明治 法政 日大 関大 由緒ある法学部の伝統 ボアソナード
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ボアソナードの奇跡の絆
それが 明治 法政 日大 関大
それが 明法日関 ボアソナードさんは日本大学の開講式に
出席し祝辞を述べています。
司法大臣山田顯義とフランスのお雇い法律学者
ボアソナードは日本を民主的な
法治国家にしようと尽力します。 女性に大変親切な日本大学
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/school/1381/1548803446/
1: 戦前から女子の入学を許可、日本大学
日本大学は優しい大学だと思います。
戦前に女性を大学に入学させたのは
日大、明治、東北大学の3校にすぎません 日本大学と法政大学は姉妹校です。
ボアソナードは経営の苦しいフランス派の拠点 法政大学の為に私財を投げ出し奮闘するんだがな。 [無断転載禁止]2ch.net
http://matsuri.2ch.net/test/read.cgi/joke/1502677275/
高慢ちき?なボアソナードが日本で働けたのは 大木喬任や山田顯義司法大臣らが親身になって [無断転載禁止]2ch.net
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どうだい。法政大学にもう一つ 山田法典伯タワーを立てるのわ。 [無断転載禁止]2ch.net
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な。 法政大学は創立当時から経営基盤が弱く、首脳陣は 夜逃げしたり病死したりと頼 [無断転載禁止]2ch.net
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法政と日大のライバル関係 (41)
https://2ch.vet/re_nozomi_jsaloon_1506938916_a_0 >>1
東大も入れれよ
1871年 司法省法学校(東京大学)が設立
教員 ボアソナード
1881年 明治法律学校(明治大学)が設立
設立者 岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操・(西園寺公望)
教員 ボアソナード
1883年 東京法学校(法政大学)の教頭にボアソナードが就任
ボアソナードが関わった順番は
東京大学 - 明治大学 - 法政大学 - 関西大学 >>1
東大も入れれよ
1871年 司法省法学校(東京大学)が設立
教員 ボアソナード
1881年 明治法律学校(明治大学)が設立
設立者 岸本辰雄・宮城浩蔵・矢代操・(西園寺公望)
教員 ボアソナード
1883年 東京法学校(法政大学)の教頭にボアソナードが就任
ボアソナードが関わった順番は
東京大学 - 明治大学 - 法政大学
関西大学と日本大学はボアソナードと直接には無関係だね ボアソナード絡みなら
東大明治法政日大関大
東明
法日関 ボアソナードとアッペールが関わったのは
東京大学の前身、司法省法学校
明治大学の前身、明治法律学校
東京大学と明治大学 ボアソナードが法政大学の経営で苦労しているのを
わが身のこととして助けたのは
ヤマダ顯義司法大臣です。
九段上に校舎を移籍させ校舎を新築し
2つの学校を一つにしたのは山田顯義伯爵の
協力のたまものです。
政府から法政大学に補助金が出たのは
ヤマダ顯義がいなければ到底無理な相談でした。 愛エメ総長談話 関西大学の認可ももう滅茶苦茶でした。
いくらボアソナードの教え子たちの要望とはいえ、
校舎も敷地もお金もまったくない関西大学を
認可しちゃう山田顯義司法大臣は
無類の教育好き、お人好しと言わざるを
得ません。今なら間違いなく
ヤマダ大臣逮捕されるでしょうね。 愛エメ総長談話 日本大学は長州藩吉田松陰、木戸孝允、大村益次郎、ボアソナードの血統です。
日本大学と早稲田大学の違いは 長州藩出身者と佐賀藩出身 [無断転載禁止]©2ch.net
https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1506120669/l50
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 1
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/joke/1501510625/
陣頭指揮突貫 日大の山田顕義と慶応の福沢諭吉、早稲田の大隈重信との違いは血みどろの戦いを [無断転載禁止]©2ch.net 2
https://tamae.5ch.net/test/read.cgi/jsaloon/1481985949/
狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html 神田の当たりを順繰りに明治法政日大を
ボアソナード氏はぐるぐると
回っていたのではないのかな。
ヤマダ顯義司法大臣の邸宅は音羽に移る前は
飯田橋の縁結びで有名な大神宮内に和式の
数寄屋風の邸宅を構えていました。
ボアソナード氏はイギリス法学の
中央大学と日本語で教えたという専修大学には
どうもご縁がなかったみたいです。 大学の鏡 親切な明治大学
明治二十一年
四月、伯爵山田顯義氏を推薦して名誉校員と為す。元来、
山田伯爵
は、明治九年当時の司法大輔にして、岸本、宮城諸氏の卒業、
洋行に大なる関係あり、今は司法大臣にして、亦、我国邦学会の為、
我が校の為に、共に深淵あり、
昨年大木伯等五氏と同時に、之を名誉授員に推薦すべきなり、
然るにこれより先き、司法省に於て、法学者育成の為に、補助金を法律学校に與える
の事あり、
昨二十年四月、英吉利法律学校(中央大学)、東京佛学校(法政大学)及び
独逸学協会学校(獨協大学)に、毎年各金五千圓を下附し、
古典講究所(國學院大學+日本大学)には、
年々数千圓の収入ある佛法翻訳書の版権を下附し、我校は與からず、 英吉利法律法律学校の菊池武夫氏と東京佛学校の栗塚省吾氏とは、
共に司法大臣秘書官たり、且つ
東京佛学校は従来普通学科のみなりしに、
補助金の議あるに及びて、俄かに法律学科を設けたる等の事あり、
物議躁然として起こり、山田伯と我が校との間、亦、
多少の誤解を生じ推薦の事、為に遷延を来したりしなり。
而して是れ亦些かも根拠なき行為にして、山田伯固より異意なく、
我が校亦固より此の如き事実に噛む所なく、光風明月、
胸襟漸くにして相徹し、茲に初志に依りて推薦を
実行したりしなり。
参考明治大学史 正価50銭 明治34年 調査不足なんじゃぁないですかね。まぁ法政に古い資料などは
戦災などで焼けてほとんど残ってはいないらしいが。
山田顯義司法大臣とお雇い外国人のボアソナードは
弥二さん喜多さんのような、助さん角さんのような、
弁慶と義経のようなツーカーの関係ですよ。
水疱瘡が出来ても山田司法大臣と約束した法典編纂の準備で
ボアソナードが休みなく働いていたのは学校の教科書で習わなかったのかな。
ボアソナードが拷問の場面を見てしまい、山田顯義や他の高官に働けかけた結果、
拷問制度の廃止が決まったこと。裁判官の中に外国人を入れるかどうかで紛糾、
山田大臣が辞表を片手にボアソナードをかばった件。政府の補助金が
法政大学に下されたのも山田伯爵の好意があってこそです。
遺言で 山田顯義は法政大学に寄付していますよ。ボアソナードは
日本大学の開校式に 参列していますよ。
関西大学が認可されたのはボアソナードの弟子たちが創った
学校を山田顯義さんは見捨てることが出来なかったからじゃぁないですかね。
法政大学の恩人が山田顯義です。 愛エメ総長談話 明治大学の土屋恵一郎学長 関西大学の芝井敬司学長が、
法政大学総長室を訪れて下さった。
両大学は同じボアソナード法学で建学した経緯がある。
大学史の展覧会、海外の大学との交流、さまざまな催しもの、そして連携協定など、
一緒にできることは多い。
同じテーブルにつくだけで、学長どうしアイデアが尽きない。これからが楽しみだ。
http://www.hosei.ac.jp/gaiyo/socho/diary/2016/02.html 現代と違ってな。明治時代の頃は文部科学省ではなくて、
司法省に法律系の学校の認可権があったのだよ。
関西大学の前身である関西法律学校も司法省のトップである
山田顯義の胸三寸で認可が決まったのだよ。
森友学園どころではありません。校舎も敷地もお金も全然ない
関西大学を山田顯義が認可したのは、ボアソナードの弟子たちが
関西に法律学校に創るという司法官のたぎる様な情熱に
山田顯義伯爵が心打たれたからです。 山田顯義の時代はまだ人治時代でね。
憲法も民法も商法も無い、国会も開かれていない時代は、
人が政治の力で押し切る以外には方法がありませんでした。
大臣の力量次第で政治が動きました。
山田顯義の晩年に国会も開かれ法律も整備されるんだが、
それまでは土人が国を動かす未開の国に近い有様でした。
でも明治政府も偉いよ。ボアソナードやブスケら外国人の力を借りながらも
明治維新から僅か20年と少しで
憲法を制定し国会を開き諸法典を整備し
日本を法治国家にしたのだからね。 ボアソナードは法政大学の
独占物ではないよ。
関西大、明治大学だけでなくて
日本大学の開校式にも参列していますよ。
山田顯義の作った日本大学の開校式に
嬉しくて泪が零れたといいます。
明治天皇陛下も日本大学の開校に
大喜びしたと伝えられています。
日本のトップブランド 日本大学
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/school/1381/1496909114/
小さなナポレオン 山田顯義
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284970361/ 山田顯義中将は「兵は凶器なり」とのたまう
変わった軍人さんなんだがな。
山田さんが内務卿の頃だったかな。自由民権論者に
こうのたまうのだな。
「我々は馬上に天下を取った。悔しかったら
馬上で相まみれよう」とのたまうのだな。 山田顯義ら長州藩は言論で
天下を取ったのではないよ。
話し合いで天下を取ったのではありません。
武力で天下を取りました。
ボアソナードも薩長の天下になったからこそ
フランス国から民法の大家として招聘されたんだね。 山田顯義は用兵神の如しと言われる軍人なんだがな。
「兵は凶器なり、軍事より大切なものは法律と教育」と云っているんだな。
東条英機の様な人殺しではないな。
福沢諭吉なんかは勤王派は尊王攘夷派と思って
毛嫌いしていたんだが実は尊王開国派だったんだな。
日大の悪口は個人の自由だから勝手でいいが、
山田顯義の悪口は止めた方がいいです。
山田は明治天皇陛下の信任も厚く、司法卿時代を含めると
なんと10年間ぶっ続けに司法の重責を担った人物だからな。
辞表を何度出しても天皇が司法大臣をやめさせてくれんのだよ。
お雇い法曹人のボアソナードが日本で生き生きと
行動できたのはフランスびいきの山田顯義の
バックアップがあったからです。
山田伯爵は遺言で法政大学に
寄付もしているぞ。
どうだい。法政大学にもう一つ
山田法典伯タワーを立てるのわ。 愛エメ総長談話 法政大学さんはシンボルとしての
ボアソナード顕彰には大成功したと認めますけど
ボアソナード一人で明治政府をのし歩いたと思っていたら
大間違いです。
大久保利通、大木喬任、山田顯義ら
明治の元勲の協力なくしては何一つ
実現できなかったでしょう。 民法典論争の穂積八束「民法出て忠孝滅ぶ」の内容について、教えてください。
こちらも調べてはみたのですが、いまいちぱっとしない内容になってしまったので、質問しました。
物知りな方、宜しくお願いいたします。
ベストアンサーに選ばれた回答
そこまで物知りではありませんが知っている範囲でご解答いたします。
フランス人法学者ボアソナードが草案を作った民法草案(旧民法・ボアソナード民法といわれる)が、日本伝統の家父長制に
反する形であったため、それを批判する目的で穂積八束が発表した論文が、その名もずばり『民法出デテ忠孝亡ブ』でした。
基本的に、フランス民法学者のボアソナードとドイツ留学もした憲法学者穂積八束では民法について
意見が合わないのは当然なのですが、
日本に根ざした風潮が西洋の権利義務を主体とした形式を重視する法文化を嫌った結果ともいえるでしょう。
目上の者を敬う儒教的な内容ではなく、個人主義的な内容であった為、穂積八束は批判論文を出したのです。
内容としては、個人主義的な内容であるボアソナード民法が施行されれば、日本伝統の目上の者を敬う
美風が失われてしまう、権利義務関係の批判、婚姻を基調とする家族法批判、と言うような内容でした。 「人は自由なものとして生まれ、生存し、かつ権利において平等である」。
この1789年8月のフランス革命による人権宣言、その冒頭第一条を同時代の日本人は皆目知らなかった。
仮にこの文章を、当時の貿易国オランダから書物として入手したとしても、その内容を理解できる日本人はいなかったはずだ。
何故ならば、江戸時代後期に入った辺りの日本人はフランス革命によって声高らかに宣言された「自由」「権利」「平等」という
単語そのものを日本語の中に持っていなかった。日本語の中にない、という事はその意味する概念そのものが日本のなかにはなかった
という事である。
ここで明記しておくべきなのは、ほとんどの法律、制度、規定はローマ法にその起源を持っており、これを研究したフランス、ドイツ
の2国、なかでも長い年月をかけて法典として完成させたナポレオン1世時代の、1804年に施行されたフランス民法典は、1900年施行の
ドイツ民法典の編纂を先取りして、当時の世界最先端をいっていたといえる事である。
このフランス民法典=ナポレオン法典こそが、世界最初の近代民法典というべきものであり、これをいきなり移植する事によって、
日本は世界最先端の民法を手に入れようとしたわけである。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています