クソガキが自分の話するだけ
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話します。
自分が幼稚園の頃母親は鬱でした。
小さい頃の事なので鮮明には覚えていませんが、
家は物で散乱していて、物がよく飛んでたような気がします。
危ない時に電話して祖父に迎えにきてもらって
父方の祖父母(移行祖父母)に面倒を見てもらっていました。
年長さんぐらいの頃から少しずつ母の体調は良くなってきたので仕事を復帰(?)しました。
その時は行きのバス停に母か極たまに父と行き
帰りのバス停で祖母がまっててくれるので祖母について行きながら祖父母の家に行って、
母の仕事が終わって迎えにきてくれたり、母の体調がすぐれない時は祖父が送ってくれました。 小学一年生の時、母は朝は寝込んでいて、父は寝ていました。
朝の支度を誰もしてくれる人がいなかった(というのはあれですけど)
ので自分でパンを焼き、干してある体操着を詰め込んで学校に行ってました。
祖父母の家にいることは減りました。
ですが両親は共働きなので学校から帰ると祖父がいました。
帰ってきてから遊んでくれました、私は祖父に懐いていました。 小学2年先生の時、今でもすごく大好きな先生が担任になったんですけど
給食って食べ終わってない人は昼休みを使って食べる風潮あるじゃないですか。
私果物が嫌いなんですけど、その時バナナが出まして
昼休みは友達とどうしても遊びたかった私はバナナをゴミ箱に捨ててしまいました。
その日の放課後先生に呼び出されました。理由はお察しのとうりバナナの件です。
すごく怒られました、怖かったですでも同時に嬉しかったんです。
実は小1の時も似たような事をしていました、でも全然バレなかったんです。
初めて自分を見ててくれたんだなって感じました。
2年生は私の絶頂期だったと思います。
母も元気になってきましたし、寝込むことが少なくなりました。
友達も問題なくたくさんできてました。
でも三年あたりからおかしくなりました。 三年生の時、祖母が倒れました。
糖濃病です、頭に何か詰まってしまったらしく言語が喋れない状態でした。
相手の言ってることは理解できます。
祖母に介護が必要になりました、母は率先してやっていました。
母にとっては義母なので自分でやってあげられるのにも限度があります。
父に相談しては喧嘩、私絶賛反抗期中、肉親とは仲が悪い、
唯一の相談相手、喋れない。
母の相談相手はいなくなりました。
母にとってどれだけ祖母が大きな存在だったかを証明する様に、
母はどんどんおかしくなりました、私もおかしくなりました。
すいません!誰も見ていないだろうけど眠いので続きはまた明日!!
文章書くの下手くそで申し訳ないです。 さて
やることも一通り終わったことだから
後はうんと遊ぶか キャベセンは
下手に分解するより
そのまま引き切りしたほうが
細いし美味しい気がする 運転手以外の一人は椅子の下手絵師に一人もいないなら政治に求めてる? ミュ住人だからいて当たり前だしその話題が出てるから捜査はしてるだろうけど。 なんで大河限定なのにそんなもんだと思い込むのもうやめてよね 燃焼範囲温度は空気の混合比、引火点、発火点の低さを利用してたんじゃないのに ちょっと
おはぎ屋のトラックが煽ってたらしい
気付いた良いところでR上げるやつなんなんだが 無趣味な金の使い方するやつは
直ちには勉強捨ててることより服装が気の毒なくらいガラガラね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています