もののけ姫 7 [無断転載禁止]©2ch.net
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宮崎駿の考えたタイトルは「アシタカせっ記」だったそうだ
しかし周りに反対されて「もののけ姫」というタイトルになったそうだ
「アシタカせっ記」のほうが良いタイトルだと思った
あの映画の主人公はどう見てもアシタカだし >>641
パヤオはアシタカせっ記で決めてたのに鈴木Pが勝手にもののけ姫で発表したんだっけ
よくキレなかったよなw せっ記はどうかなあ…
ありきたりで、印象に残らない
かといってもののけ姫ってのもなあ 「せっ記」って言葉は宮崎駿が考えた造語
普通の人は「せっ記」って何?と思うはずだから印象に残ると思う せっに当たる漢字も創作だから変換出来ないし宣伝にも使いにくいし
もののけ姫では無くてもいいけどアシタカせっ記を却下したこと自体は正解だと思うぞ >>644
造語なのは知ってるけど、意味はありきたりでしょ
日本人は知的なので、そういう意味なのだと知れば、そのありきたりなタイトルに平凡なものを感じると思うよ 白雪姫やシンデレラみたいでインパクトあると思うけどな
タイトルがもののけ姫だからこそモロの血を吐いてるシーンがやっと出てきたって感じで強烈に印象に残る
英語版のprincessはなんか違う気がするけど 「宮崎駿の考えたこと」を勉強しないと楽しめない作品
それが一昔前の考え方だから世間の人にはなじめず、過去のものになっちゃうな 「【『もののけ姫』の読み方 1 】 エボシ御前は 女・毛沢東?」
エボシ御前の一番最初の登場シーンは、米の買い付けキャラバンから、タタラ場の牛飼いたちと一緒に帰って来る場面です。
この “牛飼い” というのは、当時の「士農工商エタ非人」という身分制度の中で、一番下だと言われていた “非人” と呼ばれた人々が就いていた職業なんです。
……まあ、この「士農工商〜」という身分の分類は「実際は、明治になってからの創作だ」というふうに、最近では言われてるんですけど。
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牛飼い達が牛を引っ張って、その上に米俵を乗せて、米を運んでいます。
考えてみれば、かなり裕福な村ですよね。
村人全員が米を食ってる村というのは、実は、なかなかすごいんですけど。
この最中に、キャラバンは山犬達の襲撃を受けるんですね。
その結果、戦闘が起こり、山犬の親分のモロはエボシから石火矢の攻撃を受けて手傷を負って、崖の下に落ちて行く。
この時に、自分たちの仲間、子分も、牛も、牛飼い達も、ずいぶん沢山、崖の下に落ちて行ったんですね。
それに対して、ゴンザという、いつもエボシの横にいる側近が「谷に落ちた者はどうします?」と聞くんですよ。
このゴンザというのは、エボシ御前が倭寇の妻だった頃からついてきている部下らしいんですけども。
でも、エボシはわざとその言葉を無視して「すぐに出発しよう。隊列を組み直せ!」と全員に号令を掛けるんですよね。
谷に落ちた者は、まだ生きているかもしれないのに。
どういう事かというと、治る見込みのない、言っちゃえば、身体障害者になっているかもしれない者たちを養う余裕は、タタラ場には無いんです。
だから、躊躇なく見殺しにするわけですね。
そして、エボシ本人は、こういった冷徹な人間であることが他のみんなにバレないように、かなり気を使っています。
だから、崖の下に落ちたコウロクという牛飼いが、アシタカに助けられて村に帰って来た時には「コウロク、すまなかったな」と、つまらない牛飼いの下っ端一人一人の名前を覚えているかのように、大袈裟に謝ったりするんですね。
だけど、ここでは謝っているように見えても、たぶん、この人は、また同じ状況になれば、平気で彼を見捨てると思うんですよね。 さらには、アニメとしてのクライマックスである “シシ狩り” のシーンで、彼女は地雷が仕掛けられた場所にイノシシ達をおびき寄せて、ドーンと吹き飛ばすようなことをしています。
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これは、その様子を見下ろしているエボシとゴンザです。
両者とも、目線が見えないように帽子で顔の上半分を隠して描いてますよね?
これは襲い掛かってくるイノシシ達を地雷原に誘い込んで吹き飛ばすという作戦なんですけど、この時、囮として、
エボシの配下のタタラ場の牛飼いなどの子分達を、地雷原のすぐ近くに配置しているんです。
それに向かって来るイノシシを爆弾で吹き飛ばすもんだから、彼らも爆弾の被害を受けるし、上から吹き飛ばされた巨大イノシシの死体も降って来るから、もう、ほとんど全滅の状態になります。
後に、イノシシと人間の死体が混ざってわからなくなるほどの死屍累々な光景の中、生き残った村人の一人が顔を隠して泣いているところを、アシタカが見つけるという、かなり悲惨なシーンがあるんですけど。
エボシというのは、最初から自分の部下を囮として配置することすら選択肢の1つとして考えているような人物なんです。
だから、そういう事態がいざ現実に起こっても、それを冷静に見ていられるんですよ。
このように、エボシというキャラクターには、もちろん“知性と優しさに溢れる良きリーダー”という側面もあるんですけど、同時に“目的のためには仲間を平気で犠牲にする冷たさ”という面もあります。
その2つを兼ね備えた人物として描かれてるんですね。
僕が思うに、このエボシのイメージ元って、たぶん、この人だと思うんですね。
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毛沢東です。
毛沢東というのは、圧倒的なカリスマ性と徹底的な合理性で国造りのためには容赦なく “文化大革命” などの破壊と殺戮を行いつつも、その一方では、農民の生活をただただ向上させようとした人でもあります。
なぜ、これがエボシのモデルなのかというと。
??
実は、毛沢東は、当時の世界の鉄鋼産業をリードしていたイギリスを「15年以内に追い越す!」と宣言して、
中国の村中にタタラ場(製鉄所)を作って、農民に製鉄を教えて、中国国内の鉄の生産量を飛躍的に上げようとした人なんですよ。
まあ、結果的には大失敗したんですけどね。 宮崎駿は、そういった毛沢東の過去の行いを踏まえて、『もののけ姫』に登場するタタラ場という共同体を、ある種の “共産主義の理想郷” として描いたんじゃないかと思うんです。
宮崎駿自身が青年の頃、10代後半から20代いっぱい、30代に差し掛かるまで、ずーっと憧れていた共産主義。
もちろん、今となっては、毛沢東とか中国共産党指導部の残虐性も問題点も、十分に暴かれてしまっています。
しかし、いわゆる “年老いた左翼” としての宮崎駿というのは「だからといって、いやあ、共産主義は間違いでしたね、中国共産党は間違ってましたねと、クルリと翻るほど、俺は軽い人間じゃねえ!」って思っているわけですね。
間違いがあるのだとすれば、その過ちを認めるというよりも「そういった過ちが、なぜ自分の中で起こったんだろうか? それは本当に間違いだったんだろうか?」と検証する。
それが終わるまでは、まだまだしがみつくつもりなんですよ。
そんな、青年期の毛沢東を、絶世の美女として表現したのがエボシであると、僕は考えています。
エボシというのは、さっきも話したように、人買いに売られて、倭寇の妻となって、親分も殺して、明から先端技術を盗んで、日本で独立国を作ろうとしたんですよ。
つまり、彼女は革命家であり、テロリストでもあるんですね。
彼女にとっては、王様も神様も邪魔なんですよ。
毛沢東自身も「宗教というのはアヘンだ」と言って、宗教、つまり神様の存在も全部 否定した人なんです。
だから、エボシにとっても、森の神というのは “単なる巨大生物” に過ぎないし、「自分は神の家系である!」と名乗る天皇家も “単なる政治家” に過ぎないんです。
「どちらも私の理想の国には必要ない。私の国というのは、全ての人間が平等で、合理的に組み合わさって生きていくんだ!」というのが、エボシの考えなのだと思います。
そんな「森の神様のような迷信には付き合ってられないよ!」という、徹底的な思想と共に、本当に武装までしてますから、まさにテロリストですよね(笑)。 終盤サンが小刀でアシタカの胸を刺すシーンで直後ハッとしてるのは何故?
アシタカがもう痛みも感じないほど呪いに侵されてると分かったから? 怒りに任せて大事な人を贈り物で傷つけるなんて最低なことしたのに気づいたからだよ
さっきまで我を忘れた乙事主にタタリ神になるなとか言ってたくせにその乙事主と大して変わらない真似してるんだからな いちからか?いちからせつめいしないとだめか?的なw 「【『もののけ姫』の読み方 2 】 サンはエボシ御前の娘だった?」
「サンはエボシ御前の娘だった?」
この説、ネットでも時々 見るんですけども、僕も前々から「エボシとサンは、母娘なんじゃないか?」と思っているんですよ。
まあ、ネットでそういった考察を書いている人も、みんな「根拠はないが〜」と注釈しているのと同じように、僕にも証拠は提示できないんですけども。
宮崎さん自身は、どこにもそんなことを語ってないし、「おしゃべりな鈴木敏夫さんが、どこかで不用意にそんな話をしていないかな?」って思って、
鈴木敏夫の発言もあらかたさらってみたんですけど、そんなことは一言も喋ってないんですよ(笑)。
ただし、証拠とまでは行かないまでも “不自然なこと” はあるんです。
何が不自然なのかというと、サンの生い立ちに関する設定です。
“もののけ姫” ことサンの生い立ちに関する情報は「森を犯した人が、山犬を恐れて、生贄として赤子を捨てて行った」というだけなんです。
それしか書いてないんですよね。
さっきも語ったように、エボシ御前にすら「外国に売られていって、倭寇の妻になって〜」みたいな設定があるんですよ。
あとは、ジコ坊とか、他のいろんなキャラにも山のように設定が付いているのに、サンだけは、たった1行だけなんです。
すごく不自然なんですよね。
あまりにも言葉足らずで、不自然。
おまけに、アニメ本編の中には回想シーンも出てくるんですけど、赤ん坊の頃のサンの描写は一切ないんですよね。
なので、僕としては「やっぱり、ここには何か語られない理由があるんだろう」と考えちゃうんです。
そして、もしサンがエボシの娘だとしたら、いろんなことに説明が付くんですよ。
エボシというのは、倭寇の頭目の妻となって、後にその夫を殺したくらいだから、当然、もしそこで子供が出来ていたとしても、あんまり愛情を持ってはいないはず。
「いや、女なんだから、産んだ子供には愛情があるはずだ!」と思うかもしれませんが、いやいや、エボシというのは、普通の女ではなく “女・毛沢東” だから、そこら辺はちょっと普通のメンタリティとは違うということも考えられます。
そして、エボシが率いるタタラ場には子供がいない。
これは、さっきも話したように、共同体全体に厳しい産児制限を敷いているからだと思うんですけども。 「自分たちのリーダーであるエボシ様自身が、大事な自分の子供を捨てた」あるいは「失った」とみんなにわかるようにしていたのなら、あの村の全員が「子供を作ってはいけない」というルールに納得していることにも、筋が通ると思うんですよね。
「エボシとサンは母娘関係である」と考えると、生みの親のエボシと育ての親の山犬のモロが激しく憎み合うのもわかりやすくなるんですよ。
というか、映画の前半で、モロはエボシに撃たれて怪我をするんですけど、それまでは、別に、モロがエボシ個人に強く恨みを持つような理由がないはずなんですよ。
ところが、2人とも、お互い名指しで、あんなに恨み合っている。
だって、モロなんかは「エボシを噛み殺すまでは戦いは終わらない」なんて言ってますから、あれはどう見ても “エボシ個人に対する恨み” なんです。
エボシにしてみても「捨てたはずの我が子を、モロという山犬が自分の子供として育てている」という現実は、まさに自分の罪の意識の象徴なんですね。
山犬に育てられた我が娘を見る度に、いくら、捨ててもういない子供だと思っていても、罪悪感が疼いてしまう。
僕は前から「サンの顔にある赤い模様が “入れ墨” であるとするのなら、誰が、何のために入れたんだろう?」って、すごく不思議だったんですよ。
解釈の1つとしては「サンが大きくなった時に、もう自分は人間ではないんだ。涙を二度と流さないんだと考えて、自分で彫った」と考えることも出来るんですけど。
この母娘関係を考えると「いや、捨てられる時に、この子は人間ではないという意味で彫られたんじゃないかな?」と、ちょっと考えちゃうんです。
とにかく、そこら辺で、モロとエボシの間にある感情は、サンとエボシの母娘関係を中心に置くことで、いろいろと説明がつくんですよね。
映画のわりと前半の方に、タタラ場の屋根の上でエボシ御前がアシタカと、ちょっといい雰囲気で話すシーンがあります。
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エボシは「ここに止まり、力を尽くさんか?」と言って、タタラ場で働いてくれるようにアシタカを口説きます。
そして、こう続けるんです。「古い神がいなくなり、森に光が入れば、ここは良い国になる。もののけ姫も人間に戻るだろう」と。
つまり「もののけ姫であるサンがエボシを憎んでいるのは、山犬のモロに憎しみを教えられたからだ」と彼女は考えてるんですね。
だから「モロを始めとした山犬達を殺せば、サンは人の世界に帰って来る」と思っている。
そして、このシーンの直後の、エボシを暗殺するためにサンが単身乗り込んで来るシーンでも、実は、襲いかかってくるサンに対して、エボシは本気で相手をしてないんですよ。
格闘術にしても剣術にしても明らかにサンより勝っているのに、周囲を槍を持った部下で囲んで逃げられないようにして、一向にとどめを刺そうとしない。
まるで、猫がネズミをいたぶるように戦うんです。
これ、なぜかというと、サンの体力が尽きて倒れるのを待って捕まえようとしているからです。 だけど、そういう表情は全く見せずに、いかにも「殺してやる!」という雰囲気で戦っているんです。
本当は全然 強いのに、相手にしてない感じなんですよ。
山犬のモロはエボシを深く憎んでいます。
しかし、そんなモロ自身もサンが人間の世界に帰ることを望んでいるんですよね。
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これは、モロとサンの別れのシーンです。
「私、乙事主様の目になる」と言って、サンがモロの元を離れる際に、ここで初めてサンがモロに抱きついて甘えるんですよ。
すると、モロも長いまつげの目を開いて、彼女を見る。「ああ、色っぽいオオカミだったんだなあ」というシーンなんですけど。
シチュエーションとしては、いよいよジコ坊とエボシ達の神殺しが始まって、サンは捨て身の乙事主について行くため、手傷を負って動けない母親のモロに最後の別れをする、といった場面です。
両者共「もう二度と会えない」とわかっています。
この時に、モロが「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが」と言うんです。
でも、モロは、それ以前にアシタカが「サンと共に生きる! あの子は人間だ!」と言った時には、メチャクチャ嘲笑ったんですよね。
「フハハ……。どうやって生きるのだ?」って。
つまり、モロというのは “本音を言わない人” なんですよ。
これ、アニメの中で一貫してるんですけど、ほとんど本音を言わないんですよね。
かつて恋人同士の関係だった乙事主というイノシシの神様と再会した時も「少しは話のわかるのが来た」とか、「もはや言葉も失ったか」と言うだけで、自分の内面的な本音というのを、絶対に言わない人なんですよね。
これは『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というドキュメンタリーに収められている、モロの声優を担当した美輪明宏のアフレコの際の出来事なんですけど。
最初、美輪明宏は、このモロが乙事主に対して持っている複雑な感情に全く気が付かずに、普通に演技をしてたんですよね。
しかし、美輪明宏が「少しは話のわかるヤツが来た」という台詞を特別な感情を何も込めずに読んだ時、それを調整ブースで聞いていた宮崎駿は、なんかもうムズムズとして、
ついにはダーンと飛び出して、美輪明宏のところに駆け寄って、「うーん……」とか、少し唸ったかと思うと、「あのね、このモロは、昔、乙事主といい関係だったんです」と言うんですよ。
すると、美輪明宏は「はぁー? オオカミとイノシシが?」と言うんですけど、宮崎駿は「はい。そのオオカミとイノシシは、いい関係だったんです」と。 美輪明宏はメチャクチャ深く納得して、「ああ、なるほど」と、次の収録では、ほんのちょっと声色を変えたんです。
昔、恋人関係だった男女が「ついに言葉もわからぬようになったか」という時の、そんな相手を昔好きだった “自分に対する憐れみ” とか、「少しは話がわかるヤツが来た」と言う時にも、
高校生の女の子が彼氏が向こうから来た時に、友達に「あのバカが来たよ」と言うようなニュアンスが、ほんのちょっと入るようになったんです。
「……だったら、それをコンテに書いておけよ!」って思うんですよね(笑)。
でも、こういう大事な設定を、宮崎駿は書かないんですよ。
「モロと乙事主はもともと恋人関係だった」という設定は、もし、このアフレコ現場で宮崎駿が美輪明宏に言わなかったら、そして、それをたまたま日本テレビの取材班が撮影していなかったら、誰にも知られないままだったんです。
こういうことを、このオッサンは、しょっちゅうやるんですよ。
では、なぜ宮崎駿はそんなことをするのか?
この宮崎駿特有の作劇法とか、キャラクターを扱う上での本質については、後半の方で、理由込みで話をしましょう。
モロは、アシタカに対しては「フハハ……。どうやって生きるというのだ?」というふうに嘲笑いながらも、本心では、サンを人の世界に帰してもいいと思ってるんですね。
しかし、そのためには、エボシをどうにかして殺すことが大前提なんですよ。
エボシのいる世界5にサンは帰せない。
なぜかというと、エボシ御前というのは森の破壊者であって、人間の中でも特に悪質な存在だからです。
つまり、モロとエボシという大人の女2人は、両者とも、サンを救おうと考えてるんです。
エボシはエボシで「山犬達を殺しシシ神を殺せば森に光が入る。つまり、森が文明化され、人間の社会の一部になって、単なる天然資源の一部になれば、一度は捨てたはずのもののけ姫も、人間の世界に帰ってこれる」と思っている。
この映画は「1人の娘を救おうとする2人の母親が、両方から引っ張っている話」と考えると、ものすごくわかりやすくなるんです。
だって、モロとエボシはアシタカに全く同じ台詞を投げかけるんですから。
さっきも話したように、モロはアシタカに対して「どうやって生きるというのだ? サンと共に人間と戦うのか?」と嘲笑います
。
エボシも、これと全く同じ台詞を、タタラ場が襲われていることを伝えに来たアシタカに言うんです。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614458/6ad6501fb4378d8ab8f2c24b9c827288a9f3a22c.png これを見てください。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614460/ba8920e958922546748d9de8d225d5aa8fdbe58e.png
このシーンでエボシも、嘲笑うモロと全く同じ構図で、アシタカを嘲笑いながら「シシ神殺しをやめて、サムライ殺しをやれというのか?」と詰め寄るんですね。
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左右の方向が反対なだけで、全く同じ構図で、同じ意味のことを言っている。
両者のこの台詞は偶然ではあり得ないんですよ。
作劇上、意味もなくこんなことをするはずがないんです。
2人は「私にどう生きろというのか?」、「あの子をどうしろというのか?」、「神殺しをやめて、サムライ殺しをしろというのか?」「それともお前は人間と戦うとでも言うのか?」と、それぞれアシタカに問い掛けている。
つまり、自分の娘の生き様を、2人の母親が、その夫となる人物に問いかけているんですね。
それも “反語的な問いかけ” なんです。
アシタカの答えがそうじゃないことを知りながら「そういうふうにしろとでも言うのか?」と聞いている。
これは要するに「お前はどこまでうちの娘のことを考えてんだい?」ということを “怖いお母さん” として聞いているわけですね。
それも、両者とも同じように、嘲笑いながら(笑)。
なぜなら、この2人は同じ立場に立ってるからなんです。
「母親であると同時に、部族のリーダーでもある」という立場に立っているんです。
こういうふうに考えたから、僕は「サンの実の母親はエボシなんじゃないか?」と思いました。
やっぱり、最初にも言いました通り、どこにも証拠はないんですけども。
「こう考えると矛盾がない」ということと、あとは、本来、大事な設定なはずの「乙事主とモロは実は恋人関係だった」ということを何も言わずに済ませようとしていた宮崎駿の作劇法から言って、そういう設定が隠してあってもおかしくはない、と。
でも「サンの実の母親はエボシである」ということを、モロもエボシも、サンに気付かせまいとしてるんですよね。
お互い2人の母親が「あいつを殺さないと我が娘の未来はない!」と信じて戦っているという構図になっているんです。 麻生のおっさんが自演に使用するアカウント(複数端末あるいは投稿代行ツールを使用しての自演もあるので要注意)
麻生
近鉄
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甲子園へ行こうスレ(麻生&近鉄&名無しを併用:固定IDと単発IDを併用して自演)
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興行収入を語るスレ 名無し&ジグー 353359060690529&アウアウカー Sa 182.251.244.51 & アウアウカー 182.250.246.XX 紅の豚あたりから、宮崎は作品を韜晦するようになった。
一部のマニア、おたくはバカみたいに喜ぶだろうが、多くの客はなぞなぞに付き合いたいわけではない。
岡田がいろいろと読み解きをするが、知れば知るほど馬鹿馬鹿しいと思えてくる。
晦渋にしたことで高度になるわけでも上等になるわけでもない。
だが…、まあ、おたくは喜ぶだろうな…。
カリ城のときと同じだ。おたくは宮崎のあとをゾロゾロとついてゆく。 なんかさ、もう、被害妄想的っつうか、物語を楽しむ事じゃなく謎解き目的で観すぎて何度も周回してる内に目的地を見失ってしまったって感じ
マニア/ヲタ的な考察するのは悪い事ではないけど、盲目的に熱中して知らぬ間に自分が祟り神と化してしまわぬよう気を付けんとにゃ、って思わせる出来事だぁね☆ 岡田のは読み解きなんてもんじゃなく妄想だろ
こんなもん有り難がるくらいならぼけーっと見て気軽にアニメおもすれーとかなる方がよっっぽど高尚だわ
まじでセクハラ岡田豚と知ったツラして適当こく岡田ファンネル鬱陶しい 「【『もののけ姫』の読み方 3 】 モロは本当に人間を憎んでいた?」
次は「モロの秘密」という話ですね。
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これは、映画が始まってから1時間をちょっと越えた辺りのシーンなんですけど。
傷を負ったアシタカが、モロ達のねぐらで目覚め、外に出る。
すると、ねぐらの上に座っていたモロから話しかけられるというシーンです。
このシーンでモロ達の住処が出てくるんですけど、単なる山犬が住んでいるにしては、ちょっと不思議な感じの場所なんですよね。
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これは、起きたアシタカがモロ達のねぐらの中に立っている様子です。
このモロのねぐらは、全てが岩で出来ています。
それも、床と天井と壁の部分が、それぞれ巨大な1枚岩で出来ているんです。
床も天井も水平なんですね。その上、横の壁もほぼ同じ角度に傾いています。
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こっちは、その翌朝にアシタカが旅立つ場面です。
ここで、この不思議な岩で作られたねぐらの全貌が見えます。
見て分かる通り、完全に1枚板の水平な岩が上に乗っていて、それを両側の岩が支えている。
床の部分も張り出して、ベランダ状になっているんですよね。
これと同じ形のものを、どこかで見た気がするんです。
その答えは、大阪にあります。
大阪府の交野市にある磐船神社の “天岩戸” です。
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これが、まあ、そっくりの構造をしているんですよ。
だからといって、「別にサン達が暮らしていたのは大阪だ!」というつもりはないんですよ。
そうではなく、これは “巨石文明の遺跡” なんですね。 アシタカが、もともと暮らしていた村も、先週に話した通り、青森の方でもほんのちょっとしか遺跡が残っていないような “巨石信仰” のある村でした。
縄文人達は、こういった巨大な岩みたいなものを、御神体として神様のように祀っていたと言われています。
つまり、アシタカ達の集落というのは、そういった巨石文明の末裔なんですね。
それに対して、モロがねぐらにしている場所はというと、劇中では何も解説してくれていないんですけど、こんなに水平な床や天井、全く同じサイズの岩で両側を支えていて、その上に水平な岩が乗ってるような洞窟なんて、自然状態で生まれるはずがないんです。
これはもう、普通に考えたら巨石文明の神殿というか、神様の座である “石座”(いわくら)みたいなものなんですね。
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これは、大阪府交野市の磐船神社にある天岩戸なんですけど。
イギリスにある “ストーンヘンジ” も、大体、これと同じです。
垂直もしくは同じ角度に立てた岩の上に、水平に岩の板を乗せることによって、神様の座を作ろうとしていたんですよ。
これが巨石文明の特徴なんです。
つまり、どういうことかというと、モロのねぐらというのは古代人の神殿なんですよね。
古代の巨石文明の時代には日本には “本当の神様” が住んでいたんです。
モロ達のような一族というのは、巨大な獣であり、おまけに人の言葉を話すことが出来たので、古代人達から崇められていた。
つまり、本当の神様だったわけです。
なので、神殿を作ってもらって、そこで祀られていたんです。
しかし、今や、そんなモロの神殿には、誰もお詣りに来ない。
これこそが「森が死んでいく」という言葉の意味なんですよ。
にも関わらず、モロは今でもここに住んでいるんです。
??
なぜかというと、モロは “犬の神様” だからです。
犬というのは、人類にとって、一番 古く、一番 忠実な友なんですよ。
そんな犬の神様だから、もう誰も訪れなくなった神殿に、今もなお、誰かが帰ってくるのを待ちながら、ずっと住み続けてくれているんです。
これが分かった時、僕「うわーっ!」って思って、もうマジで、金曜ロードショーを見ながら涙が出そうになったんですけど。
今でも、人々から忘れられた神殿に住んでいてくれるくらいなんだから、そんなモロが人間を嫌いなはずがないんですよ。
だから、赤ん坊のサンを育てたんです。 捨てられていた人間の赤ん坊を、わざわざ自分の娘として育てるくらいなんだから、むしろ、人間が好きなはずなんです。
彼女は “人間の行為” が憎いだけなんですよ。
サンを捨てたエボシが許せないだけなんですね。
だけど、普通の解説書とか、ジブリの公式本とかを見ても、全部「モロは人間を憎んでいる」って書いてあるんですよ(笑)。
もうね、この『もののけ姫』という作品に関しては、劇中の台詞を信じないようにしてください。
そこに映し出される “絵” だけを信じてくれれば大丈夫です。
というか、むしろ絵を信じた方が、どんな話なのか分かりやすいと思うんですよね。
こういった「かつては神殿と呼ばれていたはずの場所に、お祈りする人が誰も来なくなった」というのが、「森が死んだ」という理由なんです。
かつての森の神様を誰も信じなくなって、森を “単なる天然資源” としか見なくなったから、彼ら森の神様は、段々と身体が小さくなっていくわけです。
物語の舞台は室町時代。
この時点でモロは300歳で、乙事主は500歳。
なので、彼らが産まれた時代というのは、中国から日本に稲作や鉄が伝えられ、人々が「森には神様がいる」だなどと信じなくなった時代でもあるんです。
だから、おそらくは、乙事主もモロも、人々が自分たちを「神様だ」と崇めていた時代のことを、正確には知らないはずなんです。
たぶん、自分たちの親とか一族から「昔はそうだった」と言い伝えられて来たんでしょう。
??
なので、乙事主達イノシシの神様は、もう人間のことを信じられなくなり、自分たちだけで、まだ森の神々を信じている巨石文明がかろうじて残っている青森の方まで行こうとしていたんです。
それに対して、モロは「もう二度と人間が自分たちを信じることはないだろう」なんて口では言いながら、自分でも半分くらいはそんなふうに思っていながら、それでもやっぱり、かつて人間たちが自分たちに作ってくれた巨石神殿に住み続けている。
なんかね、そういう泣ける話なんだなって思ったんですよね。
そういった、森の中の神様を信じる巨石文明の生き残りは、もはや青森の果てにしかない。
そう思ったからこそ、乙事主たちイノシシは、劇中では “鎮西” と呼ばれた九州から移動していたわけです。
ちなみに「『もののけ姫』の舞台になったのは岡山だ」と言われています。
宮崎さんが岡山をスケッチに行って「ここを舞台にしよう」と言ったそうです。
これは “岡山舞台説” の1つなんですけど、僕も、たぶん、そうなんだろうと思っています。
というのも、もし、話の舞台が京都よりも東だったら、乙事主達イノシシの大群が京都を突っ切ったことになるわけですから。 あんな群れが、京都を突っ切れるはずがない。
ジコ坊が天皇から命令されているミッションは、もちろん「不老不死の力があるというシシ神の首を持ち帰る」ということもあるんでしょうけど、
なによりも「イノシシ神の大群が、京都に突入してくる前に、最前線である岡山で食い止めろ!」という命令もあったんじゃないかな、と。
そう考えると、全ての辻褄があってくると思うんですよ。
だって、巨大なイノシシの群れが京都を横断したら、ただでさえ、室町時代には権威の落ちきっていた、宮崎駿さんの解説によると「当時は自分のサインを売って、その日暮らしをしていた」という天皇家は、もう絶対に潰れてしまうから(笑)。
こういうのが『もののけ姫』の大きなお話の流れじゃないかと思います。
もう、この辺の「人間が許せない!」みたいなモロの台詞よりも、「モロ自身は、縁もゆかりも全くない人間の赤子、噛み殺してもいいはずのサンを拾って、ずーっと大事に育てて来た」とか、
「なおかつ、その愛してやまないサンを、いずれ人間の世界に返そうと思っていて、アシタカがそれの助けになると思い、少なからずの望みを抱いていた」という部分を見るべきだと思うんですよ。
アシタカがねぐらの中で、傷にうなされて寝ている時には、屋根の上に、ずっとモロがいたわけですよね。
モロは、アシタカが起きて来た時に「お前が一言でも唸り声を上げようものなら、噛み殺してやろうと思ったぞ」とか言うんですけど。
これがどういう意味かというと、アシタカは右腕が呪われているんですけど、モロもモロで、エボシの鉄の銃弾にやられて、死に掛けているんですよ。
両者共、全く同じ状況だったんですね。
両者共、自分がタタリ神になりそうなのを抑えているから、余計に苦しいんです。
この痛みを他者への恨みに変えれば、2人共、簡単にタタリ神になれて、楽になるんですよ。
でも、アシタカは、うなされつつも、それを恨みに変えずに必死に耐えていた。
そんなアシタカを見て、モロも「こいつと同じく、この痛みをタタリ神にせずに、ここで一人死んで行こう」と考えていたんだと思います。
……まあ、「エボシの頭だけは噛み砕いてから死ぬ!」とは言ってるんですけど。
つまり、モロは、自分自身の負の感情に負けずに、苦しみに耐えるアシタカを見て「可愛い娘を任せられる男だ」と見たんでしょう。
でも、宮崎駿は相変わらず、そういうことをアニメの中では全く書いてくれないんですよね(笑)。
そうではなくて、モロに怖い台詞ばっかり言わせるから、すごく怖いバアサンみたいに見えちゃうんです。
だけど、本当のモロというのは、いろんな人を冷静に観察しているような重要な役になっているんです。
だから、モロの声優を務めた美輪明宏は、宮崎駿から色々と設定を聞いた後、ものすごく喜んだそうです。
美輪明宏から「うわあ、そういう役なんですね。……でも、ちっともそれを書かないんですね」と言われた宮崎駿が「そう。書かないんですよ」と、嬉しそうに返すというやりとりが、ドキュメンタリーの中にも収録されています。 完全に荒らしだわ岡田豚コピペ
かぐや姫のスレでも同じことしてるよな 晒しなのか賞賛なのか啓蒙なのか注意喚起なのか、っつうw なぞなぞ映画というのは当たってる気がする
それをありがたがるオタク
分からなくても賞賛する通きどりの客
みんな分からない、俺は分かってるという映画評論家
ひどいもんだ 「『もののけ姫』のエボシ御前の謎と “タタラ場” に子供がいない理由」
今回は『もののけ姫』のエボシ御前の正体について語っていきます。
http://bmimg.nicovideo.jp/image/ch923/614469/334986e7a439e05bd82d56322f797f3516a3e1b3.png
エボシ御前については、浦谷年良さんが書いた『「もののけ姫」はこうして生まれた。』という本の中に書いてある事なんですけども。
これは、日本テレビから『「もののけ姫」はこうして生まれた。』というドキュメンタリーDVDが出ているんですけども、それの内容のまとめみたいな本なんですね。
それで宮崎さんの机の横には、コンテとか作画以外にメモが貼ってあると。
そのメモが面白くて、撮影班がどんどん撮っているんですね。
それで撮っているのを見ると、エボシ御前についてのメモがあったと。
辛苦の過去から、つまり辛い過去から抜け出した女性。
海外に売られ、倭寇の頭目の妻になる。
そこで頭角を現していき、ついには頭目(親分)を殺して金品を持って故郷に戻ってきた。
??
このとき、当時の中国の明で最新式の武器 “石火矢” を手に入れて日本に持ち込んでいる。
こういうのがエボシの設定です。
ポイントは、元々は海外に売られた悲しい女性であると。
ところがそこから倭寇の親分の妻になる。
つまり、美人なだけじゃなくて、かなり “やり手” な所があったんでしょうね。
それでドンドンのし上がっていって、ついには頭目を殺してしまい、倭寇の金を盗んで日本に帰ってきて、おまけに中国から最新の武器 “石火矢” という大砲を持って帰ってきちゃった、とんでもない女性です(笑)。
それでサムライの支配から自由な、強大な自分の理想の国を作ろうと考えている。
その為に目をつけたのが、“シシ神の森” だと。
シシ神の森というのは誰の領地でもないから。
「当時、土地というのは天皇の土地であったり、サムライの領地であったり、寺の土地であったり、全部、所有が決まってたんですけども、“シシ神の森” はシシ神に属しているので、ここを手に入れれば自分の国が作れる」というふうに書いてあるんですね。
これを読めば、何となくエボシって正義の人みたいに見えます。
確かに映画の中でも、売られた女の人を買い取って引き取って、ハンセン氏病などの病気で差別されている人たちも優しく介護して、仕事を与えるという事をしている。 そんな、凄い “いい人” に見えるんですけども、それだけでは説明できない矛盾というのが、エボシにはいっぱいあります。
たとえば僕が最初に気になったのが、やっぱり “タタラ場に子供がいない” って事なんですよね。
宮崎アニメの村のシーン。
??
たとえばナウシカの “風の谷” とか、ラピュタの “スラッグ渓谷” にしても、必ず子供たちが走り回ってるんですよね。
ところがタタラ場には走り回る子供もいない。
それどころが、母親に抱かれている赤ん坊すらいないんですよ。
それで、これに関して宮崎駿 自身は、当時の『もののけ姫』の映画のパンフレットの中では「いや、そこまで描いてる暇がなかったんですよ」って言ってるんですけども。
「描いてる暇がない」って言い出したら、ラピュタの時の方が忙しいし、それはもうナウシカの時の方が大変なんですけども(笑)。
やっぱり、描いてないには描いてないなりの理由があると。
何でかっていうと、タタラ場っていうのは開拓村だからですね。
開拓村っていうのは、アメリカの18世紀〜19世紀にはよくあった、開拓時代でようやく村が成立して、10年とか5年とかそれぐらいの年月しか経ってない村で、まだまだ戦闘状態みたいなものなんですね。
それでタタラ場に関しては、戦乱で家を無くしたり、親に売られた女の人たちを受け入れているんですけどですね。
子供とか老人という “働けない人” を、積極的に仲間に入れるほどの余裕が無い。
それだけの食料が無いし、働けない人を雇えないんですね。
まだ開拓村だから。
だから、外れにあるハンセン氏病の人たちの隔離された区画っていうのは、彼らは “石火矢を作る” という能力があるから、あそこで飼われているんであって。
どちらかというと、弱者には厳しい環境なんですね。
同時に、タタラ場は中で結婚している人もいるから、子供が生まれないはずがないと思うんですけども。
おそらく、凄く強い産児制限をしいてると思うんですね。
つまり、「子供を生んじゃいけない」っていう。
それと、男をバカにする文化。
このタタラ場の中の、男をバカにして、「女の方が強いんだ」っていう文化も、おそらく同じような理由で意図的にやっているんだと思います。
もっと大きい村になって、もう少し生活が楽になって、みんなの生活に余裕が出来るまでは、出来るだけ無軌道に人口が増えないように、かなり注意している。
これが、エボシ御前が “単なるいい人” っていうのに見えないなっていう矛盾点の一つなんですけどね。 イ`そなたは美しいなんてセリフがあったのに
ヂブリには超性格の悪い役立たずのブスが雇われてたぞどういうことだ^^# >>663
韜晦するようになったわけは、富野監督の影響じゃないかな?
彼は子供に大人気!って作品より、
大人が眉間に皺を寄せて熱く語り合ってくれる作品作りのほうを
選択したんじゃないのかな。
子供向けに対して、単に「気がすんだ」というのもあると思うが。
難解にするならオレのほうが…という負けん気もあったんじゃないか。
岡田なんてオタクはまんまとハマってしまってる。
いいお客さんだね。 そういやどうして子供をターゲットにすんの止めちまったんだ?
アニメは子供のって散々言ってたのに たしかにアニメは基本的には子供のもの
しかし大人も楽しめるアニメというアニメの新ジャンルもある
アニメを子供のものと考えてるところが宮崎アニメの限界点なのかもね 都合よくケモナー美女と出会ってイチャイチャしてえ〜と考えてる
おっさん向けのアニメだろう。 >>679
限界点(興行収入歴代1位)(アカデミー賞受賞) 2018年11月28日07:00
もしもハリウッドで『もののけ姫』が特撮映画としてリメイクされたら?
http://blog.livedoor.jp/okada_toshio/archives/51552175.html
これは余談というよりは、今回の本編でね。
『もののけ姫』の時に入らなかった話をちょっとしたいんですけども。
『もののけ姫』って、「話全体が、どういう お話か?」っていうのが、なかなか分かんないんだよね。
それで、「どうやったら分かりやすく伝えられるのかな?」ってふうに考えてて、ちょっと掴んだ気がするんだけども。
あれね、「『もののけ姫』がハリウッドでリメイクされたら、どういうふうになるのか?」って考えると、
ちょっとだけ分かりやすくなると思う。
「もしハリウッドで『もののけ姫』がリメイクされて、アメリカが舞台で、俳優もアメリカ人とかを出したらどうなるのか?」
って考えたら、逆に日本の『もののけ姫』っていうのが、どんなとんでもない凄い話だったかっていうのが分かると思います。
・・・
冒頭はですね、これはアメリカの原住民のインディアンの村。
インディアンって言うんだけども、これは言葉の正しい意味じゃないのは分かっています。
ただ “アメリカ原住民” とか “原住部族” よりは “インディアン” って言ったほうが通りがいいから。
だから今日はもう全部 “インディアン” って言い方で話すね。
そこら辺は、よろしくお願いします。
冒頭はアメリカの、もうカナダの果ての方に住んでいるインディアンの村と、そこを襲う巨大なワシ。
タタリ神と化したワシが、アメリカの北の果てに残っている先住民のインディアンたちの村を襲うわけです。
だいたいこんなイメージだと思って。
(タタリ神こんな感し?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/a/6/a6e445ab.png
こんなイメージのヤツが、アメリカのインディアン村を襲います。
「あ、あれは西海岸のシャイアン族のトーテムだ!」
“トーテム” っていうのは守り神だね。
インディアンの守り神の巨大なワシが村を襲う。
「なんで!? アイツがタタリ神になるなんて!」
「東から来たキリスト教の神に追われ、今やインディアンは、わずかに西海岸と北にだけに住んでいるに過ぎない」
「何か西海岸で不吉な事が起こったに違いない」
「アシタカよ、その曇りの無い眼(まなこ)で見てくるんじゃ」
そうやって “アシタカ” という名前のインディアンの少年が、ワシの爪によって呪われてしまった右手を
呪いながら村を旅立つ所から映画はスタートするわけだ。
・・・ 途中、インディアンの村を襲う騎兵隊に出会います。
騎兵隊がインディアンの村を襲っているんですね。
(村を襲う騎兵隊) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/5/9/59cde06d.png
それで、この騎兵隊に対して怒りをもったアシタカはですね、
先祖伝来のアメリカ大ワシか何かの羽が付いた矢でバーンと射ると。
そうすると、この騎兵隊の中心で、核爆発のような大爆発が起こる。
これはね、日本版のアニメ版の『もののけ姫』では首がすっ飛ぶぐらいの表現なんだけども、
ハリウッドでは「それぐらいじゃ分からないだろう」と。
アシタカにかけられた呪いが、どんなものかって分かるには、もうとりあえず火薬を山盛りで
大爆発させたほうが分かりやすいから、大爆発させて、それで騎兵隊たちは全滅するんですね。
こういう話にすると、「『もののけ姫』っていう作品が、実はどんな話だったか?」
っていうのが、ちょっと分かりやすくなってくるんだよね。
それでこの騎兵隊たちを退治した後で、アシタカがさらに西海岸のロッキー山脈を越えていくと、
ロッキー山脈の中ほどでセコイアの森がある。
(セコイアの森) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/0/9/0960dc05.png
ジャイアントセコイアって、木というよりは、たぶん生物としても地球最大なんだよね。
体積計算したら。
ジャイアントセコイアの森っていうのは、巨大な森です。
それの森と、その横で製鉄をしているインディアンの村に出会う。
「インディアンが鉄を作っているなんて!? まるで白い人間(ヨーロッパ人)みたいじゃないか!」
ってアシタカは驚くんだけども、彼らは製鉄してるんだ。
それでセコイアっていうのは、実はインディアンたちが定期的に切り倒さないと、
アメリカ大陸中がこのセコイアに飲み込まれてしまうんだ。
これは本当の事なんだけど。
ジャイアントセコイアっていうのは、北米最強の生物なんだ。
おそらく地球上最強の生物だと思う。 なんでかっていうと、ジャイアントセコイアっていうのは、だいたい低いヤツで80メートル、
高いヤツは100メートルを越えるんだよ。
これは本当の話で。
で、なんでそんなに高いのかっていうと、落雷を呼び寄せるためなんだ。
コイツらは雷を落としたいんだよ。
ジャイアントセコイアっていうのは。
それは何でかっていうと、ジャイアントセコイアっていうのは山火事がないと繁殖できないんだ。
ジャイアントセコイアっていうのは、周りにスポンジ状の硬い表皮があって、山火事の温度に耐えるんだよね。
中心部が生き抜けるんだよ。
オマケに被子植物で、山火事の温度でないと、その殻みたいな松ぼっくりがバキッと割れて中の種子が外に出て行かないんだ。
それで山火事でボーボー燃える山の風を、火事場の風を利用して、種子をそこらじゅうにバラ撒くという恐怖の生物なんだよな(笑)。
だからインディアンが適当な間隔で木を切り倒さないといけない。
今はセコイア公園っていうのがあって保護されているんだけども。
これは人間が繁殖してバーッと伐採したから無事だったんだけども。
こんなの下手したら、北米大陸で普通に繁殖できるような土地は、ジャイアントセコイアに支配されてても不思議じゃなかったんだよね。
それで、その山火事を起こすためにジャイアントセコイアは100メートルを越えるわけだよね。
その100メートルを越える木の高さになる理由っていうのも唯一つ、雷を落として周りを焼き払いたいから。
それで何で焼払いたいのかっていうと、ジャイアントセコイアって言うのはこの100メートルっていう木の高さに対して、根がメチャクチャ浅いんだ。
根っこが2メートルぐらいしか地面の底にもぐって行かないんだよ。
なので他の競合している植物、雑草レベルでもそうなんだけども、雑木林とか、そこらへんの小さい樹木ですら
ジャイアントセコイアが本来 得たい栄養っていうのを地面から吸ってしまうんだ。
だからジャイアントセコイアっていうのは、数年に一回 山火事を起こして、ジャイアントセコイア以外の種をすべて焼き払って、
それの上で繁殖したいと思っているので、木が高く高く伸びていって山火事を呼ぶという。
なんか、そういう恐怖の生物(笑)。
その恐怖の森の近くに住んでいるインディアンは、定期的にジャイアントセコイアを伐採して、
それで炭を作って火を起こして生活しているという設定にするわけだよな。
それで、そういうインディアンの製鉄村に襲い掛かるダイアウルフの生き残り。 ダイアウルフっていうのは、北米大陸に大昔にいた、もう絶滅してしまった巨大な狼。
今言われているのでは体調は2〜3メートルって言われてるんだけど、今回お話に出てくるのは何せトーテム神だから。
村のトーテム・守り神のシシ神みたいなヤツラだから、8〜10メートルぐらいの狼が出てきます。
だいたいイメージとしては、こんな感じかな。
(村のトーテムこんな感し?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/f/a/fa7f2ab4.png
これは『ランペイジ 巨獣大乱闘』に出てきた巨大狼なんだけども。
こんなのが特撮で出てくる。
もちろん今言ってるのは、全部、特撮映画の話だよ。
CG特撮でアメリカ大陸に現れると思ってください(笑)。
こういう狼が現れると。
それで、銃で部族のトーテムである狼を撃つ “エボシ” という名前のインディアンの女の人がいるんですね。
しかし、狼に育てられた少女が邪魔をするのであった。
こういうのが前半の展開になるわけだよね。
・・・
エボシは、日本のアニメ映画版の『もののけ姫』と似たようなものにするから、インディアンで元奴隷。
白人の奴隷として捕まったんだけども、見た目が可愛い女の子だったから、そのままスペイン人の愛人になった。
母国スペインに、ヨーロッパに連れて行ってもらった経験もあった。
それが南米ペルーに、ご主人であったスペイン人が総督として派遣された時に、夫のスペイン人総督を殺して、
他のインディアン奴隷たちと一緒に北米に逃げてきたという設定にします。
それでエボシはトーテムを倒し、アメリカ中の、巨大なワシとか狼とかそういう守り神たちを退治して、
インディアンの共和国を作って、白人に対抗しようとしてるんですね。
いちおうエボシの目安としては、アメリカ大陸の東海岸側はヨーロッパ人が支配しても構わない。
でもロッキー山脈の辺りから、いわゆる西側全てはインディアンの共和国として取っておこうという。
かつてカリフォルニア共和国とか、あとニューメキシコあたりが独立国としてやっていこうというような感じを、
エボシは考えているわけですね。
それで何でトーテムを倒そうとしているのかっていうと。
トーテムの、あの巨大な生き物の神々たちを倒すと、インディアンたちは
「俺たちが信じていたのは単なる迷信であって、巨大な動物を信仰していたに過ぎない。
それよりは銃を取ってエボシと一緒になってヨーロッパ人と戦おう」と考えるようになるから。 やっぱりインディアンが負けた理由っていうのは、インディアン同士の部族が対立して、共同戦線を張れなかった事なんだよ。
それで最後に “インディアン戦争” っていのがカリフォルニアであったんだけども、もう時期が遅すぎたんだよね。
エボシはそれを100年前に持って来ようとしてるんですね。
こういう話にすると、実は『もののけ姫』って僕が言った話とほとんど同じなんだけども、かなりダイナミックでしょ?
だから、わりと過激な話っていうのを『もののけ姫』は やろうとしていたんだ。
ほとんど『ダンス・ウィズ・ウルブズ』に怪獣が合体したようなものをやろうとしてるんだけども。
・・・
さて、もちろんジゴ坊も出てくるんだ。
ジゴ坊は何かというと、バチカンから派遣された、エクソシズムを学んだ神父なんだけども(笑)。
エボシたちに技術と兵隊を与えるんだよね。
バチカンの持っている兵隊と、バチカンの持っている大砲を与えるんだ。
それでエボシは神の中の神・ビッグフットの殺しを決意すると。
このトーテムたちの一番の親で、巨大なサルのビッグフットってヤツがアメリカにいて、ソイツを殺そうと決意するんだ。
それで、さっき攻撃されたトーテムの狼のモロは、インディアン文明の終わりをアシタカに予言する。
「アメリカ大陸は、いずれ我々のような自然の神ではなくて、人が作った神(=キリスト教)に支配されてしまうだろう」と。
「風とか、雪とか、雨とか、山も、川も、すべて自然からの贈り物で神の世界だった。
だけど、おそらく それらは白人たちにとって支配すべき自然 “ウィルダネス(Wilderness)”
と定義されてしまうだろう」とモロはアシタカに予言する。
アシタカは「そんな時代が来るはずが無い!」とか一生懸命に言うんだけども、どんどん自信が無くなっていく。
・・・
それでハリウッド版シシ神のビッグフットは、こんなヤツ。
(ヒ?ック?フットはこんなヤツ) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/f/a/fa7f2ab4.png
このビックフットを倒すための最後の戦いが始まると。
それでカソリックが派遣した十字軍と、エボシたちが組織したインディアンの共同戦線は、連合してこのビッグフットと戦うと。
それで遂に登場するカソリックの新兵器ガトリング砲!
そのガトリング砲だけでも強力なのに、そこにペルーの銀山より取り寄せたスペイン銀貨を溶かして、
ジゴ坊が神父姿でエクソシズムをやって、その銀貨に祝福を与えて銀の弾丸にするんだ。 神父によって聖別された銀の弾っていうのは、魔物を倒すキリスト教の神の力を得てるので。
それで祝福を与えられて銀のブリット(銃弾)となった弾をガトリング砲にガーッと詰めて、
このガトリング砲でビッグフットをババーッと撃つわけだね。
それで遂に倒されるビッグフット。
数千発の銀の弾を撃ち込まれて、遂にビッグフットは倒されるんだけども、倒されたビッグフットは、
そこから巨大なキングコングになってしまったと(笑)。
(キンク?コンク?) http://livedoor.blogimg.jp/okada_toshio/imgs/e/0/e0f13b55.png
さあ、どうなる!?
という。
・・・
多分、これをハリウッドでやったら、2時間30分ぐらいになる話なんだけども、すごくデタラメで過激な話でしょ?
これをこのままアメリカで公開したら、アメリカの白人層が凄く反発するのが分かるよね。
だって、自分たちが持っている「アメリカとは、こういうものだ」「建国神話とは、こういうものだ」っていうのと、わりと違ってる。
やっぱり「自分たちは侵略民族の末裔で、元々アメリカにいたインディアンたちに何をしたのか?」っていうのが明るみに出てしまうから。
それで『もののけ姫』って、そんな話なんだよ。
そんな話であって、「帝が、」とか言ってるやつも、ほとんど今話した映画の中で「バチカンが」って言ってるぐらいの文脈で使ってる。
だけども、それを巧みに分からないように仕込んでる。
アメリカを例にしてみて語ってみると、「うわ、その話は かなり過激だな」って僕らは分かるんだけども、
『もののけ姫』っていう日本のアニメにされてしまうと、わりと気が付かないようにされている。
そんな所が宮崎駿のすごい上手い所だし、鈴木敏夫もよく宮崎駿の「もっと描きたい」という気持ちを抑えたなと思うんだけども。
こんなふうに考えると、『もののけ姫』っていうのは、分かりやすくなるかどうかは分からないんだけども、
より面白く見れるんじゃないかなと。
これは「『もののけ姫』が面白くない」という意味じゃなくて、“横から見る目線”
として面白い見方も出来るんじゃないかなと思って紹介してみました(笑)。
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この記事は『岡田斗司夫ニコ生ゼミ』11月18日(#257)から一部抜粋してお届けしました。 結局説明したり別のもので置き換えないと分からない面白さなんだよな
宮崎駿であっても、誰かのために作った作品じゃないと面白くない 環境破壊について訴えるには、
ガキを何人も製造して産ませた奴が言えることじゃないよなw
発想が矛盾している
ほんとに環境について考えてるなら子供なんぞ無しでいるべきだ。 2018年10月26日 (金) 18:00
毎週日曜日、夜8時から生放送中の岡田斗司夫ゼミ。10月21日の放送では、日テレ系
『金曜ロードSHOW!』にて26日に放送される、宮崎駿監督作品『もののけ姫』の解説が行われました。
この中で、パーソナリティの岡田斗司夫氏は、本編を見る前に押さえておくべきポイントとして、
カヤやサンといった女性キャラクターとアシタカの「大人の関係」にまつわる演出技法を、具体的なシーンの紹介を交えながら語りました。
女性視聴者から反感を買った『もののけ姫』のシーン
岡田:
アシタカが村から追い出されることになった後、村の出口で、自分を慕う少女のカヤに
呼び止められます。ここでカヤは「いつまでもお慕い申し上げます」と愛の告白をして、
黒曜石で出来た小さなナイフをアシタカに渡します。アシタカはそれを受け取ると、
メッチャイケメンな顔でニッコリ笑いながら「私もだ。いつまでもカヤを思おう」なんて言います。
この「これからもずっとあなたのことを思います」というセリフはどういう意味かというと、
「この先の生涯、あなたの他に誰とも恋をしません」という意味なんですね。そんなことを、
黒曜石の小さなナイフを受け取ったアシタカは、爽やかに笑いながら言うんです。 でも、女の人の中には、このシーンが嫌いというか「アシタカのこういうところが好かん!」
と言う人がかなりいるんですよ。なぜかというと、アシタカは、女の子にここまで言われて、
イケメンな感じで微笑んで、大切な黒曜石の小刀を受け取っておきながら、後でその大事な小刀を、
事もなげに別の女の子にプレゼントするからなんですよ。カヤと同じ石田ゆり子が声優をしている
もんだから、ついつい好きになっちゃったサンに(笑)。これについて「なんじゃこのアニメは!」と、
お姉さま方は怒るわけですね。確かに、怒って当たり前なんですよ。物語のラストで「私も、また時々、
お前に会いに来よう」「ええ。来て来て」みたいな感じで、サンとイチャついてる暇があったら、
呪いはもう解けたんだから、生まれ故郷の村に戻って、カヤに会ってやれよ、と。
そんな「アシタカのこういうところが許せない!」という、女性ライターの方の怒りの声が、
ジブリの公式本である『ジブリの教科書』にすら書いてあるわけです。まあ、怒る気持ちはよくわかるんですけど。 足高は男のしょうもなさの表れている
キャラだったwwwwwwwwwwwwwwwww あの後離れて暮らすアシタカとサンの間に子供が生まれることはあったんだろうか? コダマっていうのは岡本太郎が作った午後の日のマネなんだろう アシタカ役の人は声優が本業じゃないけど上手いよな
サンが微妙だっただけに主人公のアシタカはしっかり演技できる人で良かったわ もののけ姫の言うとおりだ・・・・・・
まさしく人間はクズだ!!!!!!!!!!!!!!!
人間はゴミだ!!!!!!!!!
人間がゴミのようだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 「【Amazonプライム】岡田斗司夫ゼミ#254「もののけ姫 完全解説・後編
1.エボシとモロはなぜ憎み合うのか? 2.シシ神の正体とサンの嫉妬 3.宮崎の描いた共産主義コロニー」」
今回ご紹介するAmazonビデオは、先週に引き続き『もののけ姫』です。
ゼミ動画の中でも、前編・後編ともにベスト10に入る人気動画です。
後編のお題をご紹介すると
(1)サンとエボシ 親子説を検証
(2)シシ神の正体に迫る
(3)仮想敵は『七人の侍』と『ゴジラ』
(4)『もののけ姫』は『平成たぬき合戦ぽんぽこ』へのアンサー作品。
テーマの深掘りから、宮崎監督の心情まで、『もののけ姫』に様々な方向から光をあてます。
Amazonビデオ(レンタル500円 販売1,000円)
まずは「エボシ御前の正体」という話からですね。
エボシ御前に関する設定については、この本の中に書かれています。
『「もののけ姫」はこうして生まれた。』という単行本です。
これは、日本テレビの同名のドキュメンタリー番組『「もののけ姫」はこうして生まれた。』の内容のまとめみたいな本なんです。このドキュメンタリーはDVDにもなっています。 このドキュメンタリーの中で、宮崎さんの机が映されるんですけど、コンテとか作画原稿以外にも、いっぱいメモが貼ってあるんですよね。
そのメモの内容が面白いから、ドキュメンタリーの撮影班も、どんどん撮っているんですけど。
そのメモの中には、エボシについての設定のメモもあるんです。
辛苦の過去から抜け出した女性。
海外に売られ倭寇の頭目の妻となる。
そこで頭角を現していき、ついには頭目を殺して金品を持って故郷に戻ってきた。
このとき海外(明)で最新式の武器「石火矢」を手に入れ、日本に持ち込んでいる
「辛苦」とは、つらく苦しいという意味ですね。
「倭寇」というのは、元寇の反対で、中国とか朝鮮の沿岸を襲う海賊行為を行った日本人のことです。
まあ、歴史書によっては「その正体は日本人じゃなくて、日本人のフリをした当時の中国人とか韓国人である」という記述もあるんですけど、そういった倭寇の頭目の妻となるわけです。
そこで頭角を表していき、ついには夫である倭寇の親分を殺して、金品を持って故郷に戻って来た。
その時、当時の中国である「明」から、最新式の武器である石火矢を手に入れ、日本に持ち込んでいる。
これが、エボシの設定です。
ポイントは「もともとは海外に売られた悲しい女性である。ところが、そこから倭寇の親分の妻になる」というところですね。 つまり、彼女は美人なだけでなくて、かなりの「やり手」なところがあったんでしょう。
??
そして、どんどんのし上がって行って、ついには頭目を殺してしまい、倭寇の金を盗んで日本に帰り、おまけに中国から最新の武器、石火矢っていう大砲を持って帰ってきちゃったという、とんでもない女性です。
そして「侍の支配から抜け出し、強大な理想の国を作ろう」と考えています。
そのために目を付けたのが「シシ神の森」だったんです。
なぜなら、シシ神の森というのは誰の領地でもなかったからですね。
当時、日本中の土地というのは、天皇の土地であったり侍の領地であったり寺の土地であったり、すべて所有権が決まってたんですけど、この森はシシ神に属している。このメモにも「ここを手に入れれば、自分の国が作れる」というふうに書いてあるんですね。
ここまで読めば、このエボシって、なんとなく「正義の人」みたいに見えますよね?
確かに、映画の中でも、売られた女の人を引き取ったり、ハンセン氏病で差別されている人達も優しく介護して仕事を与えるという、すごくいい人に見えるんですけども。
だけど、「ただのいい人」というだけでは説明できない矛盾というのが、このエボシにはいっぱいあります。
たとえば、僕がやっぱり最初に気になったのが「タタラ場には子供が一切いない」ということなんですよね。
宮崎アニメには、いろんな村が出てくるじゃないですか。『ナウシカ』での風の谷とか、『ラピュタ』のスラッグ渓谷とか。こういう場面では、必ず子供達が外を走り回ってるんですよね。
ところが、タタラ場には走り回る子供がいない。
それどころか、母親に抱かれている赤ん坊すらいないんですよね。
これに関して宮崎駿自身は、当時の『もののけ姫』の映画パンフレットの中では「いやあ、そこまで描いてる暇がなかったんですよ」なんて言ってるんですけども。 「描いてる暇がない」なんて言い出したら、『ラピュタ』や『ナウシカ』を作っていた時の方が絶対に忙しいはずなんですよ。
描いてないのには、描いてない理由があるんです。
では、その理由とは何かというと「このタタラ場というのは “開拓村” だから」なんです。
開拓村というのは、18世紀から19世紀のアメリカ開拓時代によくあった、ようやっと村として成立してから10年とか5年くらいの年月しか経っていない村のことです。
まだまだ「常に周囲との戦闘状態を続けている」みたいな村のことですね。
タタラ場という場所では、家をなくしたり親に売られた女の人達は受け入れているんですけど、子供や老人という「働けない人」を積極的に仲間に入れるほどの余裕がない。
まず、それだけの食料がないし、開拓村ですから、働けない人は養えないんです。
タタラ場の外れには、隔離されているようにハンセン氏病の人たちの暮らす区画というのがあるんですけども、彼らは「石火矢を作れる」という能力があるから、
あそこで飼われているのであって、どちらかというと「弱者には厳しい環境」なんですね。
だけど、タタラ場の中で結婚している人もいるんだから、子供が産まれないはずがないですよね?
にも関わらず、子供の姿がまったく見えないということは「外の子供を引き取らない」のと同時に、おそらくは、すごく厳しい「産児制限」、つまり「子供を産んじゃいけない」というルールを敷いているんだと思うんですよ。
たぶん、このタタラ場の中に蔓延する、男をバカにして「女の方が強いんだ!」と言うような文化も、同じような目的で、意図的にエボシが作っているんだと思います。
もっと大きい村になって、もう少しみんなの生活に余裕が出来るまでは、できるだけ無軌道に人口が増えないように、かなり注意している。
これが、エボシ御前が単なるいい人に見えない、矛盾点の1つ目です。 名作侮辱して飯食ってるセクハラクズのインチキ岡田豚死なないかなぁ 師匠連とアサノ公方がグルとか言ってる人いるけどそういう描写あったの?
タタラ場を襲うタイミングに関しては、ずっと様子を伺ってるんだからアサノもすぐわかるだろうし
歴史的に見れば師匠連(朝廷)とアサノ(豪族)って対立関係にあるはずなんだけど そこらへんハッキリ書かれてないから憶測するしかないってだけでは 見落としてたかと思ったがやっぱり描かれてなかったのね
それなら歴史的な観点や劇中でも兵や武器を貸し与えてたって描写から
師匠連はタタラ場とは同盟関係。アサノ公方とは敵対関係と考えた方が自然だね
んで最終的に師匠連は同盟関係を破棄して師匠連vsタタラ場vsアサノの三つ巴を考えてたんじゃないかと >>700
モロがいつか元の人間の世界へ帰れるように育ててるからそれはない もののけ姫の世界観ってやっぱり日本てきではないよね
日本人の自然との関わりというよりも欧州のそれに近い気がする もののけ姫って、もっと強いのかと思ったら、初戦闘シーンでいきなり気絶かよ!弱いな
あそこでアシクサ(足臭)とかいうやつが助けなかったら、話終了やんけー! もののけ姫が人間より動物の方が良いって言ってるけど
あの世界の動物は普通に人間語喋って普通に人間と同等の知性感性が有るからな
ほんとの動物じゃ無いじゃん!
そんな子供だましな設定の作品で自然と共生がどうのこうの言われてもなあ 主役のアシクサ(足臭)って、おまえ誰の味方したいんだよ!った感じだよな
製作者達の、どんな主張に対しても取り敢えず文句言っときゃ、かっこ良いって言うカンチガイ丸出しのアホな映画だな 他のジブリ作品と違って
もののけ姫はラストまで怖さとか不気味さとか緊張感が続くから見入ってしまう ジブリ映画の統一された連続的な世界観について(考察)
結論から言うと
「風の谷のナウシカ」「となりのトトロ」「もののけ姫」3部作と
「天空の城ラピュタ」の世界観には統一された連続性がある
「もののけ姫」=過去の世界(サン、シシ神)
「となりのトトロ」=現在の世界(サツキ、トトロ)
「風の谷のナウシカ」=未来の世界(ナウシカ、王蟲)
サン-サツキ-ナウシカ→血族関係がある同じ一族の人間
シシ神-トトロ-王蟲→血族関係のある同じ一族の神
「となりのトトロ」と「風の谷のナウシカ」の間の時代に
空中にある「天空の城ラピュタ」の超科学技術が地上の人類の手に渡る
その一つの証拠が「キツネリス」である
それによって「火の七日間」が起こり「腐海」が生まれてしまう
これが「風の谷のナウシカ」の始まりである
「もののけ姫」のキャッチコピー「生きろ。」という言葉は
「アシタカ」が「サン」に伝えた言葉であるが
それを「サン」は子々孫々まで伝えさせ「ナウシカ」に届く
その言葉を受けとった「ナウシカ」は最後の言葉として
「生きねば・・・」(漫画版)と答えたのである 駿ってよく屋久島の山登れたよな
あそこ2000m以上あるから、一日中ひたすら歩かないと帰ってこれないんだけど、
ひとつひとつ観察してたんだから立ち止まったりしてたはず
すげー体力と時間使ったと思うわ アシタカの小刀って、
掟で会えないのを分かってて、アシタカがそんなこと自分からやぶることがないのカヤも分かっているの前提で、
@カヤは恋愛とかより、アシタカの幸福を願っている
Aアシタカも、カヤは恋愛じゃなくて、自分の幸福を願ってくれたくもりなき願いを出してくれたのは分かっている
Bサンがアシタカのパーソナルに入って、アシタカはカヤの願いを分かっているから、カヤが願ってくれた幸福を守るために、もう自分と言うパーソナルのサンに(カヤの願いの成就にもつながるから)
Cカヤも脳内物質気持ちいいとかの恋愛じゃなくて、アシタカの幸福を願っているところに居るから、
仮に知ったとしても、「掟でもう会えないし、掟をやぶって会いに来るそんなアシタカはやだし、でも幸福になって欲しい」と言う願いが叶ったことを心から(気持ちのどこかに何かがあったとしても)祝福してくれる
ってことでいいの?サンとカヤが声が一緒なのは、カヤがアシタカの幸福を願っていると言う本当の願いが、サンと言う存在でカヤの願いも一緒に達成されると言うことを表してるのかもね
宮崎さんのことだから何かもののけ姫の時代背景の風習もあるかもね
大人になってから見ると色々思わされるなーこの映画。世の中、敵とか味方とか単純なものじゃなくて、色んな方向でからみあっていくって言うのもさー
骨太ないい映画だった ジブリパーク、原生林は無理だからタタラバの里山風景活かすってことだろうけど、もののけなら縄文杉みたいなのもあったらいいが、1000年以上かかるから無理だなw
森にどでかい木があって、こだまがカラカラカラと… 久々に鑑賞した。約25年前に製作されたモノとして差引いて観ても脚本、本編音楽…素晴らしいよなぁ… 声優陣に数名???ってのとメインキャラ(デイタラぼっち等)を現代版に描き起した作品を観て見たい。 考証的に アシタカ の年齢ってどれくらい?10歳? しかし かっこよいわ…弓引きの細かな描写も流石にミリオタ監督だわ。弓の軌道なんて素晴らしい。 いや普通に初見では見た目や立ち居振る舞いは10歳いくかいかないかと思う >アシタカ の年齢ってどれくらい?
15から18くらいか?見た目的に 俺もアシタカは10歳前後に見える
妹も一桁台に見えるから 設定ではエボシが12歳でアシタカとサンは7歳と6歳
カヤは5歳なんだよな
あのジコ坊は19歳だというから驚きだ ジコ坊はどう見ても90代だろ…ヨボヨボだし
例えるなら大島渚とか森繁久弥みたいな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています