浜田は76年のびわ湖毎日で4位だったのでモントリオールの次点扱い。五輪後の77年
別大でもその年最高の2:13:57で優勝し、初マラソンの鎌田他の有力選手を退けた。
77年の日本選手権10000では喜多のラストスパートに屈したものの宗猛、瀬古を退け
2位(28:27:6)に入った。瀬古以外の有力選手が集まった2月の別大では宗茂の猛烈な
ペースに戸惑い8.5kmで腹痛を起こし後退、8位にまとめたものの新旧交代を余儀なく
された。しかし浜田の真骨頂は74年の別府で後半追い風にも乗り、30から35キロを
14分台で飛ばし、日本歴代6位の2:13:04:2で制したレースで現れた。それまではスピード
がありながら後半崩れるレースを繰り返していたが、これで一皮剥けた。尤も直後の
毎日で宇佐美に格の違いを見せつけられたり、プレオリンピックは不発だったりで、
安定したと言っても、惜しいレースが多かったのも事実で、それが代表入りを惜しくも
逃す事に繋がった。しかし引退レースの84年別大でも8位2:14:49にまとめ上げる辺りは
流石と言うべきか。引退後は指導者として活躍し、京セラの監督として実業団女子駅伝
で優勝した他、荒木、市橋等の五輪選手を含めて多くの選手を育てた。