80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 モントリオール五輪予選では猛の方が五輪出場を期待されていた
>>196
ベアズレーは急激に力を伸ばし翌年のボストンマラソンではサラザールと僅差の2位
しかしいつの間にか消えてしまった
真偽は定かではないが犬に噛みつかれたらしい ダイナミックな茂とコンパクトな猛。茂が意外にラスト勝負が強かったのは、なりふり構わず
「うがががが!」と力で持っていく走法が火事場のクソ力を生んだんだと思う。 茂は結構「勝てる」選手なんだなあ。78別大・79びわ湖・81別大・85東京・85北京。
猛のほうは、安定感(79福岡以降)と息の長さ、五輪実績。走法でなんとか見分けがついた。 宗兄弟と喜多秀喜は同学年だが、もうひとり同学年に服部誠という天才がいた。
インターハイ5000m優勝、国体5000m優勝、高校駅伝1区区間賞の長距離3冠王。
箱根駅伝2区で12人ごぼう抜きでトップに立ち東農大の往路優勝の立役者になった。
その1ヶ月後の別大マラソンで初マラソンを走り2時間13分40秒で2位になる。
しかしモントリオール五輪最終選考会のびわ湖毎日マラソンで惨敗。
実家の牧場を継ぐため23歳の若さで引退した。
s 服部の勲章は
1.高校4冠(IH,国体、駅伝1区に加えて相原も駅伝優勝)
2.箱根2区2年連続区間賞、区間新(瀬古に更新されるまで保持)
3.伝説の12人抜き(15校出場では遂に抜かれる事のなかった記録)
4.学生にして熊日30km, 中日スピード30kmを制覇
5.途中脚が吊って屈伸しても優勝(中日スピード30km)
6.初マラソン日本最高(74年別府2位2時間13分40秒。多分日本歴代12位)
7.75年福岡で8位(2時間13分13秒)で日本歴代9位にランクイン
くらいかな。
76年春のニュージーランド合宿の最終日のマラソンでは15分台でゴールして
13分台でゴールした宗兄弟に続いたけど、高橋進や陸連幹部の評価は何故か
あまり高くなかった。服部自身も過度の走り込みで体調を崩したとか。それで
期待された最終選考会のびわ湖毎日で不発で、そのまま引退して服部牧場を
継ぐ。勿体ないというかスパッとした辞め方でした。 横浜線の相原駅は東京都町田市にある。ややこしい。法政大学多摩キャンパスは、
ここからバスが出ている。 服部誠の最後の試合になった76年びわ湖毎日マラソンが伊藤国光の初マラソン
伊藤は体調が悪かったので完走を目標に走っていたら服部が歩いているのを見つけた
伊藤「どうしました?一緒に走りましょう」
服部「いいんだ 先に行ってくれ」
オリンピックに出場できるのは3位まで
4位はビリと同じなのだと伊藤は思った この大会の4位は浜田安則
39歳まで現役を続け引退後も指導者として山下佐知子・荒木久美・市橋有里らを育てた >>208
これ、本当?
あのレースでの伊藤の体調は知らんけど、途中まで3位辺りで一発の期待をされたけど、
後でグダグダになった試合。服部は早々に脱落していた。という事なのでこういう会話が
あったとしても伊藤の方が落ちて来て服部が抜く時。初マラソンの伊藤は何だかんだ言って完走した
筈(Wikipediaはグダグダで出鱈目だけど、確か2:31:05で46位)。服部は完走しなかった
ような記憶がある。
伊藤は既に75年の熊日30kmで当時の日本記録を更新し、駅伝で猛威を奮っていたので
初マラソンの76年毎日で期待されていたが、やはりニュージーランド合宿でも若手枠という
事で最終日のマラソンを30kmで打ち切った様にマラソンを走り切るスタミナが未だなかった。 >>209
宗猛は最初から体調不良で欠場かと懸念された。結局、出たけど、実況の最初の段階で
体調不良で駄目だと紹介され、最初から見せ場もなく38位。年末に日本歴代6位で走り、
ニュージーランド合宿でも好調だったので期待されていたが、肝心の選考レースでの
調整を失敗した。 >>211
80年代後半の陸マガか月陸に伊藤国光選手が過去を回想するシリーズがありました
雑誌は廃棄処分しましたので微かな記憶を頼りに書いていますのでご了承ください
選手の個人記録についてはマラソン資料館というホームページが信頼できると思います
服部誠選手の記録は2時間37分53秒で65位となっています 87年に箱根駅伝が本格的に放送を開始したが、その時のゲストが服部誠氏 カネボウというとオレンジのユニフォームのイメージがあったな。 瀬古が仮に中央大学に進学したら、石井隆士の後継者になり中距離が盛り上がったろうか。 中距離でも日本トップ級になれたが世界基準では通用しなかっただろう。
やはりマラソンでこその「世界の瀬古」 学生歴代10傑(日本人学生のみ)
http://home.384.jp/rokurouman/gakuseirekidai.html
1500mの石井隆士の記録3分38秒4が43年後の現在でも1位なのが凄い
石井が高校3年インターハイ800mで優勝した時の3位が1年生の瀬古 石井は箱根駅伝にも出場し4年生の時1区で2位以下に大差をつけて区間賞を獲得した
織田幹雄は石井にも瀬古のようにマラソン転向を勧めたが実現しなかったと書いている >>222
石井は色々と運がなかった。76年に現在も残る学生記録を出したのはモントリオール五輪
の代表が決まった後だった。1年大学に残ってワールドカップで日本記録を更新してから、
母校の秦野高校の教諭になったが、やはり高度な練習の持続は難しく、伸び悩んだ。そうこう
しているうちに五輪ボイコットがあった。ロス五輪前の83年末に中村清門下に入って5000の
代表入りを狙ったが、届かず代表入りの夢は叶わなかった。箱根の1区で区間新を作った
スタミナは5000を走り切るのに十分ではなかった。 >>223
しかしアンカーの1年の伊藤哲二がブレーキになり肝を冷やした。 伊藤哲二は昭和54年もブレーキやったった。区間12位。この年の日体大は「取りこぼし」 石井が独走し、伊藤がアンカーでもたついた1977年は日体大の4年ぶりの優勝であった。
しかしその功績者であった筈の野呂進コーチが年度末に退任し、4月から専修大の
コーチになって後に監督になって定年まで勤めあげる。
https://core.ac.uk/download/pdf/71799909.pdf
は興味深い。野呂氏が日体大に残っていたら新宅・中村の就職問題に端を発した
岡野監督を巡る日体大の混乱もなかったかもしれない。 新宅&中村コンビは日体大と絶縁したと言うことだろうか。 中村監督一派に取り込まれて恐らく早稲田サイドの人間と思われ 大久保こそ元祖?山の神だけど、大成出来なかった。山登りの走り方は無理があるのか、
山登りの名人と呼ばれた選手で大成したのは居ないと思う。今井がこれまでで最も
成功した例か。
大久保は全日本大学駅伝でも活躍したが、彼が3年の時の第6回大会では天才服部誠
と最長4区(前半の最終区間。当時はそこで一旦ゴールして5区以降の後半は別のレース
として行い合算して順位を出していた)で対決。4区で東農大の服部は6秒差で先頭を行く、
大東文化大の大久保を4kmでとらえ、デッドヒート。35秒差をつけて逆転ゴールした。
従って服部の方が格上だった。 大久保初男は駅伝こそ、もっとも能力を発揮出来た。
先手必勝。小細工なしに序盤からガンガン攻める。
箱根駅伝の4年連続山登り区間賞が印象深いが、青東駅伝で最下位から全員抜いて
首位でタスキリレーしたことでも知られている。本人は同学年の伊藤国光君を目標に
してきました、とコメントしている。
のちの山登りの選手では柏原竜二が、がむしゃらに走る走法という点において、
大久保初男ともっともタイプが近いと思う。 入賞0に終わったモントリオール五輪で現在の制度なら入賞相当の選手が二人いた
棒高跳びの高根沢威夫は降雨にも拘らず5m40を3回目に成功して8位
もう一人は男子10000m決勝7位の鎌田俊明
二人とも後に不祥事を起こして陸上界から姿を消したのが悲しい
あれからどうしているのだろう 佐藤市雄、北山義信、大槻ケンジらに期待してたときにくらべて、宗兄弟、瀬古がでてきたときにはホント期待したね。
西側はボイコットしたけど、コーや御別途は参加してた。。
マラソン陣営、柔道の山下、レスリングの高田は出してやりたかったね。 長距離選手は歯がきたなく虫歯の人が多くてげんなりした思いがある。。
ある五輪代表の女子選手も歯がきたなく、そのコーチも現役時代歯が汚かった。 >>239
大槻ケンジw
大槻憲一は72年福岡3位73年5位
77年の福岡で当時最強のロジャースに一人で付いた小柄の阪本峰照も印象に残る >>242
競技場前でマラソン2回目の瀬古に抜かれ全体の6位でゴール
>>243
78年のバンコクアジア大会に出場し北朝鮮2選手を破って金メダルを獲得
しかし猛暑の中で激走した疲れから不振が続きモスクワ五輪選考会は91位と惨敗
81年東京マラソンに出場し2時間13分22秒の自己ベストで5位(日本選手1位) 10000のスピードから喜多選手のほうが宗兄弟より期待してたのですが、マラソンとは違うのですね。
新宅選手が初マラソンの時、宗茂がついてこれるなら来てみろとばかりに飛ばしていった記憶があります。
時系列は無茶苦茶ですが、松尾正雄選手、浦川選手、吉沢洋選手、佐藤進選手、世利選手なども印象に残っていますね。 >>238
Wikipediaからの情報だと思うけど鎌田の7位は間違い。正確には予選3組7位(予選通過は
各組4位迄とプラス3人)。鎌田はキックがないので福士に似て最後で置いていかれる
タイプだった。 モントリオールオリンピックのマラソンでインドのシンという選手が上位を走っていた。
アントニオ猪木と戦っていた悪役プロレスラーと同じ名前で顔つきも似ていた。 https://m.youtube.com/watch?v=bB0pBGGfeUA
に結構まとまった動画があるね。これを見るとチェルピンスキーは1周間違えて余計に走って
いる。ショーターが後からゴールした選手に握手を差し伸べたのは覚えていたけど4位のガードング
だとばかり思っていた。それがチェルピンスキーとは。。テレビで見た時は地元のドレイトンを
良く映していたけど、この映像ではそれほどでもない。ドレイトンに僅かに及ばなかった
モセイエフとか、中盤健闘したシンとか、序盤トップで途中止まって屈伸していたロジャースとか
いつのまにか3位に上がったリスモンとか見所が多い。 >>250
ショーターが負けたのを初めて見た時だった。
モントリオールオリンピック以降急速に衰えて日本でマラソンをを走らなくなった。
ワードローのライオン顔は覚えている。
78年の福岡で瀬古喜多と並走してトップの宗茂を追っていた。 ショーターはモントリオールまで。それ以後はロジャースがアメリカの顔。
しかし、インドのシン11位というのも驚き。以後、インドとマラソンが全く結びつかない
のだが。 ショーターのwikipediaも間違っているね。オリンピックトライアルは72年も76年も勝っている。
どうしてこういうミスがまかり通るのか。オリンピックトライアルでは8秒遅れの2位だった
ロジャースはモントリオール五輪当時4人しかいないサブテン記録保持者(歴代4位かつ出場
者の中ではトップ)でショーターの有力な対抗馬だったけど、結果は40位。しかし五輪後3ヶ月弱
のNYCマラソンでショーターに3分以上の差をつけて2:10:10の好記録で圧勝。覇者の交代を
印象付けた。このれーすは村上龍の小説にも取り上げられている。
モントリオールのもう一人の対抗馬と目されたドレイトンもユニークな経歴持つ選手。
そもそもこの名前は電話帳から選んだ名前で本名はピーター・ビニュアックという
ウクライナ系のドイツ生まれの人で1958年にカナダに移住して、メキシコ五輪には
本名で出場している。69年は彼にとって飛躍の年で10月にデトロイトのmotor city
マラソンで世界歴代5位タイの2:12:00で優勝。このマラソンが余りにも福岡に近過ぎた
のか2ヶ月後の福岡の招待選手に選ばれず、自費参加。小雨の中、前半からリードして
世界歴代3位の2:11:12:8で優勝。しかし、その後、英連邦大会を棄権する等パットせず、
ミュンヘン五輪にも(多分)不出場。その彼が復活を印象付けたのが75年の福岡で雨の中、
チェトルとの二転三転するデッドヒートを制し、歴代5位の2:10:08:4を記録した。因みに
このレースでロジャースは3位。五輪本番では地元という事もあってロジャースと共に
ショーターの有力な対抗馬だった上に、小雨模様とドレイトンにうってつけの気候だったが
6位という不完全燃焼の結果だった。しかし、その後、福岡とボストンを連続して勝つなど
安定した成績を残した。 チェトルと言えば当時2時間2分台の世界記録を出して大騒ぎなった。
自動車のメーターで距離を測定していたので正式な方法で再測定したら2km以上も距離不足だった。
79年福岡に出場したコウシスも大会前2時間6分台を記録して注目されたが14位に終わった。 >>255
73年の毎日マラソンでショーターと一緒に来日した選手だね。
佐々木精一郎も前半は健闘していたのだが… >>254 Auckland, Choysa Marathon, Nov. 13, 1977だね。チェトルの記録は
2:02:24で11位が往年の名選手ファリントンで2:08:16(確か2位はファバだった
と思うが確認出来ない)で世界記録を大量に上回ったから再計測になった。
マラソンの距離計測は屡々不正確で81年NYCも後で距離不足で取り消しになって
いるし83年迄の東京はほぼ確実に距離が長過ぎた。更に80年代の北京はおそらく距離不足。
最近でも2015年のさいたま国際は誘導の失敗で距離不足、2015年3月の横浜マラソンも
距離不足と、日本でも全く信頼おけない。外国はかなりいい加減だと思って良いだろう。
驚くべきは77年の2分台よりもキプチョゲの記録が上であること。別次元の競技になって
いる。特にチェレンジ2の2:00:25は5キロ平均14:16でハーフ1:00:12だから、宗兄弟みたい
な双子でインチキリレーをしても敵わない。 中山2度目のマラソンとなった84ソウルでは先導者がコースを間違えるミス
があった。 北京は記録自体は公認されたが、距離表示にズレが生じているのはハッキリしている。
児玉泰介が当時の日本記録で走っている86北京では35kmから40kっまでが16分台
なのに、ラストの2.195kmが6分26秒(5km換算14分台)でカバー。
普通、大きくペースダウンしたのが、また大きくペースアップする展開は、ほぼあり得ない。
そこから距離不足を疑ってしまった。
中国のいい加減なところは、35kmは、だいたいこの辺だった、と大雑把にマーキングする
ところに現れている。私がマラソン・ランナーだったら、こんないい加減なマラソン大会に
絶対に参加しない。自らの適当さで、大会の権威を落としていることに主催者は気がついて
欲しいのである。 瀬古利彦は、意外に「持ってない男」なのかも。
・高校時代、役員の先導ミスで1周少なく競技場の外に出るハプニング
・モスクワ五輪、日本ボイコット
・83年東京国際、幻の世界最高記録(距離が長いと思われる)
自分の意思では、どうにも出来ないことばかりであり、不運としか言いようがない。
特にモスクワのボイコットは、日本に何の得ももたらさなかったことは強調しておきたい。 64年東京オリンピックは幼かったので見た記憶はないが君原寺沢が福岡を走ったことを覚えている。 そもそもうまれてないっす。
60歳くらいっすか、、 君原は朝日国際の時代には朝日マラソンを走っていたが66年にIAAFの肝入りで国際
マラソンになってからは中々福岡を走る機会がなかった。その理由は66年、70年が
アジア大会に参加、67年にはプレオリンピックに参加、68年はメキシコ五輪から間がない
から等の理由だろう(69年の不参加は理由不明)。そのせいか招待選手に選ばれず、
ますます走る機会を失った。
初めて走ったのはショーターが初来日、初優勝を果たした71年で、この年(びわ湖)
毎日で自己最低の13位だった君原は不調で11位と70年までの最低順位の8位を下回って
見せ場もなかった。翌72年はミュンヘン5位の実績で多分招待されて、淡々と後方で
レースを進め5位(日本人2位)に入った。表向き、君原は翌73年に別府を優勝し、
アテネで引退という事になっているが、その後も走り続け、地元の福岡では活躍した。
実際、76年から78年にかけての福岡の順位は15,17,16と安定しており、特に78年には
五輪候補の鎌田に先着し、宗猛の次いで2時間17分07秒でゴールした。 バンコクアジア大会のマラソンで2連覇した君原は後のオリンピックで銀メダルと5位入賞した。
暑さに強い選手は大試合でも強いという見本を示してくれたと思う。 ショーターが主催者の応援旗を走りながら集めていたのはびっくりした。。 >>260
瀬古あるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・瀬古と言えばラストのキックの印象が強いが、意外と新宅、金井にはラストで競い負ける
場面が多かった。単純にキックだけの比較だと2人に及ばない。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではるある。
・何故か日本選手権を取っていない。アジア大会も無冠。選手権と名の付くもので優勝
したのは79年のアジア選手権のみか。
・過集中のせいか、連戦が効かない。例えば80年でDNガランで日本新を作った後の試合
ではバイニオと伊藤国光に大きく離され平凡なタイムで3位。
・時折、信じられない負け方。未だに謎なのは高3の高校駅伝1区でまさかの区間4位。
区間賞の小山英士から32秒も離される完敗。86年アジア大会10000も調整不足とは言え、腹痛
で歩いてトップから1分差の3位も事情を知らない人には衝撃だった。勿論、ロス五輪も。
・同時代のセブ・コーが貴族院議員になったり、ロンドン五輪組織委員長、IAAF会長を
歴任したのに、瀬古の実務能力のなさでそういった要職経験はない。JOC会長だって1年下の
山下。瀬古に声はかからない。
・もちろん、瀬古の珍解説は増田よりましとは言え、ワースト2.本当に競技経験者と
思いたくなる。 78年のアジア大会は開催地が二転三転したうえイスラエル参加問題で大きく揺れた。
結局イスラエルを排除して行われたが国際陸連は出場国を国際試合出場停止処分にした。
旧式のセックスチェックが行われ女子は恥ずかしくて泣いていたと新聞に書いてあった。
82年のアジア大会はニューデリーで行われダイジェストながら競技映像が見られた。
マラソンは阿部文明が銀メダルを獲得。野犬が選手を追いかけている場面もあった。 阿部文明。何十年ぶりかで、その名前を聞いた。
記憶に間違えなければ、87年びわ湖毎日マラソン優勝者。81年箱根駅伝2区区間賞。
駒澤大学だったと思う。 >>263
あなたの言う通り還暦の爺さんですw
記憶に残っている最初に見たテレビのマラソンは67年の別大毎日マラソンでした。
終盤まで二人が並走していて一人がスポンジを取りに行った瞬間スパートして優勝。
ずっと後になってから優勝は君原健二で2位が佐々木精一郎だとわかりました。 >>272
世界歴代3位と4位の大勝負ですね。21歳の若武者、佐々木のメジャーデビュー戦。 佐々木は若手のスピードランナーとして期待が大きかったが腹痛に悩まされたようだ。
メキシコオリンピックは君原が銀メダルに対して佐々木は途中棄権。
その後も走り続けたが復活できなかった。 佐々木精一郎のベストレースは世界記録を上回る記録でゴールした1967年の福岡国際
マラソン。IAAFの肝入りでマラソンの世界選手権と位置付けられてから2回目であり、
当時は第2回国際マラソンと呼ばれていた。そのレースの詳細はIAAFのページにもあるが
http://www.coara.or.jp/~hinoue/World/Fukuoka/1968_Fukuoka.html
の方がより詳しく分かりやすい。一言で言えば先行するクレイトンに猛烈な勢いで
追い付いた佐々木が5キロにわたる並走の後、34キロで後退せざるを得なかったのも
彼の弱点であった腹痛が起きたためであった。 別大マラソン(当時の別府マラソン)は68年まではテレビ放送されていた。
その後はNHKのラジオ放送になり79年以降ТBS系列でテレビ放送が復活した。 佐々木は翌68年2月の別府毎日も2:13:23の大会新で圧勝。世界歴代6位相当の好記録
であり、選考指定レース3つのうち2つを日本人1位かつ日本記録を更新して文句なく
メキシコ代表の資格を満たし、最終選考会の毎日マラソンを欠場した。一方で、急浮上
してきたのが采谷義秋で、年末の国際マラソンで6位(2時間14分49秒6,佐々木、4位の
蓬原正嗣2:14:40に次いで日本人3位)、別府毎日ではアジア大会チャンピオンで前回の
覇者勝つ東京代表の君原を40キロ付近で交わして2位(2時間15分22秒)、最終選考会の
毎日マラソンでも君原(2:14:46)を凌ぎ2:14:24で2位と安定した成績を残しながら
選考委員会は佐々木精一郎、宇佐美彰朗、君原健二の3人が正選手、采谷は補欠とした。
しかし陸連理事会はこれを承認せず、「4人とも同格の代表で、正補欠は7月の富士山合宿
のレースで決める」と決定。その後、また方針がぶれて「エントリー締め切り日(競技3日前)
にもっとも調子のいい選手を出す」と方針を変更。結局、コーチの高橋進の発言力と、
68年6月のウィンザーマラソン優勝を含めた外国レースでの実績、7月のメキシコ遠征中に
あった30キロと5000メートルマラソンで、それぞれ5位、9位と成績が振るわず、高地の順応性
が低いとの判断で、7月24日、采谷を補欠とする最終決定を発表した。
結果としては、最終的に救われた君原が銀メダルに輝いたので、成績だけを見ると
最終判断は正しかったと言えるが、選考の公正性は全くなく、禍根を残した。 >>278
この時の結果オーライが後々までオリンピック代表選考に悪影響を及ぼす。 瀬古利彦に一万で勝ったことのある森口達也を唐突に思い出した。息子が高校駅伝で7区区間記録保持者。 >>281
森口は瀬古と同期で、高校時代はIHにも出ていない。神戸製鋼に就職して、徐々に頭角を
表し、転機となったのはトラックでもトップクラスで初マラソン日本最高記録(75年別府、
2:13:10)を持っていた小沢欽一を練習で破った事と述懐していた。それを機に森口は
トップクラスになり、反対に小沢は一線から退いた形になった。彼が不運だったのは折角
代表に選ばれたのにモスクワ五輪がボイコットだったこと。翌年に5000の日本歴代2位
の13:26:55を記録したが、その後が続かずロス五輪代表には届かなかった。ラストの切れ味
のあるランナーだったと思う。 前日、瀬古利彦が2万で日本新を出しているけど、間違いなく、その疲れはあったと思う。 >>238
鎌田が出たモントリオール五輪の10000予選の動画
https://m.youtube.com/watch?v=kgjFguD7DgY
17分辺りから。ちょっと位置取りが後ろ過ぎて集団がバラける時に対応出来なかったね。
この映像は初めて観た。 ゼッケン72番の謎の男。
ショーターは若かりし頃はヒゲだったんだなあ。 >>288
初来日の71年福岡から五輪、歴代3位の福岡を経て、途中大便をして優勝して優勝した73年
びわ湖毎日までひげがあったから、寧ろ73年福岡でひげなしのショーターを見た時に違和感しか
なかった。 >>287
(ロス五輪マラソン前なので)インタビューが面白いね。彼の見立てではサラザール等
アメリカ勢は厳しく、優勝候補は瀬古とド・キャステラだけど瀬古推し。またダークホース
としてカルロス・ロペスを挙げている。まあ妥当か。 >>290
ショーターとロジャースは瀬古を高く評価している。
ショーターは瀬古がロス五輪ゴール直後に慰労している。 スティーブ・ジョーンズとド・キャステラの瀬古への評価もまた高い。 83ボストン優勝者・グレッグ・メイヤーも瀬古氏を高評価 もう一つ懐古スレが盛況なのにこちら過疎ですね。
少し話題を広げてみたいと思います。
大牟田の吉富兄妹のことを詳しく知っている人はいませんか?
他にも早熟だった選手がいたら教えてください。 詳しくはないけど吉富兄妹はある意味分水嶺だったね。悟選手以前の高校記録を作った
選手はまあランナーとして大成したけど、悟選手は1500とかで活躍する微妙。それ以降
に5000で高校記録を作った後藤、工藤、巽等以降はほぼ活躍出来ていない。吉富兄妹は
高橋進と確執があったみたいで、月陸にそれと分かるようにこき下ろしていた。高橋の
方が大人気ないけど。
早熟選手の生態は、1979年の日本選手権の800で2位になった今泉愛子(旧姓石原愛子)が
現在はライターになって、詳しく書いているよ。彼女の名前と陸上をキーワードにすると
twitterとブログが引っかかる。またブログには元祖早熟娘の深尾真美や同世代の早熟娘
の瀬渡加奈子(中学生時の1979年日本選手権3000を日本新で制した)や、その他、同世代の
トップ女子選手(織田道子、横須賀久乃、中村敏子等)との交友や現在が書かれているから
必読。 全米選手権で一発選考、それも5月ぐらいだったとおもう。
雨はマラソンやるきなし。。w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています