【門馬忠雄】国際プロレスpart19【菊池孝】
レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。
マイティ井上は良く金網戦出てましたが 本人やりたくなかった気がします ラフよりはテクニックの人だし 井上に限らず末期国際は金網を乱発してたから、因縁がさほど無くても
トップレスラーは駆り出されてた。 金網くらいしかやること無いから金網やってるって感じだもんな 鶴見五郎とキューバンアサシンとかな。。ホンマ乱発って感じだった。 浜口とジョーの金網戦のテレビ放送が「凄惨なシーンのため一部カットします」
という映像自粛シーンばかりだったのは笑ったな。 81年8月9日羅臼町民グランド特設リング(国際プロ最後の興行)観衆1100人
15分1本勝負
〇菅原伸義(5分42秒逆エビ固め)秋吉豊幸×
20分1本勝負
〇冬木弘道(12分44秒反則勝ち)ミスター珍×
〇米村天心(15分22秒体固め)高杉正彦×
〇寺西勇(14分59秒リングアウト)マッハ隼人×
30分1本勝負
〇阿修羅原(10分23秒片エビ固め)ジ・エンフォーサー×
45分1本勝負
〇R木村・M井上(18分17秒体固め)Jオーツ×・Gジョー
特別試合 金網デスマッチ時間無制限1本勝負
△鶴見五郎(7分24秒両者KO)テリー・ギブス△ 最後に酒を酌み交わしながら
「とどのつまりがこうなって」「とどのつまりがこうなって」
酒宴のさなか血まみれ汗まみれで帰ってくる鶴見
「ワイの奥さん一晩買わんか」と勧めてくるエンフォーサー >>844
当時エンフォーサーは45歳でバニー・キャロルは一回り以上上の姐さん女房だったらしい
井上があんなおばはん金貰ってもお断りやって言ってた >>845
45歳のエンフォーサーより一回り上ってこと? 50代後半?
そこまで年齢には見えない、せいぜい40歳前後だろ
当時のマスコミには30代だろうかと書かれていた
それだって、その年齢であのかっこうしてるのかと驚いたけどw
どこで聞いたのか知らんがネットに写真が上がってるのだから
なんでも鵜呑みにせず、自分で見て考えて書いた方がいいのではないの バニーキャロルは日本初の女性マネージャーで、当時日本では珍しい
スタンガンを凶器に持参(実際に使用したかは不明)
全日にプレシャスが来る3年前
国際は入場テーマ曲、各種デスマッチ、アームレスリングやベンチプレス対決
減点方式の試合、女性マネージャー、女子プロレス等々、日本初が多い。 >>847
スタンガンはアルミホイルや乾電池を使ったハンドメイドだったんだってね。 >>847
初と言うか、移動体育館(まあテントだが)、寝台付き巡業用バスとか独自のもあったな。
末期はルチャのキャプテンフォールマッチというのも敢行。 銀紙と乾電池なの?ww
エンフォーサーはマフィアの実在するキャラだけど、
前名のギロチン・ゴードンは漫画版タイガーマスクの悪役ワールドリーグ戦で
タイガーマスクと引き分けている強豪に描かれている。
新日では酷い扱いだったけどね。 国際って、ポスターでもパンフでも不思議なくらい
「肩書」をつけていないなあ
たまに見るのは「一匹狼」上田、「流血大王」カマタ、
「生傷男」ブルーザーくらいで、後は王者にタイトルが
添えられているくらい
ストロング小林がアンドレに勝って優勝した第四回
ワールドリーグ戦でも、実況で肩書らしきものが
連呼されている気配がない
せいぜい「日本の小林」くらい 国際時代の小林にはキャッチフレーズが付けられてなかったのか? >>852
普通に“怪力ストロング小林”とは言われてたよ。 >>853
猪木の“燃える闘魂”馬場の“東洋の巨人”みたいなのは無かったのか。 wiki見たら“怒濤の怪力”“怪力無双”とあったが、“怪力無双”なんて
聞いたことない。 金網デスマッチ設営時やたら間延びして セミファイナルの余韻全く残らない 後のFMW Wing は有刺鉄線とか爆破戦は緊迫感が設営時あった 「怒濤の怪力」はたぶん新日に入ってからのキャッチだと思う。
国際時代はわからないが、猪木との再戦で大注目されてMSGにも出たときの
別冊ゴングでは「燃える男」なんていう深読みしてはいけないようなキャッチだった。 >>851
国際ってむしろポスターとかは仰々しいほどに付けてないか? クラップに「首領」とか書いてたしw
「躍進!」とかの字が躍り、全体のデザイン的にも迫力があったと思う。あと王座肩書はIWA「選手権者」という独自の書き方。 第五回ワールドシリーズの日大講堂と後楽園ホールはリングサイドの椅子の数も
少なくて明らかに客入ってないな。前々回、前回と外人選手の顔触れは豪華だったけど
マリガン以外は?だし、ガニアの特別参加も小林からするとリーグ戦中だから集中
できなかっただろうし、春にコロフ・バション・カーペンティアが来た時にワールドシリーズを
やるべきだった。 >>859
マリガンだって、シリーズの
エースとしては物足りないよ。
この第五回ワールドシリーズには、
ムース・ショーラックも参加したんだな。
ネームバリューは、こっちの方があったよ。
力道山のインターにも挑戦したりして。
だが、いかにせん全盛期を過ぎていた。 「マリガンは台東区体育館(現・台東リバーサイドスポーツセンター)で行われたラッシャー木村と
オックス・ベーカー(ともに故人)の金網デスマッチで、ベーカーのセコンドに付いていたんだけどね、
ベーカーが劣勢になると金網の中にパイプイスを投げ入れて加勢したんだよ。
ベーカーがそれで木村の左足を殴って、複雑骨折させてしまった。
試合後、木村は浅草の病院に入院していたんだけど、黙って寝ていられなくて、
後輩のアニマル浜口を連れて行きつけの小料理店へ行った。
そこにいた看板娘が、浜口の現在の奥さま、初枝さん。
浜口が彼女にひと目惚れして結婚、後にレスリングの五輪メダリストとなる京子ちゃんが生まれたってわけ。
つまり、マリガンがあのとき金網にイスを投げていなければ、京子ちゃんはこの世に生を受けていなかったのさ」 第5回は日本人が充実してきたけど、一番良かったのが第4回大会かな
小林が優勝するもロシモフ、ジョナサン、ラシク、ホフマン、ゴーディエンコ
とにかく外人レスラーが豪華だよ。
(ゴーディエンコはロートルになってた)
その次が伝説の第3回ゴッチ、ロビンソン、ロシモフの決勝三つ巴シーン
幻のジャーマンと言われたゴッチvsロシモフだけど、
シリーズ中に何度か対戦して完璧な原爆固めを決めている。
次が最後の第6回大会で、井上vsジョー戦が最終日に組まれなければ
木村vsバションにならなかったかもしれない。
とにかく井上に手柄を与えたくなかったストーリーが感じられた。
ロビンソン連覇の第1回第2回は記憶に無いから評価できない。 >>863
おー
小林の地元、青梅大会のポスター
こんなの見るとワクワクする
昭和47年でリングサイドの前売り3000円かw
この頃から小林時代が始まったイメージがある。 >>865
古すぎて知らないよw
日本人マスクマンも国際が初だな
国際は先を行き過ぎた感じ >864
木村vs井上のIWA戦を井上の地元大阪でやったが、客入りはどうだったんだ? >>863
バロン・フォン・ラシクがいい味出してるな。
でも、ナチスギミックのラシクがアメリカ代表
というのは、なんか釈然としないな。 独立愚連隊は維新軍の元祖だし日本初を沢山やってるがそれで儲けられていない
入場テーマ:マスカラス
日本人覆面レスラー:タイガーマスク
団体内反乱分子:維新軍
女性マネージャー:プレシャス等
各種デスマッチ:FMWの大仁田
他団体においしいところを持っていかれている >>863
今なら相当豪華な顔ぶれだな
行くわwww >>849
短い期間だけどパンフとは別に「新聞」も発行していた。
力道山が発想だけあってできなかったモノだった。 >>870
全部中途半端で、それで儲けようという意欲が感じられない。 第2回大会なんか
日本組 : ストロング小林、グレート草津、サンダー杉山、田中忠治、清美川
外人組 : イワン・ストロゴフ(ベルギー)、グラン・ブラジミア(ベルギー)、
コンデ・マキシミリアノ(ベルギー)、ジミー・ダラ(フランス)、
ビッグ・コマンチ(アメリカ)
と外人が無名だし、全員で総当たりで予選を行うと銘打っていたが、
実際には行わなかったらしい。
テレビでは、杉山とビッグ・コマンチの遺恨戦とか、
小林がグラン・ブラジミアあたりとシングル戦を
見たような気がするが、いつのまにか、
小林が予選トップになって前回優勝者(シード)の
ロビンソンと優勝戦を行っていた。 >>875
第2回が一番つまらないメンバーだな。
日プロWリーグには、ジョナサン、マルコフ、Tタイラー、コンビクト…
BIに坂口だもんな。 どなたか教えて下さい 大宮の道場は火事又はトラックに突入されて閉鎖したと記憶してますが、本当ですか 子供でしたから記憶曖昧で >>877
たしかトラックじゃなくてタクシーだな、突っ込まれて爆発炎上。 素早い回答ありがとうございます
不運だな国際プロレスは >>878
補足するとタクシーがプロパンガスに
突っ込んだ。
その際冬木がいるはずで、ニュースを聞いて
国プロ全員が青ざめたらしいけど、
冬木は残り番をサボって横浜の実家に帰って
いたから難を逃れたらしい。 超後追いの自分には古本で読んだ早稲田卒の頭脳明晰でプロレス界では珍しい常識人でアイデアマン
お人よしの人格者 運命に翻弄された悲劇の主人公といったのが吉原社長のイメージだったがだいぶ壊れたな >>501
20とかの大学生時代に海の家を経営したりアメフト部で
まれに見る俊足だったり精悍なマスクだったりと若いころはかなりの高スペック
なんでも芸能界のオーディションで真田広之らと仮採用されてレッスンもしてたとか・・
今は経済的にも容姿人望家庭生活的にも同年代に比しても高スペックとは言えないのが人生解りませんね 吉原さんは晩年、見舞いに来たストロング小林と和解できて良かった。
「私が育てた最高のレスラーだ」とまで言ったからね。
草津に対して本音はどうだったのかな? 話題は変わるけど昭和56年の年頭からルーテーズ杯やらずに阿修羅路線開始でマイクジョージ、ジェークロバーツ、テリーキブス、スティーブO、ポールエラリング、ロッキーブリュワー、スパイクヒューバーあたりを絡ませてやってほしかったなあ。時遅しかもだが >>883
他のレスラーからの草津評と、吉原からの草津評はまったく違うものだと思う。
国際プロレスという会社のために、自宅まで担保に入れて借金したわけだし。 2試合くらいしか見てないのが言うのもなんだが、
ストロング小林さんは動きがドタドタモッサリしてるし、
怒涛の怪力と言われるけどパワーもレスラーの中では普通
そんないいレスラーかな ハンセンが「小林はニューヨーク向きのレスラーだった」と書いていた
イワン・プトスキーとかと似たものを感じたのかな >>887
AWAでもWWFでも王座に挑戦で来たんだから海外での実績は
当時としては馬場に次ぐものがあった。 TBSプロレス第1戦のテーズ戦で、レスラー人生の歯車を狂わされたのが
何か関係してるのかなあ?
あの試合は「分単位、秒単位でスターを作る」というTBSに吉原は口出しできず
テーズの怒りをかったように言われてるけど、マッチメーカーの東郷が日プロから大木を引き抜きエースに据える密約があるから草津に寝てもらう必要が
あったとか色々と説はあるけど、あの無謀な試合が草津のその後を決定付けた
と思う。
IWAシングル王座は1度も巻かせてやれず、吉原にはその申し訳なさがずっと
あったのか、草津には長い間マッチメーカーやらせたり役職を与えている。
(もっとも八幡製鉄時代に社会人経験も積んでるからというのもあるけど…)
他のレスラーとは明らかに違う扱いに見える。 大木欠場のときの国際のポスター
「目、負傷のため欠場!!」 日プロで営業部長だった吉原は本来ならぱトップセールスマンとして国際を引っ張る立場だった
興行会社のトップセールスとは、各地の興行主や有力者相手の酒宴を含めた営業活動ということ
しかし吉原は酒は好きだが飲むのはレスラーや社員、学生時代の仲間など身内ばかりで営業的なことはできない
一方の草津はそういうことがプロレスより好き
だから吉原は草津に営業トップとしての役割を依存し、草津も好んでそれを受けた
これが吉原と草津の関係の根幹
エース=IWAヘビー級王座は草津の立場なら強く望めばどこが実現できたはず
草津がそれを望まなかったということ グレート東郷からのオファーから十数年後に 改めて国際に招聘された大木金太郎のその時の心中ってどうだったんだろう? >>892
「プロレスは元々やる気なかった」とか言ってたね。 大木国際参加は表向きはインタータイトル防衛戦開催のためにとテレビ局力だと記憶してますが 他に理由あるのですか?教えていただけますか インタータイトル防衛戦挑戦者やたらショボく子供な私でもがっかりしました 大木はインターの防衛戦を日本マットでやりたいと考えていたけど、大木が所有したままで
その夢を実現できたのは国際だけだし、割り切っていたでしょ。 マツダの離脱が無く
東プロ崩壊後猪木が合流
大木の引き抜き成功
外国人ブッキングは東郷、マツダ、欧州、それぞれ並行して招聘
史実と違い上記が行われてたら国際は凄い団体になってただろう
草津の人生も大きく違ってたはず 大木はテレ東契約で末期国際 人気の起爆剤として加入したから
吉原も関わってないはず。
しかし木村との2大看板も効果なく
テレ東の契約満了で退団した。
二人がIWAインターのダブル選手権でもやれば話題になったかも… プロレス入りはなく、サラリーマン生活で終わったやろ >>895
国際時代の挑戦者はジョー・ルダック、ジプシー・ジョー、
ビル・ドロモ、上田馬之助だから、そこまでショボくはない
んじゃないかな。大木のメンツも立ったメンバーだと思う。 S55年の大木は全日でブッチャーの子分で小悪党やった後
二大エースじゃなく金一道場の弟子を引き連れて
韓国軍の殴り込みって事で国際軍対韓国軍の方が多少は盛り上がったかも
カナダ、アメリカからの選手を減らして
ギャラが安上がりの韓国選手を使えば経費削減にもなっただろうし 当時の関係者は、国際をなんとかしようと頑張ったんだろうな。
結果わかった40年後に、カスカス言ってる方がずっと楽だろうが。 >>887
日本マットにおける馬場猪木基準で考えるとアレだけど
国際のエース時代も新日初期のまだ三本柱健在時代も
藤波とかタイガーとかが登場するまでのプロレスってだいたいあんなかんじよ
パワーファイタ―タイプは直線的でちょっともっさり脆い感じはあるけど
反撃はじまるとあの“おっとっと”みたいなタイミングとステップで打つ
パンチ(エルボースマッシュ?)を連発してコーナーに詰め
“わっしょいわっしょい”の掛け声に乗ってショルダータックル連発
そこからフィニッシュのブレンバスターやバックドロップアトミックドロップからの
ダメ押しの逆エビかカナディアンをガッチリ決める
だいたいこんな流れ
これであの頃は十分盛り上がれたんですわ
小林の身体硬そうな直線的なムーブは
ある意味、展開と展開の区切りがわかりやすくてあれはあれでよかったんだよ >>897
>東プロ崩壊後猪木が合流
>大木の引き抜き成功
猪木と大木、どっちがエースになるかで、ひと悶着ありそう。
元々、猪木は海外遠征から日プロに戻っても(1966年)
馬場の下になるから、自分がエースになるために東京プロレスを
起こした。そこに兄弟子の大木が加入したら、やりにくい。
大木は当然、「俺の方が格上だ!」と思って(67〜68年なら、そうだな)
エースの座を要求するだろ。
また、日プロとしては、猪木を取られ、また大木を
引き抜かれては、黙っていない。
実際に1968年大木一人を引き抜かれた時も、
ユセフ・トルコがG東郷をぶん殴って阻止したし。 >>898
12ch・田中Pの独断で吉原社長の関与は全くなかったが契約金の10%が国プロに入った
ので文句を言わなかった。大木は契約延長を望んでいた・・・
>>892
原を獲得できたのは草津のラグビー時代の先輩が経営している飲み屋に吉原社長が
出入りしていたからでこの二人に関係では最大にヒットだった。 >>905
ストロング小林を平成で言えば田上明か。
ルックス的には田上よりいいんだよな。
現代でも複数エースの一人くらいは務まるんじゃないの。 >>906
そういう意味では上田の密告で始まった日プロクーデターの最終案で
新日との合併問題に大木が頑なに反対したのも頷ける。
やっと馬場猪木が抜けてエースになれると思っての合併話
反対しないと猪木にエースを持っていかれる危機感があったという説も‥
‥妄想だけどねw >>909
(中西学+田上明)÷2=ストロング小林
このイメージ >>900
かなりしょぼいよ……。
インター防衛戦に値するのは木村しかいなかったんじゃないかな。 >>912
どうみても馬場時代の超一流と比べると、アジア王座防衛戦クラスだな
やはり一度は木村とやるべきだったね。
木村も自分の縄張りなんだから、遠慮しないで噛みつけばよかったんだよ。 前スレより
513 お前名無しだろ 2019/06/30(日) 13:56:02.80
あと今月のGスピで詳述されていたけれど(小泉悦次)、
ほぼ同じ時期にAWAエリアに行ったにもかかわらず、小林は
AWAのメインであるミネアポリス、シカゴ、デンバーなどで
ガニアの王座に連続挑戦、他にもブルクラやロビンソンとの
シングルで各地のメインを張っていたのに対して、入れ替わる
ようにAWAに入った草津はAWA傘下の提携先、不景気で試合数も
少ないオマハ地区に出向させられ、二度のガニアの王座への
挑戦もメイン地区ではなくオマハの会場のみという
ちょっと前の新日で言えば、小林は両国でIWGPに挑戦を
繰り返してメインを貼っていたのに対して、草津は提携先と
言えば聞こえはいいが「二軍」であるノアに出向されられた
鈴木軍の一員、みたいな扱いだったわけで、国際側の意向で
差がつけられていたわけじゃないから、ガニアから見て小林と
草津では、それくらい稼げるレスラーとしての差があったと
いうことなんだろう
オマハで試合が無くて稼げない救済措置としてNWAエリアの
セントルイスに出稼ぎに行った草津は現地で第一試合の
扱いだったとか
518 お前名無しだろ 2019/06/30(日) 14:37:42.14
やっぱり小林をエースのままにしておくのが一番良かったということか。
後にWWFでもサンマルチノに挑戦してるし、
AWA、WWFの両王座に挑戦したのは日本人では小林だけだから
海外では馬場に次ぐ実績を誇ったんじゃないか。 国際時代のセンスなら田上が不動のエースで、三沢川田は井上浜口的な扱いだったかもしれんね。 アメリカにNWA AWA WWWFの3団体あった時代は、馬場の次に小林で
次がカーンだろうね。
80〜90年代になるとムタやエリアは限られるけどカブキくらいかな
米マット界の実績でいうと小林の方が猪木よりずっと上だよ
草津なんて論外 カブキも瞬間風速は高かった
ダラスとトップヒールに君臨する一方で全米の名だたるベビーと抗争
しかしおおかた抗争に決着ついたら後はよばれず
ダラスでもその他大勢ヒールに堕した 井上 譲二著の「昭和プロレス版 悪魔の辞典」、
「アメリカで活躍した日本人レスラー」の項目では、
先ず、G・馬場、次にGムタとK・カーン。
カブキとM斉藤は、活動していた地域が
メジャーではないから入れなかった、
とか書いてあった。
S小林には、全く言及していなかった。
あくまで井上譲二の見解だが。 >>918
ファイトの編集長まで勤めた井上氏が小林を見落とすとは…
まあ米マットを昔主戦場にしてた斎藤は別に入れなくていいよ でもカブキはダラス以外で目立った時期がごく短期間だからダラスがメジャーかどうか
の個人的見解の話でしかないが
元WWFタッグ王者で70年代後半は最も勢いのあったフロリダやジョージアでも何度も
タッグ王者になってるマサがメジャーな地区で活躍してないってどういう基準だよ
歴代マサのパートナーの一人がカブキになる前の高千穂だけど じゃあヒロ・マツダも入れなきゃね。
タイトル戦線に絡むのも入れると、坂口はNWAドリーやシークのUS王座にも、
鶴田もドリーには何度も挑戦してるから…
全米で成功したと言うくくりならマサは当然入るわな
ロス、サンフランシスコ、ニューヨーク、フロリダどれも主要マーケットだよ >>911
ああ、これはなかなか近い感じ
攻めてる時のぎこちないけどそこがまた力強くて豪快に見える中西と
守勢に回った時のなんか頼りないというか
一気に勢いがしぼんでだらしない感じになる田上の合体w 小林がアメリカの主要エリアを転戦できたのは新日の手引きだったの? NWA、AWA、WWWF全てのエリアのベルトを巻いた斎藤は別格に近いだろう
馬場が果たして70-80年代のアメリカマット界で常連として定着できたか
分からない(馬場が短期サーキットした時期はアメリカマットがまだ
好景気だった時期で、その後の馬場は海外のレスラーを好条件で
日本マットに呼んでくれるプロモーターとして有難がられていたわけで)
NWAタッグ王者時代はフロリダを、AWA時代はミネアポリスを
超満員にし続けていた斎藤の業績は、小林などと同様に再評価が
必要だと思う
もう「日本のプロレスが一番」とか「NWA世界王者幻想」などの
昭和の神話から離れてプロレス史を編み直す最後の時期だとも感じるし まあAWA時代はヒール軍団の関脇クラスだったからそれほど大物扱いじゃないけどな
82年秋あたりはテレビマッチで頻繁にホーガンと対戦したりしてたから勘違いされてるけど
あれはビッグマッチでの当時のライバルのシュルツとの対戦の前振りだから
マサはあくまでシュルツのパートナー
AWAは早くから全米ネットに番組を乗せたテレビプロレスの先駆者だったのに
ビッグマッチはノーテレビで客を集めるという古い手法からなかなか脱却できなかった
ようやくPPVやるようになった頃にはすでに退潮 力道山亡き日本プロレスに戻らなかったら、おそらくアンドレが登場する迄の
10年間はトップでいそうだけどね(期待も込めて個人的想像)
NWAベルト巻いてサーキットしてたかもw
当時の米マット界がいくら好景気でも短期間に別エリアで連続世界王座挑戦は凄いと思う 馬場が連続挑戦した頃ってまだ好景気だっけ
遅くとも60年代後半からは80年代前半まで全米ネットの地上波放送がなかった
内容としては各テリトリーごとに独自の進化を遂げて面白いが
商業的にはアメプロ暗黒時代
だからこそテレビをバックにした日本の団体は円スラップでアメリカのトップスター
を招聘できた 力道山が急逝して日本プロレスから帰国命令があった1963年
馬場を引き止めたいマネージャーの東郷は年間27万ドル(当時のレートで5〜6億)を10年保証する契約書を提示したらしい。
(トップレスラーだったキニスキーが10万ドルいってなかった)
半分近くを自分の懐に入れるような東郷がそう言うんだから
それくらい馬場は全米で稼げるレスラーだし、景気が良かったんだろうね。
でも1970年を境に全米でのプロレス人気は陰り始めたそうだよ‥ カブキは、本人のお店で聞いた時、あのSWS時代よりアメリカの方が
遥かに稼げた、と言ってたけどね 名前が挙がってこないがタイガー戸口も現地でAWA王者ガニアに挑戦してるのは
凄いことなんじゃないか。 基礎の出来てる悪役の東洋人レスラーには、世界戦のチャンスは比較的巡ってくる。
挑戦するだけじゃなくて、旋風を起こさなきゃ
馬場、カーン、ムタのように‥ ミネアポリスでホーガンと当たっていた時のことを語る斎藤も、
ダラスでエリックスと抗争していたことを語るカブキも、
「俺のメインで○月の○○アリーナをフルハウスにした」
という具体的な事績を誇りにしていたね
アメリカの現実なんか知るよしもなかった自分なんかは「NWAエリア」
「ニューヨーク」くらいの漠然とした感覚でしか米マット界ってものを
捉えられなかったけど、同じ「東京」でも東京ドームと両国国技館と
太田区体育館と多摩ニュータウン卸売市場特設会場では全く意味あいが
違うわけで、さらに日本だと「新日のドーム大会ならメインが何で
あろうがとりあえず行く」という団体のファンが当たり前だろうけど、
あちらはカードを見に行くから「誰がメインか」がものを言うわけで
流智美が馬場が終生誇りにしていたマジソンでのサンマルチノへの
挑戦試合のギャラについて、当時のパーセンテージ契約やMSGの
キャパシティなどを元にした計算し、同じ時期に同じ規模の会場で
メインを取ったキンジ渋谷のギャラと比較してほぼ同じ額なのを
確認して「妥当」と判断していたのが興味深かったけど、当時の
レスラーは「この会場でこの入りならギャラは幾らになる」というのを
敏感に察知できたから、そこをフルハウスに出来るレスラーか
そうでないかは大きかったんだろうなあ
また斎藤が「例年、冬のミネアポリスはウインタースポーツに客を
取られて入りは最悪なんだ」と言ったように、ビジネスにふさわしい
時期っていうものも現場の
レスラーたちは肌で理解している
カブキが「ベルトなんて飾りでしかない。バカでっかいアリーナが
フルハウスになったのを見上げて、『これは俺の力で実現したんだ』
と実感した時の快感は何ものにも替えられないよ」と言うのも
ちょっとくらいは想像できる気がする >>932
太田区じゃなくて大田区。大田区は大森区と蒲田区の合併で誕生した。 >>931
> 基礎の出来てる悪役の東洋人レスラーには、世界戦のチャンスは比較的巡ってくる。
実際に挑戦した例は少ないんだら挑戦できただけで立派なもんだろ。 レス数が900を超えています。1000を超えると表示できなくなるよ。