【エディグラハム】国際プロレスpart21【ジエンフォーサー】
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死んだ歳の子を数えてけなすしかできない奴は書き込むな! 木村エースの国際プロレスを12chの演歌の花道に例えたのは別冊宝島で見た。 木村はビクトル古賀直伝のサンボ技をマスターしてるのに、自分のスタイルに合わないからと試合で使わなかった。
10年以上過ぎて新日のリングで脚光を浴びるのなら、木村にも使って欲しかったな。
あと札幌遠征があると情深い木村が必ず立ち寄った「スナック奄美」
まだあるのかな? >>9
新日移籍後はマードックらとビール園に行くようになった。 80年のデビリッシュファイトシリーズは、スミルノフ・クラップ・ムルンバがいるのに
IWA世界タッグ王者の井上・浜口にはプラタ・ドーベルマンが挑戦した。
大木は国際最後のシリーズ(半年毎の見直しで、更新されず)
2大エース時代は呆気なく終了した。
シリーズ終了後には木村・浜口・寺西が新日本の東京体育館大会に出場
木村はS小林の挑戦を受けIWA世界ヘビー級の防衛戦
バックドロップでフォール勝ち(レフェリー:Rドゥーガン)
浜口・寺西は藤波・木村と対戦、藤波が寺西を原爆固めで破った。
2試合共にテレビ収録はなかった。 >>13
打ち切る前提の枠移動していた頃で田中さんがプロレス中継から外れて
後任の人はそれほど熱心な人ではなかったそうだからだから無理かな。 田中さんがいたらせめて12チャンネルで放送させたかもな 81年ダイナマイトシリーズ最終戦の6月25日清水大会が12ch最後の収録だったが、
放送されたのは団体活動停止後の9月24日の深夜0時〜1時(関東地方)の60分枠
もはや放送したところで何の役にも立ってない。 他スレで話題になったのだが
国際プロレス史上、最多観客動員興行は
1972年11月27日、愛知県体育館の
ブルクラvs小林・草津の金網デスマッチで8500人、
確かに、WIKIでも、そうなっているが
1971年3月バション兄弟やBミラーが参加、
M井上も急遽、帰国したAWAビッグファイトで
どこかの野外興行が1万人越えたとかで、
テレビでもその大観衆を写していた記憶がある。
記憶にあるひといる? >>16
レギュラー放送は打ち切りだけど月1回の予定で放送すると言われていたけど
どうしてお蔵入りされていたのだろうね。
>>17
菊池さんの話だと都内の興行で大入り袋が出たのが5回だけ(木村vsベーカーの
台東区の金網戦)だから興行でのもうけは厳しいだろうし、何せ当時はグッズを
作って売るという発想もなかったから >>17
国際プロレス歴代観客数
1位 1971/2/28 AWAビッグファイトS
盛岡市体育館 10800人
2位 1969/8/3 ビッグサマーs
中津市営球場 9500人
3位 1969/11/29 IWAワールドタッグ挑戦S
平戸相撲場 9300人
12チャン時代で1番入ったのは
8位 1977/3/26 第6回IWAワールドS
蔵前国技館 8200人 >>17
野外興行は知らないけど、3月2日の国際・東京体育館と日プロ蔵前国技館の
同日同時刻興行の山の手、下町興行戦争があった。
国際はAWA世界タッグ戦 バション兄弟vs杉山・草津と木村vsザ・?の金網デスマッチ
この日帰国した井上はBミラーに敗れた。(観衆3,000人)
日プロは馬場・猪木vsマスカラス・アリオンのインタータッグ選手権(観衆9,000人)
興行日をぶつけたのも、招聘したマスカラス・アリオンも日本プロレスの妨害工作 マスカラスは妨害じゃないぞ
国際が勝手にやった「あなたがプロモーター」という呼んでほしいレスラー投票で2位になっただけで
(実際は1位だったらしいが) >>19
>盛岡市体育館 10800人
野外というのは、俺の記憶違いだが
やはり、AWAビッグファイトS
で1万人越えの興行があったよね!
サンクス! >>22
そのAWAビッグファイトシリーズ小倉大会でIWA王者杉山がミラーに破れ王座転落
ベルトが海外流失することに。
4月には伝説の第3回ワールドシリーズが開幕(ゴッチ国際初参加)
個人的には国際が最も面白かった時代だなー >>23
その3月4日の小倉大会、
急遽IWA戦が開催されたようで
テレビ中継はおろか、
「ゴング」も「プロレス&ボクシング」も
取材に行っておらず、写真もない。
試合の詳細もいまだかつて
語られていないんだよな。 >>24
IWA王座の移動劇には謎があるね。
小倉の杉山vsミラーは急遽決まったタイトルマッチだから、当時はマスコミも
取材できなかったんだろうけど、詳細や試合写真は公表するべきだったよね。
ミネソタ州ダルースのミラーから小林への移動はフェイクだったし、
コロラド州デンバーのロビンソンからグラハムの王座移動も、別のタッグマッチの
写真が使用されてた。(グラハムのベルト姿も合成) ロビンソンがグラハムに負けるのを拒んだから?
そんな自分勝手なレスラーを使うから 田中さんからしたら木村がロビンソンへ雪辱する流れを期待していたら、まさかのグラハム
奪取に加えて挑戦して奪取したのは井上で、それも半年したらバション経由で木村だからね。 >>26
>ロビンソンがグラハムに負けるのを拒んだ
それ以前に、
別に最初からロビンソンとグラハムを
対戦させる必要はなかったんでしょう。
グラハムをIWA王者として来日させれば良いだけ。
と言う前に、アメリカで国際プロレスが
ロビンソンとグラハムを対戦させる
ことって出来たか?
ってことになる。 >>26
>ロビンソンがグラハムに負けるのを拒んだ
それ以前に、
別に最初からロビンソンとグラハムを
対戦させる必要はなかったんでしょう。
グラハムをIWA王者として来日させれば良いだけ。
と言う前に、アメリカで国際プロレスが
ロビンソンとグラハムを対戦させる
ことって出来たか?
ってことになる。 >>26
>ロビンソンがグラハムに負けるのを拒んだ
それ以前に、
別に最初からロビンソンとグラハムを
対戦させる必要はなかったんでしょう。
グラハムをIWA王者として来日させれば良いだけ。
と言う前に、アメリカで国際プロレスが
ロビンソンとグラハムを対戦させる
ことって出来たか?
ってことになる。 政治的に負けさせられないんなら最初っからロビンソンを国際に絡ませるなって事だろ いや、ロビンソンに負けさせる前に
アメリカ(国際プロレスのプロモートの外)で、
グラハムと戦わせることができたか?
ってこと。
だって、それを見るのはアメリカの客だよ。
まぁ悪いカードではないかも知れないが。
カードを組むのは、現地のプロモーター。
それにIWA世界選手権?
なにそれ?という感じでしょ? グラハムは何かの新設王者(インターナショナル、US、ノースアメリカス、ブラスナックル等どれか)にして木村に挑戦させて王者に
次のシリーズに来日したロビンソンには井上が挑戦、試合中キューバンアサシンズが乱入してロビンソンが負傷して井上が勝利して王者にとかならまだ良かった 杉山がミラーに負けてIWA王座が米国流出
次のIWAワールドSで杉山・草津・木村が優勝戦線に絡めず、この3人ではダメと印象付ける
そして次のビッグサマーSで小林が新王者として凱旋、連続防衛開始
絶対王者・小林誕生への完璧なマッチメイクではないか >>32
デンバーオーデトリアムのIWA移動劇は、1対1から3本目にセコンドのラシクが
王者ロビンソンの足をすくってグラハムのフォール勝ち
という、もっともらしい説明がなされている。
しかしそんな記録は何処にも残ってないw
まあ急遽決まった小倉大会のタイトルマッチは、プロレス雑誌も月刊誌の時代だから
納得しても、九州スポーツは写真入りで掲載してたのかな?
アメリカでのミラーvs小林戦、ロビンソンvsグラハム戦の王座移動劇は、
今の時代では絶対通用しないアングルだね。 今の時代では通用しない----というアングルでは
ほぼ同じ時期にグラハム×ラシク+ホフマンってのがあった。
グラハムはユダヤ人でドイツ人のラシクと抗争。
ラシクとの抗争が一段落するとホフマンが代わってグラハムと続ける。
酷いのはここから。ラシクはなんちゃってだがホフマンは本当のドイツ人なので
ユダヤ人を心の底から憎んでいる、なんてやつ。 ホフマンはドイツ人じゃなくアルメニア人説もあるし
ドイツの団体でホフマンをエースとして売る為にドイツ人ギミックにしたのが広まった説 そんなこんなで71年後半は小林時代が到来するんだけど、暮れに猪木が
会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを除名・追放処分になっている。
国際プロレスが猪木獲得に動くのでは!?との報道がされたが、67年の東京プロレス
との合同興行の際、袂を別れた猪木を吉原は快く思っておらず、きっぱりと否定。
もしこの時、吉原が私情を捨てTBSから多額の資金を引っ張り、猪木獲得に動いていたら日本のプロレスの歴史は大きく違っていたし、国際が盟主になってたかもねw フランス人のプロレスラーはナチスギミックのレスラーと戦いたがらないのだろうか >>41
例え吉原が支度金を用意して
猪木獲得に動いても、当の猪木が
国際に入るかどうかは分からないだろ?
そして、猪木だけではなく、彼に同調して
日本プロレスに辞表を出した小鉄、木戸、藤波も
受け入れただろうか?
藤波なんか、そこで国際にも入れなかったら
引退していたかも知れない。
猪木が72年早々、国際に入団したら、
エースになったばかりの小林の立場も微妙になるしね。
もしかしたら、同年秋に旗揚げした馬場の全日に、
杉山と共に移籍したりして。 猪木が国際に入団って事で小鉄、木戸、藤波が付いてくるのは良いと思う
猪木との軋轢よりも取り巻きのトルコや木村昭政が介入してきて揉めるのは明らか
特にトルコは吉原社長のリキパレス買収事件による追放で遠藤幸吉と共に吉原社長を糾弾した1人 日プロ追放後に反撃記者会見を開きその後も恨みつらみを吐き出していた姿は今から
見ても凄く見苦しいそんな人物をコントロールできるとは思えない例え国プロに移籍
してもファンの支持は得られなかったはず。当時の吉原社長の「レスラーとしてはいい
モノがあるが人間としてゼロ近い!」と発言にも表れている。数人のレスラーと
ノーテレビで旗揚げした姿が判官びいきで支持を得たんだと思う。 確かにシュミレートすると猪木獲得は現実味はないんだけど、
71年末には日本プロレスと国際プロレスの2団体時代だったのが
10ヵ月で日本、国際、新日本、全日本の4団体となり、
観客動員、テレビ視聴率ともに低下したプロレス冬の時代。
1枚のチケットで済んだ日プロファンが3枚必要になったこの時期に
猪木は無理でもTBSに特別予算を依頼して、AWAとの提携路線による豪華外国人選手を
招聘して強力なカード編成を組み、一気に他3団体と勝負していたら
分裂でファンの信頼を失墜させた日本プロレス3派の隙をついて浮上できたかと
思うんだけどな。
あくまで個人的には、72年の日プロ分裂時が最初で最後のチャンスだったと思う。
吉原の金のかけどころの経営者判断は正しかったのか、見誤ったのか…? そういうのはよくわかるんだけど
株価のチャートを見ながら「ここが歴史的買い場だった」と思うようなもんだから。
で、猪木が来ていたとして猪木向けの外人は居るのかな。ロビンソン? 東京プロレスも初期の新日も、最初から猪木向けの外国人なんかいなかったんじゃないの? >>46
過去を振り返って想像してるだけで、論破されるのは十分承知してるよw
株の売買の例えは、正にその通りなんだけどね‥
国プロ15年の歴史の中で、日プロ分裂時に一番内外ともに充実していたにも関わらず
業界のトップを取れなかった、天下盗りのチャンスを逃したのは、
TBSとのリレーションが上手く構築されなかったことと、日本側メンバーの力量不足
この2つのような気がするんだよな。 TBSでの放送は72年1月から放送時間枠30分に短縮、放送日移動を繰り返してTBSとの蜜月期を過ぎていた
短縮や時間枠移動に伴って地方局によると深夜や昼間等に放送時間移動、放送自体無くなった局も出ていた時期
奇しくも小林エース時代になってからTBS迷走期が始まってしまった
その時期にTBSが猪木の為に別予算を出す事は無いと思う
すでにTBSにとってプロレス中継はB級番組扱いになってしまった時期でもあったしね >>49
TBSは68年1月の放送開始時から71年末までが毎週水曜日19時〜19時55分
72年1月〜3月末までが毎週水曜日19時〜19時30分に短縮
72年4月〜9月末までが毎週日曜日18時〜18時55分
72年10月〜毎週日曜日18時〜18時30分に再び短縮と推移している。
最初からTBSが主導権を握り「TBSプロレス」にされていた時期もあったことから
吉原は不快に思っていた部分もあり、良好な関係とは言えなかったね。
旗揚げのテーズ×草津からTBSの思惑が反故にされ、そこから狂ったのかな? >>45
その説に従って、話を進めれば
72年暮れの日本マット界は
日プロ=大木、坂口、上田、高千穂、小鹿
国際=猪木、S小林、草津、R木村(海外遠征中)、小鉄、
全日=G・馬場、杉山、(遅れてデストロイヤー)
で、73年春の日プロ崩壊は免れない。
となると、日プロ勢は全日に行っただろうな。
ただその時、NETはどう動くか?
プロレスを完全に手放すか?
その後は、
国際勢は変わらず、M井上、木戸らが成長。
全日=G・馬場、杉山に加え、というか杉山は後退し、
それに坂口、鶴田、そして小沢と言った大型レスラーが集結するのか!?
これは、2大勢力になるな。馬場とそりが合わない大木は離脱
ただ、国際はどう考えても、猪木と吉原+草津がマッチメークなどで
対立するだろうが。 国際が猪木獲得に動くと言っても、
猪木は、小林(ましてや、木村や草津)に
下には付かないだろうな。
絶対に国際のエース(IWA王者)にしろ!と要求する。
それまでの猪木ファンだって、国際の2番手、3番手
に落ちた猪木なんか見たくないよ。
そうなったら、小林、草津はどう動くかな? 国際が1980年大木を入団させた時は、
彼はインターナショナル王者だったので
IWA王者木村と、並行して興行が打てた。
しかし、72年時点の猪木は無冠。
やはりタイトルを与えないと、ファンが付いてこない。
IWA認定インターナショナル王者にするか?ww >>44氏も言ってるが、日プロを追放されたばかりの
猪木には、ファンの風当たりが強かった。
その猪木を72年の春頃、国際に入団させても
観客の反応は冷たかったと思うよ。
72年の秋に馬場も日プロを退団した時から、
「あれ?やはり日プロの幹部にも
問題があるんだな」とファンも
思い始めたんだよな。
猪木新日は、73年春まで、(ほとんど)ノーテレビで
頑張ってそれで坂口とNETテレビが付いたので、
ファンも戻って来た。
あれがなければ新日は潰れていただろう。 猪木が国際に来るにあたって
豊登がいる時期だとどうなるか、もあるな。 >>55
豊登は70年2月に国際で一旦引退してる
仮に日プロ追放後猪木が国際に上がるとしたら入団って形をとらず、最初は猪木、小鉄(木戸、藤波はセコンド)殴り込みによる登場で国際と対立しか小林、草津と並び立たないのでは?
猪木「こんばんは、アントニオ猪木です。日本プロレスを追放後上野毛の自宅を改装してトレーニングを続けてまいりました!」 皆さんの考えを読むと猪木国際はやっぱり現実離れしてるねw
吉原さんは全日には旗揚げから杉山を移籍させたり、若手をレンタルしたりと
敵に塩を贈るじゃないけど、馬場には協力的だったのも、
今まで散々興行を邪魔された日本プロレス憎し、猪木憎しの思いから
馬場と手を組んで日本プロレス、新日本プロレスを潰そうと考えたんだろうね。
でも全日本は半年でNWAに加盟が認められ、国際とのパワーバランスが
徐々に逆転していくんだね… 73年のワールドシリーズをコロフ・バション・カーペンティアが来た春のシリーズではなく、秋に
実施したのもの参加外人メンバーがしょぼかったのも吉原さんのミスなんだろうな。国際に
とってトップに立てる最後のチャンスだった。 >>58
当時の雑誌で吉原社長の談話が載ってて、秋にAWAの強豪が来日するので秋に開催するって読んだ記憶がある
実際にはリーグ戦と別枠でAWA王者のガニアが来日した あるいは旧日プロ系の内紛と抗争の時期を避けたかもだが結局は全日本と新日本の蔵前タッグ戦争に埋没した印象 ここは60過ぎのお爺さんたちの昔話スレか
プロレス見ててもこういう年の取り方はしたくないわ 歴史に「もし・たら・れば」はなくて今があるってことで、どーだい? >>58
70年から毎年春に開催されて来たIWAワールドシリーズは、強調関係にあった
全日本のチャンピオンカーニバル開催により「無益な興行戦争は避けたい」と
秋に開催すると発表。
ここでも馬場を立てて譲歩している。 >>48
プロレス放映に企画書やパイロット版まで作りTBS上層部を説得した森Pがスポーツ
部を離れて営業部に異動していたのも大きかった。「このままではスポーツ馬鹿になる
」と自ら志願して"人に頭を下げたり折衝力"を学んだらしい。森Pや12chの田中Pのような
プロレス情熱のある人がいれば少しは変わった状況だったかも・・・
NETは実力者である三浦専務が居たのが大きかった!
TBS以外の他局は視聴率が12〜15%でも及第点なのにTBSは基準が他局より高かった
のも災いした。復活したウルトラマンシリーズが視聴率25%を取ったのに
「もの足りない・・・」と言われる始末だった。
時間短縮に関してはTBS社内事情で1時間より30分番組を2本並べた方が
スポンサー料の効率がいいと言う判断ですぐに戻されたが放映時間も変わったりして
イメージダウンも大きかった。またこの頃はプロレスブーム自体の熱狂がかなり落ちて
きていた・・・ >>53
73年7月欧州遠征から帰国した木村が小林に挑戦を直訴
大阪で日本人同士のタイトルマッチが行われ、小林の勝利
馬場のインター21度を上回る24度目の防衛を達成するも、観衆は4,500人と
満員には届かなかった。
この頃からマッチメーカーを任された草津と吉原のリレーションが構築され、
客を呼べない不甲斐ないエース小林との間に確執が生じるようになる。 >>62
歴史に法則なんてない。
歴史は偶然の連続だ。
歴史に、もし、たら、れば、はありえない、なんてただの後だしジャンケンだ。 小林としては「国際のエース」が通用する内に出来るだけ高く売り付けたという感じかな
どうせならいっそワフーに奪われた時点で金網デスマッチで木村にスイッチしても良かったかも >>65
小林が客を呼べないって言ったって
それ以上に呼べなそうなレスラーしかいなかったと思うけどな。
海外でも小林が一番実績を残して帰った来たんだし。
木村や草津は脇役に徹して小林をエースとして盛り上げる以外になかったと思う。 Gスピか何かの媒体で新間氏が「国際は営業が弱かったから、
自分が建て直しに行きたかった」と発言していた。
国際の最大の弱点は、テレビ局からの金に依存し過ぎていて、
肝心の興業利益に至る「システムが解らなかったこと」にあったと思う。
興業=巡業をどう作って行くか・・・東郷と切れてヨーロッパ路線になり、
その他のツテも出来て、TBSの金も入って来てAWAとも関係が
出来たことの、総括を吉原社長はしてから次の戦略を練るべきだったかと。 お爺ちゃんになると、いまさらどうにもならないことを延々と繰り返すんだね >>70
新間は魔法使いじゃないし国際に行っててこ入れみたいなことは無理だったと思うし
そもそもその気はないのに自分をフレームアップするために言ってただけだろ。
で、あとになって俺ならなんとかできたのに〜と。 >>72
いや、その話は聞いたことあるよ。
どの時期か忘れたけど、新日の職はそのままでいいから国際プロの社長を兼任して
欲しいと、吉原自ら新間にアプローチしたことがあると。
国際を立て直しながら、自由にコントロール出来るとあって新日本にとっては
悪くない話。
新間は乗り気になったが、猪木の反対でダメになった。 72年から比較的良好な関係を築いてきた全日本とギクシャクしだしたのは
78年のマスカラスレンタルの件からだろうな。
吉原は激怒してたらしい(自業自得の面もあるが)
でも、どうマスカラスを使おうとしてたのか? お爺ちゃんたち、今日も平日の真っ昼間から昔話頼むぜ >>75
ラッシャーとクロスチョップ世界一決定戦。 >>75
マスカラスのレンタル話はポスターまであったみたいだから
かなり実現に近かったんだろうけどどういう経緯でぽしゃったの?
全日の中でも一番ギャラが高かったと言われているマスカラスを呼ぶのは
国際としてはかなりの負担だと思うんだが、なぜマスカラスだったんだろうか。
もっと安くて効果のある外人をレンタルしてもらってもよかったと思う。
例えば78年くらいならマークルーイン&イヤウケア。 >>79
吉原社長がマスカラスの斡旋を馬場に依頼
馬場の返答はマスカラスに聞いてみる
その返事を聞いた時点で吉原社長はポスター制作を指示したり、興行主にマスカラス参戦しますと話した
マスカラスはスケジュール的にその頃来日するのは無理で馬場に無理だと返答
馬場から吉原社長に話したら吉原社長激怒の流れみたい ありがとう。長い間の謎だったんだ。
しかし社長も逆恨みだな。こんな人とは仕事したくないわ。 あのさあ、昔のプロレスはさあ ってもっとやってくれ さあ、お爺ちゃん達、みんなで叫ぼうぜ
吉原のバカヤロー >>79
吉原が馬場にマスカラスのレンタルをオファーしたのは78年のサマーアクションS2
の終了後の国際ダイナマイトシリーズのはず。
9月15日大分津久見大会のマスカラスの写真が載った幻のポスターがヤフオクに
出されていた。
馬場は最初は拒否していたが、吉原はカマタ移籍の件を持ちだし「ウチはカマタを
気持ちよく送り出している。レンタル参戦も出来んのか!」
馬場も渋々再検討、マスカラスを説得してどうにか口約束で了解を取り付けた。
それで吉原ポスターを発注するも、マスカラスが期間の短縮やギャランティの
上乗せ宿泊等の特別待遇を要求、飲めなければメキシコに帰ると言い出し
色々駆け引きを使ってきた。
結果的にマスカラスの要求を飲むことはできず話は破談になる。
吉原としてはマスカラス参戦を見込んで売り興行の値段を上げ交渉し、不参加となったことで興行のキャンセルやダンピングがあり信用は失墜してしまった。
怒る気持ちもわかるが口約束でポスターや売り興行の段取りまで進めた甘さ…
急遽オックス・ベーカーを特別参加させ木村とのデスマッチ三番勝負を売りにした。 単発レンタルとして考えた場合、マスカラス以外でコストパフォーマンスの良い顔ぶれはいくらでもいただろうに。 木村とのIWAダブル世界戦でもやろうとしたのかなw
仮にロビンソンのように日本陣営に入れても、
木村のタイトル挑戦者に簡単にマスカラスを勝たせる訳にもいかないし…
どう使うつもりだったのかね。 吉原のプロレス音痴ぶりが発揮されたドタバタ劇
本当にマスカラスをどうするつもりだったのか 78年あたりなら>>79の言うように、ルーイン&イヤウケアにラモス。
スーパー・デストやハリケーンのマスクマン。
ブラジルなんかまだまだネームバリューはあった時期。
全日でも単発だったけどワルドー・フォン・エリック、格はかなり落ちるけどレッド・ウルフやフランク・モレルなんか国際向きだったろう。
日本リーグ争覇戦のタナカやホーも全日ブッキングじゃないのか? >>89
トークイベントで話してたのはルーイン、イヤウケヤ、ラモス、ブラジル辺りの斡旋の話はあったが障害になったのがギャラ
全日と同額のギャラと待遇ならって話で、そうなると国際の外国人エース勢よりも高額
その為、全日の外国人選手の斡旋の話は無くなった
唯一ポスター制作までいったのがマスカラスで吉原社長からみてギャラと集客が見合った選手って事だったのかも? >>70
全日も外人のギャラは日テレが出していてテレビ局依存体質で興行が疎かになっていて、
地方だと国際並みの不入りも多かった。 トークイベントって
お爺ちゃん達集っちゃつてるのかよw >>91
北海道、東北、新潟、北陸、九州なら客入るけど、東海、関西あたりがからきし弱かったな、全日本は
国際は北海道と九州北部が頑張るくらいで得意地域無さすぎた しかし、1978年に国際に
マスカラスを招聘したら、
M井上となら、好試合を演じられそうだが
R木村のIWAに挑戦させたのかね?
噛みあいそうもないし、
どうせ、引き分け防衛だろ?
と予想するファンが「木村に勝てないマスカラスは
見たくない」「マスカラスそのものは、全日でも
また見られる」とならべ、あまり観客動員にも
結びつかない気がする。 そうなってくるとオールスター戦でのカードが尚更に皮肉
吉原としてはマスカラスの場所に原を入れたかったろうだけに まずドスカラスで様子見したらよかったんじゃないかな。 >>96
ドスは78年サマーアクションシリーズ2が初来日じゃなかったかな?
マスカラスと一緒に来日して、まだどんなレスラーかわからなかったし
シコデリコみたいなトンデモレスラーかも知れなかった。 トンデモなお爺ちゃん達は今日も頑張ってるね
さあ昔話熱く語れや 使い道が難解なマスカラスよりデストロイヤーに来てもらった方が良かったんじゃないか。
デストVS草津のUSヘビーとか木村や井上との絡みも見たかったけど。 >>99
馬場がデストロイヤーの負けを許可しないから使いづらい。
落ち目のロビンソンを戻してIWA戦で木村が勝つのもいい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています