佐々木は翌68年2月の別府毎日も2:13:23の大会新で圧勝。世界歴代6位相当の好記録
であり、選考指定レース3つのうち2つを日本人1位かつ日本記録を更新して文句なく
メキシコ代表の資格を満たし、最終選考会の毎日マラソンを欠場した。一方で、急浮上
してきたのが采谷義秋で、年末の国際マラソンで6位(2時間14分49秒6,佐々木、4位の
蓬原正嗣2:14:40に次いで日本人3位)、別府毎日ではアジア大会チャンピオンで前回の
覇者勝つ東京代表の君原を40キロ付近で交わして2位(2時間15分22秒)、最終選考会の
毎日マラソンでも君原(2:14:46)を凌ぎ2:14:24で2位と安定した成績を残しながら
選考委員会は佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。
しかし陸連理事会はこれを承認せず、「4人とも同格の代表で、正補欠は7月の富士山合宿
のレースで決める」と決定。その後、また方針がぶれて「エントリー締め切り日(競技3日前)
にもっとも調子のいい選手を出す」と方針を変更。結局、コーチの高橋進の発言力と、
68年6月のウィンザーマラソン優勝を含めた外国レースでの実績、7月のメキシコ遠征中に
あった30キロと5000メートルマラソンで、それぞれ5位、9位と成績が振るわず、高地の順応性
が低いとの判断で、7月24日、采谷を補欠とする最終決定を発表した。
 結果としては、最終的に救われた君原が銀メダルに輝いたので、成績だけを見ると
最終判断は正しかったと言えるが、選考の公正性は全くなく、禍根を残した。