◆懐かしの名馬・名勝負スレ16◆
歴代の名馬・名勝負をまったりと語るスレです。
(競馬に関する事なら何でもOK!まったりと語ること)
※過去・現在の名馬を比較しての最強論争は極力お避け下さい。
前スレ
◆懐かしの名馬・名勝負スレ15◆
https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/uma/1419611622/ >>1
乙です
テンポイントの悲劇から40年
AJCのオンワード丼から半世紀ですね >>2
あの寒い日の悲劇から、もう40年も経つんですね・・・
テンポイントが故障した後、杉本アナが、ジンクエイトが抜け出してビクトリアシチー
が粘ったという実況を、何とか声を振り絞って実況していたのを思い出します。 キーストン
テンポイント
サイレンススズカ
全部TVで見ていました
キーストンは即座にダメだ思いましたよ 画面の中で落馬しただけなのに
ああ洋一は死ぬんだなあと思いました
直感が外れてよかった
オヤマテスコの桜花賞は内斜行じゃないかと言われましたが
後に公開されたパトロールを見ると洋一だけがまっすぐ走らせていて
他馬が全部外斜行していました 洋一が無事なら其の後の競馬ってどうなったんだろうとは思いますね 今では絶対あり得ない函館のOP特別で2頭の桜花賞馬が対決
羽田盃以来の競馬で中央緒戦いきなり皐月賞馬を負かして日本馬には先着許したことなかったホスピタリティ
中央緒戦でニホンピロウイナーと接戦、大阪杯でミスターシービー負かしたステートジャガー
つべで見て感動しました >>6
20年ほど前に亡くなったうちの父は、キーストンの阪神大賞典を阪神競馬場で
見ていたとの事。まさに目の前で起きて、一連の出来事をずっと見ていたそうで、
「あれは可哀想やった」とよく話していました。
>>7
関西テレビの実況中継の映像だと、オヤマテスコが斜行している様に見えましたが、
パトロールフィルムを見て納得したという話は、私も聞いた記憶があります。
福永騎手が無事ならというのは、たまに考えますが、八大競走完全制覇を含めて、
どれほどの記録を残しただろうかと思うと、自分の中では最も残念な出来事です。 ただあの時代は関東馬が強い時代でした
大川慶次郎さんは条件一つ違うとか言ってました
一割ほど関東の所属が多かったんですけどね
それと競馬場で調教していたので府中中山の直線坂が力の差になるとかの話し。
それで栗東の坂路が出来たという経過らしいですけど。 昭和30年代だと2割以上関東馬の方が多かったんじゃないでしょうか
それと関西の馬主さんの気質として、名誉より目の前のお金という傾向がありました
南関東公営競馬から中央へ移籍する馬は主に関東に入厩しましたが
中央から南関東へ行くのは関西馬が多かった
条件からオープンに上がると急に周りが強くなって勝ちにくくなるので
地方競馬の馬主さんが即戦力をスカウトするにはぴったりだったんですよね >>11
関西と関東の馬の差は、はっきりあったと思います。
自分が競馬を見始めた頃に好きだったメジロスイセイは、関東の大久保末厩舎で
条件クラスの1頭だったのが、関西の梅内厩舎に転厩してから、あっという間に
オープンクラスになりましたからね・・・
>>12
ちょうど逆のケースになりますが、スピーデーワンダーは、名古屋公営から梅内厩舎
に入って重賞勝ちして、その後関東に転厩してますね。 >>12 ロングホークとかシンモエダケのように使いすぎて肝心の本番で駄目だったり
ハマノパレードのようにパンクしてしまったり・・・
関東にもリキアイオーみたいなのも居たけど
重賞2つ勝って本番で入着しとけば本番勝つより儲かるみたいな風潮が強かったですね。 >>13
スピーデーワンダーは障害入りのはずだったんですよね
蹄の弱い馬で公営時代から京都の腕のいい鉄屋さんの所へ鉄を打ちに来ていた
それで装蹄師免許を持っててよく鉄屋に来ていた梅内師と名古屋の野島師が知り合って
伊藤雄二厩舎へ行くはずだったのが梅内厩舎になったと記憶しています
富田厩舎へ移ったのは大障害が目標でしたがダイヤモンドSを勝ったので平地続行 昔、よく言われてたのが「関東馬の二走目」でした
西下後の初戦で負けて本番で勝ってたんですね
トライアルは中距離、本番の菊とか春天の長距離では無理もない話しです
長距離が実力の証明の時代でした >>15
なるほど、長期休養後に伊藤雄二厩舎に転厩して、障害競走に使ったのは、当初の
予定とおりだったという訳なんですね。
しかし、名古屋公営で圧倒的な成績を挙げていたのに、障害入りが目的での転厩
だったとは知りませんでした。 レース名は忘れたが、大井競馬場でトチノミネフジとブルーファミリーが最後の直線で競り合った オヤマテスコは内がごちゃごちゃした瞬間に一気に前に出でますね
内に入ったのは完全に前に出てからに見えました
一瞬追い出しが遅れたサンエムとの差が出てしまったわけですが
当時はサンエムを応援してたので「失格だ!」と憤慨したものですw 某チャンネルに、ハクサンホマレが勝った金杯のレース実況がUpされています。
近畿放送時代の中継で、小崎アナの声が若いですが、これは相当貴重なのではと
思います。 桂土地の勝負服重賞で見たのいつ以来か記憶がない
カツラノハイセイコ以来かも… 古い映像を見てると、フジの盛山毅アナの実況が生理的に苦手で見れいられないのですが、当時の評価は如何だったのでしょうか? >>22
子供の頃、父と一緒にタニノチカラが勝った有馬記念の実況を見ていて、父が
「前に居るタニノチカラに殆ど触れないなんて、あかんやろ」と言ってたのを
思い出します。
個人的にはあまり好きじゃなかったですね。前任の鳥居アナの方が好みでした。 フジの中継は鳥居アナと赤木氏の解説が最も上品だったと思います
テンポイントの有馬記念は中山に関テレのブースを設けて東西別々の実況でしたね
東海の中継も吉村アナが後年のようなグダグダではなく颯爽としてました やっぱり鳥居さんだよね
盛山さんは関東の人気馬押しだし、ダービーなんかの多頭数になると
前しか言わないとグダグタの印象がありますね >>25
確かに、多頭数の時にそういう傾向はありましたね。まあ、28頭立てで
向正面の実況は大変だとは思いましたが・・・
ただ、少頭数の1973年天皇賞でも、ゴール直前の実況で、タニノチカラを
「トーヨーチカラ」と実況してみたりして、今ひとつの印象がありました。
(後年発売のレース集VTRでは、録音されなおしたものが収録されていますが・・・) 大尾形の名跡が競馬界から消えるのはもう少し話題になっていいように思うが… ブックの岩元師のインタビュー面白い
花屋さんだったことは知ってましたが大寺院の法要の献花を飾り付けてたとは
竹園氏は幼馴染でたまたまTVでダービーの勝利騎手インタビューを見て
岩元が騎手になってるのなら自分が馬主になってやろうと思われたのですね 加藤(敬)師も引退ですか・・・ 牝馬の活躍馬が多かったですね。
>>29
目野師は内藤さんの愛弟子でした。騎手時代の苦い思い出が「オオクラ」だった
のは、今も変わらないんでしょうね・・・ >>32
目野さんはカツヤヨイの印象が強いですね
しかしオオクラが天皇賞馬ってのもねw
確かに叩かず押した方が良かったかも知れないけど、メジロムサシが勝つのが妥当でしょうね
よく2着にしたと思いますよ
あのレースは3コーナー半ばからダテテンリュウとタマホープがいる後ろを気にせず、必死に前を追いかけた横山さんがやはり一枚上でしょうね >>33
ま、あの泥んこ馬場で、重馬場得意のオオクラでしたから、何とか2着に来たという
事でしょう。良馬場では厳しかったでしょうしね。 あれから40年経ちました
テンポイントはもういません 日経新春杯の翌日から
関西の新聞は連日、闘病生活を報じていましたね
特に夕刊紙は、どこも1面見出しが「Tポイント」でした
余談ですが、当時は夕刊紙の数が今よりも格段に多かったですね ガッテンでネーハイシーザー
心房細動の話
菊花賞の映像も
2月末に亡くなってたんだな 私は、目野騎手と言えば一番に思い出すのは「グットキラメキ」です。
数多くは乗ってないのですが、目野騎手騎乗のグットキラメキが印象に残っています。 >>36
もう40年も前の話なんですね。
来年3月は、福永洋一騎手の落馬事故からも40年。思えば78〜79年の3月は、暗い
話題が続いたんですよね・・・ 競馬ニホンの廃刊が決まりました
若いときは毎週必ず買っていましたが、時代の流れでしょうか
岡部良平氏や、チーフの成田彦一氏の解説で競馬を覚えたようなものでしたが
関西はブックとニホン、関東はダービーニュースと一馬のシェアが高かった時代でしたかね そうなんですか・・・ 残念です。
うちは、親父が競馬ニホン読者でしたので、競馬を始めた45年程前から、関東に
移るまで、ずっとニホン派でした。新馬戦で馬柱に載る兄弟や近親馬の名前を見ては、
懐かしいと思って見ていたのを思い出します。
出馬表業者として戦前から続く競馬新聞の老舗なので、貴重な資料がたくさんあると
思います。その資料が散逸しない事を願うばかりです・・・ 資料関係がPRセンターなどのJRA関連施設に収められるといいんだが そう言う事の積み重ねが
競馬が一介のギャンブルではないということの証明になるんですけどね 過去の一時期、競馬ニホンでは
週刊誌も出していたそうで……
表紙画像をウェブ上のどこかで
目にしたことがあります。でも
それ以上に驚いたのは、のちの
ダービートレーナー・松田国英
先生がここのTMだったてこと(^^) >>45
ヒカルイマイのころの馬柱は、上から
千葉、笹西、成田、松田、岡部、本社、でした
このメンバーだと、松田さんが一番若手でしたね
松田さんが抜けたあとが、喜多村TM
今、グリーンチャンネルなどで解説しているのは、その息子さんでしょうかね >>44>>45
ニホンの週報は、戦後の競馬復活時から昭和50年代まで、雑誌形式で出ていて、
その後新聞形式の郵送販売でしばらく出て、廃刊になりましたが、当時の本は、
競馬ニホンのTwitterに週一で掲載されていて、ずっと読んでました。
今の「前夜通信社」の前身となる出馬表は、昭和7年創刊との事なので、実に
85年前から続いてきた事になります。Twitterには、昭和20年代に作られた馬の
成績カードが掲載された事もあり、貴重な資料が眠っている筈。そういう資料を
まとめて保存してゆくのも、競馬会の仕事の一つの様な気がします。 アサクサスケールがヒダビューティーから改名した理由、およびその情報ソースをご存知の方いらっしゃいますか?
恐らくは稗田牧場が自前で走らせようとしたところ買い手がついて改名したという経緯なんでしょうが、裏付けがないのです 前夜通信って初めてフリーハンデ出したとこ?
ここで山野浩一氏を知った また桜の季節がやって来ましたね
正月よりこの時期の方が、ひとつ年を取ったと実感します >>51
コウユウ、ヒデコトブキ、タマミ、ナスノカオリ、アチーブスター
このころのレースは、上位馬を全部すらすら言えるのに
最近のは、ちょっと考えないと出てこないのが多い。
かなり「来て」います(笑)
ここ数年は、特にひどくなった気がします >>50
それは、白井新平氏が経営していた「昼夜通信啓衆社」ですね。
かつて「競馬週報」を出していて、毎年1回、フリーハンデを発表していました。
>>52
この時期になると、かつて関西テレビが放送した「桜花賞レース集」を見るのですが、
1600mのポケットから勢い良くスタートして、そのまま直線まで走り抜けるスピード感が
如何にも桜花賞らしいなぁと思って見ています。
平成の改修で直線に坂が出来てから、個人的にはその感覚が薄れ、外回りコースになって
からは全く感じなくなったのが、残念に思います。 >>53
新旧のコースに関しては、一長一短ありますね
旧コースの1600bは、枠の有利不利が大きかったし
単枠指定のダイワテスコが、8枠を引いて出走を取消したこともありました 今日、気づいたのですが吉橋計氏の馬の名義がすべて吉橋興生氏に変更になっていますね
個人馬主としては最古参のお一人ですが亡くなられたか引退されたのかもしれません >>52
時代的にはリアルタイムはタマミくらいからですね
有利不利はあれども前コースの方が楽しいです >>55
アチーブスターの山本さんも、今年名義が変わりましたが、昭和40年代に馬主さん
だった人は、もう40年以上の馬主暦になりますからね。
今、最古参の個人馬主となるのは、誰でしょうね・・・ 恐らくは、カフジの加藤守氏・ナムラの奈村信重氏辺りでしょうか。 奈村さんは代替わりしていませんでしたっけ?
トウカイの内村さんも、結構長い筈。
そう言えば、エリモの山本さんは、今も健在なのでしょうか・・・ 2年ほど前にエリモさんがご自宅の前で車に乗り込む姿を偶然見たことがある
さすがにお年を感じさせる雰囲気だったなあ >>60
確か若くして成功され、20代で馬主になられた筈。もう50年以上の馬主暦では
ないでしょうか・・・
昭和30年代前半に阪神競馬場を訪れた外国人が撮影したパドックのカラー写真に、
エリモの勝負服らしき服色の騎手が写っているので、それが正しければ60年程の
馬主暦になる筈です。 山本さんは昭和27年の福島国体に馬術で出場しておられるのですね
初めて競走馬を持ったのは28歳と言われているので昭和30年代前半でしょう
しかしほとんど知られていない零細馬主で
それが突然昭和44年の田中牧場入札で落札して大規模に生産を始められたので
山本って何者だ、船場の三陽社長と言うが繊維の三陽商会とは無関係らしいぞ
バックに誰かいるんじゃないのか………謎の大馬主登場で話題沸騰でしたよ >>61-62
>>60に挙がってるのは
山本慎一さんではなく、
その令息のほうでは? >>62
ならば、馬主暦は60年程になるので、多分最古参の馬主さんですね。 金曜日の新聞に、新橋遊吉氏の訃報が掲載されていました。
競馬小説の第一人者でしたが、もうご存知の方は少ないのではないかと思います。
古い時代の競馬を知る書き手が、本当に少なくなってしまいました。 この間、中山GJのパドックに小林百太郎さんがおられたようですが、小林さんも最古参級の馬主さんじゃないですか? この方も古い馬主さんだと思いますが
ニホンピローエースやニホンピロムーテーはお兄さんの小林保名義でしたから
百太郎さんも昔から単独で馬を持たれていたのかはちょっと記憶にないです
ニホンピロと言えばいつの時代にもコンスタントに活躍しているイメージで
もしかするとニホンピロを買い続ければ馬券も黒字かもと思わせられます ニホンピロの冠名では
なぜか、ムーテーの弟のニホンピローレオが記憶に残ります
兄貴そっくりの豪脚を使うのに、大成しなかったですね
同じような印象では
ヒデカブトとヒデハヤテの下の、ヒデツルギもそうでした >>67
カネケヤキが勝った桜花賞で落馬したニホンピローは、百太郎氏の持ち馬だった
様な記憶があります(成績公報で名前を見たような・・・)。
少なくとも70年代前半には個人馬主として馬を持たれていた筈なので、最低でも
50年近い馬主暦でしょうね。 (>_<)😢⤵😹⤵😹
【競馬】スペシャルウィークの突然死に武豊もビックリ「一生忘れられない馬」
http://www.hochi.co.jp/horserace/20180427-OHT1T50194.html
【競馬】死んだスペシャルウィークに手掛けた白井元調教師「ぽろぽろ泣いてしまった…」
http://www.hochi.co.jp/horserace/20180427-OHT1T50208.html ニホンピローの小林保氏は大阪在住でしたが、ご自身か親族の方が
霧島牧園の牧場付近で、旅館を経営されていたようです
牧園には、あのマーチスが種牡馬として繋養されました 勘違いかもしれませんが牧園にはテイトオーもいたんじゃないですか
大崎にはオートキツがいてキングスピードを出したんでびっくりってとこで
戦前の国の鹿児島種馬所が大崎の家畜改良センターで
鹿児島県種馬場が牧園牧場ですよね キングスピードやミヤジマレンゴぐらいの馬が
最近は出てきませんね
ミヤジマレンゴは、パーソロンの九州産馬として話題になりましたね
トウショウボーイとがっぷりのレースをしたときは、感動しました ミヤジマレンゴは浦河産のフォルティノ産駒だったかと思います。
パーソロンの仔ではジンムホマレが、確かクリオンワードと同開催で
新馬勝ちして話題になった記憶があります。
九州産で頑張ったなあと思うのは、ケンセイグットとかフェロースピードですね。
古馬になって伸び悩む九州産馬が多い中で結構息長く活躍したと思います。
ユメノセテコウユーも期待したけど脚元が弱かったですね ゴールドイーグルが延岡だったと思います
大井から名古屋へ行きましたが第1回中央競馬招待で圧勝の凱旋
馬券を求める人で競馬場がパンク状態になり発走が30分以上遅れ
あの頃の大井としては奮発したせっかくの競馬中継が発走前に終了
あんな時代はもう二度と来ないんでしょうね >>77
日高のフォルティノ産駒でしたか。失礼しました
確か、九州産で、わざわざパーソロンに種付けした馬もいましたね。
何だったか? >>79
ケンセイソロンでしたね。兄のケンセイグッドはS56年日経新春杯を勝ちました。
ミヤジマレンゴは様似で種馬になった後鹿児島に移り、繋養先の牧場が静内に移転
したのと同時に再び北海道の地に戻りました。 >>80
そうでしたか。ありがとうございます
歳ですね。これだけ記憶違いをしていたら、もしかすると
競馬好きの後輩に、かなりウソの昔話を教えてきたかもしれません 今日のダービーで、遂に福永祐一騎手がダービージョッキーの栄冠を勝ち取りました。
思えば、福永洋一騎手が、カンパーリで乾坤一揆の追い込みを見せながら僅差の3着
になって今年で40年、あの時「洋一がダービージョッキーになる日は近い」と思って
いましたが、まさか最後のダービーになるとは、夢にも思っていませんでした。
祐一騎手の「福永家の悲願」という言葉は、当時を知る自分にとっても、同じ思い
でした。馬券こそ取れませんでしたが、今日は本当に嬉しい1日になりました。 福永洋一騎手の最後の重賞勝ち馬は、ニホンピロポリシーだったかなと思い出しながら、
ふと気になったのが、「ニホンピロ」の小林百太郎さん、一時期「ナルタキ」の冠名
を使っていた様な・・・
誰かご記憶ないでしょうか? 洋一さんを思い出しますね〜
エリモジョージの有馬記念、4角先頭で外を見るから余裕かと思いきや、ズルズル後退w
インターグロリアのマイラーズカップ、後200過ぎても追わないw早く追えよとイライラしてたら猛然と追って1着
ツマランことを思い出しましたw >>87
確かにそうなんですが、88でも触れられているインターグロリアが勝った78年の
マイラーズカップの映像を見ていて、4着に入ったナルタキサンダーの勝負服が、
小林百太郎さんの服色に見えたのと、他にも居た様な記憶があって、気になって
います。 >>89
調べてみたらナルタキサンダーは旧4歳の初戦まで武村氏で
2戦目から小林百太郎氏になってました やはりそうでしたか。何か訳ありだったんでしょうね。 サルノキングやダイアナソロンで知られる中村好夫氏、亡くなられましたね。 現役騎手の頃から中村厩舎のコメントは大辻さんが出してたと思います 中村先生の弟子、牧田和弥厩舎のアンドリエッテがマーメイドステークスを制覇。
弔いの勝利、という処でしょうか。 >>94
元騎手の大辻助手でしたっけ。元々伊藤勝吉厩舎の人だったかと思います。
かつては、どの厩舎にも番頭格の助手が居て、色々取り仕切っていましたね。 ここの本題からは少々外れますが「国立国会図書館デジタルコレクション」というサイトで
http://dl.ndl.go.jp/
競馬で検索すればいくつか古い資料を見ることができます
↓は「全国騎手所属厩舎別 附・全国競走馬厩舎別 昭和11年版」という大昔の書物ですが
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1025928
旧阪神競馬場(鳴尾)のコース図が載ってたりします
ここの皆さんで興味ある方は一度ご覧になってみては ゴール後騎手がハデにガッツポーズするのはいつ頃からでしょうかね
昔は見なかったような
あれあんまり好きでないんですよ
ハギノトップレディの伊藤さんは桜でやってますね
馬の首をポンポン軽く撫でるように叩くのが良いんですね
「よく走ったよ!」
宝塚のカツアールの樋口さんみたいな感じですね >>75
テイトオ−は岩川(九州種馬所)にいたような記憶があります
そのあと宮崎大学に寄贈されたと思います テイトオーは岩川でしたか
ダービー馬だから競馬会が買って軽協へ寄贈って流れなら
当然岩川ですよね、すると牧園に居たのは何だったんだろう
ムオーは綾だったかな、とにかく宮崎県でした >>101
星川厩舎にいたタケノヒエンとゴールドシチーも宮崎大学でしたね。 相前後の不確かな記憶ですが
綾にはニットエイト 大崎にはサトヒカルだったかな
それにしても
延岡 綾 大崎 牧園とかよく覚えてられるますなあ マーチスも牧園にいました
確か、「霧島温泉下」とかいうバス停の近所
その国道に面しているパドックにいたかな どんな人でも競馬で確実に勝てる方法は、「草浜ゴマキの競馬必勝マニュアル」というHPで見られるらしいです。検索すると分かりますよ。
A2S91 >>104
サトヒカルと言えば、コダマも晩年は九州でしたっけ? 当時は、青森が比較的馬産なところだと聞きました
アサカオーが確か青森だったと思いますが
産駒のデビューはあったのでしょうか × 馬産なところ
◎ 馬産のさかんなところ
失礼しました アグネスデジタルは名馬だと思う
3〜6歳全てで芝ダート距離関係なく中央G1に勝利してるんだけど詳しく書いてみる
3歳時に古馬混合のマイルCSでコースレコード勝ち、
4歳時の秋天で時の最強馬に完全勝利、
秋天前に地方でもG1に参戦して勝利、秋天後に香港まで遠征しそこでもG1を1勝
5歳のフェブラリーSの勝ちタイムは当時のコースレコードと0.1秒差でレースレコードで勝ち、
もう終わったと思われた6歳時、安田記念にてコースレコードを0.7秒も縮めるタイムで勝利
名馬の定義は色々あると思うけど、俺はこんな馬こそ名馬だと思う コダマは最後の2年だけ鹿児島の吉永牧場でした
供用していたかどうかは?
その最初の年に「なぜか」見ました
まだ元気そうでしたが
厩舎の2階に東京優駿のカップ とかレイとか写真が飾られていました
次の年に死んだと思います
しかしあの記念品はどうなったんでしょう
吉永牧場は確か吉永吉人騎手の血縁の方と思います 晩年、コダマの仔は九州産新馬で出てきていました
まだ若いのに九州送りか・・・なんて思っていましたよ。
タニノムーティエも九州で種牡馬やってた時期がありました。
後に十勝の鹿追で生を終えたのかな。 タニノムーティエ、静内→鹿児島→十勝を経て最期は生まれ故郷だったはずです。
ビゼンニシキも最期は鹿児島でしたね。
鹿児島の馬産関係者から三顧の礼をもっての鹿児島入りでした。 今年の2歳、ヘリオスやチェスナットバレーが復活しましたね ヘリオスといえばイナボレス。オールカマーの印象が強烈だった。
確か準サラブレッドでしたね。 >>116
イナボレスは準サラですね。今ではまず聞く事が無い競馬用語になりました。
ヘリオスは、殆どのレースで大久保正陽騎手が乗ってましたが、エリモジョージが
勝った天皇賞にはイナボレスも出走していました。後年、レースビデオを見ながら、
大久保調教師が現役時代に乗っていた馬の、それほど多くない産駒がレースに出て
いるのは、感慨深いだろうなぁと思ったものです。 >>117
アラブ血量が25%未満の馬を準サラと呼んでいましたが、S49年にサラ系に統合されました。
大井A1のゴーディーがこれに当たります。
イナボレス、ナポレオンが徳川幕府に寄贈したアラブ馬の末裔でした。引退後は東京競馬場の
誘導馬でしたね。JRAのCMにも出演しました。
>>115
現2歳、ロシアンブルーも復活しましたね。
先代はS60年七夕賞&新潟記念を連勝したローカル巧者でした。 イナボレスの稲富氏は筑後から出ていた民社党の代議士でした
筑後は馬産地じゃありませんが育成地としては西日本の最高峰ですね 馬名の復活は、最近特に増えた気がします
ロードエース、ジョイフル
ヤマピットの忘れ形見のボージェストは、今度は牝馬ですか >>118
今日、七夕賞の日に福島でロシアンブルーが出てましたね。
残念ながら殿でしたが。 今日の福島競馬場のファンファーレ、オールドファンには懐かしいものでした。
次は、京都競馬場で、かつてのファンファーレが聴きたいですね。
>>120
ヒダロマンなんて、先代(?)は牧場名が冠名だった馬なので、まさか復活するとは
思いませんでした。 ボアソルチなんて、先代は牧場で生まれた時から追いかけていた
牡馬だったけど、今走っているのは牝馬だもんな。 >>122
GT級勝ちのヒダロマンやゴールドシチーがOKなら
昭和の馬なら、よほどの著名馬以外は全部復活できそうですね
イットー、レデースポート、カバリダナー、キシュウローレル…
こんなのが復活すればあんまりです
歯止めのルールが必要な時期かもしれません ヘリオス
いつの京都記念だったか
なぜか家族で淀へ
芝生にシートを敷いて見ました
ギリギリで逃げ切り
そして最終は繋駕速歩
枯芝に夕陽
その父も・・・
まだ95歳で毎週中継だけ見てます ペガサスも復活しました。
先代は92新潟3歳Sと93福島記念を勝ちました。 >>124
キシュウローレルとイットーは勘弁して欲しい。この2頭の名前を聞くと、あの
悲劇の京都牝馬特別を思い出してしまう・・・
>>125
もし宜しければ、ほかの馬の思い出もお聞かせいただけたらと思います。
繋駕速歩のレース風景なども・・・ ヘリオスというと2015年生まれのアメリカの馬が Helios17 らしいので2016年生まれの
オルフェーヴルの仔は18頭目かな 日曜日の函館10Rで、「アグネス」の渡辺さんの一族の方がお持ちの馬が出走して
いました。服色も以前の「アグネス」の勝負服と同じでした。
持ち馬を全て売却したと言う話を聞いていましたが、何頭か残していたのか、或いは
ご一族のだれかが新たに馬主になられたのか、ちょっと気になります。 ひとつ思い出した話があります
ダイナナホウシュウの厩務員さんは飯原農場からこの馬を連れて来た牧夫さんで
ダイナナホウシュウが引退すると厩務員を辞めて元の農場に帰られたそうです ダイナナホウシュウ
最後は熊本の大津産業高校馬術部(移転前の旧校舎)
それも近所の子供たちの遊び相手
すっかり大人しくなっていたとか ダイナナホウシュウは、志摩直人がとても肩入れしていましたね
大川慶次郎は、アローエクスプレス一辺倒でした >>129
渡辺公美子さん、おそらく御親族でしょうか。
数頭は所有されておられるのでしょうね。 >>124
南関東にはカミノスミレも。
先代は目黒記念を勝ち、3200m最後のS58天皇賞秋で2着でしたね。 >>132
志摩直人さん,初代 森乃福郎さん、松本暢章アナ、3人とも故人か。 フジの鳥居アナも、ハイセイコーのころに実況を降りて
やがて見かけなくなりました >>136
フジテレビ開局の際に文化放送から移られた方でしたね。 大川慶次郎さんが好きな馬
ミツハタ、メイヂヒカリ、アローエクスプレス、ミオソチス 関東と関西はクラスがひとつ違う
頭数が一割多かったんですけどね
ライデン、ハクズイコウが無事ならシンザンなんかと言ってました 大川慶次郎さんが嫌いな馬。
シンザン
一度も◎を打つことはなかった。 石崎欣也?さんは有馬記念のレース回顧(優駿)で
シンザンのようなスピードのない力馬は日本独自で
欧州あたりでは通用しないとか書いていた記憶
しかし菊、秋天、有馬を見ていると相当外目を回って
さらに上がり3ハロンはかなり早かったと思います。
最近目にする欧米のレーススタイルに近かったのではと シンザンの子が走り出してみると大半がスピード型でしたからね
武田文吾師が 「そうだったのか、済まなかった」 と謝ったという話もありますし
ダイコーターやリュウフォーレルの子にもスピード型が多くて
ヒンドスタンは決して当時考えられていたようなスタミナ型ではなく
長距離偏重の時代に能力で大レースを勝っていたんでしょう >>142
リユウフオーレルに、産駒はそんなにいましたか?
リュウファーロスなら何頭かわかりますが >>143
グレートライナーは目が覚めるような快速馬でしたよ >>142
大半ってシンザンの仔でスピードタイプというとスガノホマレ、シルバーランドくらいだろ。
ミホシンザン、ミナガワマンナ、グレートタイタン、キャプテンナムラらステイヤータイプもかなり出ている。 >>145
ミナガワマンナもキャプテンナムラも超よりをこなしたスピード馬だと思いますよ >>146 自己レス
超よりってひどいですね。長距離の打ち間違いです。
補足しますと
私が考えるスピードタイプというのはスプリンターやマイラーではありません
距離の長短には関係なく、時計が速くなると強い馬のことです ヒンドスタンは確かに、輸入当初はマイラーと言われていたようです
パーソロンも、仕上がり早やの三歳血統という扱いでしたが
メジロアサマ辺りから、評価が一変しましたね
決めつけは出来ないけど、大まかな特性は確実にあると思います
テスコボーイなどは、ホクトボーイやインターグシケンがいなければ
マイラー寄り種牡馬の扱いだったでしょう パーソロンもテスコボーイも2400ですら長いと言われてましたね テスコボーイ系を残すためにもビッグアーサー,グランプリボスはいい子を出してほしい。 チャイナロックは不思議な種牡馬でした
自身は栗毛なのに産駒は鹿毛に出るとよく走る
栗毛ではメジロタイヨウくらいで オープンクラスの活躍馬は、種牡馬が東西にやや隔たりがありましたね
チャイナロックやパーソロンは、圧倒的に関東馬
ネヴァービートやシプリアニは、関西馬が多かった
ヒンドスタンやテスコボーイのようにリーディングを続けるような種牡馬は
さすがに東西まんべんなく活躍馬を出しました 直線の坂が関係あるんですかね
最後の一踏ん張りが効くか効かないか 地域によるんじゃないでしょうか
昔は各地に親分のような人がいましたから
水田から転向した生産者なんか販路をもっていませんから
離乳後は地域を仕切っている人の育成場に馬を贈ったので
特に三石より東は関東の調教師さんは行きたがらないですし パーソロンの仔はほとんど関西に入って来なかったな。活躍したのはダイアナソロン、アグネスホープくらいか。 アグネスホープ
大川が「これはダービー云々という馬じゃない」とかいってたな 海外の競馬小説を読むと、大富豪の馬主の息子が身を持ち崩して
幼い頃から馬に乗っていた経験を生かして調教師になるというケースがあるようです
自分が生まれ育ったお屋敷に住む馬主のためにそこの厩舎に住み込んでるとか
日本で身を落としたと言えば競馬評論家でしょうか
本来なら自分が馬主としてダービーを争うべき身分だった人たち
大川財閥の御曹司大川慶次郎氏と沖縄の王族宮城昌康氏 明治時代の競馬では、馬主自身が騎乗してレースに出た事がありますし、日本競馬会
になってからも、馬主が馬で身を持ち崩して、競馬会職員になった例もあります。 書き間違い。改めて
>>159
昔、関東で発売されていた「競馬新報」という競馬新聞は、総会屋で有名だった「上森子鉄」が社主でしたね。
一時期、日本競馬新聞協会会長でもありました。 上森子鉄がさっと出てくるとはたいしたもんです
知ってる方も少なくなりました ラジオ関東も上森さんだったような気がするんですよね
ウィキ読むと遠山社長の暴走なんて書かれてますけど
洋平さんが新自由クラブで散財して那須野牧場も売っちゃったし
ラジ関も売ったと記憶してるんですが
しょっちゅう労組がピケ張ったりして変な局だなと 上森氏自身は競馬好きだった様で、「競馬新報」も、採算度外視で出していたという話を聞いた事があります。
日本の戦後社会に色々関わった人ですが、その割には語られる事が少ない様に思いますね。
>>164
キネマ旬報の社主だったのは知ってますが、ラジオ関東は違う様な・・・ >>165
上森さんが太刀川恒夫さんに売ったのかなあ
洋平さんが誰かに売ったことは間違いないです 上森子鉄氏の名前が出たんで、
アウトローに近い人というコトで・・・・・
醍醐安之助氏
弟はダイゴホマレ<第25回日本ダービー優勝馬>の馬主−醍醐幸右衛門氏、
幸右衛門氏と共に、大井競馬の発展に尽し、東京都馬主会の会長を務めた。
長く大田区選出の東京都議会の議員に就き、議長職の座にも在った。
元々はテキヤ出身、旧東京二区選出の故新井将敬氏とも関係が深かった。
ヒカルメイジの新田新作氏も、元はと言えば新田組の組長でしたね。 >>166
太刀川恒夫氏は東京スポーツ会長ですね。
永田雅一氏の大映が傾いた際に永田氏が社主を務めていた東スポを買収しましたね。 関係ないですけど
昨日のサクソンウォーリアにガッカリ
オブライエンがとかムーアがとかいろんなグチが出ます
その昔、短波のラジオ中継でタケシバオーの2年連続惨敗を聞いたことを思い出しました このスレ的には新しい話になりますが、平成3年秋の天皇賞の時、南米のある国に出張で滞在していて、日本から
持って行った短波ラジオでラジオたんぱの周波数に合わせて、ようやく受信出来た微かな音が途切れ途切れに
なりながらも聴いていました。
スタートでは何とか受信出来ていたのに、「メジロマックイーン先頭」という実況を最後に受信出来なくなり、次に受信
出来た時には、「メジロマックイーンは失格になりました」と言うアナウンスが聴こえて、理解するのに時間が掛かった
のを思い出しました。今では、ネットで何処でも実況が聴ける様になり、まさに隔世の感があります。 短波ラジオというと
松屋の裏に行くと突然風景が変わってここが銀座?
空き地に打ってある杭に引っ掛けたラジオから競馬中継が聴こえてきて
浮浪者風のおじさんがたむろしてて
銀座場外の周辺ってそんな感じでした
プレイガイドビルの地下のミニ場外もありましたね タケシバオーのワシントンDCは最近になって
YouTubeでみました
サーアイヴァーと接触した場面も写ってました >>172
プレイガイドビル地下の銀座通り場外は、元のサービスセンターですね。 ワシントンDCといえば大惨敗ばかりだったな。
ローレルの「牧草地みたい」と言われた馬場が合わなかったのか、当時の日本馬のレベルが
低かったのか。 >>175
低湿地だから単純にパワーが要るんですよね
日本馬はスタートから1マイルまでは馬群についていくけど
最後の半マイルは1完歩の歩幅が狭くなって徐々に遅れる
マラソンでこぼれていく選手みたいに
要は日本馬に最も向いてない競馬場ですよ
あの頃栄養価の高い外麦が入ってきて外麦食わすと太るから
飼葉は8升を5升にしろなんて真面目に言ってたんですから
外麦8升食わして太らん調教しろよと思ったものです まああのパワーの権化みたいなタケシバオーで駄目だったんだから、当時のどの馬でも無理だったでしょうね 第一関節まで隠れるぐらい深い芝だと言ってましたね
賞金王のケルソが勝ったときは、2分23秒台でしたが
さすがにあのときは、もっと走りやすい馬場だったと思います
そのレースで大差シンガリのリュウフォーレルも、一応タイムは自己ベストでした >>172
>>174
学生時代<昭和>、目黒区緑が丘に住んでいて、
函館−札幌のレースを買いに、
愛車 pop-gal で銀座まで何度か行ったなぁ・・・・・
千円単位の発売で、単勝複勝だけ買っていた。
( 後楽園でも発売していたけど、そこに行く発想は無かった )
お客さんも数える程しかいなかったなぁ・・・・・
帰りは、向かいの伊東屋で文具を見て帰るというのが常だった。
>>179
狭くて入場者数を絞る必要があるので、千円単位の発売にせざるを得なかったんでしょうね。 フォーレルはどこか不具合があっての出走だったと記憶しています
タケシバの二年のどちらかは風邪上がりでした 大井の能検でスカーレットリボンが合格
父親がヴァーミリアンだから父の祖母の姉と同名
竹原が桜花賞で1番人気という平成最後の現在では考えられない昭和最後の桜花賞 昭和最後の名勝負タマモクロスvsオグリキャップ
みたいな平成最後の名勝負がみれるか? 前にも出ましたが、毎年この時期になると
東京開催の平場オープンが、豪華メンバーになったのを思い出します
ヤマブキオーとハイセイコー
タニノチカラとロングワン
テンポイントとロングホーク
ホクトボーイとカシュウチカラ
天皇賞勝ち抜けの時代で、有馬記念へのちょうどいいローテーションのせいですか
ホクトボーイの年は、忘れたけど他にもいい馬が出ていたと思います 今日になってなぜか思い出しました
タマミほどテンの3ハロンが速い馬はかつて存在せず
タニノムーディエほど上がりの3ハロンが速い馬はいなかった
そう言われていました いきなり質問で申し訳ないのですが
昔の優駿でマル外の特集が組まれていたことがあって
関西馬でマル外で改名がうけて
人気になった馬がいたと書かれてました。
優駿は処分してしまったのでその馬が何だったか思い出せません。
お分かり方がいたら教えて頂けないでしょうか >>188
当たっているかどうか、思い当たるのは
ツクモオダマキ→ボールドエイカンですね
内藤厩舎で、僚馬に同じ外国産のレッドルーラーがいました
カツラノハイセイコの世代です ツクモオダマキという情趣のある馬名がなぜ
ボールドエーカンなんて平凡な馬名になっちゃったのか…… >>190
外国産馬に相応しくないから...とかそんな類の理由だったと記憶しています
当時は外国産馬と言えばスピードで内国産馬を圧倒する事が多く、馬名も
ギャラントダンサー、スピリットスワプス、マルゼンスキー等
(マルゼンスキーは外国産馬ではありませんでしたが...)、馬名も
如何にも外国産馬と思わせるものが多かったですから >>189
ありがとうございます。
ボールドエイカンという名前のようだった気がします。
記憶があやふやなのではっきりとしたことを申せないのが歯がゆいですが
助かりました。 >>192
どういたしまして
ボールドエイカンとレッドルーラーが一緒に出た
冬の京都の4歳戦は面白かったですよ
ボールドエイカンはだめでしたが、レッドルーラーは3着
1、2、4着が、カツラノハイセイコ、テルテンリュウ、ホースメンテスコ
のちにすべてタイトルホースになる豪華メンバーでした >>193
このレース、微かに記憶がありますが、豪華なメンバーでした。カツラノハイセイコは、レッドルーラーに乗った
福永洋一騎手に代わって、このレースから松本善登騎手が主戦になったんでしたっけ?
>>186
ヤマブキオーとハイセイコーのオープンは、他にもタケホープ・ストロングエイト・ディクタボーイ・メジロスイセイが
出ていて、下手な重賞よりもメンバーが揃ってましたね。
テンポイントとロングホークは、まさに一騎打ちでした。これらのレースが、土曜日の特別戦の前に行われたの
ですから、何とも豪華ですよね。
タニノチカラ・ロングワンは、京都のオープンだった様な記憶が。新人の頃の河内騎手が乗って勝ったレースでした。 ツクモオダマキは新聞紙上で、次回開催の有力新馬で紹介されていました。
それが出馬を見ればボールドエイカンですからね
改名の理由も>>191氏の通りであったと記憶しています。
種牡馬として引退、種牡馬試験不合格(かどうか怪しいですが)
草競馬のスーパースターと、話題の多かった駿馬でした。
持込みでしたが、ニジンスキーの仔が新聞紙上をにぎわしたこともあります
明和が繁殖ともども輸入して、生まれたのが牡馬ということで
その名もメイワスキーと名付けられ(る予定)でしたが
競走馬デビューの時には、ニジンスキースターと
凄い名前で出てきました。 >>194
レスありがとうございます
タニノチカラは京都でしたか。失礼しました
松本騎手は、あの一戦から主戦になったと思います
有馬記念でシンザンが回ってきたり、少しは報われた騎手人生でしたね
秋の東京と同じように、春の阪神でも豪華なオープンレースがありました
タマホープ、トウメイ、ジュピックなどの出たレース
ハマノパレードとオンワードガイを、内から洋一メトロオーカンが急襲した年
ロングホークとトウフクセダンの年など
現在はGTや重賞も増え、有力馬がかなり分散します
当時と今の最も違う点の一つでしょうね ニチドウタローはオープンをレコード勝ちして
10日後の天皇賞も阪神でしたがレコード勝ち
イシノヒカルは道悪なのでレコードとはいきませんが
オープンと9日後の菊花賞を勝ちました。 >>このオープン、桜花賞の前日辺りに実施されていたレースですね。
春の天皇賞に向けての一叩きとして、実力馬の出走が多いレースでした。 >>198
メトロオーカンは、桜花賞当日の最終レースでした
タケシバオーは、桜花賞前日の土曜だったと思います
タケシバオー、リキエイカン、ニチドウタローなどは
オープンを強い競馬で独走して、天皇賞につなげました コーネルランサーがレコード勝ちした、ひいらぎ賞
あのレースは確か3歳500万級でしたね
3歳の2勝クラスの条件戦が、わずかな期間ありました
今は、2歳重賞が大幅に増え、1勝馬が大挙参戦する時代
隔世の感があります 昔の条件戦はクラス分けが非常に細かかった印象があります。
2歳重賞が多くなりすぎて、メンバーが逆に揃わなくなってしまったので、重賞勝ち馬といっても、
以前ほどの価値を感じなくなりました。 ひいらぎ賞 コーネルランサーの翌年の勝ち馬はカブラヤオー
2年連続でダービー馬を出したことになりますね
カブラヤオーは当時まだ1勝馬 格上挑戦だったわけで8番人気
このレースをぶっちぎって勝つことによりテスコガビー、マツフジエース(朝日杯)と
牝馬の活躍が目立っていた関東牡馬陣でこの馬が最強と印象付けました。
当日はハイセイコー引退狂騒真っ只中の中山だっただけに目撃者も多かったはずです。
関西の人たちがこの馬を認識するのはおそらく翌年のテスコガビーとの対決だったと思いますが >>204
所用で東京へ行ったとき、初めて東京競馬場に足を運んだのが
テスコガビーの京成杯でした
府中は直線が長く、コースの幅員も広いので
イシノマサルとのゴール前、どちらが勝ったのか判りづらかった記憶があります
準メインの条件特別は、のちに天皇賞馬になるフジノパーシア
当時はほんと、関東馬の層は厚かったですね
コーネルランサーと接戦したスルガスンプジョウに
同時期に強い勝ち方をしたインターグッド
このあたりがキタノカチドキのライバルになるのかなと思ってましたが
関東の下馬評では、カーネルシンボリが一番のようでしたね >>205
確かにあの年の関東総大将はカーネルシンボリという下馬評でしたが、
抜けたものは感じませんでしたね。
カチドキには敵わないだろうと思っていました。
もっともすべてが終わった今から考えるとカチドキの東上以降の調子下降を
除いても距離の融通性からダービー、菊花賞と逆転はあったかなと思います。
カーネルシンボリは2歳夏からトップを引っ張って来ていて、クラシック前に壊れました。
これは和田共弘氏に(のちのルドルフへの)とって大きな教訓になったと思います。
東西の両横綱が対戦するというのが1番キレイな形で実現したのがアロー、ムーティエ。
私にとってはTTGなんかよりはるかに盛り上がりましたが、2度とこういう形は実現しませんでした。
トウショウボーイVSテンポイントも初対決時は全国区のテンポイントにトウショウボーイは
関東の新星にすぎませんでした。
ヒシスピードVSリュウキコウは本番前に共倒れで本番も両方とも用なし。
サッカーボーイの東上初戦のときも関西の大将に関東馬がどう立ち向かうかという感じで
前走ミュゲロワイヤルに負けてるチヨノオーに大将感はありませんでした。
そのうち、馬も人も交流が激しくなりすぎて関東馬とか関西馬とか気にならなくなりました。
1番盛り上がる形だったんですけどね東西対決。
正直、今、馬の名前いわれてもすぐ関東馬か関西馬かわかりませんから。 キタノカチドキはダービーが惜しかったですね
前へ行ったり後ろへ下がったり内へ入ったり外へ出たり
武騎手が制御に苦労してました
コンディション調整が上手くいってなかったんでしょうけど
原因は厩務員ストだと思います
3週間延期された皐月賞を勝ったとはいえ
その時点でもう体調は狂っていたのではないでしょうか 当時はケガとかで3レースともまともに走れず2冠で終わる馬が多かったから、なおさらダービー3着が惜しいですね
負けた原因はストと単枠指定の大外を上手く乗れなかった
しかし直線の斜行は前にいたスリーヨークの内を行こうとしたように見えます
ロングエースのようにね
しかしスリーヨークがそこを閉めてしまい立て直すも間に合わず
何度もこのスレに書いてしまいましたが残念ですね、まあ調子が良ければ先行して直線入口で先頭に並んでいたでしょう しかし関西の騎手は東京コースはそんなに馴れてないから、当時の多頭数ダービーを上手く乗れないのも仕方ないんかな スリーヨークいましたねえ、曲者って感じの実力馬でした
稲部和久騎手は競馬ニホンの騎手座談会によく出ていました
あれは日曜のレースが終わってからなので騎手も早く帰りたいし
確保するのが大変だったようで、出ていた騎手は気のいい人たち スリーヨークは、春の天皇賞での落馬の印象が今も強いですね・・・
騎手座談会、かつての週報では毎週掲載されていましたが、騎手の本音が読めて面白かったですね。
調教師座談会もありました。 逃げ馬が好きだったな
特にツインターボ
名勝負はナリタブライアンとマヤノトップガンの一騎討ち 逃げ馬は交わされてから二の足を使う馬が好きだな。パッシングゴールとか。 パッシングゴールは、新田幸春渾身の逃げでしたね。
ヤマニンウェーブが差して来るとは思わなかったのでは? 新田幸春=松田幸春
舞原昌博=松永昌博
上野清彰=伊藤清彰
榎屋 忍=梅内 忍 テンメイが有名だけどヤマニンウエーブも天皇賞勝って阪神大賞典 >>216
これは失礼
人の名前を間違えてはいけませんね
上野騎手は不運な人でした >>218
伊藤修司氏、晩年は悲惨だった様ですもんね。
上野さんは須貝厩舎(彦三先生の方です)で助手をされていましたけど、現在は流石に隠居されたのかも。 >>219
伊藤さん晩年悲惨だったの?
去年亡くなったかサンスポトラックマンの古川さんの義弟だから全く縁者がいなかったわけでもないでしょうし…
古川さんの訃報はプロ野球創成期の選手として書かれていましたね >>220
プロ野球の第一回東西対抗オールスター戦のメンバーに
「古川清蔵」の名があるので、ずっと気になっていましたが
やはり同一人物でしたか
8大競走前日には関テレで特集番組があって
古川さんと大坪さん、それに時々関東から大川さんが出演していました >>221
サンスポトラックマンの時代でも、元プロ野球選手というのは有名だったはずですよ
プロ野球板の長命スレでもほぼ筆頭に古川さんの名前あり、最近まで何年か一度はプロ野球創成期の取材を受けられて、存命確認!と書かれてましたね
最晩年までご壮健だったようで、独特の喋りが思い出されます 伊藤修司師は莫大な借金を作っておられて
清章騎手は進上金を取り上げられてたという噂でしたね
これは想像ですが大馬主の連帯保証をされたのでは…
調教師引退後は予想業者の看板になられたりして
最後はどこかでのたれ死にされたと聞きましたが >>223
伊藤修司、伊藤雄二。
この二大巨塔(伊藤姓の二人)の明暗、晩年でハッキリと分かれましたよね。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>223
確か、自ら命を絶たれたのではなかったかと思います。
伊藤師は、父親の代から続いて大馬主の馬を預かる事が多かったですから、その中で、
本業が傾いた馬主との付き合いで、借金や馬の代金を断れなかったなど、色々あったのかも
知れません。
歴史に名を残した調教師としては、あまりに悲惨な最期だと言わざるを得ません。
伊藤雄二師は、笹田調教師という後継者が出来ましたが、伊藤修司師は、伊藤清騎手は離婚して
上野姓に戻りましたし、後継者が作れずに終わったのが残念です。 >>225
伊藤修司厩舎に居たスタッフ、殆どは鮫島一歩厩舎にスライドしていた筈ですよ。
寺井さん(グランドマーチスの主戦騎手)、松田幸春さんは在籍していましたし。 ヤマニンウエーブと似た臨戦過程だと気付いてホクトボーイの単勝取ったのは良い思い出 42 名前:古川清蔵氏96歳生存確認[age] 投稿日:2018/08/12(日) 01:53:54.57 ID:wSV3Kwri
>>41
> AS選出3回以上/主要タイトル獲得/監督経験者/他
> 1913年度 浅岡三郎
> 1917年度
> 1918年度 松尾幸造
> 1919年度
> 1920年度 木村勉
> 1921年度 古川清蔵→本塁打王2回獲得今日テレビ出演で生存確認96歳
BS1 スペシャル 戦火を駆け抜けた男たちのプレイボール
終戦からわずか3ヶ月の昭和20年11月23日
戦後初のプロ野球試合
東西対抗戦に出ていた選手だった
44 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/08/12(日) 20:45:38.47 ID:yx6KDHQq
古川清蔵老は2年前あたりのNHK7時のニュースに出てた
262 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/18(木) 05:30:53.53 ID:QHNlBVvH
プロ野球創成期の強打者、古川清蔵さん死去 96歳…老衰
https://www.sanspo.com/baseball/news/20181018/npb18101805010006-n1.html
264 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 10:21:38.82 ID:rYbqa559
このスレの生存者リストでお馴染みの古川氏みたいな感じだったな
合掌
265 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 19:19:55.23 ID:eqxnnPlx
古川氏や岩本義行氏や西本御大は
まさに天命を全うするみたいな安らかな死に方のイメージだな
268 名前:神様仏様名無し様[sage] 投稿日:2018/10/19(金) 16:41:40.85 ID:TfzoKuUd
中日OBとしての訃報も遅ればせながら
元中日・古川清蔵さん、死去 1942年延長28回伝説の一戦で戦った男
http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/201810/CK2018101902000115.html
281 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/10/20(土) 11:11:17.50 ID:M/kKw+JX
古川清蔵氏の訃報を見て来たものの、スタンカばっか
394 名前:神様仏様名無し様[] 投稿日:2018/11/10(土) 12:14:11.05 ID:k59aEtqn [1/2]
古川清蔵の死亡記事見ると戦前のプロ野球最後の生き残りみたいに書かれてた 古川さんあの時代に1400安打ってスゴいな
今の時代なら2千本打ってもおかしくないしホームラン王獲ってるからプロ野球史に残る人なんだね
まさに大往生。
伊藤さんの最晩年は詳しくはタブーなのかわからなそうだね
お金は相当稼いだはずなのに残念なことです 道営の名手佐々木一夫騎手 (調教師) も縊死されました 大金が動く世界はいろいろあるんですね
貧乏人にはわかりませんね 競馬評論家の宮城昌康氏も、メディアによく露出していましたが
突然見なくなりました
一部で黒い噂もありましたが、あれだけメディアに出ていた人にもかかわらず
誰も話題にしなかったですね 競馬評論家で、借金のせいかいつの間にか居なくなった人は結構居る気がします。
難しい世界ですね。 >>233
彼の長女が嫁いだ相手、中舘英二というのも面白い処ではあります。 >>226
マツクニさんは伊藤修二厩舎で調教助手をしていたし、その意味では
友道、角井、高野さんは伊藤一門といえるのでは? >>236
なるほど、松田国師は確かに伊藤修司師の下で調教助手やってましたね。
その後、山内師の所に移動してから調教師になっていますが、そういう意味では門下生と言えますね。 正月京都の1R未勝利戦は、出世レースといわれた時期がありました
ニホンピロムーテーやハマノパレードなどがそうだったと記憶しています
今年はどうでしょうか 福寿草特別でヘリオスが逃げていて、何か嬉しくなりました? >>239
秋の枯芝京都記念?の思い出があります
そして最終レースはケイガ速歩 重賞という言葉は昭和29年に佐藤正人氏が作りました。 以前は東で京成杯、西でシンザン記念
東でAJC杯、西で日経新春杯って対になる重賞を同日にやっていたけど
気がつけば東西の金杯くらいしか残ってないなと昨日思いました その金杯にしても、今は距離が違いますしね。
東西間がフォッサマグナのように別れていた頃は、むしろそうじゃないといけなかったんでしょうが。 金杯はもともと正月開催の最終日に行われていたんですが
西の金杯は日経新春杯に名前が変わりました
東ではAJCCが出来て金杯は初日に移り
西では初日のニューイヤーSを迎春賞と改めて重賞に格上げし
昭和41年から東と同じ金杯という名にしたという経過です
重賞ではありませんがアラブの銀杯というのもありましたね 昭和44年までカップの金杯ではなくサカズキの金盃ですね。
3日にやってたのは昭和43年まで。
この頃からもう競馬ブームということが言われていて
正月には中央競馬をやるなという指導が入ったんだと思います。 尾形厩舎のフイニイ、翌年のミノル
ともに秋から関西に滞在していました
日経新春杯の頃までいたかな。当時としては珍しいケースでしたね 失礼。ミノルはフイニイの2年後でした
伊藤修司師が一門だったから、そこに入厩していたのかな ミノルとフイニイはいつも帯同していましたよ
名義は尾形厩舎でしたが
実際は元騎手の山内与吉厩務員が九州在住の馬主さんのお抱え調教師で
馬主さんが観戦しやすいように関西に来ていたんです 失礼、間違えてました
山内与吉氏はタカエノカオリです
ミノルとフイニイを管理していたのは吉村嘉吉氏で
馬主さんの九州の地方競馬でのお抱え騎手でした >>251
フイニイやミノルの滞在先は、伊藤雄二厩舎かなと思っていました。
そう言えば、フイニイが勝った万葉S、今も正月に淀の3000mで行われていますが、ダービー前の
むらさき賞と同じく、長年条件が変わらない特別として、貴重な存在かも知れません。 >>252
ありがとうございます
>>253
フイニイは菊花賞を取消したあと、関西で走ったのは
京都記念、阪神大賞典、金盃、日経新春杯の四つです
5歳の秋は、ハリウッドターフクラブ賞と京阪杯 >>214
この天皇賞で1番人気だったキームスヴィミー、パッシングゴールは
ともにヴィミーの産駒だった。
ヴィミーはキングジョージ&クイーンエリザベスSなどを勝った名馬だが、
気性が悪く「きちがい馬」と言われ、地元のフランス人は
「日本人は勇敢だ。あのヴィミーを買ってきてどんどん付けている」
と驚いていたそうだ。 >>254
フイニイが万葉Sを走ったのは、旧7歳(70年)の正月ですね。
この時は、オープンと万葉Sを使って2勝してますが、保田騎手とのコンビはこれが最後になりました。 >>256
京都で2走して一旦東京へ戻り、春の天皇賞でまた西下してるんですね
秋には天皇賞のあと、また阪神大賞典
確かダイアモンドSがラストランだったと思いますが
長距離戦は、たとえ苦手の道悪でもすべて堅実に走り切りましたね 明後日、名古屋の新春ペガサスカップにゴールドウエイという馬が出ます。
特に追い込み馬ではなさそうですがw
毎日王冠の差し切りは忘れられません。 大川慶次郎さんと盛山アナウンサーが浮かびます、この毎日王冠。 今日の京都メインは、1着が8歳、3着が9歳馬
昔に比べると格段に高齢馬が活躍できる時代ですね
ゴールドイーグルとロイヤルスプリンタの8歳馬2頭で決まったマイラーズC
当時はかなり話題になりましたが
今の表記だと7歳馬2頭ですから、そう珍しくも感じられませんね https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/keiba/1548321066/l50
上記スレから誘導を受けてまいりました
時々覗きますのでよろしくお願いします
キタノカチドキ、二ホンピロセダン、二ホンピロスイセイ、フジオックス、マサエイカン、二ホンピロリーダー
二ホンピロエバート、ナルタキサンダー、二ホンピロカホウ、リキタイコー、二ホンピロエイカン、ターボー
服部厩舎の馬を追っかけていました キタノカチドキ、イットー、タニノチカラで決まったマイラーズカップは阪神競馬場で見ていました。
カブラヤオーが勝った皐月賞の日で武邦彦騎手はロングホークに乗りに中山に行っていました。
カチドキの鞍上はデビュー3年目の田島信行騎手でしたが最も強く印象に残っているレースです。 武邦彦騎手のお兄さんの武輝彦氏はJRAの職員で
渋谷にあったプラザエクウスの館長をされてました 武輝彦氏には広報室長だったころ新橋でお会いしたことがあります
いくら応募しても電話投票に当たらないといったらその場で申込用紙をくださいました
ルール違反ですがもう時効ですね >>262
このレースはテレビで見た記憶がありますが、この時点でタニノチカラは脚部不安があって、その前の
オープンでどちらか一方の馬と対戦する筈が、結局出走しなかった様に思います。 しかしここへ来られる方の年代はどれくらいでしょう?
私は70歳ですがひょっとしてここでは洟垂れ小僧かなと >>265
タニノチカラは有馬記念の後京都記念を大差で逃げ切り
3月のオープンでは河内騎手でイットーとの一騎打ちに勝利しています。
マイラーズカップが最後のレースとなりましたので脚部不安の兆候が出始めていた可能性はありますね。
前週には二ホンピロセダンが天皇賞の叩き台に使ったオープンがありましたがそこからスライドしたという記憶はありません。
いずれにしても当時の関西古馬2強とのちに名牝と称えられる名馬の巴戦を見れたことはこの上ない財産になりました。
ちなみに斤量はカチドキ60キロ、イットー52キロ、タニノチカラは61キロでした。 >>266
おそらく年長者の部類に入られると思います
ずっと、スレの話題の多くが
昭和45年〜55、56年ぐらいの馬や人に関するものですから
現在60代、それも後半の人が圧倒的に多いのではと推測しています
中にはメイズイやシンザン以前の話をレスされる年配の方もおられますが
貴重な話題として聞かせていただいています >>266
私は今年還暦を迎えます。
中学生の頃からテレビで競馬を見始め、ハイセイコーブームで完全にはまりました。
高校の頃に週刊「馬」がペーパーオーナーズゲームをはじめて
勝ち馬の写真を贈呈してくれる企画がありしばしば拙文を投稿していました。
その流れで大学に入ってからは池袋の喫茶店であったアベコーさんや井崎周五郎らとの集まりにも参加していました。
馬券を買うようになったのは大学生になってからで最初に大勝ちしたのはカツラノハイセイコのですね。 >訂正、カツラノハイセイコが勝ったダービーでした
相手筆頭に4歳中距離特別を勝って挑戦してきた
嶋田功騎乗のリンドプルバンを狙い枠連と単勝仕留めました。
リンドプルバンはテルテンリュウの斜行で大きな不利を受けハナ差届かず気の毒でしたが
ハイセイコーの産駒がダービー馬になり感無量でした。 >>261
旧四歳クラシックは、キタノカチドキ世代1974年から見ているので、
キタノカチドキは、その名前の響きの良さと共に強く印象付けられました。
その翌年の菊花賞の前日、サンテレビ( 神戸在住でした )の競馬中継で、
前年の菊花賞のレースが放映され、小崎アナが「 予定通りの勝利 」と実況、
それを受けて、飛鳥井アナが「 今年( コクサイプリンスが優勝 )は予定通りの馬はいないですね 」と語っていたのを何故か憶えています。
>>271
昭和50年ですね。春はカブラヤオー、テスコガビーの両2冠馬が華々しい活躍をしていましたが
秋はリタイヤしたためあまり印象に残っていません。
菊花賞ではヤマゼントップが1コーナーで馬鹿ついて逸走し落馬したシーンはよく覚えています。
ロングホークとファスト、イシノアラシとマサル、エリモジョージ、ハーバーヤング
脇役も多士済々で個性的な馬が多かったと思います。
KBS制作の競馬中継は私も見ていました。ラジオの競馬展望もよく聴いていました。
解説は競馬ブックの中西勉、山田一雄、松本晴夫、内炭重夫、坂本日出男さんらでしたね。 カブラヤオー世代はTTG世代と比べると地味ですが、
ファバージ、フォルティノと当時日本に数少ない世界で通用しそうな種牡馬の産駒の
デビュー年で新馬が始まるのがとても楽しみでした。
当時は血統に興味のある人間なんて少なくてサクライワイがオークスで1番人気になる時代でしたが…。
期待通り夏の北海道でホシボージ、ロングフアストが活躍しましたが、当初期待していたような大物は出なかったですかね。
なにげにこの年はエリモシブレー、ニジンスキー産駒のニジンスキースター、ササフラ産駒のホクエイワンとかいて
血統的には結構派手。
今から考えると面白いですが、ノーザンダンサー産駒で母系も良血のエリモシブレーより、ニジンスキースターの方が
世間的な注目度は上でしたかね。 >>273
私も血統には大いに興味を持ち山野浩一氏、白井透氏などの書物を読み漁りました。
ファバージはテスコボーイ、バーバーに続いて導入され
日本で大成功を収めたプリンスリーギフト系の直仔で
凱旋門賞馬ラインゴールドを輩出していましたから「真打ち登場!」とワクワクしました。
おっしゃる通り当時はマタドア、ミンシオ、サウンドトラックなどの早熟で3歳戦を席巻した
短距離血統馬がクラシックでも過剰に人気するので蹴跳ばす妙味がありましたね。 1973年に変動相場制となりマ動相場制となり輸入自由化も進み良血の外国産馬が入って来ました。
同時に父内国産馬の奨励金が(母内国産も)手厚くなり
限定重賞も定着してシンザン、ダイコーターなどの産駒が増え活躍しました。
この年はタニノムーティエの初年度産駒タニノサイアスが桜花賞でテスコガビーの4着に入り注目されました。
翌年はアローエクスプレスの産駒がデビューしテイタニアが桜花賞に勝ちその後も息長く活躍馬度出しました。 ファバージは大成功、フォルティノも成功した部類でしょうけど、>>274さんのような、そういう期待とは微妙にズレた結果に感じたのは私だけでしょうか?
ビクトリアクラウンとハードバージは相当強かったけどピークが短かったのが残念です。 >>276
ファバージは3歳リーディングも獲りましたしコンスタントに活躍馬を出しましたから成功の部類だと思います。
しかしながら本国でラインゴールドやゲイルーザック、チャンピオンSを勝ったジャコメッティを輩出していたことや、
同じプリンスリーギフトの直仔で既にランドプリンスやキタノカチドキを出していたテスコボーイとの比較から
過度な期待を受け(その後のテスコボーイの大成功もあり)物足りなく感じた人も多かったと思われます。
ちなみに私がファバージの産駒で最も期待したのはギャラントダンサーの弟のバリシニコフでした。
話は逸れますが個人的に導入時の「ワクワクするような」期待感でいうと、
タイプは全く違いますが同じく高齢で輸入されたセントクレスピンも期待が大きかったですね。
フォルティノは期待外れかもしれませんが大好きだったシービークロスを出してくれましたから満足です。(笑) 種牡馬が成功したかどうかは
事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
名前の出たフォルティノは、かなり前評判が高かったし
セダンなどは、当時の日本でトップ級だったネヴァービートよりはるかに大物
そういわれていました
内国産の方は厚遇されない時代でしたが
時折活躍する馬が出ると嬉しかったですね
リュウファーロスは、アンドレアモン、ロバリアアモンと
関東でダート戦の強い馬を出しました
カブラヤオーからは、ヒテツという馬が出たのを思い出しました >>278
>種牡馬が成功したかどうかは
>事前の評判や期待と比べてどうだったかのイメージ評価が多いように思います
その通りでそれに尽きると思います
逆に評判倒れだったに終わった種牡馬の方が多いですよね。
大コケした馬として思い出すところでは米2冠馬カウアイキング、凱旋門賞馬プリンスロイヤル
少し新しくなりますが、何と言っても英愛ダービーなどGT5勝の年度代表馬グランディですね。 日本を 「種牡馬の墓場」 と呼んだのは
グランディの輸出についての記事だったと思います
スポーティング・ライフの 「ジャック・ローガンの月曜評論」でしたか
日本に行くとその血が欧米競馬社会に戻って来ない
そこで終わりだという意見が当然と思われていた時代でした リュウファーロスの仔ではリュウキコウが阪神3歳S、きさらぎ賞に勝って昭和52年のクラシックに乗りました
息長く活躍し古馬になっても京都大賞典と目黒記念を連勝してテンメイが勝った天皇賞では1番人気になりました
関西ではファンの多かった馬です
昭和50年ごろはダービー出走馬28頭中20頭ぐらいが違う種牡馬の産駒でした。
それぞれ個性があって血統の勉強もし甲斐がありましたね。 グランディは初年度のハギノトップレディをわざわざ英国に運んで付けさせたんですよね。
どうせなら声価の定まった超一流つければいいのに、と思ってしまう。
サンプリンスやラインゴールドも残念なクチ。 グランディは競馬会が供用した馬でしたので九州に流れて行って最期を遂げました。
欧州に返すべきでしたね。
円が強くなってグランディ、ジェネラス、 クリスタルパレス、ファーディナンドなどの大物種牡馬が輸入されるも
日本で大成せずジャパンマネーに皮肉を込めて「名馬の墓場」といわれました時代がありました。 「日本は名馬の墓場」というフレーズは欧米では昔から言われていたようですが
日本ではJCが開催される頃からクローズアップされるようになったと記憶しています。
一流の競争成績を残した種牡馬が日本に適合せず成功しなかったことよりも
輸入馬偏重で内国産種牡馬を冷遇するあまりサイアーラインを繋ぐことが出来ない
当時の状況を指したものだと思います。 グランディ、ジェネラス、ファーディナンドは
向こうで失敗したので日本に来た馬たちですね。 ハードリドンは本国での実績があり輸入前にも持ち込みの活躍馬を多数出していたので
デビュー前から期待が大きかったですね。
初年度からダービー馬ロングエースを出しました。
リニアクインはレベルの高かった世代のオークスを勝ちました。
アイノクレスピンを3馬身ちぎり、勝ちタイムもダービーより早く
ダービーに出ていても勝てた、と言われました。
個人的にはキタノカチドキの僚馬で故障に泣いた二ホンピロスイセイが残念でなりません。 英ダービー馬らしく2400に特化した感じでダービーやオークスでの強さは格別でした。
ハードリドンの父ハードソースはスプリンターだったようですが。 ハードリドンの孫ハードツービートが、仏ダービーを制したのを見て
日本でも、つながっていきそうな血脈かと思いましたが
ロングエース→テルテンリュウで、止まってしまいました
当時の内国産で父系を強く引き継ぐ土壌があったのは
メジロ牧場ぐらいではないでしょうか 〇〇ハードリって馬いましたね
〇〇パーソだとか
変な所で切るのやめてくれよと思ったものです ハードりドンは自身が2000ギニーの勝ち馬ですし本国に残した産駒は短距離系でした。
日本では早くから持ち込みのアスカやハードイットなどが長距離でも活躍していましたね。
70年代に大成功した種牡馬の一頭だと思います。
やはりクラシックディスタンスで活躍した馬の方が印象が強いですね。 >>292
サーペンフロの産駒がサーペンで切られる事案
結構いたね
サーペンプリンス、サーペンアップ、マルブツサーペンなどなど ハードソースからのミスオンワード、ハードツービートとオンワードの樫山氏は縁が深いですね。
ハードツービートが1番人気になった凱旋門賞は2番人気がロベルト。
他にもサンシー、プルバン、エリモホーク、メジロムサシが出ていて勝ったのがサンサン。
1972年の凱旋門賞はずいぶん日本に縁があります
この年には、日本ホースメンクラブも起ち上げられて海外の競馬が身近に感じられるようになりました。
今と違って何年か遅れて海外の競馬の傾向が日本にもフィードバックされるのは
それはそれで楽しかったですね。
最近は種牡馬が日本で競走した馬ばかりになって、確かに親しみやすいのですが
逆に能力も適性もわからない輸入種牡馬が来てそれを推しはかるのを
楽しみにしていた頃がなつかしくなります。 >>293
ハードイットの名前を聞いて思い出したのですが、この馬の血統は残らなかったですね・・・
牝馬ながら神戸杯と京都杯を連勝して、菊花賞でも3着に入ったほどですし、血統的にも名血だと思うのですが。 ハードリドンといえば「関西の雄」ロングホークも好きだったな
関西馬が強くなってからは「関西の雄」という表現は聞かれなくなったが。 思い出したのですが昔
毎日放送(TV)で桜花賞菊花賞天皇賞の当日朝に
調教師も入った座談会?をやってませんでしたか?
覚えているのはシンザンの菊花賞の時に武田御大が出ていた記憶があります ロングホークとテンポイントが対決したオープンを見たかった・・・。 >>299
テンポイントは持ったまま
ロングホークは押して叩いて
名勝負じゃなかったです >>299
昭和40年代は、関東のレースは
夜のダイジェストでも、重賞を取り上げるぐらいでした
でもテンポイントのころになると、注目レースはダイジェストで流れましたよ
反対に関東エリアでの関西レースの放映事情も、同じようなものだと聞きました >>301
ハイセイコーとタケホープが戦った昭和49年秋の東京でのオープンは、折からのハイセイコーブーム
もあってか、近畿放送の競馬中継で生中継で放送されました。
私はそこで初めてヤマブキオーの名前を知る事になりました。 私は関東圏ですが、関西の平場オープンを初めて見たのは
ラッキーオイチがカチドキに勝ったオープンでした。
昼の競馬番組内なのは確かですが、生中継だったか5分か10分くらいの後に
放送したかはよく憶えていません。 >>303
関東はUHF局が、中継もダイジェストも充実していたそうですね >>304
U局の競馬中継、関西と関東の両方をそれぞれ10年以上見ていましたが、レースの合間の企画や
実況そのものは、関西の中継の方が上かなと感じていました。
歴史的にも、近畿放送→KBS京都の競馬中継の方がかなり古いんですよね。 サンテレビで午後10時55分から11時まで
レースダイジェストをやっていました
中央競馬じゃなくて地方競馬・競輪・競艇の結果ですね
園田はラチの代わりにガードレール使ってました >>306
星野亮子さんのオッズ読み、懐かしいですね >>307
やってましたね。たしか最初が競艇で、競馬、競輪の順番でしたが、私の記憶では10分ほどの
番組だったような記憶があります。
競艇の結果を流すときのBGMは、ホットバターの「ポップコーン」でした。 >>309
10分間でしたか、 確かに5分じゃ映像までは無理ですよね
園田競馬を初めて生で見たのはタイムラインがヤマホーマーに負けたレースでした タイムラインと聞くと、あの園田競馬の焼き討ち事件を思い出してしまいます。私は当時園田に住んでいました、
まだ子供でしたが、あの日の騒動を少し覚えています。
家に居ると、急にパトカーらしいサイレンが立て続けに鳴り響き、ヘリコプターが飛んできたりして、てっきり
大阪空港で事故が起きたのではと思っていました。
それが、夕方のニュースで園田競馬場で騒乱が起きたと聞き、園田競馬場で馬券売りとして働いていた近所の
おばさんから話を聞いて、びっくりしたのでした。 水曜はギャンブルホリデーなので尼のボートの客が大勢来てて
出遅れは返還しろと叫んでゴミ箱に火をつけて
大騒動の隙に馬券売場へなだれ込んで現金袋を強奪したんですよね 今年2019年の夏競馬から、降級制度の廃止と共に、
条件クラスの呼称が「 1勝馬クラス 」等に変更されます。
二歳時にOP特別を勝ったり重賞で二着( それも複数回 )があると、
「 3勝馬クラス 」に一勝馬が出走するといった違和感が生じるんでねェ・・・・・
バカな競馬関係者の、1000万下を勝つと賞金が1000万円貰える━━の誤解を防ぐ、なんて話も聞いたのですが、果たして?
本題なんですが、1970年代のオープン←→条件設定ってどうなっていたんでしょうか?
例えば、中距離の名馬−1800mの王者ヤマブキオー
https://ahonoora.com/yamabukio.html
平場のオープンを二勝し、中京記念やダービー卿を優勝しているのに、旧七歳時にアメジストSという条件特別に出走しています。
この時代は、年前半は旧五歳−旧六歳−旧七歳でそれぞれ賞金額を決めて条件編成をしていた「 筈 」ですが、
古馬の重賞を二勝している馬が条件特別に出走するのは・・・・・です。
例えば、カブラヤオー世代の名脇役ロングファスト
https://ahonoora.com/long_fast.html
ダービー&菊花賞二着、それ以外にもきさらぎ賞やダービーTRNHK杯でも二着し、
スワンS勝利の翌日のスポーツ紙は「 悲願の重賞制覇 」の文字の見出しでした。
そんなロングファストも旧八歳時にはジューンSという条件特別に出走しています。
このレースの優勝馬が、菊花賞以来だったグレートタイタン、この時期のグレートタイタンが条件馬なのは分かりますが、
重賞二着四回にスワンSを勝っているロングファストが条件特別出走とは・・・・・・
現代ならば、ダービー二着の賞金一発で、一生オープン馬でしょうから・・・・・
>>310
ヤマホーマー 懐かしい名前です。
アラブだけの時代、馬場改修前の一周1000m時代の園田競馬場で、確か1630mのレコードホルダーでしたね。
オトワヒメと同じ母オトワだった記憶が・・・・・
ついでに、ヤマホーマーの1630mというコトで、園田―姫路のアラブ時代の話です。
アラブの旧三歳の重賞だった市川賞の歴代優勝馬のデータがNARのwebサイトで確認できます。
市川賞ですから、播州平野の姫路競馬場が開催場になるのですが、
1979年以前は姫路競馬場の1630mとなっています。
この1630mはどこにスタート地点が置かれていたのでしょうか?
今の名古屋や笠松の1600m地点? 感覚としては浦和の1600m的な感じ?
園田−姫路の場内予想屋さんの山口信夫氏( 一本書きの人 )に一度尋ねたんですが、そういうコトは憶えていないと返されて・・・・・
※※山口氏とは個人的に親しくしていて、年賀状の遣り取りをしていて、亡くなった時も親族の方から通知を頂きました。
※※氏が残しておられた昔の競馬新聞等を、譲ってもイイよ━━という話もしていたんで・・・・・
>>314 の訂正
オトワヒメの母はスモールセフトでした。
ヤマホーマー オトワ オトワヒメ の三頭が母スモールセフトだった・・・・・??
競馬を見始めた頃はNETテレビ(減テレ朝)で大井競馬の重賞を放送しておりアラブの強豪だった
リキスユリ、スカレー、イナリトウザイ等をライブで見ることが出来ました。アラブ競馬の廃止は本当
に残念でした。 ヤマホーマー 昭和45年生 父センジュ 母スモールセフト
オトワ 昭和46年生 父ミヤマシューホー 母スモールセフト
オトワヒメ 昭和48年生 父エルシド 母スモールセフト
アラブは上が走れば下も走るという典型ですね
姫路の1630は3コーナーの引込線ですよ >>318
姫路競馬場の1630m
今の名古屋−笠松競馬場の1600mみたいに三角の奥に引込線が在って、そこからスタートだったんですね。
今日3月5日は名馬テンポイントの命日です。
あの様な悲劇は二度と繰り返して欲しくは無いです。
坊主頭の中学生時代、塾をさぼって、
一度だけ 阪神競馬場で同馬の走るのを観ました@第11回京都大賞典1976年
そして、阪神百貨店の電器製品売場のテレビで雪辱戦となった1977年第22回有馬記念を視ました。
また高田久成氏や志摩直人氏とも10〜15分ばかりですが、お話しする機会も得ました。
想い出深いテンポイントは、古馬になってからは 誰が何と言おうと 日本最強馬 であると思っています。
( 異論は認めますし、論争はしたくありません )
事実上の「 マッチレース 」となった1977年第22回有馬記念、
先行有利のマッチレースであのトウショウボーイ=武邦彦を、鹿戸明が騎乗して負かした事実は大きいです。
※※同年の第18回宝塚記念
※※芦毛二頭の初対決になった1988年第98回天皇賞(秋)
※※GTレベルでないランドヒリュウが一瞬逃げ切りかと思わせた1988年第18回高松宮杯━━マッチレースは先行有利です。
更には現代では酷量レベルの63kgを背負って 2分27秒台で楽に逃げ切った1977年第12回京都大賞典
関西テレビの杉本清氏のレース実況の音声を集めたLPレコードのライナーで、
志摩直人氏が「 テンポイントの海外遠征が成されないことで日本の競馬は十年遅れる 」と記しておられますが、
旧三歳時に、不良馬場で古馬のオープンより速いタイムで勝ったテンポイントは、
ロンシャンやローレルのタフなコースでも太刀打ちできたと妄想しています。
>>37
私の憶えている限りでは、
後発の 日刊ゲンダイを除いて
現存する 大阪スポーツ 夕刊フジ 以外の消えた夕刊紙は、
大阪新聞<後年は産経新聞系列/この時期は、大学別高校合格者数ランキングが一面に>
関西新聞<晩年はイトマン事件の一端に名を連ねる>
新大阪<週刊ファイトを発行>
新関西・・・・・あんまり記憶が無い。
━━この辺りではないでしょうか?
>>323 の続き
今は朝刊になった 大阪日日 も夕刊紙でした。
>>323
大阪新聞ですが合格者名まで載ってませんでしたか? 3月4日は、福永洋一騎手の落馬事故から40年でした。あの日は、北風の強い、寒い日だった
記憶があります。
福永騎手の現役時代を知る人は、私を含め、結構な年齢になってしまいました・・・ 40年か…
福永さんは桜花賞、皐月賞、菊花賞、春秋の天皇賞
あの時代に短期間でこれだけ勝つのはすごいし
全部違う馬で勝つのもすごい
一番得意なのはやはり桜花賞かな >>323
新夕刊というのもありました
1面トップはいつもプロレス。まだ東スポ大スポのない時代です
地下鉄難波駅では、壁新聞のように夕刊紙が貼られていました
ある日、大勢の人が壁新聞に見入ってるので、何事かと思ったら
「美智子妃、流産」の記事でした
テンポイントの闘病生活のころは、壁新聞も消えていました >>318
スモールセフトは400sそこそこの小柄な牝馬でしたが、本当に子だしが良く
ヤマホーマーからシゲキヨアラシまで父親が違っても5頭連続でオープン馬を出しました。
3頭目のオトワオーと5頭目のシゲキヨアラシは、父タガミホマレで同じでしたが・・・
石川昇騎手、当間進騎手が、乗ってましたね。 アメリカにはカルヴィン・ボレル、別名ボ・レールという騎手がいて
レールとは内埒のことですが、3〜4角で内埒沿いを突いてくる
園田には石川コースというのがありました
「どけ!」 と叫ぶと3〜4角の内埒沿いがぽっかり空くんだそうです
頭の禿げた大ベテランにどけと言われればどきますよね >>325
兵庫県━━神戸新聞
京都府━━京都新聞 に対応する府域紙が大阪府には無いので、
国公立大学については、大阪府出身?大阪府内の高校?からの合格者氏名を掲載していた記憶が有ります。
>>329
流石に 新夕刊 ってのは知りません。
>テンポイントの闘病生活のころは、壁新聞も消えていました
この頃は、まだ地下鉄梅田駅−阪神梅田駅の間の地下スペースには、壁新聞が存在していたと思います。
壁新聞は、キタやミナミのソープランドと同時に、APECアジア太平洋経済協力1995年大阪開催の頃に駆逐された━━のでは?
>>330
当間騎手は、山口瞳『 草競馬流浪記 』園田編に、チラッと名前が出るくらいで、
しっかりした文献では目にしない騎手でしたね。
同書の姫路−紀三井寺編では、氏が姫路競馬場を訪れた前日に生野秀行という若手騎手の落馬が言及されていますが、
この騎手も余り 目にしない騎手ですね。
━━儂が知らないだけかも・・・・・
1976年
春の目黒記念・4番人気・3着
ダイヤモンド・ステークス・2番人気・2着
アルゼンチン共和国杯・2番人気・2着のオウプレスとは、どのような馬だったのでしょうか?
教えて頂けると幸いです。 テルぺリオンの(株)ダイリンも長い馬主さんですね。
黄赤ウロコの勝負服、オーバーレインボーやダニッシュガールが懐かしいです。
その両馬の妹の曾孫がテルぺリオンですね。名古屋大賞典が楽しみです。 >>332
そうですよね、載った記憶があるんですけどもうかなり前のことであやふやなんですよ ちょっとスレ違いになりますが、30年以上前に
今の大河ドラマの主人公のマラソンの金栗さんが主人公の連載小説が掲載されていたような
夕刊フジか大阪新聞だったはず
大河ドラマの主人公に決まってすぐあの人かとわかりましたから掲載は間違いないんですよ >>334
この馬主さん、昔から洒落た馬名を付けるのが良いなぁと思ってました。
オーバーレインボーは懐かしいですね。 昭和45年神戸杯 ダテテンリュウの秋初戦 1番人気大差のビリの原因って何でしょうか?
私は関東人ですが、朝日CC、京都杯はテレビで見た記憶があるのですが
どうも神戸杯を見た記憶がありません
ご存知の方何卒よろしくお願いいたします
しかし、すごい年ですよね ダービー1,2着馬 秋初戦両馬1番人気大差ビリって
ナリタブライアンがスターマンに負けたくらいで大騒ぎになっていたのに… >>338
前の週にタニノムーティエが大差のしんがり負けしたので
それと並列で謎扱いされましたね
一部では、怪奇現象のように扱うむきもありました
ムーティエの方は、ノド鳴りと原因ははっきりしたけど
ダテテンリュウは不明のままでした
翌年の初戦も惨敗したので、初戦は走らない馬という説も出ましたが
これも全然説得力はなかったですね。結局原因不明のままだったと思います
近年のゴールドシップなんかもそうですが
デビューからずっと堅実に走っていたのに
ある時期から急にムラ駆けする馬が、ときどきいますね
こういう馬の見極めは大変です >>339
レスありがとうございます
勝ちに不思議な勝ちあり、負けに不思議な負けなしの例外でしょうか
関東の大将アローも秋初戦はセントライト出走取消ってカオスですよね
そんな中での京都杯、タニノムーティエが1番人気だったんですね
さすがにこの頃はノド鳴りも判明していたと思いますがすごい信頼度ですね
関東人の私からすればダテテンリュウの最後のシーンは
メジロムサシが勝った天皇賞で馬群から遅れていくシーン
アロー、ムーティエの産駒対決なんていうのも両雄引退後話題になりましたが、この馬はちょっと蚊帳の外
ハイセイコー、タケホープの菊花賞のころまで現役だったとは知りませんでした >>341
父親が買って来た競馬新聞を読むのが、子供の頃の楽しみだったのですが、ある日、オープンの出走馬に
「ダテテンリュウ」の文字を見つけ、「まだ現役だったんか」と思った記憶が、微かに残ってます。 オーナーの浅野氏が何をされた方かは記憶にないのですが
冠号はご自身がお持ちの伊達牧場から取られてたんですよね
名古屋の大馬主さんは京都や阪神に馬を預ける方が多い中で
中京の星川厩舎に預けておられました
名神高速が出来ても阪神までだと片道5時間かかりましたが >>343
確か名古屋で紡績業をやっていたと聞いた事があります。
持ち馬だった皐月賞馬のタイセイホープの「タイセイ」が、会社の名前だった筈です。
紡績業は衰退し、牧場も有珠山噴火の影響で無くなってしまいましたが、今でも時々
「伊達牧場」が馬主の馬が居て、あの勝負服を見る事が出来ますね。 >>344
伊達牧場さん、現在は不動産管理業がメインみたいですね。
北海道伊達市の伊達牧場跡地は一部が道央自動車道が通っており、
別の一部は風力発電会社に譲渡したそうです。 イギリスの有名な障害競走の1つ「チェルトナム・ゴールドカップ」の今年の勝ち馬「Al Boum Photo」の
勝負服が、黄黒元禄・黄袖の、日本では懐かしい勝負服でした。
日本のブゼン・ホウシュウの馬も、障害競走で強い馬を出していましたね。 上田清次郎氏ですね
クロユリやアランバードも上田氏の馬だったと思うのですが
なぜかブゼンでもホウシュウでもないんですよね
ダイコーターは橋元氏から買った馬なので当然ですけど
筑豊の炭鉱がさかんだった頃は勢いがありましたが
晩年はお金に困っておられたような気がします 確か、晩年までは、冠名を付けた馬はかなりの期待馬で、特に「ホウシュウ」の冠名は、
相当期待出来る馬だけだったとか。
活躍馬が出たのは昭和40年代後半までで、50年代は、馬の数はそれなりだったものの、
オープンクラスまで行く馬は居ませんでしたね。
ただ、忘れ形見の様な馬のなかから、コスモドリームやブゼンキャンドルが出てきたのは、
その血の底力を感じたものです。 桜花賞も皐月賞もトライアルを使わないで、年明け初戦のぶっつけの馬が勝ってしまった。時代は変わるのね。 >>333
亀レスですがオウプレス、名前は覚えているんですが
詳しい事はわかりません
手元にある古い競馬本を読み返しても、記述はなかったです
当時の関東は、長距離重賞で好走歴のある馬が何頭もいましたが
その中の1頭だったかとおぼろげな記憶があります >>350
古い競馬本って「優駿」ですか?
ハイセイコーやテンポイントのころは毎月買ってたけど
昔は生産者向けみたいな渋い記事がけっこうありましたね。 >>352
若いころ買った優駿は、もうどこかへ行ってしまってありません
手元に残っていたのは、鵜飼正英氏の単行本です
寺山修司の天井桟敷出身で、寺山さんの影響を受けたのか
文章の調子も似ています
他の本やマスコミでは扱われないような面白いデータを次々と繰り出して
当時としては相当秀逸だと思った一冊でしたよ 優駿! それがありました
なんで気が付かなかったんだろう
オウプレスは府中の森厩舎、菅泰夫騎手です
アルゼンチンは中団の内から4角でしんがり近くまで下がり
大外を追い込んで2着に来たのでした 阿部牧郎さんが亡くなりましたね
関西では競馬好きの作家として活躍されました
ご冥福をお祈りします 今日オークス出走のフェアリーポルカ
血統表を見ると、5代前に
ガーサント、リマンド、エタンが入っています
現在の馬で、昭和の種牡馬がこれだけ入るのは珍しいですね よくよく考えてみると、
図式も結果もマーチス、タケシバオー、アサカオーの三強ダービー(マセた子供の頃に見た)
の再来でしたね。 今年のダービー馬も実質的には逃げたようなものですし
本命馬にちょっとした不利があったのに
2着馬3着馬は本命馬に気を取られて勝ち馬を見逃したと
宮本騎手はタニノムーティエの紅葉盃を乗り損なって
北海道限定のはずだった安田騎手に鞍上が戻っちゃいました
武文師が安田以外乗せないとの一札を入れさせたので… >>359
全く、同じ印象でした
マーチスは、サートゥルナーリアのような出遅れではなかったけど
2コーナーで他馬に乗っかかる不利で後退
最後は、前を行くタニノハローモアとタケシバオーにも届かないどころか
ゴール前、アサカオーにも先着を許しました
ロジャーバローズは、ハローモアと同じ1番枠
ダノンキングリーとヴェロックスが3強の残り2頭というのも同じでしたね 年度代表馬がアサカオー最優秀4歳牡馬がマーチスという年ですね 今週行われる安田記念がGTで、鳴尾記念がGV
昔から知る者としては、?と思うときがあります
グレード制以前は、鳴尾記念の方が出走馬も賞金も格上だったかと
他にも、偉くなったレース、逆に格下げになったレースもいろいろありますね グレード制導入されてからも変動がありますよね
鳴尾記念も一時はG2でしたし、高松宮杯も最初はG2ですし
スプリンターズSもG3から徐々に上がっていきました
CBC賞もG3になったりG2になったり テンポイント、エリモジョージ、タマモクロス、ヤエノムテキ
なんて名前が勝ち馬にありますね、鳴尾記念
スプリンタースSはステイヤーズSと同じ年の創設で
当初はイロモノ重賞の感ありありでしたが
短距離路線の確立で大出世しましたね 鳴尾記念は、春の天皇賞の前哨戦の頃と、暮に移動してからでは、レース自体が全く別物になりましたね。
一方、鳴尾記念と入れ替わりで春の開催になった阪神大賞典は、暮の最終日に行われていた頃は、
有馬記念に出ない関西の主力クラスが揃って出走するレースだったのが、暮の初日週の開催になって
からは、あまりメンバーが揃わないレースになったものの、春に移動してからは、天皇賞に向けての重要な
レースになりましたので、グレードこそG2のままでしたが、浮き沈みが激しかったレースですね。
格下げで思いつくのは、中京大賞典から格下げされ、その後も行われている松籟ステークスでしょうか・・・ >>386
中京大賞典はスタンド改築のため京都で松籟Sとして行われた後
翌年のカレンダーに載ったのですよ
その頃中京馬主協会が高松宮殿下に賞杯下賜を運動していて
それが認められたため中京大賞典をお蔵入りさせ
その日に第1回高松宮杯が挙行されたのでした
松籟Sは昭和46年には牝馬オープン級で行われ
ケイサンタが勝っています >>367
これと同じころ、現在の金鯱賞が「博多ステークス」の
名で、小倉で施行されたことがあります。その時勝った
アリオーンは名優・津川雅彦の持ち馬だったんですって(^^) >>358
エタン 海外の活躍馬でたまに見かけます >>368
>>369
津川雅彦は、アリオーンのあと、エタンの牝馬を所有して
朝丘雪路の本名にちなんで、ユキエタンと名付けました
江戸屋猫八は、キャットエイトでしたね キャットエイトは準オープンを何度も勝ってました
5歳1000万下だと7歳馬は3000万円まで出られましたから 津川氏の持ち馬ではアイテイエタンもいました
京都マイルのレコードを持っていましたね 津川さん、何かの番組で「俳優として不遇な時代に、馬が稼いでくれた」と語っていたのを
聞いた記憶があります。
>>367
なるほd、そういうことだったんですか。レース的には、直接的なつながりはありませんが、
高松宮杯が、中京大賞典の後継レースとも言えそうですね。 あの時期の有名人馬主だと、他には
野添ひとみのマジョルカ
森乃福郎のストローハットなど
昭和50年以降にはもっと増えたと思います ○父限定だったころの愛知杯やカブトヤマ記念は好きなレースだったな。
当時は今みたいに父内国産が大レースを勝ちまくるなんて想像できなかった。
「ダービー馬はダービー馬から」なんて夢物語に思えた カブトヤマの子のマツミドリがダービーを勝ったのも
クモハタが何度もリーディングサイアーになったのも
戦争で種牡馬の輸入が15年くらい止まったからで
昭和30〜40年代は新しい血に飢えてたんでしょう 昨日の朝、出馬表を見て除外ラッシュ
トウメイの有馬記念の、インフルエンザ発生により
アカネテンリュウ、メジロアサマ、カミタカの取消で驚いたのを思い出しました
美浦トレセンは下火になるまで時間がかかりましたが
ベルワイドなど何頭かは、全く感染しなかったようですね >>377
まだ美浦トレセン前の府中、中山、白井時代ですね
実家には競馬ブックが毎週送られてきていたのですが、
関東が休止になって関西版が送られてきて珍しがって読んだ記憶があります >>378
失礼。あの年は美浦はまだでしたね
栗東もできたばかりでした >>377
カミタカは友引だったという噂もありますね。
関西圏では、栗東では罹患馬が出なかったものの、春木か紀三井寺競馬が影響を受けて、
開催中止になったと聞きました。 近畿地方はまだ梅雨入りしていないようですが
毎年梅雨の時期に行われる宝塚記念
なぜか、重馬場のレースが少ないですね
思い出せるのは、ショウフウミドリの年ぐらい
と思って検索してみたら
ショウフウミドリは、生涯の過半数を重馬場で走っていました
かなり珍しいケースではないでしょうか
https://ahonoora.com/syoufu_midori.html 武文さんのところにはユーモンドやフイドールなど重馬場が上手な馬がいましたね フィドールのシンザン記念の勝ち方
期待しましたよ
あとでみたら不良の最後1F15秒でした
ダービーでも一瞬いい脚を見せましたけど 旧5歳の春に覚醒したけどそこまでだけだったね
天皇賞取る感じだったのに NHKBSで今、プロ野球東西対抗戦の特集をやってます
のちに競馬評論家になった古川清蔵氏も登場します >>386
BSだから、何度も再放送すると思いますよ
古川さんは94歳で、まだご存命でした
昭和40年代は、8大競走の前日に
関テレで1時間、大坪さんとともに予想する番組がありました 昭和39年の菊花賞の当日朝、毎日放送テレビで
武田文吾さんも出てた予想番組をやってた記憶 山岡事件ですかね
調教師の予想が禁止されたきっかけは >>390
多分それからでしょう
調教師の予想がよく当たったかどうかは疑問でしたね 実家で探し物をしてたら
古い写真が3束ほど
延岡にいたカブトシロー
三本木にいたヒカルポーラ
盛岡にいたリュウフオーレル
牧園にいたマーチス
タイヘイにいたリュウファーロス
岩川にいたテイトオー
一ノ関にいたアサデンコウ
そして阪神の大学馬術大会に来ていた
ダイナナホウシュウ
口取りさせてもらっていた
鹿児島のコダマの写真と8ミリがあるはずなんだけど カブトシローの前に延岡に居たトサオーはフィリピンに輸出されました
ハクチカラがインドへ行ったのは有名ですが
タカオーがビルマに、アサがタイに輸出されてますね 先ほど『和風総本家』を視ていたら、大変高価な漆器をお持ちという小紫ゆきこさんという方が出演されていました。
ご尊父は小紫芳夫氏だそうで、真っ先に宝塚記念馬スズパレードを思い浮かべました。
懐かしいなぁ。 このスレが始まったころは、確か競馬歴20年以上の人
そんなタイトルだったと思います
当時は、昭和末期ぐらいの馬はまだ話題の対象ではなかったですね
スズパレードやスズマッハの名が出てくるあたり
われわれも歳を重ねたということですか 小紫氏、保手浜氏の馬主協会トップをめぐる泥沼の争いなんかも今はもうひと昔
私が東京馬主会報をよく読んでいた頃はお二人はまだ常務理事で
会長が藤田正明氏、副会長が手塚栄一氏でした
理事に川口浩氏がいて、東京馬主協会の忘年会などは夫人の野添ひとみ氏経営の
「ひとみ」という店でやっていました
フジテレビの放送だとゲストは川口夫妻、大橋巨泉氏、寺山修司氏、虫明亜呂無氏、
古山高麗雄氏、山野浩一氏が多かったですね
本職は芸能人や作家ですが、昨今のゲストと違いどう見ても玄人ぞろい
単発ゲストだと新聞少年山田太郎がヒカルイマイが勝ったNHK杯で人気薄の
ウエスタンヒルが4着に入って大喜びしていた憶えがあります
まさか後年馬主としてここまで出世するとは夢にも思いませんでしたが
(いい馬持ったとかではなく現中山馬主協会会長という意味で) >>397
赤木さんや寺山さんは好きでしたが
はっきり言ってフジのゲストは、作家も芸能人も、残念な人が結構いたと思います
>>398
ダルモーガン氏が、最初にこのスレを立てたんじゃなかったでしょうか? 昭和40年代末から50年代にかけて
虫明氏は競馬ニホンから1ページもらって
週末は関西で競馬を見ておられました
飛行機での往復と宿泊に見合う原稿料を
ニホンが出せたとは思えないのですが >>399
そうなんですか?
最初の頃は参加してなかったもので… >>399
オオクラ?あたりの話で盛り上がりました 解説してた大坪元雄さん
中継中にオンスロートのはなし
実際に見た話をまとめられるのはこの方くらい
本にして出してほしかった フジのG1本馬場入場曲が千住明さんのに戻りました
あの曲を聞くと
生産 調教 運営 という競馬のすべてに携わっている
人たちの思いが込められている感じがします
そしてゴールを過ぎた瞬間とすべてが歴史になっていくそんな感じです
またフジ系列の昔のスポーツテーマ曲
ライツアウトというのですが
最近まで知りませんでしたが
カリフォルニア大学のファイトソングの一つなんですね
一部歌詞まであります
ツべに女子学生が大股をで足を上げてるのが見れます
大学の校舎前のが一番いいかな いつかこんな日がやって来る事は覚悟していましたが・・・とうとうジャパンカップへの海外からの出走馬が
「0」になりそうとの事、第1回から観ている者としては寂しい限りです。 今日のように、強い外国馬が来てくれないとつまらないなんて本気で思う日が来るとは、昭和の頃には考えもしなかったですよね。
とても喜ばしいことですが、確かに一抹の寂しさも感じます。 今日のように、強い外国馬が来てくれないとつまらないなんて本気で思う日が来るとは、昭和の頃には考えもしなかったですよね。
とても喜ばしいことですが、確かに一抹の寂しさも感じます。 netkeibaの競馬データベースクラシックが凄い
【過去30年分の競走馬・レース情報を追加】
1956年から1985年までの30年間、合計52,000頭の競走馬と85,000のレース情報。
また騎手や調教師、馬主のデータもすべて追加いたしました。 早速見てみましたが、距離のところ芝ダートとかの区分が目茶苦茶でしたね
これからかなり修正が必要のようです。 >>411
確かにそれが目立ちましたね
距離とタイム、出走メンバーを見れば大体分かるとは言え・・・ >>400
当時は朝日放送ラジオも競馬中継をしていて<提供?は競馬ニホン>、
MOミリオン対決 と称して、虫明氏と岡部友二氏とが馬券対決を放送内でしていた━━記憶が有ります。
岡部氏は、競馬ニホン or 日刊スポーツ どちらかに所属されていた筈です。
ばんえい競馬ですが、現役の下級条件でホクトヘリオスがいます。
せっかくなら芦毛馬に名付けて欲しかったです。 >>413
朝日放送は、競馬ニホンのメンバーでした
毎日放送がブック
岡部友二氏ではなく、岡部良平氏ですね
友二氏は日刊スポーツ
岡部良平氏は、かつてニホンの顔のような存在で
彼の予想を見たくてニホンを買う
そんな人が多くて、ニホンの高いシェアにつながっていたほどです
一時は第一線を退いたけど、朝日のラジオ中継で再登場した形です
チーフトラックマンの成田彦一氏ともども、関西競馬記者の重鎮でした 東条あきらさん
最後はどないなりはったんやろ
この人の影響で新聞に牝系のファミリーナンバーを一時いれてたんやね 昔のニホンというと
岡部氏、成田氏、笹西氏、喜多村氏、辻氏など思い出しますね
青木雅人氏が若手のころ、同姓で青木周吾氏もいましたね
KBSラジオで金・土の夜やっていたブック競馬展望
確か金曜が諏訪三七さん、土曜が山田一雄さんだったでしょうか >>417
岡部良平氏が第一線を退いて役員になり、馬柱の後任が戌亥氏
喜多村氏は、松田氏(現調教師)の後任馬柱でした
千葉耕司氏が編集長の時代でしたね
ブックの諏訪三七氏は、高齢の方でしたが
競馬以外でも見識が広く、味のある記事を書いていました リアルタイムでは知りませんが、バンブトンコートってなぜ大レースで上位人気になてたのでしょうか?
ダービーは1番人気4着 菊花賞は2番人気(単枠指定?)7着 天皇賞(春)は3番人気7着と毎回馬券に絡んでないのに
それなのに宝塚記念では2番人気(単枠指定?)になって、この時は2着になってますが >>422
名門厩舎の三歳チャンピオンでしたからね
ずっと連勝して、何度も負かしたインターグシケンが皐月賞2着、菊花賞優勝
評価は当然高かったですよ
故障で4歳前半を棒に振ったのが、その後の成績に響いたのかもしれません
あの厩舎は、マーチス、ヒデコトブキ、ヒデハヤテ、ハギノオーカンなど
能力の突出した馬を何頭も出しましたが、みんな残らず故障がちでした >>415
>>417-418
懐かしい名前が出ていますねェ〜
昔は確かに競馬二ホンのシェアが高かったですね。
いつ頃から、二ホンとブックのシェア@関西版 が逆転したんでしょうかねェ・・・・・?
1980年代前半には逆転していた様な気がします。 >>424
もっと前ですね。昭和40年代半ばには、もう逆転していました
東西の各専門紙が古い字体の活版印刷だった時代に
ブックはいち早くオフセット印刷を導入しました
これが功を奏した一因かと思われます ブックの勝因は配送の早さでしたよ
前日の午前中にはもう売店に並んでいましたからね
関東は2強の関西と違って各紙拮抗でしたが
一馬が最も売れていました
売店のラックの一番上が一馬に決まっていたのが大きい >>422
人気ありましたね。走る姿も首を真っ直ぐに下げて格好良かったです
馬主さんも元阪急ブレーブスのプロ野球選手でしたよ
距離の長いのはダメでしたから、皐月賞をケガで出れなかったのが残念です >>423 >>427
ありがとうございます。
故障がなかったり、今のように中距離以下が重視されるレース体系だったら戦績も大きく変わってたかもしれませんね。 >>423 >>427
ありがとうございます。
故障がなかったり、今のように中距離以下が重視されるレース体系だったら戦績も大きく変わってたかもしれませんね。 「剛腕」郷原洋行さん死去 騎手時代2度のダービー制覇
騎手時代にダービー2勝を含む1515勝を挙げ“剛腕”の異名をとった元JRA調教師の郷原洋行(ごうはら・ひろゆき)氏が1月31日、病気のため死去していたことが8日までに分かった。76歳だった。葬儀は近親者のみで執り行われた。
http://race.sanspo.com/keiba/news/20200209/etc20020905000001-n1.html
皆様の思い出、語り合いましょう。 関西人だからオペックホースだね
ダービー郷原さんだからこそ勝てた
合掌 >>427 樋口氏は阪急じゃなく南海ホークスの選手だった。ちなみに父上も馬主だったそう… >>430
郷原さんのご冥福をお祈り申し上げます
このスレは関西のオールドファンが多いせいか書き込みが少なくてちょっと寂しいですね
自分も関西の者なので、印象に残っているのはプレストウコウの菊花賞かな
一瞬「やった!テンメイ」と思ったけど郷原騎手の豪腕で交わされてしまいました
翌年の秋の天皇賞は応援していたリュウキコウが一番人気でしたがカンパイのアクシデント
があり、テンメイがプレストウコウを差し切って菊花賞の雪辱を果たしました
もう40年以上も前のことなんですね 私は、郷原騎手といえば
カシュウチカラの天皇賞を挙げたいですね
渾身の騎乗でサクラショウリやキャプテンナムラを封じました
カバーラップ2世だから、前に出ているバンブトンコート以上に距離ファンがあったと思います
確か郷原騎手はテン乗りだったはずです。TTの世代だから旧7歳でしたね >>430
郷原氏の御冥福を祈ります。
郷原氏には何の責任もない話ですが、
郷原氏にまつわる余談的な話では、何と言っても サンキョウセッツ事件 が想い出されますね。 連投失礼
郷原騎手にとって、2頭のダービー馬に負けないぐらい思い出深い馬は
故障でクラシックを棒に振ったキタノダイオーだと思います
マーチスやタケシバオーの世代で生涯無敗でした
現役時代、郷原氏自身がコラムでダイオーへの思いを語っていました 優駿のフリーハンデは
旧3歳のチャンピオンに55キロが通例でしたが
あの年は例外で、タケシバオーとマーチスが55キロ
キタノダイオーが57キロでした >>433
独特の絞り込む様な追いのスタイル、現代の競馬でも通用していたかも知れませんね。
>>435
フジテレビの堺正幸アナ、痛恨の大チョンボでしたもんね…。 >>436
マーチス、アサカオー、タケシバオー。
彼等と同世代だったサラ系の英雄、無事ならと思わせる戦績ですもんね。 サラ系といえども豪サラなので
血統書が紛失さえしてなかったら普通のサラブレッドですね 今日の阪神3Rに、庄野厩舎所属のコウイチという馬が出走しています。
馬主さんは「桂土地」。一時期「コウイチ」の冠名を使っていましたので、懐かしいですね。 >>441
コウイチと言えば、
競馬を見知った頃に走っていた コウイチバブリ という馬名が想起されます。
改めて検索したら、
重賞で三着が二回有りますが、
条件戦の貴船特別で二回勝っていますね。
準OP馬からOPの下の方の馬だったのかな?
https://www.jbis.or.jp/horse/0000029782/
ミンレット マイコンサート オカセダン グッドキラメキ等々
そういった馬を憶えたのは、やはりサンテレビ−KBS京都が土曜日午後に長時間中継をしていた影響が大きいかも? >>442
亀岡山田木材
川波忠兵衛
金龍
とかのCM
そして
♪いつもけいばぶっく〜 >>410
今見たら有料になってますね
まあアホヌラさんところがあるので不便はしませんが 1978年の今日03月05日
不滅の名馬テンポイントが天翔け抜けた日です。
旧四歳クラシックはキタノカチドキ世代1974年から見ていますが、
誰が何と言おうと 史上最強馬は古馬になってからのテンポイントです。 >>442
土曜日の午後、父親がいる時はずっと競馬中継見て居たので、未だ小学校にも行かない位の自分も、一緒に見ていました。
もう50年近く前ですが、父のお陰で、色んな名馬のレースを見る事が出来ました。
まあ、途中のキャバレー等のCMもみて、悪い刺激も受けましたが(笑) 土曜の競馬中継にはカルストーンのCMが流れました
カルストーンという馬もいて
2週間ごとに土曜のメインレースを走っていました >>442
ぼくはコウイチサブロウですね
コウイチさん?サブロウさん?どちらが名字で名前なのと子供心にw
父親からトウショウボーイはトウショウが名字でテンポイントは親が外人だから後ろのポイントが名字ってなかなか適当な親でしたw
コウイチサブロウも同世代でしたが、なかなか強い馬でしたよ >>443
亀岡山田木材 には、経営団地 という語も続きました。
>>446
キャバレーのCМと言えば、
やっぱり サロンまん ですかね・・・・・w
あと 色っぽいおねえさんの声で流れてた十三の料飲組合のモノ
それに 着物のお姐さん方がシャチホコをやっていた料亭( 店名は失念 )モノ
まぁ 小学生の子供には良い影響を与えていたかは・・・・・
>>449
コウイチサブロウ という馬もいましたね。
ということは、コウイチイチロウ コウイチジロウ コウイチシロウ 等々もいたのでしょうか?
地方( アラブ )ですが、
ビソウ の冠名も ビソウセブン ビソウイレブン 等の活躍馬は憶えていますがねェ・・・・・
冠名プラス英数字 は、ホウシュウ( ハイセイコーと同期のホウシュウエイト ) も代表的ですね。 >>450 桂土地の最大の活躍馬はカツラノハイセイコ >>450
最初は多分、コウイチタロウ
ロングホークなどと同世代で、新馬と特別を連勝しました >>452 コウイチタロウは1972年生まれコウイチバブリは1969年生まれだぞ! >>455
450さんは、イチロウジロウという名があったのかという質問だったので
それに対してタロウが最初という意味でレスしました
このスレで、タメ語で食いつく人も珍しいですね >>450
十三の雁亭?とかいう料亭でした
あのしゃちほこはあの店独自のものではなく新町?あたりが発祥ではなかったかと
大阪モノの歴史本で見ました 京阪の滝井駅付近に
ワイエムモータープールというのが最近までありました
まあ滝井はソレの街でした >>452
>>456
コウイチタロウ ロングホークと同世代ってことは、カブラヤオー世代ですか・・・・・
新馬−特別の連勝なので、エリート街道に乗ったんでしょうけど、
記憶に無いですねェ・・・・・
>>453
職業で差別する意図は無いですが、
ビソウの塩村一氏は色々と何か有った様な気がします。
エルシドの晩年の傑作だったビソウエルシドも、
何時の間にか岩手に転厩していましたし・・・・・
>>457
雁亭 という名前でしたか・・・・・ 連投失礼
ビソウエルシドの競走成績を改めて確認したのですが、
同馬が二着に敗れた1988年第27回全日本アラブ優駿は仲々の好メンバーでしたね。
オタルホーマー
ビソウエルシド
ハツタテンリユウ
フクノビヤクエイ
ダイリンザン の順で決着。 これら上位五頭は全て重賞を複数回勝っています。
馬主も 米田律子 塩村一 八田澄治 中村和夫 山際芳勝 と豪華な名前が連なっていました。
絶対的強さだったホクトライデン( 小生の師匠は最強アラブだと評していました )を知らない小生にとっては、
アラブの一番良い時代だったかもしれません。 >>459
コウイチタロウは、新馬と特別勝ったあとは
オープンでロングホークやハツノボリと対戦して、壁にぶつかった印象です
クラシックには出ていません
ちなみにそのオープンは菊花賞当日で
週刊誌で、山口瞳の馬券対決をやっていました
山口氏はロングホークとハツノボリ1点的中
大川慶次郎氏はコウイチタロウを本命にして外れ
確かそんな結果でしたよ ホクトの冠号を使った馬主さんは2人おられて
1人は札幌の森滋さんで中央のホクトボーイはこの方
もう1人が市川市長だった鈴木忠兵衛さんですね
ホクトライデンなど多くの馬を船橋に預けておられました ホクトボーイか
懐かしい。4才時は未完の大器的評価でしたね
2000で2分を切った数少ない馬でした(当時)
翌週トウショウボーイに1秒短縮されたんでしたっけ 2週間くらい前の話ですが、吉田牧場が火事で繁殖牝馬がすべて死亡するという
ニュースが出ていましたね(といっても5頭しかいない)
3頭がジネヴラ(英オークス馬)、1頭がクモワカの系統みたいですが、
再建するにしても牧場所縁の牝系を集めるのかどうか
吉田牧場の馬にはクモワカが入っていてほしいですけどね >>464
ジネブラは3頭残してたんですね…タイプキャストの子孫は残して無かったのかな
ワカクモの子孫は追いかけてみましたが…何せ少ない 吉田牧場が廃業(閉鎖)か…寂しい
ワカクモ、オキワカ、テンポイント、キングスポイント、ワカテンザン、プリティキャスト、スティールキャスト…
メジロ牧場の時以上に一つの時代の終わりを感じる 前のレスのホクトで思い出した マイルCCでオグリバンブーの180円は安すぎるとホクトヘリオス買ったが案の定負けた この間
九州産馬が新馬を勝ってたけど
生産者の土田さんって先代は熊本の西合志あたりにいたかたかな? TTGの揃い踏みの宝塚記念の杉本氏の実況ってないんですか? >>476
無いですね〜
そのせいか、数多あるテンポイントの映像でも宝塚記念は挿入されなかったり… やっと書き込めるようになりました
ゴールドシチーに続いて、スターマンも2世が今日走っていました
馬名審査の基準がよくわかりませんが
この分だと、昭和の名馬もどんどん持っていかれそうですね 昨日はスマッシャーもデビュー
先代と同じように逃げましたが最後はつかまり5着
尻尾は振ってくれませんでした ミホノブルボンの三冠を阻止したライスシャワー!
メジロマックイーンと武豊をレコードタイムで負かしたライスシャワー!
長く辛いスランプ後に春天復活したライスシャワー!
そして宝塚で散ったライスシャワー!
今でも動画観ると泣けてきそうです、小さな馬体であんな力強い走りが出来るなんてライスシャワーのような素晴らしい馬がまた出て来て欲しい…。 >>481
リアルシャダイの後継としても生きていて欲しかった馬ですね その結果は12月か新年号の「優駿」だったな
その年のハンデでシンザンは確か14ポンド差だったかな そういえば
ブッシャンとかいうのがいたな
大川がよく推してたかな netkeibaで中央なら結構昔の無名馬の記録も載るようになって結構経つけど
暇なときに見ると新発見があって面白いですね。
ニジンスキースターのデビュー戦、すずらん賞1番人気は憶えてるけど
坂井千明だったんですね。(当時はペーペーのイメージ)
ロングホークが人気薄で勝ったのは憶えてるけど単勝50倍以上だったとは。
あとタイプアイバーの競走成績が思っていたよりひどかったです。 オンワードアゲインという馬の4年近くの休養にも見捨てられなかったのが印象深い 杉本さんはゴルフ中継だったと思います、TTGの宝塚記念。
失礼ながら代わりの鈴木敏郎さんの実況が抱腹絶倒。
「アイフルはじっくりと三番手、これは作戦か!」
・・・三角手前から前のトウショウボーイとテンポイント二頭のぺースアップに
ついていけないだけやん、必死で追いどおしですよ アイフル天皇賞馬なのに、
有馬でTTに1,2決められて以降
格下感が TTの強さを証明してくれたのがグリーングラスだな
最後の有馬記念とか 昔、延岡種馬所というのがあって
カブトシローを見に行ったことがある
最近、地図をみてもどこだったかわからなかった
ある方の旧競馬場あとという記録を見ていて
延岡にも競馬場があって何か所に移転したとあった
そのなかに「塩浜」という名前が
延岡種馬所は「塩浜」と記憶していた
地図をみても全く分からなかった
ところがグーグルアースを見ると!!
畑や田の中を長円形の走路あと、かなりの幅でそのまま残っている
そのあたりのストリートビューと当時撮影したカブトシロー
の背景を見ると間違いない
ほとんど原型が残っている希少な例と思う カブトシローが延岡で種馬になった際にタカクラヤマが処分されたらしい
名種牡馬なのに悲しい末路 >>493
確か最後は蹄葉炎だったと記憶しています
それと時期的には離れていたような気もします
地図だけで探しているときなかなかわかりませんでしたが
確か昔はすぐ近所に「屠殺場」がありそのそばを通って
種場所に行きました
そこが現在「食肉センター」になっていたこともヒントになりました
タカクラヤマは蹄葉炎で最後どうしようもなくなってそこに曳いていったとか
世話していた方が「あれはかわいそうだった」と言ってました 新馬のファイアダンサー
桜花賞で人気になったファイアーダンサーを思い出しました >>491
それにカシュウチカラ
いかに他世代を圧倒してたかの証左 あの世代は違う馬で有馬を3連勝して、天皇賞もカシュウチカラとホクトボーイも合わせて4勝したんでしたっけ? 有馬は2連勝後1年置いての計3勝でしょ
3連勝はイシノヒカルの世代だと思います >>498
あの世代は、トップクラスが故障馬だらけなのに
よく有馬3連勝できましたね。よほど層が厚かったんでしょう
ヒデハヤテ、トモエオーはクラシック前に故障
ロングエース、ランドプリンス、イシノヒカルは古馬戦線にほぼ登場せず
タイテエムは宝塚記念、ハマノパレードは高松宮杯、ハクホオショウは天皇賞で
それぞれ故障発生というありさま
かのタニノチカラも、2年のブランクからの復活でした >>500
タニノチカラの存在は大きいですね
ただクラシックを争った馬たちはリタイアが早く天皇賞の勝ち鞍はテンポイント世代に及びませんでした タニノチカラは最後まで内田浩一が乗ってたマックイーンみたいなもんだな
騎手が一流なら秋天後の有馬も勝ってそのまんま海外行ってたかも タニノチカラが北海道で復活したとき
「あれ?この馬ってまだ抹消してなかったの」って思った。 >>501
リタイアが多かったのは、今にして思えば
七夕ダービーの日程による影響だったかもしれません
4歳夏の成長期に充電期間が短かったため、古馬になって反動が出たのかも
クラシック戦線の激走とは無縁だったタニノチカラやストロングエイトは
結果的にそれがいい結果になったとも思えます ハクホオショウは休みなしの使い詰めが最後の最後に響いてパンクしたのかね
ナオキ、快速スガノホマレ、走る精密機械トーヨーアサヒ、旅芸人ノボルトウコウ、走る労働者イナボレス
この辺りも全部同世代だからいかに層が厚く個性派まで揃ってたかがよく分かる タニノチカラは走る哲学者?ここまで来ると意味が凡人にはわかりませんね
騎手の田島さんは有馬の前に天皇賞の前の目黒記念でもやらかしてますね
三角半ばから捲って失敗と聞きましたが、このレースは見れてないんですよ >>504
朝日チャレンジカップは嬉しかったですね タニノチカラの引退式のパネルをずっと
部屋にかざってました。
古馬の総大将感が凄かったなぁ。 タニノチカラと聞くとマイラーズCのカチドキとイットーとの叩きあいを思い出します
明らかに距離不足でも一歩も引かず タニノチカラが圧勝した有馬記念はハイセイコーが長距離(2500m)でタケホープに最後の最後に意地を見せたレースの印象が強すぎて、タニノチカラが可哀想 昨日定食屋で夕飯、スポーツ報知に矢作厩舎の池田康宏厩務員さんの記事
お父さんが競馬関係者で、中学二年に仁川で観戦した朝日チャレンジカップ
タニノチカラの鞍を手渡されたそう
その感激で今の職に就かれたとか まだ小学生だったが昭和52年の有馬記念は今でも忘れられないな
あんな競馬今じゃ絶対見られないし ナイスネイチャ、ロイスアンドロイス
ホッカイルソー、ホクトヘリオス
連勝式しか買わない俺には
コイツらに何回損させられたことか >>507
あの首を低く下げたフォームからの連想ですね
関西TVに出演されていた志摩直人さん命名だったかな >>514
レースもさることながらそこに至る過程もすごいし、その後にライバルが奇跡の勝利を掴んだりとか歴史に名を残す三冠馬の父となるとか
三冠三頭のJCも確かにすごいが、そこまで深い思い入れがこの先あるかと言われれば、、、 トウショウボーイとグリーングラスのプライドを賭けた秋の天皇賞の鍔競り合いも鬼気迫るものでした >>519
1着2着のホクトボーイとクラウンピラードは、春も3着2着
長距離では安定勢力でしたね
あの凄まじい世代での成績ですから価値があると思います
クラウンピラードは、ナオキのサウンドトラックから父が変わると
こんなにもタイプの違う馬になるのかと驚きました トサミドリ
トウショウボーイ
ウイニングチケットオイスターチケット
母系の血が爆発 今朝何気なく朝刊見てたら、ホソカワミクロンの社長交代の記事
30代の細川さんだってね
総帥のお孫さんかな
マチカネ軍団が懐かしいね 細川氏の数少ないミクロン冠馬のミクロンテンローは人気通りか人気より上位に来る
不人気馬(馬券的に)として有名だった。
抽選馬だったのも人気にならない理由の一つだと思うけどひょっとして抽選馬を
ミクロン冠にしてるのかと思ったけど違ったみたい。 >>518
今改めて「テンポイント」に関する書籍や記事をまとめて読み返してみる
その出生と生涯に感慨深い
そしてその成績に「もしも」2頭のライバルと違う世代に生まれていたら…凄まじい戦績を残したであろう事に気付き鳥肌 >>526
夏競馬と言えば、夏村厩舎の「トコナツ」。 ジャブリンだったかな!? >>527
私だったら夏村厩舎ミヤジマレンゴ 夏の小倉の印象が強い >>527
ロッコーイチにキヨリューズキ夏の小倉も個性派揃いでしたね
キヨリューズキはしっぽが…一目みた時
あれ?なんか変…この馬って このスレでもたまに名前が出て来る、キシュウローレルの主戦だった梅内忍元調教師、
2019年9月10日に亡くなられていたそうです。
騎手時代は減量に悩み、調教師になってからも大病を患ったりしていましたが、
調教師引退後は、娘さんの栄子助手の担当馬や弟子の騎手たちの活躍を楽しみに
していたとか。 梅内さんは桜花賞のゴール時の首をガクッと垂れたのが印象的です
合掌 >>531
梅内さんと言えば
なぜかファインクローバーが思い出されます 梅内師は、騎手時代の旧姓が榎屋でしたね
久保敏文は、旧姓古賀
伊藤清章は、上野
騎手の場合、入り婿より養子縁組の改姓が多いイメージです 菊が阪神でやるのってハシハーミットとハシクランツの馬主どんぶり以来? 関東の障害馬でかなり強かったバスターの事件を思い出しました。 1968年の天皇賞・春は高峰三枝子さん司会のフジテレビ3時のあなたの中で中継され、ヒ
カルタカイのぶっち切りレースを見ました。ちなみに泥んこの3000m東京大賞典でヒガ
シジョオーに負けたレースもリアルタイムで見ましたよ。 >>536
最近は、女婿になって苗字が変わる例はなくなりましたね。
舞原⇒松永昌あたりが最後かも。。。
>>543
関テレも、1968年まではキネコの白黒録画しかないですね。
録画を見る限り、ブラックボーダーが出ていないので、放送時はカラーだった筈。 天皇賞史1になかった1968年の天皇賞秋を初めて視聴したな
ヤマピットの大逃げは印象深かった 火事で店仕舞いの吉田牧場
最後の世代の1頭が今日船橋で大差でデビュー勝ち
気は早いが南関でもいいのでクラシックに乗ってほしいところ
ジネヴラの母系でワカオライデンも入っているいかにもそれらしい血統
https://db.netkeiba.com/horse/ped/2019105623/ >>536
大沢調教師と諏訪真調教師が同一人物だったと、つい最近まで知らなかったw アカネテンリュウが人気してた50年前の秋の天皇賞を勝った「トウメイ」 >>555
トウメイの産駒テンメイは藤沢調教師の実家が生産した馬で、その父ルイスデールは超良血馬である事を最近知りました。
父Right Royalは仏2000ギニー、仏ダービー、Kジョージの勝ち馬で、母Rossellinaは伊1000ギニーの勝ち馬で、大種牡馬Ribotの全妹。 >>555
トウメイの産駒テンメイは藤沢調教師の実家が生産した馬で、その父ルイスデールは超良血馬である事を最近知りました。
父Right Royalは仏2000ギニー、仏ダービー、Kジョージの勝ち馬で、母Rossellinaは伊1000ギニーの勝ち馬で、大種牡馬Ribotの全妹。 >>555
トウメイは天皇賞秋の後に有馬記念も勝利したが、有馬記念は牝馬の勝てない時期が非常に長く続いておりトウメイが11年ぶりの牝馬の勝利だったし、その次に有馬記念を牝馬が勝ったのは実に37年後のダイワスカーレットだった。 >>557
牝系にはもうほとんど残ってないとか
淘汰とはいえ悲しい >>553
エリモイーグルってどんな馬だったかな?って調べたら1976年春の中山大障害でグランドマーチスの
5連覇を阻止した馬だったんだ。斤量差があったとは言えレコードタイムでの6馬身圧勝お見事だった ヘリオス
四白流星の栗毛馬だったな
大逃げも相まって今走ってたら大人気だったろう ヘリオスといえばやっぱりイナボレスだなあ
準サラだったけど勝負根性があって重賞も3つ勝ってたかと
他だとウキミドリもいい馬だった いいスピード持ってた >>552
先代の諏訪佐市師は栗東へ移る前は中京にいて
ワカタカの東原玉造師は晩年諏訪師宅に身を寄せていました
奥さんが東原師の娘だったようです 第二回宝塚記念は現存する最古の宝塚記念映像
ヘリオスの大逃げが見られる数少ないレース 「おおっと内からエリモジョージが先頭に立ったようです この馬に斤量は関係ありません 気分です」
五歳時泥んこの春天を逃げ切るももフロック視(四歳時シンザン記念を勝っていたが)
凡走を繰り返すも函館記念60k背負って7馬身レコード勝ち
京都大賞典は2番人気に56kで凡走
かと思えばとって返した京都記念で61kで8馬身日本レコードのおまけつき
その後1年沈黙(当時テンポイントと相性が悪いと言われてた)
六歳暮れ中京のオープンを珍しく差して勝つとまた覚醒
京都記念(60kで四馬身逃げ切り)鳴尾記念(2着ホクトボーイに62kで大差ぶっちぎり)
宝塚記念(グリーングラスに4馬身)と
これは本物だと思って雨の中京高松宮杯に全財産ぶっこんで殿負け玉砕
こんなクセ馬が印象に残ってます タケシバオー世代のライトワールドの頑健さを後世の人間は知るべし >>557
海外G1なんて世界一を決める凱旋門賞以外どうでもええがな
2000ギニーもKジョージもどうでもいい
凱旋門賞を勝ってるかどうかが最重要 ナリタブライアンも凱旋門賞は恐らく無理だな
G1勝利は旧馬齢4歳時のみ
古馬戦線で実績なし タケシバオーもライトワールドも淘汰された血脈だろう
この世界、産駒の競走実績こそ全てだぞ
それに足元の頑強さで言うなら、SS産駒は大抵足元が頑丈だ
その上スピードに優れ、ゴール前の叩き合いにも強い
気が荒くて乗り手を選ぶ馬が多い、腕のいいジョッキーじゃないと乗りこなせない、という問題はあるがね
SSの後継としてスペシャルウィークは順調な滑り出しだし、この血脈はしばらくは続きそうだ ノーザンダンサーの血脈は未だに強いよな
最近だと凱旋門賞2連覇のイネイブルって牝馬はサドラーズウェルズの3×2という頭のおかしい配合から生まれたんだが、
普通の配合をやっても結局は普通の馬主で終わり
名馬は頭のおかしい配合から生まれる
凱旋門賞2連覇と言えばイタリアのリボーという馬が昔居て、
当時天才と呼ばれていたフェデリコ・テシオというイタリア人ブリーダーの傑作だ
テシオも生前は相当の変人だったって話だな
血統の多様性を重視していて、淘汰されかけのクズみたいな牝馬買ってきて、何だあいつと言われつつもブリーダーとしてきちっと結果を出している 競争実績が天秋のみで血統も見たことがないから、とうの昔に淘汰されたサラブレッドだな 凱旋門賞制覇を狙うに当たって、絶対に欲しい実績が天皇賞春秋制覇だな
天秋はJC、宝塚記念、有馬記念あたりでも良い
クラシック三冠なんてどうでもいい
あんなものは所詮高校生の試合だし、早く仕上がった馬が勝つだけ
そこから伸びるかどうかは別の話
日本の馬主はド素人ばかりだから、東京の2400とロンシャンの2400が同じだと思っている
まず、洋芝と和芝の違いがある
洋芝は根が糸くずのようで、クッション性が高い
故に、脚元に優しい
欧米はともかく動物愛護のことにやかましいからな
ライスシャワーのようなことがあれば袋叩きだ
対して、和芝は根がガッシリとしていて、クッション性に劣る
故に、日本競馬を欧州に批准させるのであれば、和芝は芝のカットを少し長めにする必要がある
話がそれたが、洋芝はクッション性に優れるということは、芝に足を取られるということであり、スタミナの摩耗が激しい
加えて、ロンシャンの2400はスタートから第一コーナーにかけて10mほど登り、第二コーナーにかけて10mほど下っている
これもスタミナの摩耗の原因になる
中山の坂なんてのはせいぜい4-5m程度
あんなものは坂などという代物ではない
と、ロンシャンの2400のこの2つの事情を考えると、日本競馬であれば3000m級のレースである天春での実績は必須となる
天秋での実績はスピード能力の証明になる
オルフェーヴルは天春で実績がない
あの馬では何度挑戦しても凱旋門賞で勝てない
この条件に当てはまるのはスペシャルウィーク、テイエムオペラオーだが、当時は凱旋門チャレンジという時代ではなかったのかも知れない
ディープインパクトはかなり可能性が高かったが、まずは前哨戦のフォア賞を経由するという社会的常識を当時の日本競馬関係者は知らなかったのだろう >>574
スペシャルウィーク→ディープインパクト うーん
ディープインパクトの凱旋門賞の動画を見たが、残り600の直線でも、手応えは楽そうに見える
正気は十分にあった
敗因は、
1.道中で前に行き過ぎた
ロンシャンの2400の直線は長いのだから、道中は中団からやや後方で待機すべきだった
2.いくら武豊が日本競馬のキングとは言え、ロンシャンに明るいわけではない
凱旋門賞で実績のあるジョッキーに乗り替わりすべきだった
3.前哨戦のフォア賞で実戦感覚を掴んでおくべきだった
調教と実戦では身体の使い方がかなり違う
乗り替わりの問題もこの時にクリアできる
まぁ、馬自体には何の問題もない
運営が下手くそだったな
実質凱旋門賞のレベルだから、そりゃ種牡馬としても大成功だよな >>582
あれは一種のアクシデントだし、運が悪かっただけ
あれについては誰の責任でもない
それとは別の問題として当時の運営が下手くそだったって話
最後の直線でもあれだけ楽な手応えなら、やり方をキチッとしていれば凱旋門賞は勝てたと思うよ
事実として、ディープインパクトの時の凱旋門賞は8頭しか出走しなかった
凱旋門賞はエントリー料金が高い
早い話がディープインパクトを見て皆逃げ出したってわけだ オルフェーヴルの時は18頭だったかな?
他馬陣営はこいつが相手なら勝機はあると考えたんだろうな
何せ天春で実績がない
最後の直線で電池切れになるのは目に見えている
なんだけど、日本の馬主さんはロンシャンの2400のことをあまりご存じないようなんだよね
東京の2400や中山の2500と同じだと思っている
このへんで実績があるからGOだ!みたいな安直な判断したんでしょ 坂を下りてから1000mあるからね
下り坂で行き足ついちゃうと最後ガス欠になる
えっちらおっちら上って来たから馬は喜んで下る
そして日本人騎手は馬を抑えられない >>585
ガス欠の問題については天春で実績があれば問題はない
天春で実績が無いなら欧州G1はせいぜい2000mまで
オルフェーブル惜しかったとかコメントしてるアホをユーチュブでよく見るけど、
ラストの200で完全にガス欠の顔をしてた事が全く分かってない
俺はあれを見てオルフェーブルでは何度凱旋門賞に挑戦しても勝てないと思った
欧州G1なら2000mまでの馬だな
あとは第三コーナーを曲がった後のホルスストレートが嫌らしい
馬が最終コーナーだと勘違いしてスパートを掛けてしまうところを、しっかりと我慢させないといけない
この辺の勝手が日本人ジョッキーでは分からんから、凱旋門賞で実績のある現地のジョッキーに任せるべき
場数の問題はどうにもならない
普段からロンシャンに乗ってるやつのほうがどう考えたって有利 天春、天秋制覇ということなら、キタサンブラックも条件に当てはまるんだが、勝ち方が微妙なんだよな
一応は勝ったという感じの勝ち方で、ディープインパクトのように最後の直線でさらに突き放すような力強さが感じられない
先行、差しの脚質の問題じゃない
勝ち方に他馬を圧倒する力強さが感じられない
キタサンブラックが凱旋門賞は無理だな
明らかにレベル不足だ >>569
まさに洋一マジックですわ
しかしあの天皇賞のロングホークは久保さんに乗って欲しかったね
大賞典の大逃げ大楽勝でジリ脚の弱点を克服したからね 日経新春杯もサンケイ大阪杯も松田さんが乗って3コーナーあたりで差をつけた勝ちパターンを覚えただけに天皇賞の乗り方は疑問だわ
サンケイ大阪杯でもエリモジョージを早めに交わして戦意を挫いただけに4コーナーまで逃がしたのは作戦ミスだわ 天皇賞なんて田舎レースどうでもいい
アーリントンミリオンもキングジョージも興味ない
やはり凱旋門賞 ミホノブルボンのスプリングS、皐月賞、日本ダービーは素晴らしいな
逃げの競馬にも関わらず、直線で他馬をさらに突き放している
菊花賞はスタミナの都合上無理だったから、天春も無理、故に凱旋門賞も無理だが、
欧州のマイル〜中距離路線なら十分活躍が見込めた
日本のG1でこの勝ち方が出来る馬は、他にはディープインパクトか
キタサンブラックは今一つ印象が薄い いや待てよ
ブルボンは旧馬齢5歳での実績がない
旧馬齢3歳時の調教タイムが当時話題になったが、もしかしたらただの早熟だったのかも知れない
ナリタブライアンも人気が高い馬だが、G1勝利は旧馬齢3歳、4歳時のみであり、古馬戦線で実績無し
故に単なる早熟なので、凱旋門賞は難しいだろう ニホンピロの小林百太郎オーナーが亡くなられました
兄上の保さんとともに、長年にわたってファンを楽しませていただき
また、日高の生産者に多大なサポートを続けてこられました
ニホンピローエース、ニホンピロムーテーはともに浦河の辻牧場生産だったかと思います
ご冥福をお祈りいたします このピローは枕じゃなくて
ピローブロックの略なんだね >>593
ウイナーも強かったね
ムーテーはあの秋だけ以上に強かったわけですが、特に菊は洋一さんが天才と言われる所以となったレースですね
水玉の勝負服を思いオーナーさんのご冥福をお祈りします ニホンピロウイナーはキタノカチドキの甥っ子で
服部厩舎ゆかりの血統でしたね 服部ラッパ懐かしいです
ニホンピローエースはグッドルッキングホースとしても有名でしたけど
父母祖父母すべて鹿毛なのに栗毛に出たのはやはり母系の月友ーマンノウオーでしょうね
モンタヴァル産駒で綺麗な栗毛ということで寺山修二のお気に入りだったと思います >>600
エースまでなると名前だけ知ってるくらいですね
確か阪神か京都のレコードを持っていたかな 日本の田舎レースなんかクソどうでもいいって
凱旋門賞二連覇のリボーとかについて語れよ田舎馬主共 >>593
ニホンピロムーテーのころは、先代の小林保さんでしたね
確か中百舌鳥で市会議員をつとめておられました
馬産地の鹿児島牧園に親族がいたようです 古馬になってからのニホンピローエースは
浅見厩舎がシバハヤをぶつけて逃げを封じたので
苦戦した印象です 近い世代の個性派ダイイチオーも栗毛の流星馬だったな
天皇賞の大逃げとかアッと言わせていた 四日が寺山修司さんの命日だったんですね Gallopの復刻連載を楽しませていただいています
鴎は飛びながら唄を覚え、人生は遊びながら年老いてゆく
https://www.youtube.com/watch?v=HyCaBEfARnw ダービーの日
ユーチュウブで見れますね
洋一さんの元気な姿も見れる 中距離王者ヤマブキオーが好きだったな
もう中央で20勝上げる馬は出てこないだろう
秋天が今の距離なら確実に勝っていた
当時は古馬重賞戦線で1800〜2000ⅿで格の高い重賞は皆無
仕方なくオープンで勝ち星稼いでいた 最終レースがオープンという時代もありましたね
土曜だけじゃなく日曜も条件特別メインは珍しくなかった
何回勝っても条件に留まれる馬もいましたし キクノオーはフィダルゴ産駒らしく好調期が短かったな 関西ならフイドールですかね 正月の金杯から春の天皇賞の前まで好調だったけど、肝心の天皇賞からは全く走らなくった タカツバキの成績不振の原因となった日本ダービーの落馬 昨今の名馬と呼ばれる馬はローテーション重視か
クラブ馬の使い分けもしくは鞍上の都合で故障もしないうちに10〜15戦で引退しよるね
古くはイナボレス、トウフクセダン、ヤマニンバリメラなどビッグタイトルには縁がなかったけど年間10走以上9歳10歳迄走り続けた(ミスタートウジンは15歳)
無事是名馬こそ名馬であってコントレイルなど足元にも及ばないね キタノカチドキが欠けていた74年の有馬記念
いたらどうなってたかな タニノチカラが6馬身ちぎって圧勝したから
おそらく勝てなかったろう
あのレースは引退するハイセイコー一色で
ゴールした後まで「さらばハイセイコー」が流れて
田島日出男があきれていたなぁ >>614
それより正月のシンザン記念で圧勝してさ
これはと思ったけど
調べたら最後1ハロン15秒台だったな
ダービーでも坂下からちょっとの間 これは!と思わせたんだよ >>606
ダイイチオーにあったよ
引退後に熊本で種牡馬になってたんだよ
上水前寺の住宅街のハズレだったかな
せまいパドックみたいなところに引き出して
くれたんだけど
近所の人たちもこんなちころに馬がいるんか!
という感じだった >>621
ヒカルイマイ世代の皐月賞ダービーの2着馬は不遇だったな
バンライにハーバーローヤル
最期は草競馬で死んだ ヒカルイマイが無事だったら三冠取れてたかな?たられば言っても仕方ないが、タニノムーティエとこの馬が本調子で菊花賞に出て欲しかった あの時異常に強かったニホンピロムーテーと洋一コンビに勝つのは難しいかもね
タニノムーティエの方が4コーナー手前のまくりを見るとダテテンリュウ以下を差しきったと思うわ 昔の高知競馬で哀れな末路を迎えてる馬は多い
ヤマニンカツプ
ベル
ショウフウグリーン
ロングイチー
ライバフット
アータルオー
チェリーリュウ
モアーキャッスル
ゴールデンタテヤマ
無事乗馬になれたのはスリーヨークだけだとか TTGはやっぱり最強世代だと思う
この時代に競馬を見ていた人は最高だったろうな
https://youtu.be/RWx_iYcmhAQ
エリモジョージやクライムカイザーは運が悪かったな >>627
そんな感じもしなかったけどさ
ようわからんけど
エリモジョージは好きだったな
あとロングホークとかさ ピークを過ぎたロングホークと絶頂期のテンポイント
悲哀を感じたなあ ロングホークはジリ脚だったので久保敏文がせっかく溜め逃げ戦法を駆使して覚醒したけどあの時代の関東馬には通用しなかった
その後カンカン泣きして使えるレースが無かった
6歳春に猿橋が手綱を取って平場オープンで差し切った時は嬉しかった >>630
武邦彦と合わなかったのと謎ローテが理由だろうなあ ゴルシより、その凄い実績を霞ませる程の濃いキャラクターで知られる馬っているんですかね
あの馬、普通に歴代トップ10くらいの素晴らしい成績なのに、破天荒さばかり取り上げられてる気が。
名勝負みたいなのが無いからでしょうか。菊花賞のロングスパートとかCMにしてくれてもいいのに、JRAさん?
オルフェも破天荒だけど、流石にクラシック3冠の方がイメージ強い 記憶の確認ですが
「走る労働者」というニックネームはトウフクセダンに対して付けられたもので、厩舎の先輩イナボレスは後付けで初代扱いとなったのでは
トウフク旧齢5歳時の凄まじいローテーションに対して聞かれたときに大久保末吉調教師が
「馬も労働者だから自分の食いブチは自分で稼がにゃならねえだよ」
みたいに答えたのが初出だったと思います
イナボレスは謎かけで「天災」と呼ばれていた事も
そのココロは「忘れた頃にやって来る」 ミネマサはタカオーと比べて全く語られない
菊花賞でダイナナホウシユウを抑えての本命馬だったのに さすがにリアルでダイナナホウシュウは見てないが
志摩直人が好きだった馬のようで…
そういえば昔は八大競走のゴール後は
志摩直人の詩が流れてた ハクズイコウとコレヒデ
尾形調教師は前者の方が圧倒的に評価が高いのな
最も有馬記念ではコレヒデに保田騎手を乗せてるあたり現実的な面もあるな 引退後の
カブトシローに延岡であったこと
ダイナナホウシュウに大学馬術大会であったこと
一生の自慢だな カブトシローと入れ替わりで名種牡馬タカクラヤマが処分されたとか >>639
ちゃいます
カブトシロー来る前に蹄葉炎悪化でした 尾形藤吉一門って人材が無茶苦茶いるんだよね
確か河内師や武豊も尾形の系譜なんだよね
武豊が尾形会に参加してるという話は聞かないけどw 『日本の「騎手・調教師」体系図』山本啓二 競馬通信社 を物置から引っ張り出しました
ここでは調教師を19の体型に分類し、尾形藤吉氏は山島久光系となっていますね。 ネット黎明期はメルボルン二世とか南関診断士とかの優れたサイトが多かったな 吉田牧場って破産したの?
もう一度テンポイントに手を合わせたい >>654
ダルモーガンさんは、想像ですが園田の元調教師の福地さんのことですか?
あの方でしたら1930年生まれですので、ご存命であれば93歳です。 中山大障害メインの障害を扱ったサイトもあったが消えてるんだよね 明石家さんまさんが以前、テンポイントのお墓に訪れた
で、何年か経ち行ってみると、随分と立派になってて驚き
実は最初のはキングスポイントのお墓だった ナリブとトップガンの阪神大賞典は有名だが
悲しいかな土曜日のメインで
杉本清の名実況が聞けなかった ロングホークの阪神大賞典見れるとは 70年代の重賞とかよくあるもんだなと感心する 杉本さん不在レースで思い出すのは
キタノカチドキのマイラーズカップ
トウショウボーイの宝塚記念
インターグロリアの京都牝馬特別
など
ここから先を書くとどなたかの批判みたいになるので省略 ヒカルイマイのダービーは4角から直線半ばまでカメラが同馬を追えてないのが残念だ
ダービー史上世紀の後方一気の追い込みだったのに
当時は実況が関東馬偏重で皐月賞勝っても人気が
なかったのが原因かな
生い立ちとかドラマのある馬だった ヒカルイマイのダービーのときは、小学生でなにか別のことをやってて
レース(テレビ)を見てなかった。おわったあと、まわりの年長の人たちが
あっけにとられていたようにみえたのを憶えている。
>>662
競馬雑誌でシプリアニも初年度だったか、活躍場も出ておらず、
しかもろっ骨(?)が一本折れていたのもあり、250万円の安馬だったとありますね。
その雑誌の別の号で同じシプリアニ産駒のトウメイの記事もあった。
有馬記念での勝利について、直線先頭にたちゴールする同馬の姿に重ね、
150万円の安馬、見た目も云々だった馬の栄光がそこにあったという言葉で
締めくくられていたと記憶しています。 WikiPediaで調べてみると、ヒカルイマイは150万円でしたね
200万円のところ、肋骨の陥没があり50万円の減額となったとのこと
トウメイは、165万円で15万円のプラス金額でした
上の競馬雑誌の記事は、トウメイの繁引退直後でもあり、のちの殖成績と長寿を知る前のもの。
この記事に付け加えるべき事柄があると思います
この馬の歴史には、まだまだ言及すべき事柄がいくつもある
テンメイとの天皇賞秋母子制覇、さらに健康に恵まれ32歳の長寿でもあった。
そのすぐれた、競争成績、繁殖成績、そして長寿であったことを考えると、
シンザンに比肩しうる、日本競馬において特筆すべき名牝、名馬の一頭であったといえるだろう
といったところでしょうか? 今日はテンポイントの命日
昔吉田牧場に墓参りに行ったなあ 懐かしの名勝負といえばレブロンVSスイノルミエールだなあ
大逃げするルミエールを四角最後方から強襲するレブロン
若かりし小迫の度胸満点の騎乗ぶりだった 最近BSフジの競馬中継で昔懐かしいレースを流してくれてますね(直線だけですが)
先日はマーチスが勝ったスプリングSでした。2着タケシバオー、3着アサカオー
その前にはスピードシンボリのAJCCもやってくれたかな。2着はおなじみのアカネテンリュウ
ゲストのエイト吉田氏もリアルタイムでは見てないと言ってましたね 連投ゴメン
そういえば1971年の阪急杯もやってくれてました
まだ1900mで6月にやってた頃
トウメイが58kgを背負って不良馬場をものともせず快勝
アホヌラさんのサイトであらためて確認すると
2着以下はウメヤ、ケイサンタ、タイヨーファンシー、ファストバンブー
着外にはクニノハナ、スリーリバー、オープンツバメなどもいました
最近は懐かしのレース映像を楽しみに、カンテレじゃなくてBSフジ
を見てますわ その阪急杯の次走が東京競馬場で見た牝馬東タイ杯になるのかな
小さな体に59キロの酷量を背負って最後は馬なり大楽勝
間違いなく生涯ぶったまげBest10に入る衝撃的レースでした いや東上前に阪神でオープン使ってる リアルタイムでテレビで見た 4角でウチュウオーが一気に先頭に立ちトウメイは尻尾振り回して追いすがるも馬体も合わせられなかった ウチュウオーの引退レース 寺山修司の著書、旅路の果てが再販されたので買った
中央重賞で活躍した馬でも末路は悲惨なのが多いのを認識 テスコガビーが出走したオークストライアルの映像、動画ってないみたいですね。
トウホーパール、カバリダナーにおくれての3着。
直線でテスコガビーが先着の2頭のどちらかに噛みつきに行っていたように記憶しているのですが。 >>675
ありがとうございます!YouTubeに年鑑として1975年の重賞レースの映像があるとは貴重なコンテンツですね!
レースを見ると噛みつきにはいっていないようで(^^; 記憶違いだったようです。
あと噛みつき疑惑というとフェブラリーSのシンコウウィンディですが、これもレースを見ると違う。
あとはプリークネスステークスのサンデーサイレンスですが、これもむしろイージーゴアの方が
頭をサンデーサイレンスにむけているだけにみえます。
やはりレース中の噛みつきなどは、めったにあるものではないようですね。 中央競馬年鑑というコンテンツがYouTubeに上がっているので、1984年新潟大賞典のミクロンテンローの勝利を
当時、後楽園の場外馬券場でみて以来かもしれないけど、みてみようと思ったら、ローカルの映像はなかったという。
日刊競馬の柏木集保が競馬四季報だったか?この馬の競争成績について、デビュー2戦目をのぞき
すべて人気以上の成績を上げていると指摘していた。そういう事もあって、よくこの馬の馬券を買ったし、注目していた。
夏のローカルで条件戦を勝ちあがり新潟大賞典まで勝つとは大したものだと思う。
その後引退まで自分に掛けられた人気以上の成績を残したこともすばらしい。
ローカルでの上がり馬というと、ミクロンテンロー以上に出世したけど、
当時のもう一頭のお気に入りの馬、テュデナムキングも思い出した。 新潟大賞典といえば改装前は右回りのハンデ戦
勝ち馬メークアスマートの時はまさにハンデ戦と言っていい醍醐味に溢れていた >>678
ミクロンテンローもメークアスマートと同斤の53kgでの勝利ですね。直線伸びた走りは憶えているけど
差したのか、残ったのかは、憶えていません。でも、首差とはいえ堂々たる勝利だったように思う。
アホヌーラ (Ahonoora) さんのサイトでみるとミクロンテンローの勝利は、とくにローカルで勝ち、
勢いのまま新潟大賞典勝利というものではなかったです。わたしの記憶も年齢相応にか?
かなりあやしい。ええ加減な記憶、記憶違いが多くて、お恥ずかしいかぎりです。
それにしてもアホヌーラという馬だけど、サイトの主さんはアホヌーラが
好きなんだと思うけどどうしてなんだろう?と、ふと考えたりする。
そんなことを詮索しても仕方ないのだけれど、わたしがこの競走馬のことについて、思い出すのは、
まずチャンピオンSでニジンスキーに勝ったロレンザッチオの産駒だということ。
今世紀有数の名馬、現状最後の英国三冠馬だが、凱旋門賞でササフラ、チャンピオンSと
二度苦杯をなめている。現役最後の2戦。セントレジャーを使ったのが響いたという見方もあったりする。
父系はもとをたどるとトウルビヨンの系統。アホヌーラ自身、種牡馬として、父、母父としてイギリスダービー馬を出している。
直仔のドクターデヴィアスはジャパンカップに出走もしている。どうやらサイヤーラインは、21世紀に入っても存続しているようですね。 ポニーキャニオン発売の有馬記念史1で勝ち馬でないのに紹介されてるぞ ソロナオールは菊花賞、有馬記念ともに3着が印象的で記憶している。3着が似合う競走馬だった。
しらべてみると中山の条件戦ながつき賞勝利のあとセントライト記念、京都新聞杯という格上の重賞も3着で
4戦連続3着、どうしてこうなった?というと、どのレースもほぼ最後方からレースをして、直線鋭く追い込む
というレースをする(した)からだろう。小柄な馬で、おそらく気性面でも、道中他の馬と並走できないところもあったかも
その分、小柄さは身軽さにつながり、追い込みも鋭く長続きする脚だった。とはいえ、全ての馬をとらえきれない
おかしな比較かもしれないが、そこが全部つかまえ抜ききったディープとちがうところ
まあ菊花賞でイシノヒカル、タイテエムがいなかったら、ランドプリンス、ロングエースを退け優勝
有馬記念もイシノヒカル、メジロアサマがいなければ、オンワードガイらに先着、優勝だったかもしれない
さらに妄想を進めると有馬のイシノヒカルは三才(当時は4才と計算)で、三才で勝ちを逃したディープより
実力は上、古馬のメジロアサマをハーツクライに後れを取ったとすれば、ディープとソロナオールは、ほぼ同じ強さだろう
イシノヒカル世代の3強(ロングエース、ランドプリンス、タイテエム)もふくめ歴代屈指の強さ、
七夕ダービーだったが、ロングエースはダービーレコード勝ち、秋古馬混合戦でも、古馬を圧倒
トーヨーアサヒも古馬相手に勝利、時計の1分50秒を切り、その速さに注目が集まった。
同世代は翌年ストロングエイト、翌々年タニノチカラと有馬記念を勝ち、それ以外の大レースも支配した。
やはり間違いなくソロナオールはディープインパクトと同等の強さの名馬だった。
そのため競馬ファンは翌年の4才時はソロナオールを8戦中7回一番人気に支持した。
しかもソロナオールはファンの期待に応え、なんと2勝もしたのだった。
父のフェリオールは、ネアルコを経由しないファロスの系統。この点についての解説は、
他の方にお任せしよう。一つだけ指摘したいのは、フェリオールもソロナオールも
直接的に商品名とは対応しないが、薬品名を連想させる。この二頭がタイムマシンにのって
現在にやってきたら、現代に蔓延するウ〇娘汚染を洗浄してくれるだろう。 >>680
末路は地方競馬で酷使された挙句、乗馬になれてもすぐに伝貧で薬殺 >>680
1972年の旧四歳クラシック路線に乗った馬、
JRAの重賞未勝利なのにアホヌーラさんの処にリストアップされている。 連投で恐縮です。
>>683 そのへんのこともなにかしらおぼえています。ありがとうございます。
>>684 年数など具体的な情報を書いていませんでした。ありがとうございます。
ニジンスキーが三冠馬になり、21世紀に二冠馬キャメロットがセントレジャーで2着に敗れ、
依然ニジンスキーにつづく馬はいない。ただ牝馬三冠馬はいる。
といっても、もう約40年前、1985年のこと。そのとき曾祖父(Atan)は日本にいた。
わずかに英国にのこった子孫の中で祖父(Sharpen Up)が成功してサイヤーラインをつなげた。
その祖父の産駒Kris(クリス)の仔が牝馬三冠を達成したオー・ソー・シャープ(Oh So Sharp)である。
サラブレッド血統センター刊行の「世界の名馬」(「新・世界の名馬」ではない方)には、
それ以前のサンチェリオット、メルドという2頭のことが書いてある。
英国では、牝馬三冠レースは1000ギニー、オークス、セントレジャーとなっている。
日本でいえば桜花賞、オークス、菊花賞制覇となる。たしかに現在でも秋華賞はクラシックではないようだ。
とはいえ、牝馬が菊花賞で三冠を目指すのは、何十年に一頭の牝馬による牡馬三冠勝利に挑戦する時だけだろう。
あるいは、牝馬三冠とエリザベス女王杯、またはヴェルメイユ賞の選択も考慮する必要があるかもしれない。 ソロナオールは小さな体から最後方からの渾身の追い込み
マイナー厩舎に年に数勝の地味な主戦騎手など寺山修二的
魅力も重なり私も含めてファンは多かった
表舞台に躍り出た72年秋の菊花賞前後では当時まだ3連系
馬券がなかったため収支で貢献してもらった記憶はないが
タイテエムなど並みいる強豪を相手に見事な健闘ぶりだった
馬券といえば翌73年3月の中距離特別
久しぶりに相手が2枚も3枚も落ちる条件戦に出走してきて
既に大ファンとなっていた私は断然1番人気の単勝に
大枚はたいて勝負したがなんとミホプリモスにあっさり負けて撃沈
その時追い込み脚質のポカの怖さをしみじみ知ったことで
今でも競馬を続けていられる教訓とした気がします ゴールドシップ(以下ゴルシ)以上のきまぐれ馬、くせ馬というのは、たしかにいないと思う。
それは、変な言い方だがゴルシがかなり真面目に大レース=G1タイトルを集めているからだと思う。
結局G1レースを6勝しているわけで、まじめな優等生ともいえる。
過去の、たとえば昭和の競走馬では、くらべられる馬がいないという結論。
ニットエイト、上にも書いてあるけどカブトシロー、エリモジョージ、ラファール(これは少し余計だった)
どうみても、ゴドシの方があぶない。こいつらが束になって戦って、やっと釣り合うんだろうか?
ならば、歴代顕彰馬と比べれば、どうだろうか?あれ?ミスターシービー、シンボリルドルフって
おかしくない?おかしいですよね。ゴルシとか、足元にも寄れなくない?オグリ、オペラオーとかウオッカも 自分はテレビで昭和45年(1970年)のAT(TA)対決をみて競馬を見るようになった。
A、すなわちアローエクスプレスの名前の方がかっこいいと思っていた。
大橋巨泉氏は古馬になればアローエクスプレスもどこかの2400mのレースも勝てるようになるかしれないが、
ダービーでは難しいといっていた。
そのころから「世界の名馬」を読み込んでいた。あまりに読み込んだせいで自分の文章のお手本になった。
馬券を買うのはもっと後になる。テレビを見て、本を読んだり、雑誌をあつめ、血統を調べたり、
週刊の競馬報知と月間の優駿を愛読。海外の話ばかりで恐縮だが、むこうのレース結果や出来事を知るには、
雑誌が頼りだった。これはF1などの自動車レースも同じ。サッカーだけは三菱ダイヤモンドサッカーがあった。
あとは、競馬ではフジテレビで海外の話題が放送されていた。
ミルリーフの骨折と治療とか、ブリガディアジェラルドの敗戦とか。
シリウスシンボリが出走した凱旋門賞のとき、珍しく、というか久しぶりに実況放送があった。
ベーリングに期待したが、ダンシングブレーブに強靭な差し脚に屈したのが残念だった。
ただダンシングブレーブが英国ダービーで負けたというのは、優駿で知ったと思う。 セクレタリアト、フィーリッユプレジャー、ちょっと置いて間にフォアゴー
シアトルスルー、アファームドアリダー、スペクタキュラービッドが跳梁跋扈した
70年代のアメリカ競馬は熱かった
中でも1978年ジョキークラブGCのシアトルスルーとエクセラーの死闘は
凄かったラビットに翻弄されて直線バテバテのシアトルスルーが
楽勝と思われたエクセラーをアタマ差まで差し返したのは
鳥肌がたった
思えば日本もハイセイコーからキタノカチドキ、カブラヤオー
TTGと熱い世代が続いた
カブラヤオーの狂気の先行策はシアトルスルーに通じるものがある
TTGと >>689
私も、山野浩一さんの事典は検討に欠かせない物だった
血統と言えば山野さんか白井透さんだったか
雑誌は優駿と、毎週のは緑の競馬ブックか「馬」を買ってたかな
一番楽しみだったのは四季報、しかもオープン馬には解説コメントが付いてた
ギャロップはずいぶんと後からだね 週刊「馬」には若き日の井崎脩五郎の巻頭硬派コラムがありましたね
まさかお笑い系競馬評論家で今日の地位を築くとは
誰も予想していなかったのでした >>692
井崎さんは特異な才能があったから成功した
「馬」といえば笹川忠さん、いつ亡くなったんだろう
ダービーニュースの伊藤友康さん、どうしただろうか