Aleph 辛
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そう、「止まってしまった」んじゃなくて
「死んでしまった」仲間たちのこと…… あなたという流星に出会うため
あなたはたった一度の輝きで、わたしを…… 小説や映画などで、「この描写はリアルだね」ってよく言うけれど、
“リアル”だということは、ほんとうは現実ではないということを意味している。 現実という概念は不思議なところがある。
現実を夢想と対比させたり、虚構と対比させたりする。 けれども生きているこの現実は、ほんとうにそれほど“現実”的なのだろうか。
そこから問題が生まれる。 たとえコンピュータによって作りだされた夢を生きているのだとしても、
現在のこの知覚を信じることしかできないということだ。 四角い塔が丸く見えていたとしても、そのように知覚されるならば、
その塔が四角いことが明らかになるまで、
その塔は丸いという知覚に依拠するしかない。 そして隣にいる友人にもその塔が丸く見えているなら、
それが少なくともぼくたち二人にとっての現実なのだ。 その知覚を共有する人が多くなるほど、その知覚の現実性は強まることになる。 ほんとうの現実を知覚していないのではないかという疑いは、
哲学の歴史と同じくらい古いものだ。 古代ギリシアで詭弁を弄(ろう)すると非難されたソフィストたちは、
人間には現実を認識することも、認識したものを他人に伝えることもできないという逆説
を語っていた。 洞窟の中に後ろ向きに縛られていて、背後から来る光が壁に映す像を眺めているようなものであり、
この洞窟から出て、太陽の光線のもとで真の存在を眺めない限り、
すなわち哲学の営みによらない限り、真の実在を認識することはできないと考えたのだ。 近代哲学では、認識する主体としての「われ」を前提としてものを考えるようになった。 真に存在するものは、この思考する「われ」がはっきりと認識するものだけに限られる。
このとき現実に存在するものがどのようなものであるかという現実の真の姿は問題ではなくなった。
主観によって認識された世界だけが現実の世界なのである。 ただ人間が認識する世界は、すべての人間に共通で客観的なものと見なされるようになった。
現実を認識する主体としての主観と、認識される客体としての現実の世界という
二元論的な構図が確立されることになった。 しかし人間が現実を認識することで、客観的な世界が作りだされる二元論的な構図は、
さまざまな問題を露呈している。 とくに、認識する主観である人間が、同時に認識されるべき客観である身体的な存在であることが、
この二元論には大きな問題をもたらす。
認識する主体である魂が病むことで、身体が病む場合があることも、
この二元論はうまく説明できないのである。 現代哲学は、認識する魂と認識される現実の事物という枠組みを破壊するための
さまざまな試みとも言える。 赤き火は聖と魔の2つのかお。
天から与えられし道具なれど、
それを用いし心に魔があらば、
天と地わかつ、わざわいとなる。 青き水は時とともにうつりゆく。
うつろい、ながれ、たゆたう。
しずかな時をゆるやかにうたう
そのさまは、われらが生に同じ。 黄色い大地は時にきびしく、
されど、時にやさしく。
大地にたてば、その体を知り、
大地あゆめば、その心を知る。 緑の樹はすべてのめぐみ。
命をもたらし、生をはぐくむ。
樹にいのり、樹にいだかれ、
日々をおくるが、われらの生。 人生のあらゆる苦労を嘗(な)めながら、すこしもそれを顔にださず、
運命の神が邪険に扱おうと、格別ひいきにしようと、
いつもおなじ気もちで受け入れる、そういう男だ。 文章をひたすら書くことで糧を得ていく。
最近はそんな些細なことが楽しい。 現実と虚構の区別はなるべくつけるけどね。
でもそれほど意識はしていないかなあ。
別に格好つけるわけでもないし、これは自慢ではなく自己満足だから。 人と比べるなんてそんな貧しい考えはお持ちではないのですよ。 いややっぱり決めつけなくてもいいんじゃないか。
今のように言葉を選ぶだけじゃ軽薄短小だし、ここで語れることには限界があるよ。
それでも一途(いちず)に求める過程が人間性を深めることだと信じている。 知識は求めてるようで求めていない。
川の流れのように生きているさ。 廊下ですれ違う瞬間、俺は小さく手をあげ、
あいつもそれに笑ってこたえてくる。 あいつはいつも、友達に囲まれていて、
二人きりで会うことはあまりなかった。 あの日以来、俺はもっと苦しくなった。
あいつに近づきたくて、でもできなくて、俺は苦しかった。 会えないのは、あいつが他の友人に囲まれているだけじゃない、
俺のほんとうの気持ちが、あいつに伝わるのが怖かったから。 その気持ちを知ればあいつはきっと傷つくだろう、
いや何より自分が傷つくのが怖かった。 18世紀から19世紀にかけて狂気について語られたあらゆる文献を渉猟(しょうりょう)して、
狂気についてどのような「言説(ディスクール)」が残されているかを明らかにする。
これは精神科医の語ったことに限らない。 狂者の残した文章、精神病院を規制する法律、精神病院で患者を治療する道具や方法、
狂気についての文学的な考察まで含めることができる。
そして狂気という概念はどのようにして作られたか、その時代に人々は何を狂気と考え、
何を狂気でないものとして許容していたかを明らかにすることができる。 このディスクール分析は無意識的なものまで考察することができるという意味では、
イデオロギー批判と共通するところがある。 その時代の人々の思想を、一つの「虚偽意識」として考察しようとする。
自由、平等、教養、学問などの理念の背後に隠されているほんとうの機能を暴こうとする。
ただしマルクス以来のその批判では、これらの機能を経済的な「下部構造」という視点から
批判することが多かった。
そのために結論がすでに決まっていることになってしまう。 またその批判は、その理念の無意識的なところを攻撃の対象とするために、
その攻撃の刃が自身に戻ってくることもある。
自分にはイデオロギーがないと主張するほど、イデオロギー的な議論はないものだ。 試みるのは他者の批判であるよりも、みずからの時代の認識であり、
自己認識を深めることである。
だから理論的に語られたことや理念のようなものに焦点を合わせるよりも、
もっと発話の根のようなところ、その発話を可能にした条件に注目する。 たとえば狂気についてのさまざまなイデオロギーを批判するよりも、
人々が何を狂気と考え、語ったかを分析しながら、
狂気に対する概念としての理性について考察するわけだ。
こうして狂気との関連において、
権力、支配、性、主体などの概念についても分析を深めていくことができるのだ。 古代の呪文よ、体を土と成せ。
暗黒の教義よ、血を水と成せ。
狂神の秘法よ、魂を炎と成せ。
盗みし指よ、命を人形と成せ。 人が魔道をもとむるは、その生きるがためなり。
人が夢をうみ出すは、その生きたがためなり。 「現存在(ダーザイン)」という概念は、『存在と時間』で提示したものだ。
存在について考察するためには、事物や他の人々との深い関係性のもとで
世界のうちに現に生きている人間のありかたに注目すべきと考え、
人間を現(ダー)存在と呼んだのだ。ダーは「そこ」という意味をもつ。 この世界との関係を考察するにはさまざまな方法がある。
たとえば生態学は自然環境と人間の関係の視点から
世界を考察するし、心理学はさまざまな事象に対する
人間の反応という視点から考察する。 近代の伝統的な哲学は人間が世界をどのように認識するかという認識論に重点をおいていた。
ところが現存在の概念のユニークなところは、主観と客観という二元論的な対立を
打破しようとすることにある。 世界のうちで主体として行動し、世界を認識する人間としてではなく、
世界のうちに投げだされて、この世界を生きる人間の実際のありかた
を考察しようとするのだ。 最初の視点は、人間が世界のうちで生きながらどのような気分を味わうかという視点である。
人間が世界のうちでどのような不安や欲望にかきたてられるかを考えるわけだ。 人間は世界を認識し、世界に向かって行動するが、
それ以前に人間は世界のうちに生きながら、
さまざまな気分を感じている。
憂鬱だったり、他人の目が気になったり、倦怠感を感じたり、
理由のない不安におびえていたりする。
あるいは夕暮れの中でかつてない幸福感を感じていたりする。 人間の行動や認識を抽象的に考察するよりも、
人間が世界のうちでこのように気分によって規定されていることから
考えるべきなのである。 第二に、こうした気分のもとで現存在は世界と他者とつきあい、
これを了解することができる。
現存在は他者や世界を了解すうことで、同時に自己とみずからの
生についても理解できるようになる。 (FF9のビビを思い出した。黒魔道士にまつわる話は集中して読む傾向がある) 第三に、現存在は他者との間でたがいに語りあい、理解の内容を確認することができる。
たがいに了解しあうためには、語らざるをえない。
語りあうことで自分の真の姿を示していくのである。 とくに気分の考察は、人間の現象学的な考察とあいまって、
重要な哲学的なツールとなった。
精神医学の分野などでも、人間の気分や夢などを考察しながら、
患者を治療に導く現存在分析などの手法が有効であることも
明らかになっている。 民主主義という政治的な体制は公開の場での討論によって市民が決定を下すシステムであり、
古代ギリシアのポリスで誕生した。
しかしこれが一般的な政治制度として確立されたのは、西洋の近代においてである。 啓蒙とは理性を公開の場で利用する行為であり、
共和国では言論の自由が必須である。
この言論の自由と公共性の原則は、
絶対君主によるそれまでの権威主義的な統治原則を
崩壊させる意味をもったのである。 こうして言論の自由、公開の場での討論、市民の参政権などの民主主義の原則が生まれた。 フランス革命で人間の自由、平等、同胞愛がうたわれたにもかかわらず、
参政権を認められたのは財産のある成人男性だけだった。
女性や貧困者は「人間」として公共の場で政治に参加することはできなかったのである。 性や財産にかかわらずすべての成年の市民が平等な参政権をもてるようになるまでには、
長い闘争の歴史が必要だったのである。 討論の場である議会は、さまざまな政党で構成されているが、
国民を代表するはずの政党が、国民の意見を正しく反映しているかどうかには、
大きな疑問がある。 またさまざまな圧力団体が議会での議論に影響を及ぼしていることも明らかになっている。 選挙制度そのものにもいろいろな問題があり、国民の票の価値すら平等ではないのである。 (とにかく顕正会の「若者はひたすら南無妙法蓮華経唱えてればいいんだよ」という暴言は許さない。仏教を馬鹿にするな) さらに現代の福祉社会では、公的なものと私的なものの区別があいまいになってきた。
ほんらいは私的な活動であった経済活動と市場に、国家が介入し始めたからである。 国家が市場においても、公的な事業体として行動し始めると、
それまでの市民的でなく公的なものだと感じられてくる。
こうして奇妙なねじれが発生することになった。 政府の役人は市民に対して説明責任を果たす義務があり、
市民はそれを監視していなければならない。 市民は政治や経済などのさまざまな分野で、
みずからのコミュニケーションのネットワークを構築して、
「公共性」を国家から自分たちの手に取り戻すことが求められている。 生き残った者が生きる希望を持つためには並々ならぬ活力が必要。 合理的であるということは、道理や理性に適(かな)っているということだ。 この合理性の基準を二つの道で考えている。
分析と総合である。 分析とは、複雑な事柄を他の事柄からはっきりと区別して、それをしっかりと認識すること。 要素がすべて明らかになったら、この要素がその事柄をどのように構成しているか、
鎖の環(わ)を一つ一つ繋いでいく。これが総合の方法である。 この明晰で判明な方法は、科学ときわめて親和性が強い。
科学的な研究は、合理主義に依拠して行われる。 だれもが納得して、それを追体験できるものでないと、科学的とは認められないのだ。 まず人間は理性的な生き物であるだけではない。
もっと別のもので動かされていることもある。 生産活動の場で、合理化が推進されてきた。
競争に勝つためにはもっとも無駄がなく、生産効率が高い方法が必要だからだ。
でもこの合理化が進みすぎると逆効果になることがある。 ベルトコンベアでならんで作業をすれば、自分のする一つのことに習熟すればよいので
合理的だと考えられてきた。でもこうした単調な作業方法は、労働者のやる気をそぐこと
が明らかになってきた。労働者がある製品を最初から最後まで作る方式のほうが、達成
感があり、製品に対する責任感が生まれる場合もある。 合理的な基準で判断することができないものを考慮に入れたほうが、作業効率が高く
なることもあるのだ。 この合理主義に真っ向から抗(あらが)おうという理論が流行することがある。
不条理という考え方だ。 神については語りえないことが多いことを指摘しながら、合理的な推論の限界を示した。
神秘的なものを合理的なまなざしで捉えることができないのはたしかだろう。 人生の合理的な目的という素朴な価値観に鋭い批判の目を向けたことも忘れられない。 環境に反発した感情の爆発、それが完全なトランスをもたらす。 それが生きようとする欲望であれ、他者を守ろうとする欲求であれ 自分の感情より誰かを助けたい気持ちの方が前にきてる
不安や孤独を感じる隙がないほどに
それが大切な人を守る強さ…か。 寝て食うだけ、生涯(しょうがい)それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ? 神から授かったこの窮(きわ)まりない理性の力。
それあるがため、うしろを見、さきを見おとし、きっぱりとした行動がとれる。
この能力、神に近き頭脳のひらめき、それを使うな。 国というものの必要性なんて、為政者が作った幻に過ぎない。 書物は一生の友
読み終わっても自分の魂の中に残り続ける 墓場にも行くのも同時だ
先立つことも先立たれることもない 「わかる」ことは面白い。
「わかっている」ことはつまらない。 レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。