80年モスクワ五輪マラソン◆日本幻の上位進出◆
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78年あたりから10数年間、日本は間違いなく世界でもトップクラスの
水準を誇っていた。残念でならないのが80年のモスクワ五輪の不参加。
瀬古利彦&宗兄弟という強力布陣で、大きな故障とも無縁だった当時、
仮に参加していたら3人とも入賞を果たしていたような気もする。 モントリオール五輪以降、世界を引っ張ったのは米国のビル・ロジャース。 資本主義国はモスクワオリンピックボイコットしたな。 資本主義国はモスクワオリンピックボイコットした理由は共産主義国が有るからだ。 メダリストはチェルピンスキー・ネイブール・ジュマナザロフという面々だった。 モスクワオリンピックは各共産主義国が参加してたからな。 3位から5位までがソ連の選手。一番期待のモセーエフが5位でソ連勢の中では
最後方になってしまった。勿論悪い順位ではないが。
ジュマナザロフは前年の福岡で11位。日本勢のほうが正直格上の印象は否めず
メダルの一角に届いたのは間違いなかっただろう。 日本は日米同盟だからな。アメリカとソビエトは冷戦だったからな。 オリンピックは平和の祭典で国家紛争は全く関係ないから出てよかったのに。
出ると言って拒否されればそれこそソ連がオリンピック委員会から追放される 東欧は共産主義国だったからな。ルーマニアとブルガリアとハンガリーとチェコスロバキアと東ドイツとユーゴスラビアだな。 セバスチャンコーのようにどさくさまぎれに出ておけばな。 モスクワオリンピックは幻となったな。日本は幻の代表だな。 79年時点ではロジャース、瀬古、モセーエフ、宗茂、米国勢数名、宗猛。
やや後方にバーニー・フォード、チェルピンスキー、チェ・チャンソプ、
展開次第ではラッセ・ビレン。あとエチオピア勢。
ネイブールは80年に突如出てきた選手。 ヨーロッパは西側なら資本主義だったな。東側は共産主義だったな。 79年の福岡国際マラソンの動画を血眼で探しています。 モスクワオリンピックはアメリカが出てなかったよな? チェルピンスキーは瀬古の次にゴールしてただろうね
アメリカも当時はロス五輪が決まった事もあってマラソンブームだったからな
メダル独占はできなかったんじゃないか?
いまだにジュニア世界記録のチャパの9分台とか盛況だった 当時のソ連東ドイツなど東欧諸国がドーピングしていたことはもはや常識 瀬古が優勝した可能性高いが
チェルピンスキーはドーピングやってたくさいんだよね
国家ぐるみでドーピングやってたソ連に勝てたかどうかはわからないな
単純な実力なら瀬古で間違いないだろうけど チェルピンスキーは五輪以外ならば2時間16分程度にとどまるレースが多かった。
快走したのは2度の五輪以外では83年の世界選手権(ヘルシンキ)と、
日本人4人に負けているが2時間10分台でゴールした80年の福岡国際。 サラザールとかキャステラはまだいなかったんだっけ?
ショーターは衰えてた?
西側の選手にメダル独占阻まれたんじゃないか?
それとソ連のモイセーエフが当時の東側で一番強かったと思う >>48
キャステラはモスクワオリンピックに出場したが10位
同年の福岡では8位とまだそれほど強くなかった
翌年の福岡(瀬古欠場)で2時間8分18秒の実質当時の世界最高記録で優勝する
その後はロッテルダムでサラザールを破り優勝ヘルシンキ世界陸上も制覇した
ショーターは既にビジネス優先で河口湖30キロでは若手の大塚正美らに完敗した サラザールは80年のニューヨークが初マラソン。
ケニア勢がまだマラソンに本格参戦していない時代。
モスクワは片肺五輪だったのでエチオピア勢もチャンスだったがネディの7位が最高。 で、日本勢がモスクワ五輪出てたらどんなもんだった?
瀬古 金
宗茂 銅
宗猛 4位
くらいでどう? オランダのネイブールが銀メダル
翌年の青梅マラソンに招待出場したがオープン出場した瀬古に3分も離されてゴールした 織田幹雄氏によれば、瀬古は金、宗兄弟のどちらかもメダルに届いていた。
残る一人も6位以内には入っていた、と予想。
多少、身びいきもあるかも知れないが、6位以内3人全員入賞(当時は6位
までが入賞)という箇所は、同感。 アフリカ勢という言葉が日本の国内マラソンで言われ始めたのは
83年くらいからかな
イカンガーバルチャネディは毎回見掛けた気がする
ロス五輪時はケニアは入賞したヌザウ以外はこれといった選手はいなかったけど
第一回W杯マラソンで先頭集団がアフリカ勢+中山状態になったのは驚いた記憶がある 瀬古の師匠中村清監督はケニアからの練習生ワキウリを見てこう言った
「この男にマラソンを教えたら日本選手は誰も勝てなくなる」
無名だったワキウリはローマ世界陸上で金ソウル五輪で銀を獲得しケニア人留学生の礎を築いた ジブチという国が存在することをマラソンで知った。アーメド・サラとロブレ・ジャマ。
特にアーメド・サラの功績は大きい。
実際は85年あたりにメジャーになったので、いささか、このスレッドの趣旨とは
ずれているかも知れないが。 タンザニア・・・・・・・イカンガー、シャハンガ、マソング
エチオピア・・・・・・・バルチャ、ネディ
ジブチ・・・・・・・・・・・サラ、ロブレ 79年の福岡国際は競技場内まで日本人3選手によるデッドヒートとなったマラソン史上
屈指の名勝負。この陰で、チェルピンスキーは競技場まで帰ってきながら、残り一周と
いうところで途中棄権。思うよな一投が出来なかった投てき選手が自ら足を踏み出して
「記録なし」にすることがあるが、それに似たケースかも知れない。 喜多秀喜もモスクワのチャンスだった。78年福岡2位。79年は別大で優勝。
ところが暮れの福岡で轟沈。
81年は東京(読売グループ主催のほう)で勝った後、ボストンで惨敗。
84年は北京で優勝した直後の福岡で沈没。
好不調の波が激しかったのが難点。但し、競り合いには滅法強かった。 喜多は同じ神戸製鋼の武富とライバル同士だった
79年の別大マラソンでは1位2位独占
武富はスピードが無い弱点を猛練習で補った
しかし武富もオリンピック出場の夢は果たせなかった
引退後は天満屋の監督になり4大会連続女子マラソン五輪出場の偉業を実現した ヒゲの鎌田も確か70年代後半の人。
同じカネボウの伊藤国光は80年の福岡が出世レースか。
いずれにしても、この時代は「夢」があった。
武富豊は選手・武富としても、なかなかのものだが、指導者・武富として、さらに光った。 旭化成宗兄弟の先輩が佐藤進
粘り強い走りで78年と79年の毎日マラソンで上位入賞した
翌年現役を引退しダイエーの監督に就任し無名だった中山竹通を一流選手に育てた
ダイエー廃部後スズキ陸上部監督に就任したが2003年54歳の若さで亡くなった
しかし最近になって恐ろしいことを知ってしまった
https://twitter.com/masahiro2010/status/1108149056268689408
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 佐藤と言えば「ヒゲの佐藤」こと佐藤市雄もいた。
ダイエーで言えば88神戸インターハイ5000m高校チャンピオンの熊谷勝仁が
中山のポジションに到達してくれるのでは、と楽しみにしていたのだが。 ダイエーは道浦も素質がある選手だったな
ダイエーが廃部になって住金化工に移る際に1年間広島県を拠点に活動してた時に
中国駅伝に地域対抗の部で参加して物議をかもした
この時1区を走って区間最下位の大ブレーキでスリリングな展開を演出した 道浦と言えば、3000m障害の高校チャンピオン?
確か和歌山北でしたか
90年の全国高校駅伝1区3位。記憶が曖昧ですが・・・・・ 当時の学生長距離界は日体大が全盛期だった
大塚正美の勝負強さはポスト瀬古と言われた
週刊誌で大塚が日体大の監督を批判していた 岡野監督。大松博文の甥。日体大の箱根駅伝優勝の10回のうち8回をこの人が
指揮しているが、名将と言う声は聞こえてこなかった。
「岡野が監督でなければ、あと2回は勝てた」の声までも。
昭和54年と57年の話か。
のちに亜細亜大学の監督に就任した大塚氏だが後任として就任した岡田氏に
「前監督は、ちゃんと引継ぎをやってくれなかった」と評された。 イケメン大塚氏は谷口浩美と同期。将来を嘱望されたのは大塚のほうだった。
瀬古・宗兄弟から中山・谷口・森下へと至る約15年間がニッポン男子マラソン
の黄金期。残念ながら、きょうびのマラソンに当時のような夢を見ることは
出来ない。 83年のMVPは悩ましい。大塚か、5区の岡か、6区の谷口か。。。。。 >>77
大塚は合宿所を抜けて一人で練習し週刊誌で岡野監督のパワハラを批判した
一時は箱根駅伝のメンバーからも外されたが部員たちが団結し逆に岡野監督を追放し集団指導体制を確立した
皮肉な意味で前監督の岡野氏がMVPだと思う モスト バイオレンス プレイヤー
M V P
岡野氏。当時まだ42歳くらい。
その数年前、新宅&中村孝生の件で揉め、二人は日体大に研究生として残らず
中村清監督&瀬古利彦のところへ走る。 今思うと昭和58年あたりが男子マラソンにとっては、一番いい時期だったような。
瀬古利彦が最も勢い盛んだったのは、この年だろう。 昭和五十五年だったからな。韓国光州デモ事件が有ったからな。 昭和55年の箱根駅伝MVPは誰が何と言おうが瀬古利彦。
裏のMVPが4区で流れを変えた中村孝生。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています