。
そして、「日東パール」と「日東のNJ-PRO 鉄/AA」も買う必要がありますね。 「日東パール」は1/Aより遙かに重く、遙かに頑丈で、使い易いです。ウスの抜き差しが便利。
そして日東が分かったら、栄、クスキのステムは買い、そこでようやく2000以降の
DEDAとか現代の新興ブランドも考えて下さい。なお、アヘッド時代もチネリは健在ですからね。
DEDAが必要か分かりませんが・・・ チネリのステムとハンドルは、看板商品であり、歴史上の世界遺産ですからね。
一方、日東は実用上、必須ですし、栄やクスキはお手元の自転車についていると思います。
これらはどうしても「一般常識」として抑えておく必要があります。 1964年 世界初のプラスチックサドル ウニカニトール 発売
超人エディ・メルクスによって長く愛用される。
この後の"グランツール"サドルや"モデルL"などのベースとなる。 1964年 日本と世界各国の東京オリンピック出場選手、
ナショナルチームにチネリを供給され、 東京オリンピックでチネリの出走台数が
多数を占める。 チネリの名声が飛躍的に高まる 力道山が、チネリのスーパーコルサを購入する。
いわゆる、力道山のチネリと呼ばれるものである。 この頃、長男である、
1964年 アンドレア・チネッリは スイスの大学で数カ国語を身に付け、
正式にチネリの社員となり、輸出業務を担当を始める。 1971年 世界初のビンディングペダル M-71を発売、
後のLOOKやTime、SPDなどの先鞭をつける。
これは思慮深いチネリ自身が、現代のビンディングペダルの手本となった!
と言い切る、革新的なテクノロジーであった。 クランプボルトを内蔵した、革新的なテクノロジーのステム
1974年* アルミステム 1/R を発売
*諸説あり 1977年 チーノ チネリ引退 息子のアンドレアに託する
1978年 経営に参加していたコロンブスのルイージ・コロンボ
の息子、アントニオ・コロンボと共同経営に乗り出す。 1985年 デンマークのオルステッドがチネリのトラックレーサーで
アワーレコード屋外低地の記録達成 このチネリによるオルステッドの記録を モゼールのモゼールが抜くんですね。
この辺がまた面白い。 1987年 アンドレア・チネリは、(Colombus)のアントニオ・コロンボと別れ、
新たにチネチカを創業する。 同年 イタリア・ナショナルチームが世界選手権で
チネチカのカーボンモノコック・タンデム・トラックレーサー
を使用した。
同年 シートチューブが存在しないカーボンモノコックのジョット
が発表された。 同年 驚愕の「形状」と「ハンドル幅」の両方が可変式!!!
のカーボンアルミ・ハンドルバー/ステムのジョット/リーダー
が発表された!!! ⇒これはドロップハンドル/ブルホーンバー/ダウンヒルバーの3種類
に変更できる上に、カーボンスライド式で幅とステムの長さも全て
調整できるのである。
(現在、売られている、軽量だけを売りにする、カーボンハンドルなどは、
このジョットの爪の垢を煎じて飲んでほしい。) 今まで、こんなハンドルありましたか?てか2000年〜2020年の間にもあったか?
>ドロップハンドル/ブルホーンバー/ダウンヒルバーの3種類に変更できる上 さらに、ハンドル幅は、いちいち、その幅で買うでしょ?
このチネチカのジョットは、調整だけで、
ハンドルは何と 395mm〜435mmまで大半をカバーし、
ステムも85mm〜125mmまでカバーしてしまうのだ! このステムは、カーボンパーツの長さを変更して調整するタイプで、
走行中に可変できる、重量系パーツとは違うのだが・・・
>ステムも85mm〜125mmまでカバーして チネリと東京五輪の歴史 糸冬
この後、チネリはアルミステム XA を発売したり、軽量なチタン溶接ステムを出したり、
チネリ、インテグラルターを出したり、アヘッド時代やインテグラルヘッド時代も
現在まで、多彩な製品でファンを楽しませている。 尚、チーノ・チネリは1990年代、80才近くになっても現役のロードマンであり、サイクリストだった。
アンドレアチネリのチネチカとスーパーコルサを駆って、毎日60kmくらい走っていたと言われる。 チーノ・チネリはとにかく、発言や見識がものすごい。
とにかく、自転車のサスペンションやホイール、空力への拘り。
イタリアプロ選手協会の会長というよりは、マイク バローズか島野みたいな人なのだ。
1980年代〜1990年代の発言集はまた別スレで提供しよう。 また、チーノ・チネリの若いプロ選手時代は、とにかく格好良い。
脚が長く、背が高く、男前で、イタリアの俳優が、
肉体を鍛え上げて、ロードバイクでレースをしているという感じなのだ。
八の字タイヤとゴーグルを身にまとっても、非常にスマートで美しい。 >アンドレアチネリのチネチカとスーパーコルサを駆って、毎日60kmくらい走っていたと言われる。
このチネチカがまた物凄い。部品はウニカニトールにM71ビンディングペダルを使っている。
部品は1982あたりの後期スーパーレコードに2本締めピラーだが、
前輪はラジアル手組みのエアロホイール。
インナーは穴開きの41tヌーボスーパーレコード。 1949年 世界初 量産軽合金クランク ストロング・ライト 49 誕生
○その後の「全ての軽合金クランクのお手本」となった。 ○尚、ルネ・エルスの軽合金クランクは後に、ストロング・ライト
に委託されて、生産されている。 1957年 フランスの英雄 ジャック・アンクティルが
ストロングライト49でツールで総合優勝
(チェンリングはTAプロフェッショナル) →この3つの史実が、マニアが必死でストロングライト49を
欲しがる理由なのです。1980年代までのストロングライトは
あっという間に市場から消えましたから。 フランスとイタリアの古典 有名パーツの歴史
1957年 ストロングライト 57チェーンホイール誕生(実際には50年代初頭) 1957年 ストロングライト 57チェーンホイール誕生(実際には50年代初頭)
1961年 ストロングライト 57にてアンクティルがツール総合優勝
1962年 ストロングライト 57にてアンクティルがツール連続総合優勝 →この史実が、ストロングライト57が市場で高騰している原因です。
57はまず、実物を見られません。49や63はたまに見ますが。 1960年 Simplex JUY レコード60 RD誕生 1963年 マファック トップ63 センタープルブレーキ誕生 1963年 ストロングライト 63(前期)チェーンホイール誕生(旧57が63へマイチェン)
同年 ストロングライト 49が二次型となる。 1968年 ユニバーサル スーパー68 サイドプルブレーキ誕生
現在のサイドプルブレーキの手本となった。 1975年 ストロングライト 105誕生
同年 ストロングライト 49が3次型となる。
ここから「ツーリング」の穴リングと「レーシング」の星型リング のデザインへ分岐する。 何故か、人気があるのは、「レーシング」であり、
32Bランドナーや700Cランドナー・スポルティーフは必ず曲線の星型である。
その理由は、結局、アンクティルがツールで優勝し、非常に格好良かったから。
現在のストロングライトにもそういったフォルムが生かされているとか何とか。
これがフランス部品とストロングライトの起源。 >>181 待て待て、経緯がややこしいが、正確には、イタリアのウニカ・ニトール社が
1959年にプロトタイプを出すが、これは失敗作でシーズ半ばで回収されたんだよ。 で、1960年に世界初のプラサドルとして出し直し、ここで1960年代のサドル競争が起こる。
一方、革サドルのブルックスB17コンペティションがプロフェッショナルとして登場するが、
革を厚くし過ぎて、選手とメカニックのサドル馴らしに時間が掛かり過ぎた。 一方、ウニカのプラサドルはメンテフリーだ。で、東京五輪の前年の頃から、形成が逆転する。
1965年にウニカがウレタンパッド入り、革張りサドルを出し、現在まで続く原型が完成する。
その前年が1964年で、一応 そこをプラサドル元年としているが、実際には1959-1960と
ゴタゴタがある。 後にチネリブランドに・・・ってことなんだよね。 ロードエンドの起源と使い方、ショートケージのRDの場合、
結局、初期のマルゲリータや、ニベックスや、グランスポルトや、カンビオコルサが
が原因だが。昔はロングエンドで、ケージも無く、前後の移動だけで吸収していた。 インナー×トップを両方小さくするとチェーンが長くなる。
アウター×ローを両方大きくすると、チェーンが足りなくなる。
こういった場合に、チェーンを切ったり、足したりするのが面倒臭い。
昨今は専用ピンとリンクのセットが新たに必要だし。
で、ロードエンドを前後させて、調整する。足りないなら前に出し、長ければ後へずらす。 >>161 天明の大飢饉
>天明の大飢饉は浅間山の噴火とアイスランドの火山のダブル噴火が原因
>江戸時代1782年(天明2年)から1787年(天明7年)頃
>江戸四大飢饉
>天明3年に浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。 群馬のピスト海苔は要注意、山コース変えてる筈だけど
前橋があり、街道ピストの練習が多いからね。 >国道292号(志賀草津道路)の通行規制解除について - 群馬県
>通行条件
>(2)通行可能車両 車両のみ(自転車、バイク、オープンカー除く) >【群馬県】:草津白根山防災協委員の教授辞任 道路開通、噴火リスク指摘
>噴火「想定外、悔しい」 草津白根山、観測25年の教授
>1人が死亡、11人が負傷した草津白根山(群馬県草津町)の噴火に、
>悔しさをにじませる >>161 油断大敵!
>高崎市
>浅間山の大規模噴火を想定した火山ハザードマップの公表について
>h ttps://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2018053000043 >>225 確かに!
>縄文文化断絶
>h ttps://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/negishi23 >>225 常総市は実際、ハザードマップと一致したからね。 走行ルート変更は普通。
>ハザードマップと重なった浸水域、それでも犠牲者防げず
>浸水想定、周知足らず 専門家「ハザードマップ、理解促す取り組みを 歴史的には鉄フレームが200年、アルミフレームが100年、チタンフレームが50年、
カーボンフレームが40年だが、 実際に普及を始めたのは鉄フレームが130年、
アルミフレームが50年、
チタンフレームが40年、
カーボンフレームが30年
であり、 実際に普及したのは鉄フレームが100年、
アルミフレームが30年、
チタンフレームが20年、
カーボンフレームが20年と言えるでしょう。 >インスタ世代は、空気抵抗に妨害されるよりも、キャッチーな見た目を好むのです。
>ロードバイクなどの走りには、アルミ、カーボンメガチューブは邪魔なだけ。 >オートバイのフレームを見て下さい!
>いまや、ロードバイクや、MTBのフレームパイプの方が、
>オートバイのフレームより、マジで太いくらいなのです。 ありがとう、カイセイ!
>国産鉄チューブはカイセイか丹下だが、
>もちろんカイセイは福島県(旧岩瀬村)にあります! おーい、>>1よ、火山噴火で、自転車が発明されたのは分かったが、
オーディナリー型とか、昔の自転車って前後異径が普通じゃん。
UCIが前後同径に規制しているってのはおかしく無いか? >>235 オーディナリー型自転車の歴史 日本ではダルマ自転車と呼ぶが・・・
>1870年頃、英国のジェームズ・スターレーが、スピードを追求するために前輪を
>巨大化させたペニー・ファージング型自転車を発売し好評を博したため、
>多くのメーカーが追随。前輪は拡大を続け、直径が1.5メートルを ... >ペニー・ファージング は19世紀後期に盛んに製作された自転車の形態。
> 「ペニー・ファージング」の名称の由来は、直径の大きく異なる前後輪を、イギリスの1ペニー硬貨と
>ファージング(1/4ペニー)硬貨に見立てたことによる。
>アメリカでは High Wheeler または High Wheel bike と呼ばれることが多い。 「前後異径自転車」の歴史は 150年以上あると言う事だけ分かった。
これをUCIが否定するとはいかなる権利があるものか? やっぱあの老人か
鉄フレームを盲信してアルミもチタンもカーボンも否定して
時代遅れの独りよがりな屁理屈を開陳して自分を自転車の神と自レスする老害
ギア比を気にして駄スレ立てる前に実走と筋トレとローラー練したらどうだ?
タンゲはもう台湾資本だろ
右翼がどうこう言ってる割に国産品至上主義者か
昔からのリベラル気取りジジイのロジックはマジで理解できねえな
我々現代のリベラルの迷惑だからこれから右翼に与して下さいよ >>1 俺も読んだ、2009年の本に冒頭から、その話で始まってる。 >>242 全くダメ、地震まみれ
>2020年に入って以来、世界中で絶え間なくM5以上の地震が発生し続けている
>1月7日のM6.3の地震発生後に非常事態宣言が出されたプエルトリコ アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月06日 マグニチュード 5.2 インドネシア
2020年 01月07日 マグニチュード 6.2 インドネシア
2020年 01月09日 マグニチュード 5.2 インドネシア アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月05日 マグニチュード 5.1 フィリピン
2020年 01月06日 マグニチュード 5.2 フィリピン アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月06日 マグニチュード 5.8 プエルトリコ
2020年 01月07日 マグニチュード 6.4 プエルトリコ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.6 プエルトリコ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.0 プエルトリコ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.6 プエルトリコ アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.3 パプアニューギニア
2020年 01月07日 マグニチュード 6.0 パプアニューギニア
2020年 01月09日 マグニチュード 5.1 パプアニューギニア アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.0 ニカラグア
2020年 01月08日 マグニチュード 5.2 チリ
2020年 01月07日 マグニチュード 5.2 スバルバル諸島
2020年 01月05日 マグニチュード 5.8 メキシコ アメリカ地質調査所(USGS)のデータ
2020年 01月05日 マグニチュード 5.0 アイスランド >アメリカ地質調査所では、マグニチュード 4.5以上を大きな地震と分類していますが、
>2020年1月3日からの 1週間だけで、
>マグニチュード 4.5以上の地震は「 99回」起きていました。 >インドネシア東部パプア地方で19日
>マグニチュード(M)6.0の地震があった。 >スマトラ島沖地震発生から15年近年も大きな地震発生が続く
略
>巨大地震後、周辺では活発な地震活動が続き、
>これまでにマグニチュード7を超える地震は19回発生しています。 ↑フィリピンでも巨大地震で多数の死亡者が出ています。
>2019/7/27 13:50 比で地震相次ぎ8人死亡 北部、M5級が3回 >2019/8/2 インドネシアでM6.9の地震 5人死亡
>インドネシアのジャワ島の南西部に位置する
>バンテン州で8月2日に発生したマグニチュード6.9の地震で5人が死亡した。 >2019/11/15 インドネシア東部でM7.1、周辺に一時津波警報 >2020/1/8 プエルトリコ沖でM6・4、1人死亡
中米・中南米も地震で死亡者が出ています。 >インドネシアでM6.9の地震 5人死亡 | TRT 日本語
>h ttp://www.trt.net.tr/www.trt.net.tr › japanese › shi-jie › 2019/08/04
>2019/08/04 - インドネシアのジャワ島の南西部に位置するバンテン州で
>8月2日に発生したマグニチュード6.9の地震で5人が死亡した。 >インドネシア東部マルク諸島でM6.5の地震、20人死亡
>2019/09/26 - 【9月26日 AFP】(更新)インドネシア東部のマルク諸島(Maluku Islands)で
>26日午前8時46分(日本時間同)、
>マグニチュード(M)6.5の強い地震が発生し、少なくとも20人が死亡した。 >インドネシアでM6.9 82人死亡、バリ島にも被害:朝日新聞デジタル
>2018/08/06 - インドネシアの観光地ロンボク島で5日夜に起きたマグニチュード(M)6・9の
>地震の死者が82人に達した。国家防災庁が6日発表した。
>震源の深さは約31キロ。同庁によると、停電も発生して被害の全容はわかっ >>245 火山も噴火したよ
>フィリピン・タール火山噴火 激しい噴煙(20/01/13)
>1万6000人避難 空港一時閉鎖も >フィリピンの首都マニラから約70キロ南にあるタール火山が12日午後、
>噴火した。噴煙は一時、高さ1万5000メートルに達し、
>火山灰はマニラにも達した。マニラの国際空港では、欠航や遅れが相次ぎ、
>三連休でフィリピンにいた日本人観光客にも影響を及ぼした。
>フィリピンの火山地震研究所は、さらに大規模な噴火が数日以内に発生する恐れがあると
>注意を呼び掛けている。 >インドネシア・ムラピ山が噴火、噴煙が5000m上空に到達
>2020/03/27 - 国家防災庁(BNPB)提供(2020年3月27日撮影・公開)。
>【AFP=時事】インドネシア・ジャワ(Java)島で、
>同国で最も活動的な火山のムラピ(Merapi)山が27日噴火し、
>灰色の噴煙が上空約5000メートルに達した。同山の噴火は今月2回目。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています