80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 >>242
競技場前でマラソン2回目の瀬古に抜かれ全体の6位でゴール
>>243
78年のバンコクアジア大会に出場し北朝鮮2選手を破って金メダルを獲得
しかし猛暑の中で激走した疲れから不振が続きモスクワ五輪選考会は91位と惨敗
81年東京マラソンに出場し2時間13分22秒の自己ベストで5位(日本選手1位) 10000のスピードから喜多選手のほうが宗兄弟より期待してたのですが、マラソンとは違うのですね。
新宅選手が初マラソンの時、宗茂がついてこれるなら来てみろとばかりに飛ばしていった記憶があります。
時系列は無茶苦茶ですが、松尾正雄選手、浦川選手、吉沢洋選手、佐藤進選手、世利選手なども印象に残っていますね。 >>238
Wikipediaからの情報だと思うけど鎌田の7位は間違い。正確には予選3組7位(予選通過は
各組4位迄とプラス3人)。鎌田はキックがないので福士に似て最後で置いていかれる
タイプだった。 モントリオールオリンピックのマラソンでインドのシンという選手が上位を走っていた。
アントニオ猪木と戦っていた悪役プロレスラーと同じ名前で顔つきも似ていた。 https://m.youtube.com/watch?v=bB0pBGGfeUA
に結構まとまった動画があるね。これを見るとチェルピンスキーは1周間違えて余計に走って
いる。ショーターが後からゴールした選手に握手を差し伸べたのは覚えていたけど4位のガードング
だとばかり思っていた。それがチェルピンスキーとは。。テレビで見た時は地元のドレイトンを
良く映していたけど、この映像ではそれほどでもない。ドレイトンに僅かに及ばなかった
モセイエフとか、中盤健闘したシンとか、序盤トップで途中止まって屈伸していたロジャースとか
いつのまにか3位に上がったリスモンとか見所が多い。 >>250
ショーターが負けたのを初めて見た時だった。
モントリオールオリンピック以降急速に衰えて日本でマラソンをを走らなくなった。
ワードローのライオン顔は覚えている。
78年の福岡で瀬古喜多と並走してトップの宗茂を追っていた。 ショーターはモントリオールまで。それ以後はロジャースがアメリカの顔。
しかし、インドのシン11位というのも驚き。以後、インドとマラソンが全く結びつかない
のだが。 ショーターのwikipediaも間違っているね。オリンピックトライアルは72年も76年も勝っている。
どうしてこういうミスがまかり通るのか。オリンピックトライアルでは8秒遅れの2位だった
ロジャースはモントリオール五輪当時4人しかいないサブテン記録保持者(歴代4位かつ出場
者の中ではトップ)でショーターの有力な対抗馬だったけど、結果は40位。しかし五輪後3ヶ月弱
のNYCマラソンでショーターに3分以上の差をつけて2:10:10の好記録で圧勝。覇者の交代を
印象付けた。このれーすは村上龍の小説にも取り上げられている。
モントリオールのもう一人の対抗馬と目されたドレイトンもユニークな経歴持つ選手。
そもそもこの名前は電話帳から選んだ名前で本名はピーター・ビニュアックという
ウクライナ系のドイツ生まれの人で1958年にカナダに移住して、メキシコ五輪には
本名で出場している。69年は彼にとって飛躍の年で10月にデトロイトのmotor city
マラソンで世界歴代5位タイの2:12:00で優勝。このマラソンが余りにも福岡に近過ぎた
のか2ヶ月後の福岡の招待選手に選ばれず、自費参加。小雨の中、前半からリードして
世界歴代3位の2:11:12:8で優勝。しかし、その後、英連邦大会を棄権する等パットせず、
ミュンヘン五輪にも(多分)不出場。その彼が復活を印象付けたのが75年の福岡で雨の中、
チェトルとの二転三転するデッドヒートを制し、歴代5位の2:10:08:4を記録した。因みに
このレースでロジャースは3位。五輪本番では地元という事もあってロジャースと共に
ショーターの有力な対抗馬だった上に、小雨模様とドレイトンにうってつけの気候だったが
6位という不完全燃焼の結果だった。しかし、その後、福岡とボストンを連続して勝つなど
安定した成績を残した。 チェトルと言えば当時2時間2分台の世界記録を出して大騒ぎなった。
自動車のメーターで距離を測定していたので正式な方法で再測定したら2km以上も距離不足だった。
79年福岡に出場したコウシスも大会前2時間6分台を記録して注目されたが14位に終わった。 >>255
73年の毎日マラソンでショーターと一緒に来日した選手だね。
佐々木精一郎も前半は健闘していたのだが… >>254 Auckland, Choysa Marathon, Nov. 13, 1977だね。チェトルの記録は
2:02:24で11位が往年の名選手ファリントンで2:08:16(確か2位はファバだった
と思うが確認出来ない)で世界記録を大量に上回ったから再計測になった。
マラソンの距離計測は屡々不正確で81年NYCも後で距離不足で取り消しになって
いるし83年迄の東京はほぼ確実に距離が長過ぎた。更に80年代の北京はおそらく距離不足。
最近でも2015年のさいたま国際は誘導の失敗で距離不足、2015年3月の横浜マラソンも
距離不足と、日本でも全く信頼おけない。外国はかなりいい加減だと思って良いだろう。
驚くべきは77年の2分台よりもキプチョゲの記録が上であること。別次元の競技になって
いる。特にチェレンジ2の2:00:25は5キロ平均14:16でハーフ1:00:12だから、宗兄弟みたい
な双子でインチキリレーをしても敵わない。 中山2度目のマラソンとなった84ソウルでは先導者がコースを間違えるミス
があった。 北京は記録自体は公認されたが、距離表示にズレが生じているのはハッキリしている。
児玉泰介が当時の日本記録で走っている86北京では35kmから40kっまでが16分台
なのに、ラストの2.195kmが6分26秒(5km換算14分台)でカバー。
普通、大きくペースダウンしたのが、また大きくペースアップする展開は、ほぼあり得ない。
そこから距離不足を疑ってしまった。
中国のいい加減なところは、35kmは、だいたいこの辺だった、と大雑把にマーキングする
ところに現れている。私がマラソン・ランナーだったら、こんないい加減なマラソン大会に
絶対に参加しない。自らの適当さで、大会の権威を落としていることに主催者は気がついて
欲しいのである。 瀬古利彦は、意外に「持ってない男」なのかも。
・高校時代、役員の先導ミスで1周少なく競技場の外に出るハプニング
・モスクワ五輪、日本ボイコット
・83年東京国際、幻の世界最高記録(距離が長いと思われる)
自分の意思では、どうにも出来ないことばかりであり、不運としか言いようがない。
特にモスクワのボイコットは、日本に何の得ももたらさなかったことは強調しておきたい。 64年東京オリンピックは幼かったので見た記憶はないが君原寺沢が福岡を走ったことを覚えている。 そもそもうまれてないっす。
60歳くらいっすか、、 君原は朝日国際の時代には朝日マラソンを走っていたが66年にIAAFの肝入りで国際
マラソンになってからは中々福岡を走る機会がなかった。その理由は66年、70年が
アジア大会に参加、67年にはプレオリンピックに参加、68年はメキシコ五輪から間がない
から等の理由だろう(69年の不参加は理由不明)。そのせいか招待選手に選ばれず、
ますます走る機会を失った。
初めて走ったのはショーターが初来日、初優勝を果たした71年で、この年(びわ湖)
毎日で自己最低の13位だった君原は不調で11位と70年までの最低順位の8位を下回って
見せ場もなかった。翌72年はミュンヘン5位の実績で多分招待されて、淡々と後方で
レースを進め5位(日本人2位)に入った。表向き、君原は翌73年に別府を優勝し、
アテネで引退という事になっているが、その後も走り続け、地元の福岡では活躍した。
実際、76年から78年にかけての福岡の順位は15,17,16と安定しており、特に78年には
五輪候補の鎌田に先着し、宗猛の次いで2時間17分07秒でゴールした。 バンコクアジア大会のマラソンで2連覇した君原は後のオリンピックで銀メダルと5位入賞した。
暑さに強い選手は大試合でも強いという見本を示してくれたと思う。 ショーターが主催者の応援旗を走りながら集めていたのはびっくりした。。 >>260
瀬古あるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・瀬古と言えばラストのキックの印象が強いが、意外と新宅、金井にはラストで競い負ける
場面が多かった。単純にキックだけの比較だと2人に及ばない。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではバイニオと伊藤国光に大きく離され平凡なタイムで3位。
・時折、信じられない負け方。未だに謎なのは高3の高校駅伝1区でまさかの区間4位。
区間賞の小山英士から32秒も離される完敗。86年アジア大会10000も調整不足とは言え、腹痛
で歩いてトップから1分差の3位も事情を知らない人には衝撃だった。勿論、ロス五輪も。
・同時代のセブ・コーが貴族院議員になったり、ロンドン五輪組織委員長、IAAF会長を
歴任したのに、瀬古の実務能力のなさでそういった要職経験はない。JOC会長だって1年下の
山下。瀬古に声はかからない。
・もちろん、瀬古の珍解説は増田よりましとは言え、ワースト2.本当に競技経験者と
思いたくなる。 78年のアジア大会は開催地が二転三転したうえイスラエル参加問題で大きく揺れた。
結局イスラエルを排除して行われたが国際陸連は出場国を国際試合出場停止処分にした。
旧式のセックスチェックが行われ女子は恥ずかしくて泣いていたと新聞に書いてあった。
82年のアジア大会はニューデリーで行われダイジェストながら競技映像が見られた。
マラソンは阿部文明が銀メダルを獲得。野犬が選手を追いかけている場面もあった。 阿部文明。何十年ぶりかで、その名前を聞いた。
記憶に間違えなければ、87年びわ湖毎日マラソン優勝者。81年箱根駅伝2区区間賞。
駒澤大学だったと思う。 >>263
あなたの言う通り還暦の爺さんですw
記憶に残っている最初に見たテレビのマラソンは67年の別大毎日マラソンでした。
終盤まで二人が並走していて一人がスポンジを取りに行った瞬間スパートして優勝。
ずっと後になってから優勝は君原健二で2位が佐々木精一郎だとわかりました。 >>272
世界歴代3位と4位の大勝負ですね。21歳の若武者、佐々木のメジャーデビュー戦。 佐々木は若手のスピードランナーとして期待が大きかったが腹痛に悩まされたようだ。
メキシコオリンピックは君原が銀メダルに対して佐々木は途中棄権。
その後も走り続けたが復活できなかった。 佐々木精一郎のベストレースは世界記録を上回る記録でゴールした1967年の福岡国際
マラソン。IAAFの肝入りでマラソンの世界選手権と位置付けられてから2回目であり、
当時は第2回国際マラソンと呼ばれていた。そのレースの詳細はIAAFのページにもあるが
http://www.coara.or.jp/~hinoue/World/Fukuoka/1968_Fukuoka.html
の方がより詳しく分かりやすい。一言で言えば先行するクレイトンに猛烈な勢いで
追い付いた佐々木が5キロにわたる並走の後、34キロで後退せざるを得なかったのも
彼の弱点であった腹痛が起きたためであった。 別大マラソン(当時の別府マラソン)は68年まではテレビ放送されていた。
その後はNHKのラジオ放送になり79年以降ТBS系列でテレビ放送が復活した。 佐々木は翌68年2月の別府毎日も2:13:23の大会新で圧勝。世界歴代6位相当の好記録
であり、選考指定レース3つのうち2つを日本人1位かつ日本記録を更新して文句なく
メキシコ代表の資格を満たし、最終選考会の毎日マラソンを欠場した。一方で、急浮上
してきたのが采谷義秋で、年末の国際マラソンで6位(2時間14分49秒6,佐々木、4位の
蓬原正嗣2:14:40に次いで日本人3位)、別府毎日ではアジア大会チャンピオンで前回の
覇者勝つ東京代表の君原を40キロ付近で交わして2位(2時間15分22秒)、最終選考会の
毎日マラソンでも君原(2:14:46)を凌ぎ2:14:24で2位と安定した成績を残しながら
選考委員会は佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。
しかし陸連理事会はこれを承認せず、「4人とも同格の代表で、正補欠は7月の富士山合宿
のレースで決める」と決定。その後、また方針がぶれて「エントリー締め切り日(競技3日前)
にもっとも調子のいい選手を出す」と方針を変更。結局、コーチの高橋進の発言力と、
68年6月のウィンザーマラソン優勝を含めた外国レースでの実績、7月のメキシコ遠征中に
あった30キロと5000メートルマラソンで、それぞれ5位、9位と成績が振るわず、高地の順応性
が低いとの判断で、7月24日、采谷を補欠とする最終決定を発表した。
結果としては、最終的に救われた君原が銀メダルに輝いたので、成績だけを見ると
最終判断は正しかったと言えるが、選考の公正性は全くなく、禍根を残した。 >>278
この時の結果オーライが後々までオリンピック代表選考に悪影響を及ぼす。 瀬古利彦に一万で勝ったことのある森口達也を唐突に思い出した。息子が高校駅伝で7区区間記録保持者。 >>281
森口は瀬古と同期で、高校時代はIHにも出ていない。神戸製鋼に就職して、徐々に頭角を
表し、転機となったのはトラックでもトップクラスで初マラソン日本最高記録(75年別府、
2:13:10)を持っていた小沢欽一を練習で破った事と述懐していた。それを機に森口は
トップクラスになり、反対に小沢は一線から退いた形になった。彼が不運だったのは折角
代表に選ばれたのにモスクワ五輪がボイコットだったこと。翌年に5000の日本歴代2位
の13:26:55を記録したが、その後が続かずロス五輪代表には届かなかった。ラストの切れ味
のあるランナーだったと思う。 前日、瀬古利彦が2万で日本新を出しているけど、間違いなく、その疲れはあったと思う。 >>238
鎌田が出たモントリオール五輪の10000予選の動画
https://m.youtube.com/watch?v=kgjFguD7DgY
17分辺りから。ちょっと位置取りが後ろ過ぎて集団がバラける時に対応出来なかったね。
この映像は初めて観た。 ゼッケン72番の謎の男。
ショーターは若かりし頃はヒゲだったんだなあ。 >>288
初来日の71年福岡から五輪、歴代3位の福岡を経て、途中大便をして優勝して優勝した73年
びわ湖毎日までひげがあったから、寧ろ73年福岡でひげなしのショーターを見た時に違和感しか
なかった。 >>287
(ロス五輪マラソン前なので)インタビューが面白いね。彼の見立てではサラザール等
アメリカ勢は厳しく、優勝候補は瀬古とド・キャステラだけど瀬古推し。またダークホース
としてカルロス・ロペスを挙げている。まあ妥当か。 >>290
ショーターとロジャースは瀬古を高く評価している。
ショーターは瀬古がロス五輪ゴール直後に慰労している。 スティーブ・ジョーンズとド・キャステラの瀬古への評価もまた高い。 83ボストン優勝者・グレッグ・メイヤーも瀬古氏を高評価 もう一つ懐古スレが盛況なのにこちら過疎ですね。
少し話題を広げてみたいと思います。
大牟田の吉富兄妹のことを詳しく知っている人はいませんか?
他にも早熟だった選手がいたら教えてください。 詳しくはないけど吉富兄妹はある意味分水嶺だったね。悟選手以前の高校記録を作った
選手はまあランナーとして大成したけど、悟選手は1500とかで活躍する微妙。それ以降
に5000で高校記録を作った後藤、工藤、巽等以降はほぼ活躍出来ていない。吉富兄妹は
高橋進と確執があったみたいで、月陸にそれと分かるようにこき下ろしていた。高橋の
方が大人気ないけど。
早熟選手の生態は、1979年の日本選手権の800で2位になった今泉愛子(旧姓石原愛子)が
現在はライターになって、詳しく書いているよ。彼女の名前と陸上をキーワードにすると
twitterとブログが引っかかる。またブログには元祖早熟娘の深尾真美や同世代の早熟娘
の瀬渡加奈子(中学生時の1979年日本選手権3000を日本新で制した)や、その他、同世代の
トップ女子選手(織田道子、横須賀久乃、中村敏子等)との交友や現在が書かれているから
必読。 全米選手権で一発選考、それも5月ぐらいだったとおもう。
雨はマラソンやるきなし。。w 今や留学生が居るので端から無理で話題にもならないけど、あの頃はIH,国体の5000と高校駅伝の
1区を制すると3冠。吉富悟はそれに加えて高校新、チームとしても駅伝優勝だから5冠。
空前絶後かもしれない。(服部誠は4冠)。 吉富純子が日本の代表的ランナーとして活躍したのは船津中3年の1年間だけと言って
良い。その意味で早熟ランナーの中でもかなり特異で、後に復活して神戸ユニバーシアード
のヒロインとなった1年先輩の深尾真美とはかなり印象が異なる。70年代の女子中学生
は、この2人に限らず、坂梨智子を先駆として藤田佐恵子、石原愛子、瀬渡加奈子等の
様に毎年のように日本選手権の中長距離で上位を占める選手が現れた。
深尾が、吹田六中3年で日本選手権2位になって周囲を驚かせた翌年(深尾が活躍した
76年は高校長距離界を吉富悟が席巻した年でもある)、悟の妹の吉富純子が彗星の様に
現れて大活躍をした。まず6月の海外派遣選考会の1500で深尾の中学記録を破る4分26秒2
で優勝し、ワールドカップではアジア代表として4分24秒8に記録を伸ばし一流選手に伍して
7位になった。また10月の日本選手権では1500は惨敗したものの、800で2分10秒5だった
と思うが中学新で優勝。鮮やかなラストスパートだった。おそらく中学選手が優勝したのは
戦後初めてではなかっただろうか。(その後も瀬渡とか佐藤恵等の限られた選手しか優勝して
いない)。また年末には太平洋沿岸五か国大会の代表に選ばれ、(おそらく)サテライトの大会で
4分21秒9まで記録を伸ばした。この記録は75年に今野美加代にマークした日本記録まで
後0秒9に迫る堂々たる記録であり、今野の記録が長く残ったのと同様、長く歴代2位の
ままであった。
そんな彼女が大牟田高校に進学後、パッとせずIHの決勝にも残れないようになるとは
信じられない事であった。幾つかの要因が考えられる。そのうちの最大のものは吉富
兄妹を指導していた父親の体調不良と死去に伴うものであろう。また高校では1500
が競技として存在しない時代で、日本選手権を取ったとは言え比較的不得手の800に
集中しないといけなかった戸惑いもあったのかもしれない。増田の登場以降であったら
また彼女の青年になった後は、大きく異なっていたかもしれない。 皆さん丁寧にご説明して頂き感謝いたします。
陸上競技誌で高橋進氏は「八幡製鉄にとって吉富兄妹は高い買い物だった」とこき下ろしていました。
吉富純子が八幡製鉄入社後、自分にあいさつしなかったからと言ってこんな酷いこと書いていいいのかと憤慨したことを思い出しました。
高校駅伝で区間新記録を達成した西村義弘氏も八幡製鉄入りを断ったため高橋氏から嫌味を言われたそうです。
かなり異常な性格な人ですね。 調べた限りでは戦後、日本選手権を取った中学生は吉富純子、瀬渡加奈子、佐藤恵の
3人のみだね。開始3年目の隙間種目だった3000の瀬渡はともかく、伝統種目の800で
勝ち、海外で2回の自己新、それもそのうち1回はその年の世界で一番大事な試合だった
ワールドカップで強豪に臆せず挑み自己新、トップと12秒しか差がなかった。この勝負
強い吉富が佐藤恵並に女子陸上界の歴史に残る大選手にならなかったのは痛恨の極み。
3年下の石原愛子(今泉愛子)のブログを見ても、ああいった早熟選手がどうやって生まれる
のかは良くわからない。石原の場合は、集中力と身体の軽さは武器だったのだろうけど
ハードな練習が出来る程丈夫ではなかったと述懐している。 高橋進は、どうも好きになれないなあ。性格が欠陥あるんじゃないか?
80年代半ば、よくマラソン解説してたけど、その後のメイン解説になった宗茂さんの
ほうが遥かにいい解説者でしたわ。 >>299
高橋進の文章で西村義弘を評した以下のものがある。
「(前略)すべてを振り切って地元の新日鉄大分製鉄所に入った。(中略)西村もおしまいだと
いうささやきがあちこちにあった。当時私は新日鉄八幡にいて、本格的に競技に取り組む
決意があるなら八幡に転勤したらどうかと声をかけた。返ってきた回答は「気ままにこちら
でやりたい」。私は公然と、ああ、あいつはこれでおしまいだと指摘した。」
論評するまでもないが、こういった文章を公刊する辺りに高橋の性格が良く現れている。 「老害」という言葉があるが、高橋氏にふさわしい気がする。 高橋進は西村が不調だった頃「お前も田舎大名になり下がったな」と皮肉った。
しかし西村は地道に練習して83年と87年の別大マラソンで優勝して高橋を見返した。
西村は地元の日本文理大学陸上部監督として後進の指導を行っている。
https://www.e-obs.com/blog/nicecatch/ichimaino_shashin/201702/20151.html どうも高橋進を良く言う人がいない。それも自分が蒔いた種だから仕方ないか。
西村は地味に頑張った。長らく高校駅伝1区の区間記録を持っていた人と記憶している。
高橋氏をぜひ反面教師にして指導者としても活躍して欲しい。 >>295
工藤・巽というのは工藤康弘、巽博和のことですね。
後藤という人は、よく知りませんが。 >>307
81年のびわこ国体の5000で後藤芳文(中津工)が14:14:1の高校新で走っています。このレースは
IH1500障害の覇者の愛敬重之(四日市工)がハイペースでリードし、後藤と大庭幸治(埼玉栄)が
着く形で進み、愛敬も14:16:6の高校新、大庭も14:19:1の好記録でゴールしています。後藤は
(未だ高橋進がいたであろう)新日鉄八幡に就職しましたが、その後は聞きません。愛敬は
3000障害で活躍し、ユニバーシアードでメダルを取り、五輪までもう少しの選手でした。
(消えた天才に出ていましたね)。大庭もどうなったか分かりません。実はこの年のNo.1は
岩佐吉章(市川)でIHの1500、5000を圧勝していますが、国体は体調不良で予選落ちでした。
岩佐は順大、日産で活躍しました。 >>308
大庭幸治という選手は専修大学で箱根駅伝を走っていますね。確か4区でした。2区が森田修一で。 岩佐は箱根駅伝3区区間賞。2年連続。4年時に総合優勝。
愛敬は有名人。1500m優勝者というところが「時代」を感じさせる。
確か84年の秋田インターハイが3000m障害元年だったと記憶している。
ひょっとして愛敬重之は瀬古利彦の高校の後輩? >>310 はい。また愛敬のお父さんは有名陸上選手(IC,実業団の3000障害の優勝と箱根区間賞は
確認できた)だったので、当時親子鷹と呼ばれていました。 高橋進は良く解説をして文章を書きまくっていたけど、内容は単純で深みはないだけでなく、
情報収集力、分析力に疑問符が付いた。彼が得意になって語っていたのはマラソン持久力
指数としてマラソンタイムを10000のタイムで割ったものを使って10000の走力が大事としていた
事。指数は4.7くらいだが、当然10000の速い人は指数が悪く、マラソンベースの持久型は
指数が良い。極言すれば彼は10000が速ければマラソンが速い、としか語っておらず、夏マラソン
というものがない様な言い方であった。
モントリオール五輪でチェルピンスキーが優勝した事は驚きをもって迎えられたが、これは
彼の情報集力のなさとその発言力に依るところが大だと見る。実際、月陸モントリオール五輪
展望号で彼は多数の有力候補を挙げており、東独でもレッセとトルッペルの2人を挙げているが、
チェルピンスキーは含まれていない。実際には高橋が挙げた二人は代表漏れでオリンピックトライアル
(5月30日)で2:12:21:2の好記録で優勝したチェルピンスキーのみが代表になっている。記憶では
この記録は76年の年が明けてから五輪までの世界5位であり、優勝すると予想するのは
難しくても、出場権すらない2人をダークホースとするくらいなら当然マークしておかない
といけない選手だった。 愛敬はカーマニアで陸上の取材中もスポーツカーの話ばかりしていたw
全国高校駅伝では両足痙攣が起きて足を引きずりながら次走者にタスキを渡した。 モントリオールは、雨の中のレースで凄く気候冷涼に
見えた。 >>714
前年のプレオリンピックは気温36℃の猛暑の中で水上則安が優勝した。
モントリオール五輪予選も水上は宇佐美に次いで2位になりメダルを期待された。
ところが当日は雨が降り気温が下がり暑さ対策をしてきたのが裏目に出てしまった。
序盤から先頭集団のスピードについていけず後半追い上げたものの21位に終わった。 75年福岡上位の宗猛、服部、浜田がモントリオール五輪に出た方が良かったと思う。 >>317
まあね。しかし6、8、10位じゃ今でも選ばれない。 浜田は76年のびわ湖毎日で4位だったのでモントリオールの次点扱い。五輪後の77年
別大でもその年最高の2:13:57で優勝し、初マラソンの鎌田他の有力選手を退けた。
77年の日本選手権10000では喜多のラストスパートに屈したものの宗猛、瀬古を退け
2位(28:27:6)に入った。瀬古以外の有力選手が集まった2月の別大では宗茂の猛烈な
ペースに戸惑い8.5kmで腹痛を起こし後退、8位にまとめたものの新旧交代を余儀なく
された。しかし浜田の真骨頂は74年の別府で後半追い風にも乗り、30から35キロを
14分台で飛ばし、日本歴代6位の2:13:04:2で制したレースで現れた。それまではスピード
がありながら後半崩れるレースを繰り返していたが、これで一皮剥けた。尤も直後の
毎日で宇佐美に格の違いを見せつけられたり、プレオリンピックは不発だったりで、
安定したと言っても、惜しいレースが多かったのも事実で、それが代表入りを惜しくも
逃す事に繋がった。しかし引退レースの84年別大でも8位2:14:49にまとめ上げる辺りは
流石と言うべきか。引退後は指導者として活躍し、京セラの監督として実業団女子駅伝
で優勝した他、荒木、市橋等の五輪選手を含めて多くの選手を育てた。 別府毎日マラソンが別大毎日マラソンに改称されたのは1976年であり、それを期に別府
ー大分の片道コースのハーフマラソンが創設された。当初はジュニア限定であり、栄えある
第一回の覇者は年末の都大路10キロを29:29で走り切った西村義弘であり、その後を大いに
嘱望された。第2回の覇者は鐘紡の松元利弘で、追い風にも乗って当時としては破格の
1:02:37で走り切った。(この時の西村は4位であった。) 松元は75年から鐘紡のレギュラー
となっていたが、その頃は力不足もあり、駅伝でしばしばブレーキになったが、76年から
は安定し、年末の実業団駅伝でも区間賞を取った。鐘紡で鎌田、伊藤を継ぐ次世代エース
と期待されたが、鐘紡を退社し、順天堂大学に進学し、4年間箱根2区の重責を担った。
マラソンでの成功も大いに期待されたが、それはならず、諫早高校監督として辣腕を振るい
名を馳せた。 なるほど。名前は知っていましたが、ここまで詳しい経歴は知りませんでした。
ありがとうデスマス。 >>320
山下佐知子も浜田の指導を受けていたんだね。
浜田は72年の国際マラソンで日本選手で唯一24キロまでショーターについていった。
75年のびわ湖マラソンでは前半クレイトンの世界最高を上回るペースで独走し自滅した。
順位結果は悪くても世界のスピードに挑む積極的な姿勢は現在の選手も見習ってほしい。 浜田選手は「自分はもう若くない、だから積極的にゆく」という心構えが印象に残っている。 昔は実業団経由の箱根駅伝ランナーが多かった。顔つき見ても凄く雰囲気が
落ち着いていて、今の大学生と隔世の感がある。 >>326
駒沢の大八木監督も小森印刷を経て入学、3年で2区区間賞を取った後、4年では年齢制限
で走れなかったね。その他、日体大の中沢栄、順大の山田和人も実業団上がりだったと思う。
箱根組ではなかったけど、箱根組より強く、ユニバーシアード代表とか世界選手権代表になった
実業団上がりに村越忍(福岡大)、川口孝志郎が居る。教員率が高いな。 ショータ―のプロフィール
https://www.hmv.co.jp/artist_フランク・ショーター_200000000140104/biography/
弁護士以外にも多くの資格を持っていたんだな こんなの
https://m.youtube.com/watch?v=NYXg3069DXI
あったよ。1982年の別大。先行する西村義弘を逆転するホッジ。
本当は79年の別大で武富に肘を入れて0秒3差で優勝する喜多秀樹の映像を探していたけど、
ないね。ああいう走路妨害は今だと失格? 昔の人の名前がバンバン出てくるけど、意外と知っていて自分でも驚き。
というよりもトシを取ったのか・・・・・・・・ 今日の設楽は最後まで持たなかったけど、勇気のある仕掛けをした事に敬意を表したい。
スタート直後からの逃げは99年東京の高橋や79年福岡の大久保の様に大抵失敗するけど、
たまに成功する場合がある。北京五輪のワンジルもスタートから仕掛けてハイペースを
演出したけど、独走にはならなかったので、除外すると以下の例ではスタートから一人で
レースをしてそのままトップでゴールしている。
1969年福岡 ドレイトン
1973年福岡 ショーター
1985年 東京 宗茂
1985年 ソウル 中山
1986年 アジア大会 中山
1990年 東京 中山
1998年 アジア大会女子 高橋
辺りを思い付く。その他にも一杯あるだろう。ペースメーカーがいるとお目にかかれない
レースなので、近年で見る機会は減っている。女子の前田の様に中盤で飛び出すと有効で、
そのまま逃げ切る可能性が高くなる。 設楽を集団が追わなさすぎ。無名選手ではない。
「この男を逃がしたらマズイ」という勝負勘は働かないのだろうか。 MGCを見て日本選手だけでオリンピック予選をしていた時代に逆戻りしたと感じた。
ケニアエチオピア選手が出場していたら設楽と先頭集団を作っていたはずだ。
終盤で追いこす消極的な戦法ではとてもオリンピックでは通用しないだろう。 設楽は10km29分52秒で、決して無謀なペースで飛ばしていたわけではない。
中山だったら当然、同じような位置にはいたし(それ以上のペースかも)
瀬古利彦や宗兄弟、谷口浩美あたりも「この選手を大駆けさせたらマズイ」というのは
分かるから、当然設楽を追う。同じような位置にいるか、少なくとも少し離れた程度の
距離で、「逃がさないぞ」という姿勢は見せる筈なのである。
なにか10年ちょっと前の箱根駅伝1区で、スタート直後から飛び出した佐藤悠基を東洋
以外誰も追わずに最初の5km16分台という信じられないスローペースで入った時の
ような失望感が漂ったが、私だけではないと思う。 モスクワ五輪が終わった直後のNYCマラソンで初マラソンのアルベルト・サラザールが
2:09:41で優勝したのは衝撃であった。翌年の2回目のNYCで2:08:13の世界新(3年後に距離不足
で公認取り消し)で圧勝し、82年には何れも僅差ながらボストンとNYCを連勝し、世界最強の
名を欲しいままにした。また当時世界トップクラスの10000を27:25:61で走るスピードと相俟って
死角はないとまで言われた絶対王者であった。実際、瀬古が東京で2:08:38で復活勝利を遂げた
際もゴメス等多くの外国人はサラザールが最強と強く主張していた。しかし、その最強説は
脆くもロッテルダムの惨敗で崩れ、福岡で完敗するに及びロス五輪前にショーターをして、
期待出来ないと言わしめる程の評価の急落を招いた。 81年にサラザールが2:8:13の世界記録を出したときも瀬古は驚いていなかった。
DNガラン10000mのラストで瀬古はサラザールに4秒以上差をつけて勝っている。
中村清監督もサラザールはクロスカントリー中心の練習でスタミナが無いと言っていた。 キャステラはロッテルダムマラソンで優勝した時「ロペスは強敵だ」と明言している。
中村監督もロペスが37歳になっても衰えない練習方法を知りたがっていた。
ロス五輪前はマスコミの下馬評が高くなかったロペスだったがプロの目は凄い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています