【沖浦監督】ももへの手紙【作画】 5通目
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2012年4月21より全国公開 絶賛上映中
公開終了前に早く観に行こう!
◇公式サイト
http://momo-letter.jp/
◇ストーリー
“ももへ”その一言だけを手紙に遺して、亡くなったお父さん。
お母さんとふたり、東京から瀬戸内海の田舎に引っ越してきた少女もも。
辿り着いた汐島は、昔ながらの家々と自然に囲まれたどこか幻想的な町。
なじめない新しい生活に、ぽっかり穴の開いたももの心。
「お父さん、本当はなんて書きたかったの・・・?」
ある日ももは、屋根裏で一冊の古めかしい本を見つける。
その日から、ももの周りで不思議なことが起こり始めるのだった――。
◇スタッフ
監督・脚本・絵コンテ:沖浦啓之
作画監督:安藤雅司
作画:井上俊之、井上 鋭、本田 雄、西尾鉄也、青山浩行
美術監督:大野広司
◇主題歌
『ウルワシマホロバ 〜美しき場所〜』 原由子(サザンオールスターズ)
前スレ
【沖浦監督】ももへの手紙【作画】 4通目
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/animovie/1337048020/ >>590
論理的な意見交換であれば、欠点を言おうが、擁護しようが、荒らしでも何でもない。
俺の感想に論理的欠陥があるのであれば、論理的に指摘して証明してもらうことは大歓迎なんだがな。 で、なんで沖浦は子供がそっぽを向く子供を主人公にした
子供が見るアニメをつくったの?
深夜にやってる大きなお友達向けの魔法少女アニメじゃあるまいし。 >>593
おそらく、日本アニメの質的底上げのための使命感。 沖浦もやりたいというより、やらなきゃいけないというような話をしてたけど、
なぜ、子供がひきつけられるもので日本アニメの質的底上げするもの目指さないの?
むしろそちらの方が日本アニメには刺激になるんじゃ、アートに逃げちゃえば、
いくらでもいい訳も無視もできることになる。 >>595
アートに逃げるって言い方はちょっとおかしい。
監督は監督なりに受けると思って作ったはずだが、結果、あまり受けなかったというのは、
監督のセンスが大人向けで高尚すぎて、ライトな観客の求めるニーズと合致しなかったというだけのこと。
たしかに、もっと意識的に大衆に受け安いように修正(キャラをかわいくするなど)することは出来るが、
それよりも、大衆をもっと高尚なアニメに触れさせ、
アニメ文化のさらなる成熟を狙った教育的指導という役割を選んだということだろう。
萌えアニメやロボットアニメばっかりの日本のアニメの歴史の中で
「ももへの手紙」があるか無いかでは大違いだ。 ちなみに「ももへの手紙」は、作劇的には教科書のようにしっかりしていて見るたびに感心するわけだが、
「マイマイ新子」は、構成がいまいち読めないにも関わらず、3年たって見直しても感動してしまう不思議な映画。
俺の作劇に対する理解度が足りてないのか、
ただ単に疲れてて、癒しアニメに癒されてしまうだけなのか。
「マイマイ新子」だけは、いまだに謎が残る。 大人向けで高尚すぎることと子供にうけることは対立項目であろうか、
ピカソが自分の描くことの理想は子供のように描くことといっている。 お前が知ってるその教科書だけどさ
内容デタラメだから捨てたほうがいいぞw
だってももはその教科書通りに正しく作られてんだろ?
ならその教科書が間違ってるってことじゃん >>599
どこが間違ってるか、具体的に指摘してくれたら捨てるよ。
デタラメと言うだけならバカにも言える。 あ〜。
今、「思い出のマーニー」を見終わった……。
ほら、もうジブリには期待できないだろ? 「アリテッティ」
「コクリコ坂」
「思い出のマーニー」
全てにいえることだが、ストーリーテリングがもうダメダメ。
ジブリ的には起承転結をつけたつもりかもしれないが、現代の作劇はもっと進化していて、
あの状態ではどれも「起承」で終わってしまってるんだよ。
「謎を含んだストーリーが展開され、謎解きをしておわり」
それだけでしょ。
「アリテッティ」→安住の地を求めて旅立ちました。めでたしめでたし。
「コクリコ坂」→本当の兄妹じゃなかった。めでたしめでたし。
「思い出のマーニー」→おばあちゃん大好き。めでたしめでたし。
ラストの10分前くらいでもう謎は解けてるから、あとは余韻という名の時間つぶしだけになってる。
ラスト10分カットしたって、観客にはもう結末が全てわかってる状態。
それじゃあ、面白くないわけで。
上手な脚本家は、ラスト1分前でテーマを押し出してくる。映画全体を総括してくる。
もものラストのダイビングのように、
ラスト1分前まで緊張感を持たせて綺麗に閉められる脚本家はめったにいないんだよ。
沖浦が脚本家としても秀でてることがよくわかっただろ。 「シャッター アイランド」という映画がある。
これも、謎解きがメインの映画だが、
ほとんどの観客は、謎がすぐわかることだろう。
それはそれで構わない。
重要なのは、ラスト1分前まで緊張感が保てられるかどうか?
「シャッター アイランド」は、最後の最後まで目が話せないし、
ラストの台詞こそが、この映画のテーマになっている。
謎解き映画ってのは、こうあるべきだよね。謎が解けてそれでおしまいじゃあ、チープすぎる。 >>600
アホかよ
ももは教科書通りと言ったのはお前だ
自分の言ったことぐらいお前が責任持てよ
ももはつまらない。それはお前も同意してたよな。
ならその教科書はつまらない脚本の書き方が書いてるってことだろ。
すくなくともその教科書のタイトルは「つまんない脚本の書き方」に変えるべきだ >>604
高校の教科書を小学生に見せても面白いとは言ってくれないだろ?
だからと言って、高校の教科書が間違ってるわけじゃない。
高校の教科書を小学生に売りつけるような営業が悪いということだ。 ももは高級な名作。理解できないのは観客がバカだから
結局、お前の理屈は意識高い系のバカ信者たちと同じだな
どうせお前のいう教科書も妄想で作った架空の教科書なんだろw 「ももは高級な名作。理解できないのは観客がバカだから 」
その通りですが、何か?
不満ならバカを卒業して、知的になってください。 >563
>業界人風の悪口しか言ってないな
それが論理的な反論か
話にならん こいつのよく分からんとこは、自分こそデタラメな理屈で擁護してるだけなのに、
他人には正答を求めるとこだよな
んで、論理のデタラメさを指摘されると「バカを卒業しろ」とかいってキレる
不満なんてあるわけないだろ
バカ信者がバカなのはお前に限った話じゃないし >>609
デタラメな理屈と評すからには、君は正答を持ってるってことだろ?
それなら、正答を書き連ねて、俺をギャフンと言わせればいいじゃん。
正答を持ってないのに、デタラメな理屈と評してるのなら、君はただのバカ。 こいつはどうしてこんなに筋の通った批判をして欲しがってんだろなw
多少でもまともに論理立てて擁護してくれたら、こっちも突っ込めるんだが
ただ架空の教科書通りだから正しいとしか言わないアホに何を突っ込めばいいんだよw >>611
悪いのはお前だ
このスレは本来この映画に感動した人たちが無茶苦茶な理屈でも褒め称えて気持ちよくなる場所だ
それにこの人は自分に都合の悪いことは聞かなかったことにするか本当に理解できない人だから構うだけ損するよ >>612
悪いのは俺なのかよw
普通は「つまんない=間違ってる」だろと突っ込み入れただけなんだが・・ >>613
たとえば、エヴァンゲリオンなんてのは、面白いと思ったことはないが、
世間で受けているのは認める。
そういうもの。 >>614
いや世間で認められなくてもはたから見れば理屈が通じなくても
仲間内で喜ぶ場所があってもいいじゃないって意味でね 「ももへの手紙」「思い出のマーニー」「シャッターアイランド」
どれも主人公の内面を観客に隠しつつ謎を残しながらストーリーが進む。
「思い出のマーニー」「シャッターアイランド」は、ホラー風味で冒頭から恐怖を感じる。
一方、「ももへの手紙」は、妖怪が出てくるというのに恐怖を感じることがなかった。
この差は何だろう?
シャッターアイランドは、島に近づく船に乗る主人公の姿で始まる。不吉な予感を感じさせる。
ももへの手紙もシチュエーションは同じだが、不吉な予感は全く無い。
マーニーの冒頭、園児が遊ぶシーンは、楽しそうな画面なのに怖くて仕方ない。
あれは、楽しそうな園児の姿とは裏腹に、これから恐ろしい話が始まるという語り口のように見える。
案の定、園児が泣き出し、主人公は苦しみもだえる。
なんで、米原はホラー仕立ての文法でマーニーを撮ったのだろうか?
これもやっぱりセンスなんだろうなあ。
ももは、暗い話しなのに、過度に陰鬱にならないようにコントロールされてるように見える。
水滴が落ちてくるときのポヨンといった軽い効果音もその理由だろう。
マーニーはホラーにする必要無いのに、不吉な記号を画面に入れ込んでくる。
実は、ももを最初に見たとき、妖怪の怖さを出すホラーっぽい演出が足りないと感じていた。
マメの影を最初に見たシーンでも、「マメの影が手を振ってる」という、
コミカルな見せ方じゃなくて、もっと不安を煽るような見せ方がいろいろあったはずなのに、
なぜあんな風にあからさまにコミカルにしたのか?と、ちょっと不満だったのだが、
マーニーを見た後だと、ホラーな演出にしなくて正解だったとよくわかる。 ちなみに、マーニーは、完全な子供向けの童話アニメです。
大人が出てきても、主人公を見守り、導くような存在ではありませんでした。
おじさんおばさんも、ただの記号で、存在感は無かった。
実際には大人はもっと子供に「どうしたの?」と問い詰めていくんじゃないだろうか?
しかし、マーニーの大人たちは、主人公に余計な詮索を一切しない。
舞台装置の一部であって、育ての親すら主人公の内面に迫ってこない。
つまり、大人に干渉されないで、子供の世界だけでストーリーが進む話の典型だ。トトロも同じ。
子供向けアニメの体裁だから、子供に受けるようでなければいけないのだが、
ホラー仕立てなのがちぐはぐな感じなんだ。
大人向けではないのに、子供が見ても好きになれない映画になっている。
マーニーが好きな子供っているのかな?
子供がひとりでマーニー見てたらと想像すると怖い。 マーニーが怖いのは、精神病患者の夢想を見せられてるんじゃないか?
ということになる。
「シャッターアイランド」もそうだし、「ブラックスワン」もそうだ。
どこまでが現実で、どこまでが幻想なのか、境界を曖昧にして観客を不安に陥れる。
そういう作劇って、作るほうは面白いし簡単だから、いくらでも作れるんだけど、
ホラー映画にカテゴリされるものだから、そういうものが好きな観客を相手にした映画でないといけない。
米原もホラー好きでそういう風に撮ったんだろうけど、子供向きアニメでやるような手法じゃないよなあ。
ももへの手紙は、ホラー感はほぼ無く、全体をさわやかな空気が包んでる。
これも見習うべき技術の一つだろう。
ももが初めて妖怪の姿を目にするシーン。雷鳴に合わせて、妖怪が浮かび上がる。
あれは、本来なら、妖怪が主人公を大口開けて睨みつけて脅かすようなシチュエーションですべきところを、
妖怪は主人公を見ず、口を開けてるのは食べ物を食べてるから、という風にした。
で、主人公はびっくりして口を開けてるのが、妖怪の口とリンクしてコミカルさが漂う。
驚いてるのに、過度に怖がらせないという面白い演出だ。 ようするに、マーニーは主人公が脳内で作り出した幻影なのか、
実際に時空を飛び越えて遭遇したのかが、曖昧なまま終わらせてしまった、というのが問題。
監督は「どちらでも解釈できるように」したつもりなんだろうけど、
幻影だとしたら、精神病患者の夢想というホラー映画になってしまう。
いくら主人公が明るく成長したとしても、後味がちょっと悪い。
原作は知らないが、実際に過去のアーニーと次元を超えて遭遇したのだと明確にしたほうが良かったのではないか?
絵描きのおばさんが、実は未来の主人公でもあったというオチでも良かった。
そういう解釈も成り立つように作ってはあるようだが。
過去の時空と主人公が結びつくファンタジー映画の例では「キッド」「イルマーレ」なんてのがある。
主人公が次元を超えて過去にいったということを明快にするためには、
主人公が、過去のサイロで何か落し物をして、現代のサイロでそれを見つけた、とやれば簡単。
タイムスリップ物の常套句ではあるが、病的さは払拭され、より爽やかさが増す。 「ももへの手紙」では、それまでの出来事が主人公の幻影では無い、と宣言するために、
最後に2通の手紙を添えてよこした。
「ももへ」と書かれた手紙がイワに落書きされたままなのが、
本当に妖怪と出会っていたという証拠になる。
これが、何も書かれてない手紙だけで、ももが父の文面を見たとしても、
ももの幻影なのか、本当に父からの手紙が天から届いたのか、解釈が分かれる結果になってしまう。
曖昧な作り方にしない、という意思を理論的に感じるのが気持ちよい。 マーニーの原作は知らんが、映画としての作劇としては、あのラストの展開はNG。
だいたい、屋敷の少女の素性を、第三者にベラベラしゃべらせてるなんてありえない。
そこはミステリーとして主人公が自分で聞き込みして調べに調べて少女の素性を明かすべき。
で、観客にはその時点でマーニーの正体もわかっちゃうんだから、
隠しておくのなら、マーニーの正体がいつちゃんと主人公にわかるのか、
そこをハラハラドキドキな演出にしないといけない。
主人公が正体に気付く寸前にジャマが入るなりして正体に気付く前に、
マーニーと喧嘩したまま帰らなきゃならなくなるとか。
メガネの子が先に主人公とマーニーの関係に気付くけど、
それを主人公に話すタイミングがすれ違って合わないとか、じらし方はいくらでもある。
主人公とマーニーが再会するのをドラマチックに盛り上げて、
主人公も成長するという展開にすべき。
マーニーのラストってそういうシナリオの起伏が無くて、平坦に謎解きされて平坦に終わってしまう。
ありえないだろ。バカなの? アンナが、自閉症で自分が嫌いというキャラ設定はいいとして、
「絵が上手い」という設定はいらないと思う。
なぜなら、自分が嫌いなのは、自分が好きになれない、自信がもてないからであって、
自分がどういう人間か、他人に上手く自己紹介できない、だから、他人から自分のことを聞かれるのは嫌で、
他人を避けたがるようになる。
これは「もも」も同じで、島の子と友達になろうとしても、
なぜ、都会から島に着たのか?という説明のために、父が死んだことを説明しないといけないし、
父の死の説明をするためには、父と喧嘩した辛い記憶を思い出さないといけないわけで、
そんな面倒な目に合うよりは、他人を遠ざけたほうが楽だ、ということになる。
自分の生い立ちのストーリーを自信を持って他人に話せない=自閉症だ。
で、もももアンナも、ラストでは、
自分の生い立ちのストーリーを自信を持って他人に話せるようになる。
自閉症の克服というわけだ。
が、アンナのように絵が上手いという特技があれば、むしろそれが自信となり、
孤独であっても寂しさはそれほど感じない芸術家タイプになるはずだ。
しかし、映画的な見栄えとして、絵が上手いという設定にしたのだろう。
反面、絵が上手いという特技があるのに、わざわざ他人を傷つけてしまうという
非常に嫌なタイプの傲慢なキャラ設定になってしまったのは失敗だな。
もちろん、そんな自分が嫌いで、嫌われて当然と、なお自閉的になるのは理解できるが、
そこまで嫌なキャラにする必要があったのか?
友達との喧嘩も、両親のことを聞かれそうになって、慌てて悪態をついて逃げる、で十分だろう。
ももの場合は、そういうシークエンスを採用している。 自分の過去を悔やんでいる、罪を背負っている、生い立ちを呪ってる、
そして他人を遠ざけたり、傷つけたりする主人公が、
自信を取り戻す、罪を許される、過去を乗り越えるストーリーというのは、短く言えば、
「喪失したものを回復する」という作劇パターンに分類される。
そして、目的を達成した主人公は成長する。
ももの場合は、親子の絆を取り戻す話しで、成長したことの暗喩がダイビングだ。
アンナの場合は、祖母との絆、自分の生い立ち、ルーツを取り戻す話しであるが、
成長したことの表現がいまいちインパクトが無い。
義母を「母です」と紹介したり、友達と挨拶したくらいか。
ヘタな脚本家が無い知恵しぼってちまちまネタを搾り出して並べただけに見える。
もものダイビングは、鋭さ、キレがあって、ビジュアル的にもとても良い。 自閉症って脳機能障害なんでその中で成長したりはするけど克服するようなもんじゃないよ。 言いたいことがあるなら、他人と論理的な議論ができるスキルを身につけてきなさい。 言いたいことは全部言った
借り物の理論とやらで他人を叩きたいだけの下衆がどこまで堕ちるか見ててやる お前らよくこんな糞映画でそこまで熱くなれるよな
地上波で放送されても誰も語ろうとしないほどの糞映画だってのに
てかお前らIGの社員か関係者だろ
白状しろよw よくあるクソ映画とは格が違う
日本でトップクラスのアニメーターがたっぷり時間と金をかけて作った超特大のクソだ
しかも、そのクソを持ち上げるふりして自分を持ち上げたい勘違い野郎が踊ってる
ちょっとした見ものだ ありきたりの糞映画じゃ、こうはいかない ほんものの少女をさするつもりで描いた絵だということはわかる
米林のようなイミテーションではない 無理して作ったような話なので、妖怪の暴れ方がくどい。 クライマックスのバイクのシークエンスが強引すぎ。
四輪でさえ規制かけているのに二輪で進めるはずがない。
上の方で嵐の中でバスに乗った体験書いている人がいるけど、
ほんと、二輪なんか、全然進めないよ。
だから橋の途中で止まったでしょ、っていう人がいるけど、
まず、そこまで行けないから。
まだ郵便屋の車が四輪だったら、少しは説得力があったかも。
郵便屋が馬鹿だからOKだろっていう人がいるけど、
馬鹿どころか、これじゃ知的障害者だろ。 >>632
ロリコンはマストでチェックな作品だよな >>631
もっと吠えなさいよ
遠慮しなくていいから この映画はアンチより擁護のほうが圧倒的に難易度高いよな
そういう意味であえて難題に挑む擁護派の姿勢は積極的に褒めてやりたい
同意できるかは別だけどw ストーリーについては超ベタベタな設定で失敗してるんだもんな
これが個性の強い題材で暴走の結果失敗してたら褒めようもあるのに 沖浦の慎重な性格からいって、自分の原案で劇場やるのは初めてだから
できるだけ安全なネタで勝負したかった、というのはあるだろう。
それが結果的に仇になった。攻めの姿勢が見えない。無難なだけで、つまらない。 どこまでいっても予定調和なんだよ。冒険活劇なら王道ってことで許されるが
泣かせ入ってるドラマだと観てる側がしらける。ラストでダメ押ししたのが
なお良くなかった。手紙が戻ってくるとこは不要。 予定調和を前提とした段取り芝居と説明台詞ばっかだよなw
あと素人がよくやる安易な設定隠しと情報の出し惜しみ
本人は謎のつもりでも、出すべきものを出さずに伏せてるだけだから観客には意味不明なだけ
最悪なのは、そうやって出し惜しみした設定すら、ゴミみたいな設定w
たとえば妖怪の目的が明かされるまで1時間もかかるけど、明かされる任務が「見守り」w
普通はガラリと状況が変わるようなネタが明かされるのに、そんな糞つまんねー設定明かされた
ところで、観客はどうリアクションすりゃいいんだよ
ああそう、としか言いようがないだろw 最近ageで長文連投する馬鹿が言ってることは正しいんだよ。ろくに学のないアニメーターだって
劇場やる前には一応理論武装する。その理論武装を客が見抜けるのは当たり前で、作品の解釈を行う
前提でしかない。なのに、馬鹿は自分の頭が監督並みに良いと勘違いして有頂天になっちゃってさ。
付け焼き刃の理論だけで面白いアニメ映画撮れれば世話ないっての。宮崎と高畑以外のジブリ映画も
同じ。監督は勉強してるよ、一応。でも底が浅い。本人は気付いてないのかね。親切に指摘してやる
知合いはいないのかね。監督と程度の変わらない馬鹿の集団が映画を作ってるのかね。
結局、連投した奴はももの監督と同じくらい自分が馬鹿で、しかもそのことに気付いてないっていう
二重の馬鹿であることを告白したに過ぎない。
何が「論理的に」だよ。笑かすな。 >>642
同意。
最近の作品で同じようなのは、テレビだけど「グラスリップ」(西村純二)。
無理のある世界観・設定。不自然なストーリー展開。
思わせぶりで底の浅い演出。
監督本人は計算し尽くしているつもりで、実はことごとく滑っている。
狂信的なファンだけが、俺は分かっている、高尚な作品を分からない奴は馬鹿、とネットで暴れる。
売れないのは良昨の証拠とまでわめく始末。
そのくせamazonの酷評群には誰も反論できず。
「高尚」という言葉を使うのなら、
ノルシュテインや川本喜八郎ぐらい観てからにしろよ。 たまたま久し振りに見たくなってBD引っ張りだしたけどなんか妙に盛り上がってんなここw
でもやっぱり酷いねこの映画は。沖浦に監督や作家としての才能がまるで無いのがわかるから哀しい
作劇も陳腐で妙なミスが多いしキャラクターに血が通ってない
劇中のリアクションが妙に簡素なんだよね。「はぁなにそれ」みたいな白けたムードが終始漂ってる
ももがコメディチックにおどけたりするからなお白ける。あと「はぁ…」みたいな呆れるリアクション多すぎ
妙に現実的な冷めた会話やリアクションと、呆れるリアクションと、吉本新喜劇系のギャグと、取ってつけたジブリ笑いしか無い
この騒動を通して誰と誰が仲良くなりましたとかそういうことがまるで感じられない バランス感覚が非常に悪いんだよね。沖浦の人間性が元々そうなのか、単に経験不足なのかはわからないけど
例えばお母さんが郵便屋のおっちゃんと仲良くなるのとかさ、ももが疎外感を覚える要素として入れるのはわかるけど
旦那が死んだ直後で、「生活も苦しい」みたいなことも散々匂わせておいて、異性にああいう態度を取るってのは
これはもう女の嫌らしさというか母の逞しさというか、父を失って再生する家族の物語としてはふさわしくない気配をどうしても感じ取ってしまうわけ
個々の要素はありきたりだけど、合わさることで恐らく監督も気付いてないマイナス効果が生まれてしまってる
これがバランス感覚のある監督だと、あくまで郵便屋のおっちゃんの片思い程度に押しとどめるんだよ
話はしてくれるけどいつも娘のことばかり話して異性としては全然見てくれてないみたいなことを表現する
でもこの映画ではなんかもう明らかにお母さんも好意持ってるよねってかんじだよね
顔とかおどけ方とかがお父さんとちょっとタイプが似てるのもマイナス。「あぁどうせくっついちゃうんだな」って思っちゃう
こういうのは正反対の無骨な男とかのほうがわかりやすくていい あと単純に脚本がおかしいよね。アートブックには「トトロと同じ要素の鉄板題材」とか書いてあるけど
題材的にはまぁ似てるかもしらんが、脚本的には全然似てない
主人公がなにを思ってるのかが終盤までわからない謎構成だし
母親が倒れるまでなんの目的意識もない脚本なんだもん
トトロは最初からお母さんが入院しててお父さんは忙しいってことが描かれてるし
抑圧型のサツキと直情型のメイって配置だから、説明的にすることなく「母親の寂しさ」を伝えることが出来てるわけ
そしてその寂しさを埋めるように神秘体験がちりばめられてる。大して目的意識こそなくても、「家庭の事情」と「神秘体験」の相互の関係性がハッキリわかる構成
ももの場合はなぜももがお父さんと喧嘩になったかが終盤までわからないからイマイチ傷心の気分を感じにくいし
妖怪は金食い虫の厄介者としか描かれてないから心も温まらない
中盤のイノシシのシーンなんてドラマ的には「妖怪の腹埋めるために食い物探してる」だけだからね
あの辺りはほんとにこの程度の意味しかないことに延々時間割いてる。娯楽映画としては絶句するような状態だよ
最後に妖怪軍団が助けに来るのとかも、確かにマメの周りになんか居たのは描かれてるけど
あいつらがもものためになんかする動機はないわけじゃん
トトロは、サツキとメイがトトロと遊んでたし、ネコバスはトトロの紹介で助っ人にくる
トトロでいえば、いきなりネコバスが助けにきてるようなもんなんだよねもものは
一応配置はされてるけど因果関係がまるでないことが多すぎるんだよ 沖浦はべらぼうに絵が上手い、その点に関しては宮崎駿より遥かに上だけど
イマジネーションはまるでド素人みたいなんだよな
美術設定とかは流石にすごい取材力と再現力だと思うけど
肝心の妖怪の描写が全然面白くない
水滴が頭に当たったから見えるようになったとかなんじゃそりゃ?ってかんじだし
ソラに手紙送る儀式とかも、つまんねー吉本の芸人みたいなノリ。なんも奇抜な発想とかない
妖怪のデザインも気色悪い老人みたいだし、モブ妖怪に至ってはクソ適当なラクガキみたい
妖怪の肌の色も最悪。土気色の死体みたいで気味が悪い。赤とか緑とか青とかそれくらいしないとこういうのは絵的に映えない
千と千尋の神様達だってラクガキみたいなのばっかだけど、いちいち個性があって面白いよね
でかいヒコヨみたいな神様とかよくわかんない干物の氏神みたいなのとか。赤や黄色と色もカラフルで趣向がこらしてある
ももは終盤の妖怪集合列車はウンコの塊みたいな色してる
発想の貧困なつまんない人間が宮崎駿の真似しようとして、絵があんまり上手すぎるんで形だけは出来てしまった不幸な作品
大友にタイプが似てるけど、大友は絵が上手くてイマジネーションもあるけどドラマが作れない人だからちょっと違う 沖浦はこの映画作る前にトトロとキャスパーを100回見て勉強するべきだったと思うよ
沖浦がやりたかったことを100倍上手くやってるから
というかこの作品の脚本を教科書通りに直すとほとんどキャスパーになるだろうな
こういう設定、こういう題材で人を楽しませて感動させようとすると自然とああいう筋になるしかない
親を亡くした傷心の少女の再生の物語と、ひとりぼっちの幽霊の救済の物語
どちらもしっかり描いてる良作。ももは妖怪側になんのドラマもないからね
悪戯好きの3ゴーストの使い方と最後の救済の仕方なんて完全に理想型 てか、なぜ日本映画はこういう駄作が公開されるのかね
これ突然素人を飛行機に搭乗させて、指導教官も乗せないで離陸させたも同然だろ
どいつもこいつもファーストガンダム世代でアムロならなんとかするとでも思ったんだろうかw 宮崎駿が名実共に頂点に居るジャンルだから妙な作家主義信奉は間違いなくあるね
人間のキャパシティなんて限られてるんだから、適材適所で分担したほうがクオリティアップするのに
そもそも映画は様々な人材や才能が集結する総合芸術なのにな
沖浦だってコンテだけやった人狼はここまで酷くなかったわけで
まあ別に上手かったわけでもないけど 「ムーミン劇場版」をうっかり見逃したので、「楽しいムーミン一家」を見てる。
リトル・ミイというキャラがとても素晴らしいね。
毒舌家だが、物事の本質をついてくるし、人を欺いたりはしない。憎めないキャラだ。
同じ毒舌家のスティンキーは、ただ人を困らせてあざ笑うだけだ。
リトル・ミイというのは、作者にとってもう一人の自分なんだろう。
だから、「小さな私」という名前をつけたんだと思う。
自分が何か困ったり、行き詰ったり、あるいは嬉しい時でさえ、
傍らにリトル・ミイが居て「あまり調子に乗るんじゃないわよ。フフフ。」なんて言ってくるんだろう。
だから、日本の初期のムーミンアニメでミイのデザインが変えられたことに腹が立ったということもわかる。
ミイの手は黒くないとダメなんだ。肌色をしていたら、ミイじゃない。
でも、スティンキーみたいに、全身真っ黒でも無い。
初期のムーミンは、スタッフにとっては意欲作かもしれないが、翻案の仕方を間違えてしまってる。
原作をリスペクトすることを忘れ、設定をちょっと借りて、自分達のやりたい日本のアニメを作ってしまった感じだ。
日本のアニメもまだ過度期で試行錯誤の段階だったから、無理も無いだろう。
その点、「楽しいムーミン一家」は、自分達のやりたいアニメというより、原作の魅力を表現しようと努力してる。
いや、それがスタッフにとってやりたいアニメだったのだろう。
この頃のアニメは、技術も成熟してきて、まだ教訓的ないい話が視聴率を気にせずテレビで放映できたいい時代だったのかもしれない。 >>652の文章のどこがももとつながってるのか説明して貰おうか
理論的にな ももって原画スタッフは国内トップのアニメーターごろごろしてたがえらい地味だった印象しかないな
確かに作画は安定して綺麗なんだがそれ以外特に感想がない まあ作画はキチガイじみたレイアウトや芝居ばっかだったけどね
広角の俯瞰で階段を登るだとか
冒頭の郁子が家に上がる芝居だけで何枚使ってんのこれって青ざめるレベル
あれで流石に安定して綺麗って感想以外抱かないのは単に作画がわからないだけだろう 国宝クラスのアニメーターを総動員し、莫大な枚数をつぎ込んだ。その苦労とコストが
映画全体に貢献したのかというと、全然そうなってないのがこの映画の悲惨なとこだ。
費用対効果の計算が破綻してる。
この映画を作って達成したかった目標は、尺90分、コストにして半額以下で賄える。その
程度のネタだ。せめてジブリ作品なみに使い回しが利く名作になってればよかったんだが、
もう消滅しかかってる。恐ろしい話だが、実際この種のアニメ映画はもも一本だけじゃない。
スチームボーイ、レッドライン、メトロポリス。
この手の映画ができあがってしまう原因を、もっと真剣に考える方がいい。主に製作側が。 良い映画が出来上がる絶対的な方法や条件なんて無いんだからその論調は無意味だな
宮崎作品のように脚本が大したことなくても圧倒的な表現力と演出力で傑作になる場合だってあるのだから
脚本段階で「これは大したネタじゃないから費用もスタッフも回さない」とすると、傑作の生まれる“余地”すら排除することななる
そもそもこの映画やそれらの作品は全く良いところの無い駄作、というわけでもない
この映画の映像美、芝居作画は他に比類するものを見ないレベルのものだし
スチームボーイやメトロポリスも世界観や美術は圧倒的に凄かった(レッドラインは未見)
美術は映画の品格を決めると宮崎駿は言ってるし、実際“テレビアニメ”が“映画”になる境目は美術レベルの違いだと思う
最近は大友や押井のような「売れない大作監督」の仕事は減ってきてるし
劇場オリジナル作品の制作本数も年々減っていってる
代わりに増えてるのがテレビアニメの映画化。テレビアニメと大して変わらないレベルの画面の“似非映画”が増えてる
堅実なヒットが約束されてようが、俺はあんなものがいくら作られても業界や文化の発展には繋がらないと思ってる
IG系列のリアル作画技術は今や絶滅寸前だからな。ぶっちゃけこのラインが死滅すると日本のアニメート技術は大幅に劣化する
こういう変態的に凝った作品も必要なんだよ。本当は内容も面白くて、興行に繋がればいいんだけど
宮崎駿はたまたま発想力と表現力と演出力と大衆指向が良いバランスで混在してた作家だっただけで
本質的には沖浦や大友や押井のようなワンマン独り善がり作家と変わらない
事実、後期の作品はスチームやももと退屈さでは変わらないって人も居るだろう
日本にはなぜピクサーのような制作体制が馴染まないのか、これは不思議
国民性や社会構造の違いという根本的な部分からの差異が原因とする声もあるし >>658
映像的に華が全くないからね・・・
作画オタがレイアウトや原画でオナニーして喜んでだけで何の魅力もないの(それしか取り柄がないとも言える)
あそこまでのスタッフ集めてあの結果や出来は虚し過ぎる 華はあるんだけどコントロールが出来てないんだよ
ひとつひとつの画面の完成度はジブリ作品より遥かに完成度高いよ
ただ、演出意図がなく全編ほんとにただ綺麗なだけだから
結局印象としては埋没してしまう
例えば妖怪達に追っかけられて神社に逃げ込むシーンなんかは
それまでの民家のシーンとうってかわって緑一色の画面になってすごい綺麗だけど
演出的には全く意味がない。別に感動的な場面でもなんでもないし
逆に、妖怪3人との別れのシーンや郁子が喘息でヒイヒイ言ってるような
感情的に盛り上がるシーンでも他のシーンとの画的な変化がない
映像演出は、ロマンチックな場面では照明を増やしてピントをボカしアップにして
キラキラした画面を作るといった試みこそ本質なんだけど
ももにはそういう工夫が全然なくて、全編おんなじトーンの画面が続いてる
ソラとかももっと証明落として暗く埃っぽくてわざと黒く塗りつぶしたりして怪しい空間にするべきなのに
ほんとつまんない空間になってる
これも、沖浦が絵があまりに上手すぎて、印象より対象を冷徹に観察した結果だと思う ももは絵がすごいってよく聞くけど、正直ぜんぜんそんな印象ないからw
ももがどんな服きてたとかちっとも覚えてないし
てか絵柄も印象ないけど、ストーリーも主人公も妖怪も音楽もなにもかも印象残らなかったわ
聞かれてもストーリー説明できないし、どんな話かすらも思い出せなかった
タイトルだけは覚えてたけど
その点、トトロや魔女の宅急便は絵柄だけでもすごく印象的だった
どんなに絵がすごいと聞かされても、素人の俺にはとても同意できないし、評価のなんの足しにもならないなあ 宮崎駿みたいな画面コントロールを至上のものとして見ればまあそうなるだろうけど
ああいう印象に残りやすい画面以外がクオリティ低いってわけでもなかろう
宮崎駿はカラーリングから計算してやってるんだよ
例えばもののけ姫は地味な野武士達と差別化するためにアシタカの服の色をあえて青って派手な色にしたり
すごいよく聞くなら評価の足しにならないなあとか偉ぶってないでまず自分の了見の狭さを疑ったほうがいいぞ なにが気に障ったかしらんが、俺がももにどんな印象持とうが俺の勝手だろ
お前なんかに横からとやかく言われる筋合いねーよ
自分の狭い了見を他人に押し付けようとしてんのはお前自身だろがドアホ なんだ?
ももの唯一の取り柄が否定されてキレてるのか?
お前らが信じてた最後の砦すら素人にはどうでもいい事だと知って絶望したってかw
ダセえなお前ら
お前らがキレたところで、ももの印象が変わるわけねーだろw
アホかよ つまんねー奴だなぁ
ただ否定するだけなら小学生でも出来る >>661
レイアウトや作画は凄いが総合的に観た時に華がないって言ってる様に感じるかな
個人的にアニメーションには誤魔化しや目を引く過剰な演出は必要不可欠だと思ってる
リアルにすれば良いってだけじゃないもの…
色彩捨ててなければまた印象変わってたかもしれないのが勿体ない まあこれは押井的な方法論で宮崎映画作っちゃったってヘンテコな映画だからね
押井みたいな作風なら過剰な演出とか要らんよ
押井は押井で色んな工夫凝らしてる監督だけど
見守り組みはあえてファンタジーにしすぎず、つかず離れずの距離感にしたって言ってたし
そういう試み自体はアリだけどそれを可能にする工夫がないんだよね
そのせいでただ単に魅力のないつまんないキャラになってるし
宮崎映画みたいに飛ばせたり空を沢山映すとかってのもあえて抑えたとか言ってたけど
一方を地味にするならどこかを派手にしないと映画としてはね
ひたすら地味な方向へ、かと言って押井映画のような映画の空気感で語るような話でも題材でもない
リアル系アニメーターの悪い癖だね
電脳コイルの磯光雄は頑張ってたのにね。あれも企画書段階ではキャラクターはもっと気持ち悪くて
暗い作風だったけど完成品は結構キャッチーなデザインに仕上げてたし
当人からは想像出来ないお涙頂戴な展開も入れてたし
そもそも「自分には藤子的居候キャラは描けない」という自覚が磯にあったからああいう世界観にしたらしいし
沖浦も明らかにソッチ方面の素養はないのに、無理してやっちゃった >>日本にはなぜピクサーのような制作体制が馴染まないのか、これは不思議
ラセターが乗り込むまでのディズニーの迷走とか見るにあれは合議制による
集知による製作ではなく、ラセターなりによる管理製作システムなんじゃないのという、
ならラセターがいないと成立しないシステム。 監督個人の批判になるから、あんまいいたくなかったけど、
つまるところ、この監督の絵は表層的でちっとも本質的な部分を捕らえてないんだよ
絵描きにはさ、「絵を描く」必要性から物事を具体的に捕らえようとする傾向があって、
有名な画家にもなると超絶的に細部まで突き詰めないと気が済まない天才肌の人間が少なくない。
古くはレオナルドダビンチ、パヤオもそうだな
彼らの特徴は、物体の表面だけにとどまらずにその内部構造にまで立ち入って、
その本質を知った上で絵を描こうとする点
だからダビンチは解剖学までやっちまったし、パヤオもとんでもない博学を身につけてしまってる。
特にパヤオのすごいところは、得意とする機械工学や社会学だけでなく、人間の表情や感情の領域まで
踏み込んでるとこだな。だからパヤオのデフォルメには説得力があり、個性もある。
なら、この監督にそうした気質はあるだろうか。少なくとも俺にはそれがないように見えた。
なるほど、言われてみれば確かに絵はきれいだし、写真のように細部まできちんと描かれてる。
でもそれは、ただシャッターを切るだけの写真家のそれなんだよな。
もちろん写真家だって、一流の写真家は物事の本質を描き出す術を心得てるさ。
でもその技術は絵描きと共通するものであって、ただ写真のような緻密な絵を描くこととは本質的にちがうんだよ。
たとえるならパヤオは物事の本質を描き出そうとする絵描きであり、一流の写真家
この監督は単に絵がうまいだけの人
だから、彼に描かれるものは個性が不足し、印象にちっとも残らない。
おそらく本質を捕らえる努力をせず、ただ表層にみえる特徴だけ捉えて平らにならしてるだけだからだ。
これはもものストーリーにも同じ事がいえると思うよ
それゆえオリジナリティがなくて、単調な説明ばっかで、しかもご都合主義の結末になるのだろう
ようは物語の本質であるエモーション「人間の情動」の理解が圧倒的に足りないってことだな いっとくけど、コレ別に難しいこと言ってるわけじゃないんだぜ?
自分がいま見えてる事で満足せず、もう一歩踏み込めよってなレベルの話
他人より一歩踏み込むから新しい発見があり、新しい絵が生まれ、新しい物語が生まれるってだけ
それがなってないだろつーことだn >>671
沖浦が写真家ってとこはいいけど、お前さん宮崎駿に関しては根本的に誤解してるというか
根拠のない盲信をしてしまってるぞ。後学のためにも教えておいてあげるけど
宮崎駿は細部まで突き詰めないと気がすまない天才肌じゃない
それは高畑勲のほう。これはあの二人の関係やエピソードを知ってる人間なら誰でも知ってる
高畑はほんとに頭の良い人で、海外の風景を出すにしてもまず建築から調べるような人で
その高畑の下で三千里やハイジの場面設計をやったからこそ宮崎駿には圧倒的なレイアウト能力がついたわけ
でも宮崎は根本的には快楽主義の人で、そういう下調べや整合性を合わせるのは至極面倒臭いと思ってる人
高畑の博学さや徹底ぶりに比べると、宮崎駿はある程度の取材はするけど最終的には妄想力が勝る人間でそっちのほうを大事にしてる
後年、高畑と宮崎はここで袂を分かつことになるわけだけど
画力にしたって宮崎駿はそこまで高くない。沖浦のほうが遥かに絵が上手い
ただアニメーションのセンスは宮崎のほうがいいだろうな。沖浦や井上俊之等のリアル系作画の連中は
べらぼうに上手いし他の人間には描けないレベルの絵が描けるけど、動きのケレンミが足りないんだよ
例えば走り作画。有名な”宮崎走り”ってのは原画や中割りの枚数の法則が決まってて
脚をピーンとさせて走らせる、動きの快感を重視した手法だけど
沖浦や井上が描くのは電脳コイルでも見られる、千年女優の制作の時に本物の女性を走らせて取材したリアルな走り
重心の移動や髪の毛の揺れ方等ハッキリとした特徴がある
でも、いくらリアルなタイミングでもアニメーションとして気持ちがいいのは宮崎走りなんだよね
千年女優メイキング
http://nicogame.info/watch/sm10610898
宮崎走り
https://www.youtube.com/watch?v=iMWtWCnmH0E
ちなみにもののけや千尋で宮崎の右腕だった安藤雅司は、宮崎の走り作画に疑問を持ってジブリを出て
今敏の下でリアル系作画を学び、もものキャラデザ作監をやったりした
宮崎駿の本質ってのはそういう、整合性よりも自身の快感原則に基づいた法則の無視にあるわけ
だから宮崎映画は宮崎にしか作れない。別になんたら学に沿って正しい知識が〜とかいうわけじゃなく
単にあの人の眼を通した世界を写し取ってるだけだから誰も真似できないわけ でも、沖浦は、日本のアニメ監督で5本の指に入ることは確かだよね。
否定するなら、沖浦より才能のある監督を5人挙げてみよ。 もののけ姫はこうして生まれた アシタカの走りについて
https://www.youtube.com/watch?v=pFTczx-yhjA&feature=youtu.be
これを見ればよくわかる。ほんとは不自然な走り方なんだけど、アシタカの勇ましさを表現するために誇張してる
沖浦や井上は確かにべらぼうに上手いんだけど、芝居に演出意図を感じないんだよね
ももが妖怪から逃げるシーンもイノシシに追いかけられるシーンも一律に「上手い」ってだけ
走り作画自体は滅茶苦茶上手いんだけどね。宮崎駿じゃあれ描けないもん
でも見てて面白い、気持ちがいいのは宮崎走り 5本の指に入るアニメーターだからといって、5本の指に入る監督になれるとは限らない
その生きた見本が沖浦
アニメーターとしても監督としても同じように優秀な人間は5人もいない >>675
井上が宮崎の動きをコピーしようと思えば簡単にできる
ももでは沖浦に合わせて宮崎っぽく動かさなかっただけ
イノシシのシーンを宮崎に任せれば自分でコンテ切り直す
そして、そっちの方がオリジナルより面白い 宮崎はそういう人 沖浦が、日本のアニメ監督で5本の指に入ることを認めた上での批判なら良し。
そうでないなら、ただの妬みやっかみ。 >>678
現実から目を反らすな
ももで使いものにならないことが分かったから干された
沖浦が5本の指に入る監督なら、とっくに次の企画を任されてる
社外から原を招くまでもない 監督未経験の黄瀬に攻殻をやらせるまでもない
沖浦は杉浦漫画の原作をアニメ化する企画を石川に上げてたのに、石川は原に振った ももは海外のナンタラ賞を取りました〜ってネタでなんとか繋いでたけど
まあ次作が作れるほどの評価も支持もないだろうからなぁ
押井でさえ最近の劇場アニメ制作は時間かかりすぎって言ってるのに
平気でその何倍もかけそうなのが沖浦だもんな
そりゃ作らせないでしょ。あのジブリで、高畑でさえそういう制作したかぐやで痛い目見てんだし >>674
沖浦はアニメーターとしてトップクラスだが目を見張るド派手なアクションは描けない飽くまでもリアルよりの人だしな
上手いし正確無比だけどつまらないと感じる人は多いと思うよ
アニメ監督で5本の指に入るとかは意味不明
押井はスカイ・クロラでやらかしてアニメ仕事依頼こないとか言ってたがそらそうだろとしか言えないわ...
大友もスチームがダメで金集められないから短編映画止まり
細田が語ってたがどれだけの高い技術で作品を作ったとしても人に見てももらえない作品とか意味ないからね
商業的に大ヒットさせる事に価値があるとかではなく採算ラインくらいは最低超えられないと干されるだけ
自分の首絞めてるだけだ それが分かってて沖浦がももをやったんなら、5本の指に入る間抜けとしか言えない。
アニメ監督引退記念作品にしたかったのか?
>飽くまでもリアルよりの人
そりゃ違う。あまり知られてないが、実はリアルの他にも引出しを持ってる。
リアルでない作画の依頼がないだけだ。 >>679
スレ違いだけど、IGでテレビ局がついた上で芸能人がメインのキャスティングという点は同じにもかかわらず、
百日紅の公開規模はもものときより少ないし、角川は関わらないんだね。
角川が東急の洋画チェーンを使って300館には近い規模で公開し、
ロケハン地の広島と愛媛では先行公開もして観光客誘致を狙ったけれどその効果も薄い。
角川の一般向け芸能人起用アニメ映画は沖浦が時間かけてる間に細田が複数作品で稼いで、
おおかみ、バケモノと東宝配給にこぎ着けてるからなあ。 原はだめだよ。カッパ、カラフルと客層を絞り込む方向だもの。
百日紅は国内ではアートアニメの枠で売るしかない。で、配給は順当にテアトル。
角川は当面イケイケで量的拡大がテーマになるから原作品なんか買わない。ももで騙されて
痛い目に遭ったのもIGを嫌気する一因だ。 >>684
つか、ももは角川でもアニメ部署ではなく文芸もの映画の管轄だったそうだけど。 >>682
作画の依頼がないのはリアル系以外だといくらでも代わりが効くって事だよ 代わりが利くかどうかと沖浦が持ってる引出しの数の間に何か関係でもあるのか これから使う事がない引き出しとか合っても意味ないよ
沖浦は無駄にリアルな動き以外はベテラン以外でいくらでも代用可能なレベルなんだから… まあ使いにくい原画マンではあるな
あまりに上手すぎるから目茶苦茶浮くし
こないだ放送された攻殻ARISE一巻の格闘シーンとか笑っちゃったよw つまり監督業の未来はないし、特殊技能アニメータとして生きるしか道はないということか >>689
でも上手いだけで大して迫力ないんだよな... >>673
お前こそ天才を誤解してるなw
パヤオが天才に見えないのはお前ら動画オタの評価基準が世間とズレてるからだし
その基準を除けば、お前と俺の考えはなにも矛盾してないだろ
おれは絵には詳しくないが、写実主義がとっくに廃れた過去の遺物なことぐらいは知ってる
その後ピカソやらダリやらの分けわかんねーのがくるんだったよな
つまり歴史的にみれば、この監督の特技は初心者が勉強する類いの時代遅れの技法にすぎないわけだ
その程度の「うまさ」が映画の評価に大きく貢献するわけないだろう
それより父親を失ったももが着る服や髪型やらを物語のテーマにふさわしく、より印象的に
デザインすることに頭使えって感じだ。真っ黒な喪服調にしたり、逆にサイケやクレイジー系にしたりとか。
そういうのが映画監督としての「うまさ」演出家としての「技術」だろ
ようはこの沖浦ってやつの仕事は大事なとこにピントがあってねーんだよ
創作に必要な知識はあっても、本質を見極めようとする姿勢や創作意欲そのものが未熟なんだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています